世襲列傳二: 高季興 馬殷 劉言 錢鏐
高季興
高季興、字は貽孫、陜州硤石の人である。本名は季昌であったが、後唐の莊宗が即位した際、その廟諱を避けて改めた。幼くして汴の商人李七郎に隷属し、梁の太祖は李七郎を子とし、姓を賜って名を友讓とした。梁祖はかつて僕隸の中に季興を見かけ、その耳と顔立ちがやや異なっていたので、友讓に命じて養子とさせた。梁祖は季興を牙将とし、次第に騎射を能くするようになった。唐の天復年中、昭宗が岐下におられた時、梁祖が鳳翔を長く包囲したが、衆議は退却を望んだ。ただ季興のみがこれを諫めて止めさせた。その言葉は『梁祖紀』にある。やがてついに昭宗を迎えて京に帰し、季興を迎鑾毅勇功臣・檢校大司空・行宋州刺史とした。梁祖に従って青州を平定し、宿州の事を知るよう改められ、潁州防禦使に遷った。梁祖は命じて高氏に復姓させ、荊南兵馬留後に抜擢した。荊州は唐の乾符以後、兵火が相次ぎ、邑里は完全ではなかった。季興は離散した者を招き集め、流民は帰還した。梁祖はこれを嘉し、節鉞を授けた。梁の開平年中、朗州において雷彥恭を破り、平章事を加えられた。荊南には従来外城がなく、季興が初めてこれを築城した。そこで民に厚く徴収し、亡命の徒を招き集めた。その後、呉や蜀に対して臣下を僭称し、梁氏は次第にこれを制することができなくなった。そこで渤海王に封ぜられた。かつて襄州を攻めたが、孔勍に敗れた。
季興の子 従誨
従誨の子 保融
季興の末子 保勖
保勖は季興の末子である。特に寵愛され、季興が在世の時、或いは事に因って激怒することがあっても、左右の者はひそかに見ることもできなかったが、ただ保勖が一度顔を出すと、季興の怒りは自然に解けたので、荊の人々は彼を「万事休」と見なした。皇朝建隆四年の春に卒去した。この年、荊門の地は高氏の所有するところとならず、すなわち「万事休」の言葉は、先兆であったと言えよう。
馬殷
馬殷、字は霸図、許州鄢陵の人である。若い時は木工をしていたが、蔡賊秦宗権が乱を起こすと、初めて募に応じて軍に従った。初め孫儒に従って淮を渡り、広陵を陥落させた。孫儒が宣州で敗れた時、殷は別将劉建峰に従って江西を過ぎ、洪・鄂・潭・桂等の州を連続して陥落させ、建峰は湖南の地をことごとく有し、遂に自ら潭の帥となった。間もなく、建峰は部下に殺され、潭の人々は行軍司馬張佶を推して帥とした。時に殷は兵を統率して邵州を攻めており、佶は「我が才は馬殷に及ばない」と言い、即座に文書で殷に軍府の事を付託した。殷は邵州から軍を返し、将兵を労い、建峰を害した者数十人を誅し、自ら留後となった。久しくして、朝廷は彼を湖南節度使に任命し、遂に潭・衡七州の地を有した。唐の天復年間、楊行密が江夏を急攻し、杜洪が荊南に救援を求め、成汭が舟師を挙げてこれを援けた。時に澧朗節度使雷彦恭は汭が出師したのに乗じ、荊州を襲撃して奪い、その宝貨を積み、州城を焼き払って去った。彦恭は東で行密と連合し、江・嶺の行商の路を断ったので、殷は高季興と合勢して澧朗で彦恭を攻めた。数年で彼を擒らえ、その地をことごとく有し、また張佶を朗州節度使とした。これによって兵力は雄大となった。
初め、馬殷が微賤の時、かすかに神人が側に侍するのを見て、ひそかにその形像を記憶した。及び貴顕となって、衡山の廟に謁した際、廟中の神人の塑像が、まさに微賤の時に見た者に似ているのを目にした。ここに人の貴い者には、必ず陰物が護っていることを知る。豈に偶然であろうか。
劉言
銭鏐
銭鏐は、杭州臨安県の人である。若い頃より拳勇を好み、任侠を喜び、仇を解き怨みを報ずることを事とした。唐の乾符年中、於潜の鎮将董昌に事えて部校となった。天下喪乱に属し、黄巣が嶺表を寇し、江・淮の盗賊が群聚し、大なる者は州郡を攻め、小なる者は閭裏を掠奪した。董昌は衆を聚め、杭・越の間に恣横し、杭州八県は、毎県千人を召募して一都とし、時にこれを「杭州八都」といい、黄巣の衝要を遏えんとした。時に劉漢宏という者があり、徒を聚めて越州を占拠し、自ら節度使を称し、隣郡を攻め収めた。潤州の牙将薛朗はその節度使周宝を逐い、自ら留後を称した。唐の僖宗が蜀に在り、詔して董昌に討伐させた。昌は軍政を鏐に委ね、八都の士を率いて越州を進攻し、漢宏を誅し、戈を回して潤州を攻め、薛朗を擒えた。江・浙が平定され、董昌は浙東節度使・越州刺史となり、表して鏐を以て己に代えて杭州刺史とした。
唐の景福年中、朝廷は李鋋を浙江西道鎮海軍節度使とした。時に孫儒・楊行密が交乱し、淮海の煙塵数千里に及び、鏐は常に師を率いて防捍とし、孫儒は宣州を占拠したが、江・浙を侵すことができず、ここに鏐の勲名は日に著しくなった。久しくして、李鋋は終に治所に至らず、朝廷は鏐を鎮海軍節度使とし、なお潤州の軍額を杭州に移して治所とし、また越州に威勝軍を立て、董昌を節度使とした。昌は次第に驕貴となり、自ら身に符讖に応ずると言い、また妖人王百藝に誑かされて、僭って尊号を称し、越州において自ら羅平国王を称し、年号を大聖とし、偽って鏐を両浙都将に命じた。鏐は命を受けず、状を以て聞かせ、唐の昭宗は鏐に昌を討たせた。乾寧四年、鏐は浙西の将士を率いて越州を破り、昌を擒えて献じた。朝廷はその功を嘉し、鏐に鉄券を賜い、また宰臣の王溥を威勝軍節度使とした。しかるに両浙の士庶が章を拝して、鏐に杭・越二鎮を兼ねることを請うたので、朝廷は制することができず、よってこれを授け、威勝軍を鎮東と改め、鏐は鎮海・鎮東両藩の節制を兼ねた。鏐が両鎮を兼ねると、精兵三万を有し、楊行密は連年兵を興し、蘇・湖・潤等州を攻めて、両浙を兼併せんとしたが、累ねて鏐に敗れ、また行密に数州を侵盗されたが、鏐の所部はただ十三州のみであった。天復年中、鏐の大将の許再思・徐綰が叛き、宣州節度使の田頵を引き入れて杭州を襲わんと謀った。田頵らは師を率いて掩い至り城下に及んだが、鏐は軍士を激勵し、一戦にしてこれを破り、徐綰を生擒し、田頵は遁走した。
錢鏐は臨安の故郷に邸宅を造営し、その壮麗は極まりなく、歳時には里中を遊覧し、車馬の勢いは雄大で、万夫が羅列した。その父の錢寬は、鏐が来ると聞くたびに走り隠れて避けたが、鏐は直ちに徒歩で寬を訪ね、その理由を尋ねた。寬は言う、「我が家は代々田漁を業としてきたが、かくまで貴顕に達したことはない。汝は今や十三州の主となり、三面より敵を受け、人と利を争う。禍が我が家に及ぶことを恐れ、それゆえ汝を見るに忍びないのだ」と。鏐は泣いて謝した。
錢鏐は唐の昭宗の朝において、位は太師・中書令・本郡王に至り、食邑二万戸を賜った。梁の太祖が革命を起こすと、鏐を尚父・呉越国王とした。梁の末帝の時、諸道兵馬元帥を加えられた。同光年間、天下兵馬都元帥・尚父・守尚書令となり、呉越国王に封ぜられ、玉冊・金印を賜った。初め、荘宗が洛陽に至ると、鏐は厚く貢奉を献じて国王たることを求めた。玉冊の詔が下ると、有司が詳議し、群臣は皆言う、「玉簡金字は、至尊ただ一人のものである。錢鏐は人臣であるから、不可である。また本朝以来、四夷の遠藩を除き、羈縻として冊拝し、あるいは国王の号を授けることはあっても、九州の内ではこのようなことはない」と。郭崇韜は特にその僭越を容れなかったが、枢密承旨の段徊は奸佞で権勢を握り、崇韜の意を動かして、曲げて鏐のために陳情したので、崇韜はやむなくこれに従った。鏐は鎮海・鎮東軍節度使の名目をその子の元瓘に授け、自ら呉越国王を称し、居所を宮殿と称し、府署を朝廷と称し、その参佐を臣と称し、大朝の百官の号を僭称したが、ただ年号を改めなかっただけである。偽りの制冊を行い、新羅・渤海に封爵を加え、海中の夷落にも皆、使者を遣わして封冊を行わせた。
明宗が即位した初め、安重誨が権勢を握ると、鏐はかつて重誨に書状を送り、「呉越国王、某官執事に致書す」と書き、時候の挨拶を述べなかったので、重誨はその無礼を怒った。供奉官の烏昭遇が両浙に使した際、常に朝廷の事を呉人に漏らし、なお鏐を殿下と称し、自ら臣と称し、鏐に謁して舞蹈の礼を行った。帰還すると、副使の韓玫がその事を詳しく述べたので、重誨は鏐の元帥・尚父・国王の号を削り、太師として致仕させた。久しくして、その子の元瓘らが上表して経緯を陳述した。時に淮寇が荊南を攻め逼ったので、明宗は彼らが同悪であると疑い、詔を降して詰問した。元瓘らは再び使者を淮南の間道より遣わして上表し、云う。
窃かに臣が父、天下兵馬都元帥・呉越国王臣鏐は、乾符の歳より功労を立て、天復の初めに至って既に茅土を封ぜられた。稽山の僭偽を二度殄滅し、鳳詔の褒崇を頻りに蒙り、鉄券を賜って嶽を砺ぎ河を帯とし、清廟に蔵して鐘に銘し鼎を鏤く。列聖に歴事し、累朝に誠を竭くし、臣節を罄して虧くことなく、君恩を荷いて益々重し。楚の茅呉の柚、常に群後の先に居り、赤豹黄羆、諸方の後に在らず。雲臺に像を写し、盟府に勲を書し、本朝に戮力し、一心に国を体す。常に臣ら兄弟に戒めて曰く、「汝ら諸子、斯の言を記すべし。老父は諸都より起り、早く多難を平らげ、素より忠勇を推され、実に辛勤を効し、遂に聖主の疇庸に蒙り、真主の列壤に忝くす。恒に満盈の懼れを積み、予め燕翼の憂いを懐く。恩礼殊尤、寵栄亢極、名品既に五等を逾え、春秋将に八旬に及ばんとす。不諱の談、爾当に静かに聴くべし。況んや手ずから妖乱を殲し、親しく興亡を睹る。豈に自ら厲階と為り、更に覆轍を尋ぬべけんや。老身なお健やかにして、且く国王の呼びを為し、嗣子家を承けて、但だ藩臣の分を守れ」と。臣ら鯉庭に袂を灑ぎ、雁序に紳に書し、中心に之を蔵し、敬って命を聞けり。
頃に済陰が邸に帰し、梁苑尊を称するに及び、所在の英雄、互いに仿斅し、投亀の詬を起こし、皆逐鹿の謀を興す。惟だ臣が父王のみは、未だ嘗て例に随わず。微より著に至るまで、悉く天子の絲綸に蒙り、土を啓き王を封じて、自ら諸侯の土宇を守る。乙酉歳、伏して荘宗皇帝の遥かに玉冊・金印を降し、恩を曲阜・営丘に加え、大朝より顕れ、来たりて小国を封ずるに蒙り、遂に強名の改補有りと雖も、実に幹紀の包蔵無し。兼ねて使人の徐筠らが進貢の時、礼儀に失有りしも、尚お赦宥に蒙り、未だ典刑を置かず。敢えて杖を投げ躬を責め、荊を負いて罪を請わざらんや。且つ臣たるの礼を爽かにし、誠に上に事うるの儀に乖けり。夙夜に羞を包み、寢食俱に廃し、詔を捧げて神魂戦慄し、章を拝して芒刺交並す。
伏して皇帝陛下は、浚哲文思、含宏光大、智は万物に周し、日は四方を辟く。既に能く改むるの非を容れ、自新の恕を降すを許し、功を将って過を補い、短を捨てて長に従わんとす。況んや茲の近代相持するや、豈に深機遠料に足らんや。且つ臣が本道は、淮南と雖も疆畛を連ね、久しく仇讎を結び、悪を交わし盟を尋ね、十翻九覆す。敵を縦すること已に三紀を逾え、兵を弭すること纔かに数年のみ。諒に唇歯の邦に非ず、真に腹心の疾と謂うべし。今詔書を奉じて責問せられ、本末の端由を陳ぶるに合う。布くこと衆多に在り、寧ろ覼縷を煩わさん。彼既に人にして礼無く、此も和して同じからず。近く荊門を侵軼し、事大に乖張するを知る。儻や王師の罪を問わば、願わくは衆を率いて斉しく攻め、必ず先登を致し、庶幾くは後効を観ん。秋に横わる雕鶚、只だ指呼を待つのみ。匣に躍る蛟龍、誓って讎隙を平げん。今則ち楼櫓を訓斉し、戈鋋を淬礪し、決して天威に副い、冀くは臣節を明らかにせん。伏して臣が父王鏐は、已に海を泛ぎ、継いて飛章有り。父子の丹誠を陳べ、皎日を高く懸け、君臣の大義を展べ、円穹を上に指す。将に貢賦を梯航に修め、車書を混えて表率せんとす。如し職を奉ずるを虧かば、自ら陰誅有らん。今春已に表章を具し、未だ便ち賜うに俞允を蒙らず。地遠くして経年方に達し、天高くして瀝懇通じ難し。伏して聖慈を乞い、曲りて明命を行わんことを。霜を凌いで益々翠く、始めて松柏の心を知り、異日功を成し、方に忠貞の節を顕わさん。臣元瓘ら、感激祈恩戦懼依投の至りに任せず。謹んで急脚を遣わし、間道より絹表を奉り陳乞奏謝を以て聞す。明宗は之を嘉し、乃ち制を降して鏐に天下兵馬都元帥・尚父・呉越国王を復授した。未幾、又詔して上表に名を称せざることを賜う。
錢鏐は杭州に在ること凡そ四十年、窮奢極貴であった。錢塘江は旧来、海潮が州城に逼ったが、鏐は大いに工徒を集め、石を鑿ち江を埋め、又江中の羅刹石を平らげ、悉く台榭を築き、郡郭を広げて周囲三十里とし、邑屋の繁会、江山の雕麗は、実に江南の勝概であった。鏐は書を学び、吟詠を好んだ。江東に羅隱という者あり、詩名が海内に聞こえ、鏐に依って参佐となった。鏐は嘗て隱と唱和し、隱は譏諷を好み、戯れて詩を作り、鏐が微時に牛に騎り挺を操った事を言ったが、鏐も怡然として怒らず、その通恕この如きものであった。鏐は末年荒恣であったとはいえ、唐朝より、梁室、荘宗の中興以来、常に帆を揚げ海を越え、貢奉欠くことなく、故に中朝も亦これを以て善しとした。
元瓘子 佐
佐は字を元祐とす。元瓘薨じ、遂に其の位を襲ふ。晉天福末、制授して檢校太師・兼中書令・呉越王と為し、仍て玉を篆して冊と為し以て之を賜ふ。前代の玉冊、夷王を冊するに之あり。偽梁の時鏐に厚からんと欲し、首めて式例と為す。故に因りて改めず。俄に開府儀同三司・守太尉を授く。時に建安淮寇の攻むる所と為るを以て、東南面兵馬都元帥を授く。佐尋ち舟師を遣はして進討せしむ。淮人大敗す。功を以て守太師を加ふ。漢高祖汴に入る。佐首めて琛飐を献じ、表率東道す。漢祖之を嘉し、諸道兵馬都元帥を授く。佐列土に居ること凡そ七年、境内豐阜す。祖父三世皆元帥と為り、時に以て榮と為す。漢初、疾を以て位に卒す。謚して忠獻と曰う。佐幼より書を好み、性溫恭、能く五七言詩を為す。凡そ官屬雪月の佳景に遇へば、必ず同宴賞す。此に由りて士人帰心す。其の班品亦丞相已下の名籍有り。然れども祿給甚だ薄く、罕に能く自ら濟ふ。毎に朝廷吏を降すときは、則ち其の偽官を去り、或は會するときは公府仆馬を以て助く。事を處するに齷齪、多く此の類の如し。然れども航海の入る所、歳貢百万、王人の一至るに、遺す所至って廣し。故に朝廷之を寵し、群藩の冠と為す。佐子昱有り、年五歳、未だ庶務に任ぜず。乃ち其の弟倧を以て位を襲はしむ。
佐弟 倧
倧は性明敏嚴毅。未だ立たざる時、常に佐の性寬善なるを以て、兵権を掌る者の制し難きを疑ふ。及び佐に代はりて帥と為り、禮法を以て下を繩す。宿将旧勛、甚だ優禮せず。大将胡進思頗る之に不平を懐き、乃ち密かに親軍と謀りて倧を去らんとす。漢祖汴に入るの歳、十二月、進思甲士三百を率ひて大噪し、突きて衙署に入る。倧戸を闔して以て之を拒ぐ。左右之と格鬥す、盡く進思の殺す所と為る。遂に倧を別館に遷し、甲士を以て送り、衣錦軍に幽す。倧の異母弟俶を立てて帥と為す。其の年夏四月、進思疽背に発して卒す。越人之を快しとし、以て陰靈の逆を誅するなりと為す。
倧異母弟 俶
史臣曰く
史臣曰く、唐末の乱離より、海内分割し、荊・湖・江・浙、各々一方を拠り、子を翼け孫を貽すこと、多年を歴たり。かくの如きは何ぞや。蓋し諸夏多艱に値い、王風競わざるが故なり。皇宋の運を撫するに及び、朗・陵の乱を肇めるに因り、王師を命じて遄征せしむるに、一矢亡びず、二方倶に服す。遂に瑤琨筿簜をして、咸く貢をなすの文に遵わしめ、江・漢・雎・章、尽く朝宗の浪を鼓せしむ。かくの如きは何ぞや。蓋し大統帰する有り、人寰允に洽うが故なり。惟だ錢氏の杭・越を守る、八十年を逾え、蓋し大に事え王に勤むるの節、荊楚・湖湘と侔わざるなり。