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舊五代史
世襲列傳一: 李茂貞 高萬興 韓遜 李仁福
李茂貞
李茂貞は、本来の姓は宋、名は文通、深州博野の人である。祖父は鐸、父は端。唐の乾符年間、鎮州に博野軍があり、京師を宿衛し、奉天に屯していた。文通は当時、本軍に隷属して市巡となり、累進して隊長に至った。黄巢が闕を犯すと、博野軍は鳳翔に留まった。時に鄭畋が岐下で兵を整え、畋は文通に命じて本軍をもって尚譲の軍勢を龍尾坡で破らせ、その功により神策軍指揮使となった。朱玫の乱に際し、唐の僖宗は再び興元に幸し、文通は山南に蹕を扈し、論功第一となり、檢校太保・同平章事・洋蓬壁等州節度使に遷り、姓を賜り、名を茂貞とし、僖宗自ら字を正臣と制した。光啓二年、王行瑜が京師で朱玫を殺し、李昌符が岐下に兵を擁した。詔により茂貞は陳佩らと共にこれを討った。三年、昌符を誅し、車駕は京に還り、茂貞を鳳翔節度使とし、檢校太尉・兼侍中・隴西郡王を加えた。
翌年五月、制により茂貞に東川節度使を授けた。なお通王・覃王に命じて禁軍を闕下で治めさせ、もし茂貞が詔に違えば、即ちこれを討たしめた。茂貞は懼れ、鎮に赴かんとした。王師が興平に至り、夜中に自ら驚潰した。茂貞はこれに乗じて出撃し、官軍は大敗した。車駕は倉卒に華州に幸し、茂貞の軍勢はこれにより京師を犯し、宮闕を焼き払い、坊市を大掠して去った。これより長安の大内はことごとく丘墟となった。四年、昭宗は再び宰臣孫偓に命じて軍を統率させ進討させたが、韓建が諫めて止めさせ、茂貞に上章して雪ぐことを請わせた。光化年中、茂貞に尚書令・岐王を加え、その子継筠に兵を率いさせて宿衛させた。
従巌は、茂貞の長子である。冠に未だ及ばず、諮議参軍を授かり、緋魚袋を賜り、まもなく彭州副使・鳳翔衙内都指揮使を領した。天復年中、秦王府行軍司馬・檢校太傅より出て涇州両使留後となった。茂貞はまもなく制を承けて開府儀同三司・檢校太尉・兼侍中、四鎮北庭行軍・彰義軍節度使を加えた。唐の荘宗が梁を平らげると、茂貞は従巌に入覲させ、制により従巌に兼中書令を加えた。やがて茂貞が薨じ、奏上して鳳翔軍府事を権知させ、詔により起復し、鳳翔節度・管内観察処置等使を授かった。三年九月、魏王継岌が蜀を伐つに当たり、詔により供軍転運応接使を充てた。四年正月、蜀が平定され、継岌は王衍一行を部署して東下させ、岐に至った時、監軍使柴重厚が符印を与えず、赴闕を促した。従巌が華下に至り、内難を聞いて帰鎮した。明宗は詔して重厚を誅せんとしたが、従巌は軍民が擾れなかったのは重厚の力であるとして、以前の事を隙とせず、上表して救いを論じた。事は允されなかったが、時の議論はこれを嘉した。天成元年五月、制により起復を落とし、檢校太師を加えた。その年九月、敕して曰く、「李従巌らは世に宗属を聯ね、藩宣の任重く、慶善に称有り、忠勤甚だ著し。既に維城の列に預かる以上、宜しく定体の文を新たにすべし。是れ寵光を降し、以て惇叙を隆くし、成家の美を煥かにせしめ、猶子の規に貴きに従わしむ。宜しく『巌』・『昶』・『照』の上を改めて『従』と称すべし。」長興元年より、明宗が南郊に事有り、従巌は入覲し、礼畢して汴州に移鎮した。四年、再び入覲し、天平軍節度使に改めた。唐の末帝が岐下で兵を起こすと、従巌の家財器仗をことごとく取り、以て軍需を助けた。末帝が岐城を発離する時、吏民が馬を扣き、従巌を帥とすることを乞うた。末帝はこれを許した。清泰初め、即ち従巌を以て再び鳳翔節度使とし、なお秦國公に封じた。晉の高祖が帝位に登ると、秦王・岐王を継封し、累ねて食邑一万五千戸に至り、食実封一千五百戸を賜った。少帝が位を嗣ぐと、守太保を加えた。開運三年冬、鎮において卒した。年四十九。
従巌は若くして敏悟で、筆札に優れ、性質柔和であったが、節操が無かった。荘宗が新たに天下を有するに当たり、入覲して、皇后宮に宝装の針珥を献じ、時に佞と為された。しかし進退閑雅で、士大夫の為すところを慕い、請謁する者があれば、賢不肖を問わず皆その敬を尽くした。岐山に鎮すること前後二紀、花繁く月朗らかなる毎に、必ず勝会を陳べてこれを賞し、客に酒に困する者あれば、茵に吐き幘を堕とすとも厭色無し。左右に過ち有る者あっても、未だ嘗て笞責しなかった。先人の汧・隴の間に、田千頃・竹千畝有ったが、民利を奪うことを恐れ、これを治めさせず、岐陽の父老に再び寇を借るの言を陳ぜしめたのは、良く以て然る所以有り。
子の永吉は、数鎮の行軍司馬を歴任した。
従昶は、茂貞の第二子である。十余歳で本道中軍使に署せられた。後唐の同光年中、茂貞が疾え、従昶は年十五、兄従巌に代わって涇州両使留後として遣わされ、朝廷はまもなく節制を加えた。天成年中、明宗が即位し、三峰に移鎮し、累官して檢校太保に至った。郊天の大礼に会し、表を奉って入覲を請い、恩により檢校太傅を加えられた。やがて代わって帰闕し、左驍衛上将軍を授かり、右龍武統軍に改めた。間もなく、許田に出鎮し、鎮すること三年。清泰年中、再び入って右龍武統軍と為り、さらに左龍武統軍に遷った。晉の天福三年冬、官において卒した。時に年四十。太尉を贈られた。
従昶は紈綺の中に生まれ、少より華侈に習い、逸遊宴楽を務めとし、音律図画に通ぜざるは無かった。しかし性質談笑を好み、賓客を接することを喜び、文翰を以て賞と為し、曾て虚日無し。また篤く釈氏を信じ、時に岐下に阿闍梨と曰う僧有り、五天竺語に通じ、士人の帰する所と為った。従昶は凡そ三鎮を歴任し、褒むべき尤政無く、貶すべき苛法無く、人これに安んじ、また将門の令嗣たり。
弟の従照は、隴州刺史・諸衛大将軍を歴任し、卒した。
茂勛は、茂貞の従弟である。唐末に鳳翔都將となり、茂貞が表して鄜州節度使とし、累官して兼侍中に至った。梁祖が鳳翔を包囲したとき、茂勛は兵を岐山に駐屯させたが、梁祖は弱兵をもってこれを誘い、孔潛に勁兵を率いさせて鄜州を襲撃させて陥落させ、その家族をことごとく捕虜としたので、茂勛はついに梁に帰順し、名を周彜と改め、元帥府行軍司馬に任じられた。開平年間、河陽節度使となり、梁祖に従って鎮州を討伐し、棗強県を包囲した。時に一人の民が城から縋り下りて出てきたので、茂勛はこれを容れて疑わなかったが、ある日、その民がひそかに発して木の檐で茂勛を撃ち、地に倒したが、左右の者が救いに来たのでかろうじて免れた。しばらくして、金吾上將軍に遷り、王瓚に副えて兵を景店に将し、瓚は西寨に分屯させたが、莊宗が撃ってこれを破り、左衛上將軍に降格された。一年余りして、太子太傅をもって致仕した。同光年間、再び名を茂勛に復した。天成初年、病により洛陽で卒した。
高萬興
高萬興は、河西の人である。祖父の君佐は、鄜延節度判官であった。父の懷遷は、都押衙であった。萬興は弟の萬金とともに武幹があり、本軍に効用した。河西は王行瑜が敗れた後、郡邑はことごとく李茂貞によって強く占拠され、その将の胡敬璋を節度使とし、萬興は敬璋の騎将となり、兄弟ともに戦功があった。邠州節度使の楊崇本は、茂貞の仮子であり、李繼徽と号した。梁祖が昭宗を弑した後、茂貞・繼徽と西川の王建の軍が岐陽で会し、興復を図り、みな関輔に兵を陳べたので、梁祖は将の王重師を遣わして雍州を守らせ、劉知俊を遣わして同州を守らせてこれを拒いだ。天祐五年の冬、敬璋が卒すると、崇本はその愛将の劉萬子を鄜延の帥としたが、萬子は兇暴で士心を失った。また、崇本は汴人に攻められた。六年二月、萬子が敬璋を葬ろうとしたとき、将佐はみな葬所に集まったので、萬興・萬金は会に乗じて兵を放って萬子を攻め、これを殺し、汴に帰順した。梁祖は萬興を鄜延招撫使とし、劉知俊と合兵して鄜・坊・丹・延などの州を攻め取ったので、梁祖は四州を二鎮に分け、萬興・萬金をともに帥とした。萬金が卒すると、梁祖は萬興に彰武・保大の両鎮を兼ねさせ、累加して太師・中書令に至り、北平王に封じられた。莊宗が河洛を平定すると、萬興は来朝し、郊礼に陪位したが、鎮に還ると、旧爵を授けられた。同光三年十二月、位において卒し、その子の允韜に留後を権典させた。
允韜は、字を審機という。初め梁朝に仕え、起家して同州別駕を授かり、まもなく検校右僕射を加えられ、金紫光祿大夫・検校司空に改め、保大軍内外馬歩軍指揮使を充てた。唐の同光年間、検校太保となり、保大軍両使留後を充てた。萬興が卒すると、允韜は治所から喪に奔った。天成初年、起復して検校太傅となり、延州節度使を充てた。長興元年、邢州に移鎮し、ほどなく右龍武統軍となり、まもなく滑州節度使を授かった。清泰二年八月、任において卒し、年四十二であった。詔して太師を贈られた。
韓遜
韓遜は、もと霊州の列校であった。唐末の乱に際し、よってその地を占拠したので、朝廷は節鉞を授けた。梁の初め、累加して検校太尉・同平章事となった。開平年間、梁の将の劉知俊が同州から叛いて鳳翔に帰すると、李茂貞は地が狭く容れられないので、兵を借りて霊武を窺い、かつ牧圉の地を図った。知俊はそこで邠・岐・秦・涇の師数万を帥いて霊州の遜を攻めたが、遜は力を尽くしてこれを拒ぎ、しばらくして知俊は遁走した。梁祖はこれを嘉し、ここより累加して官は中書令に至り、潁川郡王に封じられた。遜もまたよく治績をあげたので、部民はその地に生祠堂を立てることを請うた。梁祖はこれを許し、なお詔して礼部侍郎の薛廷珪に文を撰させてこれを賜った。その廟は今に至るまでそこにある。貞明初年、遜は鎮において卒した。
洙は、遜の子である。遜が卒すると、三軍が推して留後とした。梁の末帝はこれを聞き、起復して正しく霊武節度使・特進・検校太傅・同平章事を授けた。貞明四年春、霊武の將軍の尚貽敏らが上言し、洙はすでに服闋したので、起復を落とすことを乞うた。梁末帝は中書に商量させた。宰臣が奏して言うには、「旧例として藩鎮が起復を落とすには、もし先人がすでに一品の階であれば、すなわち爵を加え、もしまだ一品の階でなければ、すなわち階を加えるべきである」と。そこで洙に開府儀同三司を授けた。唐の莊宗・明宗は累次官爵を加えた。天成四年夏、洙が卒すると、朝廷はその弟の澄を朔方軍節度観察留後とした。この年、列校の李賓が乱を起こし、部内が不安となったので、使者を遣わして上表し、朝廷に帥を請うた。明宗は前磁州刺史の康福を朔方河西等軍節度・霊威雄警涼等州観察処置度支・温池榷税等使とし、なお福に兵一万を領させて鎮に赴かせた。その後、霊武はついに交代を受けた。
李仁福
李仁福は、代々夏州の牙将であり、もと拓拔氏の族である。唐の乾符年間、拓拔思恭という者が夏州節度使となり、広明の乱に際し、唐の僖宗が蜀にあったとき、詔して思恭を京城西北収復都統とし、黄巢を破るのに功があり、僖宗が姓を賜ったので、仁福もまた李を氏とした。思恭が卒すると、弟の思諫がこれを継いだ。梁の開平元年、思諫に検校太尉・兼侍中を授けた。二年、思諫が卒すると、三軍がその子の彜昌を立てて留後とし、まもなく起復して、正しく旄鉞を授かった。三年春、牙将の高宗益らが乱を起こし、彜昌は害に遇った。時に仁福は蕃部指揮使であり、本州の軍吏が迎え立てて仁福を帥とした。その年四月、梁祖が制を降して仁福に検校司空を授け、定難軍節度使を充てた。まもなく、後唐の武皇が大将の周德威を遣わし、邠・鳳の師五万を合わせて夏州を攻めたが、仁福は固く守ること一月余り、梁の援軍が至ると、德威は遁走した。梁祖はこれを喜び、超授して検校太保・同平章事とした。仁福は梁の貞明・龍德および後唐の同光年間を通じて、累官して検校太師・兼中書令に至り、朔方王に封じられた。長興四年三月、鎮において卒した。その年、虢王を追封された。子の彜超が嗣いだ。
彜超は、仁福の次子である。本州の左都押衙・防遏使を歴任した。仁福が卒すると、三軍が立てて帥とし、仁福の奏として偽って言うには、「臣の病はすでに甚だしく、すでに彜超に軍州事を権知させました。真の命を降されることを乞います」と。明宗はこれを聞き、そこで彜超を延州留後とし、延帥の安従進を夏州留後とした。朝廷は命に従わないことを慮り、詔して邠州節度使の薬彥稠・宮苑使の安従益らに師を率いさせて従進を援送して鎮に赴かせ、なお詔を降してこれを諭して言うには、
近く西北の藩鎮の奏上に拠れば、定難軍節度使李仁福が薨去した。朕は仁福が自ら軍門を分かち、遠く塞垣を鎮撫し、威厳と恵みを共に行き渡らせ、忠義と孝行を兼ねて顕著であったことを思う。本朝が流浪した後、及び先皇が中興を始めた当初より、朕の身に至るまで、益々大節を全うし、統治に方策あり、遠近共に安んじた。委任の信頼が深まる中、何と早く逝去したことか、突然その奏上を目にし、深く朕の心を悲しませる。不朽の功績は既に社稷に存し、後継の慶事は宜しく子孫に及ぶべきである。但し、彼の藩鎮は地の果ての辺境にあり、常に経略を要し、その子は年齢ようやく弱冠、未だ艱難を経ておらず、或いは統御の方策を欠き、必ずや奸邪の便りが起こるであろう。李彜超には既に延州節度観察留後を除授し、直ちに赴任を命じた。但し夏・銀・綏・宥等の州は、最も辺遠の地にあり、久しく乱離に属し、多くは夷狄の風習に染まり、朝廷の命令を識ることは少ない。既に移易に当たる折、広く厚恩を示すべきである。応に夏・銀・綏・宥等州管内において、罪の軽重を問わず、常赦が原宥しないもの、並びに公私の債務・残欠の税物は、一切これを放免する。兼ねて刺史・指揮使・押衙以下は、皆そのままの任に留め、各々改めて官資を転じ与える。
朕は万機を総べしめてより、ただ一徳を広め、内は華夏を安んじ、外は戎夷を撫でる。先ずは恩をもって懐かしめ、後には必ず信をもって示す。且つ李従厳が岐・隴を守り、疆土は極めて広く、高允韜が鄜・延を鎮め、甲兵もまた衆多であったが、皆よく時勢を識り変革を知り、挙族して朝廷に帰した。従厳は則ち大梁に鎮するを見、允韜は則ち直ちに鉅鹿を除され、次いでその兄弟に及び、皆節旄を建て、下って将僚に至るまで、悉く符竹を分かつ。又た王都が上谷を貪り、李賓が朔方を吝しんだ如きは、或いは契丹と結託して、旦夕を延ばし、或いは党項に依憑して、山河を窃拠した。除移に従わず、ただ旅拒を謀り、討伐を興すや、既に覆亡を見た。何ぞ必ずしも古今を広く引き、方や利害を明らかにせん。只だ近事を陳べ、聊か将来を諭す。彼らもし族を覆す殃いを望むならば、則ち王都・李賓は以て鑑戒とするに足り、彼らもし身を全うする福を望むならば、則ち允韜・従厳は以て規縄と為すべし。朕は両途を設く、爾ら宜しく自ら択ぶべし。或いは将校の内、親要の間に、彼の幼沖を幸いとし、その熒惑を恣にするを慮り、遂に騒動を成し、生霊を累わすに至らん。今特に邠州節度使薬彦稠に差し、馬歩兵士五万人騎を部領させ、安従進を送りて赴任せしむ。命に従う者は秋毫も犯さず、命に違う者は全族必ず誅す。先ず令し後に行い、犯す者有れば赦さず、と。
その年の夏四月、彜超は上言して言う、「詔を奉じて延州留後を授けられ、既に恩命を迎え受けましたが、三軍の百姓が隔てを擁し、未だ赴任を許されません」と。明宗は閣門使蘇継彦を遣わし、詔を齎らせてこれを促した。五月、安従進が軍を率いて城下に至るも、彜超は代わらず、従進は軍を駐めてこれを攻めた。秋七月、彜超兄弟は城に登り、従進に謂って言う、「孤弱の小鎮、王師の攻め取るを労せず、虚しく国家の餉運を煩わし、得るも武ならず、僕の為に天子に聞こえ、改図を容れることを乞う」と。時にまた四面の党項部族万余騎が、その糧運に迫り、野には芻牧無く、関輔の人は、斗粟を運び束槁を運ぶに、動いて数千を数え、窮民は血を泣き、訴える所無く、復た蕃部に殺掠され、死者甚だ衆く、明宗これを聞き、乃ち班師を命じた。彜超もまた上表して罪を謝し、乃ち彜超を検校司徒に授け、定難軍節度使を充てた。既にして貢を修めること初めの如し。清泰二年、鎮において卒す。弟彜興その位を襲う。
彜興、本名は彜殷、宋が天命を受けた初め、廟諱に犯す故にこれを改む。彜超既に卒し、時に彜興は夏州行軍司馬たり、三軍これを推して留後と為す。唐末帝これを聞き、正しく定難軍節度使を授く。晋天福初め、検校太尉・同平章事を加う。少帝位を嗣ぎ、検校太師を加う。八年秋、彜興の弟綏州刺史彜敏がその党と乱を為し、彜興に逐われ、彜敏は延州に奔る。彜興はこれを押送して闕に到らしめ、骨肉二百余口、朝廷は彜興の故を以て、本道に縶送してこれを斬る。開運元年春、詔して彜興を以て契丹西南面招討使と為す。漢乾祐元年春、兼侍中を加う。この歳、李守貞が河中に叛き、密かに人を遣わしてこれを構う。彜興その為に出師し、延州の北境に駐る。既にして守貞の囲まれるを聞き、乃ち軍を収めて退く。周顕徳中、累ねて守太傅・兼中書令に加わり、西平王に封ぜらる。皇朝建隆元年春、制して守太尉を加え、始めて名を彜興と改む。乾徳五年秋、鎮において卒す。制して太師を贈り、夏王を追封す。子光睿その位を継ぐ。その後の事は皇朝の日暦に具わる。