舊五代史

周書十九: 列傳八 王朴 楊凝式 薛仁謙 蕭愿 盧損 王仁裕 裴羽 段希堯 司徒しと詡 邊蔚 王敏

王朴

王朴は、字は文伯、東平の人である。父の序は、朴の貴顕により、左諫議大夫を追贈された。朴は幼少より聡明で、学問を好み、文章をよくした。漢の乾祐年間、進士に及第し、初めて官に就き校書郎を授かり、枢密使楊邠に寄寓し、邠の邸に住んだ。この時、漢室は次第に乱れ、大臣たちは互いに憎み合い、朴は必ず危うくなると考え、よって告げて東に帰ることを請うた。間もなく、李業らが乱を起こし、邠ら三族を害し、凡そその門下に遊んだ者は多くその禍いに遭ったが、朴のみは免れた。周の国初、世宗が澶淵を鎮守した時、朝廷は朴を記室とした。世宗が開封尹となると、右拾遺に任じ、開封府推官を充てた。世宗が帝位を継ぐと、比部郎中を授け、紫衣を賜った。顕徳二年の夏、世宗は朝廷の文学の士二十余人に命じ、各々策論一首を撰ばせ、その才能を試みた。時に朴は『平辺策』を献じ、云う。

唐は道を失いて呉・しょくを失い、晋は道を失いて幽・へいを失う。その失う所以の由を観れば、平らぐ所以の術を知るべし。失うの時には、君暗く政乱れ、兵驕り民困し、近き者は内に奸し、遠き者は外に叛き、小を制せざれば大に至り、大を制せざれば僭に至る。天下心を離し、人命を用いず、呉・蜀はその乱に乗じてその号を窃み、幽・并はその間隙に乗じてその地を据う。平らぐの術は、唐・晋の失いに反するに在るのみ。必ず先ず賢を進め不肖を退けてその時を清くし、能を用い不能を去ってその材を審かにし、恩信号令をもってその心を結び、功を賞し罪を罰してその力を尽くし、恭儉節用をもってその財を豊かにし、徭役を時にしてその民を阜くす。その倉廩実り、器用備わり、人用いるべきを俟ってこれを挙ぐ。彼の方の民、我が政化大に行われ、上下心を同じくし、力強く財足り、人和し将和し、必ず取るべきの勢いあるを知れば、すなわち彼の情状を知る者は願いてその間諜となり、彼の山川を知る者は願いてその先導とならん。彼の民と此の民の心同じければ、是れ天意と同じく、天意と同じければ則ち成らざるの功無し。

攻め取る道は、易きに従う者より始まる。当今の呉国は、東は海に至り、南は江に至り、かき乱すべき地二千里あり。備え少き処より先ずこれを撓乱し、東を備うれば則ち西を撓り、西を備うれば則ち東を撓るべし、必ず奔走してその弊を救わんとす。奔走の間に、以て彼の虚実・衆の強弱を知るべし。虚を攻め弱を撃てば、則ち向かう所前なる無し。大挙する勿れ、但だ軽兵を以てこれを撓乱せよ。彼の人怯懦にして、我が師の其の地に入るを知れば、必ず大発して応ずべし。数たび大発すれば則ち必ず民困り国竭き、一たび大発せざれば則ち我れ其の利を得ん。彼竭き我れ利を得ば、則ち江北の諸州は、乃ち国家の所有する所とならん。既に江北を得れば、則ち彼の民を用い、我が兵を揚げ、江の南も亦難からずしてこれを平らげん。かくの如くすれば、則ち力を用いること少なくして功を収むること多し。呉を得れば、則ち桂・広皆内臣と為り、岷・蜀は飛書を以てしてこれを召すべし。如し至らざれば、則ち四面並び進み、席巻して蜀を平らげん。呉・蜀平らげば、幽は風を望んで至るべし。惟だ并は必死の寇にして、恩信を以て誘うべからず、必ず強兵を以てこれを攻むべし。但だ亦た以て辺患と為すに足らず、後図と為すべし。其の便を俟ちて則ち一たび削りてこれを平らげん。

今や兵力は精練し、器用は具備し、群下は法を知り、諸将は命を用う。一稔の後、以て辺を平らぐべく、この歳夏秋、便ち沿辺に於いて貯納すべし。臣は書生なり、以て大事を講ずるに足らず、大達せず大体に達せず、機変に合わざるに至りては、陛下のこれを寛うするを望む。

世宗はこれを見て、ますますその器量と見識を重んじた。間もなく、左諫議大夫に遷り、開封府事を知った。

初め、世宗は英武を以て自ら任じ、天下の事を言うを喜び、常に広明の後、中土日々に蹙まるを憤り、累朝多事に値い、未だ克く復たず、慨然として天下を包挙するの志有り。而して居常事を計る者多く其の旨を諭せず、唯だ朴は神気勁峻にして、性剛決にして断有り、凡そ謀画する所、動も世宗の意に愜い、是れにより登用を急ぐ。尋いで左散騎常侍さんきじょうじを拝し、端明殿学士を充て、知府は旧に如し。是の時、初めて京城を広む。朴は命を受け経度し、凡そ通衢委巷、広袤の間、其の心匠に由らざるは莫し。世宗の南征に及び、朴を以て東京副留守と為し、車駕京に還り、戸部侍郎兼枢密副使に改む。未だ幾ばくもあらず、枢密使・検校太保に遷る。頃之、内艱に丁り、尋いで起復し本官を授く。四年冬、世宗再び淮甸に幸し、兼ねて東京留守と為し、京邑の庶務、悉く便宜を以て之を制し、入蹕に比及するに、都下粛如たり。六年三月、世宗、汴口に斗門を樹つるを令す。時を踰えずして朝に帰る。是の日、朴方に前司空しくう李穀の第を過ぎ、交談の頃、疾作して座に仆れ、遽に肩舁を以て第に帰り、一夕にして卒す。時に年四十有五。世宗之を聞きて駭愕し、即時に其の第に幸し、柩前に及び、執る所の玉鉞を以て地を卓ちて慟すること数四。贈賻の類、率ね加等有り、優詔を以て侍中を贈る。

朴は性質が鋭敏であったが、あまりに剛直すぎるのが欠点で、大勢の人が集まる席でも、厳しい顔つきで高らかに議論し、その鋭鋒に触れようとする者は誰もいなかった。故に当時の人々はその機略に富む変転を敬服しながらも、恭しく穏やかだという評判はなかった。筆で述べる著述のほか、広く多くの事柄を総合的に理解し、星象暦術や音律に至るまで、その妙を極めなかったものはなく、著した『大周欽天暦』及び『律準』は、共に世に行われた。

楊凝式

楊凝式は、華陰の人である。父の楊渉は、唐の末から梁の初めにかけて、再び宰相の地位に登り、罷免されて左僕射の官で死去した。凝式は体躯は小さいながらも、精神は聡明で悟るところが多く、豊かな文才に富み、大いに当時の同輩から推重された。唐の昭宗の朝に進士に及第し、官に初めて任じられ度支巡官となり、再び秘書郎に遷り、史館に直った。梁の開平年間、殿中侍御史・礼部員外郎・三川守となり、斉王張宗奭がこれを見て賞賛し、本官のまま留守巡官に充てるよう請うた。梁の宰相趙光裔は平素その才能を重んじ、集賢殿直学士に奏上し、考功員外郎に改めた。唐の同光初年、比部郎中・知制誥を授けられた。まもなく心の病により罷免され、給事中・史館修撰に改め、館事を判った。明宗が即位すると、中書舎人に拝され、また心の病により朝参せず罷免された。長興年間、右常侍・工部侍郎・戸部侍郎を歴任し、旧病により免官され、秘書監に改めた。清泰初年、兵部侍郎に遷った。唐の末帝が懐州・覃懐に兵を駐屯させた際、凝式は扈従の列にあり、心の病のため軍営でしばしば騒ぎ立てたが、末帝はその才能と名声を重んじて寛大に扱い、詔を下して洛陽らくように帰還させた。晋の天福初年、太子賓客に改め、まもなく礼部尚書をもって致仕し、伊水・洛水の間に閑居し、その狂逸を恣にし、多く人に干犯し逆らったが、留守以下の者たちは皆、その優れた才能と年老いた徳行を重んじて、誰も彼を責めなかった。晋の開運年間、宰相桑維翰は彼が俸給を絶たれ、家計が苦しいことを知り、太子少保に任じ、洛陽に分司するよう奏上した。漢の乾祐年間、少傅・少師を歴任した。太祖が兵権を総べると、凝式は軍門に伺候し、かつ年老いて雑事に耐えられないことを上訴したので、太祖は特にこれを奏上して免じさせた。広順年間、致仕を上表して求め、まもなく右僕射の官でその請いが聞き届けられた。顕徳初年、左僕射に改め、また太子太保に改め、共に官を辞した。元年の冬、洛陽で卒去した。八十五歳であった。詔により太子太傅を追贈された。

凝式は歌詩に長じ、筆札を善くし、洛川の寺観の藍き壁や白壁の上に、題記すること殆ど遍く、時に人はその縦放を以て「風子」の号有り。

薛仁謙

薛仁謙、字は守訓、代々河東に居し、近世汴に家を徙し、今は浚儀の人なり。父延魯、唐に仕えて汝州長史となり、累贈して吏部尚書となる。仁謙は謹厚廉恪にして、深く世務に通じ、梁の鄴王羅紹威甚だ之を重んじ、累ねて府職を署す。唐の荘宗魏に即位し、通事舍人を授く。梁の開平中、三たび呉に聘し、使者の体を得たり。衛尉少卿・引進副使に遷り、累ねて検校兵部尚書を加う。長興中、客省使・鴻臚少卿に転じ、出でて建雄軍節度副使となり、階を光禄大夫・検校左僕射に進め、光禄少卿に改む。晋の天福初、検校司空・河中節度副使を授かり、朝に帰り衛尉・太僕の二卿となる。継母の憂に丁し、喪制満ちて、司農卿を授かる。漢の乾祐中、本官を以て致仕す。周の初、太子賓客致仕に改め、仍て検校司徒を加え、侯爵に進封さる。顕徳三年冬、疾を以て終る、年七十八。工部尚書を贈らる。初め、仁謙荘宗に随ひ汴に入るや、旧第有りて梁朝の六宅使李賓に占拠せられ、時に賓遠く適す、而して仁謙復た其の第を得たり。或る人告げて云く、賓の家屬厚く金帛を蔵する其の第内に在りと、仁謙直ちに賓の親族を命じて尽く所蔵を出ださしめ、而して後に入る。論者之を美とす。

子居正、皇朝の門下侍郎平章事。

蕭願

蕭願、字は惟恭、梁の宰相頃の子なり。頃、明宗朝に太子少保に終る、『唐書』に伝有り。初め、願の曾祖仿、唐の僖宗朝に入相し、客を接する次に、願児童の戯れとして、伝呼の声を效す。仿客に謂ひて曰く、「余豈に敢へて位を得て喜ばんや、幸ひなるは奕世寿考、吾今又曾孫有りて眼前に在り」と。願弱冠にして進士第に挙げられ、解褐して校書郎となり、畿尉・直史館・監察殿中侍御史に改め、比部員外郎・右司郎中・太常少卿に遷る。明宗朝太微宮を祀るに、願酔ひて公卿の列に預かり、御史に弾劾せられ、左遷して右賛善大夫となる。未だ幾ばくもあらず、兵部郎中を授かり、復た金紫す。内艱に丁し、服闋けて、左司郎中より右諫議大夫に拝され、給事中・右常侍・秘書監を歴て、太子賓客に改む。広順元年春卒す。礼部尚書を贈らる。

願性純謹にして、父母に事へ承くるに、未だ帯を束ねずして見ることはあらず。然れども性酒を嗜み節無く、職事弛慢なり。兵部郎中たりし日、常に告身の印を掌る、覃恩の次に、頗る職司を怠り、父頃吏部尚書たり、願に代はりて印篆を視る、其の散率此の如し。願卒する時年七十余、其の母猶ほ在り、一門寿考、人及ぶ者罕なり。

盧損

盧損は、その先祖は范陽の人であるが、近世は嶺表に任官していた。父の穎は、京師に遊宦していた。損は若くして学び文を為し、梁の開平初年に進士に挙げられ、ただ頗る剛直で、高情遠致を以て自ら任じた。任贊・劉昌素・薛鈞・高總と同年に擢第し、互いに罵り合い、時人はこれを「相罵榜」と称した。任贊・劉昌素が要職に居るに及んでも、損は自ら異を立て、親しみ狎れることはなかった。時に左丞李琪は平素より劉昌素の為人を軽んじ、常に損を厚遇した。琪にすがめの妹がおり、長年婚対が成らず、遂に損に妻と為した。損は琪の名声を慕ってこれを娶り、琪が輔相と為るに及んで、損の仕進を助けた。梁の貞明年間、累遷して右司員外郎に至る。唐の天成初年、兵部郎中・史館修撰より転じて諫議大夫と為る。屡々上書して事を言うが、詞理浅陋にして、名流に知られず。清泰年間、盧文紀が相と為り、密かに損と時政を参議した。初め、長興年間、唐の末帝が河中を鎮めし時、損は嘗て加恩使副を為し、末帝の即位に及び、用いられて御史中丞と為る。拝命の日、以前の憲司が綱領を振挙できず、風俗を頽壞せしめたことを以て、大いに条奏を為し、『平明に鑰を放ち、日出でて端を守る』の語有り、大いに士人の嗤鄙を買う。間もなく、赦書を誤って詳らかにし、罪人を失出し、停任と為る。晋の天福年間、復た右散騎常侍と為り、転じて秘書監と為るが、大いに失望し、即ち章を拝して位を辞し、乃ち戸部尚書を授けられて致仕し、潁川に退居す。時に少保李鏻は年将に八十、服気導引を善くし、損は鏻の遐齢に道術有るを以て、酷く之を慕う。仍って潁川が城市に逼るを以て、乃ち陽翟に卜居し、茅を誅り薬を種え、山衣野服、林圃の間に逍遙し、出ずれば柴車鶴氅、自ら具茨山人と称す。晚年、同輩五六人と、大隗山中に泉を疏し坏を鑿ちて隠所と為し、誓って再び山を出でず、久しくして歯髪衰えず、似たる所を得たり。広順三年秋卒す、時に年八十餘。贈られて太子少傅と為る。

王仁裕

王仁裕、字は德輦、天水の人である。少くして孤と為り、師訓に従わず、年二十五にして、方に学に就かんと志す。一夕、夢に其の腸胃を剖き、西江水を引いて以て之を浣ぎ、又水中の砂石に篆文有るを睹、因りて取りて之を吞む。及び寤るや、心意豁然たり、是より資性絶高し。(案:此れ以下闕文有り。《輿地紀勝》に云う:王仁裕貢挙を知る時、取る所の進士三十三人、皆一時の名公卿、李昉・王溥を冠と為す。)詩萬餘首有り、勒して百卷と成し、目して《西江集》と曰う、蓋し嘗て西江の文石を吞むを夢みしに因り、遂に以て名と為す。(《輿地紀勝》:仁裕の著する所に《紫泥集》・《西江集》・《入洛記》有り、共に百卷。)後、兵部尚書・太子少保と為り、卒す。

裴羽

裴羽、字は用化、唐の僖宗時の宰相贄の子である。羽は少くして父の任により河南壽安尉と為る。梁に入り、御史臺主簿に遷り、改めて監察御史と為る。唐の明宗の時、吏部郎中と為り、閩に使し、颶風に遇い、飄って錢塘に至る。時に安重誨が事を用い、吳越王の封爵を削奪し、羽は錢塘に留められ、歳を経て帰るを得ず、後重誨死し、後吳越復た中國に通ずるに及び、羽始めて還るを得る。晋の初め、累遷して禮部侍郎・太常卿と為る。廣順初年、左散騎常侍と為り、卒す。贈られて工部尚書と為る。羽の閩に使するや、正使陸崇道に卒す、羽其の喪を載せて還り、其の橐装を帰し、時人之を義とす。

段希堯

段希堯は、河内の人である。祖は約、定州戸掾、贈られて太常少卿。父は昶、晉州神山縣令、累贈されて太子少保。希堯は少くして器局有り、累ねて州縣を歴る。唐の天成年間、衛州錄事參軍と為り、會うに晉高祖こうそが鄴に鎮と作る、其の勤幹を聞き、奏して洺州糾曹に改む。晉祖が太原を鎮むるに及び、辟かれて從事と為る。清泰年間、晉祖が代北に戎を総ぶるや、一日軍乱し、遽かに萬歳を呼ぶ、晉高祖之に惑う、希堯曰く「夫れ兵は猶ほ火の如し、戢えざれば将に自ら焚かん」と。遽かに其の乱首を戮するを請う、乃ち止む。明年、晉祖将に太原に義を挙げんとし、賓佐を召して之を謀る、希堯極言を以て之を拒ぐ、晉祖其の純朴を以て、之を咎めず。晉祖龍飛し、府の舊僚皆達官に至るも、惟だ希堯は止むことく省郎を授かるのみ。天福年間、稍く遷りて右諫議大夫と為り、尋いで命じて吳越に使す。舟に乗り海を泛ぶるに及び、風濤暴に起る、楫師仆從皆相顧みて失色す、希堯左右に謂ひて曰く「吾が平生の履行、暗室を欺かず、昭々たる天鑒、豈に祐ひ無からんや!汝等但だ吾を以て托とせよ、必ず当に患無からん」と。言ひ訖りて風止み、乃ち利涉を獲る。使い回り、萊州刺史・檢校尚書右僕射を授かる、未だ任に赴かず、懷州に改む。六年秋、棣州刺史に移り兼ねて榷鹽礬制置使と為る。少帝位を嗣ぎ、檢校司空を加ふ。開運年間、戶部・兵部侍郎を歴る。漢の初め、吏部侍郎に遷り、東西兩銓事を判ず。國初、工部尚書を拝す。世宗位を嗣ぎ、禮部尚書に転ず。顯德三年夏、洛陽に卒す、時に年七十九。贈られて太子少保と為る。

子の思恭、右諫議大夫。

司徒詡

司徒詡、字は德普、清河郡の人である。父は倫、本郡の督郵、清白を以て称せらる。詡は少くして書を読むを好み、《五經》の大義に通じ、弱冠にして郷挙に応ずるも、第せず。唐の明宗の邢臺を鎮むる時、詡往きて之を謁し、甚だ礼遇せられ、命じて邯鄲に吏を試みしめ、永年・項城令を歴り、皆能名有り。長興初年、唐の末帝が河中を鎮むる時、奏して辟きて從事と為す。未だ幾ばくもせず、征へられて左補闕・史館修撰を拝す。秦王從榮の開府するや、朝廷詡を以て戶部員外郎と為し、河南府判官を充てる。秦王害に遇ひ、例に以て寧州司馬に貶ぜらる。清泰初年、入りて兵部員外郎と為る。晉祖踐祚し、刑部郎中に改め、度支判官・樞密直學士を充て、兵部郎中より左諫議大夫・給事中に遷り、集賢殿學士判院事を充て、転じて左散騎常侍・工部侍郎と為り、許・齊・亳三州の事を知るを歴る。漢の初め、禮部侍郎を除き、凡そ三たび貢挙を主り、起部貳卿より、数年の間ならずして、遍く六曹を歴り、吏部侍郎より太子賓客を拝す。世宗即位し、太常卿を授く。時に世宗は雅楽に留意し、議して其の音を考正せんと欲す、而して詡は足疾に苦しめられ、居多く假告す、遂に本官を以て致仕せしむ。顯德六年夏、洛陽の私第に卒す、年六十有六。贈られて工部尚書と為る。

詡は談論を好み、酒を嗜み、賓客を喜び、また浮屠の教えを信じた。漢の乾祐年間、嘗て呉越に使いし、航海して往くこと、渤澥の中に至り、水色の墨の如きを見る。舟人曰く、「其の下は龍宮なり」と。詡、香を焚き念を興して曰く、「龍宮の珍宝は用なし、回棹の日に当たり、金篆の仏書一帙を以て、贄献を伸べん」と。復た其の所を経るに及び、遂に経一函を海中に投ず。俄にして梵唄・絲竹の音、船下に喧しきを聞く。舟人云く、「此れ龍王、其の経を迎え来たるなり」と。同舟の者百余人皆之を聞き、嘆訝せざる者なし。

邊蔚

邊蔚、字は得升、長安ちょうあんの人。父は操、華州下邽の令、累贈して太子少師。(《宋史》に曰く、邊珝は華州鄭の人なり。曾祖は頡、石泉の令。祖は操、下珪の令。父は蔚、太常卿。)蔚は幼くして孤となり、篤く学び、郷里の誉れあり。交より辟せられ、晋・陜・華の三府の従事を歴任す。唐の荘宗の蜀を伐つに、大軍華下より出づ。時に華は帥を闕くに属し、蔚は記室たり。詔して軍府の事を権領せしめ、軍儲を供億す。甚だ幹済の称あり。明宗の洛に入るに及び、李沖を遣わし詔を関右に賫し、閹官を尽く誅せしむ。沖の性深刻にして、華人に閹官に累せらるる者有り。沖尽く之を戮せんと欲す。蔚、理を以て救護し、免るるを得る者甚だ衆し。毛璋の邠寧に鎮するや、廉判に奏す。時に璋は麾下に惑わされ、跋扈の意有り。蔚、間に乗じて極言し、逆順の理を以て諭す。璋即時に其の子を遣わし入貢す。朝廷、蔚に賛画の効有るを以て、金紫を錫い、許州の戎判に改む。晋の天福初、涇州の戎幕より征されて虞部員外郎・塩鉄判官に拝され、開封・広晋の少尹を歴任す。晋の少帝位を嗣ぐや、左散騎常侍に拝され、広晋府の事を判じ、工部左右侍郎に転じ、再び開封府の事を知る。開運初、出でて亳州防禦使と為り、政を清肅にし、亳民之に感ず。歳余、入りて戸部侍郎と為る。漢の初、御史中丞に拝され、兵部侍郎に転ず。太祖命を受く、復た開封府の事を知り、太常卿に遷る。後に足疾を以て位を辞す。顕徳二年冬、家に卒す。時に年七十一。

子は玕・珝、倶に皇朝に仕え省郎と為る。

王敏

王敏、字は待問、単州金郷の人。性純直、少より力学して文を攻め、進士第に登る。後に杜重威に依り、凡そ数鎮の従事を歴任す。漢の初、重威鄴に叛く。時に敏は留守判官たり。嘗て泣いて重威を諫め、懇ろに帰順を請う。重威始は従わざるも、其の窮するに及び、敏の言を納れ、其の城を以て降る。時に魏の饑民十に猶四五を保ち、咸く其の餘生を保つは、敏の力なり。朝に入り、侍御史に拝さる。世宗澶淵に鎮するや、太祖敏の謹厚なるを以て、遂に澶州節度判官に命ず。世宗王畿に尹正するに及び、開封少尹に改む。世宗位を嗣ぐや、権めて府事を知り、旋って左諫議大夫・給事中に拝され、刑部侍郎に遷る。敏嘗て子婿の陳南金を曹州節度使李継勛に薦め、表して記室と為す。其の後継勛寿春に軍を僨す。及び闕に帰りて待罪の礼無し。世宗継勛を武臣と為すを以て、之を責めず。因りて怒りを南金に遷し、其の裨贊状無きを謂い、乃ち之を黜す。敏是に由りて連坐し、遂に其の官を免ぜらる。歳余、復た司農卿に拝さる。顕徳四年秋、疾を以て卒す。