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舊五代史
周書十八: 列傳七 盧文紀 馬裔孫 和凝 蘇禹珪 景範
盧文紀
盧文紀、字は子持、京兆府萬年県の人である。長興末年、太常卿となる。文紀は体つきが大きく立派で、声は高く朗らか、応対は鏗鏘として響き、飲食に健やかであった。蜀に使者として赴き、途中岐山の下を通った。時に唐の末帝が岐の節度使であり、主君の礼をもって彼を待遇し、その儀容と趣向を観て、遇すること頗る厚かった。清泰初年、中書に宰相が欠け、末帝が朝臣に訪ねると、側近が言うには、「臣の見る班列の中で称賛され、大いに任じられるべき者は、姚顗・盧文紀・崔居儉でございます」と。あるいは三人の才能品行を評定し、その心はますます惑わされた。末帝はそこで当時の清望ある高官数人の姓名を書き、琉璃の瓶に入れ、月夜に香を焚いて天に祈請し、翌朝箸で挟むと、最初に文紀の名を得、次が姚顗であった。末帝は元より彼を異才として遇していたので、喜んで命じ、直ちに中書侍郎・同平章事を授け、姚顗と共に宰相の位に昇った。時に朝廷は戦乱の後で、宗社ようやく寧か、外寇は内に侵し、強臣は境に在った。文紀は経綸をなす地位にありながら、輔弼の謀は無く、論ずる所は愛憎や朋党の小さな瑕、糾す所は銓選や擬掄の微かな疵であった。時に蜀人の史在徳という者が太常丞となり、権要の門を出入りし、朝士を評品して多く譏り弾劾したが、ついに上章して言うには、「文武両班は、能ある者を選んで進用すべきである。現に在る軍都の将校・朝廷の士大夫は、共に試験して澄み汰し、能ある者は進用し、否なる者は黜退せよ、名位の高下に限らず」と。上疏が中書に下ると、文紀は自分を指すものと思い、大いに怒り、諫議大夫盧損を召して覆状を作らせたが、文意は雑然として、衆に嗤われた。三年の夏、晋の高祖が契丹を引きいて命に背き、やがて大軍は挫け、官寨は包囲された。八月、親征し、徽陵を過ぎ、闕下に拝し、仗舎に休んだ。文紀が扈従すると、帝は顧みて言うには、「朕は聞く、主憂うれば臣辱しむと。朕が鳳翔より来て、まず卿を宰相に命じた。人の論ずる所を聞けば、まさに太平を致すに便ならんという。今、寇孽紛紛として、万乗をして自ら賊と戦わしむ。汝において安んぜんか」と。文紀は恐惶して謝した。時に末帝の末年、天その魄を奪い、声は寨を救うと雖も、実は行くに倦んでいた。初めて河陽に次ぎ、文紀・張延朗を召して謀議した。文紀は言う、「敵騎は倏ち往き忽ち来り、利無ければ去る。大寨は牢固で、以て支うるに足る。況んや既に三箇所の救兵あり、戦わずして解くべし。人をして督促せしめ、成功を責めよ。輿駕は暫く河橋に駐まり、事勢を詳らかに観よ。況んや地は舟車の要に処り、正に天下の心に当たる。必ずしも若し囲みを解かずとも、去るも未だ晩からず」と。時に延朗は趙延寿と親密で、傍らから奏して言う、「文紀の言う通りです」と。故に延寿を北行せしめ、末帝は坐してその敗を俟った。
晋の高祖が洛に入ると、宰相を罷めて吏部尚書と為し、再び太子少傅に遷る。少帝が嗣ぐと、太子太傅に改める。漢の高祖が即位すると、転じて太子太師となる。時に朝官が分司して洛に在り、留台御史はあるも、紀綱も多く整肅せず、遂に文紀に勅して別に検轄せしむ。侍御史趙礪が糾すに、分司の朝臣の中に行香や拜表を疎かに怠る者ありと。楊邠は怒り、凡そ疾病で朝謁に在らざる者は、皆致仕官と同様に扱った。時に文紀が別に検轄の職を命ぜられ、頗る甚だしく滋章したが、病を因りて仮請し、また留台に奏せられ、遂に本官のまま致仕した。広順元年夏、卒す。年七十六。司徒を贈られ、一日視朝を輟む。文紀は平生、財を積むこと巨万、及び卒すと、その子の龜齢に費やされ、数年を経ずして蕩尽に至り、ここにおいて多蔵する者は以て誡めと為した。
馬裔孫
馬裔孫、字は慶先、棣州商河県の人である。唐の末帝が即位すると、用いられて翰林学士・戸部郎中・知制誥となり、金紫を賜う。歳満たずして、中書舍人・礼部侍郎に改め、皆禁職を帯びる。尋いで中書侍郎・平章事に拝す。裔孫は純儒で、性多く凝滞し、急に相位に登り、朝廷の旧事に詳しからず。初め、馮道が同州を罷めて朝に入り、司空に拝された。唐朝の故事では、三公は加官と為し、単独で拝する者は無かった。是の時、朝議は率爾に道を命じ、制が出ると、或いは「三公は正宰相、便ち大政に参ずるに合う」と言い、又「冊を受くるに合う」と言う。衆言藉藉たり。盧文紀は又祭祀の時に便ち掃除せしめんと欲し、馮道これを聞いて言う、「司空の掃除は職なり、吾憚る所無し」と。既にして非なるを知り乃ち止む。劉句が僕射となり、性剛にして、群情これに嫉み、乃ち共に右常侍孔昭序を賛して行香の次第を論ぜしめ、言うには、「常侍は侍従の臣、行立は僕射の前に在るべし」と。疏が奏され、御史台に下って定例を定む。同光以来、李琪・盧質が継いで僕射と為り、質は性軽脱にして、師長の体を守ること能わず、故に昭序軽く言う。裔孫は群情が劉句・馮道を悦ばざるを以て、微かにこれを抑えんと欲し、乃ち台司を責め、則例を検するを須い、而して台吏言う、「旧に見る例無し、南北の班位に拠れば、即ち常侍は前に在り」と。俄かに国忌に属し、将に列に就かんとして未だ定まらず、裔孫は即ち台状を判して言う、「既に援拠有り、足りて遵行すべし、各本官に示せ」と。劉句怒り、袂を揮って退く。自ら後日台司を責めて定例を定めしむ。崔居儉が南宮の同列に謂いて言う、「昭序の言語に従えば、是朝廷の人総て語を解せざるなり。且つ僕射は師長なり、中丞大夫は班に就きて敬を修め、常侍の班は南宮六卿の下に在り、況んや僕射においてをや。以前騎省は年深く、南宮の二侍郎を望むこと霄漢を仰ぐが如し、痴人の挙止、何ぞ之を笑うことの深きや」と。衆、居儉の言を聞き、紛議稍く息む。文士は裔孫の堂判に「援拠」の二字有るを哂う。其中書の百職、裔孫は素より諳練せず、専決する能わず、但だ署名するのみ。又賓客に接すること少なく、時人これを目して「三不開」と為し、口開かず、印開かず、門開かざるを謂う。及んで太原の事起こり、唐の末帝が懐州に幸すと、裔孫は留司として洛に在り。未だ幾ばくもせず、趙徳鈞父子に異志有り、官寨危急、君臣計る所無し。俄かに裔孫が洛より来朝す。衆相謂いて言う、「馬相此れ来る、必ず安危の策有らん」と。既に至り、綾三百匹を献じ、終に献可の言無し。晋の祖が命を受け、廃されて田里に帰す。
裔孫は名を好み、韓愈の為人を慕い、殊に仏を重んじなかった。及んで廃されて里巷に居るに及び、唐末帝の平昔の遇いを追憶し、乃ち長寿僧舎に依って仏書を読み、冥報を申し上げんことを冀う。歳余りして黄巻の中に枕藉し、『華厳経』『楞厳経』を見るに、詞理富贍にして、ここより酷くこれを賞し、仍ってこれを抄撮し、歌詠に相形して、これを『法喜集』と謂う。又諸経の要言を纂して『仏国記』と為す、凡そ数千言。或いはこれを嘲って曰く、「公は生平傅奕・韓愈を以て高識と為す、何ぞ前は倨にして後は恭なる、是れ仏が公に佞するか、公が仏に佞するか」と。裔孫笑って答えて曰く、「仏が予に佞すること則ち多し」と。李崧が晋に相たり、李専美を以て賛善と為すに及び、裔孫は賓客を以て致仕し、専美は少卿に転じ、裔孫は太子詹事を得たり。晋・漢の公卿は裔孫の文章を好むを以て、皆欣然としてこれを待つ。太祖即位し、就いて検校礼部尚書・太子賓客を加え、分司して洛に在り。毎に閉関して素を養い、惟だ謳吟著述を事とす。八分書を嗜み、尺牘酬答には必ず親しく札して以て其の墨跡を炫わす。裔孫将に卒せんとする前に、白虺の庭槐に縁るを見、これを駆るも所在を失い、裔孫は鵬を賦するの文に感じ、『槐虫賦』を作りて以て志を現わす。広順三年秋七月、洛陽に卒す。詔して太子少傅を贈り、視朝を一日輟む。
裔孫初め河中の従事と為り、事に因りて闕に赴き、邏店に宿る。其の地に上邏神祠有り、夜夢に神召見するを見、優礼を以て待ち、手ずから二筆を授く、其の筆一は大、一は小、覚めて異とす。及んで翰林学士と為るに及び、裔孫は鴻筆の兆に契うと以為う。旋って貢挙を知り、私自ら謂いて曰く、「此れ二筆の応なり」と。洎んで中書に上事するに及び、堂吏二筆を奉ず、熟視するに大小昔時夢中に授かりしが如し。及んで卒する後旬日、侍婢の霊語有り、一に裔孫の声気の如く、家事を処分するに皆倫理有り、時人これを奇とす。
和凝
和凝、字は成績、汶陽須昌の人なり。九代祖逢堯、唐高宗の時に監察御史と為り、逢堯より以下、仕えて皆顕れず。曾祖敞・祖濡皆凝の貴に因りて、累贈して太師と為る。父矩、尚書令を贈らる。矩は性酒を嗜み、礼節に拘わらず、素より書を知らずと雖も、士を見て未だ嘗て慢色有ることなく、必ず家財を罄して以て延接す。凝幼くして聡敏、姿状秀抜、神采人を射る。少しく学を好み、書一覧する者咸く其の大義を達す。年十七明経に挙げられ、京師に至り、忽ち夢に人以て五色筆一束を以て之に与え、謂いて曰く、「子かくの如き才有り、何ぞ進士を挙げざる」と。是より才思敏贍、十九進士第に登る。滑帥賀瑰其の名を知り、辟して幕下に置く。凝は射を善くす。時に瑰と唐荘宗と河上に相拒ち、胡柳陂に戦い、瑰軍敗れて北す、惟だ凝之に随う、瑰顧みて曰く、「子相随うること勿れ、自ら努力すべし」と。凝泣いて対えて曰く、「丈夫人の知を受く、難有りて報いざるは、素志に非ざるなり、但だ未だ死する所無きを恨む」と。旋って一騎士来たりて瑰を逐う、凝之を叱すも止まず、遂に弓を引いて以て射れば、弦に応じて斃る、瑰免るることを獲たり。既にして諸子に謂いて曰く、「昨和公に非ざれば、以て此に至ること無からん。和公は文武全才にして志気有り、後必ず重位を享けん、爾宜しく謹んで之に事うべし」と。遂に女を以て之に妻せしむ、ここより声望益隆し。後に歴て鄆・鄧・洋三府の従事と為る。唐天成中、入りて殿中侍御史に拝され、歴て礼部・刑部員外郎、主客員外郎・知制誥に改め、尋いで詔して翰林に入り学士を充て、主客郎中に転じて職を充て、兼ねて権知貢挙と為る。貢院の旧例、放榜の日、門に棘を設け及び院門を閉じ、以て下第の不逞の者を防ぐ。凝は棘を徹し門を啓かしむ、是の日寂として喧しき者無く、収むる所多く才名の士、時に議うるに人を得たりと以為う。明宗益々器重し、中書舎人・工部侍郎に遷し、皆学士を充てたり。
晋天下有るに及び、端明殿学士に拝され、兼ねて度支を判じ、戸部侍郎に転ず、会に端明の職を廃するに及び、復た翰林に入り承旨を充てる。晋祖毎に召して時事を問うに、言皆旨に称う。五年、中書侍郎平章事に拝す。六年秋、晋高祖将に鄴都に幸せんとす、時に襄州安従進の反状已に彰わなり、凝乃ち奏して曰く、「車駕闕を離れ、安従進或いは悖逆有らん、何を以て之を待たん」と。晋高祖曰く、「卿の意如何」と。凝曰く、「臣の料るに、先んずる者は人の心を奪う、事に臨みて即ち及ばず。預め宣勅十数道を出だし、密かに開封尹鄭王に付し、緩急有らば即ち旋って将校の姓名を填め、兵を領して之を撃たしめんことを欲す」と。晋高祖之に従う。及び唐・鄧の奏報を聞くに、鄭王敕の如くし、騎将李建崇・監軍焦継勛等を遣わし兵を領して討たしむ、湖陽に相遇い、従進意に出でず、甚だ其の神速を訝り、以て敗るるに至るは、凝の力によるなり。少帝位を嗣ぎ、右僕射を加う。開運初、相を罷めて本官を守り、未だ幾ばくもせず、左僕射に転ず。漢興り、太子太保を授く。国初、太子太傅に遷す。顕徳二年秋、背疽を以て其の第に卒す、年五十八。視朝を両日輟み、詔して侍中を贈る。
凝は性修整を好み、釈褐より台輔に登るまで。車服仆従、必ず華楚を加え、進退容止偉如たり。又後進を延納するを好み、士賢不肖無く、皆虚懐を以て之を待ち、或いは其の仕進を致す、故に甚だ当時の誉有り。平生文章を為すに、短歌艶曲に長じ、殊に声譽を好む。集百巻有り、自ら版に篆し、模印数百帙、人に分け恵む。
長子峻、省郎に卒す。次子峴、皇朝に仕えて司勛員外郎と為る。
蘇禹珪
蘇禹珪、字は元錫、その先祖は武功に出自し、近世は高密に家し、今は郡の人である。父の仲容は儒学をもって郷里に称され、唐末に『九経』に挙げられ、広文助教を補し、輔唐令に遷り、累贈して太師となった。禹珪は性質謙和にして、虚襟をもって物に接し、父の業を克く構え、五経をもって第に中り、遼州倅職に辟せられ、青・鄆の従事を歴任し、潞・並の管記に転じ、累検校官して戸部郎中に至った。漢の高祖が並門に鎮として在った時、兼判として奏された。開運の末、契丹が汴に入ると、漢祖は晋陽に即位し、中書侍郎平章事を授けた。漢祖が輗阼すると、刑部尚書を兼ね、俄かに右僕射・集賢殿大学士を加えられた。漢祖が大漸すると、蘇逢吉・楊邠らと共に顧命を受け、少主を立てた。明年、左僕射に転じた。三年の冬、太祖が内難を平らげに入ると、禹珪は都城に遁れ、兵士に擄われた。翌日、太祖は人をしてこれを求めさせ、既に見るや、撫慰すること甚だ厚く、尋ねてその位を復した。国初、守司空を加えられ、尋ねて相を罷めて本官を守った。世宗が嗣位すると、莒国公に封ぜられ、未幾、代を受けて第に帰った。顕徳三年正月旦、客と対食の際、暴疾にて卒す。時に年六十二。禹珪は純厚なる長者にして、漢祖に遭遇し、蘇逢吉が夷滅せられるに及び、禹珪は恬然として咎無く、時に人はこれを積善の報いと為した。
子の徳祥は進士第に登り、累ねて台省を歴任した。
景範
景範は淄州長山の人である。世宗の北征に当たり、東京副留守に命ぜられた。車駕が河東より回ると、世宗は国用の艱難を以て、乃ち範を中書侍郎平章事・判三司とした。範は人となり厚重剛正にして、屈撓する所無し、然れども繁を理め劇を治むるは、その長とする所に非ず、心を悉くし瘁を尽くすと雖も、終に称職の誉れ無し。世宗これを知り、其の疾有るに因り、乃ち司計を罷む。尋ねて父喪にて相を罷め東に帰る。顕徳三年冬、疾にて郷里に卒す。優詔を以て侍中を贈り、官これを立てて碑を為す。
【論】
史臣曰く、稽古の力を以て、秉鈞の位を取る者は、豈に常人ならんや。然れども文紀は貨殖に耽り、裔孫は齷齪に傷つけられ、則ち全きその徳を為す者は鮮しと知るべし。如きは成績の文采、元錫の履行、景範の純厚、皆これを以て君子の儒と謂うべし。これを以て爰に立つ、何を用いて臧からざらん。