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舊五代史
周書十五: 列傳四 王殷 何福進 劉詞 王進 史彥超 史懿 王令溫 周密 李懷忠 白文珂 白延遇 唐景思
王殷
王殷は瀛州の人である。曾祖父の昌裔は本州の別駕であった。祖父の光は滄州の教練使であり、その地に居を定めた。唐末、幽州・滄州が大いに乱れ、殷の父の鹹珪は避難して南遷し、魏軍に身を寄せた。殷は自ら、魏州の開元寺で生まれたと語り、成長して軍に従い、次第に偏将となった。唐の同光の末、華州馬歩軍副指揮使となり、華州の地に家を構えた。天成年中、霊武都指揮使に移任され、久しくして交代で帰還した。清泰年中、張令昭が鄴に拠って叛くと、殷は範延光に従ってこれを討ち、真っ先に矢石を冒し、率先して城に登り、功により祁州刺史に任ぜられ、まもなく原州に改任された。殷は性質謙虚で謹み深く礼を好み、母に仕えること孝行をもって知られ、人と交わりを結ぶときは、往来するにも必ず先ず母に伺い、母の命に従わない場合は、殷は決して行かず、軍旅にあっても交遊は雑ならなかった。刺史となってからは、政事に少しでも良からぬことがあると、母はそれを察し、殷を庭に立たせ、詰問して責め杖で打った。(『歐陽史』によれば、殷が刺史であったとき、政事に小さな過失があると、母がこれを責め、殷はすぐに杖を取って婢仆に授け、母の前で自ら笞打たせた。)晋の天福年中、母の喪に服したが、まもなく詔により喪中起復が命ぜられ、憲州刺史に任ぜられた。殷は上章して辞し、「臣は末将に過ぎず、出仕・隠退いずれも国家に損益はありません。臣は本来燕の人間で、郷国が離乱に遭い、幼くして父を失い、母の養育と訓導によってようやく成人いたしました。どうか急いで喪服を脱ぎ、墓所を遠く離れることは忍びません。伏して願わくば、臣に母の喪が終わるまで許し給わらんことを」と述べた。晋の高祖はこれを嘉して許した。晋の少帝が位を継ぐと、殷の喪が明けたので、召し出されて禁軍を管掌させ、累進して奉国右廂都指揮使となった。漢の高祖が天命を受けると、鄴の地で杜重威を討つことに従い、殷は劉詞と共に率先して力戦し、矢が頭に当たり、久しくして口の中で折れた鏃を取り出したので、漢祖はこれを賞賛した。乾祐の末、侍衛歩軍都指揮使に遷り、夔州節度使を兼ねた。契丹が辺境を侵すと、殷に兵を率いさせて澶州に駐屯させた。李業らが乱を起こすと、漢の隠帝は密詔を澶州の帥・李洪義に下し、殷を除くよう図らせた。洪義は成功せぬことを恐れ、かえって変事を殷に告げた。殷は洪義と共に人を鄴に遣わし、太祖に内難鎮圧のため赴くよう請うた。殷は京師平定に従い、侍衛親軍都指揮使に任ぜられた。
太祖が即位すると、天雄軍節度使に任じ、同平章事を加えられ、軍を管掌することは従前の通りであった。殷が任地に赴く際、侍衛司の役所を従え、河北の征鎮で戍兵のいる所はすべて殷の指揮を受けることとなった。殷はまた民間から方々で物資を徴収したので、太祖はこれを聞いて嫌悪し、使者を遣わして宣諭させた。「朕が鄴を離れる時、府庫に蓄えられたものは少なくなかった。卿は国家と一体である。必要に応じて取り給え。何の財が無いことを憂えようか」と。二年の夏、太祖が兗州征伐から帰還すると、殷は路上で迎え謁し、宴を賜わって去った。王峻が罪を得ると、太祖はその子の飛龍使・承誨を鄴に遣わし、峻の過悪を口頭で諭させ、殷の心を慰めた。三年の秋、永寿節に上表して入朝を請うた。太祖はその請いを允したが、殷の誠意なきことを慮り、まもなく使者を遣わして止めさせた。何福進が鎮州におり、平素より殷の横暴を憎んでいた。福進が入朝し、殷の密かな悪事を摘発して奏上したので、太祖は遂に殷を疑うようになった。この年の冬、郊祀の日が近づくと、殷は任地から入朝した。太祖は従前の通り内外の巡警を命じた。殷の出入りの従者は数百人を下らず、またその姿形が魁偉であったので、見る者は皆驚き恐れた。ある日、殷は急ぎ入奏して言った。「郊祀の礼が近づき、兵民が大いに集まります。臣が城外で警備いたしますが、非常事態に備え、甲冑兵器を適量支給されたく願います」と。太祖はこれを難事とした。当時、朝廷内外では太祖が病に臥せり、歩行がやや困難で、多く朝政を見ず、郊祀が間近に迫っているため、殷に君主を脅かす勢いがあることを大いに憂えた。太祖は力を振り絞って病を押し、滋徳殿に座した。殷が起居の礼に参入すると、すぐに捕らえることを命じ、まもなく制を降って流罪とし、都城を出ると、急いでこれを殺した。衆情はこれで安堵した。この年の春の末、鄴城の寺の鐘が懸け紐が絶えて落ち、また幡竿の上から火光が出た。殷が入朝する際、都の人が離亭で餞別したが、上馬の際に鐙を踏み外し、ひっくり返って地に堕ちた。人はその不吉を訝しんだが、果たして禍に及んだ。太祖はまもなく澶州の帥・鄭仁誨を鄴に赴かせた。殷の次子は衙内指揮使であったが、出迎え謁見せず、仁誨はこれを誅し、その家族を登州に移した。
何福進
何福進は字を善長といい、太原の人である。父の神劍は累贈されて左驍衛大将軍となった。福進は若くして軍に従い、驍勇をもって知られた。唐の同光の末、郭従謙が兵を率いて荘宗を大内に包囲した時、福進は宿衛軍校として、ただ一人で死力を尽くして内で防戦した。後に明宗はこれを知って賞賛し、捧聖軍校に抜擢し、磁州刺史として出向させ、北面行営先鋒都校を充てた。清泰年中、彰聖都虞候から本軍を率いて範延光に従い鄴を平定し、功により鄭州・隴州の二州防禦使を歴任した。開運年中、潁州団練使から召されて左驍衛大将軍に任ぜられた。契丹が中原を陥落させた際、中朝の文武臣僚数十人を帳に従わせ北帰させたが、この時福進もその一行に加わった。鎮州に至った時、北主(契丹主)が既に斃れたと聞き、その党類がなお鎮陽に拠っているのを知り、李筠・白再栄の輩と合謀して力戦し、契丹を全て追い払い、鎮陽を占拠した。当時、漢の高祖は既に河東で即位し、詔して福進を北面行営馬歩都虞候とし、まもなく曹州防禦使・検校太保に任じた。太祖が鄴に出鎮し、北伐を謀ろうとした時、福進を従わせるよう奏上した。太祖が内難を平定するために入京すると、輔佐の功により忠武軍節度使に任ぜられ、数ヶ月も経たずして鎮州を領するよう移された。数年之間、北辺に事変が無かった。太祖が南郊で祭祀を行おうとしていると聞き、上章して入朝し、天平軍節度使に改任され、同平章事を加えられた。任地に赴く前に、東京の私第で卒去した。年六十六。時は顕徳元年正月である。累贈されて中書令となった。
子の継筠は、皇朝(宋)に仕え、建武軍節度使を領して卒した。
劉詞
劉詞は、字を好謙といい、元城の人である。梁の貞明年中、故鄴の帥楊師厚に仕え、勇悍をもって知られた。唐の荘宗が魏に入ると、これもまた麾下に列し、両河の戦いには、預からぬものはなかった。同光初年、効節軍使となり、転じて剣直指揮使となったが、まもなく権臣に逆らい、汝州の小校として出され、およそ留滞すること十餘年を経た。清泰初年、詔して諸道に驍果を選び以て禁衛を充実させると、これによって禁軍を統べるに至った。晋の初め、侯益に従って汜水関を収め、楊光遠を佐けて鄴都を平定し、累遷して奉国第一軍都虞候となった。後に馬全節に従って安陸を伐ち、淮賊万余衆を破り、晋祖はこれを嘉して、奉国都校を授け、累加して検校司空とした。また杜重威に従って宗城において安重栄を破った。及び鎮陽を囲むに及び、詞は自ら雲梯に登り、身を士卒の先んじて、功により検校司徒・沁州刺史を加えられた。時に王師はまさに襄陽を討たんとし、まもなく詞を行営都虞候を兼ねることを命じ、襄陽平定後、本州団練使に遷った。郡にあって歳余、事に臨む暇あれば必ず甲を被り戈を枕として臥し、或る人がこれを問うと、詞は言う、「私は勇敢をもって貴仕に登った。一日たりとも本を忘れるべからず。もし温飽を信ずれば、則ち筋力に怠りあり、将来何をもって国に報いんや」と。漢が天下を有するに及び、ふたたび奉国右廂都校となり、遙かに閬州防禦使を領した。太祖に従って鄴を平定し、検校太保を加えられた。乾祐初年、李守貞が河中において叛くと、太祖はこれを征し、朝廷は詞を侍衛歩軍都指揮使とし、遙かに寧江軍節度使を領させ、行営馬歩都虞候を充て、河西に分屯することを命じた。二年正月、守貞は敢死の士数千を遣わし、夜その営に入った。皆怖懼してなすところを知らず、ただ詞のみ神気自若として、軍中に令して言う、「これ小盗に過ぎず、驚くに足らず」と。すなわち冑を免ぎ戈を横たえ、短兵を叱して以てこれを撃たしめ、賊衆は大敗して退いた。ここより守貞は胆を喪い、ふたたび奔突の意あることなし。河中平定後、太祖はこれを嘉し、その功を表して華州節度使とし、歳余して邢臺に移鎮した。太祖が受命すると、同平章事を加えた。三年秋、河陽に改鎮した。顕徳初年、世宗が劉崇を親征するに、詞は命を受けて所部の兵を率いて駕に随い、行くこと高平の南に至り、樊愛能らが北より退回するに遇い、かつ官軍はすでに敗れたと言って、詞を行かざらんとしたが、詞は聴かず、疾駆して北に向かった。世宗は聞いてこれを嘉し、まもなく随駕都部署とし、また河東道行営副部署を授けた。その年夏、車駕が京に還ると、永興軍節度使を授け、兼侍中を加え、京兆尹を行った。二年冬、疾により鎮において卒す。年六十五。中書令を贈られ、諡して忠恵といった。詞は身を軍校より起こし、しばしば戎事を歴て、常に忠勇を以て自ら負うところとした。藩鎮を領するに及び、よく靖恭として治め、苛政を以て民を撓ますことなく、諡して忠恵とするは、議者これを是とした。
子の延欽は、皇朝に仕えて控鶴廂使となった。
王進
王進は、幽州良郷の人である。少くして落魄し、生業を事とせず、人となり勇悍にして、走ること奔馬に及び、嘗て党を聚めて盗賊となり、封境これを患えた。符彦超が河朔の郡守たりしとき、賂を以て誘いて左右に置いた。長興初年、彦超が安州を鎮めると、部曲の王希全が軍州を構えて乱すに属し、進に変状を齎らせて朝廷に聞かせしめ、明宗はその捷足を賞し、詔して軍中に隷せしめた。契丹が内寇するに及び、膠口において戦い、進は独り追いかけて六十七人を擒にし、時に漢祖が侍衛親軍を総べ、その驍果なるを知り、擢いて馬前親校とした。漢祖が河東を鎮むると、或いは辺上に警急あるとき、進に封章を齎らせて闕下に達せしめ、並より汴に至るまで、六七日を過ぎずして復するにより、恩撫頗る厚かった。戎職を継ぎ任じ、累遷して奉国軍都指揮使に至った。太祖に従って入り内難を平らげ、功により虎捷右廂都指揮使に遷り、汝・鄭の防禦使を歴任し、また政声があった。俄かに相州節度使を授けられたが、為政の道は頓に前よりも減じ、議者はこれを惜しんだ。顕徳元年秋、疾により任において卒す。検校太師を贈られた。
史彦超
史彦超は、雲州の人である。性驍獷にして胆気あり、累功して龍捷都指揮使に至った。太祖が内難に赴くに、彦超は本軍を以て従った。国初、虎捷都指揮使何徵とともに晋州を戍り、会に劉崇と契丹が入寇し、州城を攻囲すること月余、この時本州に帥なく、知州王萬敢は物情に協わず、彦超は何徵と協力して固く拒み、累ねて敵鋒を挫いた。攻撃日を追って急なりしも、禦捍に備えあり、軍政甚だ厳にして、居人を擾わすことなし。朝廷が枢密使王峻を遣わして兵を総べ援けとなすに及び、敵兵は宵遁した。太祖はその善守の功を嘉し、賞賜甚だ厚かった。未だ幾ばくもなく、龍捷右廂都指揮使を授け、まもなく鄭州防禦使を授かった。劉崇が潞州を寇すに、車駕親征し、彦超を先鋒都指揮使とした。高平の戦いにおいて、先登して陣を陷ち、功により華州節度使を授けられ、先鋒はもと通りとした。大軍が河東城下に至り、契丹が忻・代の間に営し、遙かに賊勢に応ずるに、詔して天雄軍節度使符彦卿に諸将を率い忻州に屯して以てこれを拒がしめた。彦卿は忻口において契丹を襲う。彦超は先鋒軍を以て蕃寇を追い、大軍より稍々遠く離れ、賊兵の伏兵発し、賊のために陷せられた。世宗は久しく痛惜し、詔して太師を贈り、等を加うるを示し、仍ってその家を優恤することを命じた。
史懿
史懿は、字を継美といい、代郡の人である。本名は太祖の廟諱を犯す故、改めた。父の建瑭は、唐の荘宗に事えて先鋒都校となり、『唐書』に伝あり。荘宗が鎮陽を伐つとき、時に建瑭は流矢に中たって卒し、懿は時に年甫めて弱冠、荘宗はその父が王事に歿したを以て、召して昭徳軍使に拝し、俄かに先鋒左右廂都校に遷し、その家声を嗣がしめた。天成年中、涿州刺史となった。晋の初め、趙州刺史より洺州団練使に遷り、まもなく亳・鳳二州の防禦使を歴任した。晋祖はその弟の翰が晋国長公主を尚うにより、故に特に注意を注がれた。天福年中、彰武軍節度観察留後を授かった。開運初年、澶・貝二鎮の節度使を歴任した。三年、涇原に移鎮した。未だ幾ばくもなく、契丹が中原に入ると、時に四方の征鎮で契丹に召されたものは靡いて至らざるはなかったが、ただ懿のみ堅壁して命を拒み、仍って款を漢祖に送った。漢が天下を有するに及び、就いて検校太尉・同平章事を拝し、及び功臣名号を賜った。広順初年、検校太師・兼侍中を加えられ、邠国公に進封された。顕徳元年春、抱病して朝に帰った。(『東都事略・楊廷璋伝』:周太祖は常に廷璋に諭して涇帥史懿を図らしめ、廷璋は左右を屏い、詔書を示すと、懿は代を受けて朝に入り、遂に禍を免れた。)洛を経過し、その第において卒す。年六十三。中書令を贈られた。
王令温
王令温、字は順之、瀛州河間の人である。父の迪は徳州刺史となり、累贈して太子太師となった。令温は若くして武勇をもって称され、初め唐の荘宗の麾下に隷し、次第に昇進して廳直軍校となった。明宗が統帥となった時、嘗て契丹と上谷で戦い、明宗は陣中で馬が逸走し、敵に追われた。令温は自らの乗馬を明宗に与え、自らは力戦し、飛矢を連発して敵兵を少し退かせた。明宗が即位すると、累遷して神武彰聖都校となった。晋の初め、淄州刺史から洺州団練使に遷った。安重栄が鎮州で兵を挙げると、晋の高祖は令温を行営馬軍都指揮使とし、都帥杜重威と共に宗城で賊を破り、功により亳州防禦使を授かり、間もなく永清軍節度使に任じられた。契丹が侵寇してきた時、令温は詔により入朝していたため、契丹は貝州を陥落させ、その家族は契丹に没した。晋の少帝はこれを憫れみ、武勝軍節度使を授けた。間もなく延州に移鎮し、さらに霊武に遷った。漢が天下を有すると、再び永清軍節度使となり、間もなく安州に改めた。国初(周)、検校太尉・同平章事を加えられた。世宗が位を嗣ぐと、鎮安軍節度使に遷り、鎮を罷めて帰闕した。顕徳三年夏、病により卒去、時に六十二歳、詔により侍中を贈られた。
周密
周密、字は徳峰、応州神武川の人である。初め後唐の武皇に仕えて軍職に就いた。荘宗が常山を平定し、明宗が汶陽を襲撃した時、密はいずれも従征して功があった。荘宗が梁を平定すると、鎮州馬軍都指揮使を授かった。明宗が即位すると、累遷して河東馬歩軍副都指揮使となった。晋の天福初年、冀州刺史に除かれ、累官して検校司徒に至り、入朝して右羽林統軍・検校太保となった。四年秋、保大軍節度使・検校太傅を授かった。部民の叛乱に際し、密はこれを討平し、間もなく晋州に移鎮し、検校太尉を加えられた。開運年中、入朝して右龍武統軍となった。三年秋、延州に出鎮した。その年冬、契丹が中原を陥落させ、延州で軍乱が起こり、高允権が帥に立てられた。時に密は東城を拠り、允権は西城を拠り、長く相対した。漢の高祖が太原で義兵を挙げ、使者を派遣して安撫すると、密は城を棄てて太原に奔り、漢祖に従って汴に帰り、久しく闕下に居た。広順初年、太子太師を授かり致仕した。顕徳元年春に卒去、時に七十五歳。
長子の鋭は皇朝(宋)に仕えて内職となった。次子の広は諸衛大将軍を歴任した。
李懐忠
李懐忠、字は光孝、太原晋陽の人である。父の海は本府の軍校であった。懐忠は体躯魁偉で、初め唐の荘宗に仕え、保衛軍に隷した。夾城の役で、懐忠は率先して城に登り、功により本軍副兵馬使に補された。荘宗が山東を平定すると、累遷して保衛軍使となった。天成年中、陝府・許州・滄州都指揮使を歴任し、遥領で辰州刺史となった。清泰初年、河西の蕃部が寇鈔したため、懐忠を方渠に屯させた。晋の高祖が受命すると、懐忠を旧知として召し禁兵を管掌させ、三遷して護聖左右廂都指揮使となり、遥領で寿州節度使・検校太保となった。間もなく同州節度使・検校太傅となった。少帝が位を嗣ぐと、入朝して右羽林統軍となり、左武衛上将軍に改めた。広順年中、太子太傅をもって致仕した。三年夏に卒去、六十六歳。詔により太子太師を贈られた。
白文珂
白文珂、字は徳温、太原の人である。曾祖は辯。父の君成は遼州刺史となった。文珂は初め後唐の武皇に仕え、河東牙将に補され、遼州副使に改まった。荘宗が位を嗣ぐと、振武都指揮使に転じた。天成年中、鎮州節度使王建立が上表して本州馬歩軍都指揮使とし、遥授で舒州刺史・検校司空となり、青州・魏府都指揮使を歴任し、瀛・蔚・忻・代の四州刺史を歴任した。代州を領した時、蕃漢馬歩都部署を兼ねた。漢の高祖が并門に鎮すると、副留守・検校太保に表した。漢国が初めて建つと、河中節度使・西南面招討使・検校太傅を授かった。漢祖が両京を定めると、天平軍節度使に改め、同平章事を加えられた。間もなく陝州に鎮し、検校太師となった。河中の李守貞が叛くと、詔により河中府行営都部署を充てた。時に文珂は既に老いており、朝議は守貞の敵ではないと恐れ、太祖に西征を命じた。河中が平定されると、文珂は西京留守・河南尹を授かった。太祖が践祚すると、兼中書令を加えられ、間もなく太子太師をもって致仕した。世宗が即位すると、晋国公に封じられた。顕徳元年、西京で卒去、七十九歳。一日視朝を輟んだ。
子の廷誨は皇朝(宋)に仕え、諸衛将軍を歴任して卒した。
白延遇
白延遇、字は希望、太原の人である。幼くして晋の公宮に養われ、十三歳の時、晋の高祖に従って蜀を伐ち、趫悍をもって称された。晋が天下を有すると、禁軍を歴典し、累遷して検校司空に至った。天福年中、晋の高祖が鄴に在った時、安重栄が鎮州で叛き、数万の衆を率いて闕下に来た。晋の高祖は杜重威に諸将を統率させてこれを防がせた。時に延遇はその行に預からず、泣いて晋の高祖に告げ、自ら先鋒を願い出て、許された。宗城で陣を布くと、延遇は配下を率いて先にこれを攻め、数十級を斬った。戦い酣になると剣も折れ、諸将はこれにより推伏した。晋の高祖はこれを聞き、直ちに中使に宝剣と良馬を賜わらせた。常山が平定されると、功により検校司徒を授かり、馬軍左廂都校を充てた。後に出て汾州刺史となり、復州防禦使に遷った。国初(周)、検校太保を加えられ、間もなく代を受けて帰闕した。太祖が兗海に親征するに際し、延遇を先鋒都校とし、兗州が平定されると、済州防禦使を授かった。一年余りして兗州防禦使に改めた。兗州に二年在り、為政に聞こえ、人々は甚だ安んじ、州民数百人が闕下に詣で、徳政碑を立ててその美を頌することを乞うた。顕徳二年冬、世宗が宰臣李穀を淮南道軍都部署とし、延遇に先鋒都校を詔した。三年春、配下を率いて韓令坤と先に揚州に入り、軍声甚だ振るい、間もなく別部を盛唐に屯させることを命じ、前後して淮賊万余衆を破った。四年夏、世宗が寿春より還ると、制により延遇を同州節度使としたが、未だ赴任せず、再び衆を率いて南征を命じられた。その年冬、病により濠州城下で卒去した。詔により太尉を贈られた。
唐景思
唐景思は秦州の人である。幼い頃より犬を屠ることを業とし、角觝戯に長じていた。初め偽蜀に仕えて軍校となった。唐の同光年間、荘宗が魏王継岌に命じて師を率いて蜀を伐たせた時、景思は配下の兵を率いて固鎮に戍守しており、真っ先にその城を継岌に降伏させた。そこで興州刺史を授けられ、貝州行軍司馬となった。契丹がその城を攻撃した際に陥り、幕庭に捕らえられた。趙延寿はかねてよりその名を知っており、自らの帳下に隷属させ、所部の壕寨使に任じた。開運の末、契丹が中原を占拠すると、景思を亳州防禦使とした。任に就いた日、ちょうど草賊数万がその城を攻囲したので、景思は全力を尽くしてこれを防いだ。数日後に城は陥落したが、景思は身一つで脱出し、隣郡に告げて援軍数百を得て、その草賊を追い払い、再び城を保有した。亳州の民はこれによって難を逃れたのである。漢の初め、鄧州行軍司馬に改めて任じられたが、常に鬱々として志を得ず、後に交代して帰京した。乾祐年間、景思を沿淮巡検使に任じ、しばしば淮賊を挫いた。当時、史宏肇は刑罰を濫用し財貨を貪り、南北の富商をことごとく罪に陥れて殺し、その財産を奪い、大いに告密の門を開いていた。景思の部下に僕夫がおり、飽くことを知らぬ要求をし、景思が手を尽くして遇しても、その心を満たすことができなかった。ある日、その僕夫は怒って去り、宏肇に会って、景思が淮南から多額の賄賂を受け、ひそかに兵器を貯蔵し、内応しようとしていると告げた。宏肇はすぐに親しい吏と三十騎の兵を派遣して景思を捕らえさせた。告げた者は捕吏に言った。「景思は力が強く、十人分の敵である。会ったらすぐに殺せ。そうでなければ手遅れになる。」捕らえる騎兵が到着すると、景思は出迎えた。捕らえようとする者がいたので、景思は両手でその者を抱きしめ、大声で叫んだ。「冤罪である!景思に何の罪があるのか。もし罪があるというなら、死ぬのも遅くはない。どうして雪冤することを許さないのか。公たちも皆、丈夫ではないか。どうしてこのように忍び耐えられようか!」都將が釈放するよう命じ、告げた者を引き出して景思と対面させ、淮南からの賄賂を受け取ったと証言させた。景思は言った。「私の従者や家族は皆ここにいる。もし十緡でも貯蓄があれば、それは賄賂を受けたことになる。私が甲冑や武器を貯蔵していると言うなら、官から賜ったもの以外に一つでもあれば、それは私的な貯蔵である。」使者がその家を捜索したところ、衣類一箱と軍籍・糧簿があるだけであった。そこで事情を酌み取った。景思は言った。「どうか私を枷をはめて京に送ってください。」これより先、景思には別に紀綱の王知権という者がおり、京にいて景思が誣告されたと聞き、史宏肇に会って言った。「唐景思は赤心をもって国に尽くしております。私は三十年仕えてきましたが、彼は父母には孝行を尽くし、朋友には義理を厚くしております。このような誣告を受け、どうして冤罪を晴らせましょうか。私がまず獄に下りますので、どうか公は景思を追及なさらず、冤罪による横死を免れさせてください。」宏肇はこれを哀れに思い、獄に置き、毎日酒食を与えた。景思が枷をはめられて京へ向かうと、潁・亳の人々が京師まで付き従い、多くの者が彼を保証した。宏肇はそこで告げた者を尋問させると、ことごとく誣告したことを認めたので、すぐに斬り、景思を釈放するよう上奏した。
顕徳初年、河東の劉崇が衆を率いて侵攻してきたので、世宗は自ら六軍を総率してこれを防いだ。高平に陣を布いた時、景思は世宗の馬前で数度跳躍し、かつ言った。「どうか臣に堅固な鎧一揃いを賜り、臣の効用をご覧に入れさせてください。」世宗はこれによってその名を知り、高平の戦いで得た降軍数千人を以て効順指揮とし、景思にこれを統率させて淮上に派遣した。三年の春、世宗が親征して淮甸を征すると、景思は引き続き戦功を立て、そこで遥かに饒州刺史を兼ねさせた。間もなく、濠州行刺史に改めて任じ、衆を率いて濠州を攻囲させた。四年の冬、力戦して賊の鋒先に傷つき、数日後に卒去した。世宗は大いにこれを哀れみ、詔を下して武清軍節度使を追贈した。
【贊】
史臣が言う。古より人臣たる者は、声望が重ければ必ず危うく、功績が高ければ保ち難い。賢者でなければ、誰がこれを免れられようか。ましてや王鄴は明哲の規に暗く、周太祖は雄猜の主である。禍に及ばないようにしようとして、どうして叶えられようか。福進以下は、皆将帥の英傑である。旌旗を擁し節鉞を振るうのは、まことに相応しいことである。ただ彦超のみは、寇を防いで没した。これを忠と言わずして何と言おうか。