舊五代史

周書十六: 列傳五 趙暉 王守恩 孔知濬 王繼弘 馮暉 高允權 折從阮 王饒 孫方諫

趙暉

趙暉は字を重光といい、澶州の人である。弱冠にしてぎょう勇果敢をもって募兵に応じ、初め荘宗の帳前に隷属し、大梁の兵と百余戦を経て、功により馬直軍使に昇進した。同光年間、魏王に従ってしょくを破り、暉に命じて配下部隊を分統させ、南に蛮地の辺境を守備させた。明宗が即位すると、召還されて禁軍指揮使を授けられた。晉が天下を有すると、衛兵を参掌し、馬全節に従って安陸を包囲し、杜重威を補佐して宗城で戦い、いずれも功績があり、奉国指揮使に改めた。開運末、配下の兵を率いて陝に駐屯し、契丹が汴に入るに及び、慨然として憤激の意を抱いた。漢祖がへい門で義兵を挙げたと聞くと、部将の王晏・侯章と力を合わせて謀議を合わせ、契丹が任命した官属を追放し、陝州を占拠して、直ちに騎馬を馳せて漢祖に報告した。(《通鑒》によれば、契丹主は趙暉に詔を賜い、即座に保義留後とした。暉は契丹の使者を斬り、その詔を焼き、支使の河間人趙矩を遣わして表を奉り晉陽に至らせた。)漢祖はそこで暉を保義軍節度使・陝虢等州観察処置等使に任命した。漢祖が東京に行幸する際、路は陝を通り、暉は戎服を着て路傍に朝し、自ら六飛の手綱を取って行宮に至り、君臣の義は旧来のごとく結ばれ、まもなく検校太尉を加えられた。乾祐初、鳳翔に移鎮し、同平章事を加えられた。時に王景崇が叛いて岐山を占拠し、期日になっても交代を受けず、朝廷は直ちに暉を西南面行営都部署とし、兵を統率してこれを討たせた。時に李守貞が蒲で叛き、趙思綰が雍を占拠し、景崇と互いに援け合い、また蜀軍を大散関から出させ、その勢いは止めがたかった。暉は兵数千を率い、数戦して勝利し、その後塹壕を掘って包囲した。暉はたびたび人を遣わして挑戦したが、賊はついに出てこず、そこで密かに千余人を、城南三十里外で、鎧を着け武器を執り、蜀兵の旗幟を偽装させ、南山に沿って下らせ、諸軍に声を挙げて川軍が来たと詐らせた。しばらくして西南に塵が上がり、城中は真実と信じ、数千人を囲みを破って出撃させ、応援と為さんとした。暉は伏兵を設けて待ち受け、一鼓のもとにこれを殲滅した。これより景崇は胆を潰し、再び出撃しようとしなかった。翌年春、これを陥落させ、検校太保・兼侍中を加えられた。國初(後周建国初)、就いて兼中書令を加えられた。三年春、上表して朝覲を請い、詔してこれを許し、入朝して帰徳軍節度使を授けられた。顕徳元年、交代を受けて帰京し、病を理由に老齢を告げ、太子太師を授けられて致仕し、秦国公に進封された。まもなくその邸で卒去した。享年六十七。制を下して尚書令しょうしょれいを追贈した。

王守恩

王守恩は字を保信といい、太原の人である。父の建立は、潞州節度使となり、韓王に封ぜられ、《晉書しんじょ》に伝がある。守恩は門蔭により、幼くして内職に就き、懐州・衛州の刺史を経て、後に諸衛将軍を歴任した。開運末、契丹が中原を陥落させると、守恩は当時休暇を取って潞州に帰っていた。時に潞州節度使張従恩は契丹の勢威を恐れ、戎王(契丹主)に朝貢しようとした。守恩を姻戚とし、甚だ倚信していたため、牒を移して守恩に、暫く巡検使を代行するよう請うた。従恩が去ると、守恩は潞城を以て漢祖に帰順し、なお従恩の家財をことごとく奪い取った。(《通鑒》によれば、従恩は副使の趙行遷に留後を代行させ、牒を以て守恩に巡検使を暫く代行させ、高防にこれを補佐させた。高防は守恩と謀り、指揮使の李万超を遣わし、白昼衆を率いて大いに騒ぎ立てさせ、趙行遷を斬り、守恩を推して昭義留後を代行させた。守恩は契丹の使者を殺し、全鎮を挙げて降伏した。《宋史・李万超伝》によれば、張従恩が城を棄てて契丹に帰らんとした時、前驍衛将軍王守恩が私邸で服喪中であった。従恩は即座に後事を委ねて遁走した。契丹の使者が到着すると、専ら郡務を統領し、守恩は遂に関与できなくなった。万超は奮然としてその部下に言った。「我らは虎口に餌を垂れ、旦夕の命をかろうじて繋いでいる。今、使者を殺して城を守れば、ただ生き延びるのみならず、勲業を立てるにも足る。汝らはできるか。」衆は皆躍り上がって喜び、「命に従わないことがあろうか」と言った。そこで配下を率いて大いに騒ぎ立てて府署に突入し、その使者を殺し、守恩を帥に推し、状を列ねて報告した。漢祖はその請いを容れ、史宏肇に命じて兵を統率させ、先に河を渡って潞州に至らせた。宏肇は万超に会い、語って言った。「この州を回復したのは、公の力である。吾は守恩を殺し、公を帥としたい。よろしいか。」万超は答えて言った。「契丹の使者を殺して守恩を推したのは、社稷のためを計ったからである。今もし人を害して利を自ら取るならば、元来の心ではない。」宏肇は大いにこれを奇とした。)漢祖は即座に守恩を昭義軍節度使とした。漢が天下を有すると、邠寧に移鎮し、同平章事を加えられた。乾祐初、永興軍節度使に転じた。時に趙思綰が既に長安ちょうあんを占拠していたため、西京留守に改めて授けられた。

守恩の性質は貪欲で卑しく、群小を委任し、搾取収奪を務めとし、病み廃れ身体の不自由な者であってもその税率を免れず、人々は甚だこれを苦しめた。洛都に嘗て豪士がおり、二姓の会合を催した。守恩はそこで伶人数人と共に夜に訪れ、自ら賀客となり、白金数笏を獲て退いた。太祖(郭威)が河中から帰還し、洛陽らくように駐軍した時、詔を以て白文珂を代わりとし、守恩は甚だ恐れた。洛人でかつて守恩に理不尽に収奪された者は皆、その邸に赴いて旧来の物を徴収し、守恩は一々これを弁償した。京に赴くと、ただ奉朝請に留まるのみであった。乾祐末、史宏肇らを誅殺した後、漢の少帝は群臣を召して殿上でこれを諭した。時に守恩は班を越えて声高に言った。「陛下は今日ようやく目が覚められましたな。」その発言はこのように卑俗であった。

國初(後周建国初)、左衛上将軍を授けられた。顕徳初、右金吾衛上将軍に改められ、許国公に封ぜられた。二年冬、病を舁いで洛陽に帰り卒去した。(《五代史補》によれば、周の高祖こうそ(郭威)が枢密使であった時、鳳翔・永興・河中の三鎮が反逆し、高祖は職を帯びて出討し、帰途洛陽の路を通った。時に王守恩は留守であり、使相として自ら専権を振るい、檐子(輿)に乗って郊外で高祖を迎えた。高祖は遥かに見て大いに怒り、疾駆して公館に入った。久しくして、始めて人を遣わして伝旨し、ちょうど沐浴中であると託けた。守恩はその怒りを知らず、ただ安坐して久しく待った。時に白文珂が高祖の麾下におり、高祖は召して言った。「王守恩が檐子に乗って吾を待つとは、誠に無礼である。どうして久しく留守たりえようか。汝は急ぎ行って代われ。」文珂は違えず、そこで即座に礼上した。しばらくして、吏が馳せて守恩に報せた。「白侍中が枢密の命を受け、留守を為し終わりました。」守恩は大いに驚き、馬を奔らせて帰ったが、ただ家族数百口が皆、大通りに追い出されているのを見るのみで、百姓は集まって見物しない者はいなかった。また便乗して叫び、貸付金や物品を請求する者もいた。高祖は吏にその数を記録させ、直ちに弁償を命じたため、家財は一空となった。朝廷は悚然とし、あまり取り立てなかった。)

孔知濬

孔知濬は、字を秀川といい、徐州滕県の人である。太子太師を致仕した孔之の甥にあたる。父の延緘は、左武衛大將軍を致仕し、九十余歳で卒した。知濬は梁に仕えて天興軍使となった。同光の末、昭義を鎮守した時、荘宗は唐朝の故事を用いて、宦官を監軍としていたが、皆恩寵を恃んで暴横であり、節度使はこれを制することができなかった。明宗の鄴城ぎょうじょうの変の際、諸鎮は多く監軍を殺害した。時に潞州を監していた者は誅殺を恐れ、鎮兵を誘って謀叛を企てようとしたので、知濬は甲兵を室に伏せ、夜明け前に監軍が謁見に来たところを捕らえて殺し、軍城は遂に寧かになった。明宗はこれを嘉し、鎮守を罷めて後、知濬を澤州刺史とし、入朝して左驍衛大將軍となった。長興、清泰年間に、唐、復、成の三州刺史を歴任した。晉の高祖が即位すると、奉國右廂都指揮使に用いられ、舒州刺史を兼ね、鄴における範延光征討に従い、宿州團練使に遷り、間もなく隴州防禦使に改めた。開運年間に、鳳州刺史に転じ、累官して檢校太傅に至った。河池は関防の要地にあり、邛、蜀に密接し、兵は少なく勢いは孤であったが、知濬は士卒を撫でるに適宜を得て、人皆力を尽くしたので、西疆に牧圉の失がなかった。契丹主が称制すると、滑州節度使に任じた。漢の高祖が天命を受けると、鎮より入朝した。隱帝が位を嗣ぐと、密州防禦使を授けられ、一年余りして、病のため代わられて帰朝した。廣順三年冬、京師にて卒した。

王繼宏

王繼宏は、冀州南宮の人である。若い頃嘗て盗賊となり、里を攻め掠め、吏に捕らえられ、鎮州の獄に械繫されたが、赦令に会って死を免れ、本軍に配隷された。時に明宗が鎮守しており、その麾下に致した。晉の高祖が明宗の将であった時、帳中小校に任じた。天福年間に、六宅副使となった。性、気負い強く不遜で、禁中において同列と忿争し、出されて義州軍に配された。一年余りして、奉國指揮使となり、契丹主に従って相州に至り、遂に本軍を以て戍守せしめられた。契丹主は高唐英を留めて相州節度使とした。唐英は繼宏を厚く遇し、毎度その第宅を訪れると、堂に昇って繼宏の母を拝し、贈遺甚だ厚く、親戚の如く倚り、また兵仗を与え、少しも猜忌しなかった。契丹主が死ぬと、漢の高祖が洛陽に急行し、唐英は使者を遣わして帰順を申し出た。漢祖は大いに喜び、唐英を厚く遇そうとした。使者が戻らぬ内に、繼宏は指揮使樊暉らと共に唐英を殺し、繼宏は自ら留後を称し、判官張易に命じて漢祖に上表させた。或る人は利を見て義を忘れたと責めたが、繼宏は言う、「我らは小人である。利に因り便に乗じて、富貴を求めねば、一生涯、志を得ることはできぬであろう」と。漢祖が杜重威を征して德清軍に至った時、繼宏は来朝し、乃ち正式に節旄を授けられた。この年、就いて檢校太傅を加えられた。節度判官張易は、繼宏の不法を見る毎に必ず切にこれを諫言したので、繼宏は己を軽んじたと思った。乾祐年間に、事に因って誣奏してこれを殺し、間もなくまた觀察推官張制を害した。漢の末、貝州に移鎮し、就いて檢校太尉を加えられた。廣順初年、同平章事を加えられた。三年六月、河陽に移鎮し、永壽節の入覲に会し、病を得て京師にて卒した。詔して侍中を追贈された。

子の永昌は、皇朝に仕え、内諸司使を歴任した。

馮暉

馮暉は、魏州の人である。初め效節軍の兵士となり、拳勇にして騎射に優れ、行伍これを憚れた。初め楊師厚に事えて隊長となった。唐の荘宗が魏に入ると、銀槍效節を親軍とし、梁軍と河上で対峙したが、暉は犒給稍々薄きを以て、南軍に竄入し、梁の将王彥章がこれを麾下に置いた。荘宗が河南を平定すると、暉は首謀の罪にあったが赦された。明宗に従って潞州を征し、楊立を誅する功があった。また魏王繼岌に従って蜀を伐ち、蜀平定後、夔州刺史を授けられた。時に荊州の高季興が叛き、兵を以てその城を攻めたので、暉はこれを防ぎ、屡々荊軍を破った。長興年間に、興州刺史となり、乾渠を治所とした。両川が叛くと、蜀人が来侵し、暉は衆寡敵せず、鳳翔に奔帰した。朝廷はその失守を怒り、詔して同州の衙職に安置した。間もなく、晉の高祖に従って蜀を討ち、蜀人が劍門を守ったので、部下の兵を率いて険阻を逾越し、他の道より出でて劍門の左より掩撃し、守兵を殆ど殲滅した。晉祖の班師に会し、朝廷は暉を澶州刺史とした。晉の天福初年、範延光が鄴に拠って叛くと、暉を馬步都將とし、孫銳を監軍として、六明鎮より黄河を渡り、滑臺を襲わんとしたが、間もなく官軍に敗れ、暉は鄴に退帰し、延光のために城守した。明年の秋、暉は出戦に因って降り、滑州節度使、檢校太傅を授けられた。鄴平定後、靈武に移鎮した。初め、張希崇が靈州を鎮守し、久しく蕃地に在ったので、頗る辺事に究め、数年之間、侵盗共に止んだ。希崇が卒すると、主帥が無く、蕃部が寇鈔し、再び畏憚することが無かった。朝廷は暉の強暴なる名が遐僥に聞こえているので、故にこれを命じた。暉が鎮に到ると、大いに宴席を張り、酒殽豊かに備え、郡夷は酔いを告げ、争って献賀を陳べたので、暉は皆錦彩を以てこれに酬い、蕃情大いに悦んだ。党項の拓拔彥昭は、州界の部族の大なる者であるが、暉の到着を来謁し、厚く待遇を加え、仍って邸宅を造り、その服玩を豊かにし、因ってこれを留めて部に帰らせなかった。河西の羊馬は、これにより交易が容易となった。暉は一年にして馬五千匹を得、而して蕃部は帰心し、朝議これを患えた。

晉の開運初年、桑維翰が政を輔け、大挙を図って北方を制せんとし、将佐十五人を命じたが、皆列藩の帥であった。惟だ暉のみその数に預からず、乃ち上章して自ら陳べ、且つ未だ老いず用いられるべきことを言い、而して制書に見遺された。詔を報じて云う、「制書忽忘に非ず、実に朔方の重地、蕃部の辺を窺うに、卿の雄名に非ずして、何を以てか弾圧せん!比に卿を内地に移さんと欲すれども、代を受くるにも亦た奇才を須う」と。暉は詔を得て甚だ喜び、又情を達して邠州への移鎮を乞うたので、即ち節鉞を以てこれを授けた。行くこと邠に未だ及ばず、又陜州に除され、暉は馬千匹、駱駝五百頭を献じた。陜に在ること未だ幾ばくもなく、侍衛歩軍都指揮使に除され、兼ねて河陽を領し、即ち王令溫を靈武節度使とした。暉は既に禁兵を典し、兼ねて近鎮を領し、朝廷に縻留せられ、頗る靈武を離れたことを悔いた。馮玉、李彥韜が権力を用いるに及んで、暉は善くこれに奉じ、間もなく、復た暉を朔方節度使とし、檢校太師を加えた。漢の高祖が革命すると、就いて同平章事を加えた。隱帝が位を嗣ぐと、兼侍中を加えた。國初、中書令を加えられ、陳留王に封ぜられた。廣順三年夏、病にて卒し、年六十。衛王を追贈された。

子の繼業は、朔方衙內都虞候であった。暉が亡くなると、三軍が軍府事を知ることを請うたので、因って檢校太保を授け、朔方兵馬留後を充てた。皇朝の乾德年間に、内地に移され、今は同州節度使である。

高允權

高允権は延州の人である。祖父の懐遷は本郡の牙将であった。懐遷は二人の子を生み、長男を万興、次男を万金といい、梁・唐の間に延州節度使となり、鎮所で卒した。允権は即ち万金の子である。将門の出ではあるが武芸に熟達せず、義川主簿として起家し、膚施県令を歴任し、任期を終えて延州の邸に帰った。晋の開運末年に周密が延帥となると、延州には東西二城があり、その間は深い澗で隔てられていた。契丹が汴に入ると、ある日、州兵が乱を起こし、密を攻撃したが、密は東城を固守した。乱兵は既に帥がおらず、また敢えて帥となろうとする者もいなかったが、或る者が言うには、「高家の西宅の郎君を取って帥とすればよい」と。その夜まだ明けぬうち、允権が寝ていると、乱軍が戸を押し開け、留後事を知ることを請うた。そこで西城に居を構え、密と数日間相対峙した。河東が供奉官陳光穂を遣わして河西を宣撫すると、允権は支使李彬を遣わして表を奉じて太原に至らせ、周密は東城を棄てて去った。漢祖は使者を遣わして允権に就いて加えて検校太傅とし、なお正しく旄鉞を授けた。漢祖が汴に入ると、允権はたびたび貢奉を修めた。隠帝が即位すると、検校太尉・同平章事を加えられた。允権は夏州の李彜興と不和であり、その年李守貞が河中に拠って叛くと、密かに彜興を構えて援けとし、朝廷が夏州に用兵し、軍が延州に迫ると、允権は上章して論列し、彜興もまた紛然として自ら訴えたため、朝廷は詔を賜ってこれを和解させた。太子太師致仕の劉景巖は、允権の妻の祖父であり、州の別墅に退いて老いていた。景巖はかつて高氏に事えて牙校となり、また延帥を務めたこともあり、甚だ民心を得ていた。景巖は允権を婚家の後輩とみて、心軽んじていた。允権は常にその強さを忌み、この年の冬、景巖の一家をことごとく殺し、その家財を万を数えるほど収め、謀叛を図ったと奏聞し、朝廷は弁別することができなかった。関西の賊が平定されると、方面の例として恩命を広く施し、就いて允権に検校太師を加えた。

太祖が即位すると、兼侍中を加えられた。広順三年の春に卒去したが、その子の紹基は長く喪を匿し、また勝手に軍政を主宰し、承襲を邀えようとした。観察判官の李彬はこれを不可とし、朝廷の旨を聴くべきであるとした。紹基は群小らと共にその異議を憎み、李彬を殺害し、偽って奏上して云うには、「李彬は内外を結構し、都指揮使及び行軍副使を謀殺し、自ら城池を拠らんとし、既に誅戮を終え、その妻子及び諸房の骨肉は、尋いで捕らえ繫ぐことを命じた」と。太祖はこれを聞き、詔して併せてこれを釈放し、なおことごとく汝州に送って安置するよう命じた。後に朝廷は六宅使張仁謙を遣わして往き巡検させると、紹基はようやく喪を発して奏聞した。視朝を二日間停止した。

折従阮

折従阮は、字は可久、本名は従遠であったが、漢高祖の旧名の下一字を避けて、故に改めた。代々雲中に家を構える。父の嗣倫は麟州刺史となり、累贈して太子太師となった。従阮は性質温厚で、弱冠にして父の喪に服し、孝行をもって知られた。唐の荘宗が初めて河朔の地を有すると、代北の諸部がたびたび辺境の患いとなったため、従阮を河東牙将として起用し、府州副使を領せしめた。同光年中、府州刺史を授けられた。長興初年、入朝し、明宗は従阮が辺事に通暁しているとして、検校工部尚書を加え、再び府州刺史を授けた。晋の高祖が義兵を起こすと、契丹に援立の恩があったため、雲中・河西の地を賂として与え、従阮はこれにより郡を以て北に属することとなった。やがて契丹は河西の民をことごとく移して遼東を実らせようとし、人心は大いに擾乱したため、従阮は険要を保ってこれを拒んだ。晋の少帝が嗣位すると、北との辺境の友好を絶ち、使者を遣わして詔を携え従阮に出師を命じた。明年の春、従阮は兵を率いて深く辺界に入り、連続して十余の寨を抜いた。開運初年、検校太保を加えられ、本州団練使に遷った。その年、朔州刺史・安北都護・振武軍節度使・契丹西南面行営馬歩都虞候を兼ねて領した。漢祖が晋陽に建号し、兵を率いて南下すると、従阮は衆を率いてこれに帰した。まもなく府州を永安軍に昇格させ、振武の勝州及び沿河の五鎮を分けてこれに隷属させた。従阮に光禄大夫・検校太尉・永安軍節度・府勝等州観察処置等使を授け、なお功臣の名号を賜った。乾祐元年、特進・検校太師を加えられた。明年の春、従阮は挙族して入覲し、朝廷はその子の徳扆を府州団練使とし、従阮に武勝節度使を授けた。太祖が天命を受けると、同平章事を加えられ、まもなく滑州に移鎮し、また陝州に改めた。二年の冬、静難軍節度使を授けられた。世宗が即位すると、就いて兼侍中を加えられ、年老いを以て上章して代わりを請うたところ、優詔を以てこれを許された。顕徳二年の冬、闕に赴く途中、西京に至り、病を得て卒去した。時に六十四歳。制を以て中書令を追贈された。

王饒

王饒は、字は受益、慶州華池の人である。父の柔は、饒の貴いことにより、累贈して太尉となった。饒は沈毅にして才幹あり、初め晋の高祖に事えた。天福初年、控鶴軍使を授けられ、やがて奉国軍校に遷り、累加して検校尚書左僕射となった。六年、杜重威に従って常山を平定し、功により検校司空しくうを加えられ、本軍都校に遷り、鄆州刺史を領した。時に安従進が襄陽で叛くと、晋祖は高行周に命じて兵を率いてこれを討たせ、饒を行営歩軍都指揮使とし、賊が平定されると、深州刺史を授けられた。一年余りして、再び入朝して奉国都校となり、検校司徒しとを加えられ、欽州刺史を領した。まもなく、本軍右廂都指揮使に改め、閬州団練使を領した。晋の末、契丹が中原を占拠すると、漢祖が晋陽に義兵を建て、まもなく諸夏を克復したが、ただ常山郡のみが契丹に占拠されていた。時に饒はその郡におり、李筠・白再栄の輩と共に隙を承けて密かに発し、その党をことごとく逐い払った。漢祖はこれを嘉し、鄜州観察留後を授け、光禄大夫を加え、開国侯の爵を賜い、さらに鎮国軍節度使に移し授け、検校太傅を加えた。国初、就いて同平章事を加えられ、推誠奉義翊戴功臣を賜った。顕徳初年、郊丘の礼が終わり、検校太尉を加えられ、貝州に移鎮した。世宗が嗣位すると、兼侍中を加えられ、彰徳軍節度使に改めた。満歳して代わられ、入朝して朝請を奉じた。顕徳四年の冬、病により東京の私第で卒去した。五十九歳。追封して巣国公とされた。饒は性質寛厚で、体貌は詳雅であり、莅んだ藩鎮では、民は皆その治めを便利とした。賓佐を接するごとに、必ず声を和らげ気を緩め、恭順としており、故に士君子もまたこれを以て多く称えた。

孫方諫

孫方諫は、鄚州清苑県の人である。本名は方簡といったが、広順初年に廟諱に触れるため、改めたのである。定州の西北二百里に狼山があり、山上に堡があり、辺境の民はこれに頼って掠奪の患いを避け、その中に仏舎を置いた。深意という尼がおり、俗姓は孫氏、その事を主宰し、香火の教えをもってその徒を集め、屍は朽ちないと声言し、衣襟を重ねてこれを覆い、瞻礼信奉すること、生きているのと同様であった。方諫はその宗人であり、その教えを嗣いで行い、衆を率いて葷茹を食わず、その党は彼を推して寨主とした。晋の開運初年、定州の帥が表して辺界遊奕使とした。

その弟の行友が引き続き定州節度使となった。皇朝の乾徳年中、その妖妄が衆を惑わすとして、詔して狼山の仏寺を毀ち、その尼の朽骨を京に遷し、北郊で焼かせ、行友を諸衛大将軍とし、ここに祅徒は遂に息んだ。

史臣が曰く、昔、晋の末世、敵騎長駆し、中原に主なく、漢祖は溺れるを拯わんと思えども、未だ図南を果たさず。趙暉はまず陝郊に変を起こし、ともに義挙を扶け、漢の興るや、暉力あり、命じて藩と作らしむ、これ愧じることなし。守恩は時に乗じて効順す、観るべきありといえども、利を好み民を残す、何ぞ貴ぶに足らんや。允権・方諫は、版蕩の世に乗じ、屏翰の権を窃む、雲台の功臣を画くに比べれば、何ぞ相去ること遠きや。