舊五代史

周書十四: 列傳三 高行周 安審琦 安審暉 安審信 李從敏 鄭仁誨 張彥成 安叔千 宋彥筠

高行周

高行周、字は尚質、幽州の人である。媯州懷戎軍の雕窠裏に生まれた。曾祖父の順厲は代々懷戎を戍った。父の思繼は、兄弟三人ともに雄豪で武幹があり、その名声は朔方に馳せた。唐の武皇が幽州を平定したとき、劉仁恭を帥として表し、なお兵を留めてこれを戍らせた。思繼の兄を先鋒都將・媯州刺史とし、思繼を中軍都將・順州刺史とし、思繼の弟を後軍都將とし、兄弟で燕の兵を分掌させた。部下の士伍は皆、山北の豪族であり、仁恭は彼らを深く畏れた。武皇が帰還しようとする際、密かに仁恭に言った。「高先鋒兄弟は、その勢い州府を傾ける。燕の患いとなる者は、必ずこの一族であろう。よくこれを籌らんことを。」久しうして、太原の戍軍が恣りに横暴となり、思繼兄弟が法をもってこれを制したところ、殺すところ多かった。太祖(李克用)は怒り、仁恭を詬り譴責した。仁恭は高氏兄弟のことを訴え出て、遂に共に害に遇った。仁恭はこれにより先鋒の子の行珪を牙將とし、諸子を並べて帳下に列ね、厚く撫でてその心を慰めた。時に行周は十余歳で、これも職を補され、仁恭の左右にあった。行珪については別に傳があり、『唐書』にある。

莊宗が燕を収めたとき、行周を明宗の帳下に隷属させ、常に唐の末帝と分かって牙兵を率いた。明宗が燕を征したとき、その配下を率いて擁従した。同郷の趙德鈞が明宗に言うには、「行周の心は甚だ謹厚であり、必ず貴位を享けましょう。」梁の將劉鄩が莘を占拠したとき、太原軍と対塁し、旦夕に転闘した。嘗て一日、両軍が陣を成したとき、元行欽が敵軍に追い躡られ、劍がその面を中て、血戦して未だ解けなかった。行周は麾下の精騎を以て陣を突いてこれを解き、行欽は免れることを得た。莊宗は行欽を寵していた折から、行周を召して撫で諭し賞労し、これを帳下に置かんとしたが、また、明宗の帳下から既に行欽を奪い、更に行周を取れば、その意を傷つけんことを思い、密かに人をして利禄を以てこれを誘わしめた。行周は辭して言うには、「総管(明宗)が人を用いることも、国のためであります。総管に事えることは、猶お王に事えるがごときです。我が家の兄弟は、難を脱して再生し、総管の厚恩を承けています。どうしてこれを背くことができましょうか。」両軍が河上に屯したとき、梁軍が汴より楊村寨に入ることを覘知し、明宗は朝に斗門に至り、伏兵を設けてこれを邀えんとしたが、衆寡敵せず、反ってその乗ずるところとなった。時に矛槊叢萃し、勢い甚だ危蹙であった。行周はこれを聞き、騎兵を出して横より梁軍を撃ち、遂に解き去ることを得た。明宗が鄆州を襲ったとき、行周は前鋒となった。夜分に澍雨に会い、人に進む志がなかったが、行周は言うには、「これは天の贊けるところである。彼らは必ず備えなからん。」この夜、河を涉って東城に入り、曙に比べてこれを平定した。莊宗が河南を平定し、累次加えて檢校太保とし、端州刺史を領せしめた。同光の末、出て絳州を守った。明宗が即位すると、特に深く委遇された。天成の中、王晏球に從って定州を圍み、王都を敗り、禿諾を擒らえ、皆功があった。賊が平らぎ、潁州團練使に遷った。長興の初め、北辺が戎王に隣するをもって、振武節度使に用いられた。明年、河西に軍を用いるにより、鎮を延安に移した。清泰の初め、潞州節度使に改めた。晉祖が太原に義を建てると、唐の末帝は張敬達に命じてこれを征し、行周と符彥卿は左右排陣使となった。契丹主が太原に入援したとき、行周・彥卿は騎兵を引いてこれを拒いだが、尋いで契丹に敗られ、遂に敬達と共に晉安寨を保ち、累月救軍至らなかった。楊光遠が敬達を図らんとしたが、行周はこれを知り、壯士を引いてこれを護った。敬達の性は戇であり、その営護するを知らず、人に謂って言うには、「行周は毎度我が後を踵く。その意は何ぞや。」これにより敢えて然ることをせず、敬達は遂に光遠に害された。

晉祖が洛に入り、行周に藩に還ることを命じ、同平章事を加えた。晉祖が汴に都し、行周を西京留守としたが、未だ幾ばくもせず、鄴都に移した。晉祖が鄴に幸したとき、會して安從進が叛き、行周を襄州行營都部署と命じた。明年の秋、漢南を平定した。晉の少帝が位を嗣ぐと、兼侍中を加え、鎮を睢陽に移した。開運の初め、澶淵に從幸し、敵を河上に拒いだ。車駕が京に還り、景延廣に代わって侍衛親軍都指揮使とし、鄆州節度使に移した。時に李彥韜が侍衛都虞候であり、可否は己に在った。行周は禁兵を典んじながらも、心は事外に遊び、退朝して第に帰れば、門宇翛然として、賓友の過從するも、ただ杯を引いて滿たすのみであった。尋いで歸德軍節度使に改め、李守貞に代わって兵柄を掌らせ、行周の藩に帰ることを許した。晉軍が中渡に降ったとき、少帝は行周と符彥卿に命じて共に澶州を守らせた。契丹が汴に入り、京師に赴くことを召したが、會して草寇が宋州を急攻したので、行周を帰鎮させた。(《宋史・高懷德傳》に曰く、杜重威が契丹に降り、京東諸州に群盜大いに起こり、懷德は堅壁清野し、敵入る能わず、行周兵を率いて帰鎮し、敵遂に解き去る。)契丹主が欒城に死すると、契丹の將蕭翰は許王李從益を立てて南朝の軍國事を知らしめ、死士を遣わして行周を召したが、疾を以て辭し、退いて人に謂って言うには、「衰世は輔け難し。況んや児戯をや。」

漢の高祖こうそが汴に入り、守太傅・兼中書令を加え、李守貞に代わって天平節度使とした。杜重威が鄴に拠って叛くと、漢祖は行周を招討使とし、兵を総べてこれを討たせた。鄴が平らぎ、鄴都留守を授け、守太尉を加え、臨清王に爵を進めた。乾祐の中、入覲し、守太師を加え、鄴王に進封し、復た天平の節鉞を授け、齊王に改封した。太祖(郭威)が踐祚すると、守尚書令しょうしょれいを加え、食邑を一萬七千戸に増した。太祖は行周が耆年の宿將であるをもって、詔を賜うに名を呼ばず、ただ王位を呼ぶのみであった。慕容彥超が兗に拠って叛くと、太祖は親征し、輿駕を奉迎し、家を傾けて贄を載せ、觴を奉り俎を進め、身を以て先んじ、太祖はこれを待つこと逾ます厚かった。廣順二年の秋、疾を以て位に薨じ、享年六十八。赗賻は等を加え、冊贈して尚書令とし、秦王を追封し、謚して武懿と曰う。

子の懷德は、皇朝の駙馬都尉・宋州節度使である。

安審琦

安審琦、字は國瑞、その先祖は沙陀部の人である。祖父の山盛は朔州牢城都校、太傅を追贈された。父の金全は安北都護・振武軍節度使、累贈して太師となり、『唐書』に伝がある。審琦は性質ぎょう果にして騎射に長け、幼くして良家の子として莊宗に仕え義直軍使となり、本軍指揮使に遷った。天成の初め、唐末帝が潞邸より出て河中を鎮守するに当たり、審琦を牙兵都校に奏請し、間もなく帰化指揮使として入朝した。王師がしょくを伐つに当たり、行営馬軍都指揮使を充て、凱旋すると龍武右廂都校に改め、富州刺史を兼ねた。清泰の初め、捧聖指揮使となり、順化軍節度使を兼ねた。その年邢州を鎮守し、北面行営排軍陣使を兼ね、張敬達に従って太原を包囲した。楊光遠が晉安寨を挙げて晉祖に降ると、審琦もこれに加わった。晉祖が践祚すると、検校太傅・同平章事を加え、天平軍節度使兼侍衛馬歩軍都指揮使を充て、間もなく母喪により起復した。天福三年、就いて検校太尉を加え、まもなく晉昌軍節度使・京兆尹に改めた。七年、鎮を河中に移した。晉少帝が嗣位すると、検校太師を加えた。開運の末、朝廷は北戎の侵入により、審琦を北面行営馬軍左右廂都指揮使とし、諸将とともに兵を洺州に会した。間もなく敵騎が大挙して至り、時に皇甫遇・慕容彥超もその行に加わっており、乃ち配下の兵を率いて敵と安陽河上で戦った。時に遇の馬が流れ矢に当たり、勢い既に危うく、諸将は顔を見合わせて、敢えて救おうとする者はいなかった。審琦は首将の張従恩に言うには、「皇甫遇らが未だ至らぬのは、必ずや敵騎に囲まれたのであろう。急ぎ救わねば、捕らえられてしまう。」従恩曰く、「敵の勢い甚だ盛んで、支える術なし。将軍独り往くも何の益かあろう。」審琦曰く、「成敗は命なり。もし成らねば、彼らとともに死すべし。仮にこの二将を失えば、何の面目あって天子に拝謁できようか。」遂に鉄騎を率いて北に渡った。敵は塵の立ち上がるのを見て、救兵が来たと思い、乃ち引き去った。こうして遇と彥超を救い帰還した。晉少帝はこれを嘉し、兼侍中を加え、許州を領するよう移し、間もなく鎮を兗海に移した。

漢が天下を有すると、襄州節度使・兼中書令を授かった。時に荊人が命に叛き、密かに舟師数千を遣わして襄・郢を屠ったが、審琦はこれを防ぎ退けた。朝廷は功を賞し、就いて守太保を加え、齊國公に進封した。歳余りして、また守太傅を加えた。國初、南陽王に封ぜられた。顕徳の初め、陳王に進封した。世宗が嗣位すると、守太尉を加えた。三年、上表して朝覲を請い、優詔をもってこれを許し、守太師を加え、食邑を一万五百戸に増し、食実封二千三百戸とした。審琦が襄・沔を鎮守すること僅かに一紀、厳にして残虐ならず、威あって暴ならず、故に南邦の民はその恵みを深く懐いた。五年、平盧軍節度使に移り、詔を承って鎮に赴くに当たり、京師に朝した。世宗は國の元老として礼遇甚だ厚く、車駕自らその第に幸して寵遇した。六年正月七日夜、その隷人安友進・安萬合に害せられ、時に年六十三。初め、友進は審琦の愛妾と私通し、数年を経ていた。その妾は常に事が漏れて誅されることを慮り、友進と謀って審琦を害しようとしたが、友進は甚だ難色を示した。その妾曰く、「爾もし従わねば、我は反って告げよう。」友進は乃ちこれを承諾した。この夕べ、審琦は深く酔い、帳中に寝ていた。その妾は乃ち審琦の枕にしていた剣を取って友進に与え、友進はなお惶駭して刃を刺すことを敢えず、急ぎその党の安萬合を呼び、便ち審琦を殺した。既にして事の漏れることを慮り、乃ちその帳下の妓数人を引き連れ、皆殺してその跡を滅ぼした。数日も経たぬうちに、友進らは竟に敗れ、悉く子の守忠によって臠に切り刻まれて誅された。世宗はこれを聞いて震悼し、視朝を三日間止め、詔して尚書令を贈り、齊王を追封した。

守忠は皇朝に仕え、累ねて郡守となった。

安審暉

安審暉、字は明遠、審琦の兄である。長直軍使より起家し、外衙左廂軍使に転じた。莊宗に従って幽・薊を平らげ、山東に戦い、河南を定めるに、皆その功に預かった。同光中、蔚州刺史を授かった。天成の初め、汝州防禦副使に改め、鳳翔徐州節度副使・河東行軍司馬を歴任した。晉高祖が龍飛すると、府の上僚として振武兵馬留後を授かり、河陽節度使に遷った。一月を経ずして鎮を鄜州に移し、母喪に服したが起復して視事した。五年、李金全が安州に拠って叛くと、詔して馬全節を都部署とし、兵を領してこれを討たせ、審暉を副とした。安睦が平らぎ、鎮を鄧州に移し、位を進めて検校太傅とした。六年冬、襄州の安従進が叛き、漢南の衆を挙げて北に攻め南陽を襲った。南陽は元より城壁なく、ただ衙城を守るのみであった。賊が城下に迫ると、審暉は城壁に登り、賊の帥を呼んでこれを責めた。従進は攻め落とせずして退いた。襄州が平らぐと、就いて検校太尉を加えた。少帝が嗣位すると、検校太師を加え、鎮を罷め、右羽林統軍を授かった。歳余りして、上党に出鎮し、時に契丹が内侵したため、邢州節度使を授かった。居ること暫くして、目疾が突然起こり、上表して代わりを求め、京師に帰り、数年にわたり病を養った。太祖が即位すると、内殿に召し出し、従容として顧問し、特に嘆重された。禄をもって起用せんとしたが、審暉は暮齢を理由に辞し、頤養に就くことを願った。太子太師を以て致仕させ、魯國公に封じ、累ねて食邑五千戸、実封四百戸とした。広順二年春に卒し、年六十三。朝を二日間廃し、詔して侍中を贈り、謚して靜といった。

子の守鏻は、皇朝に仕えて賛善大夫となった。

安審信

安審信、字は行光、審琦の従父兄である。父の金祐は、代々沙陀部の偏裨として、名を辺塞に聞こえた。審信は騎射を習った。従父の金全は天成の初め、振武節度使となり、審信を牙将に補した。間もなく兄の審通が滄州節度使となり、これを用いて衙内都虞候とし、同・陜・許三州馬歩軍都指揮使を歴任させた。晉祖が太原にて義兵を起こすと、唐末帝は張敬達に命じて兵をもってこれを攻めさせたが、審信は率先して部下の兵を率いてへい州に遁れ入った。晉祖はその故人として、これを得て甚だ悦んだ。その妻と二子は京師にあり、皆唐末帝に誅殺され、ただその老母のみが赦された。契丹が既に晉安寨を降すと、晉高祖は審信を汾州刺史・検校太保とし、馬歩軍副部署を充てた。晉祖が洛に入ると、河中節度使・検校太尉・同平章事を授けた。審信の性質は翻覆し、多く疑忌を抱き、蒲中に在った時、王人の告諭するごとに、騎従が稍々多ければ必ず密かに設備し、己を図るのを防いだ。間もなく許・兗州の鎮を歴任し、至る所で聚斂を務めとし、民はこれを甚だ苦しんだ。時に朝廷が大挙して北伐を謀り、凡そ藩侯は皆将帥に預かることとなり、審信を馬歩軍右廂都排陣使とし、間もなく華州節度使に改めた。漢の初め、鎮を同州に移し、入朝して左衛上将軍となった。國初、右金吾上将軍に転じた。三年夏四月、太祖が乾元殿に御して入閣したが、審信は班位に赴かず、御史に弾劾された。詔してこれを釈した。時に審信は久しく病み、神情恍惚としており、臺司が奏劾したと聞き、声を揚げて言うには、「趨朝が偶々遅れただけで、大過ではない。何ぞ弾挙を用いんや。我は終に二万緡を進奉し、この乞索児輩を悉く逐い出してやる。」間もなく病を理由に退任を請い、太子太師を以て致仕させられた。この年秋に卒し、年六十。侍中を贈り、謚して成穆といった。

李従敏

李従敏は、字を叔達といい、唐の明宗の猶子(甥)である。沈着で物静かであり、騎射に優れ、計略に長けていた。初め、荘宗が召し出して弓馬を試させ、衙内馬軍指揮使に任じ、汴・洛の平定に従い、帳前都指揮使に補され、捧聖都將に遷った。明宗が真定に移鎮した際、表して成徳軍馬歩軍都指揮使とした。明宗に従って洛陽らくように入り、皇城使に補され、出て陝府節度使となった。王都が定州に拠って叛くと、王晏球を招討使とし、軍を率いてこれを討たせ、従敏を副使とし、滄州節度使を領させた。王都が平定されると、移って定州を授けられた。まもなく範延光に代わって成徳軍節度使となり、検校太尉を加えられ、涇王に封ぜられた。鎮州に市人劉方遇という者がおり、家は財産に富んでいた。方遇が死に、子がなかった。妻の弟の田令遵という者は、幼い頃から方遇のために財産を管理し、殖産に巧みであったため、劉一族は共に令遵を方遇の子として推し、親族一同で券書を立て、誓いの証とした。数年後、方遇の二人の娘が令遵から資産を取るのに思い通りにならず、遂に令遵が姓を冒し、父の家財を奪ったと訴えた。従敏は判官の陸浣に命じてその獄を審理させ、令遵を殺させた。

令遵の父が臺に訴えて冤罪を訴えたため、詔して本州の節度副使符蒙・掌書記徐臺符にこれを審理させ、奸状を明らかにした。二人の娘を詰問すると、節度使趙環・代判高知柔・観察判官陸浣に賄賂を行ったことを自白し、共に捕らえて獄に下し、贓罪をことごとく認めた。事が従敏に連座し、従敏は大いに恐れ、その妻を洛陽に赴かせ、宮中に入って王淑妃に訴えさせた。明宗はこれを知り、怒って言った、「朕が従敏を節度使に用いたのに、法を曲げて人を殺すとは。朕は百官に顔向けができぬ。また新婦(従敏の妻)を奔走させて、朕の顔を見る必要もない。」時に王淑妃が大いにこれを庇護したため、趙環ら三人は遂に棄市となったが、従敏らは罰俸のみで済んだ。

長興の初め、移鎮して宋州に鎮した。唐の末帝が鳳翔で兵を起こすと、その子重吉は亳州防禦使であったが、従敏は朝廷の命を承けてこれを害した。清泰年中、従敏は洋王従璋と共に罷められて邸に帰り、待遇は甚だ薄かった。かつて宮中で共に飲んだ時、既に酔った末帝が従璋・従敏に言った、「お前たちは何者か、雄藩大鎮にいるとは。」二人は大いに恐れたが、曹太后がこれを見て、「官家(皇帝)は酔っておられる。お前たちは速やかに退出せよ。」と叱責したおかげで事なきを得た。晉の高祖が革命を起こすと、降封されて莒國公となり、再び陝州を領し、まもなく移鎮して上黨に鎮し、入って右龍武統軍となり、出て河陽節度使となった。漢の高祖が汴に入ると、移授されて西京留守となり、累官して検校太師・同平章事となった。隱帝が即位すると、就いて兼侍中を加えられ、改めて秦國公に封ぜられた。一年余りして、王守恩と交代して召還された。廣順元年春、病により卒去。享年五十四。詔して中書令を贈られ、諡して恭惠といった。

鄭仁誨は、字を日新といい、晉陽の人である。父の霸は、累贈されて太子太師となった。仁誨は幼くして唐の驍将陳紹光に仕え、紹光は勇を恃んで酒を飲み、かつて酔って佩剣を抜き、仁誨に刃を向けようとした。左右の者は皆奔走して避けたが、仁誨だけは端然と立って待ち、少しも恐れる色がなかった。紹光は剣を地に投げ捨て、仁誨に言った、「汝にこのような器量があるならば、必ずや人間の富貴を享けるであろう。」紹光が郡を治めるようになると、仁誨は累ねて右職(要職)となった。後に退いて郷里に帰り、父母を養って楽しんだ。漢の高祖が河東に鎮していた時、太祖(郭威)はしばしばその邸を訪れ、宴席で語らい、質問する毎に、正理をもって答えないことはなく、太祖は深く彼を器重した。漢が天下を得ると、太祖が初めて枢務を領すると、即ち召して従職とした。太祖が西征した際、しばしば密かに軍機を補佐し、西師が凱旋すると、累遷して検校吏部尚書に至った。太祖が践祚すると、佐命の功を表彰し、検校司空しくう・客省使兼大内都点検・恩州団練使を授け、まもなく枢密副使となった。一年余りして宣徽北院使・右衛大将軍に転じ、出鎮して澶淵に鎮し、転じて検校太保となり、入って枢密使となり、同平章事を加えられた。世宗が北征した際、仁誨を東京留守とし、軍需を調達発送し、供給に欠けるところがなかった。車駕が戻ると、兼侍中を加えられた。まもなく母の喪に服したが、間もなく起復した。顕徳二年冬、病が重篤になると、世宗はその邸に行幸し、親しく慰問し、しばしば嘆息した。卒去すると、世宗は親しくその喪に臨み、数度にわたり慟哭した。この時、世宗が行こうとしたところ、近臣が奏上して言った、「歳道が良くありません。喪に臨むのは宜しくありません。」と。聞き入れなかったが、しかし先に桃茢(邪気を祓うもの)の事を行い、時に礼を得ているとされた。仁誨は人となり端正で謙虚、慌ただしい時も必ず礼に従った。枢務に居た時も、権位が崇重であったが、よく孜々として人と接し、自ら誇る色がなく、終わりまでそうであったため、朝廷皆これを惜しんだ。詔して中書令を贈られ、追封して韓國公とし、諡して忠正といった。葬られた後、翰林学士陶穀に命じて神道碑文を撰させ、官がこれを建立し、特別の恩寵を表した。

子の勲は、累ねて内職を歴任したが、早くに卒去し、後嗣が絶えた。初め、広順の末、王殷が詔を受けて朝廷に赴いた際、太祖は仁誨を遣わして鄴都巡検とし、王殷が罪を得ると、仁誨は詔を奉じずに即ちその子を殺したが、これはその家財と妓楽を利したためである。仁誨が卒去して後嗣がなかったため、人々は陰徳の責めを受けたのだと思った。

張彦成

張彥成は潞州潞城の人である。曾祖父の張靜は汾州刺史、祖父の張述は澤州刺史、父の張礪は昭義行軍司馬であった。彥成は初め並門の牙将となった。天成年間、秦州塩鉄務官から鄆州都押牙に改められた。漢祖が北門を鎮守する時、行軍司馬に表され、隠帝がその女を娶ったことにより、特に親愛された。汴・洛平定に従い、累進して特進・検校太尉・同州節度使となった。隠帝が即位すると、同平章事を加えられた。太祖が河中を征伐した時、彥成には糧食を供給する功労があり、河中平定後、検校太師を加えられた。乾祐三年冬、相州に移鎮した。広順初年、兼侍中を加えられ、まもなく南陽に移鎮した。三年秋、交代で帰京し、右金吾衛上將軍を授けられた。その年秋、病により卒去、六十歳であった。侍中を追贈された。

安叔千

安叔千は沙陀三部落の種族である。父の安懷盛は唐の武皇に仕え、驍勇をもって知られた。叔千は騎射を習い、莊宗に従って河南を平定し奉安部将となった。天成初年、王師が定州を伐つ時、先鋒都指揮使に任じられた。王都が平定されると、秦州刺史を授けられ、引き続き涿・易二郡を管轄した。清泰初年、契丹が雁門に寇すと、叔千は晉祖に従って迎撃し、これを破り、位を進めて検校太保・振武節度使となった。晉祖が即位すると、同平章事を加えられた。天福年間、邠・滄・邢・晉の四鎮節度使を歴任した。叔千は鄙野で文がなく、当時「安沒字」と称され、碑碣に篆籀の文字がなく、ただ虚しくその表があるのみであると言われた。開運初年、朝廷が大いに北伐を挙げようとした時、行営都排陣使を授けられ、まもなく左金吾衛上將軍に改められた。契丹が汴に入ると、百官は赤崗で迎え拝謁し、契丹主は高岡に登り馬を駐めて漢官を撫諭した。叔千が列を出て国語(契丹語)で話すと、契丹主は「そちは安沒字か。卿はかつて邢州にいた時、遠く誠款を輸した。我ここに至り、そちに一飯の処を取らしめよう」と言った。叔千は拝謝して退き、まもなく鎮國軍節度使を授けられた。漢の初年、交代で帰京し、かつて幕庭に附したことを以て、常に愧惕して居り、久しくして太子太師致仕を授けられ、まもなく告げて洛に帰った。広順二年冬卒去、七十二歳であった。詔して侍中を追贈した。

宋彥筠

宋彥筠は雍丘の人である。初め滑州軍に隷属し、梁氏と莊宗が河を挟んで戦った時、彥筠は戦棹都指揮使として功労により開封府牙校に遷った。莊宗が天下を得ると、禁軍を率いることを抜擢された。蜀征伐の役では、配下を率いて康延孝の前鋒に従い、蜀平定後、維・渝二州刺史を歴任した。明宗の在位中、数郡を連ねて管轄した。晉の初年、汝州防禦使から襄陽の安従進を討ち、功により鄧州節度使を拝し、累官して検校太尉に至った。まもなく、晉・陜二鎮を歴任した。晉少帝が嗣位すると、再び鄧州を領し、まもなく河中に移鎮した。漢の初年、太子太師致仕を授けられた。国初、左衛上將軍を拝した。世宗が嗣位すると、再び太子太師致仕となった。顕徳四年冬、西京の私第において卒去した。一日視朝を輟め、詔して侍中を追贈した。

初め、彥筠が成都に入ると、一つの甲第を占拠し、第中の資貨は巨万、妓女数十人がことごとくその所有となった。ある日、その主母と些細な憤りを生じ、急にこれを撃殺した。その後常にその姿を見るようになり、彥筠は心に安からず、浮屠の法を修めてこれを禳い、これにより釋氏に溺れる志となった。その後、毎年金仙(釈迦)が入滅する日に、常に斬縗を着てその像の前で号慟し、その仏への佞はこのようであった。家に侍婢数十人あり、皆に削髪披緇させて左右に侍らせ、大いに当時に誚られた。また性、貨殖を好み、什一の利を図ることができ、良田甲第は郡国に相望んだ。将に終わらんとする時、伊・洛の間の田庄十数区を進上し、ともに官に籍した。

【贊】

史臣曰く、近代、戎藩を領し、王爵を列ね、禄厚くして君子議わず、望重くして人主疑わず、飲酌の間に自ら晦し、功名を始終の際に保ち、行周の比の如き者は、幾何人かあらんや。奕世の藩翰、固より宜しく然るべし。審琦には分閫の労ありて、家を禦するの道に乏しく、峰摧け玉折る、蓋し不幸なり。その余は戎旃を擁すと雖も、閫政を聞かず、固より文・召・龔・黄と比ぶるに足らず。