舊五代史

周書九: 世宗本紀五

顯德五年春正月癸未の朔、帝は楚州城下に在り、従臣行宮に詣でて賀を称す。乙酉、同州を降して郡となす。右ぎょう衛将軍王環卒す。丙戌、右龍武将軍王漢璋奏す、海州を攻む。戊子、詔す「諸道の幕職州県官は、並びに三周年を以て考限と為し、閏月は其の中に在らず、州府は正官に替えて摂官を差すべからず」と。己丑、詔して侍衛馬軍都指揮使韓令坤に揚州軍府事を権知せしむ。庚寅、楚州管内の丁壮を発し、鸛河を開きて以て運路を通ず。乙巳、帝親しく楚州を攻む。時に今上は楚州城北に在り、昼夜甲冑を解かず、親しく矢石を冒し、兵を麾いて以て城に登る。丙午、之を抜き、偽守将張彦卿等を斬り、六軍大いに掠め、城内の軍民死者万余人、廬舎焚けて殆ど尽きぬ。

二月甲寅、偽命の天長軍使易赟城を以て帰順す。戊午、車駕楚州を発ち南巡す。丁卯、広陵に駐蹕し、詔して揚州部内の丁夫万余人を発し揚州を城らしむ。帝は揚州焚蕩の後、居民南渡するを以て、故城の内に就きて東南に別に新壘を築く。戊辰、使を遣わして故淮南節度使楊行密、故升府節度使徐温等の墓を祭る。癸酉、揚子渡に幸して大江を観る。乙亥、黄州刺史司超奏す、淮賊三千人を破り、偽舒州刺史施仁望を擒う。丙子、隰州奏す、河東の賊軍逃遁す。時に劉鈞、帝の南征を聞き、兵を発して隰州を囲むも、巡検使李謙溥州兵を以て之を拒みて退く。

三月壬午朔(一日)、泰州に行幸する。丁亥(六日)、再び広陵に行幸する。辛卯(十日)、迎鑾江口に行幸する。右武衛大将軍李継勛に舟師を率いて江島に至り、敵情を観察させた。癸巳(十二日)、帝は江に臨み、賊船数十隻を見る。今上(後の世宗)に戦艦を率いて追撃するよう命じると、賊軍は退去し、今上は直ちに南岸に達し、その営柵を焼いて帰還した。甲午(十三日)、右武衛大将軍李継勛を左領軍上将軍とする。乙未(十四日)、殿前都虞候慕容延釗が奏上するに、東㳍州において賊軍を大破したという。丙申(十五日)、江南の李景がその臣下、兵部侍郎陳覚を使わして表を奉り、情勢を陳述させ、併せて羅縠絹三千匹、乳茶三千斤、及び香薬・犀・象などを貢納した。陳覚が行在所に至り、楼船戦艦が既に江岸に停泊しているのを見て、天より降ったかと愕然として大いに驚いた。丁酉(十六日)、荊南の高保融が奏上するに、本道の舟師が既に鄂州に至ったという。戊戌(十七日)、両浙の銭俶が奏上するに、戦艦四百艘、水軍一万七千人を派遣し、既に江岸に停泊させており、出撃の時期を請うという。己亥(十八日)、今上、水軍を率いて瓜歩において賊船百余隻を破る。この日、李景がその臣下劉承遇を使わして表を奉り、廬・舒・蘄・黄の四州を献上し、且つ江を以て境界とすることを請う。帝は答えて曰く、「皇帝、恭しく江南国主に問う。使人至り、奏を省みるに、舒・廬・蘄・黄等の州を分割し、江を画して境界とせんことを請う。頃年多事に逢い、玉帛の歓を通ずること莫く、適た近年より、遂に干戈の役を構え、両地の交兵未だ息まず、蒸民の弊を受くること斯くの如く多し。一昨、再び使人を辱しめ、前意を重ねて尋ぬるに、久要を敦んぜんとし、須らく縷陳を尽くすべし。今者、承遇爰に来たり、封函復た至り、州郡を割き、仍て封疆を定めんことを請い、猥りに信誓の辞を形し、備く始終の意を認む。既に是の如く能くす、又た何をか復た求むる。辺陲頓に煙塵に静まり、師旅便ち京闕に還らん。永く言え欣慰、深く誠懐を切る。其の常・潤一路及び沿江の兵棹は、今已に指揮して抽退せしむ。兼ねて両浙・荊南・湖南の水陸兵士は、各罷兵せしむ。其の廬・黄・蘄三路の将士も亦、近内に抽抜することを遣わし、彼の中に起きて逐処の将員及び軍都の家口を掲げ終わるを俟ち、只請う彼に在る将校を差人勾喚し、州城を交割せしむ」と。淮南平らぐ。凡そ州十四、県六十、戸二十二万六千五百七十四を得たり。先に、李景は江南の危蹙を以て、世子に伝位せんと謀り、我に附庸せしめんと欲し、故に陳覚を遣わして表を上り陳叙せしむ。ここに至り、帝は既に其の通好を許したるを以て、乃ち書を降して以て之に答え、曰く、「別に来章を睹るに、備く縟旨を形し、此の日伝譲の意を叙し、向來高尚の懐を述ぶ。仍て数歳已還、交兵息まず、追悔の事を備論し、克責の辞に非ざるは莫し。古人に咎を引き躬を責め、災に因りて懼を致す者有りと雖も、亦此に過ぐるは無からん。況んや君は血気方に剛、春秋甚だ富み、一方の英主たり、百姓の歓心を得たり。即今南北才に通じ、疆埸甫めて定まる。是れ玉帛交馳の始め、乃ち干戈載戢の初めなり。豈に高く君臨を謝し、軽く世務を辞すべけんや。其の希夷の道を慕うと、曷ぞ康済の心を行わん。重ねて念うに、天災流行するは、分野の常事、前代の賢哲も逃れ能わざる所なり。苟くも盛徳の日新なれば、則ち景福の弥遠し。政理を勉め修め、経綸に倦むこと勿れ。高義を初終に保ち、遠図を家国に垂れ、芳を流し慶を貽す、亦美ならずや」と。庚子(十九日)、詔して曰く、「比者、近年の貢挙は頗る因循に事ふ。頻りに有司に詔して精しく試練を加えしむ。冀う所は去留濫るること無く、優劣昭然たらんとす。昨、貢院の奏に拠るに、今年新及第の進士等、試みたる文字或いは否臧有り。爰に辞臣を命じ再び考覆せしむ。庶幾くは涇・渭の雑せざるを免れ、玉石の相参ずるを免れん。其の劉坦・戦貽慶・李頌・徐緯・張覲等は詩賦稍優なり、宜しく及第を放すべし。王汾は其の文辞に拠るも、亦未だ精当ならず。頃曾て剝落せしを念い、特に成名を与う。熊若谷・陳保衡は皆是れ遠人、深く嗟念すべし。亦及第を放す。郭峻・趙保雍・楊丹・安元度・張昉・董咸則・杜思道等は甚だ苦辛せず、並びに退黜に従い、更に宜しく修進し、以て将来を俟つべし。知貢挙・右諫議大夫劉濤は士を選ぶこと当たらず、用心を失う有り。責めて右賛善大夫を授け、省過せしめ、以て当官を戒めしむ」と。先に、劉濤は東京にて放榜の後、新及第進士劉坦以下十五人を引いて行在に赴かしむ。帝は翰林学士李昉に覆試を命じた。故に是の命有り。壬寅(二十一日)、再び揚州に行幸する。廬州の軍額を改めて保信軍と為す。甲辰(二十三日)、右龍武統軍趙賛を廬州節度使と為し、殿前都虞候慕容延釗を淮南節度使兼殿前副指揮使と為す。塩城監使申屠諤を使わし、書及び御馬十匹、金銀の銜全、散馬四十匹、羊千口を齎らしめ、江南の李景に賜う。申屠諤は先に王師に俘われた者である。故に之を遣わす。丙午(二十五日)、江南の李景、其の署する宰相馮延巳を使わして犒軍の銀十万両、絹十万匹、銭十万貫、茶五十万斤、米麦二十万石を献上せしむ。庚戌(二十九日)、詔して曰く、「故淮南節度使楊行密、故升府節度使徐温、各々守冢戸を与う。応に江南の臣僚に先代の墳墓江北に在る者は、所在の長吏に委ねて人を差し検校せしむ」と。辛亥(三十日)、李景、其の署する臨汝郡公徐遼を使わして買宴銭二百万を進め、併せて伶官五十人を徐遼と俱に来らしめ、寿觴を献上せしむ。

夏四月癸丑(二日)、行宮において従臣及び江南の進奉使馮延巳等を宴す。徐遼、李景に代わり寿觴を捧げて献じ、金酒器・御衣・犀帯・金銀・錦綺・鞍馬等を進める。乙卯(四日)、車駕揚州を発し還京す。丙辰(五日)、太常博士・権知宿州軍州事趙礪を除名す。推劾弛慢に坐すなり。先に、翰林医官馬道元が状を進め、寿州界にて賊に殺された子の件を訴え、正賊を獲て宿州に在るも、本州は勘断せずと。帝大いに怒り、端明殿学士竇儀を駅馬に乗せて往き按察せしむ。獄成るに及び、族死に坐する者二十四人。竇儀が辞を奉る日、帝の旨甚だ峻し。故に竇儀の用刑は深刻に傷つく。戊午(七日)、前延州留後李彦頵を滄州留後と為す。庚申(九日)、新太廟成る。五廟の神主を其の室に遷し入る。壬申(二十一日)、淮南より至る。癸酉(二十二日)、宣徽北院使昝居潤に命じて開封府事を判せしむ。甲戌(二十三日)、澶州節度使張永徳、詔に準じて北辺に赴く。契丹が境を犯す故なり。丁丑(二十六日)、両浙奏す、四月十九日杭州に火災有り、廬舎府署延焼して殆ど尽くという。

五月辛巳朔(一日)、帝は崇元殿に臨み朝賀を受け、儀仗・衛兵は定式に従う。詔して曰く、「侍衛諸軍及び諸道の将士には、各々等級に応じて優給を賜う。行営将士で王事に殉じた者は、各々贈官を与え、親の子孫は並びに才量に応じて録用し、傷つき病み残廃した者は、別に救済を賜う。淮南諸州及び徐・宿・宋・亳・陳・潁・許・蔡等州の、去年の秋夏税物の欠負は、並びに免除する」と。丙戌(六日)、端明殿学士竇儀を命じて河南府を判じ、兼ねて西京留守事を知らしむ。辛卯(十一日)、襄州節度使安審琦を以て青州節度使と為し、許州節度使韓通を以て宋州節度使と為し、前の如く兼ねて侍衛馬歩都虞候とす。宋州節度使向訓を以て襄州節度使と為し、今上(趙匡胤)を以て忠武軍節度使と為し、前の如く殿前都指揮使とす。淮南の役、今上の功最も大なり、是に至り命を降すも、勲に酬うと雖云えども、移鎮に止まるのみ。賞典軽きこと甚だしく、物議以て允当ならずと為す。癸巳(十三日)、左武衛上将軍武行徳を以て鄜州節度使と為し、右神武統軍宋延渥を以て滑州節度使と為し、前同州留後王暉を以て相州留後と為す。乙未(十五日)、東京羅城諸門の名額を立て、東二門を寅賓・延春と曰い、南三門を朱明・景風・畏景と曰い、西二門を迎秋・粛政と曰い、北三門を元徳・長景・愛景と曰う。辛丑(二十一日)、懐信駅に幸す。乙巳(二十五日)、詔して在朝の文資官に、各々再び幕職令録に堪え得る者一人を挙げしむ。戊申(二十八日)、襄州節度使向訓を以て兼ねて西南面水陸発運招討使と為す。己酉(二十九日)、太府卿馮延魯を以て江南国信使に充て、衛尉少卿鐘謨を以て副使と為す。李景に御衣・玉帯・錦綺羅縠帛合わせて十万匹・金器千両・銀器万両・御馬五匹・金玉の鞍轡全・散馬百匹・羊三百口を賜う。江南世子李宏冀に器幣・鞍馬等を賜う。別に李景に書を賜いて曰く、「皇帝恭しく江南国主に問う。煮海の利は彼の海浜に在り、疆壤の初分に属し、供食の闕くる有らんことを慮る。江左諸郡は素より繁饒と号す、然れども川沢の間に在りて、旧より斥鹵の地無し。曾て素旨を承け、常に懐う所に在り、願わくは収積の余を均しくし、以て軍旅の用を助けん。已に三司に下し、逐年に支撥して軍食塩三十万石を供せしむ」と。又李景に今年の暦日一軸を賜う。

六月庚午(二十日)、中書舎人竇儼を命じて雅楽を参定せしむ。辛未(二十一日)、先に俘獲した江南兵士四千七百人を放ち本国に帰らしむ。壬申(二十二日)、有司御膳料を奏す、上批して曰く、「朕の常膳は今後半減し、余人は旧に依れ」と。癸酉(二十三日)、太廟にて禘祭を挙行す。乙亥(二十五日)、兵部尚書張昭等撰する『太祖実録』三十巻成る、之を上る、器帛を賜うこと差有り。丁丑(二十七日)、中書舎人張正を以て工部侍郎と為し、江北諸州水陸転運使に充てる。戊寅(二十八日)、詔して諫議大夫は宜しく旧に依り正五品上と為し、仍って班位は給事中の下に在らしむ。

秋七月癸未(三日)、右散騎常侍さんきじょうじ高防を以て戸部侍郎と為し、左驍衛上将軍李洪信を以て右龍武統軍と為し、左領軍上将軍李継勲を以て右羽林統軍と為し、工部尚書田敏を以て太子少保と為し、刑部侍郎裴巽を以て尚書左丞と為し、左武衛上将軍薛懐譲を以て太子太師と為し、右羽林大将軍李萼を以て右千牛衛上将軍と為す。敏以下は皆致仕す。丙戌(六日)、中書門下新たに冊定した『大周刑統』を進め、勅を奉じて天下に班行す。丁亥(七日)、諸道節度使・刺史に『均田図』各一面を賜う。唐の同州刺史元稹、郡に在りし日に均戸民租賦を奏す、帝其の文集を覧て之を善しとし、乃ち其の辞を写して図と為し、以て藩郡に賜う。時に帝将に天下の賦税を均定せんとす、故に先ず此の図を以て遍く之に賜う。

閏月壬子(三日)、衍州を廃して定平県と為し、武州を廃して潘原県と為す。壬戌(十三日)、河、河陰県に決し、溺死者四十二人。辛丑(誤記か、前の壬戌から逆算すると該当せず)、新たに授けられた青州節度使安審琦の第に幸す。癸酉(二十四日)、邢州留後陳思譲奏す、西山の下にて河東賊軍千余人を破り、五百級を斬首すと。

八月庚辰(二日)、延州奏す、溠溪水漲き、州城を壊し、溺死者百余人と。己丑(十一日)、太子太師致仕宋彦筠卒す。辛丑(二十三日)、江南李景表を上り降伏を乞う、詔書は允さず。

九月丁巳(九日)、太府卿馮延魯を以て刑部侍郎と為し、衛尉少卿鐘謨を以て給事中と為し、並びに放ち帰って江南に帰らしむ。時に延魯・鐘謨江南より復命し、李景復た奏して其の世子宏冀に位を伝えんと欲す、帝亦書を以て之に答う。甲子(十六日)、江南に羊万口・馬三百匹・橐駝三十頭を賜い、両浙銭俶に羊五千口・馬二百匹・橐駝二十頭を賜う。乙丑(十七日)、宰臣・枢密使及び近臣に玉津園にて宴を賜う。己巳(二十一日)、占城国王釈利因徳漫、使いを遣わし方物を貢ぐ。壬子(誤記か、九月に壬子無し。前後の干支より壬申(二十四日)か)、天清節、群臣広徳殿に詣で寿を上ぐ。江南進奉使商崇義、李景に代わり寿觴を捧げて献ず。

冬十月己卯、戸部侍郎高防を西南面水陸転運使と為す。巴・邛に師を用いんとする故なり。丙戌、邠州の李暉、鎮を鳳翔に移す。戊子、迎春苑に幸す。己丑、太常卿司徒しと詡、本官を以て致仕す。壬辰、帝、近郊に狩す。癸巳、前相州節度使王饒卒す。甲午、左監門上將軍許文縝・右千牛上將軍辺鎬・衛尉卿周延構、並びに江南に帰る。乙未、詔して淮南諸州の郷軍を、並びに放ちて農に帰らしむ。丁酉、左散騎常侍艾穎等を遣わし、河南六十州の税賦を均定せしむ。

十一月丁未朔、詔して翰林学士竇儼に、文学の士を集め、『大周通礼』・『大周正楽』を撰集せしむ。儼の奏に従うなり。辛亥、日南至す。帝、崇元殿に御し朝賀を受け、仗衛は式の如し。己未、昭義の李筠奏す、遼州長清寨を破り、偽命の磁州刺史李再興を獲たりと。甲子、帝、近郊に狩す。

十二月丁丑朔、郎州奏す、醴陵県玉仙観の山門中に、旧に田二万頃あり、久しく山石の為に閉塞せられしが、今年七月十七日夜、暴雷劈き開き、其の路復た通ずと。己卯、楚州兵馬都監武懐恩、市に棄つ。降軍四人を擅に殺したるに坐す。丙戌、詔して諸道州府の幕職令録佐官の料銭を重ねて定め、其の州県官の俸戸は停むべし。己丑、楚州防禦使張順に賜いて死せしむ。任に在りて榷税銭五十万・官絲綿二千両を隠落したるに坐す。壬辰、詔して両京及び五府の少尹司参軍は各一員を省き、六曹判司内には只戸法二曹を直し、余及び諸州の観察支使・両蕃判官は並びに省く。甲午、帝、近郊に狩す。乙未、鄧州の劉重進、鎮を邠州に移し、滑州の宋延渥、鎮を鄧州に移す。前河中節度使王仁鎬を以て邢州節度使と為し、邢州留後陳思譲を以て滑州留後と為す。己亥、詔して翰林学士に、今後逐日起居し、当直者は仍て晚朝に赴くべし。是の月、江南の李景、其の臣偽太傅中書令宋斉丘・偽兵部侍郎陳覚・偽鎮南軍節度副使李徴古等を殺す。初め、帝の南征するや、呉人大いに懼れ、覚と徴古は皆斉丘の門人なり、因りて景に説を進め、国事を斉丘に委ぬるを請う。景是れより之を銜む。及び呉人、鐘謨・李徳明を遣わし表を奉り行在に至る。帝尋いで徳明を遣わし復命を金陵にせしむ。徳明因りて李景に説き、江南の地を割き我に和を請わしむ。而して陳覚・李徴古等、徳明を売国と為し、之を戮するを請う。景遂に徳明を殺す。及び江南内附し、帝、鐘謨を放ちて南に帰らしむ。謨本より徳明の党なり、因りて斉丘等を譖る。故に斉丘等罪を得。斉丘を放ちて九華山に帰らしめ、覚等は官を貶す。尋いで並びに之を害す。景、既に斉丘等を誅し、鐘謨をして闕に到らしめ、具に其の事を言わしむ。故に書す。