舊五代史

周書八: 世宗本紀四

顯徳四年春正月己丑朔、帝崇元殿に御し朝賀を受け、仗衛は儀式の如し。詔して天下の見禁罪人、大辟を除くの外、一切これを釈放す。壬寅、兵部尚書張昭上言す「詔を奉じて太祖実録及び梁・唐二末主実録を編修す。伏して《漢書かんじょ》を撰する者は先ず項籍を為し、《しょく記》を編するは首に劉璋を序すは、神器の伝授に因有るを貴び、歴数の推遷に序を得るを以てなり。伏して漢隠帝の君臨するは太祖の前に在り、歴試の績は並びに隠帝朝内に在り、請う先ず隠帝実録を修めて、以て太祖の事功を全うせん。又唐末主の前に閔帝有り、位に在ること四月、衛に奔出す、亦未だ編紀せず、請う閔帝実録を修めよ。其の清泰帝実録は、請う書して廃帝実録と為さん」と。之に従う。丁未、淮南道招討使李重進奏す、淮賊五千人を寿州北に破る。是に先立ち、李景其の弟偽斉王達を遣わし全軍を率いて来たり寿州を援く、達は留まって濠州に駐し、其の将許文縝・辺鎬・朱元を遣わし兵数万を領し、淮を溯りて上り、紫金山に至り、十余寨を設け、城内と烽火相応ず。又数里の夾道を築き、将に寿春に抵らんとし、糧を運ぶの路と為す、是に至り重進に敗る。戊申、詔して来月淮南に幸するを取る。

二月庚申、前工部侍郎王敏を以て司農卿と為す。辛酉、詔す毎に入閣の日に遇う、百官に廊下食を賜う、旧制に従うなり。淮南道行営都監向訓奏す、淮賊二千を黄蓍寨に破る。甲戌、枢密副使王朴を以て権東京留守兼判開封府と為し、三司使張美を以て大内都巡検と為す。乙亥、車駕京師を発つ。乙酉、下蔡に次ぐ。

三月庚寅旦、帝諸軍を率いて紫金山下に駐し、今上に命じ親軍を率いて山に登り賊を撃たしめ、数寨を連破し、数千を斬獲し、其の来路を断つ、賊軍首尾相救わず。是の夜、賊将朱元・朱仁裕・孫璘各寨を挙げて来降し、其の衆万余を降す。翌日、諸寨を尽く陥し、殺獲甚だ衆く、賊の大将建州節度使許文縝・前湖南節度使辺鎬を擒え、其の余党は流れに沿いて東奔す、帝自ら親騎を率いて淮北岸に沿いて賊を追う。晡に及び、二百余里を馳せ、鎮淮軍に至り、数千人を殺獲し、戦艦糧船数百艘を奪い、銭帛器仗数うるに勝えず。甲午、詔して近県の丁夫を発し鎮淮軍を城し、仍お淮上に浮梁を構う。廬州都部署劉重進奏す、賊三千人を寿州東山口に殺す、皆紫金山の潰兵なり。戊戌、宣徽南院使・淮南節度使向訓を徐州節度使に授け、淮南道行営都監を充て、即ち命じて鎮淮上に屯せしむ。己亥、帝鎮淮軍より復た下蔡に幸す。壬寅、淮南の降軍許文縝・辺鎬已下万五百人に衣服銭帛を賜うこと差有り。丙午、寿州劉仁贍上表して降を乞う、帝閣門使張保績を遣わし入城して慰撫す。翌日、仁贍復た子崇譲をして表を上りて罪を請わしむ。戊申、寿州城北に幸す、劉仁贍将佐已下及び兵士万余を率いて出降す、帝久しく慰労し、恩賜差有り。庚戌、詔して寿州を下蔡に移し、故寿州を以て寿春県と為す。是日、寿州管内の見禁罪人を曲赦し、今月二十一日已前より、凡そ過犯有る者は並びに釈放に従う。帰順すべき職員は並びに恩を加えらる。寿州管界城を去ること五十里内は、今年の秋夏租税を放つ。自来の百姓、曾て江南の文字を受け山林に聚まる者有らば、並びに罪を問わず。若し曾て相傷害する者有らば、今後更に相仇し及び官に経て論訴する有るべからず。兵を用いる已来、骨肉を擄卻せられたる者は、遠近を計わず、並びに本家に識認を許し、官中物を給して収贖せしむ。曾て陣敵の処所に骸骨を暴露する者は、並びに仰せて収拾埋瘞せしむ。前の政令民に便ならざる者有らば、本州に委ね条例を聞奏せしめ、当に厘革を行わん。辛亥、偽命清淮軍節度使・検校太尉・兼侍中劉仁贍を以て特進・検校太尉・兼中書令・鄆州節度使と為し、右羽林統軍楊信を以て寿州節度使と為す。是日、劉仁贍卒す。壬子、江南偽命西北面行営都監使・舒州団練使朱元を以て蔡州防禦使と為し、江南偽命文徳殿使・寿州監軍使周延構を以て衛尉卿と為し、江南偽命寿州営田副使孫羽を以て太僕卿と為し、寿州節度判官鄭牧を以て鴻臚卿と為す、帰順を賞するなり。癸丑、前許州行軍司馬韓倫の在身官爵を追奪し、沙門島に配流す。倫は、侍衛馬軍都指揮使令坤の父なり。令坤陳州を領す、倫州に在りて郡政に干預し、掊斂の暴、公私之を患う、項城の民武都等の訟する所と為る。帝殿中侍御史率汀を命じて就きて之を按せしむ、倫詐りて汀に報じて云く「詔に準じて闕に赴く」と、汀即ち之を奏す、帝愈よ怒り、遽かに劾を遣わすを令し、尽く其の実を得、故に是の命有り。左諫議大夫尹日就を遣わし寿州に於て倉を開き饑民を賑う。丙辰、車駕下蔡を発ち還京す。

夏四月己巳、車駕は下蔡より至る。辛未、江南の偽命西北面行営応援使・前永安軍節度使・検校太尉許文縝を左監門衛上将軍・検校太尉とし、偽命西北面行営応援都軍使・前武安軍節度使辺鎬を左千牛衛上将軍・検校太傅とする。丙子、宰臣李穀は風痹(中風)が年余り続き、上章して退任を請う。三度上章するも、許されず。丁丑、内供奉官孫延希を都市において斬り、御厨使董延勛・副使張皓・武德副使盧継升を並びに停職とする。時に永福殿を重修し、延希に役事を監督させたところ、帝は役夫が瓦の中で飯を食い、柿の葉を匙として用いる者あるを見て、大いに怒り、延希を斬り、延勛らを罷免した。壬午、故彭城郡夫人劉氏を追冊して皇后とする。癸未、故皇子贈左ぎょう衛大将軍誼を再び贈太尉とし、越王を追封す。故皇子贈左武衛大将軍誠を再び贈太傅とし、呉王を追封す。故皇子贈左屯衛大将軍諴を再び贈太保とし、韓王を追封す。故皇弟贈太保侗を再び贈太傅とし、郯王を追封す。故皇弟贈司空しくう信を再び贈司徒しととし、杞王を追封す。故皇第三妹楽安公主を追冊して莒国長公主とし、故皇第五妹永寧公主を追冊して梁国長公主とする。故皇従弟贈左領軍大将軍守願を再び贈左衛大将軍とし、故皇従弟贈左監門将軍奉超を再び贈右衛大将軍とし、故皇従弟贈左千牛衛将軍愻を再び贈右武衛大将軍とする。甲申、先に降伏した江南の兵士を団結して三十指揮とし、号して懐徳軍とす。

五月丁亥朔、帝は崇元殿に御し朝を受く。仗衛は式の如し。己丑、新修の永福殿を改めて広政殿とす。辛卯、端午をもって文武百僚に衣服を賜う。書(記録)の始めなり。癸巳、侍衛親軍都指揮使・宋州節度使・淮南道行営都招討充李重進に検校太傅・兼侍中を加う。宣徽南院使・淮南節度使向訓を徐州節度使とし、検校太尉・同平章事を加う。丙申、密州防禦副使侯希進を本郡において斬る。時に太常博士張糾が本州の夏苗を検視し、牒を移して希進に分検させたが、希進は朝旨を奉ぜずとして従わなかった。糾が事を具して聞かせると、帝は怒り、使者を遣わしてこれを斬らしめた。丁酉、滑州節度使兼殿前都点検・駙馬都尉張永徳を澶州節度使とし、検校太尉を加う。今上(趙匡胤)を滑州節度使とし、検校太保を加え、前の如く殿前都指揮使に依る。今上は三年十月に同州節度使を宣授されたが、正衙において制を宣せず、ここに至って滑臺に移鎮したため、永州防禦使より授けたのである。侍衛馬軍都指揮使・洋州節度使韓令坤を陳州節度使とし、検校太傅を加う。権侍衛歩軍都指揮使・岳州防禦使袁彦を曹州節度使とし、検校太保を加え、並びに軍を典することはもとと同し。己亥、左神武統軍劉重進を鄧州節度使とし、虎捷左廂都指揮使・閬州防禦使趙晁を河陽節度使とし、兗州防禦使白延遇を同州節度使とする。辛丑、宰臣範質・李穀・王溥に並びに爵邑を加え、功臣を改む。枢密使魏仁浦に検校太傅を加え、開国公に進封す。辛亥、廬州行府事を掌る劉重進が奏上し、相次いで賊を殺敗し、戦船三十艘を獲たと。壬子、宣徽北院使呉延祚を宣徽南院使・権西京留守・判河南府事とする。是月、詔して中書門下に官を差し格律を詳定せしむ。中書門下が奏す:「侍御史知雑事張湜ら一十人を差して詳定せしむ。畢日の後、御史臺尚書省四品已上・両省五品已上の官に委ねて可否を参詳し、中書門下に送り議定して奏し、進止を取らしむ」。これに従う。

六月丁巳、前濠州刺史斉蔵珍は罪により棄市に処せられる。己未、責授耀州司馬鐘謨を衛尉少卿とし、紫を賜う。帝は孫晟を誅した後、まもなく謨を耀州に竄したが、やがてこれを悔い、故にこの命あり。辛酉、西京より奏す、伊陽の山谷に金屑あり、民がこれを淘取すと。詔して禁めざるべし。乙酉、詔して在朝の文資官に、再び令・録・従事に堪えうる者各一人を挙げしむ。

秋七月丁亥、前徐州節度使・検校太師・兼中書令武行徳を左衛上将軍とする。先に、詔して行徳に兵を分かちて定遠県に屯せしめたが、淮寇に襲われ、王師の死者数百人に及び、帝はその軍を覆した咎を懲らしめ、故に環衛の職に処したのである。前河陽節度使李継勲を右衛大将軍とする。寿春南寨の敗れを責めたためなり。壬辰、刑部尚書王易を太子少保として致仕せしめ、右監門衛上将軍蓋万を左衛上将軍として致仕せしむ。己酉、司農卿王敏卒す。甲辰、詔して曰く:「令に準ずれば、諸に田宅婚姻を論ずるは、十一月一日より三月三十日に至るまで止む。州県の争論は、旧より厘革あり、農月に至る毎に、訟端を塞ぐを貴ぶ。近く聞くに、官吏の因循により、ここより弊を成し、凡そ訴競あるも、故に逗遛を作し、時に至りて尽く辞せず、務に入りてすなわち停罷し、強猾の者はここにより計を得、孤弱の者は伸ぶる所なし。今後より起り、応に人論訴して詞状を陳ずるは、二月三十日に至るまで権停すべし。もし交相侵奪し、情理妨害あり、停滞すべからざる者は、この限りに拘わらず」と。

八月乙卯朔(一日)、兵部尚書張昭が上疏し、唐朝の故事に準じて制挙を設置し英才を網羅することを望む。帝はこれを覧て善しとし、よって張昭に命じて制挙の実施すべき事項を詳細に記し、条奏して聞かせしむ。丙辰(二日)、太常卿田敏を工部尚書と為し、太子賓客司徒詡を太常卿と為す。辛未(十七日)、詔して朝廷に在る武班の者に、各々武勇胆力軍職に堪え得る者一人を挙げしむ。甲戌(二十日)、左監門上將軍許文縝・右千牛上將軍辺鎬・右衛大将軍王環・衛尉卿周延構・太府卿馮延魯・太僕卿鄭牧・鴻臚卿孫羽・衛尉少卿鐘謨・工部郎中何幼沖に各々冬服の絹二百匹・綿五百両を賜う。文縝以下は、皆呉・蜀の士なり。乙亥(二十一日)、宰臣李穀を罷めて相を免じ、司空を守らしめ、食邑実封を加う。李穀は病を抱くこと一年、累ねて表を上り退任を求め、この時に至りて初めてその請いを許す。枢密副使・戸部侍郎王朴を枢密使・検校太保と為す。癸未(二十九日)、前濮州刺史胡立が偽蜀より帰還す。蜀主孟昶、帝に書を寓す。その末尾に云く、「昶昔て齠齔(幼年)の時、即ちへい都を離れ、亦た皇帝の鳳、晋陽に起こり、龍、汾水に興るを承け、郷関の分を合わせ叙べ、以て玉帛の歓を陳えん。もし嘉音を以て恵まば、専ら信使を馳せしむるを佇望す。謹んで胡立の行次に因り、聊か感謝披述を陳う」云々。初め、王師の秦・鳳を伐つに当たり、胡立を排陣使と為す。既にして蜀の擒うる所と為る。秦・鳳平定の後、降軍数千人を得たり。その後、帝その郷土を懐かしむを思い、悉く帰蜀せしむ。この時に至りて蜀人感を知り、故に胡立を我に帰す。孟昶は元より太原に生まる。故にその書の意、帝と郷里の分を推すを願う。帝その抗礼を怒り、答えず。

九月甲申朔(一日)、宰臣王溥・枢密使王朴、皆丁内艱(母の喪)に遭う。並びに旧位に起復す。侍衛馬歩軍都指揮使・宋州節度使李重進を鄆州節度使と為し、軍を典むること旧に如し。己丑(六日)、前翰林学士・礼部侍郎竇儀を端明殿学士と為し、前の如く礼部侍郎に依る。

冬十月丙辰(三日)、京城内に新修の四寺の額を賜い、天清・天寿・顕静・顕寧を以て名と為す。壬戌(九日)、左蔵庫使符令光を棄市す。時に帝再び南征を議し、期に先立ちて令光に勅し軍士の袍襦を広く造らしむ。即時に辦集せず。帝怒り、斬るを命ず。時に宰臣等、庭に至り救解す。帝起ちて宮に入り、遂に都市にて戮す。令光は勲閥の後に出で、内庭の職を歴任し、清慎を以て自ら守り、累ねて繁劇を総べ、甚だ廉幹の誉れ有り。帝素よりその人を重んじ、毎に委用を加う。この時に至りて小過を以て誅せらる。人皆冤しとす。戊午(五日)、詔して制科を懸くること凡そ三とす。その一は賢良方正能直言極諫科、その二は経学優深可為師法科、その三は詳閑吏理達於教化科とす。前資・見任職官を限らず、黄衣草澤、並びに詔に応ずるを許す。時に兵部尚書張昭が条奏し、制挙を興すを請う。故に是の命有り。癸亥(十日)、河東偽命の麟州刺史楊重訓、城を以て帰順す。重訓に本州防禦使・検校太傅を授く。戊辰(十五日)、詔して月内に車駕暫く淮上に幸するを取る。己巳(十六日)、枢密使王朴を権東京留守と為し、三司使張美を大内都点検と為す。壬申(十九日)、駕は京師を発つ。壬午(二十九日)、前鄆州節度使郭従義を徐州節度使と為し、徐州節度使向訓を宋州節度使と為す。

十一月癸未朔(一日)、内客省使昝居潤を宣徽北院使・権東京留守と為す。丙戌(四日)、車駕は濠州城下に至る。戊子(六日)、親しく十八里灘の寨を破る。寨は濠州東北の淮水の中に在り、四面水に阻まる。上、甲士数百人に命じて駱駝に跨りて渡らしむ。今上(世宗)、騎軍を率い水に浮かびて渡り、遂にその寨を破り、その戦艦を擄いて回る。癸巳(十一日)、帝親しく諸軍を率い濠州を攻め、関城を奪い、水寨を破り、賊衆大いに敗れ、戦艦七十余艘を焚き、二千級を斬首し、進軍して羊馬城を攻む。丙申(十四日)夜、偽濠州団練使郭廷謂、上表して陳情し、且つ家は江南に在り、人を遣わし李景に命を稟かんと欲すと云う。これに従う。辛丑(十九日)、帝は濠州より大軍を率い水陸並び進み、淮に循い下り、今上に命じ精騎を率い前鋒と為さしむ。癸卯(二十一日)、渦口に於いて淮賊を大破し、五千級を斬首し、降卒二千余人を収め、戦船三百艘を奪い、遂に鼓行して東し、奔寇を追う。昼夜息まず、淮に沿う城柵、至る所皆下る。乙巳(二十三日)、泗州に至る。今上、勢いに乗じ軍を麾し、郭門を焚き、月城を奪う。帝親しく矢石を冒してその壘を攻む。丙午(二十四日)、日南至(冬至)なり。従臣、月城の上にて拝賀す。

十二月乙卯(三日)、泗州守将範再遇、その城を以て降る。再遇に宿州団練使を授く。戊午(六日)、帝は泗州より衆を率い東下し、今上に命じ兵を領して南岸を行かしめ、帝と淮を挟みて進ましむ。己未(七日)、清口に至り、淮賊に追い及びむ。軍行の鼓噪の声、数十里に聞こゆ。辛酉(九日)、楚州西北に至り、賊衆を大破す。水陸俱に奔る。賊船数艘有り、流れに順って逸す。帝は驍騎を率い今上とこれを数十里追う。今上、賊の大将偽保義軍節度使・江北都応援使陳承昭を擒えて献ず。舟船を収獲す。焚蕩を除く外に三百余艘を得、将士は殺溺を除く外に七千余人を得たり。初め、帝の淮を渡るや、比(当時)水戦の備え無かりき。毎に賊の戦棹に遇うも、これを如何ともすべからず。敵人也れを以て自ら恃み、我を軽んずるの意有り。帝即ち京師に於いて大いに工徒を集め、艛艦を修成す。歳を逾えて数百艘を得、兼ねて江・淮の舟船を得たり。遂に獲たる所の南軍に命じ、北人に水戦出没の勢を習わしむ。未だ幾ばくもせず、舟師大いに備わる。この時に至りて水陸皆捷す。故に江南大いに震う。壬戌(十日)、偽命の濠州団練使郭廷謂、城を以て帰順す。乙丑(十三日)、雄武軍使崔万迪、漣水を以て帰順す。丙寅(十四日)、郭廷謂を亳州防禦使と為し、偽命の濠州兵馬都監陳遷を沂州団練使と為し、偽命の保義軍節度使陳承昭を右監門上將軍と為す。江南の李景、兵を遣わし揚州の士庶を駆り擄い江を渡らしめ、その州郭を焚き去る。丙子(二十四日)、故同州節度使白延遇に太尉を贈り、故濠州刺史唐景思に武清軍節度使を贈る。丁丑(二十五日)、泰州平ぐ。