二月庚戌、潞州奏す、河東劉崇契丹の大將軍楊袞と與に、兵を舉げて南を指すと。壬戌、宰臣馮道百僚を率ひ表を上りて御殿を請ふ、凡そ三たび上り、之を允す。丁卯、中書令馮道を以て山陵使と充て、太常卿田敏を禮儀使と充て、兵部尚書張昭を鹵簿使と充て、御史中丞張煦を儀仗使と充て、開封少尹・權判府事王敏を橋道使と充つ。河東の賊將張暉前鋒を率ひ團柏谷より入寇す、帝群臣を召し親征を議す。宰臣馮道等奏す、劉崇平陽より奔遁して後、勢弱く氣奪はれ、復振の理未だ有らず、竊に聲言自ら來るを以て我を誤らんと慮ふ、陛下纂嗣の初め、先帝山陵日に有り、人心動かし易く、輕く舉ぐべからず、將を命じて寇を禦ぐは、深く便と為すと。帝曰く「劉崇我が大喪に幸ひ、我が新立するを聞き、自ら良便と謂ひ、必ず狂謀を發し、天下取るべく、神器圖るべしと謂ひ、此の際必ず來らん、斷じて疑ひ無し」と。馮道等帝の親征に銳きを以て、因り固く之を諍ふ。帝曰く「昔唐太宗の創業、親征せざるは靡し、朕何ぞ憚らんや」と。道曰く「陛下未だ便ち太宗に學ぶべからず」と。帝又曰く「劉崇烏合の衆、苟くも王師に遇はば、必ず山の卵を壓するが如からん」と。道曰く「陛下山と作し得るや否や知らず」と。帝悅ばずして罷む。諸道に詔し山林の亡命の徒に勇力有る者を募り闕下に送らしめ、仍り之を目して強人と為す。帝趫捷勇猛の士の多く群盜の中より出づるを以て、故に所在に招納を令し、應命する者有らば、即ち其の罪を貸し、禁衛を以て之を處す。朝に殺奪を行ひ、暮に軍籍に升る者有り、讎人之に遇ひて仰ぎ視ることを敢へず。帝意亦之を患ふ、其の後頗る宥することを獲ざる者有り。
三月丁丑、潞州奏す、河東劉崇入寇し、兵馬監押穆令均の部下の兵士賊軍に襲はれ、官軍利あらずと。詔して天雄軍節度使符彥卿に兵を領し磁州固鎮路より潞州に赴かしめ、澶州節度使郭崇を以て之を副とす。詔して河中節度使王彥超に兵を領し晉州路を取りて東に向ひ邀撃せしめ、陜府節度使韓通を以て副と為す。宣徽使向訓・馬軍都指揮使樊愛能・步軍都指揮使何徽・滑州節度使白重贊・鄭州防禦使史彥超・前耀州團練使符彥能等に命じ、兵を領し先づ澤州に赴かしむ。辛巳、制す「天下に大赦し、常赦の原あらざる所の者、咸く赦除す。諸の貶降責授の官は、量りて升陟敘用に與れ、配流徒役の人に應ふるは、並びに放ちて逐便せしむ。諸道州府の欠く所の去年夏秋の租稅は並びに放つ。內外の見任・前文武の職官は並びに恩を加へ、父母の在る者は並びに恩澤に與れ、亡沒する者は封贈に與れ、其の母妻未だ敘せざる者は、特ちに敘封に與る」と云ふ。前涇州節度使史匡懿卒す。
癸未の日、詔して劉崇の侵入に因り、車駕は今月十一日に親征することを定むと宣す。甲申、枢密使鄭仁誨を以て東京留守と為す。乙酉、車駕京師を発つ。壬辰、澤州に至る。癸巳、王師と河東の劉崇・契丹の楊袞と高平に於いて大戦し、賊軍敗績す。初め、車駕河陽に次ぐや、劉崇の潞より南するを聞き、即ち倍程して進む。是月十八日澤州に至り、既に晡に及び、帝戎服を御し、兵を東北郊に観る。州より十五里を距て、夜は村舎に宿す。十九日、先鋒賊軍と相遇う。賊は高平県南の高原に陣す。賊中より来る者有りて云う、「劉崇自ら騎三万を将い、並びに契丹万余騎を加え、厳陣して官軍を待つ」と。帝兵を促して之を撃たしむ。崇は東西に陣を列ね、頗る亦厳整なり。乃ち侍衛馬歩軍都虞候李重進・滑州節度使白重贊に左を将いさせ、陣の西廂に居らしめ、侍衛馬軍都指揮使樊愛能・歩軍都指揮使何徽に右を将いさせ、陣の東廂に居らしめ、宣徽使向訓・鄭州防禦使史彦超に精騎を以て其の中に当たらしめ、殿前都指揮使張永徳に禁兵を以て蹕を衛わしむ。帝介馬して戦を観る。両軍鋒を交うるや、未だ幾ばくもせず、樊愛能・何徽賊を見て遁れ、東廂の騎軍乱れ、歩軍は甲を解き賊に投ず。帝乃ち自ら親騎を率い、陣に臨み戦を督う。今上(後の世宗)陣前に騎を馳せ、先ず其の鋒を犯す。戦士皆奮命して争先い、賊軍大敗す。日暮れて、賊万余り澗に阻まれて陣す。会劉詞兵を領して至り、大軍と之を迫る。賊軍又潰え、陣に臨み賊の大将張暉及び偽枢密使王延嗣を斬る。諸将分兵して追襲す。僵屍棄甲山谷に満つ。初夜、官軍高平に至り、賊軍数千人を降す。獲る所の輜重・兵器・駝馬・偽乗輿器服等、勝げて紀す可からず。其の夕、降軍二千余人を殺す。我が軍の敵に降る者も亦皆就戮せらる。初め、両軍の未だ整わざるや、風東北より起こり、我に便ならず。及び賊軍と相遇うや、風勢陡に回り、人情相悦ぶ。戦の前夜、大星日の如く、数丈を流行し、賊営の上に墜つ。及び戦うや、北人官軍の上に、雲気龍虎の状の如き有るを見る。則ち天の順を助くる、誠に其れ然らんか。是の日、危急の勢い、頃刻も保つ莫し。帝の英武果敢に頼り、親しく寇敵に臨む。然らずんば則ち社稷幾綴旒の若からん。是の夕、帝野次に宿す。
夏四月乙巳、太祖の霊駕が東京を発つ。乙卯、嵩陵に葬る。河中節度使王彦超が奏上するに、偽汾州防禦使董希顔が城を以て帰順す。丙辰、偽遼州刺史張漢超が城を以て帰順す。丁巳、柏谷寺に幸す。右僕射・平章事・判三司李穀を遣わし、河東城下に赴かしめ、軍需を計度せしむ。河東城下の諸将に詔し、戸口を招撫し、侵掠を禁止し、只だ当年の租税を徴納せしめ、また民に粟五百斛・草五百囲を入れる者を募れば出身を賜い、千斛・千囲の者は州県官を授く。辛酉、符彦卿が奏上するに、嵐・憲二州帰順す。壬戌、制して衛国夫人符氏を立て皇后と為し、仍て有司に日を択び礼を備え冊命せしむ。王彦超が奏上するに、石州を収め下し、偽刺史安彦進を獲たり。癸亥、偽沁州刺史李廷誨が城を以て帰順す。甲子、皇妹寿安公主張氏、進み封ぜられ晋国長公主と為る。乙丑、東京より奏す、太師・中書令馮道薨ず。丙寅、太祖皇帝の神主を太廟に祔す。庚午、潞州の見禁罪人を曲赦し、死罪を除く外並びに釈放す。是の日、車駕潞州を発ち、親征して劉崇を征す。癸酉、忻州の偽監軍李、刺史趙臯及び契丹の大将楊耨姑を殺し、州城を以て帰順す。詔して李に忻州刺史を授く。
五月乙亥、尚書右丞辺帰讜を以て本官を守らせ、枢密直学士を充てしむ。尚書戸部侍郎陶穀を以て本官を守らせ、翰林学士を充てしむ。丙子、車駕太原城下に至る。是の日、偽代州防禦使鄭処謙が城を以て帰順す。丁丑、太原城下に兵を観る。帝自ら慰勉し、錫賚差等あり。代州を升し節鎮と為し、静塞軍を以て額と為し、鄭処謙を以て節度使と為す。戊寅、偽命の石州刺史安彦進を太原城下に斬る。王師に拒げるを以てなり。庚辰、前忠武軍節度使郭従義を以て天平軍節度使と為す。符彦卿・郭従義・向訓・白重賛・史彦超等を遣わし、歩騎万余を率いて忻州に赴かしむ。是の夜大風、屋を発し樹を抜く。壬午、宰臣李穀を以て太原行府事を判ぜしむ。辛丑、府州を升し節鎮と為し、永安軍を以て軍額と為し、本州防禦使折徳扆を以て節度使と為す。
六月癸卯朔、詔して班師す。車駕太原を発ち離る。時に大いに兵賦を集め、及び山東・懐・孟・蒲・陜の丁夫数万を征し、急ぎ其の城を攻め、旦夕の間、必取を期す。会うに大雨時に行われ、軍士労苦し、復た忻口の師振わず、帝遂に旋師の意を決す。指麾の間、頗る匆遽を傷い、部伍紛乱し、復た厳整無く、不逞の徒訛言相恐れ、随軍の資用頗る遺失する者有り。賊城の下、糧草数十万、悉く焚き棄つ。乙巳、車駕潞州に至る。癸丑、帝潞州を発つ。乙丑、新鄭県に幸す。丙寅、帝親しく嵩陵を拝し、祭奠して退く。守陵の将吏及び近陵の戸に帛を賜うこと差等あり。庚午、帝河東より至る。
秋七月癸酉朔(一日)、前河西軍節度使申師厚を責めて右監門衛率府副率に授く。師厚は涼州に在ること歳余、その部する所艱食(食糧難)に陥り、蕃情(異民族の情勢)反覆す。入朝を乞うべく奏上し、尋いでその子を留後として留め置き、詔を俟たずして任を離れたる故にこれを責む。乙亥(三日)、天雄軍節度使・衛王符彥卿、位を進めて守太傅と為し、改めて魏王に封ず。鄆州郭従義は兼中書令を加え、河陽劉詞は永興軍に移鎮し、兼侍中を加う。潞州李筠は兼侍中を加え、河中王彥超は許州に移鎮し、兼侍中を加う。許州節度・侍衛都虞候李重進は宋州に移鎮し、同平章事兼侍衛親軍都指揮使を加う。武信軍節度使兼殿前都指揮使張永徳を以て滑州節度使と為し、検校太傅を加え、軍を典することは旧の如し。同州薬元福は陝州に移鎮し、検校太尉を加う。鄜州白重賛は河陽に移鎮し、検校太尉を加う。陝州韓通は曹州に移鎮し、検校太傅を加う。帝即位の初め、諸侯に覃慶(恩賞を広く施す)す。是れ従征の功を賞するなり。丙子(四日)、前礼部侍郎辺光範を以て刑部侍郎と為し、権判開封府事を兼ねしむ。丁丑(五日)、天下兵馬元帥・呉越国王銭俶に天下兵馬都元帥を加う。襄州節度使・陳王安審琦に守太尉を加う。戊寅(六日)、右散騎常侍張可復卒す。前亳州防禦使李万金を以て鄜州留後と為す。庚辰(八日)、南荘に幸す。辛巳(九日)、荊南節度使・南平王高保融に守中書令を加え、夏州節度使・西平王李彜興に守太保を加う。西京留守武行徳・徐州王晏・鄧州侯章、並びに兼中書令を加う。癸未(十一日)、湖南王進逵に兼中書令を加う。天徳軍節度使郭勲・邠州折従阮・安州李洪義、並びに兼侍中を加う。前華州節度使孫方諫を以て同州節度使と為し、兼中書令を加う。前永興軍節度使王仁鎬を以て河中節度使と為し、検校太尉を加う。乙酉(十三日)、滄州李暉・貝州王饒・鎮州曹英、並びに兼侍中を加う。涇州張鐸・相州王進・延州袁鳷、並びに検校太尉を加う。壬辰(二十日)、百僚上表し、九月二十四日の誕聖日を以て天清節と為すことを請う。之に従う。癸巳(二十一日)、左僕射兼門下侍郎・平章事・監修国史範質を以て守司徒兼門下侍郎・平章事・宏文館大学士と為す。(《国老談苑》に云う、周太祖嘗て世宗をして範質に詣わしむ。時に親王たり、軒車高大にして門容れず。世宗即ち馬を下りて歩み入る。及び嗣位し、従容として質に語りて曰く、「卿の居る所は旧宅なるか、門楼何ぞ一何小なるや」と。遂に第を治む。)左僕射兼中書侍郎・平章事・集賢殿大学士・判三司李穀を以て守司徒兼門下侍郎・平章事・監修国史と為す。中書侍郎・平章事王溥を以て中書侍郎兼礼部尚書・平章事・集賢殿大学士と為す。枢密院学士・工部侍郎景範を以て中書侍郎・平章事・判三司と為す。枢密使・検校太保・同平章事鄭仁誨に兼侍中を加う。霊武馮継業・定州孫行友・邢州田景鹹、並びに検校太傅を加う。晋州楊廷璋に検校太保を加う。太子詹事趙上交を以て太子賓客と為す。乙未(二十三日)、枢密副使・右監門衛大将軍魏仁浦を以て枢密使・検校太保と為す。(《東都事略》に云う、議者仁浦の科第より進まずと為す。世宗曰く、「才如何なるかを顧みよ」と。遂に之を用う。)丙申(二十四日)、中書舎人史館修撰・判館事劉温叟を以て礼部侍郎と為し、判館は旧の如し。丁酉(二十五日)、相州節度使王進卒す。
八月壬申朔(一日)、宣徽北院使呉延祚を以て右監門衛大将軍充職と為す。枢密院直学士・尚書右丞辺帰讜を以て尚書左丞充職と為す。甲辰(三日)、南荘に幸し、従臣に射を賜う。乙巳(四日)、吏部侍郎顔衎を以て工部尚書致仕と為す。丙午(五日)、同州節度使孫方諫卒す。己酉(八日)、前沢州刺史李彦崇を責めて右司禦副率に授く。高平の役、帝賊軍と相遇うや、即ち彦崇に命じて兵を領し江猪嶺を守らしめ、以て寇の帰路を遏らしむ。彦崇初め王師已に却くを見て、即時にして退く。及び劉崇兵敗るるや、果たして茲の嶺より遁る。故に是の責有り。壬子(十一日)、金州防禦使王暉を以て同州留後と為す。癸丑(十二日)、呉越国内外都指揮使呉延福を以て寧国軍節度使・検校太尉と為す。銭俶の請いに従うなり。太子少師宋彦筠を以て太子太師致仕と為す。甲寅(十三日)、兵部郎中兼太常博士尹拙を以て国子祭酒と為す。丙辰(十五日)、皇姑故福慶長公主を追封して燕国大長公主と為す。李重進の母なり。丁巳(十六日)、戸部郎中致仕景初を以て太僕卿致仕と為す。宰臣範の父なり。己巳(二十八日)、宜しく華州鎮国軍を停め、旧に依りて郡と為すべし。庚午(二十九日)、給事中劉悦・康澄を並びに右散騎常侍と為す。辛未(三十日)、左散騎常侍裴巽を以て御史中丞と為し、御史中丞張煦を以て兵部侍郎と為す。集賢殿学士・判院事司徒詡を以て吏部侍郎と為し、左散騎常侍薛沖乂を以て工部侍郎と為す。
九月壬申朔(一日)、東京旧宅を以て皇建禅院と為す。甲戌(三日)、武安軍節度副使・知潭州軍府事周行逢を以て鄂州節度使・知潭州軍府事と為し、検校太尉を加う。丙戌(十五日)、右屯衛将軍薛訓を除名し、沙門島に流す。雍兵倉を監し、吏卒をして掊斂(収奪)せしむるに坐す。己亥(二十八日)、右僕射致仕韓昭裔・左僕射致仕楊凝式を並びに太子太保致仕と為す。太子太傅致仕李粛を以て太子太師致仕と為す。辛丑(三十日)、宋州巡検供奉官・副都知竹奉璘を寧陵県に於いて斬る。商船を盗掠して捕獲せざるに坐す。
冬十月甲辰、左羽林大将軍孟漢卿に死を賜う。監納の際に耗餘を多く取り立てた罪に坐すためなり。丙午、安州節度使李洪義を青州節度使と為し、貝州節度使王饒を相州節度使と為し、徐州節度使王晏を西京留守と為し、西京留守武行徳を徐州節度使と為す。戊申、龍捷左廂都指揮使・泗州防禦使韓令坤を洋州節度使と為し、侍衛馬軍都指揮使を充てる。虎捷右廂都指揮使・永州防禦使李継勲を利州節度使と為し、侍衛歩軍都指揮使を充てる。己酉、太子太保致仕の楊凝式卒す。詔して安・貝二州は旧に依りて防禦州と為し、其の軍額は並びに停む。壬子、今上を永州防禦使と為し、前の如く殿前都虞候に依る。戊午、監修国史李穀等上言して曰く、「竊に惟うに、古より王者は皆史官を建て、君臣の献替の謀は皆須く備載し、家国の安危の道は直書を得る。歴代已来、其の名一ならず。人君の言動は、則ち起居註は累朝に創まり、輔相の経綸は、則ち時政記は前代に興る。然る後に其の事実を採り、史書に編作す。蓋し聞見の間には須く来処有るを縁り、記録の際には審詳を得るためなり。今の左右起居郎は、即ち古の左右史なり。唐の文宗朝、其の官に命じて筆を執らしめ、殿階の螭頭の下に立ちて、以て政事を紀せしむ。後には則ち明宗朝、端明殿及び枢密直学士に命じ、皆日暦を輪修し、旋って史官に送り、以て纂修に備えしむ。及んで近朝に至り、此の事皆廃れ、史官は惟だ百司の報状に憑り、館司は但だ両省の制書を取るのみ。此の外に訪聞有りと雖も、例えて端的ならず。伏して先皇帝の昌運を創開し、及び皇帝陛下の丕基を纘嗣するより以来、其の聖徳武功・神謀睿略は、而して皆万幾宥密にして、丹禁深厳、外臣の知る所に非ず、豈に庶僚の訪う可けんや。此の後は願わくは諮詢の事・裁制の規を以て、別に近臣を命じ旋って抄録を具えしめ、毎に日暦を修撰するに当たり、即ち令して史臣に封付せしめ、庶くは国事に漏略の文無く、職業に疏遺の咎を免れんことを。」と。之に従う。因って枢密直学士に命じ、今後より枢密使の処に於いて、逐月事件を抄録し、史館に送付せしむ。己未、供奉官郝光庭を棄市す。葉県巡検の日に在り、私を挟みて平人を断殺したるに坐す。是の日大閲有り、帝親しく之に臨む。帝は高平の役より、諸軍の甚だ厳整せざるを睹て、遂に退卻有り。是に至り今上に命じて一概に簡閲せしめ、武藝超絶する者を選び、署して殿前諸班と為す。因って是に散員・散指揮使・内殿直・散都頭・鉄騎・控鶴の号有り。復た総戎の者に命じ、龍捷・虎捷より以降、一一之を選び、老弱羸小なる者は之を去る。諸軍の士伍、精当ならざるは無し。是に由りて兵甲の盛なること、近代比ぶる無く、且つ冗食の費を減ず。
十一月戊寅、太子賓客石光贊を兵部尚書致仕と為す。壬午、鎮州節度使曹英卒す。乙酉、澶州節度使郭崇を鎮州節度使と為す。乙未、荊南節度副使・帰州刺史高保勖を寧江軍節度使・検校太尉と為し、荊南節度行軍司馬を充てる。戊戌、詔して宰臣李穀に河堤を監築せしむ。是より先、鄆州界の河決し、数州の地洪流の患と為る。故に穀を命じて之を治めしむ。丁夫六万人を役し、三十日にして罷む。
十二月己酉、太子太師侯益は本官を以て致仕す。