舊五代史

周書六: 世宗本紀二

顯德二年春正月辛未朔、帝は朝賀を受けられず。辛卯、詔す。「朝廷の文班に在る者は、各々令録に堪えうる者一人を挙げよ。たとえ姻族近親であっても妨げとはせぬ。官を授ける日に、各々挙主の姓名を署せしめよ。もし官に在りて貪濁に任せず、懦弱にして治めずば、事状の重軽を量り、挙主を連坐せしむ。」乙未、詔す。「応に逃戸の莊田は、並びに人に請射承佃を許し、税租を供納せしむべし。もし三周年の内に本戶が帰来する者は、その莊田の荒熟を計らず、並びに半分を交還す。五周年の内に帰業する者は、三分の一を交還す。もし五周年を過ぎて帰業する者は、その莊田は本戶の墳塋を除き、交付の限りに在らず。その近北地の諸州に、応に蕃に陷ちたる人戶有り、蕃界より帰業する者、五周年の内に来る者は、三分の二を交還す。十周年の内に来る者は、半分を交還す。十五周年に来る者は、三分の一を交還す。十五周年を過ぎて来る者は、交還の限りに在らず。」

二月戊申、使者を西京に遣わし、致仕した太子太師侯益、白文珂、宋彥筠等に茶薬錢帛を賜うこと各有差、仍て詔を降して存問す。壬戌、詔して曰く。

理を善く操る者は全功有ること能わず、身を善く処する者は過失無きこと能わず。堯・舜・禹・湯の上聖といえども、文・武・成康の至明といえども、尚お猶ほ逆耳の言を思い、苦口の薬を求む。況んや後人の及ばざるにあらんや。

朕は先帝の霊を承け、至尊の位に居る。道に渉ること猶ほ浅く、事を経ること未だ深からず。常に昏蒙を懼れ、負荷に克たざるを恐る。宸極に臨みてより、已に周星を過ぐ。刑政取捨の間、国家措置の事に至るまで、豈に尽く是なるべけんや、未だ周からざる有るべし。朕は猶ほ自ら知る、人は豈に察せざらんや。然るに在位者に朕が躬の過失を指す者一人も無く、食祿者に曾て一言も時政の是非を論ずる者無し。豈に朕の寡昧、言うに足らざるか。豈に人の循黙、未だ心を尽くさざるか。豈に左右前後、畏忌する所あるか。豈に高卑疏近、自ら間別を生ずるか。

古人云う、「君子は大言は大祿を受け、小言は小祿を受く。」又云う、「官は王の闕を箴す。」則ち是れ士大夫の祿位有る者は、言わざる人無きなり。然らば則ち人の上たる者、その心を感ぜしめてその言を致さざるは、これ朕が過ちなり。骨鯁の辞を求めずんばあらんや、正直の議を詢ねずんばあらんや。共に裨益を申し、治平に洽わんことを庶幾う。朕、卿大夫の才を尽く知ること能わず、面を尽く識ること能わず。もしその言を采らずしてその行を観、その意を審かにせずしてその忠を察せざれば、何を以て器量の深浅を見、任用の当否を知らん。もし言の入らざれば、罪実に予に在り。苟もこれを求めて言わざれば、咎将に誰か執らん。

応に内外の文武臣僚は、今後或いは見聞する所有らば、並びに上章して論諫することを許す。もし朕が躬に闕失有らば、以て言を尽くすを得べし。時政に瑕疵有らば、宜しく隠すこと有るべからず。方に名実を求め、豈に虚華を尚ばんや。苟や素より文を工にせざれば、但だ直にその事を書くべし。辞に謬誤有る者は、固より短を捨つべく、言傷忤に渉る者は、必ず留中とすべし。冀う所は情を尽くし、以て多慮に至らしめざらんとす。諸に司局の公事有る者は、各々宜しく職を挙ぐべし。事に不便なる者有らば、これを革すべし。理に行うべき者有らば、これを挙ぐべし。因循に務むること勿れ、漸く訛謬を成すこと有ること勿れ。臣僚に出使して在外より回る者有らば、苟や黎庶の利病を知り、官吏の優劣を聞かば、当に具に敷奏すべく、以て聴聞を広むべし。班行職位の中、遷除改轉の際には、即ち当に力を陳ぶるの軽重を考へ、事を言うの否臧を較ぶべし。公を奉じて切直なる者は当に甄升を議すべく、事に臨んで蓄縮する者は須らく抑退を期すべし。翰林學士・両省官は職侍從に居り、乃ち論思諫諍の司なり。御史臺官は憲綱を処るに任じ、是れ撃搏糾彈の地なり。その職分を論ずれば、尤も群臣に異なり。もし逐任の官内に、献替啓発彈挙する者有らば、月限満ちて遷轉に合う時に至りては、宜しく中書門下に先ず奏して進止を取らしむべし。

三月辛未、李晏口を以て静安軍と為す。その軍は南は冀州に百里を距り、北は深州に三十里を距り、胡盧河を夾んで壘と為す。(《通鑒》:胡盧河を浚うは正月に在り、三月に至りて始めて軍額を建つ。)是に先立ち、貝・冀の境は戎疆に密邇し、居常敵騎河を渉りて南し、馳突往来洞として阻礙無し。北鄙の地、民安居せず。帝乃ち図に按じて策を定め、許州節度使王彥超・曹州節度使韓通等を遣わし兵を率いて他に徙り、李晏口に壘を築き、以て兵を戍守せしむ。功未だ畢わざるに、契丹の眾尋いで至る。彥超等これを撃退す。壘成るに及び、頗る要害を扼す。是より敵騎至るも、敢えて河を渉らず。邊民稍々耕牧を得たり。壬辰、尚書禮部貢院、新たに及第した進士李覃等一十六人の試した詩賦・文論・策文等を進む。詔して曰く。「国家貢挙の司を設け、英俊の士を求む。務めて文行を詢い、方に科名に中らしむ。比年以來、濫進多きを聞く。或いは年労を以て第を得、或いは媒勢に因りて身を出だす。今歳の挙人を放つに、試みに看驗せしむ。果たして紕繆を見れば、須らく去留に至らん。その李覃・何厳・楊徽之・趙鄰幾等四人は、宜しく及第を放つべし。その厳説・武允成・王汾・閭邱舜卿・任惟吉・周度・張慎徽・王翥・馬文・劉選・程浩然・李震等一十二人は、藝學未だ精ならず、並びに宜しく勾落すべく、且つ苦學せしめ、以て再来を俟つべし。禮部侍郎劉溫叟は選士を失い、頗る因循に属す。その過尤に據れば、譴謫を行なうに合う。尚ほ寬恕を視、特と矜容を与う。劉溫叟は罪を放つ。その将来の貢挙公事は、仍て所司に別に條理を具えて以て聞かしむ。」

夏四月庚戌、内客省使李彥頵を以て延州留後と為す。辛亥、詔す。「応に外より新たに除された御史は、未だ朝謝せず、州府を行き過ぐるに、館驛の供給及び所在の公禮を受くることを得ず。」乙卯、詔して京城の四面に別に羅城を築かしめ、来春を期して役を興す。戊午、翰林學士・給事中竇儀を以て禮部侍郎と為し、前の如く職を充つ。禮部侍郎劉溫叟を以て太子詹事と為す。癸亥、翰林學士・中書舍人楊昭儉を以て御史中丞と為す。是の月、詔して翰林學士承旨徐臺符以下二十餘人に、各々《為君難為臣不易論》・《平邊策》を一首ずつ撰せしむ。帝親らこれを覧る。(《宋史・陶蒨傳》:世宗宰相に謂いて曰く、「朕歴代君臣治平の道を観るに、誠に易からず。又た唐・晉失德の後、亂臣黠將、僭竊する者多きを念う。今中原甫く定まり、吳・しょく・幽・へい未だ平附せず、聲教遠く被ること能わず。宣に近臣に令して各々論策を為さしめ、経済の略を導かしむべし。」乃ち承旨徐臺符以下二十餘人に命じ、各々《為君難為臣不易論》・《平辺策》を撰して以て進ましむ。その略率ね文徳を修め、遠人を来たすを意とす。惟だ蒨と竇儀・楊昭儉・王樸は封疆江・淮に密邇するを以て、当に師を用いてこれを取るべしとす。世宗高平を克つより、常に兵を訓い武を講じ、一天下を混ぜんと思う。その策を覧るに及び、欣然として聴納す。是より平南の意益々堅し。)

五月辛未(の日)、回鶻が使者を遣わして地方の産物を貢いだ。鳳翔節度使王景が上言した、「詔を奉じて秦・鳳の二州を攻め取ろうとし、すでに今月一日に軍を率いて大散関の路より進軍し、駐屯した」。先に、晋の末年に契丹が晋に入り、秦州節度使何建が秦・成・階の三州をもって蜀に入り、蜀人はまた鳳州を取った。ここに至り、秦・鳳の人戸は蜀の苛酷な政治を怨み、相次いで宮闕に詣で、兵を挙げて旧地を収復することを乞うた。そこで詔して王景と宣徽南院使向訓に師を率いて赴かせた。(『東都事略・王溥伝』:世宗が秦・鳳を討たんとし、王溥が向拱を推薦し、遂にこれを平定した。世宗は宴に因み卮酒を酌んでこれを賜い、曰く、「我が辺功を成すは、卿の帥を択ぶ力なり」と。)甲戌(の日)、詔して曰く、

釈氏の貞宗は聖人の妙道にして、世を助け善を勧むるは、その利甚だ優れり。前代以来、累ねて条貫あり、近年以降、頗る規矩を紊うす。近く諸州の奏聞を覧るに、継いて緇徒の法を犯すことあり。科禁無きを蓋い、遂に尤も違うに至る。私に僧尼を度し、日増しに猥雑となり、寺院を創修し、漸く繁多に至る。郷村の中、その弊転た甚だし。網を漏れ軍に背くの輩、苟くも剃削して以て刑を逃れ、奸を行い盗を為すの徒、住持に托して以て悪を隠す。将に教法を隆さんと欲せば、須らく否臧を弁ずべし。旧章を挙げて宜しく、以て前弊を革すべし。

諸道・府・州・県・鎮・村・坊において、応に勅額のある寺院は一切旧に仍る。その勅額無き者は、並びに仰せて停廃せしめ、所有の功徳・佛像及び僧尼は、並びに騰して合留の寺院内に安置す。天下の諸県城郭内に、もし勅額寺院無きは、只だ合停廃の寺院内に於て、功徳屋宇最も多きものを選び、或いは寺院僧尼各一所を留め、もし尼の住する無きは、只だ僧寺院一所を留む。諸軍鎮の坊郭及び二百戸以上のものも、亦た諸県の例に依り指揮す。もし辺遠の州郡に勅額寺院の処無きは、停廃の寺院内に僧尼各二所を留む。今後並びに寺院・蘭若を創造することを得ず。王公・戚裏・諸道の節度使・刺史以下は、今後寺院の創造を奏請し及び戒壇の開置を請うことを得ず。男子・女子もし志願して出家せんとする者は、並びに父母・祖父母の処分を取り、既に孤なれば同居の伯叔兄の処分を取り、聴許を俟ちて方で出家することを得。男は年十五以上、経文一百紙を念得し、或いは経文五百紙を読得し、女は年十三以上、経文七十紙を念得し、或いは経文三百紙を読得する者は、本府に経て状を陳じ剃頭を乞い、録事参軍・本判官に委ねて経文を試験す。その未だ剃頭せざる間は、須らく発髻を留むべし。もし私に剃頭する者有らば、却って還俗を勒し、その本師主は重杖に決し還俗を勒し、仍って役に配して三年とす。両京・大名府・京兆府・青州は各戒壇を置き、受戒の時を俟ち、両京は祠部に委ねて官を差し引試し、その大名府等三処は、只だ本判官・録事参軍に委ねて引試す。もし私に受戒する者有らば、その本人・師主・臨壇の三綱・知事僧尼は、並びに私剃頭の例に同じく科罪す。応に剃頭受戒すべき人等は、逐処聞奏し、勅下を俟ち、祠部に委ねて憑由を給付し、方で剃頭受戒することを得。応に男女に父母・祖父母在りて、別に児息の侍養無きは、出家を聴さず。曾て罪犯有り、官司の刑責に遭いし之人、及び父母を棄背し、逃亡の奴婢、奸人の細作、悪逆の徒党、山林の亡命、未獲の賊徒、負罪潜竄の人等は、並びに出家剃頭することを得ず。もし寺院輒く容受する者有らば、その本人及び師主・三綱・知事僧尼・隣房同住の僧は、並びに仰せて収捉禁勘し、申奏して裁を取らしむ。

僧尼俗士、前に自ら多く舍身・焼臂・煉指・釘截手足・帯鈴掛燈・諸般の身体を毀壞し、道具を戯弄し、符禁左道、妄りに変現還魂坐化・聖水聖燈妖幻の類を称するもの有り、皆な是れ衆を聚めて流俗を眩惑するものなり。今後一切止絶す。もし此の色の人あらば、所在に仰せて厳断し、辺遠に遞配し、仍って還俗を勒す。その犯す所の罪重きは、格律に準じて処分す。每年僧帳を両本造り、その一本は奏聞し、一本は祠部に申す。逐年四月十五日後、諸県を勒して管界の寺院僧尼の数目を取索し州に申さしめ、州司は帳を攅え、五月終り以前に文帳を京に到らしむ。僧尼の籍帳内に名無き者は、並びに還俗を勒す。その巡礼行脚、出入往来は、一切便を取る。

是の歳、諸道の供到した帳籍によれば、存する寺院凡そ二千六百九十四所、廃した寺院凡そ三万三百三十六、僧尼籍に係る者六万一千二百人。戊寅(の日)、刑部侍郎辺光範を以て戸部侍郎と為し、前御史中丞裴巽を以て刑部侍郎と為す。己卯(の日)、刑部員外郎陳渥に賜死す。斉州臨邑県の民田を検するに実を失するに坐すなり。渥は人となり清苦にして、事に臨み守る有り。微累を以て極刑に当たる、時の論之を惜しむ。戊子(の日)、沙州留後曹元忠を以て沙州節度使・検校太尉・同平章事と為す。丙申(の日)、礼部侍郎竇儀奏し、童子・明経の二科を廃し及び考試の次第を条貫せんことを請う。之に従う。

六月己酉(の日)、曹州節度使韓通を以て西南面行営都虞候に充てる。丙辰(の日)、亳州防禦使陳思譲を以て邢州留後と為す。庚申(の日)、詔す、「両京及び諸道府州は、留守判官・両使判官・少尹・防禦団練軍事判官を奏薦することを得ず。もし是れ幕に随い已に此の職を曾任する者は奏するを聴す。防禦団練刺史州は、各推官一員を置く」。辛酉(の日)、景州を廃して定遠軍と為す。癸亥(の日)、前延州節度使袁鳷を以て滄州節度使と為し、前邢州節度使田景鹹を以て鄧州節度使と為す。

秋七月丁卯朔(の日)、鳳翔節度使王景を以て兼ねて西南面行営都招討使と為し、宣徽南院使・鎮安軍節度使向訓を以て兼ねて西南面行営都監と為す。戊辰(の日)、太子太傅・魯国公和凝卒す。

八月癸卯(の日)、兵部尚書張昭・太常卿田敏等奏し、祠祭の用いる犠牲の数を減ずることを議す。ここに由りて圜丘・方沢及び太廟は即ち太牢を用い、余は皆な羊を以て之に代う。丁未(の日)、中書侍郎・平章事・三司を判ずる景範は三司を判ずるを罷め、銀青光禄大夫を加え、前の如く中書侍郎・平章事とし、開国伯に進封す。枢密院承旨張美を以て権判三司と為す。辛亥(の日)、詔す、「今後応に病患老弱の馬有らば、並びに同州沙苑監・衛州牧馬監に送り、彼の水草に就き、以て飲龁の性を尽くさしむ」。庚子(の日)、太子太師致仕趙暉卒す。乙丑(の日)、詔して曰く、「今後諸処の祠祭において、応に牲牢・香幣・饌料・供具等有らば、本司の官吏に仰せ委ねて躬親検校せしめ、務めて精至に在らしむ。行事の儀式は『礼経』に依附す。大祠祭で楽を用いるに合するは、仍って須らく祀前に教習す。凡そ祀事に関わるは、宜しく太常博士及び監察御史に用心点検せしむ。稍や因循すれば、必ず朝典を行わん」。

九月丙寅朔(一日)、詔して天下の銅器を禁じ、始めて監を立てて銭を鋳ることを議す。癸未(十八日)、太子賓客趙上交を以て吏部侍郎と為し、吏部侍郎於德辰・司徒しと詡を並びに太子賓客と為す。乙酉(二十日)、詔して文武百僚に、今後天清節に遇うは、近臣の例に依り各衣服を賜う。辛卯(二十六日)、西南面招討使王景、部送して所獲の西川軍校姜暉以下三百人を闕下に至らしむ。甲午(二十九日)、潞州部送して先に擒え到れる河東兵馬監押程支等二百人を闕下に至らしむ。詔して、所獲の西川・河東軍校以下並びにこれを釈し、各銭帛を賜うこと差あり。

閏月壬子(七日)、西南面招討使王景奏す、黄花谷に於いて西川賊軍を大破し、偽命の都監王巒・孫韜等一千五百餘人を擒う。癸丑(八日)、秦州偽命の觀察判官趙比、本城を以て降る。詔して比を以て郢州刺史と為す。先に、帝は西師の久しくとどまるを以て、糧運に艱しきにより、今上に命じて駅を乗りて軍前に赴かしめ、以て攻戦の勢を観せしむ。及び回り、具に事勢を以て上奏す。帝甚だ悦ぶ。是に至りて果たして成功す。甲子(十九日)、秘書少監許遜を責授して蔡州別駕と為す。先に竇氏の図書を仮りて隠して還さざるに坐す。

冬十月庚午(五日)、近臣を苑中に召して射せしめ、金器鞍馬を賜うこと差あり。辛未(六日)、成州帰順す。癸酉(八日)、給事中王敏を以て工部侍郎と為す。戊寅(十三日)、高麗国使いを遣わして朝貢す。丁丑(十二日)、右散騎常侍さんきじょうじ康澄を責授して環州別駕と為し、左司郎中史又元を責授して商州長史と為し、左ぎょう衛大將軍元を責授して均州別駕と為し、右驍衛將軍林延禔を責授して登州長史と為す。澄等は浙中に奉使し、回日の私便に以て停留し、時に逾えて復命せし故に是の責あり。右諫議大夫李知損を沙門島に配流す。妄りに章疏を貢ぎ、貴近を斥讟し、及び両浙に使を求めしに坐す。己丑(二十四日)、前太常卿邊蔚卒す。是の月、始めて南征を議す。

十一月乙未朔(一日)、宰臣李穀を以て淮南道前軍行営都部署、廬・寿等州行府事を知らしむ。許州節度使王彦超を以て行営副部署と為す。侍衛馬軍都指揮使韓令坤等一十二将に命じ、各征行の号を帯びて以てこれに従わしむ。己亥(五日)、淮南州県に諭す。詔して曰く。

朕、基構を纘承してより、寰瀛を統御す。方に恭己して朝に臨み、文德を誕修せんとす。豈に兵を興し衆を動かし、専ら武功を耀さんと欲せんや。顧みるにこの昏乱の邦、須らく吊伐の義を挙ぐべし。蠢爾たる淮甸、敢えて大邦を拒む。唐室の陵遅に因り、黄寇の紛乱に接し、飛揚跋扈すること垂六十年、一方を盗據し、偽号を僭称す。数朝の多事に幸いし、北境と交通を以てし、厚く兵端を啓き、辺患と為るを誘う。晋・漢の代、寰海未だ寧からず。而るに乃ち叛亡を招納し、兇慝を朋助す。李金全の安陸を據る、李守貞の河中に叛するに、大いに師徒を起こし、来たりて応援と為り、高密を攻侵し、吏民を殺掠し、閩・越の封疆を迫奪し、湘・潭の士庶を塗炭す。我が朝の運を啓くに至り、東魯庭せず。兵を発して叛臣に応接し、釁を観て徐部に憑淩す。沭陽の役、曲直知るべし。尚ほ包荒を示し、猶問罪を稽る。邇く後、維揚一境、連歳饑を阻む。我が国家、彼の災荒を念い、大いに糴易を許す。前後擒獲の将士は、皆遣わして還し放つ。自ら来たり辺兵を禁戢し、侵撓せしめず。我に負う所無く、彼は実に多奸なり。契丹を勾誘して今に至るまで未だ已まず、並寇を結連して我と讎と為る。罪悪名づけ難く、人神共に憤る。

今則ち推輪して将を命じ、鼓を鳴らして師を出す。浙右の楼船を征し、朗陵の戈甲を下す。東西勢を合せ、水陸斉しく攻む。呉の孫皓の計窮まれば、自ら命に帰すべく、陳の叔宝の数尽きれば、何れの処にか偷生せん。応に淮南の将士軍人百姓等は、久しく朝廷に隔たり、声教を聞かず。偽俗に従うと雖も、応に華風を楽しまん。須らく善く安危を択び、早く去就を図るべし。如し能く戈を投げ款を献げ、郡を挙げて来降し、具に牛酒を以て師を犒い、圭符を納めて命を請わば、車服玉帛豈に旌酬を吝しまんや、土地山河誠に愛惜無し。刑賞の令は、信なること丹青の若し。苟くも或いは執迷せば、寧くも後悔を免れんや。王師の至る所、軍政甚だ明らかにして、秋毫を犯さず、時に雨有るが如し。百姓父老は各務めて安居し、剽擄焚焼は必ず令して禁止せしむ、と云う。

高麗国王王昭に開府儀同三司・検校太尉を加え、前の如く使持節元菟州都督ととく・大義軍使に依り、王は故の如し。辛亥(十七日)、前滄州節度使李暉を以て邠州節度使と為す。壬子(十八日)、潞州奏す、祁県に於いて河東賊軍を破る。癸丑(十九日)、西南面行営都部署王景奏す、鳳州を収復し、偽命節度使王環を獲たり。乙卯(二十一日)。秦・鳳・階・成等州管內の罪人を曲赦す。顕徳二年十一月以前より、凡そ罪犯有るは、軽重を問わず、一切釈放す。丁巳(二十三日)、前邠州節度使折従阮卒す。己未(二十五日)、邢州奏す、河東の劉崇死す。壬戌(二十八日)、淮南前軍都部署李穀奏す、先鋒都指揮使白延遇、来遠鎮に於いて淮賊を破る。

十二月丙寅の日、左金吾大将軍蓋萬を右監門上将軍に任ず。丁卯の日、淄州より奏上す、前中書侍郎・同平章事景範卒す。庚午の日、右金吾衛上将軍王守恩卒す。辛未の日、安州より奏上す、盗賊防禦使張穎を殺す。この日、翰林学士承旨徐臺符卒す。甲戌の日、李穀奏上す、寿州城下にて淮賊二千人を破る。丙子の日、左諫議大夫・権知開封府事王樸を左散騎常侍と為し、端明殿学士を充て、前の如く権知開封府事を依任す。永興軍より奏上す、節度使劉詞卒す。己卯の日、李穀奏上す、山口鎮にて淮賊千余人を破る。丙戌の日、枢密使鄭仁誨卒す。辛卯の日、西南面行営都部署王景、人を差して捕獲せし偽鳳翔節度使王環を部送して闕下に至らしむ。詔してこれを釈し、なお鞍馬衣服を賜い、尋いで右驍衛(按:原本一字を闕く)大将軍に授く。この冬、起居郎陶文挙をして宋州に残租を徴収せしむ。文挙は元来酷吏なり、宋の民その刑に罹る者凡そ数千、冤号の声道路に聞こえ、悼髦の輩、その刑に堪えずして死する者数人、物議以て允当ならずと為す。