舊五代史

周書三: 太祖本紀三

廣順元年冬十月己丑朔、宰臣王峻が唐の張蘊古『大寶箴』、謝偃『惟皇誡德賦』の二図を献上す。詔を下して答えて曰く、「朕は軍戎に生長し、南北に勤労す。『鈐』『匱』に心を用うるといえども、なお『詩』『書』に暇あらず。世務時艱、粗く経歴し、前言往行、甚だ討尋せず。卿は佐命立国の勲有り、代天調鼎の任に居る。常に眇徳を慮い、古人に及ばず。ここに箴規を采掇し、寡昧を弼諧す。文を披き理を閲し、意を懌し神を怡す。君たりて国を治むるの源を究め、己を修め人を御するの要を審らかにす。帝王の道、尽くここに在り。辞翰ともに高く、珠宝何ぞ貴からんや。再三省覧し、深く愧嘉を用う。其の進むる所の図は、已に行坐の処に張懸せしむ。冀くは出入看読し、以て鑒戒と為さんことを。」壬辰、潞州奏す、巡検使陳思讓・監軍向訓、河東賊軍を虒亭に破る。癸巳、刑部侍郎司徒しと詡を以て戸部侍郎と為し、左散騎常侍さんきじょうじ張煦を以て刑部侍郎と為し、給事中呂咸休を以て左散騎常侍と為す。甲午、絳州防禦使孫漢英卒す。辛丑、荊南奏す、湖南乱る。大将軍陸孟俊、偽節度使馬希萼を執り衡州に遷し、希萼の弟希崇を立て留後と為す。将吏二千余人、害に遇う者半ば、牙署庫藏焚焼殆んど尽く。乙巳、詔して吏部三銓を併せて一銓と為し、本司長官に委ねて通判せしむ。丙午、晉州巡検王萬敢奏す、河東劉崇寇に入り、州北に営す。辛亥、潞州奏す、河東賊軍境を寇す。乙卯、荊南奏す、淮南鄂州節度使劉仁贍を遣わし、戦船二百艘を以て今月二十五日岳州に入る。丙辰、詔して枢密使王峻に兵を率い晉州を援けしむ。丁巳、左衛將軍申師厚を以て河西軍節度使・検校太保と為す。師厚素より王峻と善し。峻貴ぶるに及び、師厚羈旅して依る所無し。日々峻の馬前に塵を望みて拝す。会に西涼帥を請う。帝令して之を択ましむ。去らんと欲する者無し。峻乃ち師厚を以て之を奏す。師厚も亦欣然として往くを求め、尋いで前鎮将より左衛將軍・検校工部尚書を授かる。翌日、乃ち涼州の命有り。旌節・駝馬・繒帛を賜い以て之を遣わす。

十一月己未朔、荊南奏す、淮南大将邊鎬兵三万を率い、袁州路より潭州に趨く。馬希崇従事を遣わし牌印を送り、器仗を納む。鎬城に入り、武安軍節度使を称す。馬氏諸族及び将吏千余人皆金陵に徙す。甲子夜、東南白虹天に亙る。新晉州節度使王彥超を以て晉絳行営馬軍都虞候と為す。乙丑、王峻を命じ晉州に出征せしめ、帝西莊に幸して以て之を餞る。甲戌、日南至す。群臣表を拝し称賀す。甲申、故貴妃張氏を葬る。丁亥、詔す、「唐朝五廟、旧に至徳宮に安置す。応に徽陵の庄田園舎に属す。宜しく新たに除する右監門将軍李重玉をして主と為さしむべし。其の陵に縁り廟に縁る法物、留むるに合うを除く外、所有の金銀器物、故淑妃王氏及び許王従益を遷葬するに充つる外、其の余並びに重玉及び尼惠英・惠燈・惠能・惠嚴等に給与すべし。重玉をして時を以て陵廟を祀らしめ、務めて豊潔に在らしむ。」重玉は故皇城使李従璨の子、明宗の孫なり。惠英等も亦明宗の親属なり。故に帝重玉に官秩を授け、先祀を主たることを令し、王者の後を恤うなり。

十二月戊子朔、詔して劉崇の寇に入るを以て、当月三日を取って暫く西京に幸す。庚寅、詔して巡幸の宜しく停むべきをす。時に王峻軍を陜府に駐め、帝の西巡を聞き、使いを馳せて奏す。車駕の順動を労せず。帝乃ち止む。乙未、西莊に幸す。兗州慕容彥超上言し、朝覲を乞う。詔して之を允す。尋いで部内草寇起ると称し、鎮を離るる敢えず。戊申、鄆州奏す、慕容彥超城に拠りて反す。己酉、王峻奏す、劉崇逃遁す。王師已に晉州に入る。

廣順二年春正月戊午朔、朝賀を受けず。宿兵外に在る故なり。庚申、王峻奏す、近鎮の丁夫二万を起して晉州を城す。壬戌、東京羅城を修す。凡そ丁夫五万五千を役し、両旬にして罷む。甲子、侍衛歩軍都指揮使曹英を以て兗州行営都部署と為し、齊州防禦使史延韜を以て副部署と為し、皇城使向訓を以て兵馬都監と為し、陳州防禦使薬元福を以て馬歩都虞候と為し、兵を率いて慕容彥超を討たしむ。諸軍兗州界に入り、路を下りて村舎に停止するを得ず。犯す者は軍法を以て事に従う。丙寅、徐州巡検供給官張令彬奏す、淮賊を沭陽に破り、首千余級を斬り、賊将燕敬権を擒う。時に慕容彥超淮南に援を求め、淮南偽主李景兵を発して之を援け、師を下邳にす。官軍の至るを聞き、退きて沭陽に趨く。遂に之を破る。庚午、高麗権知国事王昭使いを遣わし方物を貢ぐ。壬申、鎮州何福進人を差し部送し先に擒獲せし河東賊軍二百余人を闕下に至らしむ。詔して巾履衫袴を給し以て之を釈す。戊寅、徐州沭陽に於いて獲たる賊将燕敬権等四人を部送し闕下に至らしむ。詔して衣服金帛を賜い、本土に放ち帰す。敬権等感泣し謝罪す。帝召見して之に謂いて曰く、「兇邪を悪み忠順を奨むるは、天下一なり。我が賊臣、国法を撓乱し、城に嬰り逆を作し、殃生霊に及ぶ。意わざらくは呉人此の兇悪を助けんとは、良算に非ざるなり。爾当に帰りて之を爾が君に言わん。」初め、漢末三司軍将路昌祚を湖南に遣わし茶を市わしむ。淮南将邊鎬の長沙を陷すに属し、昌祚賊に送られ金陵に至る。敬権大朝より帰るに及び、具に帝の言を以て李景に告ぐ。景乃ち昌祚を召し、坐を延べ従容すること久し。且つ大朝皇帝の聖徳広く被わり、恩鄰土に沾うを称美し、深く国家に依附せんとするの意有り。罷むるに及び、偽宰相宋齊丘を遣わし昌祚を別館に宴せしめ、又た令して昌祚の湖南に在りて変に遭うの時、亡失せる綱運の数を訪わしめ、命して数に依りて之を償わしめ、茗荈一万八千斤を給し、水運を以て江夏に至らしむ。仍厚く行装を給し、之を遣わして闕に帰らしむ。

二月庚寅、府州防卸使折徳扆奏す、河東賊軍境を寇す。州兵を率いて之を破り、首二千級を斬る。辛卯、太白天を経る。癸巳、権知高麗国事王昭を以て高麗国王と為す。庚子、府州防卸使折徳扆奏す、河東界岢嵐軍を収む。癸卯、詔して先に獲たる河東郷軍一百余人、各々銭鞋を給し郷里に放ち帰す。壬子、太子太師致仕安審暉卒す。

三月庚申、帝は南荘に行幸し、従臣に射術を習わせた。戊辰、枢密院直学士・左諫議大夫の王溥を中書舎人とし、翰林学士を充てた。内客省使・恩州団練使の鄭仁誨を枢密副使とした。詔して宣徽北院使の翟光鄴に永興軍府事を権知させた。甲戌、回鶻が使者を遣わして方物を貢いだ。庚辰、詔して「西京の荘宅司・内侍省・宮苑司・内園の四司が管轄する諸巡の係税戸二千五百戸は全て府県に還付する。広徳・昇平の二宮は共に停廃する。行従に属する諸荘園林・亭殿・房舎・什物の課利は、各司に旧例通り収管させる」と。

夏四月丙戌朔、日食があった。帝は正殿を避け、百官は各役所を守った。丁亥、詔して蔡州の郷軍を停止した。戊子、京師の旱魃により、群臣に命じて分かれて雨乞いをさせた。癸巳、制を下して慕容彦超の官爵を剥奪した。甲午、高麗国冊使・衛尉卿の劉皞が卒去した。乙卯、詔して来月五日に車駕を兗州城下に赴かせ、将士を慰労することとした。枢密副使の鄭仁誨を右衛大将軍とし、前の通り職を充て、兼ねて大内都点検を権知させた。中書侍郎・平章事・三司判の李穀を権東京留守とし、開封府事を兼判させた。

五月丙辰朔、帝は崇元殿に御して朝を受け、儀仗・衛兵は儀式通りであった。庚申、車駕は京師を発った。戊辰、兗州城下に至った。乙亥、兗州を収復し、慕容彦超を斬り、その一族を誅滅した。詔して端明殿学士の顔衎に兗州軍州事を権知させた。壬午、兗州管内の罪人を曲赦し、五月二十七日以前に犯した罪で、大辟以下の者は全て赦免した。慕容彦超の徒党で逃避・潜伏している者、及び城内の将吏らは共に罪を放免した。慕容彦超が背いて以来、郷州内で便乗して非行を働いた者は一切問わない。諸軍の将士で王事に殉じた者は、それぞれ賻贈を与え、都頭以上の者は官を追贈した。兗州城内及び官軍が下寨した四面で州から五里以内の今年の夏秋税及び沿征銭物は共に免除する。十里以内は夏税のみ免除する。一州管界内の今夏の苗子は三分の一を免除する。城内の百姓で家屋を破壊された者及び焼かれた者は材木を給賜する。各所から差し出された人夫の中で矢石に遭って死んだ者は、それぞれ絹三匹を与え、さらに戸下の三年間の徭役を免除するという。癸未、詔して兗州を防禦州に降格し、なお望州とする。

六月乙酉朔、帝は曲阜県に行幸し、孔子祠に謁した。拝奠を終え、拝礼をしようとすると、左右が「仲尼は人臣です。拝礼はなさらぬよう」と言った。帝は「文宣王は百代の帝王の師である。敬わぬことがあろうか」と言い、即座に祠前で拝奠した。その拝奠に用いた酒器・銀炉は共に祠所に留めた。ついで孔林に行幸し、孔子の墓を拝した。帝は近臣に「仲尼・亜聖の後裔に、今は誰があるか」と問うた。答えて「前曲阜令・襲文宣公の孔仁玉は仲尼の四十三代孫です。郷貢『三礼』の顔渉は顔淵の後裔です」と言った。即座に召見し、仁玉には緋を賜い、曲阜令を口授し、顔渉には主簿を授け、直ちに職務に就かせた。なお兗州に命じて孔子の祠宇を修繕させ、墓側での薪刈りを禁じた。丙戌、車駕は京に還った。初め、帝は五月十三日に兗州に至ったが、賊はなおも守りを固めていた。十七日、昼間に道士一人が書を進める夢を見た。巻頭に「車駕来月二日還京」とあり、その下に文字が極めて多く、全ては覚えられなかった。覚醒後、夢を宰臣に告げた。さらに四日して城は陥落した。帝が軍に至ってから、駐蹕すること九日で賊を平定し、果たして六月二日に城下を発った。近代の親征で勝利を得た中で、これほど迅速な例はなかった。この日は大雨で、城下の行宮は水深数尺に達した。その日の晩、中都県に至り、帝は侍臣に笑って「今日もし城下を離れなかったならば、水に溺れるところであった」と言った。戊戌、車駕は兗州より帰着した。辛丑、霊武節度使の馮暉が卒去したため、一日視朝を停止した。壬寅、前翰林学士の李澣が契丹の中より上表し、機密事を陳奏し、かつ偽幽州節度使の蕭海貞が帰順を謀っていると述べた。帝は大いにこれを嘉した。癸卯、徳妃董氏が薨去した。乙巳、詔して宣徽南院使の袁鳷に開封府事を判させた。辛亥、朔方軍衙内都虞候の馮継業を起復して朔方軍兵馬留後とした。甲寅、旧宅に行幸した。徳妃のために哀悼の意を表すためである。

秋七月丙辰、詔して「内外の臣僚は、永寿節に遇うごとに、従来は斎供を設けていた。今後は中書門下と文武百官が共に一斎を設け、侍衛親軍都指揮使以下が共に一斎を設け、枢密使・内諸司使以下が共に一斎を設ける。その他の前任職員及び諸司の職掌は、さらに道場を開設し斎を設けてはならない」とした。この日は大風雨で、家屋を破り樹木を抜き、尚書省都堂には龍が屋根を突き破って獣角を壊して去り、西壁に爪跡が残っていた。襄州に大水があった。丁卯、詔して陳州・曹州を再び節鎮に昇格させた。侍衛馬軍都指揮使・洋州節度使の郭崇を陳州節度使とし、侍衛歩軍都指揮使の曹英を曹州節度使とし、共に軍を統率することは元の通りとした。陳州防禦使の薬元福を晋州節度使とした。辛未、詔して相州節度使の李筠に潞州軍州事を権知させた。丙子、小底都指揮使・漢州刺史の李重進を大内都点検兼馬歩都軍頭とし、恩州団練使を領させた。内殿直都知・駙馬都尉の張永徳に和州刺史を領させ、小底第一軍都指揮使を充てた。

八月甲申朔(一日)、翰林学士・刑部尚書張沆は職を落として本官を守る。中書舎人・史館修撰判館事徐台符を礼部尚書とし、翰林学士承旨を充てる。兵部侍郎韋勲を尚書右丞とする。尚書右丞於德辰を吏部侍郎とする。戸部侍郎辺帰讜を兵部侍郎とする。礼部侍郎趙上交を戸部侍郎とする。枢密直学士・左散騎常侍陳観を工部侍郎とし、前のごとく職を充てる。刑部侍郎景範を左司郎中とし、枢密直学士を充てる。乙酉(二日)、枢密使王峻が上章し、枢衡(枢密使の職)の解任を請う。凡そ三度上章するも、詔して允さず。庚寅(七日)、潁州が奏上する、先に淮南で俘獲した孳畜は、既に詔に準じて本土へ送還したと。甲午(十一日)、詔して吏民の闕に詣でて刺史・県令を挙請することを止絶す。宰臣李穀に白藤の肩輿を賜う。時に穀は今年七月、歩履により臂を傷め、数旬の告を請う。詔して穀を扶持して三司に、名を刻み印を署して事を行わしめ、なお朝参を放つ。庚子(十七日)、潞州節度使常思は鎮を移して宋州に、相州節度使李筠は鎮を移して潞州に。壬寅(十九日)、鄆州節度使高行周薨ず。癸丑(三十日)、詔して塩曲法を改む。塩曲を犯す者五斤以上は処死し、鹼塩を煎ずる者一斤以上を犯せば処死す。これに先立ち、漢法は斤両の多少を計らず、並びに極刑に処す。ここに至り始めてこれを革む。

九月庚午(十七日)、大理卿劇可久を太僕卿とし、左庶子張仁彖を大理卿とし、司天監趙延乂を太府卿兼判司天監事とする。詔す、北面沿辺の州鎮は、自ら疆埸を守り、北界に入り俘掠すべからず。乙亥(二十二日)、鎮州が奏上する、契丹が深州・冀州を寇す。龍捷都指揮使劉誨・牙内都指揮使何継筠等を遣わし兵を率いてこれを拒ぎて退く。時に契丹は官軍の至るを聞き、冀部の丁壮数百を掠って随行し、狼狽して北す。冀部の擄われたる者は官軍を見て、鼓噪して已まず。官軍は敢えて進まず、その丁壮は尽く蕃軍に殺されて去る。丁丑(二十四日)、鄭州防禦使白重賛を相州留後とする。戊寅(二十五日)、楽寿都監杜延熙が奏上する、瀛州の南に於いて契丹を殺敗し、首三百級を斬り、馬四十七匹を獲たりと。癸未(三十日)、帝の姨母韓氏を追封して楚国夫人とし、故第四姉を追封して福慶長公主とする。癸未(三十日)、易州が奏上する、契丹武州刺史石越が来奔すと。

冬十月丙戌(四日)、前晋州節度使王彦超を河陽節度使とする。庚寅(八日)、詔す「諸州、任を罷め或いは朝覲するに、並びに器械を以て進貢することを得ず」。これに先立ち、諸道州府は各々作院有り、毎月課として軍器を造り、逐季京師に搬送して進納す。その逐州、每年省線の銭帛を占留すること少なからず、これを「甲料」と謂う。なお更に部内に広く土産物を配し、数倍を征斂す。民甚だこれを苦しむ。上供の軍器を除く外、節度使・刺史は又私に器甲を造り、進貢を名として、功費また倍す。悉くこれを民に取る。帝、諸州の器甲造作精ならず、兼ねて属省の物用を占留すること過当なるを以て、乃ちこれを罷めしむ。なお諸道の作工を選択し、京の作坊に赴かしめ、役使に備う。乙未(十三日)、永興軍が奏上する、宣徽北院使・知軍府事翟光鄴卒す。丁酉(十五日)、徳妃を葬り、朝を廃す。戊戌(十六日)、宣徽南院使袁鳷を以て権知永興軍府事とし、枢密直学士・工部侍郎陳観を以て権知開封府事とする。己亥(十七日)、鉅野県を升して済州とす。枢密院副使鄭仁誨を宣徽北院使兼枢密副使とする。庚子(十八日)、枢密院に幸す。王峻の請うところなり。甲辰(二十二日)、宰臣李穀、臂の傷未だ癒えず、表を上り位を辞す。凡そ三度上章するも、詔報して允さず。丁未(二十五日)、滄州が奏上する、十月以前より、蕃より帰る漢戸一万九千八百戸。是の時、北境饑謹し、人民転徙し、繈負して中土に帰る者は、河北州県に散居し、凡そ数十万口。

十一月丙辰(四日)、荊南が奏上する、朗州大将劉言、今年十月三日に兵を領いて長沙に趨き、十五日に潭州に至る。淮南の署する湖南節度使辺鎬・岳州刺史宋徳権並びに城を棄てて遁去す。庚申(八日)、前少府監馬従斌を殿中監とする。壬戌(十日)、枢密使王峻の亡妻崔氏を追封して趙国夫人とす。故事に非ず。乙丑(十三日)、刑部尚書張沆卒す。辛未(十九日)、陝州の折従阮は鎮を移して邠州に。前宋州節度使李洪義を安州節度使とする。癸酉(二十一日)、青州の符彦卿は鎮を移して鄆州に。甲戌(二十二日)、詔して曰く「累朝已来、兵を用うること息まず、甲冑を繕治するに至りては、生霊を配役するを免れず。多く民に取り、軍器を助成す。就中皮革は、科刑尤も峻し。稍々厳条を犯せば、皆極典に抵る。郷県これをもって事を生じ、奸猾以て侵漁す。宜しく新規を立て、以て前弊を革むべし。応に天下の納むる牛皮は、今将に逐うる所納の数、三分の内二分を減じ、その一分を人戸の苗畝の上に配定す。毎秋夏苗、十頃ごとに連角皮一張を納め、その黄牛は幹筋四両を納め、水牛は半斤を納む。犢子皮は納限に在らず。牛馬驢騾の皮筋角は、今後官中更に禁断せず。只だ化外の敵境に将い出だすべからず。州県の先に置く所の巡検牛皮節級は並びに停む」。丙子(二十四日)、詔して曰く「応に内外の文武官僚・幕職・州県官挙選人等、今後父母・祖父母亡歿し未だ遷葬せざる者有らば、その主家の長は、輒ち仕進を求むることを得ず。所由の司も亦た申挙解送すべからず。もし是れ卑幼下に在る者は、此の限りに在らず」。己卯(二十七日)、日南至す。帝崇元殿に御し朝賀を受け、仗衛儀の如し。

十二月丙戌、権武平軍留後劉言が牙将張崇嗣を遣わして入奏せしむ、十月十三日に、節度副使王進逵・行軍司馬何敬貞・指揮使周行逢等とともに、共に戦艦を率いて湖南を攻め取り、偽節度使辺鎬は当夜出奔し、王進逵等は既に潭州に入ったと。癸巳、太子太師致仕安叔千卒す。甲午、詔して今後諸侯の入朝する者は、買宴の進奉をなすべからずとす。丁酉、皇子澶州節度使栄、起復を落とし、同平章事を加う。戊戌、太子少傅致仕王延卒す。壬寅、西荘に幸す。乙巳、端明殿学士顔衎を以て権知開封府事とす。御史台奏す「左右衛を改めて左右屯衛と為さんことを請う」と。これに従う、御名を避くるなり。この冬雪なし。

広順三年春正月壬子朔、帝崇元殿に御し朝賀を受け、仗衛は儀の如し。太平宮に幸して漢太后に起居す。甲寅、群臣に内鞠場において射を賜う。乙卯、武平軍兵馬留後劉言奏す「潭州は干戈の後、焚焼殆んど尽き、使府を武陵に移さんことを乞う」と。これに従う。詔して朗州を大都督ととく府に昇格し、潭州の上に在らしむ。丙辰、武平軍節度使留後・検校太尉劉言を検校太師・同平章事と為し、朗州大都督を行い、武平軍節度兼三司水陸転運等使、制置武安・静江等軍事を充て、彭城郡公に進封す。武平軍節度副使・権知潭州軍州事・検校太傅王進逵を検校太尉と為し、潭州刺史を行い、武安軍節度使を充てる。武安軍行軍司馬兼衙内歩軍都指揮使・検校太傅何敬貞を検校太尉と為し、桂州刺史を行い、静江軍節度使を充てる。張仿に眉州刺史を領せしめ、武平軍節度副使を充てる。朱元琇に黄州刺史を領せしめ、静江軍節度副使を充てる。周行逢に集州刺史を領せしめ、武安軍節度行軍司馬を充てる。進逵以下、皆劉言の将校なり。邠州奏す、慶州の蕃部野鶏族が商旅を略奪し、州界を侵擾すと。詔して寧州刺史張建武等に兵を率いて掩襲せしめ、仍て先ず敕書を賜いて安撫し、もし命に従わざれば、即ち進軍して罪を問わしむ。辛酉、詔して朗州劉言に応じ両京及び諸道の旧属湖南の楼店邸第を賜う。乙丑、詔す「諸道州府に属する戸部営田及び租税課利等は、京兆府庄宅務・贍国軍榷塩務・両京行従庄を除く外、その余は並びに州県に割属し、所征の租税課利は、官中は只管旧額を管し、その職員節級は一切停廃す。応に有る客戶の元佃する系省庄田・桑土・舍宇は、便ち逐戸に賜いて永業と為し、仍て県司に仰ぎ憑由を与えしむ。応に諸処の元属営田戸部院及び系県人戸の納むる租中の課利は、今年以後より並びに除放す。所有の見牛犢は並びに本戸に賜い、官中は永く収系せず」と。帝は民間に在りし時、素より営田の弊を知り、ここに至り天下の系官庄田僅かに万計なるを以て、悉く見佃戸に分賜して永業と為す。この歳戸三万余出ず、百姓既に己が業と為すを得て、比戸欣然たり、ここに於て屋を葺き樹を植え、敢えて功力を致す。また、東南郡邑各々租牛課戸有り、往時梁太祖の淮を渡るに因り、軍士民牛を掠めて千万計と為し、梁太祖尽く諸州民に給与し、租課を輸せしむ、ここより六十余載、時移り代改まるも、牛租猶在り、百姓これを苦しむ、ここに至り特と除放す。未だ幾ばくもせず、京兆府庄宅務及び榷塩務も亦州県に帰し、例に依り処分す。或いは上言する者有り、天下の系官庄田は、甚だ惜しむべき者あり、もしこれを貸せば、当に三十万緡を得べく、亦た国用を資すべしと。帝曰く「苟くも民に利あらば、国を資するに何ぞ異ならん」と。丁卯、戸部侍郎・権知貢挙趙上交奏す「諸科挙人は、等第各々対義場数を加えんことを欲す。進士は詩賦を除く外、別に雑文一場を試さん」と。これに従う。両浙弔祭使・左諫議大夫李知損を責めて登州司馬に授け、員外に置き、仍て所在に馳駅して放遣せしむ。知損は命を銜み江・浙に至り、経る藩郡に皆強いて侯伯より貸し、青州知州張凝の奏する所と為り、故に是の命有り。己巳、南荘に幸す。臨水亭にて、双鳧の池上に戲るるを見、帝弓を引きてこれを射るに、一発にして疊貫す、従臣賀す。庚午、前邠州節度使侯章を鄧州節度使と為す。前萊州刺史葉仁魯に死を賜う、民に訟せられたるに坐する故なり。辛未、詔して枢密使王峻に河堤を巡視せしむ。峻行くことを請う、故にこれに従う。辛巳、南荘に幸す。

閏月甲申、朗州劉言・潭州王進逵奏す、広賊桂管を占拠し、永州界に深入りして俘劫すと、朗州行軍司馬何敬貞と指揮使朱全琇・陳順等を遣わし、水陸軍五万を率いて進撃せしむと。丙戌、回鶻使いを遣わし方物を貢ぐ。詔して故梁租庸使趙巖の侄崇勛、陳州に居るを見るに、量りて系官店宅を賜う、王峻の請いに従うなり。辛卯、定州奏す、契丹義豊軍を攻む、勁兵を出して夜蕃営を斫り、首六十級を斬り、契丹遁去すと。甲午、鎮州奏す、契丹境を寇し、兵を遣わして追襲し、無極に至りて還ると。丙申、皇子澶州節度使栄来朝す。壬寅、枢密使・尚書左僕射・同平章事・監修国史王峻に青州節度使を兼ねしむ、余は故の如し。延州衙内指揮使高紹基奏言す「父允権脚膝を患い、臣に軍州事を権知せしむ」と。癸卯、陳州奏す「吏民前刺史李穀と祠堂を立てんことを請う」と。これに従う。時に穀は宰相たり、郡人の陳請を聞き、遜譲数四、乃ち止む。甲辰、鄴都留守王殷に検校太尉を加え、前に依り同平章事とす。丙午、鎮州節度使何福進・河陽節度使王彦超並びに検校太尉を加え、潞州節度使李筠に検校太傅を加う。丁未、延州節度使高允権卒す。己酉、開封府奏す、都城内に録する無名額僧尼寺院五十八所有りと。詔してこれを廃す。

二月辛亥朔(一日)、前西京留守の白文珂を以て太子太師致仕と為し、進めて韓國公に封ず。癸丑(三日)、安州節度使李洪義・侍衛馬軍都指揮使郭崇・侍衛步軍都指揮使曹英、並びに検校太尉を加う。唐州方城縣令陳守愚を棄市す、戸民の蠶鹽一千五百斤を留め克ちて己に収めたる罪に坐す。内制の國寶兩座、詔して中書令馮道に寶文を書かしむ、其の一は「皇帝承天受命之寶」を以て文と為し、其の一は「皇帝神寶」を以て文と為す。案ずるに、傳國寶は始め秦始皇より起こり、李斯に令して之を篆らしむ、歴代傳授す、事は前史に具はり。唐末帝自ら燔くの際に至り、寶を身に随へて、遂に俱に焚かるところと為る。晉高祖こうそ受命し、特ちに寶一座を制す、開運末、契丹闕を犯し、少帝其の子延煦を遣はして戎王に送る、戎主、其の真に非ざるを訝り、少帝表を上りて其の事を具に訴ふ、及び契丹北に歸し、之を賫して蕃に入る。漢朝二帝、別に制する暇あらず、是に至り始めて之を創め為す。庚申(十日)、將作監李瓊を遣はして陜州軍州事を知らしむ。甲子(十四日)、樞密使・平盧軍節度使・尚書左僕射・平章事・監修國史王峻を責めて商州司馬を授け、員外に置き、所在馳驛に發遣す。戊辰(十八日)、左監門上將軍李建崇卒す。延州牙內都指揮使高紹基奏す、軍府を副使張圖に交割すと。己巳(十九日)、朗州劉言奏す、當道先に行軍司馬何敬貞を遣はし兵を率ひて廣賊を掩撃せしむ、行きて潭州に及び、部眾奔潰す、湖南王進逵敬貞の律を失へるを以て、已に梟首を訖へたりと。樞密直學士・工部侍郎陳觀を以て秘書監と為す。壬申(二十二日)、鳳翔少尹桑能を責めて鄧州長史を授く。能は、晉の相維翰の庶弟なり、維翰の別第を據るを人の訟ふるに坐する故なり。癸酉(二十三日)、戶部侍郎・知貢舉趙上交を以て太子詹事と為す。是の歲、新進士の中に李觀なる者有り、策名すべからざるも、物議喧然たり、中書門下觀の試みし詩賦韻を失へるを以て、姓名を勾落し、故に上交官を移す。丁丑(二十七日)、南莊に幸し、從官に射を賜ふ。客省使向訓を命じて權に延州軍州事を知らしむ。