帝三歳の時、家は太原に移る。居ること久しからず、皇考は燕軍に陥とられ、王事に歿す。帝は未だ齠齔に及ばず、章德太后早世し、姨母楚國夫人韓氏が提攜して鞠養す。長ずるに及び、形神魁壮にして、趨向奇崛、兵を愛し勇を好み、田産に事とせず。天祐の末、潞州節度使李嗣昭常山にて戦歿し、子の繼韜自ら留後を称し、南は梁朝と結び、城に拠りて命に阻み、乃ち金を散じて豪傑を募る。帝時に年十八、吏を避けて壺關に至り、故人常氏に依り、遂に往きて応募す。帝は気を負いて剛を用い、闘を好み力多く、繼韜は之を奇とし、或いは法を逾え禁を犯すも、亦多く假借す。嘗て上党の市に遊び、市に屠(肉屋)有りて壮健、衆の畏憚する所、帝は気を以て之を淩ぎ、酔いに因りて屠に命じて肉を割かしむ。小不如意、之を叱す。屠者怒り、腹を坦げて帝に謂ひて曰く、「爾敢て我を刺さざるか」と。帝即ち其の腹を刂く。市人之を執りて吏に属す。繼韜は惜しみて之を逸らす。其の年、莊宗梁を平らげ、繼韜誅せられ、麾下の牙兵は馬直に配從せしめらる。帝は籍中に在り、時に年二十一。帝は性聰敏にして、筆劄を喜び、軍旅に従ふに及び、多く簿書を閲し、軍誌戎政、深く綮肯を窮め、人皆其の敏に服す。嘗て昭義の李瓊を省みる。瓊方に『閫外春秋』を読む。即ち取りて之を視て曰く、「兵を論ずるなり、兄其れ我を教へよ」と。即ち之を授け、義理に深く通ず。(『宋史・李瓊傳』:唐の莊宗勇士を慕ひ、即ち応募し、周祖等十人と兄弟を約す。一日会飲す。瓊周祖を熟視し、常人に非ざるを知り、因りて酒を挙げて祝して曰く、「凡そ我ら十人、尤蛇混合す。異日富貴有らば、相忘るる無かれ。苟も此の言を渝せば、神之に罰を降さん」と。皆臂に刺して血を出だし誓ひを為す。周祖と瓊は情好尤も密なり。嘗て瓊を造る。其の危坐して書を読むを見る。因りて問ふ、読む所何の書ぞと。瓊曰く、「此れ『閫外春秋』なり。所謂正を以て国を守り、奇を以て兵を用ひ、存亡治乱を較べ、賢愚成敗を記す、皆此に在り」と。周祖読むを令す。瓊に謂ひて曰く、「兄当に我を教ふべし」と。是より周祖出入するに、常に袖に以て自ら随へ、暇に遇へば輒ち読み、毎に瓊に問難し、瓊を師と謂ふ。)
天成の初め、明宗浚郊に幸す。時に朱守殷城に嬰りて命に拒ぐ。帝は晉高祖の一軍に従ひ率先して城に登る。晉祖副侍衛を領し、帝の書計に長ずるを以て、召して麾下に置き、軍籍を掌らしむ。前後の将臣、倚愛せざる無し。初め、聖穆皇后帝に嬪す。帝方に匱乏す。而して后は資従多し。(『東都事略』:柴后は金帛を以て周太祖に資し、漢高祖に事へしむ。)帝嘗て晝寢す。小蛇五色有り、顴鼻の間を出入す。后遽に見て愕然たり。太原に在る時、神尼有りて帝と同姓、帝を見て、李瓊に謂ひて曰く、「我が宗は天上の大仙、頂上に肉角有り、当に世界の主と為るべし」と。清泰の末、晉祖河東に起る。時に河陽節度使張彦琪、侍衛歩軍都指揮使と為り、命を奉じて北伐す。帝之に従ひ、晉祠に営す。是の時屋壊れ、同処の数人俱に斃る。唯だ帝独り傷つく所無し。漢高祖侍衛馬歩都虞候と為り、召して左右に置く。居る所の官舍の隣に吳氏有り。青衣の佳娘と為る者、山魈に魅せらる。鬼は人の言を能くして瓦石を投ぐ。隣伍吳氏の舎を過ぐるを敢へざる者。帝之を過ぐれば、其の鬼寂然たり。帝去れば故の如し。是の如き者再びす。或ひは鬼に謂ひて曰く、「爾既に神なり、向者客来る、又何ぞ寂然たるや」と。鬼曰く、「彼は大人なり」と。繇りて軍中之を異とす。範延光魏に叛く。楊光遠を命じて之を討たしむ。帝当に行くべし。意従はんことを願はず。或ひは帝に謂ひて曰く、「楊公は朝の重勛なり。子従はんと欲せず、何ぞや」と。帝曰く、「楊公は素より英雄の気無し。我を得て何の用かあらん。我を用ふること能はんは其れ劉公か」と。漢祖累ね藩閫を鎮むるも、皆之に従ふ。並門を鎮むるに及び、尤も深く待遇し、帷幄に出入し、腹心の寄を受け、帝亦心を悉く力を竭し、知る所は為さざる無し。吐渾の白可久契丹に叛入するに及び、帝は漢祖を勧めて白承福等五族を誅せしめ、良馬数千匹、財貨百万計を得て以て軍に資す。
暫くして、河中の李守貞、城に拠りて反す。朝廷之を憂え、諸大臣共に進取の計を議す。史宏肇曰く「守貞は河陽の一客司に過ぎず、竟に何を為すこと能わんや」と。帝曰く「守貞は戎行に習わざれども、然れども英豪に接すること善くし、人の死力を得たり。亦た敵たり。宜しく之を料るに審にすべし」と。乃ち白文珂、常思を命じて兵を率い攻取せしむ。師未だ至らざるに、趙思綰、永興を窃かに拠り、王景崇の反状も亦露わる。朝廷、郭従義、王峻を遣わして趙思綰を討たしむ。七月、西面の師徒大いに集まるも、未だ進取を果たさず。其の月十三日、制して帝に同平章事を授け、即ち西征を遣わし、以て安慰招撫を名とし、詔して西面諸軍、並びに帝の節度を取らしむ。時論、白文珂、常思を以て守貞の敵に非ずとし、帝の西行を聞き、群情大いに愜えたり。(《宋史·李蒨傳》:周祖、河中を討つ。蒨、転運を掌る。時に周祖已に人望有り、潜かに異志を貯う。屢以て蒨を諷す。蒨但だ対えて人臣は当に節を尽くして上に奉ずべしと云うのみ。)
八月六日、帝、京師を発離す。二十日、師、河中に至る。(《宋史·扈彦珂傳》:周祖、樞密使たり、兵を総べて出征す。時議多くは先ず景崇、思綰を討つを便とすと為す。周祖、意未だ決せず。彦珂曰く「三叛連衡し、守貞を推して主と為す。宜しく先ず河中を撃つべし。河中平らかならば、則ち永興、鳳翔勢を失わん。今、近きを捨てて遠きを図らば、若し景崇、思綰前もって逆戦し、守貞其の後を兵せば、腹背敵を受く。之を奈何せん」と。周祖其の言に従う。)白文珂を命じて河西に営せしめ、帝は河東に営す。数日を経ず、周囲に長塹を設け、復た長連城を築きて以て之を迫る。帝、軍中に在りて、常に賓客に接し、大将と宴語するには、即ち褒衣博帯たり。或いは巡城壘に遇い、敵に対陳するには、幅巾短後たり。衆と殊なること無し。矢石に臨み、鋒刃を冒すには、必ず身を以て先んじ、士伍と甘苦を分かつ。稍々功效を立てる者有れば、其の賜与を厚くし、微かに傷痍有る者は、親しく之を循撫す。士、賢不肖を問わず、陳啓有る者は、温顔を以て接し、其の情を尽くさしむ。人の過忤も、未だ意に介せず。故に君子小人皆効用を思う。守貞之を聞き、深く以て憂えと為す。十二月、帝、蜀軍の大散関に屯するを以て、即ち牙兵を親率し鳳翔、永興に往く。相度将に発せんとし、白文珂、劉詞に謂いて曰く「困獣猶お闘う。当に謹んで之を備うべし」と。帝、華州に至り、蜀軍退敗するを聞き、遂に還る。
十一月十四日、澶州節度使李洪義と侍衛歩軍都指揮使王殷は、澶州副使陳光穗を鄴都に遣わし、京師に変事あるを報ず。今月十三日の朝、群小ら史弘肇らを害すと。前夜、李業らは腹心を遣わし密詔を澶州に齎し、李洪義に王殷を殺すことを命じ、また護聖左廂都指揮使郭崇らに鄴城において帝を害することを命ず。十三日、洪義密詔を受け、事成らざるを恐れ、密詔を王殷に示す。殷と洪義は即ち陳光穗を遣わし馳せて帝に報ず。十四日、帝は宣徽使王峻と坐して辺事を議する中、忽ち洪義の文書を得、急ぎ牙署に帰る。峻も未だ其の事を知らず。帝は初めて楊、史諸公の誅殺されたるを知り、神情惘然たり。又、禍の己に及ぶを見て、伸訴する所なく、即ち三軍の将校を集めて諭して曰く、「予は微より著に至り、国家を輔佐す。先皇登遐し、親に顧托を受け、楊、史諸公と共に、経謀を弾圧し、寝食を忘る。一旦無状にして、尽く誅夷せらる。今詔有りて予が首級を取らんとす。爾等宜しく詔旨を奉行し、予が首を断ちて天子に報い、各功業を図り、且つ諸君を累さざれ」と。崇らと諸将校は前に泣きて言う、「此の事は必ずや聖意に非ず、即ち是れ左右の小人の誣罔窃発す。仮令此輩重柄を握らば、国安んぞ得んや。宜しく投論を得て、忠佞を判ずべし。何事ぞ単車の使を信じ、自ら棄て、千載の下、空しく悪名を受く。崇らは明公に従い入朝し、面自ら洗雪し、君側の悪を除き、共に天下を安んぜんことを願う」と。衆之を然りとし、遂に帝に南行を請う。帝は即ち厳駕して首途す。十六日、澶州に至る。王殷迎え謁し慟哭す。時に隠帝は小豎嵒脱を遣わし鄴軍の所在を偵わしむ。遊騎に捕らえらる。帝は即ち回らしめ、隠帝に赴闕の由を附奏せしめ、仍て密奏を嵒脱の衣領中に置く。奏して曰く、「臣は寒賤より発跡し、聖明に遭遇し、既に富み且つ貴く、実に平生の望を過ぐ。唯国に報いんと思い、敢えて他図あらんや。今詔命を奉ずるに、忽ち郭崇らに臣を殺すことを命ず。即時に死を俟つ。而して諸軍刑を行わず、臣を逼りて闕に赴かしめ、臣に上前に請罪せしめ、仍て言う、此の事有るに致るは、必ずや陛下の左右の臣を譛る者なりと。今嵒脱此に至る。天其の便を仮し、臣が心を伸ぶるを得。三五日にして当に闕に及び陛下に朝せん。若し臣に天を欺くの罪有らば、臣豈に敢えて死を惜しまんや。若し実に臣を譛る者有らば、乞う陛下縛して軍前に送り、以て三軍の意を快くせば、則ち臣死すとも恨み無し。今嵒脱に託し附奏して以て聞かしむ」と。十七日、帝は滑州に至る。節度使宋延渥は門を開き迎え納る。帝は滑臺を発せんとし、将士を召して之に謂いて曰く、「主上は讒邪に惑わされ、勛臣を誅殺す。吾が此に来るや、事已むを得ず。然れども臣を以て君に拒ぐは、寧ろ曲直を論ぜんや。汝等家は京師に在り。前詔を奉行するに如かず。我は一死を以て天子に謝し、実に恨む所無し」と。将校前に啓して曰く、「国家は公に負う。公は国に負わず。公の速やかに行かんことを請う。遅久無く、邦を安んじ怨を雪ぐは、正に此時に在り」と。既にして王峻は軍に諭して曰く、「我公の処分を得たり。京城平定を俟ち、爾等に旬日の剽掠を許す」と。衆皆踊躍す。
十九日、隠帝は左神武統軍袁鳷と前鄧州節度使劉重進に禁軍を率い来たり拒がしめ、前開封尹侯益らと赤岡に屯す。是の夜俱に退く。二十日、隠帝は劉子坡に陣を整う。二十一日、両陣俱に列す。慕容彦超は軍を率い奮撃す。帝は何福進、王彦超、李筠らを遣わし大いに騎を合わせて之に乗ず。慕容彦超退却し、死者百余り。ここに於いて南軍気を奪われ、稍稍として北軍に奔る。慕容彦超は数十騎と東に兗州に奔る。呉虔裕、張彦超ら相継いで来たり帝に見ゆ。是の夜、侯益、焦継勛は潜かに帝の営に至る。帝は慰労し遣わし還す。二十二日旦、郭允明は漢の隠帝を北郊にて弑す。初め、官軍の敗るるや、帝は宋延渥に謂いて曰く、「爾は国親なり。速やかに往きて主上を衛い、兼ねて附奏し、陛下に便を得て速やかに臣が軍に奔らんことを請い、左右に図らるるを免れしめよ」と。延渥の至るに及び、乱兵雲の如く合し、即ち惶駭して還る。是の旦、帝は高坡の上に天子の旌旗を見る。隠帝其の下に在らんと謂い、既に冑を免き馬を釈して前に進む。左右は不測有るを慮り、帝に止まるを請う。帝泣いて曰く、「吾が君此に在り。又何をか憂えん」と。前に至るに及び、隠帝は既に去れり。帝は歔欷すること久し。俄かに隠帝の弑せられたるを聞き、号慟已まず。帝は元化門に至る。劉銖は城外に雨の如く射る。帝は車を回し自ら迎春門より入る。諸軍大いに掠め、煙火四発す。帝は旧第に止まる。何福進は部下の兵を以て明徳門を守る。翌日、王殷、郭崇言う、「若し剽掠を止めざれば、比夜空城と化さん」と。ここに由り諸将は部分して其の剽掠する者を斬る。晡に至り乃ち定まる。帝は王峻と太后の宮に詣で起居し、嗣君を立てんことを請う。乃ち高祖の侄徐州節度使赟を以て大統を継がしむ。語は漢紀に在り。二十七日、帝は嗣君未だ至らざるを以て、太后の臨朝を請う。会に鎮、定州馳奏す、契丹寇す、河北諸州急を告ぐ。太后は帝に北征を命ず。
十二月一日、帝は京師を発ち離る。四日、滑州に至り、馬を駐め数日す。会に湘陰公は使を遣わし諸将を慰労す。宜を受くる際、相顧みて拝せず、皆窃かに言う、「我輩は京師を陥れ、各各罪を負う。若し劉氏復た立てば、則ち種無からん」と。或いは其の言を以て帝に告ぐる者有り。帝は愕然たり。即時に途を進む。十六日、澶州に至る。是の日旭旦、日の辺に紫気来たり、帝が馬首に当たる。十九日、諸軍に進発を下令す。二十日、諸軍の将士大いに噪きて駅に趨き、墻の如くにして進む。帝は門を閉じて之を拒ぐ。軍士は墻に登り屋を越えて入り、帝に天子たるを請う。乱軍山の如く積り、階に登り陛を匝し、扶抱擁迫す。或いは黄旗を裂き以て帝の体に被い、以て赭袍に代え、山呼震地す。帝は万衆の中に在り、声気沮喪し、悶絶すること数四。左右の親衛は星散竄匿す。帝は即ち城楼に登り、稍々安息を得る。諸軍は遂に帝を擁し南行す。時に河の冰初めて解け、浮梁未だ構わず。是の夜北風凛烈たり。比旦、冰堅くして渡るべし。諸軍遂に済る。衆之を「凌橋」と謂う。済い竟りて冰泮く。時人之を異とす。時に湘陰公は既に宋州に駐す。枢密使王峻は京に在り、澶州の変を聞き、侍衛馬軍指揮使郭崇に七百騎を率い宋州に赴き、以て湘陰公を衛わしむ。二十五日、帝は七里店に至る。群臣謁見す。遂に臯門村に営す。
二十七日、漢の太后は令を下して曰く、「枢密使・侍中郭威は、英武の才をもって内外の任を兼ね、禍乱を剪除し、艱難を宏済し、功業は天に格り、人望は世に冠たる。今や軍民の愛戴を受け、朝野の推崇する所となり、宜しく万機を総べ、以て群議に允うべし。監国とすべし。中外の庶事は、並びに監国の処分を取るべし」と。二十八日、監国は教を下して曰く、「寡人は軍戎より出で、元より徳望無く、因縁際会し、寵霊を叨竊す。高祖皇帝、甫に経綸に在りし時、心腹として待ち、大位に登るに及び、尋いで重権を付す。顧命の時に当たり、忍死の寄せを受けて、諸勲旧と共に嗣君を輔立す。旋って三叛連衡し、四郊多壘するに属し、謬って朝旨を膺け、専征を委ねられ、重藩を兼ね守り、敵を当てしむ。敢えて身を横たえ力をつくし、節を竭くし心を尽くさざらんや!冀くは疆場に於いて肅靜ならしめ、用て宗社を保安せんとす。奸邪の乱を構うるを謂わず、将相連ねて誅せらる。寡人は偶々鋒鋩を脱し、患難を克く平げ、志は劉氏を安んじ、願わくは漢恩に報ぜんとし、長君を推択して、以て丕構を紹がんとす。遂に太后に奏し、徐州相公を立てんことを請う。奉迎は已に道途に在り、行李未だ都輦に及ばず。尋いで北面の事急なり、寇騎深く侵すにより、遂に師徒を領し、径ちに掩襲に往かんとす。行きて近鎮に次ぎ、已に洪河を渡る。十二月二十日、将に澶州に登らんとす。軍情忽ち変じ、旌旗倒きて指し、喊叫天に連なり、袂を引き襟を牽き、迫りて主たらんことを請う。環繞して逃避する所無く、紛紜として逼脅愈々堅く、頃刻の間、安危保つ莫し。事獲已むを得ず、須らく徇従に至る。ここに於いて馬歩諸軍、擁して京闕に至る。今、太后の詔旨を奉じ、時運艱危、機務曠うし難きを以て、監国たらしむ。遜避する由無く、黽勉して遵承し、夙夜憂愧す」云々と。時に文武百官・内外の将帥・藩臣郡守等、相継いで表を上りて進むを勧む。三十日夜、御営の西北隅の歩軍将校、酔いに因りて揚言す、「昨は澶州の馬軍扶策せり、今は歩軍も亦た扶策せんと欲す」と。尋いで虞候をして其の姓名を詰めしめ、昧旦に擒えて斬る。其の一軍は仍く甲仗を納め、中使を遣わして監送し、糧所に就かしむ。
古より受命の君、邦を興し統を建つるは、上は天意に符い、下は人心に順うに非ざるは莫し。是を以て夏の徳既に衰うれば、爰に有商の祚を啓き、炎風競わずして、肇めて皇魏の基を開く。朕は早く前朝に事え、久しく重位に居る。遺を受けて政を輔け、敢えて伊・霍の忠を忘れず、鉞を仗りて戎に臨み、復た韓・彭の任を委ねらる。躬を匪にして尽瘁し、思を焦し心を労し、叛渙を河・潼に討ち、声援を岐・雍に張り、竟に大憝を平げ、粗く微労を立つ。纔に関西に騑を旋らすに、尋いで兵を河朔に統べ、師旅を訓斉し、辺陲を固護す。只だ身を国家に許し、以て賊を君父に遺さず。外憂少しく息み、内患俄かに生ず。群小謀を連ね、大臣害に遇う。棟梁既に壞れ、社稷将に傾かんとす。朕方に藩維に在りて、以て讒構に遭う。一生を万死に逃れ、径ちに闕庭に赴き、四罪を九衢に梟し、幸いに区宇を安んず。将に漢祚を延ばさんとし、劉宗を択び立てんとす。征命已に行わるるも、軍情忽ち変ず。朕は衆庶の迫る所と為り、逃避する由無く、扶擁されて京に至り、尊戴されて主と為る。重ねて中外進むを勧め、方嶽推崇するに、黽勉として群心に順うと雖も、臨御実に涼徳を慚ず。元を改め号を建つるは、祗に旧章に率う。故を革し新に鼎るは、宜しく霈沢を覃うすべし。
天下の諸侯は皆、親戚があるのだから、自ら慎重に選んで委任すれば、必ずや参画・補佐の効果を挙げられるであろう。朝廷が選んで派遣することは、道理に適わない場合がある。前の過ちを正し、広く通用する規則に合わせるべきである。先に在京諸司から軍将を差し出して諸州郡の元従都押衙・孔目官・内知客などに充てた者は、すべて停止・廃止し、旧来の職役に戻すこと。近代の帝王陵墓については、樵採を禁ずる。唐の荘宗・明宗、晋の高祖には、それぞれ守陵戸十戸を置き、近陵の人戸を充てた。漢の高祖皇帝の陵署職員および守宮人、時節の薦饗、ならびに守陵人戸などは、一切従前の通りとする。なお、晋・漢の子孫を二王の後裔とし、中書門下に処分を委ねるという。
司天が上言した。「今、国家が建号し、木徳をもって水徳に代わります。経法に準ずれば、国は姓墓を以て臘とします。未の日を臘とされるよう請います。」従った。当時、議論する者は言った。「昔、武王が殷に勝った時、歳星は房宿に集まった。国家が天命を受けるにあたり、金星・木星が房宿に集まった。文王が羑里で難に遭った時、卦は明夷を得た。帝が鄴を脱出された時、大衍の数によって再び明夷を得た。すると、周を国号とすることは、文王・武王に符合するのである。」先に、丁未年の夏六月、土星・金星・木星・火星の四星が張宿に集まった。占う者は言った。「周の地に帝王が興る者があるであろう。」それ故に漢の高祖は建国し、平陽・陝服から洛陽へ急行してこれに応じた。また隠帝が嗣位しようとする時、周王に封じてその事に符合させた。そして帝は、姫姓・虢の後裔として、再び宗周を継ぎ、天下の符契は明らかとなったのである。昔、武王は木徳をもって天下に王たり、宇文周もまた木徳を承けた。そして三朝(後唐・後晋・後周)は皆、木徳をもって水徳に代わった。これは奇異ではないか。
戊辰、前曹州防禦使何福進が宣を受け、権許州節度使となる。前復州防禦使王彦超が宣を受け、権徐州節度使となる。前澶州節度使李洪義が宣を受け、権宋州節度使となる。己巳、漢の太后に尊号を上って昭聖皇太后と称する。この日、詔して有司に日を選ばせ、故主のために発哀する。(《五代会要》に載せる原敕によれば:漢の高祖は義帝のために発喪し、魏の明帝は禅陵の尊号を正した。一時の達礼は千古に称えられる。況や朕は久しく前朝に仕え、常に大政に参じた。虞から夏へ遷るごときは、群情によって奪われたとはいえ、四海九州は皆、予の夙志を知っている。宜しく有司に命じて日を選ばせ、故主のために挙哀し、なお山陵の葬礼を備えさせるべきである。)辛未、有司が上言した。「皇帝が故主のために挙哀される日は、縞素を服し、直領深衣・腰绖などを着用される。成服の後、祭奠を行い、七日間朝政を視られず、坊市では音楽を禁ずる。文武内外の臣僚は成服後、毎日太平宮に赴いて臨み、三日で止め、七日で服を解く。山陵の啓攢塗の日に至っては、初服を着用し、盾車で城を出て、班辞の後、服を解かれる。」従った。壬申、前博州刺史李筠が宣を受け、権滑州節度使となる。癸酉、枢密使・検校太傅王峻に同平章事を加える。前澶州節度使李洪義を宋州節度使とし、同平章事を加える。滑州節度副使陳観を左散騎常侍とし、鄴都留守判官王溥を左諫議大夫とし、ともに枢密院直学士を充てる。元従都押衙鄭仁誨を客省使とし、知客押牙向訓を宮苑使とする。北京留守劉崇が押牙鞏廷美を遣わして書を致し、劉赟の帰藩を求める。帝は答えて言う。「朕が澶州におられた時、軍情が推戴した際に、先に差し遣わした直省李光美が詳しく見ており、必ずや詳しく話したであろう。況んや遠近に聞こえていることであり、後には全て知ることになるであろう。湘陰公(劉赟)は先頃宋州に駐泊していたが、今は京に赴くよう取り計らっている。ただ憂い疑うことなく、必ずや適所を得させる。ただ公(劉崇)がそこにおられるので、固く安心を請う。もし力を合わせて扶持することができ、他に顧慮がなければ、即時に王爵を封じ、永く北門を鎮守させよう。鉄券丹書も、惜しむことはない。その他の事情は、来たる者に口宣させる。」千牛衛将軍朱憲を遣わして入契丹使を充てる。先に、去年、契丹の永康王烏裕(兀欲)が邢州・趙州を寇し、内丘を陥とした。戻る際、兀裕は使者を遣わして漢の隠帝に書を送った。(《通鑑》によれば:契丹が内丘を攻めた時、死傷が多く、また月食に遭い、軍中に妖異が多かったため、契丹主は深く入ることを敢えず、兵を引き返し、使者を遣わして漢に請和した。)使者が国境に至った時、朝廷に蕭墻の変があり、帝が京城を定め、澶州に戻ったところで蕃使と出会い、共に入朝した。ここに至り、朱憲を遣わして来使を伴って帰蕃させ、兼ねて革命の由を書で述べ、なお金の酒器一組・玉帯一つを兀裕に贈る。晋州節度使王晏が行軍司馬徐建を殺し、河東と通じたことを聞かせる。
乙亥の日、鄆州節度使・守太師・兼中書令・齊王高行周は尚書令に進位し、襄州節度使・檢校太師・守太傅・兼中書令・齊國公安審琦は南陽王に進封され、青州節度使・檢校太師・守太保・兼中書令・魏國公符彥卿は淮陽王に進封された。夔州節度使・侍衛親軍馬步軍都指揮使・檢校太傅王殷は同平章事を加えられ、鄴都留守を充て、軍を統率することは従前の通りであった。丙子の日、帝は太平宮に赴き、漢の隱帝のために喪を発し、百官は儀式に従って陪位した。この日、湘陰公の元従右都押衙鞏廷美・教練使楊温らが徐州に拠って命令に抵抗した。帝は新たに任命された節度使王彦超に兵を率いて急行させるとともに、廷美らに勅書を賜った。丁丑の日、荊南の高保融が奏上したところによれば、去年十一月、朗州節度使馬希萼が潭州を破り、十二月十八日に馬希広を縊殺し、十九日には希萼自ら天策上將軍・武平静江寧遠等軍節度使・嗣楚王を称したという。戊寅の日、湘陰公が薨去した。己卯の日、前太師・齊國公馮道を中書令・宏文館大學士とし、司徒兼門下侍郎・同平章事・宏文館大學士竇貞固を侍中・監修國史とし、左僕射・平章事・集賢殿大學士蘇禹珪を守司空・平章事とした。夏州節度使李彜興は隴西郡王に進封され、荊南高保融は渤海郡王に進封され、靈武馮暉は陳留郡王に進封された。西京白文珂・兗州慕容彦超・鳳翔趙暉はいずれも兼中書令を加えられた。王彦超に兵を率いて徐州を攻撃するよう詔を下した。庚辰の日、故樞密使・左僕射・平章事楊邠は恒農郡王を追封され、故宋州節度使兼侍衛親軍都指揮使史宏肇は鄭王を追封され、故三司使・檢校太尉・平章事王章は郎琊郡王を追封された。この日、詔を下して言うには、
朕は微末の身をもって王公の上に託されているが、その徳が類に及ばぬことを懼れ、自らを撫でて安んずる暇もない。どうして教化が未だ人に及ばないのに過度に自らを奉養し、道が未だ古に及ばないのに節度を知らないことができようか。費やして民を労するよりは、むしろ倹約して己を克つ方がよい。先に発布した赦令において、既にこの思いを述べた。宮中の衣服・車馬などに必要なものは、全て減損に従い、珍巧で細やかな奇物の貢ぎ物は、全て停止させる。なお未だ該当しないものがあるので、改めて条を挙げて定める。天下の州府が旧来より貢いでいた滋味・食饌の品物は、全て除減すべきである。両浙が進める細酒・海味・姜瓜、湖南の枕子茶・乳糖・白沙糖・橄欖子、鎮州の高公米・水梨、易・定の粟子、河東の白社梨・米粉・緑豆粉・玉屑鞏子面、永興の御田紅粳米・新大麥面、興平の蘇粟子、華州の麝香・羚羊角・熊膽・獺肝・朱柿・熊白、河中の樹紅棗・五味子・輕餳、同州の石𨫼餅、晉・絳の葡萄・黄消梨、陜府の鳳棲梨、襄州の紫姜・新筍・橘子、安州の折粳米・糟味、青州の水梨、河陽の諸雑果子、許州の御李子、鄭州の新筍・鵝梨、懷州の寒食杏仁、申州の蘘荷、亳州の萆薢、淮河沿いの州郡の淮白魚など、このような品物は、いずれも土産から出てはいるが、民家から取るものもあり、労煩を免れず、大抵は浪費である。加えて力役による荷運びや道中の駆け回りがあり、役所の中に積もって、甚だ無用の物となっている。今後は全て進奉する必要はない。諸州府にさらに旧例で進める食味があり、この詔に該当しないものについては、奏上して進止を取るように。
また詔して、朝廷の文武臣僚に、各々封事を上奏させ、国に益し民に利する事柄があれば、速やかに詳細を以て奏聞するよう命じた。辛巳の日、鎮州武行徳・晉州王晏・相州張彦成・潞州常思・邠州候章はいずれも兼侍中を加えられ、侍衛馬軍都指揮使・果州防禦使・檢校太保郭崇は洋州節度使・檢校太傅とされ、軍を統率することは従前の通りであった。侍衛步軍都指揮使・岳州防禦使曹英は利州節度使・檢校太傅とされ、軍を統率することは従前の通りであった。癸未の日、涇州史懿・延州高允權・滄州王景・永興郭従義・定州孫方簡はいずれも兼侍中を加えられ、鄜州楊信・同州薛懐譲・貝州王継宏はいずれも同平章事を加えられた。乙酉の日、華州王饒・河中扈彦珂・鄧州折従阮・邢州劉詞はいずれも同平章事を加えられた。丙戌の日、西荘に行幸した。潞州が奏上したところによれば、石会関使王延美からの報告を得て、河東の劉崇が正月十六日に僭号したという。丁亥の日、前澶州節度使李洪義を宋州節度使とし、同平章事を加え、曹州防禦使・北面行営馬歩都排陣使何福進を許州節度使とし、檢校太傅を加え、博州刺史・北面行営右廂排陣使李筠を滑州節度使とし、檢校太保を加えた。戊子の日、有司が上言して言うには、「赦書に準じれば、晉・漢の子孫を二王の後とし、その唐の五廟の仲祀は廃止すべきである」と。これに従った。庚寅の日、宗正寺が奏上して言うには、「晉・漢の故事に倣い、漢の七廟の神主を升平宮に遷し、仲享の礼を行い、漢の宗子を以て三献としたい」と。これに従った。