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舊五代史
漢書十一: 列傳六 杜重威 李守貞 趙思綰
目次
杜重威
杜重威、その先祖は朔州の人であるが、近世に太原に移り住んだ。祖父の興は振武牙将であった。父の堆金は、唐の武皇(李克用)に仕えて先鋒使となった。重威は若くして明宗(李嗣源)に仕え、護聖軍校から防州刺史を領した。その妻はすなわち晋の高祖(石敬瑭)の妹であり、累次封を受けて宋国大長公主となった。天福初年、重威に命じて禁軍を統率させ、遙かに舒州刺史を授けた。二年、張従賓が乱を起こし、汜水を占拠したので、晋の高祖は重威と侯益を派遣して衆を率いてこれを破らせ、功により潞州節度使を授けた。楊光遠とともに鄴城で範延光を降伏させ、許州節度使に改め、侍衛親軍馬歩軍副指揮使を兼ね、まもなく同平章事を加えられた。ほどなく、鄆州に移鎮し、侍衛親軍馬歩軍都指揮使に遷った。(《通鑑》によれば、馮道・李崧がたびたび重威の才能を推薦し、都指揮使とし、随駕御営使を充てた。)鎮州の安重栄が兵を挙げて朝廷に向かったとき、重威に命じてこれを防がせ、宗城で重栄を破った。重栄は常山に奔って拠ったが、重威はまもなくその城を陥とし、重栄の首を斬って闕下に伝え、成徳軍節度使を授けられた。得た重栄の家財および常山の公帑は、すべて自らのものとし、晋の高祖は知りながら問わなかった。鎮に至ると、さらに民に重い税を課し、正税の外に賦を加えたので、境内の民はこれを苦しんだ。(《通鑑》によれば、重威の至るところで財貨を貪り、民は多く逃亡した。かつて出て市を通り過ぎ、左右の者に言うには、「人々は私が百姓を追い尽くしたと言うが、どうして市の人々が多いのか」と。)
少帝(石重貴)が位を嗣ぐと、契丹と友好を断ち、契丹主は連年晋を伐ったが、重威はただ城壁を閉じて自ら守るのみであった。管内の城邑は相次いで陥落し、一境の生民は屠戮を受けたが、重威は方面の任にありながら、一つの土、一騎の兵をもってこれを救うことはなかった。しばしば敵騎数十が漢人千万を駆り立てて城下を通り過ぎるのを、無人の境に入るがごとくにし、重威はただ城壁に登って目を注ぐだけで、少しも邀撃して奪い取る意思はなかった。開運元年秋、北面行営招討使を加えられた。二年、大軍を率いて新州・満城・遂城を陥とした。契丹主が古北口から軍を返し、王師を追跡したので、重威らは狼狽して退却し、陽城に至り、契丹に包囲された。時に大風が狂い猛り、軍情が憤激したので、符彦卿・張彦沢らが軍を率いて四方に出撃し、敵衆は大いに潰えた。諸将はこれを追撃しようとしたが、重威は言った、「賊に逢って命を得たのだ、さらに子を望むことができようか(生き延びただけでも幸いだ、さらに勝利を望むべきではない)」。かくて軍を収めて常山に馳せ帰った。これより先、重威は州内で銭帛を借り上げ、吏民は大いにその苦しみを受け、人情はみな怨んだ。さらに境内が凋弊し、十室九空であったので、重威は遂に留まる意思がなく、連続して上表して朝廷への帰還を乞い、返答を待たず即時に上路した。朝廷は辺境の重鎮であり、主帥が擅離することは、もし敵の突進があれば、防備を失うことを慮ったが、しかしまたどうすることもできず、ただちに馬全節を代わらせ、重威はまもなく鄴都留守を授けられた。時に鎮州の軍糧が続かず、殿中監王欽祚を派遣して本州で和市を行わせたところ、重威の私邸に粟十余万斛があったので、これを記録して上聞した。朝廷は絹数万匹を与え、その粟の代価を償った。重威は大いに憤って言った、「私は反逆ではないのに、どうして没収されるのか」。三年冬、晋の少帝は重威に詔して李守貞らとともに師を率いて瀛・鄚を経略させた。師は瀛州城下に至り、晋の騎将梁漢璋が契丹と交戦し、漢璋はそこで戦死した。重威は即時に軍を返し、武強に駐屯した。契丹主が南下したと聞くと、西に向かって鎮州に急ぎ、中渡橋に至り、契丹と滹水を挟んで陣営を構えた。十二月八日、宋彦筠・王清らが数千人を率いて滹沱を渡り、北岸に陣したが、敵に破られた。時に契丹の遊軍はすでに欒城に至り、道路は隔絶し、人情は危険で切迫していた。重威は密かに人を敵の陣営に遣わし、ひそかに腹心の意を伝えた。契丹主は大いに喜び、中原の帝とすることを許した。重威は愚昧で、深くこれを信じた。ある日、内に甲兵を伏せておき、諸将を召集して会し、敵に降る意思を告げると、諸将は愕然とした。上将がすでに変心した以上、俯首して命令を聴き、かくて連署して降表を作り、中門使高勛に命じて敵の陣営に届けさせた。軍士は甲を解き、声を挙げて慟哭した。この日、降軍の上に大霧が立ち込めた。契丹主は重威に赭袍を着せて諸軍に示させ、まもなく偽って守太傅を加え、鄴都留守はもとのままとした。契丹主が南行するに及び、重威に命じて晋軍を部轄して従わせた。東京に至ると、晋軍を陳橋に駐屯させたが、兵士は飢え凍え、その苦しみに耐えられなかった。重威が街路を出入りするたびに、市民に罵られ、俯首するのみであった。契丹は命令を下して京城の銭帛を徴発し、将相から公私に至るまで、一律に割り当てた。重威と李守貞はそれぞれ一万緡を割り当てられたが、重威は契丹主に告げて言った、「臣らは十万の漢軍を率いて皇帝に降ったのに、配借を免れず、臣は甘んじません」。契丹主は笑ってこれを免じた。まもなく群盗が澶州の浮橋を断ったので、契丹は重威を帰藩させた。翌年三月、契丹主が北に去り、相州城下に至ると、重威は妻の石氏とともに牙帳に詣でて貢献し、帰還した。
高祖の車駕が都に至り、重威を宋州節度使とし、守太尉を加えた。重威は恐れ、城門を閉じて命令を拒み、詔により高行周が兵を率いて攻撃討伐した。重威はその子の宏遂らを遣わして鎮州の麻答に急を告げ、援軍を乞い、また宏遂を人質とした。麻答は蕃将の楊兗を派遣してこれに赴かせた。間もなく、鎮州の軍は麻答を追放し、楊兗は洺州に至って引き返した。十月、高祖は親征し、車駕は鄴城の下に至り、給事中陳観らを遣わし詔を携えて城に入り、帰順を許すと伝えたが、重威は受け入れなかった。数日後、高祖はみずから諸軍を率いてその陣営を攻めたが、陥とせず、王師の負傷者は一万余人に及んだ。高祖は軍を駐屯させて数十日、城中の食糧は尽き、麹餅を砕いて軍士に与え、塁を越えて出てくる吏民は多く、皆生気のない顔色であった。ここに至り、重威の牙将が行宮に詣でて降伏を請い、また節度判官王敏を遣わして上表し罪を請うたので、優詔を賜って励まし、当初の通りとすることを許した。重威は直ちにその子宏遂と妻石氏を出して高祖を迎えさせ、重威も続いて出て降伏し、素服で罪を待ち、その衣冠を回復させて引見を賜い、即日、制により検校太師・守太傅・兼中書令を授けた。鄴城の士庶は、餓死した者が十の六七に及んだ。先に、契丹が幽州指揮使張璉を遣わし、配下の軍二千余人を率いて鄴に駐屯させていた。時にまた燕軍一千五百人が京師にいたが、高祖が都に至った時、変事を上告する者がおり、燕軍が謀叛を企てていると言ったので、繁臺の下で皆誅殺され、冤罪であると称された。鄴に逃げ奔った者がおり、その事を詳しく話したので、張璉らは死を恐れ、重威と固く結んで城を守り、少しも叛く意志がなかった。高祖もまた以前の過ちを悔い、累次宣諭し、死なないことを約束した。璉らは城上で声をあげて言った、「繁臺での誅殺は、燕軍に何の罪があるのか。生きる道がなければ、死を期するのみである」。璉の一軍は包囲の中にあり、重威は食を分け衣を解き、力を尽くして手懐けた。燕軍は驕悍で、吏民を凌駕し、子女金帛を公然と強奪した。重威が降伏を請うた時、璉らは朝廷に信誓を求め、詔は璉らが本土に帰還することを許した。降伏して出た後、璉ら将校数十人をことごとく誅殺し、その什長以下は幽州に放還した。漢の国境を出ようとした時、略奪して去った。高祖は三司使王章・枢密副使郭威を遣わし、重威の配下の将吏をことごとく誅殺するよう記録させ、その財産と重威の私蔵金を没収し、将士に分け与えた。
車駕が宮中に還り、高祖は病に伏せ、やがて危篤となった。顧命の際、近臣将佐に言った、「重威をよく防げ」。帝が崩じると、直ちに重威を捕らえ、重威の子の宏璋・宏璉・宏傑を誅殺した。詔に曰く、「杜重威はなお禍心を抱き、逆節を悔い改めず、梟の声は変わらず、虺の性は馴らし難い。先般朕が少し不安を覚え、数日間朝政を罷めたが、重威父子はひそかに凶言をほしいままにし、大朝を怨み誹謗し、小輩を扇動惑乱した。今や明らかに陳告があり、奸計が十分に検証された。深恩に背いた以上、極刑に処すべきである。杜重威父子はともに斬刑に処す。すべての晉朝公主および外親族は、一切平常通りとし、引き続き供給を与える」。重威父子が誅殺された後、屍体は大通りに晒され、都人が集まって見物し、罵り蹴りつけ、軍吏も制止できず、屍体は乱れ散り、たちまちにして尽きた。
宏璉は重威の子である。累官して陳州刺史に至った。
李守貞
李守貞は河陽の人である。若い頃は傑出して狡猾で落ちぶれ、本部に仕えて牙将となった。晉高祖が河陽を鎮守した時、典客に用いられ、後に数鎮を移ったが、皆従った。即位すると、累遷して客省使に至った。天福年中、李金全が安州で叛き、淮夷が侵入したので、晉高祖は馬全節に討伐を命じ、守貞はその軍を監護した。賊が平定されると、守貞は宣徽使となった。少帝が即位すると、滑州節度使兼侍衛馬軍都指揮使を授けられたが、間もなく侍衛都虞候に改めた。開運元年春、敵の大軍が澶・魏を侵犯し、少帝は澶州に行幸した。契丹は将の麻答を遣わし、奇兵を率いて鄆州馬家口から黄河を渡り、東岸に柵を築いた。守貞は軍を率いて澶州から急行して赴いた。契丹は大敗し、溺死者数千人、馬数百匹を獲、偏裨七十余人を捕らえた。しばらくして敵は退いた。晉少帝が京に還ると、守貞を兗州節度使とし、前のまま侍衛都虞候とした。五月、守貞を青州行営都部署とし、兵二万を率いて東征し楊光遠を討たせ、符彦卿を副将とした。十一月、光遠の子の承勛らが降伏を乞うたので、守貞は城に入り、別邸で光遠を殺害した。光遠に孔目官吏の宋顔という者がおり、光遠の財宝・名妓・良馬のすべてを守貞に告げ、守貞はこれを得て帳下に置いた。近時の慣例では、官軍が城郭を回復すれば必ず徳音を下し、瑕疵を洗い清めるものであったが、時に枢密使桑維翰が光遠と同悪の数十人が潜んで出てこないのを、捜索して甚だ急いだため、制書がなかなか下らなかった。ある者が宋顔が守貞のところに匿われていると告げたので、朝廷は彼を捕らえて殺した。守貞はこれによって維翰を怨んだ。時に行営の将士に給与される賞賜を、守貞はすべて黦茶・染木・姜薬の類に替えて分け与えたので、軍中大いに怨み、帛で得た物を包み、人の首級のように見立てて、これを「守貞の頭」と呼び、木に懸けて呪った。守貞が軍を返すと、同平章事を加えられ、楊光遠の東京の邸宅を賜った。守貞はそこで連なる宅地や軍営を取ってその邸宅を広げ、大いに土木を興し、一年余りかけて造営し、京師で第一となった。行幸して賜宴する時は、恩礼比類なきものがあった。
周光遜が西寨を以て降伏すると、その勢いはますます窮し、人心は離散した。官軍の攻城はますます急となり、守貞はひそかに衙署に多くの薪や草を積み、自焚の計を図った。二年七月、城は陥ち、全家挙げて火に赴いて死んだ。王師が城に入り、煙の中からその屍体を獲て、その首を断ち函に収め、数人の子と二人の娘を捕らえ、その徒党とともに闕下に献じた。隠帝は明徳楼に御して俘虜と首級を受け、露布を宣し、百官賀した。礼が終わると、俘虜と首級を以て都城に示衆し、守貞の首級は南市に梟し、諸子および賊党の孫願・劉芮・張延嗣・劉仁裕・僧総倫・靖余・張球・王廷秀・焦文傑・安在欽らはともに西市で磔にし、残りは皆斬った。
趙思綰
趙思綰は魏府の人である。唐の同光末年に、趙在禮が魏城を占拠したとき、思綰はその帳下に隷属し、累次これに従った。在禮が卒すると、趙延壽はその部曲を籍没し、ことごとくその子の趙贊に付与したが、思綰はその首領であった。高祖が河・洛を平定すると、趙贊は河中から京兆尹に移った。趙贊は長く契丹に仕えたため、常に国家が終に容れられぬことを慮り、乃ち鳳翔の侯益と謀り、蜀兵を引き入れて援けとし、又た判官の李恕をして朝廷に入り朝覲を請わしめたが、趙贊は返答を待たずして闕に赴き、思綰ら数百人を京兆に留めた。時に高祖が王景崇らを西に遣わして鳳翔に赴かせ、行くこと京兆に次いだ。時に思綰ら数百人がそこにいた。思綰らはこれまで趙在禮の御士であり、本来刺面していなかったが、景崇・齊藏珍が京兆に至ると、文面させて逃亡を防ごうとした。景崇が微かに風旨を漏らすと、思綰は厲声をあげて先ず自ら刺すことを請い、以てその部下を率いようとしたので、景崇はこれを壮とした。藏珍は窃かに言うには、「思綰は粗暴で制し難い、殺すに如かず」と。景崇は聞き入れず、ただこれを率いて共に鳳翔に赴いた。朝廷これを聞き、供奉官の王益を遣わして思綰らを部署し闕に赴かせた。思綰が既に出発し、途中に行き至り、その党の常彦卿に謂うには、「小太尉は既に他人の手に入った、我らが至れば則ち併せて死ぬことになろう」と。小太尉とは蓋し趙贊を謂う。彦卿曰く、「臨機に制変すべし、子は復た言うなかれ」と。既に行き、永興に至ると、副使の安友規・巡検使の喬守温が出迎え、郊外の離亭に酒を置いた。思綰が進み出て曰く、「部下の軍士は既に城東に安下したが、縁って家族が城内におり、各々家族を将いて今夜便ち城東に宿したい」と。守温らこれを然りとした。思綰ら辞去し、部下と併せて兵仗は無く、西門に入るや、州校が門側に坐していたので、思綰は遽かにその佩剣を奪い、即ちこれを斬った。その衆は白挺を持ちて守門の軍士十余人を殺し、衆を分けて諸門を守捉した。思綰は庫兵を劫掠してこれを授け、遂にその城を占拠した。時に乾祐元年三月二十四日のことであった。翌日、城中の丁壮を集めて四千余人を得、池濠を浚い、楼櫓を修め、旬日(十日)の間に、戦守の備え皆整った。尋いで人を遣わして河中に款を通じ、李守貞は使者を遣わし偽詔を齎らせて思綰を晋昌軍節度使・検校太尉に授けた。朝廷これを聞き、郭従義・王峻に命じて師を帥いてこれを伐たせた。その城を攻むるに及び、王師の傷者は甚だ衆く、乃ち長塹を以てこれを囲んだ。経年して糧尽き、遂に人を殺して食と充てた。思綰は嘗て衆に向かい人胆を取り酒を以てこれを吞み、衆に告げて曰く、「これを一千まで吞めば、即ち胆気無敵となろう」と。
二年の夏、食既に尽き、思綰は計る所無く、時に左驍衛上将軍致仕の李肅が城中に寓居していたので、判官の程譲能と共に思綰に言うには、「太尉は比来国家と嫌隙無く、只だ罪を負いて誅を懼れ、遂に急計を為したまでである。今朝廷三処に用兵し、一城未だ下らず、太尉若し翻然として効順し、率先して帰命し、功を以て過を補えば、庶幾くは患い無からん。若し窮城に坐守し、端然として斃を待つは、則ち何ぞ智を貴ぶところあらんや」と。思綰これを然りとし、即ち譲能に章表を作らせ、牙将の劉成琦をして朝廷に入らせた。制して思綰を華州留後・検校太保に授け、常彦卿を虢州刺史とし、内臣を遣わして官告国信を齎らせてこれを賜うた。既に命を受けたが、遅留して発たず。郭従義・王峻らこれを籌るに曰く、「狼子野心、終に用いるべからず、これを留めば必ず後悔を貽さん」と。既にして従義・王峻らは轡を緩めて城に入り、歩騎を陳列して牙署に至り、人を遣わして思綰を召して曰く、「太保途に登るに、祖餞に出ずる暇無し、一杯に対飲し、便ち別れを申さん」と。思綰至るや、則ちこれを執り、遂に市で斬り、併せてその家を族誅した。思綰の臨刑に、市人は争って瓦石を投げてこれを撃ち、軍吏も禁ずることができなかった。この日、部下の叛党で新たに虢州刺史に授かった常彦卿ら五百余人を併せて誅した。思綰の家財を籍没すると、二十余万貫を得て、官に入れた。初め思綰が城に入った時、丁口は僅か十余万であったが、城を開いた時には、唯だ万人余りだけであった。その餓殍の数は知るべしである。