舊五代史

漢書かんじょ十: 列傳五 李崧 蘇逢吉 李鏻 龍敏 劉鼎 張允 任延皓

李崧

李崧は深州饒陽の人である。父の舜卿は本州の錄事參軍であった。崧は幼くして聡敏であり、十余歳で文章を作り、家人はこれを奇とした。弱冠にして、本府に参軍として任用された。その父は嘗て同族の李鏻に謂って曰く、「大醜(崧の小字)の生まれつき、形は奇なり気は異なり、前途は徒労の地に居らざるべし、吾が兄の誨激に頼む」と。同光の初め、魏王継岌が興聖宮使となり、兼ねて鎮州節鉞を領すと、崧は参軍として従事した。時に推官李蕘が文書を掌ったが、崧はその起草が巧みでないのを見て、密かに掌事の呂柔に謂って曰く、「令公は皇子にして、天下の瞻望する所なり、尺牘の往来、章表の論列に至っては、稍々文理の宜しきを須うべし。李侍御の起草は、未だ能く善く尽くさず」と。呂曰く、「公試みに代わって之を為せ」と。呂は崧の作ったものを見て、盧質・馮道に示すと、皆之を称した。ここにより興聖宮巡官に抜擢され、独り奏記を掌った。荘宗が洛に入ると、太常寺協律郎を授けられた。王師がしょくを伐つに当たり、継岌が都統となり、崧を以て書記を掌らしめた。蜀が平定されると、枢密使郭崇韜が宦官に誣構され、継岌は遂に崇韜父子を殺したが、外は未だ知らなかった。崧は継岌に白して曰く、「王何ぞ此の危き事を為すや。崇韜を容れざるに至っては、洛に至って之を誅するも未だ晩からず。今軍を五千里に懸け、咫尺の書詔無くして、便ち重臣を殺すは、謀に非ず」と。継岌曰く、「吾も亦之を悔ゆ」と。崧は書吏三四人を召し、楼に登って梯を去り、黄紙を取って詔書を矯めに書き、倒に都統の印を用いて之を発した。翌日、諸軍に告ぐると、軍情稍々定まった。蜀より還るに及び、明宗が革命すると、任圜が宰相として三司を判じ、崧を用いて塩鉄推官とし、緋を賜うた。丁内艱に遭い、郷里に帰る。服闋すると、鎮帥範延光が奏して書記を署せしめ、延光が枢密使となると、拾遺を拝し、直枢密院となり、補闕・起居郎・尚書郎に遷り、職を充つること旧の如し。長興の末、翰林学士に改む。清泰の初め、端明殿学士・戸部侍郎を拝す。

先に、長興三年の冬、契丹が雲中に入ると、朝廷は重将を命じて太原を鎮めんとした。時に晋祖(石敬瑭)は六軍副使であり、秦王従栄の不軌を以て、懇ろに外任を求め、深く北門(太原)の任を望んだが、大臣は晋高祖こうそが方に兵柄を権めていることを以て、議い難しとした。一日、明宗はその未だ奏せざるを怒り、範延光・趙延寿等は対えず、退いて本院に帰り、共に其の事を議し、方に康義誠を以て之とせんと欲した。時に崧は最も下位に在り、聳立して請うて曰く、「朝廷の重兵多くは北辺に在り、須らく重臣を以て帥とすべし、某の見る所に依れば、石太尉に非ざれば可ならず」と。会に明宗が中使をして之を促さしむると、衆は乃ち其の議に従った。翌日、晋祖が既に太原の命を受けると、心腹をして意を崧に達せしめて云わく、「浮図を壘むには須らく尖を合すべし」と。蓋し之を感ずること深かったのである。清泰の末に及び、晋祖が洛に入ると、崧は呂琦と俱に伊闕の民家に竄匿した。旬日にして、晋高祖が召して戸部侍郎とし、戸部を判ぜしめた。一月余りを経て、中書侍郎・同平章事を拝し、桑維翰と並びに枢密使を兼ねた。維翰が相州に鎮すると、未だ幾ばくもなく、枢密院を廃し、事は中書に帰し、尚書右僕射を加えられた。鄴に従幸し、丁外艱に遭う。恩制にて起復すべしとされたが、崧は章を数四上し、懇ろに其の命を辞し、優詔にて允さず。復た章を上すも報いず、崧は已むを得ずして事を視た。晋少帝が位を嗣ぐと、復た桑維翰を枢密使として用い、崧に命じて兼ねて三司を判ぜしめた。未だ幾ばくもなく、維翰に代わって枢密使となり、馮玉と対て機密を掌った。開運の末、崧・玉は契丹の詐りを信じ、瀛・鄭を経略し、中渡の敗れに及び、其の奸謀に陥った。契丹が京師に入ると、趙延寿・張礪は平素より崧の才を称え、契丹主は善く之を遇し、崧を以て太子太師とし、枢密使を充てた。契丹主は嘗て左右に謂って曰く、「我南朝を破りて、只だ李崧一人を得たるのみ」と。契丹に従って北行し、鎮州に留まる。

高祖(後漢の高祖劉知遠)が汴・洛を平らげると、乃ち崧の居第を蘇逢吉に賜い、第中に宿蔵せし物は、皆逢吉の所有となった。是の年の秋、鎮州が麻答を逐うと、崧は馮道・和凝等十数人と共に闕に帰り、太子太傅を授けられた。崧は朝廷の権右に対し、謙挹して顔を承け、未だ嘗て旨に忤わず。嘗て宅券を蘇逢吉に献じたが、喜ばれなかった。崧の二弟の嶼・㠖は酒に酣で無識であり、楊邠・蘇逢吉の子弟と杯酒の間に在りて、時に我が居第を奪いしことを言及し、逢吉之を知った。部曲の葛延遇という者あり、李嶼の船傭を逋り、嶼は之を撻ち、其の負う所を督めた。遇に同輩の李澄あり、亦た逢吉に事え、葛延遇は夜に澄の家に寄宿し、嶼に見督めらるる情を告げ、遂に一夕同謀して変を告げた。逢吉は状を覧て史宏肇に示し、其の日逢吉は吏を遣わして崧を第に召し至らしめ、従容として葛延遇の変を告ぐる事に及び、崧は幼女を托し、逢吉は吏を遣わして侍衛獄に送らしめた。既に行くに及び、崧は恚って曰く、「古より未だ亡びざる国、死せざる人無し」と。吏に鞫めらるるに及び、乃ち自ら誣って罪に伏し、挙家害に遇い、少長悉く市に屍し、人士之を冤とした。崧は徐臺符と同学にして相善くし、乾祐三年の秋、臺符は夢に崧謂って曰く、「予が冤横、帝に請うて得たり」と。蘇・史の誅せらるるに及び、並びに市に梟首せられ、崧の誅せられし地に当たった。未だ幾ばくもなく、葛延遇・李澄も亦た戮死した。

蘇逢吉

蘇逢吉は長安ちょうあんの人である。父は悅、逢吉の母は早くに亡くなり、悅は鰥居して傍らに侍る者もなかった。性は酒を嗜み、飲む量は多くないものの、一日中酒を味わっていた。他人が供する食事は皆気に入らず、逢吉が調理したものを待って初めて箸を取った。悅は初め蜀に仕え、朝列に昇る官に至り、逢吉は初めて文を学び、嘗て父に代わって筆を執った。悅は嘗て高祖の従事となり、甚だ礼遇され、因みに從容として逢吉を薦めて言うには、「老夫は耄いて、才器に取る所なし。男の逢吉は粗く毫を援るを学び、性また恭恪なり、公もし㹠犬の微を以てせず、願わくは左右に事えしめん」と。高祖は召し見て、神精爽惠なるを以て、甚だこれを憐れんだ。しばらくして賓佐に抜擢し、凡そ謀議有るごとに、立ちてその側に侍った。高祖は元来厳毅であり、太原を鎮守するに及んで、位望崇重となり、従事は稀に謁見を得るのみであったが、惟だ逢吉のみは日に左右に侍った。両使の文簿は案上に堆く積み、左右の者は敢えて通さず、逢吉はこれを懐袖に置き、その悦色を待って諮り、多くはその可とする所を見た。

高祖が太原にて建号すると、逢吉は節度判官より同平章事・集賢殿大学士に拝された。車駕が汴に至ると、朝廷の百司庶務を、逢吉は己が任と為し、参決処置は並びに胸臆より出で、当たる有り否なる有りと雖も、事留滞する無し。時に翰林学士李濤が從容として帝に侍り、府の二相に言及し、官秩未だ崇からずと、逢吉は旋って吏部尚書を加えられ、未だ幾ばくもせずして左僕射に転じ、国史を監修した。杜重威を鄴下に征するに従い、数たび酔いに乗じて周太祖を抵辱した。高祖の大漸に及び、楊邠・史宏肇等と臥内にて同しく顧命を受けた。李濤は逢吉と甥舅の契りを論じ、相得て甚だ歓び、濤の入相は、逢吉の力甚だ有りたり。時に濤が上章し、両枢密を出して方鎮と為さんことを請うと、帝怒り、濤の相を罷め、私第に帰るを勒し、時論は濤が逢吉の風旨を承けたるを疑う。先んずるに、高祖践祚の後、逢吉と蘇禹珪と俱に中書に在り、除拜有る所は多く旧制に違ひ、用捨升降は率意任情に任せ、白丁より宦路に昇り、流外より令録を除かるる者に至るまで、勝て数うべからず。物論紛然たり。高祖方に二相を倚信し、敢えて言う者無し。逢吉は尤も財貨を貪り、顧み避くる所無く、進を求むるの士、稍々物力有る者は、即ち人を遣わして微かに風旨を露わし、美秩を以て許す。楊邠が相と為るに及び、稍々二蘇の権を奪い、是より手を尽くして斂むるのみ。邠は毎に二蘇の失を懲り、除拜に艱しくし、諸司の吏を補うと門胄の出身に至るまで、一切停罷す。時論は邠の蔽を以て、固よりまた逢吉・禹珪の本より物に至公たる能わざるに由る所の致す所なりとす。初め、高祖汴に至り、故相の馮道・李崧が契丹に俘えられ、真定に佇むを以て、乃ち崧の第を逢吉に賜い、道の第を禹珪に賜う。崧は西洛に別業有り、また逢吉の所有と為る。真定契丹を逐うに及び、崧・道朝に帰り、崧の弟嶼は逢吉が其の第を占拠するを以て、時に怨言を出す。未だ幾ばくもせず、崧は西京の宅券を逢吉に献ずるも、悦ばず。時に崧に仆夫有りて誣告して謀反せんと欲し、逢吉は其の状を誘致し、即ち史宏肇に告げ、其の家を逮捕せしむ。逢吉は直省の吏を遣わして崧を第に召し至らしめ、即ち監して侍衛獄に至らしむ。翌日、所司獄辞を以て上るに、其の李嶼の款招に云く、「兄崧・弟鳷と家僮二十人と商議し、山陵発引の時に比し、同しく火を放ち謀乱せんと、其の告は是れ実なり」と。蓋し自ら誣るの辞なり。逢吉は仍って筆を以て「二十人」の字を「五十人」と添註し、封じて下司に付し、尽く崧の家を誅す。時人これを冤し、逢吉に帰咎す。

逢吉は深文にして殺を好み、高祖に従い太原に在りし時、嘗て事に因り、高祖命じて逢吉に獄を静めしめ、以て福祐を祈らしむると、逢吉は禁囚を尽く殺して以て報ず。朝政を執るに及び、尤も刑戮を愛す。朝廷諸処の盗賊を患え、使を遣わして捕逐せしむると、逢吉自ら詔意を草して云く、「応に賊盗有るべく、其の本家及び四鄰同保の人、並びに仰せく所在に全族を処斬すべし」と。或る逢吉に謂いて曰く、「盗を為す者族誅するは、猶お王法に非ず、鄰保同罪は、亦た甚だしからずや」と。逢吉は堅く是と為し、竟に「全族」の二字を去る。時に鄆州の捕賊使臣張令柔が平陰県十七村の民を尽く殺す有り、良く此れに由るなり。逢吉は性侈靡にして、鮮衣美食を好み、中書の供膳は鄙びて食わず、私庖の供饌は務めて甘珍を尽くす。嘗て私第に大いに酒楽を張りて以て権貴を召し、費やす所千余緡。其の妻武氏卒し、葬送甚だ盛んにして、班行官及び外州の節制、逢吉と相款洽する者有れば、皆令して綾羅絹帛を賫送せしめ、以て縞素を備えしむ。礼を失い度に違う、此くの如きに至る。また性名教に拘わらず、継母死して服せず、妻死して未だ周せざるに、其の子並びに官秩を授かる。庶兄外より至る有り、逢吉に白せずして便ち諸子に見ゆ、逢吉怒り、且つ他日其の子息を淩弱せんことを懼れ、乃ち密かに高祖に白し、他事を誣いて以て杖殺す。

乾祐二年(949年)の秋、守司空しくうを加えられる。周太祖(郭威)が鄴に鎮せんとするにあたり、逢吉は枢密使を解くよう奏請した。隠帝が「前例はあるか」と問うと、逢吉は奏上して「枢密の任は、方鎮がこれを帯びるは便ならず」と述べた。史宏肇は「枢密を兼帯すれば、諸軍が畏れて従うことを望める」と言った。結局、宏肇の議に従った。宏肇は逢吉が己と異なる意見を述げたことを怨み、逢吉は「これは国家の事柄である。内(中央官)が外(方鎮)を制すれば順当であり、外が内を制するなどどうして適切と言えようか」と言った。事は従われなかったが、世間の議論は多く逢吉を称えた。しばらくして、王章が酒宴を張り、逢吉と史宏肇が戯れ言を交わしたところ、宏肇から大いに罵られ、逢吉は争わず、殴打されかけた。逢吉は馬を走らせて帰り、これより将相の仲は険悪となった。逢吉は外任を望み、宏肇の怒りを和らげようとしたが、やがて中止した。人がその理由を尋ねると、逢吉は「仮に一方鎮を領しても、史公(宏肇)の一処分で粉々にされてしまうだろう」と言った。李業らは宏肇・楊邠らを憎んでおり、逢吉はこれを知り、業らに会うたびに言葉でそそのかして怒らせた。宏肇らが害された時、逢吉はその謀に与からず、変事を聞いて驚き、直ちに宣徽使を受け、権知枢密院事となった。まもなく正式な任命の詔書を起草させたが、詔書が入った時、鄴の兵が澶州に至ったと聞いて止めた。事態が急を告げると、逢吉は人に言った。「宮中の変はあまりに急であった。主上(隠帝)が一言でも私に問うておられれば、必ずやここまでには至らなかったであろうに。」数夜、金祥殿の東に宿り、天官正の王処訥に言った。「昨夜、枕に就いてまだ眠らぬうちに、李崧が傍らにいるのを見た。生者と死者が接するのは、吉事ではない。」周太祖が鄴から汴に至り、官軍が劉子陂で敗れた。その夜、逢吉は七里郊に宿り、同宿の者と痛飲し、酔って自刎しようとしたが、左右が止めた。夜明けに、隠帝と共に民家に至り、遂に自殺した。周太祖が京城を平定すると、逢吉は聶文進らと共に北の市で梟首にされ、その家族は赦された。その梟首された場所は、丁度李崧が冤死した地であった。広順元年(951年)、詔により西京にその子に邸宅と田宅を各一区賜った。(『五代史補』:高祖(劉知遠)が河東幕府にいた時、書記が欠けており、朝廷は前進士の丘廷敏をこれに任じたが、廷敏は高祖に異志があるとして累が及ぶのを恐れ、病気と称して赴任せず、そこで蘇逢吉に改めた。間もなく契丹が南侵し、高祖は大義に従って立ち上がり、兵に血を染めずして天下を定めた。逢吉は佐命の功により、掌書記から中書侍郎・平章事に任じられた。一年後、廷敏はようやく選ばれて鳳翔麟遊県令に任ぜられた。過堂(宰相への挨拶)の日、逢吉は廷敏をからかい、座っている椅子を撫でて言った。「これは長官(廷敏)が座るべきもの、どうして鄙夫(私)に譲るのか。」廷敏は恐縮して退いた。)

李鏻

李鏻は、唐の宗族に属す。父の洎は、韶州刺史であった。伯父の湯は、咸通年間に給事中となった。懿宗が乳母の楚國夫人の婿を夏州刺史に任じようとした時、湯は任命書を封還した。詔に「朕は幼くして親を失い、楚國夫人の養育がなければ朕この身はなかった。朝典には合わぬが、卿はこれを下すがよい。今後はこれを先例とせぬよう。」とあり、湯は詔に従った。その誠実で率直な様はこのようであった。

鏻は若くして進士に挙げられようとしたが、累次挙げられても及第しなかった。河朔に客遊し、清海軍掌書記を称して、定州の王処直に謁見したが、礼遇されなかった。鏻は直ちに緑の官服を脱ぎ緋の官服を着て、常山に入り要人李宏規に謁し、同姓であることを理由に兄として仕えることを請い、これによって進出した。趙王の王镕が彼を従事に辟召し、镕が卒すると、再び王徳明の賓客となった。徳明が鏻を唐の荘宗(李存勗)に聘問させた時、鏻は密かに徳明の罪状と、これを討てる情勢を上疏し、荘宗はこれを称えた。常山が平定されると、鏻を霸府の支使とした。かつて荘宗に「鏻には四人の子がおりますが、誅殺を請います」と穏やかに請うた。荘宗がその理由を問うと、答えて「彼らは常山に生まれ、乱暴な気性を受け継いでおります。留めておくことはできません」と言った。荘宗は笑って止めさせた。同光元年(923年)初め、宗正卿に任じられ、まもなく工部侍郎を兼ねた。常山に唐の啓運陵があり、鏻は富民の李守恭から賄賂を受け、彼を陵臺令に任命した。守恭が暴虐で、長官に訴えられ、取り調べの上報告されると、鏻は司農少卿に左遷され、金紫を削られ、間もなく河府副使として出された。明宗(李嗣源)が即位すると、兵部侍郎・戸部侍郎、工部尚書・戸部尚書を歴任した。長興年間(930-933年)、明宗と旧知であったため、常に宰相になろうとする意思を抱き、時の宰相に穏やかに言った。「唐の国統が中興したのだから、宗室を厚く叙用し、才高い者は宰相に就くべきである。私は不才ではあるが、かつて荘宗の霸府に仕え、今上(明宗)を藩邸におられた時から知っている。家系は代々侯や宰相を重ね、靖安の李氏は、諸族に劣らない。才芸を論じても、どうして人後に譲ろうか。長く私を朝列に置いておくのは、諸君は心安らかか。」馮道・趙鳳はその僭上の言葉にしばしば怒った。しばらくして、鏻は淮南の間者(細人)が事を言上したのを機に、枢密使の安重誨に言った。「偽の呉(楊呉)は久しく帰順を望んでいます。朝廷が先に使者を遣わして諭せば、踵を返すようにして来るでしょう。」重誨はこれを認め、玉帯を間者に与え、淮南へ行って証とさせたが、久しく帰らず、これによって鏻は兗州行軍司馬として出された。任期を終えて帰京すると、再び戸部尚書となり、まもなく兵部尚書に転じ、しばらくして太常卿事を兼ねて判った。かつて選部を権典し、選考が順序を失い、世間の非難を浴びた。晋の天福年間(936-944年)、太子少保を守った。開運年間(944-946年)、太子太保に遷った。高祖(劉知遠)が汴京に至ると、守司徒しとを授けられたが、数か月で卒去した。八十八歳。詔により太傅を追贈された。

龍敏

龍敏、字は欲訥、幽州永清の人。若くして儒学を学び、郷里で仮の掾として仕えた。劉守光が無道であったため、敏は浮陽に避難し、戴思遠が河を渡って南進するのに会い、これに従った。同郷の周知裕が梁の裨将として仕えており、敏はこれに身を寄せたが、知裕が度々推薦しても任用されず、敏は都邑に乞食同然に遊歴すること数年であった。唐の荘宗が魏博を平定すると、敏は旧知の馮道が霸府の記室であると聞き、河中に客居し、年に一度太原に帰り、馮道の家に寄宿した。監軍使の張承業が直ちに敏を巡官に任じ、監軍の奏記を掌らせた。荘宗が河・洛を平定すると、司門員外郎に召されたが、家が貧しく養うに乏しいため、興唐少尹を求めた。一年余りして母の喪に服し、鄴下に退居した。趙在禮が鄴城ぎょうじょうを占拠すると、敏が同郷であることを理由に強いて事務を執らせようとし、また乱軍に迫られ、敏は拒むことができなかった。翌年、在禮が浮陽に鎮すると、敏は再び喪に服し、喪が明けると、戸部郎中に任じられ、諫議大夫・御史中丞に改めた。当時、敏の父の鹹式は七十歳、鹹式の父は九十余歳で、二人の尊属を供養し、朝夕怠ることがなかった。鹹式は敏が貴くなったため、秘書監で致仕することができた。敏は兵部侍郎として、幽州に使いし、郷里の長老旧友が留めて宴を催し、歓を尽くした。馮赟が北京留守となると、敏を副使に奏請し、赟が枢密を掌るために入朝すると、敏は吏部侍郎となった。

敏は学術に甚だ長けずと雖も、然れども外は柔にして内は剛く、大計を決断するを愛す。清泰の末、唐の末帝に従って懐州に在りし時、趙徳鈞父子に異図有り、晋安寨は旦夕に陥つるを憂え、末帝は計を出すに由無く、従臣に計を問う。敏奏して曰く、「臣に一計有り、請うらくは援兵を以て東丹王李賛華に従はせ、幽州路を取りて西楼に趨らしめば、契丹主必ず北顧の患え有らん」と。末帝之を然りとすと雖も、而も用いる能はざりき。敏又た末帝の親将李懿に謂ひて曰く、「君は帝戚に連姻し、社稷の危きは、足をぎょうぐるを俟たず、安んぞ黙黙として苟くも全からんや」と。懿因りて徳鈞必ず蕃軍を破るの状を籌す。敏曰く、「僕は燕人なり、趙徳鈞の為人に諳んず、胆小さく謀拙く、長とする所は城寨を守り、壕塁を嬰き、健児を篤く励ますのみ。若し大敵を見ば、身を顧みず奮ひ、堅きを摧き陣を陥すは、必ず能はざらん。況んや名位主を震はし、奸を以て身を謀るをや。僕に狂策有り、済むや否やを知らず、苟くも必ず行はば、亦た寨を救ふの一術なり」と。懿之を言はんことを請ふ。曰く、「聞く所に拠れば、駕前の馬僅かに五千匹有りと、請うらくは其の間に壮馬・精甲・健夫千人を選び、僕は郎万金の二人と共に山を路出し、夜に敵騎を冒し、山に循ひて大寨に入らば、千騎の内、其の半ば済むを得ば、則ち寨は虞無からん。張敬達等は幽閉せられ、朝廷の援兵の近遠を知らず、若し大軍の団柏谷の中に在るを知らば、鉄障と雖も亦た沖踏す可く、況んや敵騎をや」と。末帝之を聞きて曰く、「龍敏の心極めて壮なり、之を用ふるは晩し」と。人も亦た之を大言と為すと雖も、然れども其の慷慨感激するは、皆此の類なり。

晋の祖命を受く。敏は本官を以て戸部を判じ、尚書左丞に遷る。父憂に丁り、服闋して復た本官に、俄かに太常卿に移る。開運中、命を奉じて越に使す。是に先立ち、朝臣命を将ふるは、必ず浙帥に拝起す。敏至りて、抗揖のみ。識者多く之を称す。使い還りて、工部尚書に改む。乾祐元年春、疽背に発す。高祖の晏駕を聞き、乃ち病を扶けて私第に於て、縞素にして臨み、後旬日に家に卒す。時に年六十三。隠帝位を嗣ぎ、詔して右僕射を贈る。

劉鼎

劉鼎、字は公度、徐州蕭県の人。祖は泰、蕭県令。父は崇、梁の太祖微時に、常に崇の家に傭力す。即位に及び、崇を召して用ひ、殿中監・商州刺史を歴任す。崇の母梁祖を撫するに恩有り、梁氏之を「国婆」と号す。徐・宋の民崇の家を「豢龍劉家」と謂ふ。鼎は起家して大理評事と為り、尚書博士・殿中侍郎史・起居郎を歴任す。清泰中、吏部員外郎より出でて渾州廉判と為り、入りて刑部郎中と為り、塩鉄判官を充て、吏部郎中兼侍御史知雑事に改む。乾祐初、諫議大夫に拝し、卒年五十五。鼎は交遊に善く、談笑能くす。家に居て仁孝、継母趙氏に事ふる甚だ謹み、異母昆仲凡そ七人、之を撫するに一の如し。性は寛易の若くして、而も選曹を典とし吏を按ずるに風棱有り、人能と称す。

子袞、進士第に登り、文彩遒雋なり。周に仕えて左拾遺・直史館と為り、早卒す。

張允

張允、鎮州束鹿の人。父は徴。允幼く儒を学び為し、本州に仕えて参軍と為る。張文礼の州を拠りて叛くに及び、荘宗討を致す。允は文礼の子処瑾に随ひて鄴に降を請ふ。許さず、処瑾と並びて獄に繋がる。鎮・冀平ぎ、之を宥し、鄴に留め、本府功曹を署す。趙在礼城を嬰して叛き、節度推官を署し、滄・兗二鎮の書記を歴て従ひ、入りて監察御史と為り、右補闕・起居舎人を歴任し、宏文館直学士・水部員外郎・知制誥を充てる。清泰初、皇子重美河南尹と為り、六軍諸衛事を典とす。時に朝廷参佐を選び、允の剛介を以て、給事中に改め、六軍判官を充つ。尋て職を罷め、左散騎常侍さんきじょうじに転ず。

晋の天福初、允は国朝頻りに肆赦有るを以て、乃ち「駁赦論」を進む。曰く、「『管子』に云ふ、『凡そ赦する者は小利にして大害、久しくして其の禍に勝へず。赦無き者は小害にして大利、久しくして其の福に勝へず』と。又た『漢紀』に云ふ、『呉漢疾篤し、帝問ふ所欲言する所を。対へて曰く、唯願くは陛下赦無きを為さんことを耳』と。是の如き者は何ぞや。蓋し赦を行ふも恩と為さず、赦を行はざるも亦た恩無しと為さず、罪有る者を罰するが故なり。窃に観るに、古よりの帝王は、皆水旱有れば則ち徳音を降して過を宥し、狴牢を開きて囚を放ち、天心を感ぜんことを冀ひて其の災を救ふ者は、非なり。仮りに二人訟ふる有り、一は罪有り、一は罪無しとす。若し罪有る者見捨つる有らば、則ち罪無き者は冤を銜む。冤を銜む者は彼何ぞ疏く、見捨つる者は此何ぞ親しきや。此の如くは則ち災を致すの道にして、災を救ふの術に非ざるなり。此より小民天災に遇へば則ち喜び、皆相勧めて悪を為し、曰く国家好んで赦を行ひ、必ず我を赦して災を救はんと。此の如くは即ち国家民を教へて悪を為さしむるなり。且つ天道は善に福し淫に禍す。若し悪を為すの人を捨つるを以て、便ち災を変じて福と為さば、則ち又た天其の悪民を助くるなり。細かに之を論ずれば、必ず然らず。倘ひ或は天の之に災を降すは、蓋し人主を警誡せんと欲するなり。嗜欲を節し、勤儉を務め、鰥寡を恤ひ、刑罰を正し、罪有る者を濫りに捨てず、辜無き者を僭りに殺さず、美化をして下に行はしめ、聖徳をして上に聞こしめさば、則ち水旱有ると雖も、亦た沴と為さざらん。豈に罪有る者を濫りに捨つるを以て、反って能く其の災を救はんや。其の徳を彰さんや。是れ赦の行ふ可からざるを知る、明らかなり」と。帝覧て之を嘉し、詔を降して奨飾し、仍て史館に付す。

五年、礼部侍郎に遷る。凡そ三たび貢部を典とし、御史中丞に改め、兵部侍郎・知制誥に転じ、翰林学士承旨を充つ。契丹京城に入る。職を落として本官を守る。乾祐初、吏部侍郎を授く。史宏肇を誅するより後、京城の士庶、連甍恐悚す。允は毎朝退くや、即ち相国寺の僧舎に宿す。北軍の京師に入るに及び、允は仏殿の藻井の上に匿る。屋より墜ちて卒す。時に年六十五。

子鸞、皇朝に仕えて太常少卿と為る。

任延皓

任延皓はへい州の人である。術数風雲の事を業とす。晋の高祖が太原に在りて重囲せられし時、高祖最も親要たり、延皓は本業を以て見えんことを請う、高祖甚だ礼遇を加う。晋の天福初め、延皓は太原掾を授かり、尋いで交城・文水の令に改めらる、皆高祖の慰薦の力なり。高祖太原に鎮するや、延皓は多く外事を言い、出入り間隙無く、高祖の左右皆之を憚る。文水に在りて財賄を聚斂し、民訴えんと欲す、延皓之を知る。一日、先ず県吏が百姓を結集し、県庫を劫かんと欲すと誣告す。高祖怒り、騎軍を遣わして並びに県民十数人を擒え、之を族誅す、冤枉の声、行路に聞こゆ。高祖即位し、累官して殿中監に至り、寵を恃み気を使い、人望みて之を畏る、宰輔の重きと雖も、延皓之を蔑如として視る。劉崇河東に在り、日常切歯す。魏王承訓薨じ、帰葬して太原にし、延皓に葬地を択ばしむるに、時に山岡の僧有りて劉崇に謂いて曰く「魏王の葬地吉ならず、恐らくは重喪有らん」と。未だ幾ばくもなく、高祖崩じ、崇僧の言を以て之を奏す、乃ち延皓を麟州に配流す。路文水に由る、市民瓦を擲ち毆罵すること甚だ衆し、吏人之を救いて僅かに免る。既に貶所に至り、劉崇人をして之を殺さしめ、其の家を籍没す。

【史評】

史臣曰く、李崧は唐・晉の両朝に仕え、伊尹・皋陶の重望を聳えさせ、その器業を考うるに、臺衡の任に忝なきも、僻多き朝に会い、参夷の戮に被り、人の不幸、天も亦た忱え難し。逢吉は蛇虺の心を秉り、夔・龍の位を竊み、人を殺すに忌憚なく、国と俱に亡ぶ。李崧の冤血未だ銷えず、逢吉の梟首斯に至る、冥報の事、安んぞ忽にせんや。李鏻より以下、凡そ数君子は、皆朝行を践履し、帝載を彰施し、国華邦直、斯に在り。惟だ延皓の醜行、宜しく其の死を得ざるべし。