舊五代史

漢書かんじょ九: 列傳四 史弘肇 楊邠 王章 李洪建 閻晉卿 聶文進 後贊 郭允明 劉銖

史宏肇傳

史宏肇、字は化元、鄭州滎澤の人である。父の潘は、もと田家の者であった。宏肇は若い頃より遊俠を好み品行がなく、拳勇にして健歩、一日に二百里を行き、走って奔馬に及んだ。梁の末、七戸ごとに一兵を出すこととなり、宏肇はその籍に入り、後に本州の開道都に隷属し、選ばれて禁軍に入った。かつて晉祖(石敬瑭)の麾下にあり、そのまま親従として留め置かれ、帝が践祚すると、控鶴小校に用いられた。高祖こうそ(劉知遠)が太原を鎮守した時、従軍を奏請して許され、牙校に昇進し、後に武節左右指揮を置くと、宏肇をその都將とし、遙かに雷州刺史を領した。高祖が帝号を建てた初め、代州の王暉が叛き、城を以て契丹に帰したので、宏肇がこれを征伐し、一鼓の下にこれを抜き、まもなく許州節度使に任じられ、侍えい歩軍都指揮使を充てた。時に王守恩が上党を以て帰附を求めたので、契丹主は大将耿崇美に命じて衆を率い太行に登らせ、上党を取らんとした。高祖は宏肇に命じて軍を以て応援させた。軍が潞州に至ると、契丹は退去し、翟令奇が澤州を以て迎え降った。時に河陽の武行德が人を遣わして宏肇を迎えたので、遂に衆を率いて南下し、行德と合流した。故に高祖が蒲・陜より洛陽らくように赴くことが帰郷の如く容易であったのは、宏肇の先鋒としての功績によるものである。

宏肇は厳毅にして寡言、軍衆を統轄するに、過ちあれば容赦せず、兵士の至る所、秋毫も犯さず。部下に指揮使がおり、かつて指使に従わないことが少しあったため、宏肇は直ちにこれを打ち殺し、将吏は股を慄かせ、以て両京を平定するまで、敢えて干犯する者無し。従駕して鄴を征し帰還すると、同平章事を加えられ、侍衞親軍都指揮使を充て、兼ねて宋州を鎮守した。高祖が大漸の際、枢密使楊邠・周太祖(郭威)・蘇逢吉らと共に顧命を受けた。隠帝が位を嗣ぐと、検校太師・兼侍中を加えられた。間もなく、河中・永興・鳳翔が連衡して謀叛し、関輔は大いに擾乱し、朝廷は日々征発を行い、群情は憂慮し、また不逞の徒が虚言を妄りに構え、京師に流布した。宏肇は禁軍を都轄し、都邑を警衛し、刑殺を専行し、少しも顧み憚ることがなく、無頼の輩は風を望んで匿れ跡を潜め、路上に遺棄物あれども、人は敢えて取らなかった。しかしながら、罪の軽重を問わず、理の所在を顧みず、ただ犯す有りと云えば、便ち極刑に処し、枉げられ濫りに刑せられたる家は、敢えて上訴する者無し。巡司の軍吏、これに因縁して奸を為し、禍を嫁し人を脅すこと、数え勝つべからず。時に太白が昼に見え、民に仰ぎ観る者あり、坊正に拘えられ、直ちにその腰領を断たれた。また酔った民が一軍士に抵触した者あり、則ち訛言の罪を誣えて棄市に処せられた。その他、舌を断ち、口を決し、筋を斬り、足を折る者、ほとんど虚日無し。故相の李崧が部曲に誣告され、市において族戮され、その幼女を婢とした。ここより、仕宦の家で仆隷を養う者は、皆姑息を以て意とし、旧勲故将で失勢の後、厮養の輩に脅制される者、往々にしてこれ有り。軍司の孔目吏解暉は、性狡酷にして、推劾有るごとに、随意に鍛錬を加えた。軍禁に抵触する者あれば、その苦楚に遭い、自ら誣伏して死所を求むるに至らずという者は無く、都人はこれに遇えば、敢えて仰ぎ視る者無し。燕人の何福殷という者、商販を業としていた。かつて十四万で玉枕を買い得、家僮及び商人李進を遣わして淮南に売り、茶と交換して帰らせた。家僮に品行がなく、福殷の貨財数十万を隠し、福殷がその償いを責めたが、服さなかったので、遂にこれを杖った。間もなく、家僮が宏肇の下に変事を告げ、契丹主の汴に入るに当たり、趙延寿が福殷に玉枕を齎らせて密かに淮南に遺し、誠意を致させたと述べた。宏肇は即日、福殷らを捕らえてこれを繋いだ。解暉はその意を迎え、榜掠ことごとく備わり、福殷は自ら誣伏し、連座する者数輩、共に棄市に処せられた。妻女は宏肇の帳下に分ち取られ、その家財は籍没された。

宏肇は賓客を喜ばず、嘗て言う、「文人は耐え難し、我が輩を軽んじ、我が輩を卒と謂う、恨むべし恨むべし」と。宏肇が領する睢陽において、その属府の公利を、親吏の楊乙に委ねて府において検校させたが、彼は貪戾兇横、勢いに負い事を生じ、吏民はこれを畏れ、副戎以下、風を望んで敬礼を展べた。剰え剰えに剝ぎ取り、至らざる所無く、月に万緡を率いて宏肇に輸送し、一境の内、これを仇の如く嫉んだ。周太祖が河中を平定して班師し、功を衆に推すに当たり、宏肇に翊衛鎮重の功有りとして、隠帝にこれを言上し、即座に兼中書令を授けた。隠帝は関西の賊平定の後、小人に昵近し、太后の親族が、頗る干托を行うので、宏肇と楊邠は甚だこれを不平とした。太后に故人の子が軍職への補任を求めたが、宏肇は怒ってこれを斬った。帝が初めて音楽を聴き、教坊使に玉帯を賜い、諸伶官に錦袍を賜ったところ、彼らが宏肇の下に謝しに行くと、宏肇はこれを譲りて曰く、「健児は国のために辺境を戍り、寒さを忍び暑さを冒すも、未だ遍く恩賜に沾うこと能わず、爾輩何の功か有りて、敢えて此の賜りに当たるや」と。袍帯を尽く取り上げて官に還し、その兇戾此の如し。

周太祖に鄴鎮守の命が下ると、史宏肇は機密枢要の職務をも兼ねようとしたが、蘇逢吉がその議に異を唱えたため、宏肇はこれを憤った。翌日、竇貞固の酒宴の席で、貴臣たちがことごとく集まった折、宏肇は厳しい表情で杯を挙げて周太祖に属して言うには、「昨日の朝議は、なんと意見が分かれたことか。今日は弟とこの杯を飲もう。」楊邠と蘇逢吉もまた大杯を挙げて言うには、「これは国家の事柄である。どうして気にかける必要があろうか。」ともに杯を飲み干した。宏肇はまた声を荒げて言うには、「朝廷を安んじ、禍乱を平定するには、ただ長槍と大剣が必要なのであって、毛錐子(筆)のようなものは、どうして用が足りようか。」三司使王章が言うには、「たとえ長槍大剣があっても、もし毛錐子がなければ、軍を養う財賦は、どこから集められましょうか。」宏肇は黙り込み、しばらくして宴は散じた。ほどなく、三司使王章がその邸宅で酒宴を張った時、宏肇は宰相・枢密使および内客省使の閻晉卿らとともに会した。酒が酣になった頃、手勢令(酒席のゲーム)をしたが、宏肇はそのやり方に慣れておらず、閻晉卿が宏肇の隣に座っていたので、たびたび教えた。蘇逢吉が宏肇をからかって言うには、「近くに閻という姓の者が座っている。どうして罰杯を心配することがあろうか。」宏肇の妻の閻氏は、もともと酒席の妓女であったので、宏肇は逢吉が自分を嘲笑ったと思い、大いに怒り、醜い言葉で逢吉を罵った。逢吉は相手にせず、宏肇は逢吉を殴ろうとしたので、逢吉は馬に鞭打って去った。宏肇は急いで立ち上がり剣を求め、逢吉を追おうとした。楊邠が言うには、「蘇公は宰相である。公がもし彼を害せば、天子をどのような立場に置くことになるか、よくお考えください。」邠は涙を流した。宏肇は馬を求めて急ぎ馳せ去り、邠は非常事態を慮り、馬を並べて進み、宏肇の邸宅まで送って帰った。これより将相の仲は水と火のごとく不和となった。隠帝は王峻を公子亭に遣わして酒宴を設けさせ和解させようとしたが、ついに解けることはなかった。その後、李業・郭允明・後贊・聶文進らが宮中で権勢を振るい、執政者たちを快く思わなかった。また隠帝が年齢を重ね、大臣に制せられることを厭い、しばしば憤りの言葉を口にしているのを見て、李業らは隙に乗じて宏肇らを讒言し、隠帝は次第にそれを信じるようになった。李業らはさらに、宏肇らが権力を専断して君主を脅かし、ついには必ず乱を起こすだろうと言い、隠帝はますます恐れた。ある夜、作坊で鎧を鍛える音を聞き、外に兵仗が突然やって来たのではないかと疑い、夜明けまで眠れなかった。これより李業らと宮中で密謀し、宏肇らを誅殺しようとした。議が決すると、太后に報告に入った。太后は言うには、「このような事は軽々しく起こすべきではない。さらに宰相たちに問うがよい。」李業が傍らにいて言うには、「先帝がおっしゃいました。朝廷の大事は、措大(貧乏書生、ここでは文官)どもと相談してはならない、と。」太后がまた言うと、隠帝は怒って言うには、「閨門の内(女性の居る所)が、どうして国家の事を知ることができようか。」衣を払って出て行った。内客省使の閻晉卿はひそかにこの事を知り、宏肇の私邸に赴き、告げようとしたが、宏肇は他の用事を理由に面会を拒んだ。乾祐三年冬十一月十三日、宏肇が入朝し、枢密使楊邠・三司使王章とともに広政殿東廡下に座っていた時、俄かに甲士数十人が内より出てきて、閣内で宏肇らを害し、その一族を滅ぼした。以前より、宏肇の邸宅にはたびたび異変があった。ある日、階段の石の隙間から煙気が盛んに立ち上った。禍の二日前の明け方、流星が宏肇の前三、四歩のところに落ち、火花を散らして消え、まもなく誅殺されたのである。周太祖が即位すると、鄭王を追封し、礼をもって葬り、官が碑を建立した。

宏肇の子 徳充

宏肇の子の徳充は、乾祐年間に、検校司空しくうを授けられ、忠州刺史を兼ねた。粗く書物を読み、儒者に親しみ、常に父の行いを快く思わなかった。貢院がかつてある科挙受験生を省門で騒がせたとして記録し、中書門下に申し送った時、宰相の蘇逢吉は侍衞司に送り、痛く笞打ち顔に刺青することを請うた。徳充はこれを聞き、父に申し上げて言うには、「書生が無礼であるならば、府県や御史台があるのであって、軍務で裁くことではありません。公卿がこのようにするのは、おそらく父上の過ちを顕わにしようとしているのです。」宏肇は大いにその通りだと思い、すぐに枷を破って彼を放免した。後世の識者は特に徳充の人物を称えた。

宏肇の弟 福

宏肇の弟の福は、当時滎陽けいようの別荘におり、禍を聞くと民間に隠れた。周太祖が即位すると、累進して閑廄使となった。皇朝(宋)に仕え、諸衞将軍を歴任した。

楊邠

楊邠は、魏州冠氏の人である。若くして吏として使府に仕え、後唐の租庸使孔謙は、その妻の伯父であった。謙が度支を管轄すると、勾押官に補され、孟・華・鄆の三州糧料使を歴任した。高祖が鄴都留守となった時、左都押衙に用いられ、高祖が太原を鎮守すると、ますます親しく重用された。漢国が建つと、検校太保・権枢密使に遷った。汴・洛が平定されると、正しく枢密使・検校太傅に任じられた。高祖が危篤に陥った時、蘇逢吉・史宏肇らとともに顧命を受け、嗣君を輔立した。隠帝が即位すると、宰臣の李濤が上奏し、邠と周太祖を藩鎮に出させることを請うたが、邠らは太后に泣いて訴え、これにより李濤は罷免され邠が宰相となり、中書侍郎兼吏部尚書・同平章事を加えられ、依然として枢密使を兼ねた。当時、中書省で任命する官吏が多すぎ、誤りが多い状況であった。邠が宰相の座に就くと、帝は一切を彼に委ね、凡そ南衙の奏事や中書省の任命は、まず邠に斟酌を委ね、邠の意に沿わないものは、たとえ一簿一掾のような微官であっても従わなかった。邠は吏事に長けていたが、大局を識らず、常に言うには、「国家を治める者は、ただ倉庫が豊かで、甲兵が強盛であればよい。文章礼楽に至っては、みな虚事であって、どうして気にかける必要があろうか。」河中を平定すると、邠は右僕射を加えられた。邠が国政を専断するようになると、事に触れて細かく厳しく、条理は煩雑瑣末であった。前任の官は外方に居住してはならず、京師から諸州府に至るまで、旅人の往来はすべて公憑(通行証)を給されねばならなかった。公憑を求めるために担当官庁に赴く者は朝夕に充ち溢れ、十日ほどの間に民情は大いに乱れ、道路は混雑したので、邠はようやくこの事を止めた。当時、史宏肇が恣意的に残酷な行いをし、殺戮が日増しに多くなり、都の人々や庶民は道で目を合わせて恐れたが、邠はただ宏肇の善を称えるばかりであった。太后の弟で武徳使の李業が宣徽使を求めたが、隠帝と太后は重ねて彼に逆らうことをためらい、ひそかに邠に相談した。邠は朝廷の内使の昇進には順序があり、越えて就任することはできないとして、やめさせた。隠帝が寵愛する耿夫人を皇后に立てようとしたが、邠はあまりに早すぎると考えた。夫人が卒去すると、隠帝は皇后の礼で葬ろうとしたが、邠はまたこれを止めた。隠帝は快く思わず、側近で隙に乗じて甘言を進める者がおり、隠帝はますます邠を怒るようになった。邠は甲兵を整え、倉庫を充実させ、国家の用度が欠けることなく、辺境がほぼ寧んじたのは、彼の功績でもあった。

王章

王章は、大名府南楽県の人である。若くして吏となり、使府に給事した。同光の初め、枢密院に隷属し、後に本郡に帰り、累進して都孔目官に至った。後唐の清泰末、屯駐捧聖都虞候の張令昭が乱を起こし、節度使劉延皓を追放して自ら留後を称し、王章は本職をもって令昭に使役された。末帝は範延光を遣わしてこれを討平し、叛党を厳しく捜索した。王章の妻は白文珂の娘であり、文珂は副招討の李敬周と親しく、王章を託した。逆城が陥落すると、敬周は彼を匿い、駱駝の背嚢の中に載せて洛下に逃げ、敬周の私邸に匿った。末帝が敗れると、王章は省職となり、沔陽糧料使を歴任した。高祖が侍衛親軍を統率した時、詔により都孔目官とされ、河東に従い、銭穀を専管した。後漢建国の初め、三司使・検校太傅を授かり、鄴下での杜重威征討に従軍した。翌年、高祖が崩御し、隠帝が即位すると、検校太尉・同平章事を加えられた。しばらくして、蒲・雍・岐の三鎮が叛いた。この時は、契丹が京師を侵犯した後で、国家は新たに造られ、物資は未だ充実していなかった。王章は周太祖(郭威)・史宏肇・楊邠らと共に王室に心を尽くし、知ることは為さざるなく、不急の務を罷め、無用の費を惜しみ、財賦を収聚して専ら西征に事とし、軍旅の資とする所は供饋に乏しくなかった。三叛が平定されると、賜与の外に、国に余積があった。しかし権利に専らし、下を剥ぎ過ぎ、怨みを上に帰せしめたため、世論はこれを非とした。旧制では、秋夏の苗租において、民が税一斛を納めるのに、別に二升を輸納し、これを「雀鼠耗」と称した。乾祐年間、一斛を納める者に、別に二斗を納めることを命じ、これを「省耗」と称した。百姓はこれを苦しんだ。また、官庫の出納する緡銭は、皆八十銭を陌(百銭)としていたが、この時から民が納めるものは旧の如く、官が給するものは七十七銭を陌とし、遂に常式となった。民に田地を訴える者がいると、十数戸に満たなくとも、王章は必ず全州に覆視させ、広く苗額があることを幸いとして、邦賦を増やそうとしたため、未だ数年を経ずして、民力は大いに困窮した。王章は楊邠と共に儒士を喜ばず、郡官が請う月俸は、皆軍資に堪えないものを取って給し、これを「閑雑物」と称し、所司に命じてその価を高く評価させ、評価が定まると更に添え、これを「抬估」と称したが、王章もその意に満たず、事に随って更に評価を添えるよう命じた。王章は財賦に急で、刑法に峻厳であり、民が塩・礬・酒曲の禁令を犯すと、たとえ絲毫滴瀝であっても、全て極刑に処した。吏はこれに縁って奸を行い、民は命に堪えられなかった。

王章は楊邠と同郡であり、特に親愛し、その奨励登用する者は、郷里の旧知でない者はなかった。常に文臣を軽視し、「此の輩に算盤一つ与えても、順序さえ知らず、何事の益かあらん」と言った。後に私邸で宴席を開き、賓客を招いた時、史宏肇と蘇逢吉が酔いに乗じて喧嘩口論し、宴は散じた。王章はこれより憂鬱として楽しまず、ひそかに外任を求めた。楊邠と史宏肇は深くその意を阻んだ。また私邸に幾度か怪異があり、王章はますます憂恐を抱いた。乾祐三年の冬、史宏肇・楊邠らと共に害に遇い、その族は滅ぼされた。妻の白氏は、禍の数か月前に卒去した。子はなく、ただ一女あり、戸部員外郎張貽肅に嫁したが、羸弱の病を患って一年余り、病を抱えて就戮した。

李洪建

李洪建は、太后(李太后)の同母弟である。高祖に仕えて牙将となり、高祖が即位すると、累進して軍校を歴任し、遥かに防禦使を領した。史宏肇らが誅殺されると、洪建を権侍衛馬歩軍都虞候とした。鄴の兵(郭威軍)が南渡すると、洪建に王殷の一族誅殺を命じたが、洪建は直ちにこれを実行せず、ただ人を遣わしてその家を監守させ、なお食饌を給するよう命じ、ついに屠戮を免れた。周太祖が京城に入ると、洪建は捕らえられ、王殷は洪建の恩を感じ、累次周太祖に乞うてその死を免じようとしたが、聞き入れられず、遂に殺された。洪建の弟に李業がいる。

洪建の弟 李業

李業は、兄弟合わせて六人おり、業はその末子であったため、太后は特にこれを憐れんだ。高祖は麾下に置き、即位すると、累遷して武徳使となり、禁中に出入りした。李業は太后の親戚を恃み、次第に驕縦に至った。隠帝が嗣位すると、特に深く倚愛し、内帑を兼ねて掌り、四方からの進貢や二宮の費用はその出納に委ねられた。李業は権利に趨くことを好み、顧み憚ることがなく、執政大臣も敢えて禁詰できなかった。宣徽使が欠員となった時、李業はその職を望み、太后もまた人に命じて微かにその旨を執政に漏らした。時に楊邠・史宏肇らがこれを難じたため、李業はこれより怨みを積み、蕭牆の変(宮中の変)はここより起こった。楊邠・史宏肇が既に誅殺されると、李業は権めて侍衛歩軍都指揮使を領した。北郊での戦いに敗れると、李業は自ら金宝を取って懐にし、馬を駆って西に奔った。陝郊に至ると、その節度使の洪信は、彼の長兄であったが、家に匿うことを敢えなかった。李業は太原に奔らんとし、絳州の境に至った時、盗賊に殺され、全て奪い去られた。

閻晉卿

閻晉卿は、忻州の人である。家は代々富豪で、若くしてへい門(太原)に仕え、客将に至るまで職を歴任し、高祖が鎮守していた時、頗る信用された。乾祐年間、閣門使を歴任し、四方館を判じた。間もなく関西が乱れ、郭従義が京兆で趙思綰を討つと、晉卿は偏師を率いて賊の堡塁を攻撃した。賊が平定されると、内客省使となったが、父の喪に服し、喪中に前職に復した。時に宣徽使が欠員となり、晉卿は職次と事望から、その任に当たるべきであったが、久しく任命が滞ったため、晉卿は頗る執政を怨んだ。李業らが楊邠・史宏肇殺害を謀った時、詔により晉卿に相談した。晉卿は退いて宏肇を訪れ、その事を告げようとしたが、宏肇は面会しなかった。晉卿は事が成らぬことを憂え、夜に高祖の御容を中堂に懸け、その前で泣いて祈り、夜明けに戎服で入朝した。内難が起こると、晉卿を権侍衛馬軍都指揮使とした。北郊の戦いに敗れると、晉卿は自ら家で自殺した。

聶文進

聶文進は并州の人である。幼くして高祖の帳下に給事し、高祖が太原を鎮守するに及び、甚だ委用せられ、職は兵馬押司官に至る。高祖が汴に入ると、樞密院承旨を授けられ、歴任して領軍・屯衞大將軍を領し、右衞大將軍に遷り、仍って旧職を領す。周太祖の出征に遇い、次第に驕横に至り、久しく遷改なく、深く怨望を懐き、李業らと共に変乱を構成す。史宏肇らが害に遇う前夜、文進は同黨と共に予め宣詔を作り、朝廷の事を制置し、凡そ文字に関することは、並びに文進の手より出づ。明日難が作ると、文進は兵籍を点閲し、軍衆を征発し、指揮取舍を以て己が任と為し、内外の諮稟、前後填咽す。太祖が鄴に在りて構えられし時、初めは文進が其事に預からざるを謂えども、其の事跡を験するに、方に文進の乱階の首なるを知る。大いに詬詈す。太祖が封丘を過ぐる時、帝は北郊に次す。文進は太后に告げて曰く、「臣此に在り、請う宮中憂うること勿れ」と。兵散の後、文進は同黨を召して痛飲し、歌笑自若たり。遅明、帝禍に遇う。文進は奔竇し、軍士に追われ、其の首を梟さる。

後贊

後贊は飛龍使たり。贊の母は本より倡家なり。父と同郡にて、其の家に往来し、贊を生む。職に従い四方にあり、父は未だ嘗て郡を離れず。贊既に長ずるに及び、其の生まるる所を疑う。内職と為るに及び、父の来るを欲せず、書を寓して其の意を致す。父は郡より京師に至り、直ちに其の第に抵る。贊已むを得ずして之を奉ず。乾祐の末、宰相楊祐・侍衞親軍使史宏肇権を執る。贊は久次にして未だ遷らざるを以て、頗る怨望を懐き、乃ち樞密承旨聶文進らと共に変を構う。難作るに及び、贊は同黨と更に帝の側に侍し、戎事を剖判し、且つ間言を防ぐ。北郊にて兵敗れ、贊は竇れて兗州に帰る。慕容彥超之を執りて献ず。有司贊を鞫して罪に伏す。周太祖命じて之を誅せしむ。

郭允明

郭允明は、小名を竇十と云い、河東の人なり。幼くして河東制置使範徽柔に隷し、誅せらるるに及び、允明遂に高祖の廝養と為り、服勤既に久しく、頗る高祖の歓心を得たり。高祖が太原を鎮守するに及び、稍々牙職を歴任し、即位するに及び、累遷して翰林茶酒使兼鞍轡庫使に至る。隱帝嗣位し、尤も親狎せられ、毎に寵を恃みて驕縦し、略々礼敬無し。相州節度使郭謹とは同宗の故を以て、頗る交結す。謹が鎮に在りし時、允明常に禦酒を賫して之を遺わし、僭上犯禁を以て意と為さず。其の他の軽率、悉く皆此の類に似たり。執政の大臣頗る之を姑息す。嘗て荊南に奉使し、車服導従、節度使の将に同じくす。州県の郵驛、奔馳畏懐す。節度使高保融承迎に暇あらず。允明潜かに人をして歩度せしめ、城壁の高庳・池隍の広隘を以て荊人を動かし、重賄を得んことを冀う。乾祐の末、飛龍使を兼ぬ。未だ幾ばくもなく、李業らと共に変を構う。楊邠等の諸子、允明親しく之を朝堂西廡下に刃す。王章の女婿戸部員外郎張貽肅は、血流逆注す。聞く者之を哀しむ。北郊の敗に及び、允明は帝を迫りて民舎に就かしめ、手ずからしいしいぎゃくを行い、尋いで亦自殺す。

劉銖

劉銖は陜州の人なり。少くして梁の邵王朱友誨に事え牙将と為る。晉の天福中、高祖が侍衞親軍都指揮使たりし時、銖と旧あり、乃ち表して内職と為す。高祖が並門に出鎮するに及び、用いて左都押牙と為す。銖は性惨毒にして殺を好み、高祖は勇断己に類すと以為い、深く委遇す。国初、永興軍節度使を授けられ、汴・洛を定むるに従い、鎮を青州に移し、同平章事を加う。隱帝即位し、検校太師・兼侍中を加う。銖は法を立て深峻にし、令行禁止す。吏民過有れば、軽重を問わず、未だ嘗て貸免せず。毎に親事するに、小しく旨に忤う有れば、即ち倒曳して出ださしめ、数百歩外に至りて方に止む。膚体完き者無し。毎に人を杖するに、双杖を遣わして対下せしめ、之を「合歡杖」と謂う。或いは人を杖すること其の歳数の如くし、之を「随年杖」と謂う。任に在りて擅に賦斂を行い、毎秋苗一畝に率ね銭三千、夏苗一畝に銭二千を以て公用に備え、部内之を畏れ、脅肩重跡す。乾祐中、淄・青大蝗有り。銖は令を下し蝗を捕えしめ、略々遺漏無く、田苗害無し。先ず是れ、濱海の郡邑には、皆両浙の回易務有り、民利を厚く取り、自ら刑禁を置き、王民を追摂す。前後の長吏其の厚賂に利し、禁止すること能わず。銖は即ち所部に告げ、呉越と征負せず、擅に追摂せざるべしと。浙人は惕息し、敢えて命を幹する者無し。朝廷は銖の剛戾にして制し難きを懼れ、前に浙州刺史郭瓊が海州より兵を用いて還り、青州を過ぐるに因り、遂に之を留め、即ち府彥卿を以て銖に代う。銖は即時に代を受く。離鎮の日、私塩数屋有り、糞穢を雑え、諸井を填塞し、土を以て之を平らぐ。彥卿其の事を発して聞かしむ。銖は朝請を奉ずること久しく、毎に潜かに戟手を史宏肇・楊邠の第にす。会に李業らと共に宏肇等を誅す。銖喜び、業らに謂いて曰く、「君等は僂羅児と謂うべし」と。尋いで銖を以て権知開封府事と為す。周太祖の親族及び王峻の家、並びに銖の害する所と為る。周太祖が京城に入り、之を執り下獄す。銖は妻に謂いて曰く、「我は則ち死す、君は応に人と為り婢と為るべし」と。妻曰く、「明公の為す所是の如く、雅に之を為すに合う」と。周太祖は人を遣わし銖を譲りて曰く、「昔日公と常に漢室に同事す。寧くも故人の情無からんや。家属屠滅せらる。公は君命を奉ずるとは雖え、之に酷毒を加うること、何ぞ一も忍ぶや。公が家亦妻子有り、還って顧念せざるか」と。銖は但だ死罪と称す。遂に太后に啓し、一子と並びに之を誅し、其の妻を釈す。周太祖践阼し、詔して銖の妻に陜州の庄宅各一区を賜う。

史臣曰く

史臣曰く、臣観るに漢の亡ぶるや、豈に天命に係わるのみならんや。委用其人を得ず、聴断理に符せざるが故なり。且つ宏肇の淫刑、楊邠の秕政、李業・晉卿の設計、文進・允明の狂且たるは、成王をして君と為らしめ、周公をして相と作らしむるも、亦宗社の安きを保ち、歳月の命を延ばすこと能わず。況んや隱帝・逢吉の徒、其れ能く免れんや。《易》に曰く、「大君命有り、国を開き家を承く、小人を用うる勿れ、必ず邦を乱ん」と。乾祐の末に当たりて、何ぞ斯の言の験するや。惟だ劉銖の忍酷なるは、又安くんぞ一死を逭れんや。