史宏肇傳
史宏肇、字は化元、鄭州滎澤の人である。父の潘は、もと田家の者であった。宏肇は若い頃より遊俠を好み品行がなく、拳勇にして健歩、一日に二百里を行き、走って奔馬に及んだ。梁の末、七戸ごとに一兵を出すこととなり、宏肇はその籍に入り、後に本州の開道都に隷属し、選ばれて禁軍に入った。かつて晉祖(石敬瑭)の麾下にあり、そのまま親従として留め置かれ、帝が践祚すると、控鶴小校に用いられた。高祖(劉知遠)が太原を鎮守した時、従軍を奏請して許され、牙校に昇進し、後に武節左右指揮を置くと、宏肇をその都將とし、遙かに雷州刺史を領した。高祖が帝号を建てた初め、代州の王暉が叛き、城を以て契丹に帰したので、宏肇がこれを征伐し、一鼓の下にこれを抜き、まもなく許州節度使に任じられ、侍衞歩軍都指揮使を充てた。時に王守恩が上党を以て帰附を求めたので、契丹主は大将耿崇美に命じて衆を率い太行に登らせ、上党を取らんとした。高祖は宏肇に命じて軍を以て応援させた。軍が潞州に至ると、契丹は退去し、翟令奇が澤州を以て迎え降った。時に河陽の武行德が人を遣わして宏肇を迎えたので、遂に衆を率いて南下し、行德と合流した。故に高祖が蒲・陜より洛陽に赴くことが帰郷の如く容易であったのは、宏肇の先鋒としての功績によるものである。
宏肇は厳毅にして寡言、軍衆を統轄するに、過ちあれば容赦せず、兵士の至る所、秋毫も犯さず。部下に指揮使がおり、かつて指使に従わないことが少しあったため、宏肇は直ちにこれを打ち殺し、将吏は股を慄かせ、以て両京を平定するまで、敢えて干犯する者無し。従駕して鄴を征し帰還すると、同平章事を加えられ、侍衞親軍都指揮使を充て、兼ねて宋州を鎮守した。高祖が大漸の際、枢密使楊邠・周太祖(郭威)・蘇逢吉らと共に顧命を受けた。隠帝が位を嗣ぐと、検校太師・兼侍中を加えられた。間もなく、河中・永興・鳳翔が連衡して謀叛し、関輔は大いに擾乱し、朝廷は日々征発を行い、群情は憂慮し、また不逞の徒が虚言を妄りに構え、京師に流布した。宏肇は禁軍を都轄し、都邑を警衛し、刑殺を専行し、少しも顧み憚ることがなく、無頼の輩は風を望んで匿れ跡を潜め、路上に遺棄物あれども、人は敢えて取らなかった。しかしながら、罪の軽重を問わず、理の所在を顧みず、ただ犯す有りと云えば、便ち極刑に処し、枉げられ濫りに刑せられたる家は、敢えて上訴する者無し。巡司の軍吏、これに因縁して奸を為し、禍を嫁し人を脅すこと、数え勝つべからず。時に太白が昼に見え、民に仰ぎ観る者あり、坊正に拘えられ、直ちにその腰領を断たれた。また酔った民が一軍士に抵触した者あり、則ち訛言の罪を誣えて棄市に処せられた。その他、舌を断ち、口を決し、筋を斬り、足を折る者、ほとんど虚日無し。故相の李崧が部曲に誣告され、市において族戮され、その幼女を婢とした。ここより、仕宦の家で仆隷を養う者は、皆姑息を以て意とし、旧勲故将で失勢の後、厮養の輩に脅制される者、往々にしてこれ有り。軍司の孔目吏解暉は、性狡酷にして、推劾有るごとに、随意に鍛錬を加えた。軍禁に抵触する者あれば、その苦楚に遭い、自ら誣伏して死所を求むるに至らずという者は無く、都人はこれに遇えば、敢えて仰ぎ視る者無し。燕人の何福殷という者、商販を業としていた。かつて十四万で玉枕を買い得、家僮及び商人李進を遣わして淮南に売り、茶と交換して帰らせた。家僮に品行がなく、福殷の貨財数十万を隠し、福殷がその償いを責めたが、服さなかったので、遂にこれを杖った。間もなく、家僮が宏肇の下に変事を告げ、契丹主の汴に入るに当たり、趙延寿が福殷に玉枕を齎らせて密かに淮南に遺し、誠意を致させたと述べた。宏肇は即日、福殷らを捕らえてこれを繋いだ。解暉はその意を迎え、榜掠ことごとく備わり、福殷は自ら誣伏し、連座する者数輩、共に棄市に処せられた。妻女は宏肇の帳下に分ち取られ、その家財は籍没された。
宏肇は賓客を喜ばず、嘗て言う、「文人は耐え難し、我が輩を軽んじ、我が輩を卒と謂う、恨むべし恨むべし」と。宏肇が領する睢陽において、その属府の公利を、親吏の楊乙に委ねて府において検校させたが、彼は貪戾兇横、勢いに負い事を生じ、吏民はこれを畏れ、副戎以下、風を望んで敬礼を展べた。剰え剰えに剝ぎ取り、至らざる所無く、月に万緡を率いて宏肇に輸送し、一境の内、これを仇の如く嫉んだ。周太祖が河中を平定して班師し、功を衆に推すに当たり、宏肇に翊衛鎮重の功有りとして、隠帝にこれを言上し、即座に兼中書令を授けた。隠帝は関西の賊平定の後、小人に昵近し、太后の親族が、頗る干托を行うので、宏肇と楊邠は甚だこれを不平とした。太后に故人の子が軍職への補任を求めたが、宏肇は怒ってこれを斬った。帝が初めて音楽を聴き、教坊使に玉帯を賜い、諸伶官に錦袍を賜ったところ、彼らが宏肇の下に謝しに行くと、宏肇はこれを譲りて曰く、「健児は国のために辺境を戍り、寒さを忍び暑さを冒すも、未だ遍く恩賜に沾うこと能わず、爾輩何の功か有りて、敢えて此の賜りに当たるや」と。袍帯を尽く取り上げて官に還し、その兇戾此の如し。
宏肇の子 徳充
宏肇の子の徳充は、乾祐年間に、検校司空を授けられ、忠州刺史を兼ねた。粗く書物を読み、儒者に親しみ、常に父の行いを快く思わなかった。貢院がかつてある科挙受験生を省門で騒がせたとして記録し、中書門下に申し送った時、宰相の蘇逢吉は侍衞司に送り、痛く笞打ち顔に刺青することを請うた。徳充はこれを聞き、父に申し上げて言うには、「書生が無礼であるならば、府県や御史台があるのであって、軍務で裁くことではありません。公卿がこのようにするのは、おそらく父上の過ちを顕わにしようとしているのです。」宏肇は大いにその通りだと思い、すぐに枷を破って彼を放免した。後世の識者は特に徳充の人物を称えた。
宏肇の弟 福
宏肇の弟の福は、当時滎陽の別荘におり、禍を聞くと民間に隠れた。周太祖が即位すると、累進して閑廄使となった。皇朝(宋)に仕え、諸衞将軍を歴任した。
楊邠
楊邠は、魏州冠氏の人である。若くして吏として使府に仕え、後唐の租庸使孔謙は、その妻の伯父であった。謙が度支を管轄すると、勾押官に補され、孟・華・鄆の三州糧料使を歴任した。高祖が鄴都留守となった時、左都押衙に用いられ、高祖が太原を鎮守すると、ますます親しく重用された。漢国が建つと、検校太保・権枢密使に遷った。汴・洛が平定されると、正しく枢密使・検校太傅に任じられた。高祖が危篤に陥った時、蘇逢吉・史宏肇らとともに顧命を受け、嗣君を輔立した。隠帝が即位すると、宰臣の李濤が上奏し、邠と周太祖を藩鎮に出させることを請うたが、邠らは太后に泣いて訴え、これにより李濤は罷免され邠が宰相となり、中書侍郎兼吏部尚書・同平章事を加えられ、依然として枢密使を兼ねた。当時、中書省で任命する官吏が多すぎ、誤りが多い状況であった。邠が宰相の座に就くと、帝は一切を彼に委ね、凡そ南衙の奏事や中書省の任命は、まず邠に斟酌を委ね、邠の意に沿わないものは、たとえ一簿一掾のような微官であっても従わなかった。邠は吏事に長けていたが、大局を識らず、常に言うには、「国家を治める者は、ただ倉庫が豊かで、甲兵が強盛であればよい。文章礼楽に至っては、みな虚事であって、どうして気にかける必要があろうか。」河中を平定すると、邠は右僕射を加えられた。邠が国政を専断するようになると、事に触れて細かく厳しく、条理は煩雑瑣末であった。前任の官は外方に居住してはならず、京師から諸州府に至るまで、旅人の往来はすべて公憑(通行証)を給されねばならなかった。公憑を求めるために担当官庁に赴く者は朝夕に充ち溢れ、十日ほどの間に民情は大いに乱れ、道路は混雑したので、邠はようやくこの事を止めた。当時、史宏肇が恣意的に残酷な行いをし、殺戮が日増しに多くなり、都の人々や庶民は道で目を合わせて恐れたが、邠はただ宏肇の善を称えるばかりであった。太后の弟で武徳使の李業が宣徽使を求めたが、隠帝と太后は重ねて彼に逆らうことをためらい、ひそかに邠に相談した。邠は朝廷の内使の昇進には順序があり、越えて就任することはできないとして、やめさせた。隠帝が寵愛する耿夫人を皇后に立てようとしたが、邠はあまりに早すぎると考えた。夫人が卒去すると、隠帝は皇后の礼で葬ろうとしたが、邠はまたこれを止めた。隠帝は快く思わず、側近で隙に乗じて甘言を進める者がおり、隠帝はますます邠を怒るようになった。邠は甲兵を整え、倉庫を充実させ、国家の用度が欠けることなく、辺境がほぼ寧んじたのは、彼の功績でもあった。
王章
王章は、大名府南楽県の人である。若くして吏となり、使府に給事した。同光の初め、枢密院に隷属し、後に本郡に帰り、累進して都孔目官に至った。後唐の清泰末、屯駐捧聖都虞候の張令昭が乱を起こし、節度使劉延皓を追放して自ら留後を称し、王章は本職をもって令昭に使役された。末帝は範延光を遣わしてこれを討平し、叛党を厳しく捜索した。王章の妻は白文珂の娘であり、文珂は副招討の李敬周と親しく、王章を託した。逆城が陥落すると、敬周は彼を匿い、駱駝の背嚢の中に載せて洛下に逃げ、敬周の私邸に匿った。末帝が敗れると、王章は省職となり、沔陽糧料使を歴任した。高祖が侍衛親軍を統率した時、詔により都孔目官とされ、河東に従い、銭穀を専管した。後漢建国の初め、三司使・検校太傅を授かり、鄴下での杜重威征討に従軍した。翌年、高祖が崩御し、隠帝が即位すると、検校太尉・同平章事を加えられた。しばらくして、蒲・雍・岐の三鎮が叛いた。この時は、契丹が京師を侵犯した後で、国家は新たに造られ、物資は未だ充実していなかった。王章は周太祖(郭威)・史宏肇・楊邠らと共に王室に心を尽くし、知ることは為さざるなく、不急の務を罷め、無用の費を惜しみ、財賦を収聚して専ら西征に事とし、軍旅の資とする所は供饋に乏しくなかった。三叛が平定されると、賜与の外に、国に余積があった。しかし権利に専らし、下を剥ぎ過ぎ、怨みを上に帰せしめたため、世論はこれを非とした。旧制では、秋夏の苗租において、民が税一斛を納めるのに、別に二升を輸納し、これを「雀鼠耗」と称した。乾祐年間、一斛を納める者に、別に二斗を納めることを命じ、これを「省耗」と称した。百姓はこれを苦しんだ。また、官庫の出納する緡銭は、皆八十銭を陌(百銭)としていたが、この時から民が納めるものは旧の如く、官が給するものは七十七銭を陌とし、遂に常式となった。民に田地を訴える者がいると、十数戸に満たなくとも、王章は必ず全州に覆視させ、広く苗額があることを幸いとして、邦賦を増やそうとしたため、未だ数年を経ずして、民力は大いに困窮した。王章は楊邠と共に儒士を喜ばず、郡官が請う月俸は、皆軍資に堪えないものを取って給し、これを「閑雑物」と称し、所司に命じてその価を高く評価させ、評価が定まると更に添え、これを「抬估」と称したが、王章もその意に満たず、事に随って更に評価を添えるよう命じた。王章は財賦に急で、刑法に峻厳であり、民が塩・礬・酒曲の禁令を犯すと、たとえ絲毫滴瀝であっても、全て極刑に処した。吏はこれに縁って奸を行い、民は命に堪えられなかった。
李洪建
李洪建は、太后(李太后)の同母弟である。高祖に仕えて牙将となり、高祖が即位すると、累進して軍校を歴任し、遥かに防禦使を領した。史宏肇らが誅殺されると、洪建を権侍衛馬歩軍都虞候とした。鄴の兵(郭威軍)が南渡すると、洪建に王殷の一族誅殺を命じたが、洪建は直ちにこれを実行せず、ただ人を遣わしてその家を監守させ、なお食饌を給するよう命じ、ついに屠戮を免れた。周太祖が京城に入ると、洪建は捕らえられ、王殷は洪建の恩を感じ、累次周太祖に乞うてその死を免じようとしたが、聞き入れられず、遂に殺された。洪建の弟に李業がいる。
洪建の弟 李業
李業は、兄弟合わせて六人おり、業はその末子であったため、太后は特にこれを憐れんだ。高祖は麾下に置き、即位すると、累遷して武徳使となり、禁中に出入りした。李業は太后の親戚を恃み、次第に驕縦に至った。隠帝が嗣位すると、特に深く倚愛し、内帑を兼ねて掌り、四方からの進貢や二宮の費用はその出納に委ねられた。李業は権利に趨くことを好み、顧み憚ることがなく、執政大臣も敢えて禁詰できなかった。宣徽使が欠員となった時、李業はその職を望み、太后もまた人に命じて微かにその旨を執政に漏らした。時に楊邠・史宏肇らがこれを難じたため、李業はこれより怨みを積み、蕭牆の変(宮中の変)はここより起こった。楊邠・史宏肇が既に誅殺されると、李業は権めて侍衛歩軍都指揮使を領した。北郊での戦いに敗れると、李業は自ら金宝を取って懐にし、馬を駆って西に奔った。陝郊に至ると、その節度使の洪信は、彼の長兄であったが、家に匿うことを敢えなかった。李業は太原に奔らんとし、絳州の境に至った時、盗賊に殺され、全て奪い去られた。
閻晉卿
閻晉卿は、忻州の人である。家は代々富豪で、若くして并門(太原)に仕え、客将に至るまで職を歴任し、高祖が鎮守していた時、頗る信用された。乾祐年間、閣門使を歴任し、四方館を判じた。間もなく関西が乱れ、郭従義が京兆で趙思綰を討つと、晉卿は偏師を率いて賊の堡塁を攻撃した。賊が平定されると、内客省使となったが、父の喪に服し、喪中に前職に復した。時に宣徽使が欠員となり、晉卿は職次と事望から、その任に当たるべきであったが、久しく任命が滞ったため、晉卿は頗る執政を怨んだ。李業らが楊邠・史宏肇殺害を謀った時、詔により晉卿に相談した。晉卿は退いて宏肇を訪れ、その事を告げようとしたが、宏肇は面会しなかった。晉卿は事が成らぬことを憂え、夜に高祖の御容を中堂に懸け、その前で泣いて祈り、夜明けに戎服で入朝した。内難が起こると、晉卿を権侍衛馬軍都指揮使とした。北郊の戦いに敗れると、晉卿は自ら家で自殺した。
聶文進
聶文進は并州の人である。幼くして高祖の帳下に給事し、高祖が太原を鎮守するに及び、甚だ委用せられ、職は兵馬押司官に至る。高祖が汴に入ると、樞密院承旨を授けられ、歴任して領軍・屯衞大將軍を領し、右衞大將軍に遷り、仍って旧職を領す。周太祖の出征に遇い、次第に驕横に至り、久しく遷改なく、深く怨望を懐き、李業らと共に変乱を構成す。史宏肇らが害に遇う前夜、文進は同黨と共に予め宣詔を作り、朝廷の事を制置し、凡そ文字に関することは、並びに文進の手より出づ。明日難が作ると、文進は兵籍を点閲し、軍衆を征発し、指揮取舍を以て己が任と為し、内外の諮稟、前後填咽す。太祖が鄴に在りて構えられし時、初めは文進が其事に預からざるを謂えども、其の事跡を験するに、方に文進の乱階の首なるを知る。大いに詬詈す。太祖が封丘を過ぐる時、帝は北郊に次す。文進は太后に告げて曰く、「臣此に在り、請う宮中憂うること勿れ」と。兵散の後、文進は同黨を召して痛飲し、歌笑自若たり。遅明、帝禍に遇う。文進は奔竇し、軍士に追われ、其の首を梟さる。
後贊
後贊は飛龍使たり。贊の母は本より倡家なり。父と同郡にて、其の家に往来し、贊を生む。職に従い四方にあり、父は未だ嘗て郡を離れず。贊既に長ずるに及び、其の生まるる所を疑う。内職と為るに及び、父の来るを欲せず、書を寓して其の意を致す。父は郡より京師に至り、直ちに其の第に抵る。贊已むを得ずして之を奉ず。乾祐の末、宰相楊祐・侍衞親軍使史宏肇権を執る。贊は久次にして未だ遷らざるを以て、頗る怨望を懐き、乃ち樞密承旨聶文進らと共に変を構う。難作るに及び、贊は同黨と更に帝の側に侍し、戎事を剖判し、且つ間言を防ぐ。北郊にて兵敗れ、贊は竇れて兗州に帰る。慕容彥超之を執りて献ず。有司贊を鞫して罪に伏す。周太祖命じて之を誅せしむ。
郭允明
郭允明は、小名を竇十と云い、河東の人なり。幼くして河東制置使範徽柔に隷し、誅せらるるに及び、允明遂に高祖の廝養と為り、服勤既に久しく、頗る高祖の歓心を得たり。高祖が太原を鎮守するに及び、稍々牙職を歴任し、即位するに及び、累遷して翰林茶酒使兼鞍轡庫使に至る。隱帝嗣位し、尤も親狎せられ、毎に寵を恃みて驕縦し、略々礼敬無し。相州節度使郭謹とは同宗の故を以て、頗る交結す。謹が鎮に在りし時、允明常に禦酒を賫して之を遺わし、僭上犯禁を以て意と為さず。其の他の軽率、悉く皆此の類に似たり。執政の大臣頗る之を姑息す。嘗て荊南に奉使し、車服導従、節度使の将に同じくす。州県の郵驛、奔馳畏懐す。節度使高保融承迎に暇あらず。允明潜かに人をして歩度せしめ、城壁の高庳・池隍の広隘を以て荊人を動かし、重賄を得んことを冀う。乾祐の末、飛龍使を兼ぬ。未だ幾ばくもなく、李業らと共に変を構う。楊邠等の諸子、允明親しく之を朝堂西廡下に刃す。王章の女婿戸部員外郎張貽肅は、血流逆注す。聞く者之を哀しむ。北郊の敗に及び、允明は帝を迫りて民舎に就かしめ、手ずから弑逆を行い、尋いで亦自殺す。
劉銖
劉銖は陜州の人なり。少くして梁の邵王朱友誨に事え牙将と為る。晉の天福中、高祖が侍衞親軍都指揮使たりし時、銖と旧あり、乃ち表して内職と為す。高祖が並門に出鎮するに及び、用いて左都押牙と為す。銖は性惨毒にして殺を好み、高祖は勇断己に類すと以為い、深く委遇す。国初、永興軍節度使を授けられ、汴・洛を定むるに従い、鎮を青州に移し、同平章事を加う。隱帝即位し、検校太師・兼侍中を加う。銖は法を立て深峻にし、令行禁止す。吏民過有れば、軽重を問わず、未だ嘗て貸免せず。毎に親事するに、小しく旨に忤う有れば、即ち倒曳して出ださしめ、数百歩外に至りて方に止む。膚体完き者無し。毎に人を杖するに、双杖を遣わして対下せしめ、之を「合歡杖」と謂う。或いは人を杖すること其の歳数の如くし、之を「随年杖」と謂う。任に在りて擅に賦斂を行い、毎秋苗一畝に率ね銭三千、夏苗一畝に銭二千を以て公用に備え、部内之を畏れ、脅肩重跡す。乾祐中、淄・青大蝗有り。銖は令を下し蝗を捕えしめ、略々遺漏無く、田苗害無し。先ず是れ、濱海の郡邑には、皆両浙の回易務有り、民利を厚く取り、自ら刑禁を置き、王民を追摂す。前後の長吏其の厚賂に利し、禁止すること能わず。銖は即ち所部に告げ、呉越と征負せず、擅に追摂せざるべしと。浙人は惕息し、敢えて命を幹する者無し。朝廷は銖の剛戾にして制し難きを懼れ、前に浙州刺史郭瓊が海州より兵を用いて還り、青州を過ぐるに因り、遂に之を留め、即ち府彥卿を以て銖に代う。銖は即時に代を受く。離鎮の日、私塩数屋有り、糞穢を雑え、諸井を填塞し、土を以て之を平らぐ。彥卿其の事を発して聞かしむ。銖は朝請を奉ずること久しく、毎に潜かに戟手を史宏肇・楊邠の第にす。会に李業らと共に宏肇等を誅す。銖喜び、業らに謂いて曰く、「君等は僂羅児と謂うべし」と。尋いで銖を以て権知開封府事と為す。周太祖の親族及び王峻の家、並びに銖の害する所と為る。周太祖が京城に入り、之を執り下獄す。銖は妻に謂いて曰く、「我は則ち死す、君は応に人と為り婢と為るべし」と。妻曰く、「明公の為す所是の如く、雅に之を為すに合う」と。周太祖は人を遣わし銖を譲りて曰く、「昔日公と常に漢室に同事す。寧くも故人の情無からんや。家属屠滅せらる。公は君命を奉ずるとは雖え、之に酷毒を加うること、何ぞ一も忍ぶや。公が家亦妻子有り、還って顧念せざるか」と。銖は但だ死罪と称す。遂に太后に啓し、一子と並びに之を誅し、其の妻を釈す。周太祖践阼し、詔して銖の妻に陜州の庄宅各一区を賜う。
史臣曰く
史臣曰く、臣観るに漢の亡ぶるや、豈に天命に係わるのみならんや。委用其人を得ず、聴断理に符せざるが故なり。且つ宏肇の淫刑、楊邠の秕政、李業・晉卿の設計、文進・允明の狂且たるは、成王をして君と為らしめ、周公をして相と作らしむるも、亦宗社の安きを保ち、歳月の命を延ばすこと能わず。況んや隱帝・逢吉の徒、其れ能く免れんや。《易》に曰く、「大君命有り、国を開き家を承く、小人を用うる勿れ、必ず邦を乱ん」と。乾祐の末に当たりて、何ぞ斯の言の験するや。惟だ劉銖の忍酷なるは、又安くんぞ一死を逭れんや。