舊五代史

漢書八: 列傳三 王周 劉審交 武漢球 張瓘 李殷 劉在明 馬萬 李彥從 郭謹 皇甫立 白再榮 張鵬

漢書八: 列傳三 王周 劉審交 武漢球 張瓘 李殷 劉在明 馬萬 李彥從 郭謹 皇甫立 白再榮 張鵬

王周

原文王周

王周は魏州の人である。若い頃より勇健であり、唐の荘宗・明宗に従って軍事に携わり、次第に裨校に昇進し、戦功によって累次郡守を歴任した。晉の天福初年、範延光が魏州で叛くと、周は楊光遠に従ってこれを攻め降し、安重榮が鎮州で叛くと、杜重威に従ってこれを討ち平らげ、功により貝州節度使せつどしを授けられた。一年余りして、涇州に移鎮した。先任の帥張彦澤が在任中苛虐であったため、部民の逃亡した者が五千余戸に及んだが、周が着任すると、前弊二十余事を改め、逃亡した民は帰還し、詔を賜って褒め称えられた。後に鄧・陜の二鎮を歴任した。陽城の役の時、周は定州節度使であり、大軍の往来する中、供給に欠けることがなく、間もなく鎮州節度使に遷った。周は寛恵な性質を持ち、人々はこれを便利とした。開運末年、杜重威が契丹きったんに降り、契丹主を引き連れて城に臨み諭した。周は泣いて言う、「国より重恩を受けながら、死戦することができず、兵を率いて降るとは、何の面目あって南行し人主と士大夫に会えようか」と。そこで痛飲して自決しようとしたが、家人がこれを止めた。やむを得ず、契丹主に謁し、鄧州節度使・検校けんぎょう太師を授けられた。高祖こうそが天下を定めると、徐州に移鎮し、同平章事を加えられた。乾祐元年二月、病により鎮所で卒去した。朝廷は二日間視朝を停め、中書令ちゅうしょれいを追贈した。周の性質は寛恕であり、物情に逆らわなかった。初めて信都を治めた時、州城の西橋が破損し、民の租税を運ぶ車が転覆した。周は言う、「橋梁を整えなかったのは刺史の過ちである」と。そこで沈没した粟を返還し、私財を出してこれを修復し、民衆は喜んだ。

原文王周,魏州人。少勇健,從軍事唐莊宗、明宗,稍遷裨校,以戰功累歷郡守。晉天福初,範延光叛於魏州,周從楊光遠攻降之,安重榮以鎮州叛,從杜重威討平之,以功授貝州節度使。歲餘,移鎮涇州。先是,前帥張彥澤在任苛虐,部民逃者五千餘戶,及下車,革前弊二十餘事,逃民歸復,賜詔褒美。後歷鄧、陜二鎮。陽城之役,周時為定州節度使,大軍往來,供饋無闕,未幾,遷鎮州節度使。周稟性寬惠,人庶便之。開運末,杜重威降於契丹,引契丹主臨城諭之。周泣曰:「受國重恩,不能死戰,而以兵降,何面南行見人主與士大夫乎?」乃痛飲欲引決,家人止之。事不獲已,乃見契丹主,授鄧州節度使、檢校太師。高祖定天下,移鎮徐州,加同平章事。乾祐元年二月,以疾卒於鎮,輟視朝二日,贈中書令。周性寬恕,不忤物情。初刺信都,州城西橋敗,覆民租車,周曰:「橋梁不飭,刺史之過也。」乃還其所沈粟,出私財以修之,民庶悅焉。

劉審交

原文劉審交

劉審交は字あざなを求益といい、幽州文安の人である。祖父は海、父は師遂。審交は若くして書を読み、特に吏道に精通し、初め北平主簿に任じられ、興唐令に転じ、本府が召し補って牙職とした。劉守光が僭号した時、偽って兵部尚書に任じられ、燕が滅亡すると、太原に帰順した。荘宗はこれを知り、諸府の従事として用いた。同光初年、趙德鈞が幽州を鎮守し、朝廷は内官の馬紹宏を北面転運使とし、審交を判官に辟召した。王都が定州に拠って叛くと、朝廷は王晏球に命じて進討させ、審交を転運供軍使とした。王都が平定されると、労により遼州刺史を授けられた。翌年、再び北面供軍転運使となり、磁州刺史に改められたが、母が高齢であったため、官を去って養った。母の喪に服すると、礼を過ぎるほどに憔悴し、喪が明けてからも数年出仕しなかった。晉の高祖が即位すると、範延光が魏州で叛き、楊光遠に総兵を命じてこれを討たせ、再び審交を召して供饋使とした。鄴中が平定されると、審交を三司使に命じ、右衛大将軍を授けた。六年の夏、陳州防禦使として出向し、一年余りして襄州防禦使に移った。審交は襄・漢を治め、撫綏に術があり、民衆はこれを懐いた。青州の楊光遠が平定され、平盧軍が防禦州に降格されると、再び審交を防禦使に用い、累官して検校太傅たいふに至った。当時は用兵の後であり、審交は矜恤撫理し、凋弊は復蘇した。契丹が晉を破ると、審交は交代で帰還し、蕭翰が都に在った時、再び三司使に用いられた。蕭翰が蕃に帰ると、李従益が汴州べんしゅうにおり、高行周・武行德を召して軍事を委ねようとしたが、皆これを受けなかった。間もなく高祖が太原で挙兵し、史弘肇が沢潞に在ると聞き、都人は大いに恐れた。当時燕軍千人が諸門を守っており、李従益の母王淑妃が文武臣僚に詢ねて言う、「我が子と母は洛におり、孤危自ら処していたが、一旦蕭翰に逼迫され、このような事態に至った。ただ人を遣わして太原を迎え請い、我が子と母のことを事とするなかれ」と。或る者は言う、「各所の守営兵士と燕軍を集めれば、城を守るに足り、河北の救応を待つべきである」と。妃は言う、「謀ではない。我が子と母は亡国の余り、安んぞ敢えて人と天下を争えようか」と。衆議は喧々たるものがあり、なお城を守ることを主張した。審交は言う、「余は燕人である。今城に燕軍がいるのは、固より燕のために謀るべきであるが、事機に従えないことがある。この城は敵軍に破られた後であり、民力は空乏し、残った衆は辛うじて生き残っている。もしさらに謀りがたくなければ、門を閉じて拒み守れば、一月の内に、再び遺類は無くなるであろう。諸君は言うなかれ、太妃の処分に従うべきである」と。これにより従益は使者を遣わして太原に貢奉した。高祖が汴に至ると、使を罷めて班に帰した。隠帝が位を嗣ぐと、汝州防禦使に用いた。汝は近輔であり、治め難いと号されていたが、審交は煩弊を全て去り、民を擾さず、百姓はこれを歌った。

原文劉審交,字求益,幽州文安人也。祖海,父師遂。審交少讀書,尤精吏道,起家署北平主簿,轉興唐令,本府召補牙職。劉守光之僭號,偽署兵部尚書,燕亡,歸於太原。莊宗知之,用為諸府從事。同光初,趙德鈞鎮幽州,朝廷以內官馬紹宏為北面轉運使,辟審交為判官。王都據定州叛,朝廷命王晏球進討,以審交為轉運供軍使,王都平,以勞授遼州刺史。明年,復為北面供軍轉運使,改磁州刺史,以母年高,去官就養。及丁內艱,毀瘠過禮,服闋,不出累年。晉高祖踐阼,範延光以魏州叛,命楊光遠以總兵討之,復召審交為供饋使。鄴中平,命審交為三司使,授右衛大將軍。六年夏,出為陳州防禦使,歲餘,移襄州防禦使。審交治襄、漢,撫綏有術,民庶懷之。青州楊光遠平,降平盧軍為防禦州,復用審交為防禦使,累官至檢校太傅。時用軍之後,審交矜恤撫理,雕弊復蘇。契丹破晉,審交以代歸,蕭翰在都,復用為三司使。翰歸蕃,李從益在汴州,召高行周、武行德將委以軍事,皆不受命。尋聞高祖起義於太原,史宏肇在澤潞,都人大懼。時有燕軍千人守捉諸門,李從益母王淑妃詢於文武臣僚曰:「予子母在洛,孤危自處,一旦為蕭翰所逼,致令及此。但遣人迎請太原,勿以予子母為事。」或曰:「收拾諸處守營兵士與燕軍,足以把城,以俟河北救應可也。」妃曰:「非謀也,我子母亡國之餘,安敢與人爭天下!」眾議籍籍,猶以把城為詞。審交曰:「余燕人也,今城有燕軍,固合為燕謀,然事機有所不可。此城經敵軍破除之後,民力空匱,餘眾幸存,若更謀之不臧,閉門拒守,一月之內,無復遺類。諸君勿言,宜從太妃處分。」繇是從益遣使往太原貢奉。高祖至汴,罷使歸班。隱帝嗣位,用為汝州防禦使。汝為近輔,號為難治,審交盡去煩弊,無擾於民,百姓歌之。

乾祐二年春、卒去した。年七十四。郡人は柩の前に集まって哭し、状を列ねて本州界内に留葬し、碑を立て祠を起こし、時に応じて祭祀を行うことを乞うた。本州がこれを上聞すると、詔して言う、「朝廷の制には、皆旧章がある。牧守の官には、比類なく贈典はない。もし政能が殊異であり、恵みが蒸黎に及び、生には令名があり、没しては遺愛を留めるならば、賢を褒め善を奨めることは、豈に彜章に限られようか。特により太尉を贈る。吏民の請うところは宜しく依るべし」と。故相国・太師・秦国公の馮道はこれを聞いて言う、「余は嘗て劉汝州の僚佐となり、その人となりが廉平慈善であり、害の無い良吏であることを知った。遼・磁を治め、陳・襄・青を治め、皆平允と称され、殊尤を顕さなかった。その汝を治めることも、また何の異なることがあろうか。民の租賦は減らすことができず、徭役は休めることができず、寒い者に衣を着せることができず、飢えた者に食を与えることができない。百姓は自ら汲々としているのに、使君は我らに何かあるというのか。しかし身死の日に、かくも黎民をして懐感せしめるのは、誠に鞭撲を行わず、刻剥を行わず、公に因って私に循わず、物を害して己を利せず、確然として良吏の事を行い、薄罰して過を宥し、身を謹み用を節し、俸禄に安んじ礼分を守っただけである。凡そこれに従事する者は、誰ができぬことがあろうか。ただ前の守土者がこのようでなかったので、汝の民は咨嗟愛慕するのである。今天下は戎馬の後であり、四方は兇盗の余り、杼柚は空しく賦斂は繁く、人民は稀で倉稟は匱え、これを康泰と謂うは、未だ易々と軽く言うべからず。侯伯牧宰がもしこれを哀矜し、聚斂に至らず、無辜の民を殺さず、民を邦の本とし、政を民の本とし、和平寛易であれば、即ち劉君の政は安んぞ称するに足りようか。また何ぞ令名に至らざらんや」と。道はさらに哀詞六章を著し、墓碑の陰に鐫った。

原文乾祐二年春,卒,年七十四。郡人聚哭柩前所,列狀乞留葬本州界,立碑起祠,以時致祭。本州以聞,詔曰:「朝廷之制,皆有舊章,牧守之官,比無贈典。其或政能殊異,惠及蒸黎,生有令名,沒留遺愛,褒賢獎善,豈限彜章。可特贈太尉,吏民所請宜依。」故相國、太師、秦國公馮道聞之曰:「予嘗為劉汝州僚佐,知其為人廉平慈善,無害之良吏也。刺遼、磁,治陳、襄、青,皆稱平允,不顯殊尤,其理汝也,又安有異哉!民之租賦不能減也,徭役不能息也,寒者不能衣也,餒者不能食也,百姓自汲汲然,而使君何有於我哉!然身死之日,致黎民懷感如此者,誠以不行鞭樸,不行刻剝,不因公而循私,不害物以利己,確然行良吏之事,薄罰宥過,謹身節用,安俸祿、守禮分而已。凡從事於斯者,孰不能乎!但前之守土者不能如是,是以汝民咨嗟愛慕。今天下戎馬之後,四方兇盜之餘,杼柚空而賦斂繁,人民稀而倉稟匱,謂之康泰,未易輕言。侯伯牧宰,若能哀矜之,不至聚斂,不殺無辜之民,民為邦本,政為民本,和平寬易,即劉君之政安足稱耶!復河患不至於令名哉!」道仍為著哀詞六章,鐫於墓碑之陰焉。

武漢球

原文武漢球

武漢球は澤州の人である。若くして拳勇であり、潞帥の李嗣昭は親信として倚り、唐の荘宗・明宗に仕え、引き続き禁軍の裨校となった。清泰年中、晉の高祖が契丹を引き連れて援とし、朝廷と隔絶したため、遂に晉祖に帰順した。天福初年、趙州刺史を授けられ、入朝して奉国軍都指揮使となり、出向して曹州刺史となった。開運初年、耀州団練使に遷った。高祖が東京に至ると、洺州刺史を授けられたが、漢球は目疾と高齢を理由に郡を辞した。帝は言う、「広平は小郡であり、卿が臥して治めるに余りある。疾を以て辞するなかれ」と。郡に着いて一年にも満たず、再び目疾を理由に代わりを請うて免じられた。乾祐二年秋、京師で卒去した。漢球は行伍より出でたが、撫理に長け、常に掊斂を戒めとし、民はその恵みを懐き、身死の日、家に余財が無かった。管回という者がおり、漢球が郡を守っていた日、判官に辟召した。漢球が汴で卒去した時、回は洺州におりまだ知らなかったが、ある日、忽然として親しい者に言う、「太保が人を遣わして我を召す」と。そこで沐浴し、新たに衣冠し、疾無くして目を瞑って終わった。家人はその故を知らず、数日後に、ようやく漢球の卒去を聞いた。

原文武漢球,澤州人也。少拳勇,潞帥李嗣昭倚為親信,事唐莊宗、明宗,繼為禁軍裨校。清泰中,會晉高祖引契丹為援,與朝廷隔絕,遂歸晉祖。天福初,授趙州刺史,入為奉國軍都指揮使,出刺曹州。開運初,遷耀州團練使。高祖至東京,授洺州刺史,漢球以目疾年高辭郡,帝曰:「廣平小郡,卿臥理有餘,無以疾辭。」至郡未期,復以目疾請代而免。乾祐二年秋,卒於京師。漢球雖出自行伍,然長於撫理,常以掊斂為戒,民懷其惠,身死之日,家無餘財。有管回者,漢球守郡日,辟為判官。及漢球卒於汴,回在洺州未之知,一日,忽謂所親曰:「太保遣人召我。」遂沐浴,新衣冠,無疾瞑目而終。家人不知其故,後數日,方聞漢球卒。

張瓘

原文張瓘

張瓘は同州車渡村の人で、故太原監軍使張承業の甥である。承業は『唐書』に伝がある。唐の天祐年間、承業は唐の武皇・荘宗を補佐して功績があり、深く信任された。瓘はこれを聞き、兄弟五人と共に故郷から太原に奔り、荘宗は皆これを任用した。瓘は天祐十三年に麟州刺史を補任された。承業は家を治めるに厳格で、些細な過ちも容赦せず、一人の甥が磁州副使であったが、河西の羊売り客を殺したため、承業は直ちに捕らえて斬った。常に瓘らを戒めて言うには、「お前たち車渡村の百姓は劉開道の下で賊をなし、非行に慣れている。今より行いを改めよ。もし旧態を改めなければ、死ぬ日も遠くない。」と。故に瓘は赴任先で誅求を敢えてしなかった。晉の天福年間、密州刺史となり、任期満了して環衛に入った。乾祐三年夏、官において卒去した。一日の視朝を停めた。

原文張瓘,同州車渡村人,故太原監軍使承業之猶子也。承業,《唐書》有傳。唐天祐中,承業佐唐武皇、莊宗有功,甚見委遇,瓘聞之,與昆仲五人,自故裏奔於太原,莊宗皆任用之。瓘天祐十三年補麟州刺史。承業治家嚴毅,小過無所容恕,一侄為磁州副使,以其殺河西賣羊客,承業立捕斬之。常誡瓘等曰:「汝車渡村百姓劉開道下賊,慣作非為,今須改行,若故態不除,死無日矣。」故瓘所至不敢誅求。晉天福中,為密州刺史,秩滿入居環衛。乾祐三年夏,卒於官,輟視朝一日。

李殷

原文李殷

李殷は薊州の人である。後唐の荘宗・明宗・晉の高祖の朝にわたり、偏校から順次昇進し、歴官して檢校司徒しとに至り、累ねて郡守を務めた。性格は沈着温厚で、治めた所に苛暴の名はなかった。晉の少帝が澶淵において契丹と戦った時、殷は禁旅を統率し、車駕が還ると、鄜州留後に任じられ、まもなく檢校太保を加えられた。開運年間、定州節度使に任じられ、出発に際し、少帝に啓上して言うには、「臣のこの行、必ずや敵を破りましょう。」と。皆その言葉を壮としたが、郡に至ってからは威略の聞こえはなく、敵が再び来ると、真っ先に降伏の意を示した。後に契丹に従って常山に至り、その将解裏は殷と契丹の首領楊安を遣わし、共に我が師を洺水で防いだが、まもなく安が退くと、殷は橐装の駱駝と馬を安に贈った。安が北走した後、殷は丘墓に隠れて難を免れ、馳せて我が方に帰参した。高祖はその真っ先に朝廷に赴いたことを嘉し、魏州平定の後、甘陵に帥を欠いていたので、殷を貝州節度使に任じ、檢校太傅を加えた。乾祐初年、鎮において卒去した。詔して太師を追贈された。

原文李殷,薊州人也。自後唐莊宗、明宗、晉高祖朝,以偏校遞遷,歷官至檢校司徒,累為郡守。性沈厚,所蒞無苛暴之名。晉少帝御契丹於澶淵,殷典禁旅,駕還,授鄜州留後,俄加檢校太保。開運中,授定州節度使,將行,啟少帝曰:「臣之此行,破敵必矣。」眾皆壯其言,及至郡,威略無聞,敵再至,首納降款。後隨契丹至常山,其將解裏遣殷與契丹首領楊安,同拒我師於洺水,俄而安退,殷以橐裝駝馬遺安。安既北走,殷匿於丘墓獲免,馳以歸我。高祖嘉其首赴朝闕,及魏州平,以甘陵乏帥,乃命殷為貝州節度使,加檢校太傅。乾祐初,卒於鎮。詔贈太師。

劉在明

原文劉在明

劉在明は幽州の人である。若い頃から胆気があり、本州節度使劉守光に親信として用いられ、出て平塞軍使となった。守光が敗れると、太原に帰順し、唐の荘宗に列校として収められた。明宗の時、捧聖左廂都指揮使となり、和州刺史を兼ねた。汴州への行幸に従い、滎陽に至った時、朱守殷の反乱を聞き、先鋒に用いられた。汴城に至り、率先して城に登り、賊を平定し、汴州馬步軍都指揮使を授けられた。應順初年、貝州刺史となる。翌年、趙州に移り、北面行營馬軍都指揮使を兼ね、軍を率いて易州を守備した。清泰末年、幽州節度使趙德鈞が軍を率いて團柏谷に赴く途中、易州を経由し、在明の軍を従えた。德鈞が兵敗すると、在明は懷州に奔り帰り、唐の末帝は萇從簡と共に河陽を守るよう命じた。晉の祖が至ると、これを迎え、京都の事態が定まると、出て単州刺史となった。天福年間、李金全が安州で叛くと、在明は李守貞に従ってこれを攻め、淮賊を大破し、功により安州防禦使を授けられ、翌年、絳州に移った。楊光遠が青州を拠って叛くと、召されて行營馬步軍都指揮使となり、齊州防禦使を兼ねた。青州平定後、相州留後に遷り、邢州・晉州留後を歴任した。(『通鑒』:契丹が闕を犯した時、建雄留後劉在明は契丹に朝し、節度副使駱知朗に州事を知行させた。)高祖が践祚すると、幽州道行營都部署を授けられた。当時契丹が中山を守っていたが、在明が出師して経略すると、契丹は城を棄てて去り、鎮州留後に任じられた。乾祐元年五月、正式に鎮州節度使に任じられた。六月、病により鎮において卒去した。侍中じちゅうを追贈された。

原文劉在明,幽州人。少有膽氣,本州節度使劉守光用為親信,出為平塞軍使。守光敗,歸於太原,唐莊宗收為列校。明宗時,為捧聖左廂都指揮使,領和州刺史。從幸汴州,至滎陽,聞朱守殷叛,用為前鋒。至汴城,率先登城,賊平,授汴州馬步軍都指揮使。應順初,為貝州刺史。明年,移趙州,兼北面行營馬軍都指揮使,以軍戍易州。清泰末,幽州節度使趙德鈞引軍赴團柏谷,路由易州,取在明軍從。及德鈞兵敗,在明奔歸懷州,唐末帝令與萇從簡同守河陽。晉祖至,乃迎之,京都事定,出為單州刺史。天福中,李金全以安州叛,在明從李守貞攻之,大破淮賊,以功授安州防禦使,明年,移絳州。楊光遠據青州叛,召為行營馬步軍都指揮使,領齊州防禦使。青州平,遷相州留後,歷邢州、晉州留後。(《通鑒》:契丹犯闕,建雄留後劉在明朝於契丹,以節度副使駱知朗知州事。)高祖踐阼,授幽州道行營都部署。時契丹守中山,在明出師經略,契丹乃棄城而去,遂授鎮州留後。乾祐元年五月,正授鎮州節度使。六月,以疾卒於鎮。贈侍中。

馬萬

原文馬萬

馬萬は澶州の人である。若くして軍に従い、水泳に長けていた。唐の荘宗が梁軍と河上で対峙し、荘宗は德勝渡に河を挟んで南北の寨を築いた。梁軍が南寨を急攻し、中流に戦艦を連ねて援路を絶ち、昼夜を分かたず三日間攻城した時、寨将氏延賞が荘宗に急を告げた。荘宗は河を隔てて敵を望み、どうすることもできず、水泳で賊を破れる者を募った。当時萬兄弟は皆応募し、潜行して南寨に入り、三度往来し、また船艦を焼くのを助け、汴軍は遂に退いた。これにより水軍小校に昇進し、次第に禁軍を管掌し、遙領刺史となり、累遷して奉國左廂都指揮使・泗州防禦使となった。晉の天福二年夏、範延光が鄴で叛き、牙将孫銳が兵を率いて黎陽に至ると、朝廷は侍衛馬軍都指揮使白奉進に兵を率いて滑州を渡らせ、萬もこれに加わった。当時滑州節度使符彥饒は密かに鄴下と通じ、牙署において白奉進を殺害した。萬は本軍の兵士を率いて乱に加担しようとしたが、ちょうど奉國右廂都指揮使盧順密も兵を率いて到着し、逆順を諭したので、萬は已むなく、順密と急ぎ公府に赴き、彥饒を生け捕りにして闕下に送った。朝廷は直ちに萬を滑州節度使としたが、盧順密への報酬は甚だ薄かった。間もなく、晉の高祖は少しその事を知り、直ちに順密を涇州兵馬留後とし、次第に萬を冷遇した。萬は鄧州を鎮めたが、まもなく鎮を罷め、上將軍を授けられ、眼疾を理由に致仕した。乾祐三年四月に卒去した。一日の視朝を停めた。

原文馬萬,澶州人也。少從軍,善水遊。唐莊宗與梁軍對壘於河上,莊宗於德勝渡夾河立南北寨。會梁軍急攻南寨,於中流聯戰艦以絕援路,晝夜攻城者三日,寨將氏延賞告急於莊宗。莊宗隔河望敵,無如之何,乃召人能水遊破賊者。時萬兄弟皆應募,遂潛行入南寨,往來者三,又助燒船艦,汴軍遂退。由此升為水軍小校,漸典禁軍,遙領刺史,累遷奉國左廂都指揮使、泗州防禦使。晉天福二年夏,範延光叛於鄴,牙將孫銳率兵至黎陽,朝廷遣侍衛馬軍都指揮使白奉進領兵渡滑州,萬亦預其行。時滑州節度使符彥饒潛通鄴下,殺白奉進於牙署。萬領本軍兵士將助亂,會奉國右廂都指揮使盧順密亦以兵至,諭以逆順,萬不得已,與順密急趨公府,執彥饒生送闕下。朝廷即以萬為滑州節度使,而盧順密酬之甚淺。居無何,晉高祖稍知其事,即以順密為涇州兵馬留後,漸薄於萬。萬鎮鄧州,未幾罷鎮,授上將軍,以目疾致仕。乾祐三年四月卒。輟視朝一日。

李彥從

原文李彥從

李彥從は字を士元といい、汾州孝義の人である。父の德は麟州司馬であった。彥從は若くして武芸を習い、行伍の間から出て、高祖が禁軍を管掌した時、郷里の旧縁により、親信として任用された。國初、左飛龍使・檢校司空しくうに用いられた。鎮州が敵を駆逐する際、朝廷に兵を請うと、高祖は彥從に軍を率いて赴かせた。乾祐初年、恩州刺史を兼ねた。趙暉が岐下で王景崇を討った時、彥從は兵馬都監となり、川軍を破る功績があり、賊平定後、濮州刺史を授けられ、政務に才能があり、百姓はこれを喜んだ。乾祐三年冬、郡において卒去した。

原文李彥從,字士元,汾州孝義人。父德,麟州司馬。彥從少習武藝,出行伍間,高祖典禁軍,以鄉里之舊,任為親信。國初,用為左飛龍使、檢校司空。鎮州逐敵之際,請兵於朝廷,高祖令彥從率軍赴之。乾祐初,領恩州刺史。趙暉討王景崇於岐下,彥從為兵馬都監,破川軍有功,賊平,授濮州刺史,治有政能,百姓悅之。乾祐三年冬,卒於郡。

郭謹

原文郭謹

郭謹は字を守節といい、太原晉陽の人である。謹は若くして軍に従い、騎射に長け、河中教練使を歴任した。晉の天福年間、奉國右廂都指揮使に遷り、禺州刺史を兼ねた。三年、奉國左廂都指揮・泗州防禦使に転じた。一年余りして、侍衛步軍都指揮使兼寧江軍節度使を授けられた。六年、鄴への行幸に従った。七年、晉の祖が崩御し、少帝が即位すると、彰德軍節度使を授けられ、軍職は従前の通りであった。開運初年、出て鄜州に任じられた。二年、入朝して左神武統軍となった。三年、再び鄜州を鎮めた。高祖が践祚すると、郷国の旧臣として、檢校太尉を加えられ、滑臺に移鎮した。乾祐初年、再び彰德軍節度使を授けられた。二年、就いて檢校太師を加えられた。三年、入朝し、食邑を加えられた。この年の冬十月、任において卒去した。享年六十。二日の視朝を停め、侍中を追贈された。

原文郭謹,字守節,太原晉陽人。謹少從軍,能騎射,歷河中教練使。晉天福中,遷奉國右廂都指揮使,領禺州刺史。三年,轉奉國左廂都指揮、泗州防禦使。歲餘,授侍衛步軍都指揮使兼寧江軍節度使。六年,從幸鄴。七年,晉祖崩,少帝即位,授彰德軍節度使,領軍如故。開運初,出授鄜州。二年,入為左神武統軍。三年,復鎮鄜州。高祖踐阼,以鄉國舊臣,加檢校太尉,移鎮滑臺。乾祐初,復授彰德軍節度使。二年,就加檢校太師。三年,入朝,加食邑。是歲冬十月,卒於位,年六十。輟視朝二日,贈侍中。

皇甫立

原文皇甫立

皇甫立は代北の人である。唐の明宗が代州刺史であった時、牙校に任じられ、藩鎮を歴任するに従った。性格は純朴で謹直であり、明宗は深く信任し、王建立・安重誨が名を立て身を委ねたのも、皆立の後であった。明宗が践祚すると、立を忻州刺史とした。長興末年、洺州團練使に転じた。應順初年、鄜州節度使に遷り、檢校太保となった。清泰三年春、潞州に移鎮したが、まもなく華州に改めた。晉の天福年間、左神武統軍を授けられた。少帝が即位すると、左金吾きんご衛上將軍を歴任し、累官して檢校太尉に至った。高祖が天下を定めると、特進・太子太師を授けられて致仕した。乾祐二年秋に卒去した。

原文皇甫立,代北人也。唐明宗之刺代州,署為牙校,從歷藩鎮。性純謹,明宗深委信之,王建立、安重誨策名委質、皆在立後。明宗踐阼,以立為忻州刺史。長興末,轉洺州團練使。應順初,遷鄜州節度使,檢校太保。清泰三年春,移鎮潞州,未幾,改華州。晉天福中,授左神武統軍。少帝即位,歷左金吾衛上將軍,累官至檢校太尉。高祖定天下,授特進、太子太師致仕。乾祐二年秋卒。

白再榮

原文白再榮

白再榮は、もと蕃部(異民族の部族)の出身である。若くして軍に従い、累進して護聖左廂指揮使となった。晉の末年に、契丹が汴に入ると、翌年、契丹主が北へ去るに及び、再榮は部族の帳に従って真定に至った。その年の閏七月の晦、李筠・何福晉らが相率いて北軍の帥たる滿達勒を殺し、甲仗庫を占拠した。敵の勢いが未だ退かず、李筠らは人をやって再榮を召し出した。再榮は本営に端坐し、長く躊躇していたが、軍吏に迫られて、ようやく出向いた。翌日、床答勒を逐い出すと、諸軍は再榮の名次が諸校の上位にあることを以て、暫く留後事を知行するよう請うた。再榮は貪欲で愚昧、決断力がなく、挙措多く疑わしく、出入りの騎従には刃を露わにし矢をつがえさせ、諸校は互いに統率せず、猜疑の心を抱き合った。奉國廂の主たる王饒は再榮に併呑されることを恐れ、東門楼を占拠して兵で自衛し、偽って足疾を称し、敢えて再榮に会おうとしなかった。司天監の趙延乂は彼らと親しかったので、往来して解釈し、遂に互いに忌む心はなくなった。再榮は李崧・和凝が家族を連れて当地にいるのを知り、軍士数百人をして崧・凝を取り囲ませて迫り、賞与を求めたので、崧・凝はそれぞれ家財を出して与えた。再栄は李崧を害してその財を奪おうとしたが、前磁州刺史の李穀が再栄に言うには、「公と諸将は契丹に捕らえられ、凌辱万端、旦夕に死を憂えていた。今日、衆力をもって蕃戎を逐い出し、鎮民の死者三千人に下らず、どうして公等だけの功績であろうか!生路を得たばかりで、早くも宰相一人を殺そうとする。他日、朝廷に到った時、もし問われたら、何と弁明するのか」と。再栄は黙然とした。再栄はまた城中の居民の家財を徴発して軍士に与えようとしたが、李穀がまた譬えて諭したので、やめた。漢人でかつて滿達勒に仕えた者はことごとく拘束し、その財を奪った。高祖は再栄を鎮州留後としたが、為政は貪虐で言い表し難く、鎮人は彼を「白麻答」と呼んだ。間もなく、滑州節度使に移されたが、箕斂誅求(苛烈な取り立て)で民は聊生すべくもなく、ついに京師に召還された。周太祖たいそが京城に入ると、軍士が再栄の邸を攻め、再栄を脅迫して財貨をことごとく奪い取った後、軍士が前に進んで言うには、「某ら軍健は、常に麾下に奔走して事に従った。一旦無礼をこのように至らせた以上、今後何の面目あって謁見できようか」と。即ち刃を奮って彼を撃ち、その首を提げて去った。後に家人が絹帛で贖い出して葬った。

原文白再榮,本蕃部人也。少從軍,累遷護聖左廂指揮使。晉末,契丹入汴,明年,契丹主北去,再榮從部帳至真定。其年閏七月晦,李筠、何福晉相率殺北帥滿達勒,據甲仗庫,敵勢未退,筠等使人召再榮。再榮端坐本營,遲疑久之。為軍吏所迫,乃行。翊日,逐出床答勒,諸軍以再榮名次在諸校之右,乃請權知留後事。(《東都事略·李筠傳》:筠請馮道領節度,道曰:「予主奏事而已,留後事當議功臣為之。」以諸將之甲者為留後。)再榮貪昧無決,舉止多疑,出入騎從,露刃註矢,諸校不相統攝,互有猜貳。奉國廂主王饒懼為再榮所並,乃據東門樓,以兵自衛,偽稱足疾,不敢見再榮。司天監趙延乂俱與之善,乃來往解釋,遂無相忌之意。再榮以李崧、和凝攜家在彼,令軍士數百人環迫崧、凝,以求賞給,崧、凝各出家財與之。再榮欲害崧以利其財,前磁州刺史李穀謂再榮曰:「公與諸將為契丹所擄,淩辱萬端,旦夕憂死。今日眾力逐出蕃戎,鎮民死者不下三千人,豈獨公等之功!才得生路,便擬殺一宰相,他日到闕,儻有所問,何以為辭?」再榮默然。再榮又欲括率在城居民家財,以給軍士,李穀又譬解之,乃止。其漢人曾事滿達勒者盡拘之,以取其財。高祖以再榮為鎮州留後,為政貪虐難狀,鎮人呼為「白麻答」。未幾,移授滑州節度使,箕斂誅求,民不聊生,乃征還京師。周太祖入京城,軍士攻再榮之第,迫脅再榮,盡取財貨既,軍士前啟曰:「某等軍健,常趨事麾下,一旦無禮至此,今後何顏謁見?」即奮刃擊之,挈其首而去,後家人以帛贖葬之。

張鵬

原文張鵬

張鵬は、鎮州鼓城の人である。幼くして僧となり、書を読み、口辯に長け、大言を好んだが、後に還俗した。唐の末帝が潞王であった時、鵬はそこに身を寄せた。即位すると、供奉官に用いられ、累ねて軍旅を監した。晉の開運年間、契丹が澶州に迫った時、鵬は前鋒監押として、身を奮って敵を撃ち、傷を負って帰還した。その後、累ねて辺城を戍守し、兵卒はその勇を服した。乾祐の初め、鎮州副使を授かり、鄴城を過ぎた時、高行周が歓待した。鵬はついで晉朝の傾亡の事に言及し、少帝が人を用いるに失い、藩輔の臣はただ財を積み家を富ますことに務め、国家を意に介さず、以て宗社が泯滅するに至ったのは、帝王だけの過失ではないと述べた。行周は性質寛和で、鵬の言を過ちとしなかった。鵬が退いた後、行周の左右が行周に言うには、「張副使の言は、令公を譏っているのです」と。行周は怒りを発し、遂に鵬が国を怨み訛言をなすと奏上したので、朝廷は詔を降して常山において誅するに至った。時に乾祐元年七月である。

原文張鵬,鎮州鼓城人。幼為僧,知書,有口辯,喜大言,後歸俗。唐末帝為潞王時,鵬往依焉。及即位,用為供奉官,累監軍旅。晉開運中,契丹迫澶州,鵬為前鋒監押,奮身擊敵,被創而還。其後累於邊城戍守,士伍服其勇。乾祐初,授鎮州副使,過鄴城,高行周接之甚歡,鵬因言及晉朝傾亡之事,少帝任用失人,藩輔之臣,惟務積財富家,不以國家為意,以至宗社泯滅,非獨帝王之咎也。行周性寬和,不以鵬言為過。鵬既退,行周左右謂行周曰:「張副使之言,蓋譏令公也。」行周因發怒,遂奏鵬怨國訛言,故朝廷降詔就誅於常山,時乾祐元年七月也。

【史評】

原文【史評】

史臣曰く、晉・漢の際、軍功を勧め、王事に勤め、旌旄符竹(節度使の印綬)を取る者は多いが、その間に民に及ぼす恵みのある者は幾らもいない。王周の閫政(軍政)・審交の民譽は、その優れた者である。漢球・張瓘はまたこれに次ぐ。これらを篇に記して来者に示すは宜しく、その余は皆観るに足らぬ。張鵬は一言の過失によって、忽ちその身を滅ぼした。またもって後代の多言横議の徒を誡めるに足るであろうか。

原文史臣曰:晉、漢之際,有以懋軍功、勤王事、取旌旄符竹者多矣,其間有及民之惠者無幾焉。如王周之閫政、審交之民譽,蓋其優者也;漢球、張瓘抑又次焉。是宜紀之篇以示來者,其餘皆不足觀也已。張鵬以一言之失,遽滅其身,亦足誡後代多言橫議之徒歟!