舊五代史

漢書七: 宗室列傳二

漢書七: 宗室列傳二

◎宗室

原文◎宗室

魏王承訓

原文魏王承訓

魏王承訓、字あざなは德輝、高祖こうその長子なり。若くして溫厚、姿儀美しく、高祖殊に鐘愛す。晉に在りて累官して檢校司空しくうに至り、國初に左衛上將軍を授かる。高祖洛に赴かんとし、承訓に命じて北京大內巡檢と為し、未だ幾ばくもせず、詔して闕に赴かしめ、開封尹・檢校太尉・同平章事を授く。天福十二年十二月十一日、府署に於いて薨ず、年二十六。高祖太平宮に於いて哀を發し、哭すること大いに慟し、以て不豫に至る。是の月、魏王を追封す。太原に歸葬す。

原文魏王承訓,字德輝,高祖之長子也。少溫厚,美姿儀,高祖尤鐘愛。在晉累官至檢校司空,國初授左衛上將軍。高祖將赴洛,命承訓北京大內巡檢,未幾,詔赴闕,授開封尹、檢校太尉、同平章事。以天福十二年十二月十一日薨於府署,年二十六。高祖發哀於太平宮,哭之大慟,以至於不豫。是月,追封魏王。歸葬於太原。

陳王承勛

原文陳王承勛

陳王承勛、高祖の幼子なり。國初に右衛大將軍を授かる。隱帝位を嗣ぎ、檢校太尉・同平章事を加えられ、遙かに興元尹を領し、俄に侯益に代わりて開封尹と為り、位を進めて檢校太師・兼侍中じちゅうと為る。乾祐三年冬十一月、蕭墻の亂、隱帝崩じ、軍情勛を立てて嗣とせんと欲す。時に勛既に病み、大臣及び諸將勛の起居を候ふことを請ふ。太后左右に令して臥榻を以て之を舁ぎて見しむ。諸將就きて視るに、勛の興ふること能はざるを知る。故に議して劉赟を立てしむ。周廣順元年春卒す。周太祖たいそ詔を下して陳王を封ず。

原文陳王承勛,高祖之幼子也。國初授右衛大將軍。隱帝嗣位,加檢校太尉、同平章事,遙領興元尹,俄代侯益為開封尹,進位檢校太師、兼侍中。乾祐三年冬十一月,蕭墻之亂,隱帝崩,軍情欲立勛為嗣。時勛已病,大臣及諸將請候勛起居,太后令左右以臥榻舁之以見,諸將就視,知勛之不能興,故議立劉赟。周廣順元年春卒。周太祖下詔封陳王。

蔡王信

原文蔡王信

蔡王信、高祖の從弟なり。少より軍に從ひ、漸く龍武小校に至る。漢祖并州を鎮むるに、興捷軍都將と為り、龔州刺史・檢校太保を領す。國初、侍衛馬軍都指揮使・檢校太傅たいふ兼義成ぎせい軍節度使せつどしと為り、尋いで許州に移鎮し、太尉・同平章事を加えらる。高祖寢疾大漸す。楊邠密旨を受け、信を遣はして鎮に赴かしむ。信即時に路を戒め、辭を奉ずるを得ず、雨泣して去る。隱帝即位し、檢校太師を加えらる。關輔の賊平ぎ、就きて侍中を加えらる。信性昏懦にして、貨を黷すこと厭ふこと無く、酷法を行ふを喜ぶ。禁軍を掌る時、左右に罪を犯す者有らば、其の妻子を召し、之に対し臠割し、自ら其の肉を食はしめ、或ひは足より支解して首に至らしめ、血流前を盈たすも、樂を命じて酒に対し、仁湣の色無し。未だ嘗て賓客を接延せず。鎮に在る日、聚斂度無し。會ふ高祖山陵の梓宮境上を經由す。信率ひて吏民を掠め、以て迎奉を備へ、百姓之を苦しむ。初め、楊邠・史宏肇を殺すを聞き、遽に宴席を啓き、參佐賓幕を集め、相に致賀せしむ。曰く「我天に眼無しと謂ひ、我をして三年適意ならしむること能はざらしむ。主上孤立し、幾くんぞ賊の手に落ちんとす。諸公我に一杯を勸むべし」と。俄に蕭墻の變有り、憂ひて食ふこと能はず。尋いで太后の令有り、湘陰公を立てんと云ふ。即ち其の子を令して徐州に往き奉迎せしむ。數日、陳思讓馬軍を率ひ城西を經過す。但だ供頓を令するのみ、敢へて城を出でず。未だ幾ばくもせず、澶州軍變す。王峻前申州刺史馬鐸を遣はし軍を領して州に赴き巡檢せしむ。鐸軍を引きて城に入る。信惶惑して自殺す。廣順初、蔡王を追封す。

原文蔡王信,高祖之從弟也。少從軍,漸至龍武小校。漢祖鎮并州,為興捷軍都將,領龔州刺史、檢校太保。國初,為侍衛馬軍都指揮使、檢校太傅兼義成軍節度使,尋移鎮許州,加太尉、同平章事。高祖寢疾大漸,楊邠受密旨遣信赴鎮,信即時戒路,不得奉辭,雨泣而去。隱帝即位,加檢校太師。關輔賊平,就加侍中。信性昏懦,黷貨無厭,喜行酷法。掌禁軍時,左右有犯罪者,召其妻子,對之臠割,令自食其肉,或從足支解至首,血流盈前,而命樂對酒,無仁湣之色。未嘗接延賓客。在鎮日,聚斂無度,會高祖山陵梓宮經由境上,信率掠吏民,以備迎奉,百姓苦之。初,聞殺楊邠、史宏肇,遽啟宴席,集參佐賓幕,令相致賀。曰:「我謂天無眼,令我三年不能適意。主上孤立,幾落賊手。諸公勸我一杯可也。」俄蕭墻之變,憂不能食。尋有太后令,言立湘陰公,即令其子往徐州奉迎。數日,陳思讓率馬軍經過城西,但令供頓,不敢出城。未幾,澶州軍變,王峻遣前申州刺史馬鐸領軍赴州巡檢,鐸引軍入城,信惶惑自殺。廣順初,追封蔡王。

湘陰公赟

原文湘陰公赟

湘陰公劉贇は、徐州節度使であった。乾祐元年(948年)八月の中頃、五色の雲が現れた。翌年の冬の末、鮮碧堂の庭の樹木に鳥が群れ集い、飛び交った。その鳥は黄色い体に朱色の嘴、金色の目に青い翼、紺色の足に黒い尾を持ち、鳳凰に似ていた。賓客や補佐官が嘆息して言うには、「野鳥が室内に入るとは、主人が去らんとしている兆しである」と。十日ほどして、その鳥はどこへともなく消え去った。乾祐三年(950年)冬十一月、周の太祖(郭威)が京師に軍を駐屯させ、後継の君主を立てることを議し、太后の誥(詔)を奉じて、劉贇を後嗣に立てることとした。誥を伝える際、馮道の笏が地面に落ち、左右の者はこれを不吉とした。馮道が到着すると、劉贇は郊外に出迎えたが、普段から乗っていた馬はこれまで大変従順であったのに、この時は馬が蹄で蹴り、噛みつき、奔り逸れて、人には制御できず、やむなく他の馬に替えた。当時の人々はこれを不祥の兆しと考えた。彭城を離れようとした時、ある日、天から西の方より白い光の一道が来て、城中を昼のように照らし、雷のような音がした。当時の人々はこれを天裂と呼んだ。また、大きな星が徐州の野に墜ち、殷然(大きく響く)と音を立てた。ある者はこれを天狗と呼んだ。後に劉贇は果たして廃され、死んだ。(案:『湘陰公伝』は原本が欠損している。『十国春秋・湘陰公伝』を考察すると、湘陰公劉贇は世祖せいそ(劉崇)の子であり、高祖(劉知遠)がこれを愛し、自分の子とした。乾祐元年、武寧軍節度使に拝された。二年、同平章事を加えられた。郭威が北郊で慕容彦超を破り、隠帝が弑されると、郭威は京師に入り、諸大臣が密かに自分を推戴していると思ったが、宰相馮道らに会うと、馮道は全くその意がなかった。郭威はやむなく、馮道に会って拝礼したが、馮道は依然として平時のようにその拝礼を受け、ゆっくりと労って言うには、「公のご苦労は並大抵ではない」と。郭威の意気と表情は共に沮喪し、大臣たちが自分を推す意思がないことを知り、また自ら立つことも難しく思ったため、王峻と共に太后に参上して、漢の後嗣を推挙選択することを申し入れた。群臣は共に奏上して言うには、「武寧節度使劉贇は、高祖が愛して子とした者であります。後嗣に立てるのが適当です」と。そこで太師馮道を遣わし、百官を率いて迎えに行かせた。馮道は郭威の真意が劉贇にないと推測し、まっすぐに進み出て問うた。「公のこの挙動は衷心から出たものか?」郭威は天を指して誓った。馮道が既に出発した後、左右の者に言った。「私は平生、人に嘘をついたことがないが、今、嘘をついてしまった」。馮道が到着し、太后の意を伝えて劉贇を召した。劉贇が宋州まで行くと、郭威は既に澶州から兵士に擁されて京師に戻っていた。王峻は劉贇の側近に変事が起こることを憂慮し、侍衛馬軍指揮使郭崇威に兵七百騎を率いさせて劉贇を護衛させた。郭崇威が宋州に到着すると、劉贇は楼に登って郭崇威の来た意図を問うた。郭崇威は言った。「澶州で軍の変乱があり、恐れを抱いて未だ詳らかにしないので、崇威を遣わして護衛させたのであり、悪意ではありません」。劉贇は郭崇威を召したが、郭崇威は進もうとしなかった。馮道が出て郭崇威と話し、郭崇威はようやく楼に登って劉贇に会った。当時、護聖指揮使張令超が歩兵を率いて劉贇の宿衛を務めていた。判官董裔が劉贇に説いて言った。「郭崇威の様子や挙動を見ると、必ず異なる謀りごとがある。道中では皆、郭威が既に天子となったと言っております。それなのに陛下が深く入り込んで止まらなければ、禍いが至るでしょう。急いで張令超を召し、禍福を説き明かして、夜に兵を以て郭崇威の配下の士卒を脅迫させ、明日、睢陽の金帛を掠め取り、士卒を募り、北へ走って太原に向かうべきです。彼らは新たに京邑を定めたばかりで、我々を追う暇はありません。これが上策です」。劉贇は躊躇して決断できなかった。その夜、郭崇威は密かに張令超を誘って郭氏に帰順させ、劉贇の部下の兵を全て奪った。郭威は書状を以て馮道を先に帰還させ、その副使の趙上交、王度を留めて劉贇を奉じて朝廷に入り太后に謁見させようとした。馮道はそこで劉贇に辞して先に帰還した。劉贇は馮道に言った。「寡人がここに来たのは、公が三十年の旧宰相であることを頼りにしたからであり、疑わなかったのだ」。馮道は黙っていた。劉贇の客将賈貞らが幾度も馮道に目配せし、彼を図ろうとした。劉贇は言った。「軽率に事を運ぶな。事は公から出たものではないだろうか!」馮道が去った後、郭崇威は劉贇を外館に幽閉し、賈貞、董裔、および牙内都虞候劉福、孔目官夏昭度らを殺した。郭威が既に監国となった。太后はそこで詔を下して言った。「近頃、枢密使すうみつし郭威は、宗社を安んじようと志し、長君を立てることを議し、徐州節度使劉贇を、高祖が親しく近づけ子とした者として、漢の後嗣に立て、藩鎮より召し出して京師に赴かせようとした。誥命は既に行われたが、軍情はこれに附さなかった。天道は北にあり、人心は東に向かわず、まさに改めて卜する初めに当たり、分土の命に応ぜしめる。劉贇は降格して開府儀同三司、検校けんぎょう太師、上柱国を授け、湘陰公に封ぜられるべし」。劉贇はついに殺されて死んだ。『五代史補』:郭忠恕は、七歳の童子で及第し、文学に富み、特に篆書・隷書に巧みであった。かつてある人が龍山で鳥跡篆を得たが、郭忠恕は一目見ただけで、まるで以前から習っていたかのように誦した。乾祐年間、湘陰公が徐州を鎮守した時、推官に辟召した。周の太祖が京師に入った時、少主(隠帝)は北岡で崩御し、周主(郭威)は宰相馮道に命じて湘陰公を迎え、立てようとした。宋州に至った時、高祖(郭威)は既に三軍に推戴されていた。郭忠恕は事変を知り、厳しい顔色で馮道を責めて言った。「令公は累朝の大臣であり、誠信は天下に著しく、四方の談士は、賢者も不肖者も皆、長者と認めている。今、一旦にして脱空漢(嘘つき)に返り、前の功業を共に棄てるとは、令公の心は安らかか?」馮道は返答する言葉がなかった。郭忠恕はそこで湘陰公を勧めて馮道を殺し、河東に奔るべきだと説いたが、公は躊躇して決断できず、ついに禍いに及んだ。郭忠恕は長く行方をくらましたが、晩年は特に軽率・軽忽を好み、ついにこれによって身を敗り、除名の上、配流に坐した。)

原文湘陰公赟,為徐州節度使。乾祐元年八月中,有雲見五色。明年冬杪,有鳥翔集於鮮碧堂庭樹,黃質朱喙,金目青翼,紺趾黑尾,有類於鳳。有賓佐嘆曰:「野鳥入室,主人將去。」旬浹而不知所之。乾祐三年冬十一月,周太祖駐軍於京師,議立嗣君,奉太后誥,立赟為嗣。傳誥之際,馮道笏墜於地,左右惡之。馮道至,赟出郊迎,常所乘馬比甚馴服,至是馬蹄嚙奔逸,人不可制,乃以他馬代之,時以為不祥。將離彭城,嘗一日,天有白光一道自西來,照城中如晝,有聲如雷,時人謂之天裂;又有巨星墜於徐野,殷然有聲,或謂之天狗。後赟果廢死。(案:《湘陰公傳》原本殘闕,考《十國春秋·湘陰公傳》云:湘陰公赟,世祖子也,高祖愛之,以為己子。乾祐元年,拜武寧軍節度使。二年,加同平章事。郭威既敗慕容彥超於北郊,隱帝遇弒,威入京師,謂諸大臣密相推戴,及見宰相馮道等,道殊無意。威不得已,見道下拜,而道猶受拜如平時,徐勞之曰:「公行良苦。」威意色皆沮,以為大臣未有推己意,又難於自立,因與王峻入白太后,推擇漢嗣。群臣乃共奏曰:「武寧節度使赟,高祖愛以為子,宜立為嗣。」乃遣太師馮道率百官往迎,道揣威意不在赟,直前問曰:「公此舉由衷乎?」威指天為誓。道既行,語左右曰:「吾生平不能謬語人,今謬語矣。」道見,傳太后意召之。赟行至宋州,威已自澶州為兵士擁還京師。王峻慮赟左右生變,遣侍衛馬軍指揮使郭崇威以兵七百騎衛赟。崇威至宋州,赟登樓問崇威所以來之意,崇威曰:「澶州軍變,懼未察之,遣崇威護衛,非惡意也。」瑽召崇威,崇威不敢進。馮道出與崇威語,崇威乃登樓見赟。時護聖指揮使張令超帥步兵為赟宿衛,判官董裔說赟曰:「觀崇威瞻視舉措,必有異謀。道路皆言郭威已為天子,而陛下深入不止,禍其至哉。請急召令超,諭以禍福,使夜以兵劫崇威所屬士卒,明日掠睢陽金帛,募士卒,北走太原。彼新定京邑,未暇追我,此策之上也。」赟猶豫未決。是夕,崇威密誘令超歸郭氏,盡奪赟部下兵。郭威以書召道先歸,留其副趙上交、王度奉赟入朝太后,道乃辭赟先還。赟謂道曰:「寡人此來,所恃者以公三十年舊相,是以不疑。」道默然。赟客將賈貞等數目道,欲圖之,赟曰:「勿草草,事豈出於公耶!」道已去,崇威乃幽赟於外館,殺賈貞、董裔及牙內都虞候劉福、孔目官夏昭度等。郭威已監國。太后乃下詔曰:「比者,樞密使威,誌安宗社,議立長君,以徐州節度使赟,高祖親近,立為漢嗣,乃自藩鎮,召赴京師。雖誥命已行,而軍情不附。天道在北,人心靡東,適當改卜之初,俾應分士之命。赟可降授開府儀同三司、檢校太師、上柱國,封湘陰公。」赟卒以殺死。《五代史補》:郭忠恕,七歲童子及第,富有文學,尤工篆隸。嘗有人於龍山得鳥跡篆,忠恕一見,輒誦如宿習。乾祐中,湘陰公鎮徐州,辟為推官。周祖之入京師也,少主崩於北岡,周主命宰相馮道迎湘陰公,將立之。至宋州,高祖已為三軍推戴。忠恕知事變,乃正色責道曰:「令公累朝大臣,誠信著於天下,四方談士,無賢不肖皆以為長者,今一旦返作脫空漢,前功業並棄,令公之心安乎?」道無言對。忠恕因勸湘陰公殺道以奔河東,公猶豫未決,遂及於禍。忠恕竄跡久之,晚年尤好輕忽,卒以此敗,坐除名配流焉。)