二月辛巳、青州が奏上するに、郭瓊が兵士を部署し、海州より回り当道に至ると。甲申、樞密使郭威巡邊より回る。丁亥、汝州防禦使劉審交卒す。乙未、前安州節度使劉遂凝を以て左武衛上將軍とし、鄜州節度使焦繼勛を以て右武衛上將軍とし、前永興軍節度使趙贊を以て左驍衛上將軍とす。
三月己亥、徐州が部送して獲たる淮南都將李暉等三十三人を市に徇らしめ、衫帽を給して本土に放還す。是月、鄴都留守高行周・兗州符彥卿・鄆州慕容彥超・西京留守白文珂・鎮州武行德・安州楊信・潞州常思・府州折從阮皆みな鎮より来朝す、嘉慶節の故なり。戊午、群臣を永福殿に宴す、帝初めて楽を挙ぐ。壬戌、鄴都高行周は鎮を移して鄆州とし、兗州符彥卿は鎮を移して青州とし、並びに邑封を加う。甲子、西京留守白文珂・潞州常思・鎮州武行德並びに邑封を進め、鄆州慕容彥超は鎮を移して兗州とす。
夏四月戊辰朔、邢州薛懷讓は鎮を移して同州とし、相州郭謹・河陽李暉並びに邑封を進む。庚午、府州折從阮は鎮を移して鄧州とす。辛未、故深州刺史史萬山に太傅を贈る。先に、契丹辺に入り、萬山城守す、郭威は索萬進に騎七百を率いて深州に屯せしむ。一日、契丹数千騎州東門に迫る、萬山父子兵百余を率いてこれを襲う。契丹偽り退くこと十余里にして、伏兵発す、萬山血戦し、急ぎ萬進に救いを請う、萬進は兵を勒して出でず、萬山これに死す、契丹もまた解き去る。時論萬進を以て罪と為す、故に萬山に贈典を加う。壬申、華州劉詞は鎮を移して邢州とし、安州楊信は鎮を移して鄜州とし、貝州王令溫は鎮を移して安州とし、並びに邑封を加う。鄜州留後王饒を以て華州節度使とす、その来朝する故なり。丁丑、尚食奉御王紹隱を除名し、沙門島に流す、軍営女口を匿すに坐す。辛巳、宣徽北院使吳虔裕を以て鄭州防禦使とす。時に樞密使楊邠上章して樞機を解かんことを乞う、帝は中使をしてこれを諭さしめて曰く「樞機の職、卿を捨てて誰を用いん。忽ちこの章あり、人離間するものあらざるか」と。虔裕傍らに在りて揚言して曰く「樞密重地、久しく処るは難し、後に来る者をして叠居せしめ、相公の辞讓は是なり」と。中使還り具に奏す、帝悦ばず、故にこの命あり。壬午、樞密使郭威を以て鄴都留守とし、前の如く樞密使とす。詔して河北諸州に、応に兵甲・錢帛・糧草は一に郭威の処分に稟せしむ。癸未、府州永安軍額は停むべく、命じて降して團練州と為す。戊子、翰林學士承旨・戶部尚書王仁裕を罷職し、兵部尚書を守らしむ。左千牛上將軍張瓘卒す。庚寅、西南面水陸轉運使・尚書工部侍郎李穀を以て陳州刺史とす。左金吾上將軍致仕馬萬卒す。甲午、前華州節度使安審信を以て左衛上將軍とし、前潞州節度使張從恩を以て右衛上將軍とす。
五月戊戌朔、帝崇元殿に御し朝を受く。丙午、皇弟興元節度承使勛を以て開封尹とし、兼中書令を加う、未だ出閣せず。甲子、詔す「諸道州府散從官を差置す、大府は五百人、上州は三百人、下州は二百人、本処に勒して團集管系せしめ、節級を立てて檢校教習し、以て州城を警備せしむ」と。
閏月癸巳、京師大風雨あり、營舍を壞し、鄭門の扉を吹き起し、十数歩にして墮ち、大木数十を抜き、震死者六七人、水平地に尺余、池隍皆溢る。是月、宮中に怪物あり、瓦石を投じ、窓を撃ち扉を撼がし、人制すること能わず。
六月庚子、國子祭酒田敏を以て尚書右丞とす。癸卯、太僕卿致仕謝攀卒す、視朝を一日輟む。鄭州が奏上するに、河原武縣界に決す。乙卯、司天臺上言す、鎮星逆行し、太微左掖門外に至り、戊申年八月十二日より、太微西垣に入り、上將屏星執法を犯し、勾己往來し、己酉年十一月十二日夜に至り、方に左掖門を出で順行し、今年正月十日夜より、復た逆行して東垣に入り、左掖門に至ると。
秋七月庚午、河陽が奏上するに、河三丈五尺漲る。乙亥、滄州が奏上するに、積雨約一丈二尺。安州が奏上するに、溝河泛溢し、州城内水深七尺。丙子、帝崇元殿に御し、皇太后冊を授け、宰臣蘇逢吉に行礼せしむ。辛巳、三司使が奏上する「州縣令錄佐官、戸籍の多少に據り、量りて俸戸を定めんことを請う:縣三千戸已上は、令月十千、主簿八千;二千戸已上は、令月八千、主簿五千;二千戸已下は、令月六千、主簿四千。毎戸月に錢五百を出だし、並びに管内中等戸を以て充つ。錄事參軍・判司の俸錢は、州界令佐を視、その多き者を取りてこれを給し、その俸戸は縣司の差役を免ぜしむ」と。これに従う。
八月辛亥、蒙州城隍神を以て靈感王とす、湖南の請いに従うなり。時に海賊州城を攻む、州人神に禱る、城陷ちずを得、故にこの請いあり。辛酉、給事中陶穀上言し、五日內殿轉對を停めんことを請う。これに従う。壬戌、兵部侍郎於德辰を以て御史中丞とし、邊蔚を兵部侍郎とす。
九月辛巳、朗州節度使馬希萼が奏請するに、京師に別に邸院を置かんと。允さず。是の時、希萼はその弟湖南節度使希廣と方に鬩墻の怨みを構う、故にこの請いあり。帝は湖南に既に邸務あるを以て、更に置くべからず、ここによりて允さず、仍ち命じて詔を降し和解せしむ。
冬十月己亥、帝は近郊に狩猟す。丙午、湖南の馬希広、使者を遣わし上章し、且つ言う、荊南・淮南・広南の三道が結託し、湖・湘を分割せんと欲すと。聊か兵師を発し、以て援助と為さんことを乞う。時に朝廷は方に軍を起こさんと議し、内難に会し、果たして行わず。丁未、両浙の銭宏俶に諸道兵馬元帥を加う。戊申、彰徳軍節度使郭謹卒す。癸丑、以前同州節度使張彦赟を以て相州節度使と為す。辛酉、月、心大星を犯す。
十一月甲子朔、日食あり。乙丑、永州の唐将軍祠に太保を贈る、湖南の請いに従うなり。己巳、日南至、帝崇元殿に御し朝賀を受け、仗衛は式の如し。辛未、詔して侍衛歩軍都指揮使王殷に兵を将いて澶州に屯せしむ。丙子、枢密使楊邠・侍衛都指揮使史宏肇・三司使王章を誅し、其の族を夷す。是の日平旦、甲士数十人、広政殿より出で、東廡下に至り、邠等を閣内に害し、乱刃の下に死す。又、宏肇の弟小底軍都虞候宏朗・如京使甄彦奇・内常侍辛従審・楊邠の子比部員外郎廷侃・右衛将軍廷偉・右賛善大夫廷倚・王章の甥右領衛将軍旻・子婿戸部員外郎張貽粛・枢密院副承宣郭颙・控鶴都虞候高進・侍衛都承局荊南金・三司都勾官柴訓等を誅す。兵を分かち邠等の家属及び部曲傔従を収捕し、尽く之を戮す。少頃、枢密承旨聶文進、急に宰臣百僚を召し、崇元殿に班し、庭に宣して曰く、「楊邠・史宏肇・王章等、同謀叛逆し、宗社を危うくせんと欲す、並びに之を斬る、卿等と共に慶せん」と。班退き、諸軍将校を召して万歳殿に至らしめ、帝親ら史宏肇等が逆乱を謀らんとした状を諭し、且つ言う、「宏肇等、朕の幼少を欺き、専権擅命し、汝輩をして常に憂恐を懐かしむ、此より朕自ら汝等と主と為り、必ず横憂無からん」と。諸軍将校拝謝して退く。前任の節度使・刺史・統軍等を召し上殿して之を諭す。帝、軍士を遣わし宮城諸門を守捉せしむ、比近日旰、朝臣歩み出で宮門より去る。是の日晴霽にして雲無し、而して昏霧濛濛、微雨有るが如く、人情惴恐す。日将に午ならんとす、楊邠等十余の屍を載せ、分かち南北の市に暴す。是の日、帝、腹心を遣わし密詔を賫して澶州・鄴都に往かしめ、澶州節度使李洪義に令して侍衛歩軍都指揮使王殷を誅せしめ、鄴都屯駐護聖左廂都指揮使郭崇・奉国左廂都指揮使曹英に令して枢密使郭威及び宣徽使王峻を害せしむ。急に詔して鄆州の高行周・青州の符彦卿・永興の郭従義・兗州の慕容彦超・同州の薛懐譲・鄭州の呉虔裕・陳州の李穀等を闕に赴かしむ。宰臣蘇逢吉を以て権知枢密院事と為し、前青州の劉銖を以て権知開封府事と為し、侍衛馬軍都指揮使李洪建を以て判侍衛司事と為し、内客省使閻晋卿を以て権侍衛馬軍都指揮使と為す。
丁丑、澶州節度使李洪義、密詔を受くるを得、事克たざるを知り、乃ち使人を引いて王殷に見ゆ。殷と洪義、本州副使陳光穂を遣わし、受けし密詔を賫し、馳せて鄴都に至らしむ。郭威之を得、即ち王峻・郭崇・曹英及び諸軍将校を召し、牙署に至り詔を視し、兼ねて楊・史諸公の冤枉の状を告げ、且つ曰く、「汝等まさに詔旨を奉行し、予が首を断ちて以て天子に報い、自ら功名を取れ」と。郭崇等と諸将校前に進みて曰く、「此の事必ずや聖意に非ず、即ち是れ李業等の窃発なり、仮令此輩便ち権柄を握らば、国安んぞ得んや。事は陳論すべし、何ぞ自棄を須いん、千載の下に此の悪名を被らしむるに致さん。崇等願わくは公に従い入朝し、面自ら洗雪せん」と。ここに将校等、威に入朝を請い、以て君側の悪を除き、共に天下を安んぜんとす。翌日、郭威、衆を以て南行す。戊寅、鄴兵澶州に至る。庚辰、滑州に至る、節度使宋延渥門を開き迎え降る。是の日、詔して前開封尹侯益・前鄜州節度使張彦超・権侍衛馬軍都指揮使閻晋卿・鄭州防禦使呉虔裕等に、禁軍を率い澶州に赴き守捉せしむ。
辛巳の日、帝の小豎嵒脱が北より帰還す。先に、帝は嵒脱を遣わして鄴軍の至る所を偵察せしめしが、遊騎に捕らえられ、郭威は直ちにこれを返し、因って闕に赴かんとする意を附奏せしめ、密奏を以て嵒脱の衣領の中に置かしむ。帝、奏を覧て、即ち李業を召して示し、聶文進・郭允明傍に在りて、懼色を形す。初め車駕を澶州に幸せんことを議す。及び鄴兵既に河上に至ると聞きて、乃ち止む。帝大いに懼れ、私に宰臣竇貞固等に謂ひて曰く、「昨来の事、太だ草草たり」と。李業等、帝に請ひて府庫を傾けて諸軍に給せしむ。宰相蘇禹珪は未だ可ならずと為す。業、帝前において禹珪に拝し、曰く、「相公暫く官家の為にせよ、府庫を惜しむ莫れ」と。遂に令を下して、侍衛軍人に二十緡を給し、下軍各十緡を給し、其の北来の将士も亦此に準ず。仍て北来の将士の営中に在る子弟を遣はし、各其の家問を賫して、北に向かひて之を諭さしむ。壬午、鄴軍封丘に至る。慕容彦超、鎮より馳せ至り、帝遂に軍旅の事を之に委ぬ。(《宋史・侯益伝》に云ふ、周太祖兵を起こす。隠帝師を出して之を禦がんことを議す。益計を献じて曰く、「王者は天下に敵無し、兵は軽々しく出すべからず、況んや大名の戍卒、家屬盡く京城に在り、関を閉ぢて其の鋭を挫き、其の母妻を遣はして降を発して之を招かば、戦はずして定まるべし」と。慕容彦超は益の衰老して懦夫の計を作し、之を沮むと以為ふ。)彦超、帝に謂ひて曰く、「陛下憂ふる勿れ、臣当に其の魁首を生致せん」と。彦超退き、聶文進に会ひ、北来の兵数及び将校の名氏を詢ね、文進之を告ぐ。彦超懼れて曰く、「大いに是れ劇賊なり、軽んずべからず」と。又た袁鳷・劉重進・王知則等を遣はして師を出し、以て前軍に継がしむ。慕容彦超、大軍を以て七里郊に駐め、塹を掘りて以て自ら衛る。都下、率ひて坊市酒食を出して以て軍に餉る。癸未、車駕軍を労ひ、即日宮に還る。翌日、慕容彦超言を揚げて曰く、「官家宮中に事無し、明日再び出で、臣が賊を破るを見よ」と。甲申、車駕復た出で、七里店の軍営に幸す。王師、劉子陂に陣し、鄴軍と相望む。太后、帝の晩に至るまで外に在るを以て、中使を遣はし聶文進に謂ひて曰く、「賊軍近くに在り、大いに意を用ふべし」と。文進曰く、「臣在り、必ず策を失はず、縦ひ一百の郭威有るとも、亦当に之を生擒すべし」と。彦超軽脱にして、先づ北軍を撃つ。郭威、何福進・王彦超・李筠等に命じ、大いに騎を合はせて以て之に乗ず。彦超退卻し、死者百餘人。是に於て諸軍気を奪はれ、稍稍として北軍に奔る。呉虔裕・張彦超等相継ぎ去り、慕容彦超は部下十数騎を以て兗州に奔る。是の夜、帝は宰臣従官と野次に宿し、侯益・焦継勛は潜かに鄴軍に奔る。
乙酉の暁、帝馬を策して元化門に至る。劉銖門上に在り、帝の左右に問ひて「兵馬何れの処にか在る」と。乃ち左右を射る。帝回り、蘇逢吉・郭允明と西北の村舎に詣る。郭允明、事の濟まざるを知り、乃ち刃を帝に剚して崩ず。時に年二十。蘇逢吉・郭允明皆自殺す。是の日、周太祖迎春門より入り、諸軍大いに掠め、煙火四発し、翌日晡に至りて方に定まる。前滑州節度使白再筠、乱兵の害する所と為り、吏部侍郎張允は屋より墜ちて死す。周太祖既に京城に入り、有司に命じて帝の梓宮を太平宮に遷さしむ。或ひは曰く、「魏の高貴郷公の故事に依り、公礼を以て之を葬るべし」と。周祖曰く、「予が顛沛の中に在りて、至尊を護衛する能はず、以て此に至る。若し又た貶降せば、人我を何と謂はん」と。是に於て詔して日を択びて哀を挙げしめ、前宗正卿劉皞に喪を主らしむ。丙戌、太后誥して曰く、
今者、郭威、王峻、澶州節度使李洪義、前曹州防禦使何福進、前復州防禦使王彦超、前博州刺史李筠、北面行営馬歩都指揮使郭崇、歩軍都指揮使曹英、護聖都指揮使白重贊・索萬進・田景鹹・樊愛能・李萬全・史彦超、奉国都指揮使張鐸・王暉・胡立、弩手指揮使何赟等、徑に兵師を領し、来たりて社稷を安んず。逆党皇城使李業・内客省使閻晉卿・樞密都承旨聶文進・飛龍使後贊・翰林茶酒使郭允明等、君を大内に脅し、近郊に出でて戦ひ、力窮まるに及び、遂に弒逆を行ふ。冤憤の極み、今古未だ聞かず。
今則ち兇党既に除かれ、群情共に悦ぶ。神器は主無きべからず、萬機は久しく曠くべからず。宜しく賢君を択び、以て天下を安んずべし。河東節度使崇・許州節度使信は皆高祖の弟、徐州節度使赟・開封尹承勛は高祖の男、俱に盤維に列し、皆屏翰に居る。宜しく文武百辟をして、嗣君を議択せしめ、以て大統を承けしむべしと云ふ。
枢密使郭威は、宮中の変乱が起こり、宗廟に奉ずる者がいないことを以て、群臣を率いて太后に伺候し、立てるべき者を定めることを請い、且つ言うには、「開封尹承勛は、高祖皇帝の愛子なり、これを嗣と為すことを請う」と。太后は承勛が病弱にして久しく、自ら挙げること能わざることを告げる。周太祖と諸将は承勛の起居を視ることを請い、これを見て初めて信じ、遂に高祖の従子、徐州節度使贇を嗣と為すことを議す。己丑、太后誥して曰く、「天未だ禍を悔い改めず、喪乱多く、嗣王幼沖にして、群兇蔽惑し、造次に奸謀を構え、斯須に毒蠆を放ち、将相大臣は連頸して戮を受け、股肱の良佐は罪なくして屠られ、行路諮嗟し、群心扼腕す。すなわち高祖の洪烈将に地に墜んとす。大臣郭威等に頼り、忠義を激揚し、顛危を拯済し、悪蔓を除いて遺すことなく、綴旒の絶えざらしむ。宗祧の事重く、纘継の才難し。将相の謀を聞き、復た蓍亀の兆を考うるに、天人協賛し、社稷是れ依る。徐州節度使贇は、上聖の資を稟け、中和の徳を抱き、先皇子の如く、鐘愛特深し、固より以て兆民を子育し、万国に君臨すべし。宜しく所司に令して日を択び法駕を備え奉迎し、即ち皇帝位に即かしむべし。於戲、神器至重く、天歩方に艱し。理を致し邦を保つは、敬せざるべからず、謀を貽し政を聴くは、勤めざるべからず。厥の中を允に執り、景命を祗膺せよ」と。是日、前太師馮道等を遣わし徐に往きて奉迎せしむ。周太祖は嗣君未だ至らず、万機暫くも曠くすべからざるを以て、群臣を率いて太后の臨朝を請う。誥答して曰く、「昨奸邪構釁し、我が邦家を乱し、勲徳忠を効し、兇慝を剪除す。人欲に俯従し、已に嗣君を立て、宗社危くして再び安んじ、紀綱壊れて復た振う。皇帝の法駕未だ至らず、庶事方に殷し。百辟上言し、予の政に蒞ることを請う。宜しく輿議に允し、権に万機を総べ、止むこと浹旬に於て、即ち復た明辟す」と云う。前代の故事に按ずるに、太上皇は誥と称し、太皇太后・皇太后は令と曰う。今誥と云うは、有司の誤りなり。宣徽南院使王峻を以て枢密使と為し、右神武統軍袁鳷を以て宣徽南院使と為し、陳州刺史李穀に三司を権判せしめ、歩軍都指揮使王殷を以て侍衛親軍馬歩都指揮使と為し、護聖左廂都指揮使郭崇を以て侍衛馬軍都指揮使と為し、奉国左廂都指揮使曹英を以て侍衛歩軍都指揮使と為す。鎮州・邢州馳奏す、契丹洺州を寇し、内丘県を陥とす。時に契丹の永康王烏裕部族を率いて両道より辺境に入る。内丘城は小なりと雖も固く、契丹これを攻め、五日にして下らず、敵人の傷者甚だ衆し。時に官軍五百、城に在りて防戍す。攻め急なるに、官軍敵に降り、其の城を屠りて去る。
十二月甲午朔、郭威大軍を率いて北征す。丁酉、翰林学士・尚書戸部侍郎・知制誥範質を以て枢密副使と為す。陝州李洪信奏す、馬歩都指揮使聶召・奉国指揮使楊徳・護聖指揮使康審澄等、節度使判官路濤・掌書記張洞・都押衙楊紹等と同情して謀叛し、並びに之を殺す。惟だ康審澄は夜中に火を放ち関を斬り、京師に奔帰す。初め、朝議諸道方鎮は皆勲臣にして政理に諳ぜず、其の都押衙孔目官は、三司軍将の内より才を選び補うべしとす。藩帥悦ばず、故に洪信朝廷多故に因り、誣奏して害を加う。壬寅、湖南上言す、朗州馬希萼五谿蛮及び淮南洪州軍を引き来たりて当道を攻む。望むらくは兵士を量差し淮境に於て牽引せしむべしと。乙巳、前淄州刺史陳恩譲を遣わし軍を領して淮南界に入り、便宜に進取せしむ。辛亥、宰相蘇禹珪及び朝臣十員を遣わし宋州に往きて嗣君を迎奉せしむ。壬子、枢密使郭威澶州に次ぐ。何福進已下及び諸軍将士、威を扶擁し天子たることを請う。即日南還す。威太后に章を上り、諸軍に迫られて班師すとを言う。庚申、威北郊に至り、軍を臯門村に駐む。許州巡検・前申州刺史馬鐸奏す、節度使劉信自殺すと。壬戌、太后の誥を奉じ、枢密使侍中郭威に命じて国を監せしむ。中外の庶事、並びに監国の処分を取る。是に先立ち、枢密使王峻は湘陰公既に宋州に在るを以て、澶州の事を聞けば左右変生するを慮り、侍衛馬軍指揮使郭崇に七百騎を率いて往きて之を衛わしむ。己未、太后誥して曰く、「比者、枢密使郭威は、志社稷を安んじ、長君を立てんと議し、徐州節度使贇を以て、高祖の近親なるを以て、漢の嗣と為し、爰に藩鎮より、京師に征赴せしむ。誥命尋いに行わるれども、軍情附かず。天道は北に在り、人心東に靡かず。改卜の初に当たり、俾くは分土の命を膺けしむ。贇は降授して開府儀同三司・検校太師・上柱国と為し、湘陰公に封じ、食邑三千戸、食実封五百戸とすべし」と。
翌年の正月丁卯の日、太后の誥により、符璽を監国に奉じて、皇帝の位に即くべしと。周の太祖が践祚し、太后を母として奉じて西宮に遷し、上尊号して昭聖太后と曰う。この月の十五日、周の太祖は百官を率いて帝の殯宮に詣で、喪服を着て親しく奠し、七日間朝政を視ず。また太常に詔して諡を定めしめ、「隠」と曰う。その年の八月二日、また前宗正卿の劉皞を遣わして霊柩を護らせ、儀仗を備え、許州陽翟県の潁陵に葬り、高祖の寝宮に神主を祔せしむ。帝の姿貌は白晰にして、眉目は疏朗たり。即位せざる時は、目多く閃掣し、唾洟止まず。即位の初め、忽ちこの態無し。内難将に作らんとするに及び、また故の如し。帝は関西平定の後より、稍々自ら驕易す。然れども大臣を畏憚し、未だ恣に縱せず。嘗て乾象の差忒に因り、宮中或は怪異有り。司天監の趙延乂を召して其の休咎を訊ねしに、延乂は修徳すれば即ち患無しと対ふ。既に退きて、中使を遣わして就きて延乂に問わしめて曰く、「何をか徳と為す」と。延乂は『貞観政要』を読むことを勧む。爾来、聶文進・郭允明・後贊と狎習し、其の邪説を信じ、以て敗るるに至る。高祖の鄴城を征するや、一日、帝、太祖に語りて曰く、「我、夜来、爾が驢と為り、我を負いて天に昇るを夢む。既に爾を捨つるや、俄かに龍に変じ、我を捨てて南去す。是れ何の祥ぞや」と。周の太祖は撫掌して笑ふ。冥符蚃たり、豈に偶然ならんや。
史臣曰く、隠帝は尚ほ幼き年を以て、新造の業を嗣ぐ。命を受くるの主、徳は禹・湯に非ず。政を輔くるの臣、復た伊・呂に非ず。将に洪運を保ち延べ、抜くべからざる基を守らんと欲すれども、固より得べからざるなり。然れども西に三叛を摧き、僅かに欃槍に滅ぶるも、内に群兇を稔らせ、俄かに自ら狼狽を取る。古より覆宗絶祀の速き者、未だ帝の甚だしきが如きは有らざるなり。噫、蓋し人謀の臧ならざるなり、天命の遽かに奪ふに非ざるなり。