舊五代史

晉書しんじょ二十四: 列傳十三 安重榮 安從進 張彥澤 趙德鈞 張礪 蕭翰 劉晞 崔廷勳

安重榮

安重榮は朔州の人である。祖父の從義は利州刺史、父の全は勝州刺史・振武蕃漢馬步軍都指揮使であった。重榮は膂力があり、騎射に長じていた。唐の長興年間、振武道巡邊指揮使となり、罪を犯して獄に下された。時に高行周が帥であったが、彼を殺そうとしたところ、その母が朝廷に赴き申し告げ、樞密使安重誨が密かに庇護した。張敬達が晉陽を包囲した時、高祖こうそは重榮が代北にいることを聞き、人を遣わして誘った。重榮は辺境の兵士を召集し、千騎を得て赴いた。高祖は大いに喜び、土地を与えることを誓った。即位すると、成德軍節度使を授け、累進して使相に至った。梁・唐以来、藩侯や郡牧は多く勲功によって授けられ、治道を明らかにせず、例として左右の群小に惑わされ乱され、官を売り獄を鬻ぎ、民衆を搾取し、概ね貪猥の名があり、その実、賄賂の半分は下に帰していた。ただ重榮は自ら鉤距を働かせ、凡そ争訟があれば多く朝廷で弁論させ、倉庫の消耗や利益、百姓の課役・徭役に至るまで悉く己に入れ、諸司は窺い覗うことを敢えてしなかった。かつて夫婦共にその子の不孝を訴えた者があった。重榮は面と向かって詰責し、剣を抜いて自ら殺すよう命じた。その父は泣いて曰く「忍びない」と。その母は罵詈し、剣を杖にして追いかけた。重榮は怪しんで問うと、それは継母であった。そこで叱り出し、自ら後を射て、一箭で斃した。聞く者、快意とせざるはなかった。これにより境内では強明と為し、大いに民情を得た。重榮は軍伍より起こり、突然富貴を得、また累朝が節鎮より急に大位に昇るのを見て、常に人に謂いて曰く「天子とは、兵強馬壮の者が為すべきもので、寧ろ種族があろうか」と。また奏請が過当であったため、権臣に否決され、心常に憤憤として、遂に亡命の徒を蓄え集め、戦馬を買い集め、飛揚跋扈の志を抱いた。暴怒に因って部校の賈章を殺し、謀叛として上聞したことがあった。章には一人の娘があり、時にこれを赦そうとしたが、女は曰く「我が家三十口、兵乱を経て死者二十八口、今父が刑に就く、この身を存するも何の為ぞ」と。再三死を請うたので、これも殺した。鎮人はこれにより重榮の残酷を憎み、賈の女の烈節を称えた。

天福年間、朝廷は契丹を姑息し、辺塞の安定に務めた。重榮は蕃使を見る毎に必ず箕踞して慢罵した。折しも美棱の数十騎がその境内を通り、言葉を交わして不遜であったため、悉くこれを殺した。契丹主は大いに怒り、朝廷を責め詰問した。朝廷は隠忍し、直ちに罪を加えなかった。重榮は密かに吐渾等の諸族を構え、援助と為し、上表してこれを論じた。その概略は次の通りである。

臣が先般、熟吐渾節度使白承福・赫連公德等が各々本族三万余帳を率い、応州の地界より奔って王化に帰したことを拠った。続いて生吐渾並びに渾葜・両突厥三部落、南北将沙陀・安慶・九府等が各々部族の老小並びに牛羊・車帳・甲馬を率い、七八路より慕化して奔り帰り、俱に五臺及び当府の地界以来に安泊したことを準えた。累次告労に拠り、契丹に残害され、生口を平らかに取り、羊馬を略奪され、凌害甚だしきことを具に説く。また今年二月以後、強壮を点検させ、人馬衣甲を置き辦し、上秋に南行営に向かうことを告げ報せられた。諸蕃部等は実に上天の祐け無きを恐れ、殺敗の後、例に随って家族を存せざるを恐れ、所以に予め帰順し、兼ねて府族に随い、各々強壮の人馬を量り点検すること約十万衆。また沿河の党項及び山前・山後・逸利・越利の諸族部落等の首領は、並びに人を差し各々契丹の授けた官告・職牒・旗号を持って来て送納し、例皆号泣して告労し、契丹に凌虐されたと称し、憤惋已まず、情願して甲馬を点集し、会合して殺戮せんとす。続いてまた朔州節度副使趙崇が本城の将校と共に偽節度使劉山を殺し、尋いで軍城を安撫し、朝廷に帰することを乞うた。臣は相次いで具に奏聞した。先般宣頭及び累次の聖旨を奉り、臣に凡そ契丹との往復有らば、更に承奉すべく、彼が頭角を生ずるを俟ち、自ら釁端を起こすを欲せず、初終を貴び、信誓を愆らさざるべしと。睿旨を仰ぎ認め、深く瑕を匿うことを惟うも、其れ天道人心の如きは、至って残を勝ち虐を去るを務むるに、須らく機は失うべからず、時は再び来たらずを知るべし。窃かに諸蕃は招呼せずして自ら至り、朔郡は攻伐せずして自ら帰るは、蓋し人情に係り、尽く天意に由る。更に諸々の蕃に陷ったる節度使等を念うに、本より勲労有り、早く富貴に居り、辺塞に没身し、酷虐に遭うこと尋常に異なり、朝廷に企足し、傾輸を冀うて已まず、檄を伝え聞くが如く、尽く戈を倒さんことを願う。臣の如きは雖も愚蒙なれど、粗く可否を知り、忌諱を思わず、丹衷を罄き書き、細かに敷陳を具し、万一に裨益せんことを冀う。

その表は数千言に及び、大略高祖が臣と称し表を奉り、中国の珍異を尽くして契丹に貢献し、漢人を凌虐して竟に厭足無きことを指斥した。またこの意を以て書と為し、諸朝貴及び藩鎮諸侯に遺した。高祖はその変を憂い、遂に鄴都に幸して詔を以てこれを諭し、凡そ十度に及んだ。その概略は「爾は身大臣たり、家に老母有り、忿って難を思わず、君と親を棄つ。吾は契丹に因りて基業を興し、爾は吾に因りて富貴を得たり。吾は敢えて忘れず、爾は忘るる可きや。且つ前代の和親は、只だ辺を安んずる為なり。今吾は天下を以て之に臣す。爾は一鎮を以て之に抗せんと欲す。大小等しからず、自ら辱しむる無かれ」と。重榮は愈々恣縱して悛まらず、此の奏有りと雖も、亦密かに人をして契丹の幽州帥劉晞と結托せしめた。蓋し重榮には内顧の心有り、契丹は我が多事を幸い、復た中国を侵吞せんと欲し、契丹の重榮を怒るも、亦本志に非ざりき。時に重榮は嘗て北来の蕃使と並轡して行き、飛鳥を指して射れば、弦に応じて落ち、観る者万众、快抃せざるは無く、蕃使は因って乗ずる所の馬を輟めて以てこれを慶し、これにより名北方に振るい、自ら天下は一箭を以て定む可しと謂う。また重榮は素より襄州の安從進と連結し、從進が将に起兵を議すと聞くに及び、奸謀は乃ち決した。

天福六年の冬、大いに境内の飢民を集め、その数は数万に至り、旌旗を掲げて朝廷に向かい、入朝すると声高に言い放った。朝廷は杜重威に軍を率いてこれを防がせ、宗城において遭遇した。軍がようやく陣を成したとき、賊将趙彥之が陣前で旗を巻き、来奔する者があった。重榮が戦おうとしたところ、彥之が己を裏切ったと聞き、大いに恐れ、輜重の中に退いた。官軍はこれに乗じて撃ち、一鼓の下に潰えた。重榮は十余騎を従えて北へ逃走し、その部下の兵卒は厳冬の寒気に襲われ、殺戮され凍死する者二万余人に及んだ。重榮は鎮州に至り、牛馬の皮を取って急いで甲冑とし、郡人に命じて夾城を分守させ、官軍を待った。(《宋史·解暉傳》に曰く、安重榮が鎮州で反逆し、兵を挙げて朝廷に向かい、宗城に至った。晋の軍が迎え撃ち、大いにこれを破った。暉は軍中の壮士百余りを募り、夜に賊の塁を襲い、多くを殺し捕らえた。暉は頻りに流れ矢に当たりながらも、督戦して自若とし、顔色も撓まず、功により列校に昇進した。)杜重威が到着すると、部将が西郭の水門から官軍を引き入れた。守塀の百姓一万余人を殺し、重威はまもなく案内者を害し、自らその功を収めた。重榮は吐渾数百を擁し、牙城に匿れたが、重威が人を遣わして襲撃し捕らえ、首を斬って進上した。高祖は楼に臨んでその捕虜と首級を検分し、露布を宣した後、その頭顱を漆塗りにし、函に入れて契丹に送った。(《五代史補》に曰く、安重榮が出鎮して以来、常に不軌の計を懐き久しかったが、ただ発しなかった。間もなく、厩舎に朱鬃の白馬が産まれ、黒い鴉が五色の雛を生み、これを鳳と為した。そこで欣然として天命が己に在ると謂い、遂に兵を挙げて反した。指揮して宗嶺の路を取って朝廷に向かわせた。時に父老がこれを聞き、往々ひそかに議して曰く、「事は調わぬであろう。しかも王の姓は安である。鞍は背を得てこそ穩やかなのに、何故貝州の路を取らぬのか。もし宗嶺によるならば、これは鞍が鬃に及ぶことであり、危うからざるを得まい」と。未だ幾ばくもせず、官軍の先鋒と遭遇し、一戦にして敗れた。)

安從進

安從進。(《歐陽史》に曰く、從進はその先祖は索葛部の人である。初め莊宗に事えて護駕馬軍都指揮使となり、貴州刺史を領した。明宗の時は保義彰武軍節度使となった。湣帝が即位すると、順化に転じた。清泰年間、山南東道に転鎮した。晋の高祖が即位すると、同中書門下平章事を加えられた。)天福六年、高祖が鄴に行幸し、安重榮を討った。少帝が鄭王として京師を留守した。時に和凝が高祖に請うて曰く、「陛下が北征なさるに当たり、臣は安從進が必ず反逆すると見積もります。如何にしてこれを制しますか」と。高祖曰く、「卿の意は如何にせんとするか」と。凝曰く、「臣が兵法に聞くところでは、先んずる者は人を奪うと申します。願わくは陛下が空名の宣敕十通を鄭王に授け、急あれば則ち将を命じて往かせられますように」と。從進は高祖が北へ往かれたと聞き、遂に反逆した。少帝は空名の宣敕を李建崇・郭金海に授けてこれを討たせた。從進は兵を引いて鄧州を攻めたが、克たず、湖陽に進んだ。建崇らと遭遇し、大いに驚き、神速であると思い、また野火に焼かれたため、遂に大敗し、從進は自ら焼死した。

張彥澤

張彥澤は、その先祖は突厥より出で、後に太原の人となった。祖父・父は代々陰山府の裨将であった。彥澤は若くして勇力があり、目は黄色く夜には光る色があり、顧みる様は鷙獣の如くであった。騎射をもって後唐の莊宗・明宗に事え、従軍して戦功があり、引き続き郡守を領した。高祖が即位すると、抜擢されて曹州刺史となった。楊光遠に従って鄴で範延光を包囲し、功により華州節度使を授けられ、間もなく涇州に転鎮し、累官して検校太保に至った。

張式という從事がおり、宗族の分けとしてその知遇を受けた。時に彥澤に子が内職にあったが、平素より父の意に叶わず、数度笞撻を加えられた。その楚毒を恐れ、外地に逃げ隠れたが、齊州で捕らえられて朝廷に送られ、勅旨により罪を釈放され、父の許へ帰された。彥澤は上章して、朝典を行うことを請うた。式は名教を傷つけるとして、屡々諫めて止めさせた。彥澤は怒り、弓を引いてこれを射んとし、式は辛うじて免れた。間もなく人を遣わして式を衙門から追い出させた。式は自ら賓従として、彥澤は庶務を委ねていたが、左右の群小は久しくこれを憎んでおり、このため讒言を構え、互いに迫脅して来て云うには、「書記もし速やかに出でざれば、断じて必ず屠害に遭うであろう」と。式はそこで病を告げて医を求め、妻子を携えて衍州へ奔らんとした。彥澤は指揮使李興に二十騎を率いてこれを追わせ、戒めて曰く、「張式もし命に従わざれば、即ち首を斬り取って来よ」と。式は刺史に懇願し、遂に人を差して援護し汾州まで送らせた。節度使李周は駅騎をもって朝廷に上聞した。朝廷は彥澤を姑息する故に、勅を下して式を商州に流した。彥澤は行軍司馬鄭元昭を遣わして朝廷に論請させ、面奏して云うには、「彥澤もし張式を得ざれば、恐らく不測を致すであろう」と。高祖は已むを得ずこれに従った。既に到着すると、口を抉り心を割き、手足を断ってこれを死なせた。式の父鐸は朝廷に赴き冤罪を訴えた。朝廷は王周を代わりに任じた。周が任に着くと、彥澤の郡における悪跡二十六条、逃散した五千余戸を奏上した。彥澤は既に朝廷に赴いたが、刑法官李濤らが上章してその罪を理めることを請うた。高祖は制を下し、ただ一階一爵を削奪するのみと命じた。時にこれを失刑と為した。

少帝が即位すると、桑維翰が再びこれを推挙し、間もなく安陽に出鎮させた。既に到着すると、士大夫に折節し、境内に治まると称され、直ちに命じて軍を率い北に屯して恒・定に駐めた。時に易州は地勢が孤立し、漕運が続かず、制令により邢・魏・相・衛の州が飛免をもってこれを輸送した。百姓は荷を担いで路に累累とし、彥澤は毎度これに援けを行い、疲労困憊している者を見れば、その部衆に代わって助けさせた。北辺に至っては、百姓を深入りさせず、即ち騎士に馬に糧を負わせて去らせた。往来は既に速く、且つ邀奪の患いも無く、聞く者はこれを嘉した。陽城の戦いでは、彥澤の功は諸将の右に出で、その後敵と接戦し、頻りに捷報を朝廷に献上した。皆、彼が高祖の殺さざる恩を感じ、往年の過ちを補っていると謂った。開運三年の冬、契丹が既に南牧し、杜重威の軍は瀛州に駐屯した。彥澤は契丹に唆され、密かに既に変心していた。そこで契丹に通款し、先導を請うた。因って騎兵を促して重威を説き、軍を率いて滹水に沿って西へ常山を援けさせ、既にして重威と通謀した。官軍が中渡で降伏すると、契丹主は彥澤に二千騎を統率させて京師に急行させ、少帝を制し、且つ公卿兆民に存撫の意を示させた。彥澤はこの年の十二月十六日夜、封丘門より関を斬って進入し、兵をもって宮城を包囲した。翌日、帝を開封府の邸宅に遷した。凡そ内帑の奇貨は悉く輦車で私邸に運び帰り、なお軍を放って大掠させ、二日にしてようやく止んだ。(《東都事略·李處耘傳》に云う、京師に居て、張彥澤の暴虐に遇う。處耘は善く射る、独り裏門に当たり、数十人を殺し、里中はこれに頼った。)時に桑維翰は開封尹であった。彥澤はこれを麾下に召し、礼をもって遇さなかった。維翰は責めて曰く、「去年、公を罪人の中より抜き、再び大鎮を領せしめ、兵権を授けた。何の恩に背くことか、ここに至るまで甚だしいのか」と。彥澤は答える言葉が無かった。この夜、維翰を殺し、その家財をことごとく取り尽くした。

彦澤は自ら契丹に功ありと謂ひ、昼夜酒楽を以て自ら娯しむ。京師巡検の任に当たる時、出入りの騎従常に数百人、旗幟の上に題して『赤心為主』と曰ふ、観る者窃かに笑はざるなし。又、居する第宅には、財貨山の如く積む。楚國夫人丁氏は、即ち少帝の弟曹州節度使延煦の母にして、容色有り、彦澤人を遣はして之を取らしむ。太后は猶予して与へず、彦澤直ちに人を遣はし車に載せて去らしむ。其の国に背き君を欺くこと是の如し。数日の内に、恣に殺害を行ひ、或ひは軍士罪人を擒へ獲て前に至らしむるも、彦澤は犯したる所を問はず、但だ目を瞋らし一手を出だして三指を豎つるのみ。軍士其の意を承け、即ち出でて其の腰領を断つ。彦澤は偽の閣門使高勛と協せず、因りて酔ひを乗じて其の門に至り、其の仲父・季弟を害し、屍を門外に暴く。契丹の帳が北郊に泊するに及び、勛往きて其の冤を訴ふ。時に契丹主は既に彦澤の京城を剽掠するを怒り、遂に之を鎖すことを令す。仍て彦澤の罪悪を百官及び京城の士庶に宣示し、且つ云く「彦澤の罪、誅に合すや否や」と。百官状を連ね具に言ふ、罪は赦すべからざるに在りと。市肆の百姓も亦争ひて状を投じ、彦澤の罪を疏す。戎王其の衆怒を知り、遂に市に棄つることを令し、仍て高勛に監決を令す。腕を断ち鎖を出だし、然る後に之を刑す。勛人をして其の心を剖きて以て死者を祭らしむ。市人は其の肉を争ひて食らふ。

趙德鈞

趙德鈞、本名は行実、幽州の人なり。少くより騎射を以て滄州連帥劉守文に事へ、守文が弟守光に害せらるるに及び、遂に守光に事へ、署せられて幽州軍校と為る。唐の莊宗幽州を伐つに及び、德鈞其の必ず敗るるを知り、乃ち遁れて莊宗に帰す。莊宗之を善く遇し、姓を賜ひ、名づけて紹斌と曰ふ。累ね郡守を歴任し、梁を平ぐるに従ひ、遷りて滄州節度使と為る。同光三年、鎮を移して幽州に鎮す。明宗即位し、遂に本姓に帰し、始めて名を德鈞と改む。其の子延壽は明宗の女興平公主を尚ふ、故に德鈞は特に倚重を承く。天成中、定州の王都反す。契丹惕隠を遣はし精騎五千を領して来り都を援け、唐河に至り、招討使王晏球に敗れらる。時に霖雨相継ぎ、所在泥濘たり。敗兵北に走り、人馬饑疲す。德鈞要路に於て之を邀へ、余衆を尽く獲、特哩袞已下の首領数十人を擒へ、京師に献ず。明年、王都平ぐ。兼侍中を加へ、頃くして、東北面招討使を加ふ。

德鈞奏して河北数鎮の丁夫を発し、王馬口より遊口に至るを開き、以て水運を通ずること凡そ二百里。又、閻溝に於て壘を築き、以て戍兵をして之を守らしめ、因りて名づけて良郷県と為し、以て鈔寇に備ふ。又、幽州の東に三河城を築き、北は薊州に接し、頗る形勝の要たり。部民是に由りて稍く樵牧を得。德鈞幽州に鎮すること凡そ十余年、甚だ善政有り。累官して検校太師・兼中書令に至り、北平王に封ぜらる。清泰三年夏、晉高祖晉陽に起義す。九月、契丹張敬達の軍を太原城下に敗る。唐の末帝詔して德鈞に本軍を以て飛狐路より出で賊の後を邀へしむ。時に德鈞の子延壽は枢密使たり。唐の末帝命じて軍を帥ひ上党に屯せしむ。德鈞乃ち将する所の銀鞍契丹直三千騎を以て鎮州に至り、節度使華温琪を率ひ同しく征行に赴き、呉児峪路より昭義に趨り、延寿と西唐店に会す。十一月、德鈞を諸道行営都統と為し、延寿を太原南面招討使と為し、端明殿学士呂琦を遣はし官告を賫賜せしめ、兼ねて軍を犒はしむるを令す。琦従容として天子の委任の意を言ふ。德鈞曰く「既に兵を以て相委ぬ、焉んぞ死を惜しまんや」と。時に範延光兵二万を領して遼州に軍す。德鈞其の軍を併せんと欲し、奏して延光と会合せんことを請ふ。唐の末帝延光に諭すも、其の奸謀を疑ひ、従はず。德鈞・延寿潞州より軍を引いて団柏谷に至る。德鈞累ね奏して延寿に鎮州節度を授けんことを乞ふ。末帝悦ばず、左右に謂ひて曰く「趙德鈞父子堅く鎮州を要す。苟くも蕃戎を逐ひ退くる能はば、予が位に代らんことを要するも、亦甘心すべし。若し寇を玩び君を要せば、但だ犬兔俱に斃るるを恐るるのみ」と。朝廷継ぎて書詔を馳せ、進軍を促すことを令す。德鈞持疑して果たさず、乃ち使いを契丹に遣はし、厚く金幣を賫し、立たれて帝と為らんことを求め、仍て晉祖に長く太原に鎮せしむるを許す。契丹主之を許さず。

楊光遠が晉安寨において契丹に降伏すると、德鈞父子は團柏谷より南へ潞州に走り、一行の兵士は戈を投げ甲を棄て、自ら互いに踏み躙り合い、死する者数万に及んだ。時に德鈞に愛将の時賽あり、軽騎を率いて東へ漁陽に還り、その部曲なお千余人あり、散亡の士卒とともに潞州に集まった。この日、潞州節度使高行周もまた北より還り、府門に至るや、德鈞父子が城上にいるのを見て、行周はこれに謂いて曰く、「某は大王と同郷人なり、宜しく忠言を以て告げるべし、城中に斗粟も食うべきなし、請う大王速やかに車駕を迎え、自ら安んずる計を図り、後悔を取ることなかれ」と。德鈞は遂に延壽とともに出でて契丹に降った。高祖至るや、德鈞父子は馬前に迎謁すれども、高祖は礼せず。時に契丹主、德鈞に問うて曰く、「汝が幽州に在りし日、置きし銀鞍契丹直は何れに在りや」と。德鈞これを指示す、契丹はことごとく潞の西郊にて殺し、遂に德鈞父子を鎖して蕃に入る。国母述律氏に拝謁するに及び、一行の財宝及び幽州の田宅を尽く籍を立てて献ずるに、国母これに謂いて曰く、「汝父子自ら天子を求むるは何ぞや」と。德鈞俯首して対うる能わず。

延壽、本姓は劉氏。父は邧と曰い、常山の人なり、嘗て蓚令を務む。梁の開平初め、滄州節度使劉守文その邑を陥とす、時に德鈞は偏将たり、延壽並びにその母種氏を獲て、遂にこれを養いて子とす。延壽は姿貌妍柔にして、稍々書史に渉り、特に賓客を好み、また詩を能くす。

天福の末、契丹は少帝と絶好し、契丹主は延壽に図南の事を委ね、中原の帝たることを許す。延壽は乃ち蕃戎を導誘し、河朔を蚕食す。晉軍既に中渡に降るや、戎主は命じて延壽をして寨に就き諸軍を安撫せしめ、仍って龍鳳褚袍を賜い、これを衣せしめて往かしむ。これに謂いて曰く、「漢児の兵士は、皆爾に有り、爾宜しく自ら慰撫すべし」と。延壽営に至るや、杜重威、李守貞以下皆馬前に迎謁す。契丹の汴に入るに及び、時に降軍数万、皆陳橋に野次す、契丹主は変有るを慮り、尽く殺さんと欲す。延壽これを聞き、遽かに戎王に見えんことを請い、曰く、「臣伏して見るに今日以前、皇帝は百戦千征し、始めて晉国を収め得たり、知らず皇帝自らこれを治めんと欲するか、他人のこれを取らんとするか」と。契丹主色を変えて曰く、「爾何ぞ言の過ぎたるや!朕は晉人の義に負くを以て、挙国して南征し、五年相殺し、方に中原を得たり、豈に自ら主たらんとせずして、他人の為んとするや。卿何の説か有る、速やかに朕に奏せよ」と。延壽曰く、「皇帝嘗て呉、しょくと晉朝の相殺するを知るや」と。曰く、「知る」と。延壽曰く、「今中原は南は安、申より、西は秦、鳳に及び、沿辺数千里、並びに是れ両界守戍の所なり。将来皇帝帰国する時、又漸く炎蒸に及び、若し呉、蜀の二寇交々中国を侵さば、未だ知らず許大の世界を、何れの兵馬を以て禦捍せしめんや。苟も堤防を失せば、豈に他人の取る所とならざらんや」と。戎王曰く、「我知らず、之を奈何せん」と。延寿曰く、「臣知る、上国の兵は、炎暑の時に当たり、呉、蜀の境に沿いては、用い難し。未だ陳橋に聚める降軍を団併し、別に軍額を作り、以て辺防に備うるに若かず」と。戎王曰く、「我壺関、陽城に在りし時を念うに、亦た曾て言議せしも、区分を得ず、致すところ五年相殺、此時入手して、如何ぞ更に翦除せざる」と。延寿曰く、「晉軍見在の数は、今還って従前の如く尽く河南に在るは、誠に不可なり。臣請う、その軍を遷し、その家口を鎮、定、雲、朔の間に於いて処し、毎歳彼らを差して分番し、河外沿辺に防戍せしむるは、上策なり」と。戎王忻然として曰く、「一に大王の商量に取る」と。ここに由りて陳橋の衆は長平の禍を免るることを獲たり。

延壽は汴に久しく在りて、契丹主に践言の意無きを知り、乃ち李崧を遣わして契丹主に語を達し、立って皇太子たらんことを求めしむ、崧已むを得ずこれを言う。契丹主曰く、「我燕王に於いて、愛惜する所無し、但だ我が皮肉は燕王の使用に堪うべく、亦た割くべし、況んや他事をや!我聞く、皇太子は、天子の子たるべし、燕王豈にこれを為すを得んや」と。因って命じて燕王に恩を加えしむ。時に北来の翰林学士承旨張礪、延壽を擬して中京留守・大丞相・録尚書事・都督ととく中外諸軍事とし、枢密使・燕王は旧に如しとす。契丹主状を覧て、筆を索いて「録尚書事・都督中外諸軍事」の字を囲みて却け、乃ち翰林院に付して制を草せしむ。又その子匡贊を以て河中節度使とす。延壽は汴州に在りて、復た明宗の小女を娶りて継室とす。先に、延州節度使周密その子広のためにこれを娶り、既に財を納め畢り、親迎に日有りしが、ここに至りて延壽これを奪い取る。契丹主汴より回りて邢州に至り、命じて延壽の坐を契丹の左右相の上に升らしむ。契丹主死す、延壽は諸道に教を下し、権知南朝軍国事と称す。この歳六月一日、永康王烏裕のために鎖せられ、その家財を籍没し、諸部に分かち与う。尋いで延壽を国に入れ、竟に契丹にて卒す。

匡贊は漢、周の両朝を歴任し、累ねて節鎮及び統軍使を授かる。皇朝に仕え、廬、延、邠、鄜等の四鎮を歴任す。

張礪

張礪は、字を夢臣といい、磁州滏陽の人である。祖父は慶、父は宝で、代々農を業とした。礪は幼い頃より学を好み、文藻があった。布衣の時分、民間の争いを見かけると、必ず自ら公府に赴き、その曲直を弁じた。その気概はかくの如くであった。唐の同光初年、進士に及第し、まもなく左拾遺・直史館に任ぜられた。折しも郭崇韜が蜀を伐つこととなり、礪に軍書を掌らせるよう奏請した。蜀が平定されると、崇韜は魏王継岌に誅殺された。当時、崇韜の左右の親信は皆禍を恐れて逃げ去ったが、礪のみは魏王府に赴き、久しく慟哭した。人々は皆その高義に感服した。魏王が軍を返すに及び、礪は副招討使任圜に従って東へ帰還した。利州に至った時、康延孝が叛き、漢州を占拠したため、圜は魏王の命を受け、軍を返して西進し延孝を討った。この時、礪は圜に策を献じ、精兵を後方に伏せ、まず疲弊した軍勢で誘い出すよう請うた。圜は大いに然りとした。延孝は元来ぎょう将であり、任圜は儒生であった。延孝は圜が来たと聞き、またその疲弊した軍勢を見て、全く意に介さなかった。戦いが酣になると、圜は精兵を繰り出してこれを撃ち、延孝は果たして敗れ、遂にこれを捕らえて帰還した。この年の四月五日、鳳翔に至ると、内官向延嗣が荘宗の命を奉じて、延孝を誅殺せよと命じた。監軍李延襲は既に洛中に変事があったと聞いていたため、延孝を留め置き、また任圜の功績を妨害しようとしたのである。圜が決断しかねていると、礪は圜に言った。「この賊が乱を構えたため、凱旋が遅れたのである。しかも明公は血戦して賊を捕らえたのに、どうして詔に背き禍根を養うことができようか。それは檻を破って虎を放ち、自ら災いを招くようなものである。公が決断されぬなら、私がこの賊を殺す。」任圜はやむなく、遂に延孝を誅殺した。天成初年、明宗はその名を知り、翰林学士として召し出した。父母の喪に二度遭い、喪が明けると、いずれも再び学士として召され、礼部員外郎・兵部員外郎・知制誥を歴任して職を充たした。間もなく、父の妾が卒去した。初め、妾が在世中、礪は長く先人に仕えたことを以て、頗る敬い仕え、諸々の幼い子らも祖母と呼んでいた。その死に際し、礪はその服喪について疑い、同僚に諮ったが、答える者なく、礪は即ち故を託して滏陽に帰り、閑居すること三年、その喪服を行わなかった。情に基づき礼を制するものとして、識者はこれを是とした。清泰年間、再び尚書比部郎中・知制誥を授けられ、前の如く学士を充たした。

高祖が晋陽で挙兵すると、唐の末帝は趙延寿に進討を命じ、また翰林学士和凝に延寿と共に行くよう命じた。礪は平素より凝を軽んじており、事を成し得まいと慮り、自ら従軍を請うた。唐末帝は慰めてこれを許した。唐軍が団柏谷で敗れると、延寿と共に契丹に捕らわれ、契丹は旧職で繋ぎ止め、累官して吏部尚書に至った。契丹が汴に入ると、右僕射・平章事・集賢殿大学士を授けられ、鎮州まで随行した。折しも契丹主が卒去し、永康王が北へ去ると、蕭翰が東京から常山を過ぎ、鉄騎を率いてその邸宅を包囲した。当時、礪は病を患い、枕に伏していた。翰は礪を見て責めて言った。「お前は先帝に、蕃人を節度使に任じてはならぬ、さもなくば社稷は永続せぬ、と言ったではないか。また先帝が来た時、私に汴州の大内に駐屯せよと命じたのに、お前は不可と言った。また私が汴州節度使となった時、お前は中書におりながら、何故帖を私に行ったのか。」礪は声を張り上げて答え、その言辞と気概は屈しなかった。翰は遂に礪を鎖して連れ去った。鎮州節度使満達勒が間もなくその鎖を解いたが、その夜、病により卒去した。家人はその骨を焼き、滏陽に帰葬した。

礪は元来耿直で、酒を嗜み節度がなかった。初めて契丹に捕らわれた時、かつて契丹を背いて南帰しようとしたが、追騎に捕らえられた。契丹主は怒って言った。「お前は何故我を捨てて去ろうとしたのか。」礪は言った。「礪は漢人です。衣服飲食は此処と異なります。生きるより死ぬ方がましです。どうか早く刃にかけてください。」契丹主は通事の高唐英を顧みて言った。「我は常々お前たちに、この者を善く遇せと戒めていたのに、逃げ去らせてしまった。過ちはお前たちにある。」因って唐英を百回笞打った。その契丹主に善く遇された様はかくの如くであった。礪は平生、義を抱き才を憐れみ、奨励抜擢に急であり、人の善を聞けば必ず袂を捲ってこれを称え、人の貧しきを見れば篋を倒してこれを救った。故にその死の日、中朝の士大夫も皆嘆惜したのである。

蕭翰は、契丹諸部の長である。父は阿缽という。劉仁恭が幽州を鎮守していた時、阿缽はかつて衆を率いて平州を寇した。仁恭は驍将劉雁郎とその子守光に五百騎を率いさせ、先んじてその州を守らせた。阿缽は知らず、郡人に欺かれて牛酒の会に赴き、守光に捕らえられた。契丹はその身代金を請うたので、仁恭はその請いを許し、間もなく帰した。阿缽の妹は安巴堅の妻、すなわち徳光の母である。翰に妹があり、また徳光に嫁いだ。故に国人は翰を国舅と呼んだ。契丹が東京に入ると、翰を宣武軍節度使とした。契丹は元来姓氏がなく、翰に節度使の任命があるに及び、初めて蕭を姓とし、翰を名とした。これより翰の一族は皆蕭姓を称した。契丹主が北へ去ると、翰を留めて河南を鎮守させた。当時、漢の高祖は既に太原で帝号を建てていた。翰は恐れ、北帰しようとしたが、京師に主なきことを慮り、衆みな乱を為すことを憂い、蕃騎を遣わして洛京に至らせ、唐の明宗の幼子許王従益を迎えさせ、南朝の軍国事を知らしめた。従益が至ると、翰は蕃将を率いて殿上で拝礼した。翌日、翰はその宝貨と鞍轡を車に載せて北へ向かった。漢人は許王が既に立てられたので、再び乱を為さず、果たしてその狡計に嵌ったのである。翰が鎮州に行き着くと、張礪に遇い、翰は旧事を以て憤りを致し、その邸宅に赴いてその過失を数え上げて鎖した。翰が本国に帰ると、永康王烏裕に鎖され、間もなく本土で卒去した。

劉晞は、涿州の人である。父は済雍で、累ねて本郡の諸邑の令長を為した。晞は若くして儒学をもって郷里に称され、かつて唐の将軍周徳威の従事を為し、後に契丹に捕らわれ、契丹は漢職で繋ぎ止めた。天福年間、契丹は晞を燕京留守に命じ、かつて契丹において三度貢挙を知り、歴官して同平章事・兼侍中に至った。契丹に従って汴に入り、洛京留守を授けられた。折しも河陽軍が乱を起こすと、晞は許州に走り、また東京に奔った。蕭翰が兵を遣わして晞を援け洛下に至らせた。契丹主が死ぬと、晞は洛から再び東京に至り、蕭翰に従って北帰し、遂に鎮州に留まった。漢の初年、満達勒と共に定州に奔り、後に北蕃で卒去した。

崔廷勛は、何許の人か知れない。体躯魁偉で、美しい鬚髯を有していた。幼くして契丹に捕らわれ、歴仕して雲州節度使に至り、官は侍中に至った。契丹が汴に入ると、少帝を封禅寺に遷し、廷勛に兵を遣わして防守させ、間もなく河陽節度使を授けられ、甚だ民情を得た。契丹が北行すると、武行徳が軍を率いて河陽に急行し、廷勛は行徳に追われ、奚王伊剌と共に懐州を保った。間もなく兵を以て反攻して行徳を攻め、行徳が出戦し、廷勛に敗れた。契丹主が死ぬと、遂に鎮州に帰った。漢の初年、麻達勒と共に定州に奔り、後に北蕃で没した。

【史評】

史臣曰く、帝王の尊さは、必ず天命による。韓信かんしん・彭越の勇、呉濞・淮南の勢いですら、妄りに冀うべからず、ましてや二安(安従進・安重栄)の庸昧、相輔いて乱を為すは、固より自ら滅亡を取るに宜しい。後に強兵を擁し重鎮に蒞る者は、これを鑑とせざるを得ないであろうか。彦沢は狼子野心、盈貫して死す、遅きに過ぎる。徳鈞諸人は、晋の事と相終始する故に、ここに附して見せる。