舊五代史

晉書しんじょ二十三: 列傳十二 范延光 張從賓 張延播 楊光遠 廬文進 李金全

范延光

范延光、字は子環、鄴郡臨漳の人である。若くして郡の牙軍に隷し、唐の明宗が相州を牧した時、親校として召し取られた。同光年間、明宗が鄆州を下すと、梁の兵は楊劉口に屯してこれを扼し、先鋒将の康延孝は密かに人を遣わして明宗に款を通じた。明宗は機密事を莊宗に伝えようとしたが、使者の選定に難儀していたところ、延光が行くことを請い、そこで蠟書を授けて遣わした。延光は到着すると、莊宗に奏上して言うには、「楊劉の渡しは控扼すでに定まり、図るべからず。馬家口に堡塁を築き、以て汶陽への通路を通ずることを請う」と。莊宗はこれに従い、再び彼を鄆州に帰らせた。やがて梁の将王彦章が馬家口に築いた新たな堡塁を攻めると、明宗は城中の不備を恐れ、また密かに行って莊宗に告げ、増兵を請うよう遣わした。夜中に河上に至り、梁兵に捕らえられ、夷門の獄に送られ、数百回も鞭打たれ、白刃で脅されたが、終にその事を洩らさなかった。また獄吏に保護され、獄中に半年いて、再び取り調べられなかった。莊宗が汴城に至らんとした時、獄吏はただちにその桎梏を外し、拝謝して出し、路傍で謁見させた。莊宗は喜び、銀青光禄大夫・檢校工部尚書を授けた。明宗が帝位に即くと、宣徽使に抜擢された。霍彦威とともに青州の王公儼を平定し、檢校司徒しとに遷った。明宗が夷門に行幸した時、滎陽けいように至り、朱守殷が命に背いたと聞くと、延光は言うには、「急攻せざれば、賊は堅固とならん。騎兵五百を請い、臣が先んじて赴けば、則ち人心必ず駭くべし」と。明宗はその請いを容れた。延光は酉の時から夜半まで、二百余里を馳せ、たちまち城下に至り、賊と交戦した。翌日、城壁を守る者が乗輿を見ると、相率いて門を開き、延光が先に入り、賊と巷戦し、厚載門に至って、その徒党をことごとく殲滅したので、明宗はこれを喜んだ。翌年、枢密使に遷り、権知鎮州軍府事となり、まもなく正式に節旄を授けられ、檢校太保を加えられた。長興年間、安重誨が罪を得たため、再び入朝して枢密使となり、同平章事を加えられた。やがて秦王従栄が軌を踏み外すと、その禍に及ぶことを恐れ、しばしば外任を請い、明宗は久しくしてようやく許し、そこで常山に出鎮した。清泰年間、再び詔されて枢密使となったが、まもなく汴州節度使として出た。時に魏府の屯将張令昭がその帥劉延皓を逐い、城を拠てて叛いたので、唐の末帝は延光に命じて討伐平定させ、そこで鄴都留守を授け、檢校太師・兼中書令を加えた。門下に術士の張生という者がおり、自ら妙に術数に通ずると称し、延光が微賤の時、将来必ず将相となると言い、延光が貴くなってからは、その言を酷く信じた。数鎮を歴任する間、常に上等の宿舎に住まわせ、延光は彼に言うには、「余、大蛇の夢を見たり、臍より腹に入り、半ばにして引き去らる。是れ何の祥ぞや」と。張生は言うには、「蛇は龍なり、腹に入るは帝王の兆明らかなり」と。延光はここより稍々僭竊の意を萌し始めた。

高祖こうそが太原にて義を建てると、唐の末帝は延光に命じて本部二万を率いて遼州に屯させ、趙延壽と掎角の勢いを合わせさせたが、延壽の兵が敗れると、延光は急ぎ還るよう促され、故に心自ら安からず。高祖が洛に入ると、まもなく臨清王に封じられ、その反側を寛大に扱った。後に延光は勝手に齊州防禦使秘瓊を殺し、兵を部下に集め、また管内の刺史を収めて城に入れたので、高祖はこれを甚だ疑い、そこで東に夷門に行幸した。時に延光に牙校の孫鋭という者がおり、延光とは郷里の旧知であり、軍機民政を一切彼に委ねた。故に魏博六州の賦税は、半銭も上供せず、符奏の間に意に如かざるものがあると、鋭は即ち延光に対しこれを誹謗し、その兇戾この如きものであった。初め、朝廷は使者を遣わして延光を臨清王に封じたが、僚属と会した時、延光は急に病を得、枕に伏して十日を経たので、鋭は密かに群小を惑わし、澶州刺史馮暉らを召し、不臣の謀を以て延光に迫り、延光もまた術者に惑わされ、これに従った。天福二年夏六月、鋭と暉に歩騎二万を率いさせ、南に黎陽に至らせた。(『通鑒』に云う:延光は馮暉を都部署とし、孫鋭を兵馬都監とした。)時に鋭は女妓十余輩を従え、蓋を擁し扇を操り、必ず歌吹して後に食し、将士は煩熱し、これを見て士気が瓦解し、まもなく王師に敗れ、賊衆は鄴城ぎょうじょうに退還した。高祖は引き続き楊光遠を遣わしてこれを討たせ、延光は事の成就せぬを知り、そこで孫鋭を殺してその罪を帰し、人を発して表を捧げて罪を待ち、且つ姑息を求めたが、高祖は許さなかった。歳を経て包囲され、城中飢窘に陥ると、高祖は師老え民労するを以て、その役を解かんと思い、謁者を遣わし入って告げさせて言うには、「卿既に危蹙し、破は旦夕に在り。能く掌を返し規を転じ、節を改めて我に帰すれば、我当に大藩を以て之を処せん。降りて之を殺すに至っては、則ち何を以て国を享けん。明明白日、是の言を質すべし」と。そこで鉄券を賜い、高平郡王に改封し、太平に移鎮させた。延光は門人の李式に言うには、「主上は信を敦くし義を明らかにし、言にして践はざるはなく、死なずと許せば、則ち死なざるなり」と。そこで守備を撤去し、(『通鑒』:延光は猶お遷延して未だ決せず、宣徽南院使劉処譲が復た入って諭すと、延光の意乃ち決した。)素服して降伏を請うた。汶上に赴き、一月余りして入朝した。まもなく表を上って罷免を請い、高祖が再三答諭してようやく允し、制を以て延光を太子太師致仕とした。闕下に一年居住し、高祖は毎度召して飲宴を賜い、群臣と隔てなく遇した。ある日、従容として上奏し、河陽の私邸に就き、以て頤養の便とせんことを願い、高祖はこれを許した。延光は妻子を携え、奇貨を車に載せて従い、郡邑を過ぎる毎に、多く関吏に糾された。時に楊光遠が洛下に居守し、兼ねて孟・懷を領していたが、その財を利するに及び、また漸く朝廷の密旨を測り、遂に奏上して云うには、「延光は国の奸臣なり、若し羈縻せざれば、必ず北は塞に出で、南は呉に入らん。召して西都に居止せしむることを請う」と。高祖はこれを允した。光遠はその子承勛に命じて兵を以てその邸を囲ませ、自裁を迫った。延光は言うには、「明天子、上に在り、金書を賜いて我を死なずと許す。爾が父子、何を得てか脅制すること此の如きや」と。翌朝、白刃を以てこれを駆り立て、浮橋に馬上せしめ、水中に排した。光遠は偽って奏上して云うには、「延光は河に投じて自ら溺れ死せり」と。水運軍使の曹千がその屍を郡東の繆家灘で獲た。高祖はこれを聞き、朝を二日罷め、詔して鄴に帰葬することを許し、仍って太師を贈った。

延光は初め近臣となり、及び重鎮を領すると、礼賢し士を接し、動くこと皆礼に由ったので、故に当時の誉れを甚だ得た。常山を鎮めた日、部将の梁漢塘が王都の名馬を獲たのに乗じ、罪に陥れてこれを取り、魏州に在った日、齊州防禦使秘瓊が董温琪の珠金妓妾を獲たのに乗じ、その境を経るに及び、また害してこれを奪った。物議はここよりこれを減じた。及び罪を懼れて謀叛し、また恥を忍んで偷生し、決断を引くことができず、遂に強死に至った、何ぞ非夫の甚だしきや。

張従賓

張従賓は、何処の者であるか詳らかではない。初め唐の荘宗に仕えて小校となり、戦に従って功があった。唐の天成年中、捧聖指揮使より澄州刺史を領し、左右羽林都校に遷った。薬彦稠に従って河中において楊彦温を討ち、これを平定した。長興年中、寿州忠正軍節度使を領し、検校太保・侍衛歩軍都指揮使を加えられた。従賓は元来口達者で、進言する度に、明宗は多くこれを容れた。供奉官丁延徽という者あり、性貪婪にして狡猾、時に詔を奉じて倉庫を監察し、贓物を犯して獄に下され、権貴多く救解を為すも、明宗怒りて許さず。従賓、他事を奏するに因り、延徽に言及す。明宗曰く、「ただ汝の言のみならず、蘇秦が予に説くとも、得べからず」と。延徽遂に戮せらる。長興末、従賓出でて霊武を鎮め、検校太傅を加えらる。高祖即位し、代を受けて入覲するに、時に駕は東幸し、従賓を留めて洛下の警巡をさせしむ。一日、留司御史に天津橋に逢い、従兵百人、路を分かたずして過ぎ、御史を水中に排す。従賓、その酒酔いなりと偽りて奏す。その兇傲此の如し。范延光が鄴城に拠りて叛くに及び、詔して従賓を副部署使と為し、楊光遠に従って共に延光を討たしむ。時に延光人を遣わして従賓を誘う。従賓時に河陽に在り、乃ち兵を起こしてこれに応ず。先ず皇子重信を害し、洛に入るに及び、また皇子重乂を害し、内庫の金帛を取って部伍に給し、因って東に汜水関を拠り、且つ軍勢を観望せんとす。高祖、杜重威・侯益に命じて分兵してこれを討たしむ。従賓大敗し、馬に乗って河に入り、溺れて死す。

張延播

張延播は、汶陽の人である。初め郡の牙将となり、唐の同光初、明宗その城を下し、因って左右に隷せしむ。天成年中、累ねて検校司空しくう・両河発運営田使・柳州刺史を授かる。長興元年、出でて蔡州を牧し、検校司徒を加えられ、入って左領軍衛大将軍となり、客省使を充てる。しょくを伐つ役、馬軍都監を命ぜらる。三年、鳳州防禦使・西面水陸転運使に遷る。高祖即位し、東都副留守を除く。車駕汴に幸し、兼洛京巡検使を遣わす。張従賓乱を作すに、延播に令して河南府事を知らしむ。従賓敗れ、伏誅す。

楊光遠

楊光遠、小字は阿檀、長じてより名は檀に止む。唐の天成中、明宗が御名を亶と改むるに、偏傍の字これを犯すを以て、始めて名を光遠と改め、字は徳明、その先は沙陀部の人なり。父は阿噔啜、後に名を瑊と改め、唐の武皇に事えて隊長と為る。光遠は荘宗に事えて騎将と為り、唐の天祐中、荘宗、振武節度使周徳威を遣わして幽州において劉守光を討たしめ、因って光遠を徳威の麾下に隷せしむ。後に徳威と共に新州において契丹を拒ぎ、一軍深く入りて敗を致し、因ってその臂を傷つけ、遂に廃し、家に罷む。荘宗即位し、その戦功を思い、幽州馬歩軍都指揮使・検校尚書右僕射を命じ、瓦橋関を戍ること久し。明宗朝、媯・瀛・易・冀の四州刺史を歴任す。光遠は字識らざれども、然れども口弁あり、吏理に通じ、郡に在りて政声あり、明宗頗るこれを重んず。長興中、契丹に中山の敗あり、その将紮拉等数十人を生擒し、闕下に送る。その後契丹既に和を通じ、使を遣わしてこれを帰すことを乞う。明宗、大臣と謀議し、特ちに放ちて蕃に還す。一日、光遠を便殿に召してその事を言う。光遠曰く、「紮拉等は北土の善戦者、彼これを失うこと手足を喪うが如し。又ここに累年あり、中国の事に備諳す。若し放ちて還さば便ならず」と。明宗曰く、「蕃人は盟誓を重んず。既に歓好を通ずれば、必ず相負かず」と。光遠曰く、「臣は後悔及ばざるを恐る」と。明宗遂に止め、深くその抗直を嘉す。後に振武節度使より中山に移鎮し、累ねて検校太傅を加えられ、兵を将いて蔚州を戍る。

高祖、太原に挙義す。唐の末帝、光遠と張敬達を遣わして兵を城下に屯せしむ。俄かに契丹大いに至り、その為に敗れ、その寨を囲むこと久しく、軍中糧絶ゆ。光遠乃ち次将安審琦等と共に敬達を殺し、衆を擁して命に帰す。高祖に従って洛に入り、検校太尉を加えられ、宣武軍節度使・同平章事を充て、六軍諸衛事を判ず。是の時、光遠、毎に高祖に対し、常に悒然として楽しまず。高祖、不足あるを慮り、密かに近臣を遣わしてこれを訊ねしむ。光遠、奏に附して曰く、「臣、貴きこと将相と為るも、不足あるに非ず。但だ張生鉄の死するその所を得たるに、臣及ばず。衷心内に愧じ、是を以て楽しまず」と。生鉄は蓋し敬達の小字なり。高祖その言を聞き、光遠を以て忠純の最なる者と為す。その実光遠故にその言を為し、以て高祖の重信を邀えんとす。明年、范延光、鄴城に拠りて叛く。高祖、光遠に命じて師を率いてこれを討たしむ。将に河を渡らんとし、滑州の軍乱に会う。時に軍衆、光遠を推して主と為さんと欲す。光遠曰く、「古より折臂の天子有りや。且つ天子豈に公輩の販弄の物ならんや。晋陽の降は、乃ち勢の窮迫する所なり。今若しこれを為さば、直ちに反賊なり」と。ここに由りてその下惕然とし、復言う者無し。高祖これを聞き、尤も寵重を加う。光遠既に延光を囲み、尋いで魏博行府節度使を授かる。兵柄手に在り、高祖己を懼るるを以てと為し、稍々朝政に干預し、或いは抗いて奏する所あり。高祖もまた曲くこれに従う。復た詔を下してその子承祚を以て長安ちょうあん公主に尚せしめ、次子承信皆美官を授く。恩渥殊等、当時の冠と為る。桑維翰、枢密使と為り、往々その事を弾射す。光遠心にこれを銜む。延光降るに及び、光遠朝に入り、面して維翰の権を擅にするを奏す。高祖、光遠方に国に功有るを以て、乃ち維翰を出して相州を鎮めしめ、光遠を西京留守と為し、兼ねて河陽を鎮めしめ、因ってその兵権を罷む。光遠ここに由りて怨望し、潜かに異志を貯え、多く珍玩を以て契丹に奉じ、己の屈を訴う。又私かに部曲千余人を養い、法を撓み禁を犯す。河・洛の人、恒に盗を備うるが如し。尋いで冊を拝して太尉・兼中書令と為す。

時に范延光致仕し、輦に囊装妓妾を載せ、河陽に居る。光遠その奇貨を利し、且つ子孫の讎と為るを慮り、因って延光が汴・洛に家せず、外藩に出でて舍するは、南は淮夷に走らずんば則ち北は契丹に走らんとす、宜しく早くこれを除くべしと奏す。高祖、これを許して死せず、鉄券在りとを以て、持疑して未だ允さず。光遠乃ち子承勛を遣わして甲士を以てその第を囲み、逼りて自裁を令す。延光曰く、「天子上に在り、安んぞ此の如くせんや」と。乃ち使者を遣わして洛下に移居することを乞う。行きて河橋に及び、流に擯して溺殺す。偽りて延光自ら河に投ずと奏す。朝廷、適会その意に適うを以て、これを理せず。後歳を逾えて入覲す。高祖、為に曲宴を置き、教坊の伶人、光遠の暴斂重賦を以て、因って戯を陳べてこれを譏る。光遠殊に慚色無し。高祖、光遠に謂いて曰く、「元城の役、卿の左右皆功を立て、未だ旌賞せず。今各々一郡を与え、厘任をして以てこれを栄えしめん」と。因って刺史と為す者を命ずること凡そ数人。

時に王建立が青州より上黨に移鎮するや、光遠を平盧軍節度使とし、東平王に封ず。光遠は面奏して、長子と同行することを請い、まもなく承勛を萊州防禦使に任ず。任に赴くに及び、僕従妓妾千餘騎に至り、満盈僭侈、方嶽の最たるものと為す。下車の後、ただ刻剝を以て事と為す。少帝位を嗣ぐや、冊して太師と為し、壽王に封ず。

開運元年正月、契丹南牧し、我が博陵を陥とす。少帝澶淵に幸す。三月、契丹退く。李守貞・符彥卿に命じて師を率い東討せしむ。光遠は素より兵衆無く、ただ城を嬰して自ら守る。守貞は長連城を以て之を囲む。冬十一月、承勛は弟承信・承祚と城中人民相食し将に尽きんとするを見、事成らざるを知り、光遠に降を乞わしめ、赤族を免れんことを冀う。光遠納れずして曰く、「我代北に在りし時、嘗て紙錢駝馬を以て天池に祭るに、皆沈没す。人言うに天子の分有るに合うと。宜しく且く時を待つべく、軽々に降と言う勿れ」と。承勛は禍朝夕に在るを慮り、諸弟と同謀し、節度判官邱濤・親校杜延壽・楊瞻・白延祚等を殺し、其の首を梟し、乃ち承祚を遣わして守貞に送る。因って火を放ち大いに噪ぎ、其の父を劫いて私第に幽し、城を以て款を納る。即墨縣令王德柔を遣わして表を貢ぎ罪を待つ。光遠も亦上章して自首す。少帝は頃歳太原帰命の事有り、曲く之を全からんと欲す。執政曰く、「豈に逆状滔天にして之を赦すこと有らんや」と。乃ち守貞に便宜処置を命ず。守貞は人を遣わして拉ぎ殺さしむ。漢高祖即位し、詔して尚書令しょうしょれいを贈り、齊王を追封し、仍って碑を立つるを令す。未だ幾ばくもせず、其の碑石故無くして自ら折る。以って其の陰責を知るべし。

承勛は光遠の長子なり。初め承貴と名づく、少帝の名を避けて改む。父の蔭に歴り光・濮州刺史、光遠河陽を兼鎮するや、三城事を制置するを命ず。光遠青州に移鎮するや、萊州防禦使を授く。郡に在りても亦頗る理有り、嘗て父側の奸党を憤り、之を殺さんと欲し、毎に父を省うるに、父は為に匿う。光遠釁を構え城を嬰して叛くに及び、承勛之に赴く。敵退き、王師に囲まる。歳を踰えて糧尽き、弟承祚と父の命に背き、出でて王師に降る。朝廷汝州防禦使を授け、尋いで鄭州に改む。契丹汴に入るに及び、騎士を遣わし圃田より召し至り、其の父を害し己に背くを責め、臠を其の肉に為して之を殺さしむ。其の弟承信を以て青州節度使と為す。

盧文進

盧文進、字は國用、范陽の人なり。身長七尺、飲啖人に過ぎ、望むに偉如たり。少くして劉守光に事え騎将と為る。唐莊宗燕を攻むるに、文進を以て首めて降り、遙かに壽州刺史を授く。初め、莊宗山後八軍を得て、愛弟存矩を新州圍練使と為し以て之を総領せしむ。莊宗劉鄩と莘縣に対壘し、存矩に命じ山後に勁兵を召募せしめ、又た山北居民に命じ戦馬器仗を出さしむ。牛十頭を鬻ぐ毎に馬一匹に易う。人心怨咨す。時に存矩五百騎を団結し、文進に之を将せしめ、存矩と俱に行かしむ。祁溝関に至る。軍士聚謀して曰く、「我輩辺人、父母妻子を棄て、他為に血戦し、千里死を送るは、固より能わざるなり」と。衆曰く、「盧将軍を擁して却って新州に還り、城を拠り自ら守らば、我を奈何」と。因って大呼して戈を揮い、伝舎に趣き、存矩を榻下に害す。文進膺を撫でて曰く、「奴輩我を累す」と。因って屍を環りて泣きて曰く、「此の輩既に郎君を害す。我何の面目を以て王に見えん」と。乱軍に擁せらる。新州を反攻するも克たず。武州を攻むるも又た利あらず。周德威将を命じて追討せしむ。文進遂に契丹に奔る。幽州兵馬留後を命じ、漢軍を部分し、常に別に営寨を為す。未だ幾ばくもせず、文進契丹を引き新州を寇す。是より北師数至り、数州の士女を驅擄し、其の織纴工作を教う。中国の為す所のもの悉く備わる。契丹の強盛する所以は、文進を得たる故なり。同光の世、患い尤も深し。文進平州に在り、奚族の勁騎を率い、鳥撃獣搏、倏来忽往す。燕・趙諸州、荊榛目を満たす。軍涿州に屯し、毎歳糧を運ぶに、瓦橋より幽州に至るまで、勁兵猛将、糧車を援遞す。然れども猶契丹に鈔せられ、奔命暇あらず。皆文進之を導くなり。

明宗が即位した翌年、文進は平州より配下の十余万の兵を率いて来奔した。幽州に至るや、先ず使者を遣わして上表して曰く、「近頃、新州団練使李存矩が郡邑を統轄し、恩威を掌握し、黎庶を虐げれば毒は豺狼よりも甚だしく、賦斂を聚めれば貪りは溝壑に満ち、人は命に堪えず、士は各々心を離す。臣は即ち父母の邦を抛ち、朔漠の地に入る。幾年か雁塞にあり、徒らに日に向かって心を傾け、一たび家山を望めば、毎に魂を銷し目を断つ。李子卿の河畔、空しく怨辞有り、石季倫の楽中、帰引を陳ぶる莫し。近く聞く、皇帝陛下は皇天眷命し、清明躬に在り、紀を握り乾に乗り、鼎新革故すと。始めて大幸を知り、朝宗に路有り、便ち帰心を貯え、祗に良会を伺う。臣は十月十日、決計して在城の契丹を殺し、十一日に州を離れ、七八千の車乗を押し、十五万の生霊を領し、十四日には已に幽州に達す」と云う。洛陽らくように至るに及んで、明宗の寵待は弥厚く、滑州節度使・検校太尉を授けられる。歳余りして、鄧州に移鎮し、累進して同平章事を加えられ、入って上将軍となる。長興年中、再び出て潞州を鎮め、奸を擒え隠を恤み、当時の誉れを甚だ得たり。清泰年中、安州節度使に改む。高祖が即位するに及び、契丹と敦好す。文進は嘗て契丹に背いたことを以て、居て自ら安からず。天福元年十二月、乃ち行軍司馬馮知兆・節度副使杜重貴等を殺し、その部衆を率いて淮を渡り金陵に奔る。李棨は之を待つに尤重く、偽命にて宣州節度使と為し、後に江南に卒す。

李金全

李金全は、本は唐の明宗の小豎なり。その先は吐谷渾より出づ。金全はぎょう勇にして騎射に善く、少くより明宗に従い征伐し、力戦して功有り。明宗即位し、連ねて大郡を典す。天成年中、涇州節度使を授けられ、鎮すること数年、掊斂を務めとす。長興年中、代を受けて闕に帰り、始めて馬数十匹を進め、数日を経ずして又之を進む。明宗召して之に謂いて曰く、「卿は馬多きを患うか、何ぞ進貢の数なるや」と。又謂いて曰く、「卿の涇州に在りし日の、理を為すこと如何、乃ち馬を以て事と為すこと無からんや」と。金全慚謝して退く。四年夏、滄州節度使を授けられ、累官して検校太傅に至る。清泰年中、鎮を罷めて闕に帰り、久しく京師に留まる。高祖即位の翌年、安州の屯将王暉が節度使周瑰を殺す。詔して金全を遣わし騎兵千人を以て其の地を鎮撫せしむ。未だ境に及ばずして、暉は部下に殺さる。金全至るや、乱軍数百人皆安からず、金全説きて闕に赴かしめ、密かに野に兵を伏せ、尽く之を殺し、又其の軍校武彦和等数十人を擒えて之を斬る。初め、金全の将に行かんとするや、高祖之に戒めて曰く、「王暉の乱、罪之より大なるは莫し。但だ封守の寧からざるを慮れば、則ち民其の弊を受く」と。因りて矢を折り詔を飛ばし、一人も戮さざるを約し、仍って暉を唐州刺史とすることを許す。又金全に謂いて曰く、「卿の此の行、吾が信を失うこと無かれ」と。金全の至るに及び、彦和等が乱を為さんとせし日に当たり、郡城を劫掠し、獲たる所の財貨悉く其の第に在るを聞き、遂に之を殺して奪う。高祖之を聞き、金全を姑息する故を以て、其の事を究めず、尋いて旄節を授く。

金全に親吏胡漢筠有り。勇譎嗇褊にして、貪詐残忍なり。軍府の政、一に之を委ぬ。高祖其の事を聞き、吏賈仁紹を遣わして其の職に代わり、且つ漢筠を召す。漢筠内に疚しく惶怖す。金全乃ち状を列ねて疾を称して聞かしむ。仁紹の至るに及び、漢筠鴆して之を殺す。天福五年夏、高祖馬全節を命じて安州節度使と為し、以て金全に代わらしむ。漢筠自ら昔嘗て命を拒みしを以て、復た仁紹の二子将に毒を置くの事を訴えんとするを聞き、居て自ら安からず。乃ち紿して金全に謂いて曰く、「邸吏劉珂健歩をして倍道兼行せしめ、密かに其の意を伝う。云う、代を受けたるの後、朝廷将に仁紹の事を以て公の罪を詰むと」と。金全大いに駭き、従事張緯に命じて表を函し款を淮夷に送らしむ。淮人は偽将李承裕を遣わして以て金全に代わらしむ。金全即日南竄す。其の妓楽・車馬・珍奇・帑蔵、皆な承裕に奪わる。其の党数百人と身を束ねて夜に出で、暁に氵義州に至り、領を引いて北を望み、泣下して去る。金陵に至るに及び、李棨節鎮を以て之を授く。後に江南に卒す。

【史評】

史臣曰く、延光昔唐の臣と為り、令誉有り。晋祚に洎い逢いて、顕に狂謀を恣にす。既に力屈して来降し、尚お顔を惜しみて死す。孟津の歿は、乃ち取笑を千載にせらるるなり。従賓以下、倶に乱を怙て身を滅す。亦た何を以て足らんや議うに。文進は強敵の威を懼れ、金全は輿台に売らる。事は類せずと雖も、叛するは則ち同じ。咸に島夷に附き、皆な醜むべし。