舊五代史

晉書しんじょ二十二: 列傳十一 孔崇弼 陳保極 王瑜 張繼祚 鄭阮 胡饒 劉遂清 房暠 孟承誨 劉繼勳 鄭受益 程遜 李郁 鄭玄素 馬重績 陳玄

孔崇弼

孔崇弼は初め後唐に仕え、吏部郎中より給事中に任ぜられた。時に族兄の昭序が給事中より左常侍に改められ、兄弟共に門下省に在ったので、当時の論はこれを栄誉とした。崇弼は天福年間に左散騎常侍さんきじょうじに遷った。他に才はなく、ただ談笑し、人物を戯れ弄び、眉を揚げ手を打って、人に歓心を買うのみであった。五年、詔により海を渡って杭越に使することを命ぜられた。先に、浙中の贈賄は毎年常に万緡に及んでいたが、時に議する者は言う、「孔常侍は命奇しく薄し、何ぞ盈数を消せん、命有れば即ち財無く、財有れば即ち命無し」と。明年、使より還るや、果たして海中にて船壊れ、空手にして帰った。

陳保極

陳保極は閩中の人である。学を好み、文を属するに善く、後唐天成年間に進士第に擢でられ、秦王従栄その名を聞き、従事として辟した。従栄は素より急暴であり、後に保極が宰相の門に出遊するを告げざるを怒り、馬箠を以てこれを鞭ち、尋いで定州推官として出した。従栄敗れた後、執政その屈を知り、三署に居らしめ、礼部・倉部員外郎を歴任した。初め、桑維翰が第に登った年、保極は時に秦王の幕下に在り、因って戯れに同輩に謂いて曰く、「近く知る、今歳に三個半の人及第す」と。蓋し其の年四人を収むるに、保極は維翰の短陋なるを以て、故に之を半人と謂うのである。天福年中、維翰既に相位に居り、保極は時に曹郎に在り、官を除くに差跌せんことを慮り、心自ら安からず、乃ち仮を乞い南遊し、将に退跡を謀らんとす。既にして襄・鄧の長吏が行止を以て奏入するや、維翰乃ち高祖こうそに奏して曰く、「保極は閩人、狡きこと多し、恐らくは淮海に逃れ入らん」と。即ち詔を以て闕に追い赴かしめ、将に台に下して其の事を鍛え成さんとす。同列の李崧極言して以て之を解き、因って所司に命じて其の居に就きて之を鞫せしめ、衛尉寺丞に貶し、仍って金紫を奪う。尋いで復た倉部員外郎と為り、竟に憤りを銜んで卒した。

保極は時務の才無く、人に傲るの名有り、而して性復た鄙吝にして、得たる利禄、未だ嘗て身に奉ぜず、但だ蔬食するのみであった。毎に人と奕棋するに、敗るれば則ち手を以て其の局を乱し、蓋し賭けたる金銭の償いを拒みて欲せざるなり。卒するに及び、室に妻兒無く、帷囊の中に白金十鋌を貯うるも、他人の所有と為り、時に甚だ之を嗤った。

王瑜

王瑜、其の先は范陽の人である。父欽祚は仕えて殿中監に至り、出でて義州刺史と為った。瑜は性兇狡なり、然れども雋辯ぎょう果にして、騎射刀筆の長も、亦た当代に称せられた。起家して累ねて従事と為る。天福年中、左賛善大夫を授かる。会うに濮郡秋稼豊衍にして、税籍均しからず、命じて使車に乗じ、按察して定計せしむ。既に郡に至り、校簿吏の胡蘊・惠鶚に謂いて曰く、「余食貧久し、室に資を増さず、我が為に意を県宰に致し、且つ仮貸を求めよ」と。是に由りて濮の部内五邑の令長共に銭五十万を斂め、私に瑜に献ず。瑜は即ち書を以て上奏す。高祖章を覧み嘆じて曰く、「廉直清慎此の如き者有り、誠に良臣なり」と。是に於て二吏五宰は即時に停黜せられ、瑜を擢て太府少卿と為す。杜重威の東平に鎮するや、瑜の父欽祚は節度副使と為り、重威の常山に移鎮するに及び、瑜乃ち詭計を重威に施し、己を恒州節度副使として奏せしめ、竟に其の父の位を代う。歳余り、入りて刑部郎中と為る。丙午の歳、父欽祚は義州を刺挙し、瑜は帰寧して郡に至る。会うに契丹中夏を据え有し、何建秦州を以てしょくに帰す。瑜欽祚に説いて曰く、「若し西走せずんば、当に契丹に属せん」と。厲色して数え諫むるも、其の父怒りて従わず。其の臥疾旬に渉るに因り、瑜剣を仗して之を脅かし曰く、「老懦にして謀無く、将に炮烙に趨かんとす。即ち計を為さずんば、則ち刃下に死せん」と。父已むを得ずして之を聴く。時に隴東屯兵其の川路を扼し、将に北に趣き蕃部に途を仮せんとす。而して因って郡盗の酋長趙徽と歃血して約を為し、之を兄事す。徽に謂いて曰く、「西に成都に至らば、余身は相と為り、余父は将と為り、爾は当に一大郡を領すべし、能く行かんや」と。徽曰く、「諾」と。瑜売られんことを慮り、先ず其の妻孥を致し、郡中に館す。行くに期有り。徽潜かに其の党を召し、郊外に伺わしむ。子夜、瑜挙族して行く。輜重絡繹として十余里。徽の親しむ者、溝澮に循いて遁れ、馬峽路隅に至り、燧を挙げて相応ず。其の党伏莽より起ち、欽祚の首を断ち、諸の長矛に貫く。平生聚蓄する金幣万計、皆賊に掠められ、少長百口、之を殺すこと殆んど尽くす。瑜尚ほ独り千人と戦い、矢虚しく発せず、手に射捍無く、其の指流血す。窘まるに及び、乃ち夜山谷に竄け、発を落として僧と為る。月余り、樵人に獲られ、岐州に縶送せられ、侯益に殺され、時に年三十九。

初め瑜に姑寡居有り、来たりて其の家に帰る。以前夫の遺腹に子有り、数年に経て産まず。毎に事に因りて予め人の吉凶を告ぐるに、験はざる者無し。時に契丹中闕に入る。前月余りに瑜に謂いて曰く、「暴兵将に至らんとす、宜しく速かに之を去るべし。苟くも去らずんば、乱必ず及ばん」と。後ち瑜果たして死す。此れ謂う「天の作る孽は、猶お違うべく、自ら作る孽は、違うべからず」と。

張繼祚

張繼祚は故斉王全義の子である。初め河南府衙内指揮使と為り、全義卒して後、金吾将軍を除かれ、旋って蔡州刺史を授かり、累官して検校太保に至る。明宗天を郊るに、供頓使を充て、復た西衛上将軍を除かる。唐清泰末、母憂に丁る。天福初、喪制未だ闋けず、会うに張従賓乱を作し、兵を発して迫脅し、取って河陽に赴かしめ、留守事を知らしむ。従賓敗れ、二子と共に詔により市に戮せらる。初め継祚は範延光と旧有り、嘗て人を遣わして馬を以て之に遺う。朝廷兵を起し、将に鄴城ぎょうじょうを討たんとするに属し、巡兵に獲られ、之を奏す。高祖深く之を忌む。敗るるに及び、宰臣桑維翰は父珙早く斉王に事えたるを以て、奏して之を雪がんと欲す。高祖允さず、遂に罪を継祚一房に止め、其の族を累さず。

鄭阮

鄭阮は洺州の人である。少くして本部牙将と為り、唐荘宗山東を略するに、阮首めて義旗に帰するを以て、軍職に遷る。阮に子有り、幼より明宗の中門使安重誨に事え、重誨其の桀黠なるを以て、之を愛す。明宗即位するに及び、阮を擢て鳳翔節度副使に至らしむ。会うに末帝其の地に鎮するや、阮稍く之に狎る。末帝位を嗣ぐに及び、阮を趙州刺史と為す。然るに阮は性貪濁にして、民間の細務、皆密かに察して之を紀し、賂を納れて以て罪を贖わしむ。属邑の令有り、科醵に因りて命を拒む。密かに束素を以て人を募り陰に其の過を求め、後竟に其の職を停む。人甚だ之を非とす。又嘗て郡符を以て部内兇肆の中人其の籍に隷する者を取り、青州に遣わし、喪を舁いて洺に至らしむ。郡人其の遠きを憚り、直百緡を輸えて以て其の行を免れんことを願う。阮本より喪無く、即ち直を受け放ち還す。識者曰く、「此れ吉兆に非ず」と。未だ幾ばくもせず、曹州刺史に改め、政を為すこと愈よ弊る。高祖義を建てて洛に入る。阮郡より来朝す。旋って本州指揮使石重立に殺され、挙族孑遺無し。

胡饒

胡饒は大梁の人である。若い頃、本鎮の連帥に仕えて都吏となり、馬歩都虞候を歴任した。時に唐の明宗がその地を鎮守し、部将の王建立と親しくしていたが、明宗が即位すると、建立は常山を領し、胡饒を真定少尹に奏薦した。胡饒は元来、邪悪な人物であり、府幕に在ってからは、士君子の風はなかった。かつて趙郡に因事した際、平棘県令の張鵬という者が献策し、建立に境内の各県が管轄する郷ごとに郷直一人を置き、毎月県令の出入りや行いを記録させるよう請うたが、胡饒はこれを導いて推薦したのである。建立がこれを実施して一年余り、訴訟が蜂起し、四郡は大いに擾乱した。天成の末、王都が乱を構えると、密かに使者を遣わして建立と兄弟の国を結ばせようとした。時に胡饒はまた、かつて梁の右庶子張澄を判官に推薦し、建立も彼を親しんでいた。張澄はもともと学問を知らず、座に在るごとに『陰符経』『鬼谷子』を以て己が任としていた。建立は時に密かに王都との盟約を彼に告げ、張澄と胡饒はともにその事を賛成したが、王師が中山を包囲したため、その事は遂に止んだ。胡饒の凶悪さはこのようなものであった。清泰の初め、馮道が同州に出鎮すると、胡饒は時に副使であり、馮道は重臣として接遇を疎かにしたため、胡饒はこれを憤り、毎度酒に乗じて牙門で馮道を罵ったが、馮道は必ず招き入れて酒肴で待遇し、敬意を表して退かせた。馮道は左右に謂って曰く、「この人は不善を為す者、自ら報い有るべし、吾何ぞ怒らんや」と。胡饒は後に河陽に閑居した。天福二年夏、張従賓が乱を起こすと、胡饒はその麾下に謁して、その行動に加わることを請うた。従賓が敗れると、胡饒は王建立が平盧を鎮守していると聞き、走ってこれに投じたが、建立は招き入れて城中で斬り、これを上聞した。聞く者は快とした。

劉遂清

劉遂清、字は得一、青州北海の人、梁の開封尹劉鄩の甥である。父の劉琪は鴻臚卿を以て致仕した。遂清は若くして聡敏、初め梁に仕えて保鑾軍使となり、内諸司使を歴任し、荘宗が汴に入ってもその職を改めなかった。明宗が即位すると、検校尚書僕射を加えられ、西都の監守を委ねられた。一年余りして、中山の王都に不臣の跡有りとし、遂清を易州刺史に除して、その侵攻の要衝を防がせた。郡に至ってからは、大いに侮を禦ぐ方略有り、境内はこれに頼った。王都が平定されると、検校司空しくうを加えられ、棣州刺史に遷った。天成・長興年中、淄・興・登の三郡を歴任し、皆善政有り。(『通鑑』潞王紀に曰く、帝が鳳翔に起つに当たり、興州刺史劉遂清を召したが、遅疑して至らなかった。帝が洛に入ったと聞くと、三泉・西県・金牛・桑林の戍兵を悉く集めて帰還し、散関以南の城鎮は全て棄てたので、皆蜀人の所有となった。入朝すると、帝は罪を治めようとしたが、自ら帰還したことを以て赦した。)高祖即位の二年、鳳州防禦使を授けられ、検校司徒しとを加えられ、母の喪に遭うと、起復して内客省使・右監門衛大將軍を授かった。六年、車駕が鄴都に幸すと、宣徽北院使兼判三司に転じ、検校太保を加えられた。七年、少帝が位を嗣ぐと、右領軍衛上將軍を加えられ、仍って竭誠翊戴保節功臣を賜った。八年、鄭州を領することとなり、検校太傅を加えられた。開運二年、安州防禦使に遷った。間もなく、上表して疾を称し、詔して便宜を許されたが、上蔡に回って郵舎にて卒した。時に三年四月なり。

遂清は性、至孝にして、淄川を牧した日、北海よりその母を郡に迎え、母が境に及ぶと、遂清は路傍に奔馳し、轡を控えて数里を行き、父老の観る者、堵の如し、当時これを栄とした。遂清は素より書を知らず、ただ多く計画有り、三司を判じた日、毎に百官の俸料を給するに、判官と議して曰く、「斯の輩は全て才能有るに非ず、多くは世祿の家なり、その汚れを澄まして清き者を留むべし」と。或る者対えて曰く、「昔、唐朝の渾・郭・顔・段、一たび赦出づる毎に、一子を以て出身せしめ、率ね常制と為し、且つ賞を延べて裕を垂る、国の美譚と為す。未だ月給に因りて沙汰せんと欲する有らず、恐らく未だ当たらず」と。群論ここに由りてこれを減ず。

房暠

房暠は京兆長安ちょうあんの人である。若くして唐の宰臣崔魏公(崔胤)の家臣となり、後に乱に因り、蒲州に客寓した。天成年中、唐の末帝が河中に出鎮すると、房暠は路左に迎謁し、軍門に事えることを求めた。末帝はこれを愛し、賓客を治めさせた。末帝が登極すると、南北院宣徽使を歴任し、尋いで趙延寿とともに枢密使となった。時に薛文遇・劉延朗の徒が朝中で事を用い、房暠は密地に処すといえども、その聴用される言は、十に三四を得ず、ただ勢いに随って可否し、事に先んぜず。毎に朝廷に大事有れば、房暠は端明学士等と環坐して会議するも、多くは衆中にて俯首して睡り、その事を避くること、此の如し。高祖が即位すると、房暠が閏朝に濡足し、与奪に専らせざりしを以て、故に特恩を以てこれを原い、左驍衛大將軍と為し、西京に留めた。開運元年春、洛陽らくようにて卒す。

孟承誨

孟承誨は大名の人である。始め本府の牙校となり、高祖がその地に臨むに遇い、客将に昇った。後に宗城県令に奏され、秩満して、百姓の挙留に因り、常山槁城県令となり、皆善政有り。高祖が天下を有つと、閣門副使に擢でられ、累遷して宣徽使となり、官は検校司空・太府卿・右武衛大將軍に至った。少帝が位を嗣ぐと、その性、繊巧にして、旨に希うに善くし、また権臣宦官と密かに表裏を相なすを以て、凡そ朝廷の恩沢美使は、必ず承誨これを為し、一年の中、数四止まず。ここに由りて居第は華敞、財帛は累積した。契丹が汴に入ると、張彦澤が兵を引いて宮城を逼り、少帝は承誨を召してこれを計ったが、承誨は身を匿して赴かず。少帝が既に宮を出て、開封府舎に寓すと、具に承誨の恩に背くの事を彦澤に告げ、捕えて殺すことを命じた。その妻女は並びに部族に配された。漢の高祖が汴に入ると、詔して太保を贈った。

劉継勛

劉継勛は衛州の人である。唐の天成年中、高祖が鄴都を鎮守すると、継勛は時に客将であり、高祖はその端謹を愛し、その名を帳下に籍した。数鎮に従って歴任した。即位すると、閣門使に擢でられ、淄州刺史として出で、澶州防禦使に遷り、俄かに鄭州に改め、宣徽北院使より華州刺史に拝された。一年余りして、同州を鎮守した。初め少帝が契丹と絶好すると、継勛もまたその謀に預かり、契丹主が闕に至ると、継勛は鎮より来朝したが、契丹はこれを責めた。時に馮道が側に在り、継勛は事急なり、馮道を指して曰く、「少帝は鄴に在りし時、馮道は首相として、景延広と謀議し、遂に南北の歓を失わしめたり。臣の位は卑しきに至り、未だ嘗て措言せず。今馮道に問わんことを請う。馮道は細かにこれを知る」と。契丹主曰く、「この老子は好んで鬧す人に非ず、相牽引すること無かれ。皆爾輩の為すところなり」と。継勛は敢えて復た対えず。継勛は時に疾有り、契丹主は因って人をしてその疾状を候わしむるに、風痹有りと云う。契丹主曰く、「北方の地は涼し、これに居すればこの疾癒ゆべし」と。乃ち継勛を鎖することを命じた。尋いでこれを解き、疾を以て家に終わる。(『通鑑』に曰く、契丹主は趙在礼の死を聞き、乃ち継勛を釈く。継勛は憂憤して卒す。)漢の高祖が汴に入ると、太尉を贈った。

鄭受益

鄭受益は、(『新唐書・宰相世系表』によれば、字は謙光という。)唐の宰相鄭餘慶の曾孫である。余慶は浣を生み、浣は從讜を生んだ。從讜は二度太原節度使となり、再び宰相の位に登った。從讜の兄處誨は、汴州節度使となった。家は清儉を襲い、深く士風を有し、朝廷の礼法においては、鄭氏を第一とした。處誨は受益を生んだ。受益もまた文学をもって身を立て、累ねて台閣を歴任し、尚書郎より右諫議大夫に遷った。天福七年の夏、張彦澤が数々不道を行ったことを以て、上章して国典の執行を請うたが、十日経っても返答がなかった。また表を奉って切に言上し、忌憚なく直言したので、執政は次第に彼を憎むようになった。やがて病を理由に告暇を請い、長安に帰った。高祖が崩御すると、国哀に赴かなかったことを以て任を停められたが、赦令に遇い、京兆少尹に拝された。宰相趙瑩が咸秦に出鎮すると、受益を朝班の旧僚として、非常に厚く遇した。天下に金穀を借りる率が定められた折、受益は瑩に言うには、「京兆の戸籍の増減、民力の虚実は、私が詳しく知っております。品定めしてこれを定めれば、平允にすることができます」と。瑩はこれを信じ、彼を使者とともにその事を掌らせた。受益は既に廃棄された経歴があり、仕宦に淡泊であったため、法に阿って利を射、生計の資としようとした。また元より門閥を恃み、同僚を陵轢し、内は奸にして外は直く、群情として相和する者はなかった。そして贓汚の事が発覚し、衆口に騰ると、瑩は已むを得ず、遂にこれを取り調べたところ、その額は百万に及んだ。八年の冬、家で死を賜った。受益は数世にわたり公台の家柄でありながら、一朝にして自らを棄てたので、士君子は皆これを惜しんだ。

程遜

程遜は、字を浮休といい、壽春の人である。(案:この下に闕文がある。)翰林に召し入れられ学士を充たし、兵部侍郎承旨より太常卿を授かった。天福三年の秋、呉越に使者として命ぜられ、(『十国春秋』によれば、礼部尚書程遜が加恩使となった。)母は老いて羸弱で両目が見えなかったが、遜は一度も執政に申し出てこれを辞そうとはしなかった。出発に際し、母は手でその顔を撫で、号泣して見送った。仲秋の夕べ、陰暝として晦の如く、遜は嘗て詩に詠んだことがあった。「幽室有時聞雁叫、空庭無路見蟾光」と。同僚がこれを見て、その詩語が稍々異なるのに訝った。使者として戻る途中、風水に遭って溺死した。

李郁

李郁は、字を文緯といい、唐の宗属である。若くして宗寺の官を歴任し、天成・長興年間に、累遷して宗正卿となった。性質平允にして、歴任したところに愛憎毀譽がなかった。高祖が即位すると、光禄卿を授かった。ある日昼寝をし、大きな棗を食べる夢を見て、目覚めると病を得た。親友に謂うには、「嘗て『棗』の字は『來』を重ねたもの、魂を呼ぶ象であると聞く。我が神気は逼塞しておる、免れぬであろうか」と。天福五年の夏に卒した。太子太保を贈られた。馬重績は、字を洞微という。若くして数術を学び、太一・五紀・八象・三統大暦に明るく、太原に居住した。晋に仕え、太子右賛善大夫に拝され、司天監に遷った。天福三年、重績が上言して曰く、「暦象は、王者が一気の元を正し、万邦の命を宣べるものであるが、古今の記すところ、考審多く差謬がある。『宣明暦』は気朔は正しいが星度が験さず、『崇元暦』は五星は得るが歳差が一日ある。『宣明』の気朔と『崇元』の五星とを合わせ、二暦を相参らせれば、然る後に符合する。前世の諸暦は皆、天正十一月を歳首とし、太古の甲子を上元としており、積年愈々多くなるに従い、差謬愈々甚だしい。臣は敢えて二暦を合わせ、新法を創り、唐の天宝十四載乙未を上元とし、雨水正月中気を気首としたい」と。詔して司天監趙仁琦・張文皓等に得失を考核させたところ、仁琦等は言うには、「来年庚子の正月朔、重績の暦を用いてこれを考うるに、皆合して誤りなし」と。乃ち詔してこれを頒行し、『調元暦』と号した。これを施行すること数年にして誤差が生じ、遂に用いられなくなった。重績はまた言うには、「漏刻の法は、中星を以て昼夜を考え百刻とし、八刻六十分刻の二十を一時とし、時は四刻十分を以て正とする。これは古来用いられてきたものである。今その伝を失い、午正を時の始めとし、未の四刻十分を侵して午としている。これにより昼夜昏暁、皆その正を失っている。古に依って改正することを請う」と。これに従った。重績は六十四歳で卒した。

陳元

陳元は、京兆の人である。家世代々医を業とし、初め河中の王重栄に仕えた。乾符年間、後唐の武皇が太原より師を率いて王行瑜を攻めるに当たり、路は蒲中に出た。時に元は湯薬を侍り、武皇は甚だこれを重んじた。太原に還ると、日々左右に侍った。武皇の性質は剛暴で、殺人を好み、敢えて言う者はいなかった。元は深くその心情を測り、暴怒がある毎に、従容として諫めを啓き、禍を免れた者は少なくなかった。これにより晋人は深くその徳を感じ、勲貴よりの賂遺が門に満ちた。性質は酒を好み施しを楽しみ、得るに随って私積はなかった。明宗の朝、太原少尹となり、入って太府卿となった。長興年間、平生験を得た方七十五首を集め、併せて薬を修合する法百件をまとめ、『要術』と号し、石に刊して太原府衙門の左に置き、衆に示した。病める者はこれに頼った。天福年間、耄期に及び上表して退任を求め、光禄卿を以て致仕し、晋陽にて卒した。年八十余。

【史評】

史臣曰く、善を彰わし悪を癉すは、『麟史』の義とする所なり。瑜瑕を掩わずは、虹玉の徳とする所なり。故に崇弼より以下、善なる者は既にこれを書き、その善からざる者もまたこれを書き、後世の君子に善を見ること及ばざるが如くし、悪を見ること湯を探るが如くせしめんことを庶幾うのである。重績の暦法、陳元の医道の如きに至っては、またその名を漏らして記さざるべからざるものである。