舊五代史

晉書しんじょ二十一: 列傳十 皇甫遇 王清 梁漢璋 白奉進 盧順密 周環 沈贇 吳巒 翟璋 程福贇 郭璘

皇甫遇は常山の人である。父の武は太原に流寓し、嘗て遮塞軍使を為した。遇は少より勇を好み、壮に及び、虬髯にして騎射に長じた。唐の明宗が藩鎮に在った時、その麾下に隷し、累ねて戦に従って功有り。明宗即位すると、龍武都指揮使に遷り、遙かに嚴州刺史を領し、東川を討つに出で、行營左軍都指揮使と為った。應順・清泰年中、累ねて團練防禦使を歴任し、尋いで鄧州節度使に遷る。至る所苛暴にして誅斂を務めとし、その幕客多く私に去りて、その累を避く。高祖こうそ洛に入ると、中山を領するに移し、俄かに鎮州の安重榮と婚家を為すを聞き、乃ち上黨に移鎮し、又平陽に改む。咸に憸人を以て事を執り、政事隳紊す。河陽を鎮するに及び、部内に別業を創め、畎水泉を開きて以て溉灌を通じ、経る所の墳墓悉く之を毀ち、部民朝廷方に郡帥を姑息するを以て、敢えて之を訴うる者無し。少帝即位すると、闕下に罷め帰る。二年、契丹南寇し、澶州に従い至り、鄆州北津に戦う。契丹の衆大いに敗れ、溺死する者数千人、功を以て滑州節度使に拝す。三年、契丹衆を率いて邯鄲に屯し、遇は安審琦・慕容彥超等と之を禦ぐ。遇將に漳河を渡らんとす、契丹の前鋒大いに至り、遇引き退き、転闘二十里して鄴南の榆林店に至る。遇審琦等に謂いて曰く「彼衆我寡、走れば生路無し、血戦するに如かず」と。遂に辰より未に及び、百余合戦い、傷む所甚だ衆し。遇の乗ずる馬鏑に中りて斃る。遇に紀綱杜知敏有りて馬を遇に授く。遇馬を得て復た戦い、久しくして稍く解く。杜知敏已に獲らるる所と為る。遇彥超に謂いて曰く「知敏蒼黄の中に在りて、馬を我に授くるは義なり、安んぞ賊中に陷らしむべけんや」と。遂に彥超と躍馬して知敏を取りて還る。敵騎之を壮とす。俄にして生軍復た合し、遇解く能わず。時に審琦已に安陽河に至り、首將張從恩に謂いて曰く「皇甫遇等未だ至らず、必ず敵騎に囲まるる所と為らん。若し急に救わざれば、則ち擒と成らん」と。從恩曰く「敵甚だ盛んにして、以て枝梧すべき無し。將軍独り往きて何の益かあらん」と。審琦曰く「成敗は命なり。設い若不濟せば、則ち之と俱に死せん。仮令此の二将を失わば、将に何の面目を以て天子に見えんや」と。遂に鉄騎を率いて北に渡り之に赴く。契丹塵の起るを見て、救軍並び至るを謂い、乃ち引き去る。遇と彥超数創に中りて還るを得、時に諸軍嘆じて曰く「此の三人皆猛将なり」と。遇累官して檢校太師・同中書門下平章事に至る。四年、契丹復た至り、杜重威に従い滹水に営す。重威款を契丹に送る。遇其の議に預からず、降るに及び、心之を平らかならず。時に契丹遇を遣わして先ず汴に入らんと欲す。遇之を辞し、因りて私に人に謂いて曰く「我身国恩に荷い、位将相を兼ぬ。既に軍陣に死する能わず、何の顔を以て旧主に見えんや。更に命を受けて之を図らば、忍ぶ所に非ず」と。明日、趙郡に行き至り、其の県舎に泊す。従者を顧みて曰く「我已に信宿食せず、疾甚だし。主辱しめば臣死す、復た南行せず」と。因りて吭を絶ちて殞る。遠近聞きて之を義とす。漢の高祖登極し、詔して中書令を贈る。

周の廣順三年正月、遇の妻宋国夫人霍氏上言し、度して尼と為らんことを請う。周の太祖之を許し、仍って紫衣を賜い、号して貞範大師と為し、法名惠圓、又夏臘十を賜う。

王清は字を去瑕と云い、洺州曲周の人である。父の度は世農を為す。清は少より勇力端厚を以て郷里に称せらる。後唐の明宗行臺を領し、歩直軍を置く。清其の募に預かり、漸く小校に升る。同光初め、河上に戦うに従いて功有り、忠烈功臣を賜う。明宗即位し、天成より清泰末に至るまで、厳衛・寧衛指揮使を歴任し、檢校右散騎常侍さんきじょうじを加う。天福元年、高祖義を建てて洛に入る。檢校刑部尚書を加え、改めて扈蹕忠孝功臣を賜う。三年、楊光遠に従い鄴に於て範延光を平ぐ。奉国軍都虞候に改む。六年、襄州の安從進叛く。高行周に従い之を討ち、年を逾ぎて下らず。一日、清先登を請う。諸軍其の後に継ぐ。会に内応する者有り、遂に其の城を抜く。清重創に中る。詔有りて褒慰す。七年、改めて推忠保運功臣を賜い、金紫光禄大夫を加え、溪州刺史を領す。八年、詔して遣わし以て所部の兵を鄴に屯せしむ。九年春、契丹南牧し、其の城を囲む。清は張從恩と之を守る。少帝飛蠟詔を以て勉諭し、第宅を錫う。契丹退く。幹城の功を以て、軍額を継ぎ遷す。開運二年春三月、杜重威に従い北征し、陽城の囲みを解く。檢校司徒しとを加う。是の歳秋七月、詔して遣わし皇甫遇と糧を援けて易州に入らしむ。十一月、杜重威に従い瀛州を収む。契丹大いに至るを聞く。重威諸軍を率いて滹水に沿いて西し、将に常山を保たんとす。中渡橋に至るに及び、契丹已に北岸に屯す。其の月二十七日より十二月五日に至るまで、軍解く能わず。時に契丹至り、騎の精なる者を留めて以て我を禦ぎ、其の弱者を分かち、故霊都城より其の山足に縁り、滹沱の浅き処に渉り、衆を引いて南し、趙郡に至る。凡そ百余里、我が飛輓を断ち、且つ帰路を扼す。清勢蹙るるを知り、重威に謂いて曰く「軍常山を去ること五里、此に株を守り、営孤く食尽くば、将に之を若何せん。請う歩兵二千を以て前鋒と為し、橋を奪い路を開かん。公は諸軍を率いて之に継ぐべし。期して常山に入らば、必ず済まん」と。重威之を可とし、宋彥筠を遣わして俱に行かしむ。清一撃して其の橋を獲る。契丹之の為に小く却く。重威猶して進まず、密かに已に国に貳す。彥筠退き走る。清陣を北岸に列し、部曲を厳しく戒む。日暮れて、酣戦息まず。契丹生軍を以て継ぎ至る。我が軍寸刃を以て之を益す無し。清其の下と歿す。時に年五十三。契丹尋いで戦う所の地に一の京観を築く。漢の高祖即位に及び、人をして之を平げしめ、清に太傅を贈る。是の歳、清の子守鈞本邑の義化別業に於て、魂を招き以て之を葬る也。

梁漢璋、字は國寶、應州の人である。若くして勇力をもって唐の明宗に仕え、突騎・奉德指揮使を歴任した。高祖が即位して二年、遙かに欽州刺史を領す。三年、檢校司空しくうを加えられ、護聖都指揮使に改む。七年、檢校司徒に遷り、遙かに閬州團練使を領す。八年、陳州防禦使を授けられ、少帝に従い澶州より還り、檢校太保・鄭州防禦使に改められ、侍衛馬軍都指揮使を充て、まもなく永清軍兵馬留後を除かれ、俄かに正しく節制を授かる。この年、詔して千騎を率いて冀州を戍らしめ、まもなく杜重威が北討するに及び、詔して漢璋を以て北面馬軍都排陣使を充て、淤口關を収めしむ。契丹の騎兵五千と浮陽の北界において相遇い、終日苦戦し、衆寡相侔わざるを以て、流矢に中り、陣に歿す。即ち是れこの歳十一月なり。時に年四十九。漢璋は戎馬に熟し、累ねて軍功あり。藩郡となるに及び、至る所にて聚斂を好み、善政記すべきなし。甘陵を鎮するに及び、甚だ契丹を平らげんとする志ありしも、但だ領する所の偏師を以て、驟かに敵に逢えし故に、是の衄有りしなり。是の月、其の子海榮、漢璋の乗りし鞭馬及び器仗を進む。帝これを傷み、乃ち太尉を贈る。

漢璋に弟漢瑭あり。亦た槊を用いるに善くして時に名有り。天成中、魏府效節軍使となり、定州の王都を攻む。漢瑭、督する所の一軍を率いて首として其の城に入り、王都及び蕃將托諾並びに名馬数駟を獲たり。時に範延光常山に鎮す。其の駿なる者を欲すと雖も、漢瑭諾せず。後、漢瑭趙郡に兵を屯す。事に因りて奏し而して之を殺す。時人これを冤とす。

白奉進、字は德升、雲州清塞軍の人なり。父は達子と曰い、世々朔野に居り、弋獵を以て事とす。奉進、少より騎射に善くし、後唐の武皇太原に鎮するに及び、奉進軍門に謁し、以て自效を求め、武皇麾下に納る。莊宗の夾寨を破れるに、奉進身を挺して首として賊鋒を犯す。莊宗之を睹て壮とす。後に従い山東河上に戦い、功に継ぎて龍武指揮使に遷る。同光中、魏王繼岌しょくを伐つに及び、擢でられて親軍指揮使と為る。天成・長興中、上軍を統べ、檢校右散騎常侍を加えらる。應順中、轉じて捧聖右廂都指揮使・檢校刑部尚書と為り、忠順保義功臣を賜い、遙かに封州刺史を領す。清泰中、檢校右僕射・唐州刺史を加えられ、郡を治めること逾年、甚だ政績有り。高祖即位し、闕に征し赴かしむ。超えて檢校司徒を加え、護聖左廂都指揮使を充て、遙かに歙州刺史を領す。初め奉進に女有り、皇子重信に嫁ぐ。故に高祖特に倚愛す。二年、護聖左右廂都指揮使に改む。是の歳、車駕夷門に幸す。五月、昭信軍節度を領し、侍衛馬軍都指揮使を充つ。六月、範延光鄴に拠りて乱を為す。詔して騎軍三千を率いて北に滑臺に屯せしむ。時に符彥饒滑州節度使と為る。一夕、軍士有りて夜に居人を掠む。奉進之を捕え、凡そ五盜を獲たり。三は奉進の本軍に在り、二は彥饒の麾下に在り。尋いで命して俱に之を斬る。彥饒其の先づ告げざるを怒り、深く之を銜む。明日、奉進の左右奉進に勧めて面謝せしむ。奉進之を然りとし、従騎数人を以て牙城に於いて彥饒を候う。既に入り、且つ其の過を述ぶ。彥饒曰く「軍中の法令、各おの部分有り。何ぞ滑州の兵士を将いて一例に処斬せん、殊に主客の義無きに似たりや」と。奉進曰く「軍士法に抵る、寧ぞ彼我有らんや。今仆咎を以て自ら陳す。而して公怒息まず。莫れかは範延光と同く反するか」と。因りて衣を拂いて起つ。彥饒留めず。其の帳下の介士大いに噪ぎ、奉進を擒えて殺す。是の日、歩軍都校馬萬・次校盧順密、奉進の害に遇えるを聞き、其の歩衆を率いて滑の子城を攻め、彥饒を執りて京師に送り、班荊館の北にて戮す。高祖奉進の倉卒に禍に遇えるを以て、久しく嘆惜し、詔して太傅を贈る。

盧順密、汶陽の人なり。初め梁の將戴思遠に事えて歩校と為る。思遠鄆州節度使と為り、部兵を領して德勝渡に屯し、順密を留めて其の城を守らしむ。順密北軍の日々に盛んなるを睹て、遂に遁れて莊宗に帰し、且つ鄆城方に虚なるを言いて、襲いて之を取るべしとす。莊宗之を信じ、尋いで明宗を遣わし衆を率いて鄴に趨かしむ。果たして之を抜く。順密の始謀によるなり。莊宗尋いで順密を帳下に列し、累ねて遷りて軍校と為る。明宗即位し、数郡の刺史を歴任す。順密性篤厚にして、諸軍に臨み、百姓を撫ずるに、皆仁愛の誉有り。高祖の車駕夷門に幸するに及び、範延光鄴城ぎょうじょうに拠りて叛く。高祖諸将に命じ相次いで軍を領して之を討たしむ。順密亦た其の行に預かる。時に騎將白奉進滑州に屯す。尋いで滑帥符彥饒に為りて殺さる。軍衆大いに乱れ、争って戈を荷い刃を抜き、外に啖呼す。時に馬萬歩軍都校と為り、之を遏せず。順密未だ其の心を明かさず、乃ち部曲数百を率い、趨りて諸軍及び萬に謂いて曰く「滑臺行闕を去ること二百里、我等が家屬闕下に在り。爾輩此くの如くして、血族を思わざるか。奉進見殺さるるは、過ち彥饒に在り。擒えて天子に送らば、必ず大功を立つべし。我に順う者は之を賞し、順わざる者は之を殺す」と。萬曰く「善し」と。諸軍遂に敢えて動かず。乃ち軍を引きて北に牙城を攻め、樓上に於いて彥饒を執り、裨將方太をして赴闕に押送せしむ。滑城遂に定まる。朝廷即ち馬萬を以て滑州節度使と為す。時に飛奏皆萬を以て首と為す故なり。後数日、高祖功の順密に由るを知り、尋いで順密を以て涇州留後と為す。鎮に至ること未だ幾ばくもあらずして卒す。高祖甚だ之を悼み、ぎょう衛上將軍を贈る。

周瑰、晉陽の人なり。少より端厚にして、書計に善くし、高祖の時より藩翰を歴鎮するに及び、腹心として用いられ、累職して牙門都校に至る。凡そ帑廩の出納、咸く瑰に委ぬ。十余年を経て、未だ嘗て微累を以て誤られるを見ず。高祖甚だ之を重んず。即位するに及び、命して権に三司事を判せしむ。未だ幾ばくもあらず、辞して曰く「臣才軽くして任重し、終に濟わざるを懼る。苟も事を避けんが為めに、寵に冒りて罪を獲ば、願わくは陛下其の疲駑を哀れみ、散秩を以て優にせよ。臣が幸いなり」と。高祖之を可とす。尋いで命して権に河陽三城事を総べしめ、数月にして安州節度使に改めて授く。民に臨むに恵有り、軍を禦するに甚だ厳しく、一境之を安んず。先ず是れ、威和指揮使王暉部下の兵を領して安陸に屯す。瑰鎮に至り、之を待つこと甚だ厚し。俄かに範延光の魏博に叛き、張延賓の汜水に寇するを聞く。暉、瑰が高祖の元臣なるを以て、幸いに国朝方に危きに乗じ、遂に瑰を理所に害し、自ら州事を総べ、以て延光勝たば則ち之に附き、敗れば則ち江を渡りて遁れんとす。斯れ其の計なり。既にして襄陽の安從進行軍司馬張朏を遣わし、復州の兵と要路に会して之を僥す。李金全詔を承けて継ぎて至る。暉遂に城中の財帛士女を掠め、江南に奔らんと欲す。尋いで其の下の為めに殺さる。金全至り、尽く其の党を誅す。高祖瑰の害に遇えるを聞き、久しく嘆息し、詔して太傅を贈る。

沈贇は、字を安時といい、徐州下邳の人である。若い頃より胆力と気概があり、初め梁の太祖に仕えて小校となった。天祐三年、同州左崇勇馬軍指揮使に補任され、宮中に入って衛兵を統率し、龍驤・拱宸都指揮使を歴任し、数々の戦功を重ねた。荘宗が梁を平定した後、段凝らに従って降伏し、その職は変わらなかった。同光三年、魏王継岌に従って蜀を平定し、康延孝の反乱に際しては、魏王が贇を一行馬歩都虞候に任命し、任圜に従って漢州で延孝を襲撃し、これを捕らえて献上した。勲功を記録する前に、明宗が即位した。天成初年、検校司空・虢州刺史を授かり、その後、壁・随・石・衛・威・衍・忻・趙の八州刺史を歴任し、累官して検校太保に至り、輸忠宣力功臣の称号を賜った。開運元年、祁州刺史となった。その年の冬、契丹が侵入し、恒州から引き返す際、疲弊した兵で牛羊を駆りながら城下を通り過ぎた。贇は州兵を出してこれを撃とうとしたが、契丹は精鋭の騎兵で城門を遮断して迎え撃ち、州兵は賊中に陥った。趙延寿は守備がないと知り、蕃賊と急攻し、なお呼びかけて贇に言った、「沈使君は我が旧知である。禍を選ぶなら軽い方を選ぶがよい。早く城を降伏させ、自ら辱めを受けるな。」贇は城上に登って呼ばわった、「侍中(趙延寿)父子は誤った計略により契丹に陥り、氈幕の衆を以て父母の邦を害することを忍び、自ら羞じ慚じることもなく、かえって恩を施したような顔をしている。沈贇は寧ろ国家のために死すとも、決して汝らの所為に倣うことはない。」翌日、城は陥落し、贇は自ら剣で頸を切り、死んだ。家族は敵に捕らえられた。

吳巒は、字を宝川といい、汶陽盧県の人である。若い頃から学問を好み、経書の学業で郷試を受けたが及第しなかった。唐の長興初年、沙彦珣の従事となり、累進して大同軍節度判官となった。高祖が帝号を建てた時、契丹が太原を救援したが、彦珣は雲中を拠点とし、態度を二転三転させて傍観していた。契丹が塞外に帰還する際、彦珣は城を出て迎え謁見したが、まもなく捕らえられた。その時、巒は城中におり、配下の者たちに言った、「礼義の人たる者がどうして異姓に臣従できようか。」即座に雲州の将吏と共に門を閉ざして守りを固めた。契丹は大いに怒り、攻撃したが、半年経っても陥落させられなかった。高祖が契丹に書を送ったため、包囲を解いて去った。巒を朝廷に召し還し、徐州節度使を授け、さらに右諫議大夫に転じ、復州防禦使となったが、数年で罷免されて帰郷した。初め、朝廷は甘陵が水陸の要衝の地であるため、契丹の南侵を憂慮し、急ぎ糧秣を運んでその郡を充実させ、大軍の数年にわたる備えとした。王令温が帥となった時、軍校の邵珂という者がいた。性質が凶暴で横柄であり、令温はある事を理由に彼を代えさせ、もはや用いず、城中に閑居させていた。その子が人を殺し、多額の賄賂で償って事を収めたが、まもなく州吏に脅迫され、また財産を尽くしてその口を封じた。これ以来、特に怨恨を蓄え、無頼の者を使い、契丹に亡命させて言わせた、「州には蓄積された穀物があり、内には精兵がいない。包囲して攻めれば、必ず陥落させられる。」令温が入朝した時、政務を執る者は、巒が雲中での難事において善く守った功績があるとして、遂に軽車に乗せて赴かせ、貝州軍州事を権知させた。着任すると、折しも大寒となり、軍士で衣服のない者には全て衣服を与えた。平生廉潔で倹約し、財貨の蓄えがなく、ついには帳幕を破ってまで彼らを救済した。かくの如く誠意をもって士卒を慰撫したのである。邵珂は一度会うと、自ら効力を尽くすことを求め、巒は即座に聞き入れて任用した。巒は元来書生であり、側近に頼るべき者もいなかった。珂は慷慨して自ら志を述べ、左右で死力を尽くすことを願い、巒は義兵を監督させ、城の南門を守らせた。天福九年正月、契丹が大挙して到来した。一日目は大声で騒ぎながら城を包囲し、翌日は四囲の城壁に向けて攻撃用具を並べ、三日目は契丹主自ら歩兵・奚および渤海夷などを率いて四方から進攻した。巒の兵衆は夾城の中に薪を投げ入れ、続いて松明の火を放ち、敵の雲梯や衝車はほとんど焼き尽くされた。この日、敵は再び包囲を固め、郡中の壮丁は皆、城壁に登って守備した。やがて珂が南門から敵騎兵を引き入れて共に入城した。巒は東門を守っていたが、その事を知らず、側近が告げた、「邵珂が背きました!」巒は城中がすでに混乱しているのを見て、直ちに馬を馳せて公館に戻り、井戸に身を投じて死んだ。契丹は遂にその城を屠殺した。朝野の士人庶民、これを聞く者は皆嘆き惜しんだ。

翟璋は、どこの人か詳らかでない。勇を好み力が強く、当時、大蟲(大きな虫、つまり虎)と見なされ、すなわち「虎癡」と呼ばれた。後唐の天成初年、鄴都馬歩軍都指揮使から平州刺史を領し、まもなく復州防禦使に改めた。三年三月、新州威塞軍両使留後に遷った。四年五月、正式に節度使の節旄を授かった。長興元年二月、検校太保を加えられ、入朝して右領軍衛上将軍となり、左羽林統軍に転じた。清泰年間、再び新州を領した。高祖が挙兵すると、新州を割いて契丹に属させた。当時、契丹の大軍が帰国する際、璋に管内で犒宴の費用を割り当て徴発させたが、十万緡に及ぶ必要があり、山後は土地が貧しく、民は堪えることができなかった。初め契丹は甘言で璋を慰撫し、璋は必ず南帰できると思っていたが、璋に叛いた奚の平定や雲州包囲を任せて功績があったため、留め置いて帰さなかった。璋は鬱々として志を得ず、病気にかかりまもなく死去した。

程福贇は、どこの人か詳らかでない。性質は沈着で温厚、勇力があり、累進して軍校となった。天福七年冬、杜重威が鎮州を討伐し、安重栄と宗城で大戦した時、功績により洺州団練使・検校太保に昇進し、間もなく入朝して奉国左廂都指揮使となった。九年春、少帝が澶淵に行幸しようとした時、福贇の部下に文栄ら八人の軍士がおり、密かに乱を謀り、自らの兵営で放火した。福贇は直ちに腹心の兵士を率いてこれを鎮圧し、福贇自身も傷を負った。福贇の性質は元来純朴で温厚であり、また天子の行幸中であったため、秘密にして上奏しなかった。同僚の李殷は、福贇の下位にいて名がなく、福贇を陥れて自ら昇進しようと企み、密かにこの事を上奏し、言った、「福贇が乱を起こさないなら、どうして何も言わないのか。」少帝が封丘に至ると、福贇を商州刺史として出させ、まもなく獄に下して取り調べた。福贇は終始自らの潔白を明らかにせず、ついに殺害された。人々は甚だ冤罪であるとした。

郭璘は、邢州の人である。初め後唐の明宗に仕え、次第に昇進して軍校となった。天福年間、奉国指揮使となり、数郡の刺史を歴任した。開運年間、易州を領するよう移され、契丹がその郡を攻撃した時、璘は士卒を率いて励まし、苦楽を共にしたため、敵は陥落させることができなかった。さらに州兵を率いて賊を撃ち、数度利益を得たので、朝廷はこれを賞賛し、そのまま検校太保を加えた。契丹主はかつて側近に言った、「我は天下を畏れないが、この人物に抑え挫かれるとは!」杜重威が降伏すると、契丹は通事の耿崇美に命じてその民衆を誘い、璘はこれを制することができず、城が降伏すると、崇美に害された。漢の高祖が即位すると、詔して太傅を追贈した。

史臣曰く、前代人臣の事跡を観るに多けれども、もし世道が泰平であれば、寵愛に安住し俸禄に頼る者は実に多い。世運が既に困難に陥れば、死を効し忠を尽くす者は幾人もいない。皇甫遇が憤激して没し、王清が血戦して亡くなる如きは、近世以来、数人に過ぎない。あるいは難に臨んで身を捨て、あるいは守るべき地で害に遇う者は、妖艷に惑わされて命を喪い、濃い酒によって身を亡ぼす者に比べれば、その隔たり遠きこと、蓋し遠しと言えよう。ただ順密が滑臺の乱の端緒を抑え、晋室の危険に臨んで救ったことは、これまた忠と謂うべきであろう。