舊五代史

晉書しんじょ二十: 列傳九 萇從簡 潘環 方太 何建 張廷蘊 郭延魯 郭金海 劉處讓 李瓊 高漢筠 孫彥韜 王傅拯 祕瓊 李彥珣

萇從簡

萇從簡は陳州の人である。代々羊を屠ることを業とし、数人に匹敵する力を持ち、槊を用いることに長じていた。初め後唐の荘宗に仕えて小校となり、城攻めがあるたびに梯子頭を募ると、從簡はしばしば応募した。荘宗はその勇を認め、帳前親衛を兼ねて歩軍都指揮使に抜擢した。ある日、荘宗が大軍を率いて梁軍と対陣し、高き丘に登って座っていたところ、敵の中に大旗を執ってその武勇を誇示する者がいた。荘宗はこれを指して左右に言うには、「猛士なり」と。從簡は言った、「臣、大王のためにこれを取らん」と。荘宗はその成功を危ぶみ、許さなかった。從簡は退き、ひそかに十数騎を率いて挺身して敵陣に入り、旗を奪って帰還した。万軍がどよめき、荘宗はこれを壮とし、賜り物は甚だ厚かった。またかつて矢に中り、鏃が骨に入ったことがあり、医工にこれを取り出させたが、刃で骨を穿つ際、その痛みを恐れて、しばらくしても揺るがすことができなかった。從簡は目を怒らせて言うには、「何故深く穿たぬのか」と。鏃が出ると、左右の者誰もが哀れむ様子であったが、從簡の顔色は自若としており、その勇壮さは皆この類であった。從簡の行いは多く法に背いたが、荘宗はその戦闘で多くの勝利を得ていることを以て、常に法を曲げてこれを赦した。姓を賜り、名を紹瓊とした。後に竭誠匡国功臣を加えられ、累官して金紫光禄大夫・検校太保・景州刺史に至り、洺州団練使を歴任した。梁が平定されると、蔡州を管轄した。同光四年、許州節度使を授けられたが、ちょうど荘宗が崩御したため、赴任するに及ばず止んだ。明宗が即位すると、例により本姓に復し、麟・汝・汾・金の四州刺史を歴任した。(《北夢瑣言》に云う、明宗は特に貪欲を憎み、面と向かって汝州刺史萇從簡に戒めたのは、その貪暴のためであると。)応順の初め、全軍で鳳翔を討伐した際、從簡もまたこれに加わったが、軍中に変事が起こり、東へ帰還した。道中で張廷蘊に出会い、廷蘊に捕らえられて末帝に送られた。末帝はこれを責めて言うには、「人皆我に帰するに、汝は何故我を背き去ったのか」と。從簡は言った、「主に事えて二心を抱かず、今日の死生は命に任すのみ」と。末帝はこれを釈放した。清泰二年、潁州団練使を授けられた。高祖こうそが挙兵すると、末帝は親征を議し、詔を下して闕下に赴かせ、副招討使を充て、駕に随って孟津に至り、河陽節度使に任じられた。趙延寿の軍が敗れ、浮橋を断って洛陽らくように帰還した際、從簡を留めて河陽を守らせた。高祖が北より到来すると、從簡は軍情の離散を察し、遂に河を渡って高祖を迎え謁した。天福元年十二月、許州節度使を授けられ、推忠佐運保国功臣に改めて賜った。二年秋、徐州に移鎮した。三年、開府儀同三司・検校太尉を加えられ、開国公に進封され、食邑は一千五百戸に至った。交代して帰京し、左金吾衛上將軍を授けられた。

從簡の性質は猜疑心が強く嫉妬深く、州鎮を歴任すること凡そ十余り、在任地では公署に棘を立て、やっと人が通れるほどにし、左右の者が少しでも逆らえば、即ち鞭打ちを加え、あるいは殺害に至らせ、その心中は測り難く、役人たちは皆側を歩いた。その煩瑣で苛酷な暴虐ぶりは、武臣の中で最も甚だしかった。六年秋、駕に随って鄴都に幸し、病を得て休暇を請い、間もなく郷里で卒した。六十五歳。太傅を追贈された。

潘環

潘環、字は楚奇、洛陽の人である。父の景厚は、環が貴くなるに及び、左監門上將軍を授けられて致仕した。環は若い頃、行商を業とし、初め梁の邢州節度使閻宝に仕え、帳中の親校となった。荘宗が魏博を平定し、兵を移して邢州を攻めた時、宝は環を使わして間道を馳せて梁に奏上させた。梁の末帝はこれを用いて左堅鋭夾馬都虞候とし、累遷して左雄威指揮使となった。当時、梁軍と荘宗が河上で対峙していたが、環は戦いに加わるたび、先鋒として敵陣に突入し、金瘡が体中に満ちた。(《玉堂閑話》に云う、潘環は常に顔面に流れ矢を受け、骨がその鏃を銜んでいたため、重傷を負った。治療は一年を経て、その鏃が自ら出て、その瘡は瘻管となり、終生癒えなかったと。)荘宗はその名を知り、梁を平定すると、禁軍を管轄させた。同光年中、明宗に従って北辺で契丹を防ぎ、鄴都の軍が乱を起こすと、明宗に従って洛陽に入った。天成の初め、棣州刺史を授けられた。定州の王都が反乱を起こすと、朝廷はこれを攻め、環を行営右廂歩軍都指揮使とした。賊が平定されると、易州刺史・北面沿辺都部署に改め、後に慶州刺史に移った。交代して帰京すると、明宗は召し出して対面し、侍臣を顧みて言うには、「この人は勇敢で、並ぶ者少ない」と。間もなく宿州団練使を除した。清泰年中、耀州に移った。天福年中、範延光平定に加わり、齊州防禦使を授けられた。四年、金州を節度使鎮に昇格させ、環を節度使とした。久しくして、入朝して左神武統軍となった。開運の初め、契丹が侵入し、王師が北征した際、環を北面行営歩軍左廂排陣使とし、陽城での契丹撃破に加わった。軍が帰還すると、澶州節度使を授けられ、累官して検校太傅に至った。三年、鎮を罷めて帰京し、やがて詔を受けて洛京巡検となった。その年冬、戎王が闕下を犯し、偽って劉晞を西京留守に任じた。環は巡警の任を罷め、閑居して洛陽にいた。河陽軍の乱に遭い、晞が出奔すると、間もなく、蕃将の高牟翰が兵を率いて晞を援け洛陽に入った。環に変事を起こすことを慮り、遂にこれを害し、その家財を全て奪った。(《通鑒》に云う、晞は環がその衆を唆して己を追い出したと疑い、牟翰にこれを殺させたと。)漢の高祖が京に至り、太尉を追贈した。

環は六つの部署と二つの節鎮を歴任し、赴任地では常に収奪を務めとした。宿州にいた時、牙将が些細な過ちで怒りを買い、環は鞭打ちにすると偽って言った。牙校はかつて環と親しかった一人の尼僧に託して、白金二鋌を献上した。尼僧は環のもとに至り、牙校が鐺脚二枚を贈り、その責めを免れたいと申し出た。環は言った、「鐺は本来いくつの脚か」と。尼僧は言った、「三脚です」と。環はまた言った、「今二脚で鐺が成り立つか」と。尼僧は三の数でこれを届けた。当時、人々は環を「潘鐺脚」と号した。

方太

方太、字は伯宗、青州千乗の人である。若くして本軍に隷属し小校となり、嘗て登州に戍守し、海客を掠奪したが、事が露見し、刺史淳於晏は彼を匿い、赦令に遇って免罪された。定州節度使楊光遠に事え、光遠が兵を率いて晉陽に赴いた時、本州で軍乱が起こり、太は馬万・盧順密らと共にこれを捕らえ、太に縛して闕下に送らせた。まもなく杜重威に従い汜水で張従賓を破り、功により趙州刺史に除せられた。楊光遠に従い鄴で範延光を平定し、萊州刺史に移り、安州防禦使に遷った。少帝に従い澶州に幸し、契丹と戚城で戦い、数ヶ所の創傷を受け、鳳州防禦使に改められ、途中に至り、河陽留後に遷り、邢州留後に移った。契丹が闕下を犯した時、偽命により遙かに洋州節度使を領し、洛京巡検を充てられ、前洺州団練使李瓊と共に鄭州に至った。その屯駐する兵士が太に迫って城の巡検を請い、外盗に備えさせ、『鄭王』と号した。時に嵩山の賊帥張遇が有り、衆万余を率い、僧衆の中から梁朝の故嗣密王朱乙を得て、遂にこれを推して天子とし、嵩山の神の冠冕の服を取ってこれを衣せしめた。張遇はその衆を以て鄭州を攻め、太と李瓊がこれを撃つと、賊衆は敗走し、瓊は流れ矢に中たって死んだ。太は乃ち郡中の財物を徴発して軍士を賞し、これに誘いをかけ西去を共にせんとしたが、その衆は従わず、太は乃ち密かに洛陽に奔った。(『通鑒』に云う、戍兵は既に太を失うと、却って契丹に太を讒して、我を脅迫して乱を為さしむと云う。太は子の師朗を遣わして自ら契丹に訴えさせたが、契丹はこれを殺した。)劉晞が南走して許州に至った時、太は晞の牙校李暉を殺し、河南府に入り行留守事を執った。まもなく嵩山の賊帥張遇が嗣密王を殺し、その首を太に伝え、洛陽の市に懸けた。また伊闕の賊帥が天子を自称し、衆万余を率い、洛城に入らんとし、郊壇の上に集まった。太は兵数百を率いて逆撃し、これを破ると、賊衆は遂に潰走した。(『通鑒考異』が実録『方太伝』を引いて云う、劉禧は許田に走り、また潁陽の妖巫有り、姓は朱、嗣密王と号し、洛南の天壇で衆に誓い、万余人と号した。太は部曲と朝士輩を帥い、旗幟を虚張し、一挙にしてこれを逐い、洛師は遂に安んじた。)河陽の武行徳が使者を遣わして太を召し、詐ってこれを推して帥とせんと欲すると言ったが、まもなく行徳に害せられた。

何建

何建、その先祖は回鶻の人で、代々雲・朔の間に居住した。祖父の慶、父の懷福、共に後唐の武皇に事えて小校となった。建は若くして謹厚を以て高祖の帳下に隷属し、厩を掌る役となり、高祖が即位すると、累ねて禁軍を典し、(『九国志』に云う、重建は初め晉祖に事えて奉徳馬軍都指揮使となった。)遙かに歓・睦の二郡を領した。天福年中、曹州刺史より延州兵馬留後に遷り、まもなく正しく旄鉞を授けられた。(『九国志』に云う、延州節度使丁審琪は残暴貪冒で、蕃部はこれを苦しめた。重建は所部の兵を以てその城を攻め、審琪は遁走し、晉祖は即ち重建を以て権節度兵馬留後とし、下車して威福を諭すと、辺民は安堵し、就いて彰武軍節度使を加えられた。)数年之間に、涇・鄧・貝・澶・孟の五鎮節度使を歴任し、(『九国志』に云う、皆廉儉簡易を以て称された。)累官して検校太傅に至った。開運三年、秦州に移鎮した。この冬、契丹が汴に入ると、その主は人を遣わし詔を齎して建に賜うた。建は憤然として将吏に謂いて曰く、「我は石氏の二主に事え、累ねて戎旃を擁し、人臣の栄も亦已に極まった。今日兵を率いて難に赴く能わず、豈に契丹の制を受くべけんや」と。即ち使者を遣わし表を齎し、その地を以てしょくに款を送った。孟昶はこれを甚だ厚く待ち、偽って同平章事を加え、前の如く秦州節度使とした。(『九国志』に云う、時に固鎮と鳳州は未だ平らず、重建は悉く経略討平した。)歳余して、閬州保寧軍節度使に移り、(『九国志』に云う、昶が大いに兵を挙げて北伐し、張虔釗を遣わして大散関より出し、重建を招討使として、隴州路より進軍させたが、功無くして還った。)偽官を加えられ中書令に至り、後に蜀において卒した。

張廷蘊

張廷蘊、字は徳樞、開封襄邑の人である。祖父の立は、ぎょう衛将軍を贈られた。父の及は、光禄大夫を贈られた。廷蘊は若くして勇捷で、初め宣武軍に隷属して伍長となり、唐の天復年中、太原に奔り、武皇に帳下に収められて小校となった。荘宗が上党を救い、柏郷で戦い、薊門を攻め、邢・魏を下すに及び、皆これに従った。後に莘県及び胡柳陂で戦い、続いて流れ矢に中たり、金瘡の痕が面首に満ちた。荘宗はこれを寵愛し、御営黄甲軍を統べさせ、常に左右に在らしめ、累ねて検校兵部尚書・帳前歩軍都虞候を加え、諸軍濠寨使を充てた。同光初年、明宗に従い汶陽を収め、検校尚書右僕射を加え、魏博三城巡検使を充てた。時に皇后劉氏が鄴に在り、その下を縦して人を擾す毎に、廷蘊は多くこれを斬り、聞く者はこれを壮とした。梁が平らぎ、詔を承って入覲し、帳前都指揮使兼左右羽林都虞候に改められた。会に李継韜の故将楊立が叛き、詔して明宗を遣わして招討使とし、元行欽を都部署とし、廷蘊を前鋒とした。軍が上党に至った時、日は既に暮れた。軍を憩めて方に定まらんとするに、廷蘊は率先して勁兵百余を率い、堀を逾え城に坎りて上ると、守陴の者は禦ぐ能わず、まもなく関を斬って諸軍を延いて入らしめた。明宗・行欽は夜明けに至って漸く到着したが、その城は既に下っており、明宗はこれを甚だ慊とした。軍の還るとき、左右羽林都指揮使に改め、検校司空しくうを加え、行申州刺史とした。同光末、皇子魏王継岌に従い蜀を伐ち、行営中軍都指揮使を授けられた。蜀が平らぎ、明宗が位を嗣ぐと、懐州刺史に遷り、竭忠建策興復功臣を賜り、検校司徒しとを加えられた。旋いて金州防禦使に移り、検校太保を加え、続いて潁州団練使・沿淮招安使を授けられた。応順年中、隴州防禦使に転じた。清泰年中、進んで清河郡公に封ぜられた。高祖が即位すると、入朝して右龍武統軍となり、絳州防禦使に遷った。少帝が位を嗣ぐと、左軍衛上将軍を領し、特進を加えられた。開運三年冬、老病を以て宋城に帰ることを求め、明年家において卒した。時に年六十九。

廷蘊の識る所は数字に過ぎなかったが、性は文士を重んじた。汶陽を下した日、真っ先に鄆帥戴思遠の判官趙鳳を捕獲し、訊ねて曰く、「汝の状貌は必ずや儒人である。その情を隠すなかれ」と。鳳はこれを具に言うと、尋いで明宗に引薦し、明宗は行台に送赴せしめ、まもなく鳳を翰林学士に除した。鳳が宰相に入ると、廷蘊と頗る相洽し、数たび近臣安重誨に言上し、重誨も亦、廷蘊の苦戦が諸将の右に出づるを以て、力を尽くしてこれを保薦した。明宗は、廷蘊が潞を取った日に、功を己に譲ることができなかったことを以て、故に恒に宿忿を蓄え、遂に廷蘊の位を方鎮に至らしめなかった。亦、命なるかな。廷蘊は七郡を歴任し、家に余積無く、年老いて耋期に至り、牖下に終わった。良く嘉すべし。

長子の光被は、通事舎人を歴任した。

郭延魯

郭延魯、字は徳興、沁州綿上の人である。父の饒は、後唐武皇の時、軍功によりかつて本郡の守となり、凡そ九年、遺愛を残した。延魯は若くして勇気があり、槊を用いることを善くし、荘宗は旧将の子として、保衛軍使に抜擢し、頻りに塞下を戍り、契丹を防ぎ功績があった。即位すると、協謀定乱功臣を賜り、検校兵部尚書・右神武都指揮都知兵馬使を加えられた。天成年中、汴州の朱守殷が叛くと、延魯は車駕に従い東幸し、その地に至り、坎壘に先登した。守殷が平定されると、功により汴州歩軍都指揮使を授けられ、検校尚書左僕射を加えられた。長興年中、累進して検校司徒を加えられ、天雄軍北京馬歩軍都校を歴任し、遙かに梧州刺史を領した。清泰年中、復州刺史に遷り、正俸の外、未だ嘗て斂貸せず、庶事は理に就き、一郡これに頼った。任期満了すると、百姓が上章して留任を挙げ、朝廷はこれを嘉した。高祖が即位すると、単州刺史に遷り、検校太保を加えられ、輸誠奉義忠烈功臣を賜った。任に到ること一月余り、病により理所にて卒した。時に年四十七。詔して太傅を贈られた。

郭金海

郭金海、本は突厥の族である。少くして昭義節度使李嗣昭に侍し、常に征伐に従った。金海は酒を好み、為すところ不法であり、潞州より山東を過ぎ、邢洺の界に入り劫盗を為したが、嗣昭はこれを知りながらも、その拳勇を惜しみ、毎に優容した。天祐年中、累職して昭義親騎指揮使に至る。同光二年、本道馬軍都指揮使に遷る。天成初め、入りて捧聖指揮使となる。長興三年、護聖都虞候に改める。天福二年、王師に従い魏州にて範延光を討ち、功により本軍都指揮使に転じ、黄州刺史を領す。高祖が鄴に幸すと、金海を宣して部兵を領し東京を巡検せしむ。その年十一月、安従進が闕を犯さんと謀る。金海は襄州道行営先鋒都指揮使となり、李建崇らと共に唐州湖陽にて従進の軍万余りに遇い、金海は一旅の衆を以て突撃し、これを大破した。策勛して検校太保・商州刺史を授けられ、俄かに慶州に移る。任期満ちて帰闕する途中、疾に遇い卒す。年六十一。

劉処譲

劉処譲、字は徳謙、滄州の人である。祖の信は、累贈して太子少保。父の喻は、累贈して太子少師。梁の貞明初め、張万進が兗州を帥くと、処譲これに事え、親校となる。万進が城を拠りて叛くと、梁は大将劉鄩を遣わしてこれを討たしむ。時に唐の荘宗は軍を麻口渡に屯し、万進は密かに処譲を遣わし荘宗に師を乞わしむ。荘宗未だ即応せず、乃ち軍門にて耳を截りて曰く「主帥急難、我をして告援せしむ。苟も請を得ずんば、死すとも何ぞ避かん」と。荘宗これを義とし、兵を挙げて河を渡らんとす。俄かに城陥落の報を聞き乃ち止む。因って墨制を以て処譲を行臺左驍衛将軍に授け、俄かに客省副使に改む。梁平らぎ、検校兵部尚書を加えられ、累たび命を将て旨に称う。天成初め、検校尚書右僕射に転じ、前の如く職を充つ。歳余りして引進使に遷る。長興三年、検校司空・左威衛大将軍に転じ、その職は前の如し。四年、西川の孟知祥が跋扈し、朝貢を通ぜず。朝廷方に懷柔を議し、乃ち処譲を官告国信使として遣わす。復命して検校司徒に転ず。応順初め、忻州刺史・検校太保を授けられ、西北面都計度使を充て、北寇に備う。清泰二年、入りて左驍衛大将軍となる。三年夏、魏博の屯将張令昭その帥を逐い城を以て叛く。朝廷は範延光に命じ兵を領してこれを討たしめ、処譲を河北都転運使とす。高祖が太原にて挙義するに及び、処譲は従って洛陽に至り、乃ち宣徽北院使を授けられる。天福二年、左監門衛上将軍に転じ、宣徽南院使を充つ。範延光の鄴を拠るや、高祖は宣武軍節度使楊光遠に命じ兵を領してこれを討たしむ。時に処譲は詔を奉じ光遠と共に軍政に参議す。会に張従賓が河陽にて乱を作る。処譲は黎陽より兵を分けて討襲し、従賓平らぎ、復た楊光遠と共に鄴城ぎょうじょうを攻む。四年冬、範延光将に納款を謀るも、尚ほ或いは遅留す。処譲首としてその城に入り、禍福を以てこれを諭す。延光乃ち降る。功により検校太傅を加えられる。先に、桑維翰・李崧が兼ねて枢密使を充てたり。処譲は荘宗已来、枢密使に宰臣の兼ぬるもの罕なるを以て、因って心を萌しその位を覬う。楊光遠の鄴城を討伐するに及び、軍機の大事、高祖は毎に処譲を命じて宣達せしむ。時に光遠は軍権を恃み、多く越体の論奏あり。高祖は依違するのみ。光遠これを慊とし、頻りに処譲と宴語してこれに及ぶ。処譲訴えて曰く「聖旨に非ず、皆維翰等の意なり」と。楊光遠の入朝するに及び、遂に高祖の面前にて執政の失を言す。高祖その故を知り、已むを得ず乃ち維翰等を罷め、処譲を以て枢密使とす。時に処譲の敷奏する毎に、高祖多く旨に称わず。会に処譲継母の憂に丁す。高祖因って議して枢密使を罷め、その本院の庶事は並びに宰臣に委ね分判せしむ。処譲喪に居すること期年、起復し、彰徳軍節度使・澶衛等州観察処置等使を授けられる。

処譲は公務に勤勉で、事理を求めて孜々と努め、吏民を統御するに苛察に至らず、人々は甚だその便を感じた。高祖が鄴都に幸した際、処譲は家財を尽くして貢奉し、薪炭や膏沐のような細事に至るまで、悉く供給した。六年、右金吾衛上將軍を除され、処譲は自らかつて重任を経て、また方鎮を歴任したことを以て、朝廷に入れば必ず重要職に就くものと謂い、一旦金吾を除授され、不足を感じた。少帝が即位した初め、処譲は宰臣と語り、協翼の論があり、覃恩の際にも、また擢用されなかった。一日中書に至り、宰臣の馮道、趙瑩、李崧、和凝が列座していたが、処譲は酒酣に乗じ、歴々と諸相を詆毀し、道は笑って答えなかった。一月余りして病と称した。八年、駕に従って汴に帰り、封禅寺に寄寓し、疾に遇って卒した。享年六十三。太尉を贈られ、再び太師を贈られた。

子の保勛は、皇朝に仕え、省郎の位に至った。

李瓊

李瓊は字を隠光といい、滄州饒安の人である。若くして本軍に籍を置き騎士となり、荘宗が河朔を平定した際、明宗の麾下に隷属し、漸く小校に昇った。同光二年、明宗は詔を受け、本部の兵を率いて糧食を薊門に送り入れた。時に高祖は従行し、涿州に至って敵と相遇い、高祖は囲みの中に陥った。瓊は諸軍が既に退いたのを顧み、密かに高祖の鉄衣を牽き、東を指して遁走した。劉李河に至り、敵の襲撃を受け、瓊は水を浮いて先に南岸に至り、高祖は河中に至り、馬が倒れ、流れに順って下った。瓊は執る所の長矛を以て高祖を援け出し、また跨ぐ所の馬を高祖に奉り、瓊は徒歩でこれを護り、十余里を奔って、乃ち涿州に入った。高祖は明宗に薦め、明宗はこれを賞し、尋いで軍職を超授した。同光末、明宗は鄴において趙在礼を討った。鄴軍が既に変を起こすと、明宗は魏県に退き、高祖に騎士三百を以て急ぎ汴州に趨かせた。時に荘宗は騎将の西方鄴を遣わしてその城を守らせた。高祖これを憂い、瓊に勁兵を以て封丘門を突いて入らせ、高祖はこれに踵いた。鄴は尋いで帰命し、浚郊は遂に定まった。高祖が陜州を領すると、雲騎指揮使に補することを奏し、俄かに侍衛牙隊指揮使に改めた。長興中、高祖に従って東川を討ち、剣州に至り、瓊に部下の兵を以て賊軍数千を破らせ、身に重創を受け、軍が還ると、龍武指揮使に改めた。清泰中、雲州に屯し、累ねて契丹の人馬を擒獲し、功を以て右捧聖軍指揮使に改めた。唐末帝は瓊が元より高祖に事えたことを以て、乃ち塞下より移して単州馬歩軍副指揮使を授けた。高祖が即位すると、護聖都指揮使を補し、また昔時に馬を輟いて導護した力を念い、前後に賜う所の金帛は甚だ厚かったが、未だ爵位を昇さず、瓊もまた鬱鬱としていた。久しくして、横州刺史を領した。五年、出て申州を典し、微かに政声があった。少帝が位を嗣ぐと、入って殿前散員都指揮使となり、遙かに雷州を領し、俄かに棣州刺史に遷った。楊光遠が青州を以て叛くに遇い、自ら本部の兵を統べてその城を攻め、且つ書を以て瓊を誘うと、瓊はこれに拒み、書を上進し、朝廷はこれを嘉した。開運二年、洺州団練使に改め、累官して加えて検校司空に至った。三年、護聖右廂都指揮使を授けられ、岳州団練使を領した。時に洺州の吏民が状を列ねて保留を請うたが、朝廷は允さなかった。杜重威が敵に降ると、改めて瓊に威州刺史を授けた。鄭州に行き及んで、群盗が郡を攻めるに遇い、方太と賊を禦いで、流矢に中って卒した。享年六十五。

高漢筠

高漢筠は字を時英といい、斉州歴山の人である。曾祖の詣は、嘗てこの邑の令となり、故にここに家した。漢筠は若くして書伝を好み、嘗て長白山に詣でて講肄したが、会に唐末に斉・魯が兵を交え、梁氏が方に覇を唱えると、乃ち筆を擲って謁し、尋いで軍門に納められた。未だ幾ばくもせず、出て衛州の牙校となった。唐の天祐中、荘宗が魏に入り、兵を分けてその属郡を諭した。時に漢筠は利害を説いて衛の牧守を動かし、款を荘宗に送らせ、漢筠を功とし、尋いで洺州都校に移した。その後、常山を北京と改め、漢筠を皇城使とし、検校兵部尚書・左驍衛将軍同正を加えた。明宗が即位すると、成徳軍節度副使を除し、俄かに荘門に軍を用いるに及び、詔を促して漢筠を移して襄州の倅とし、軍州事を権知させた。長興中、曹・亳二州刺史を歴任した。秩満し、検校司徒を加え、行左金吾衛大将軍とした。清泰末、高祖が河東に義を建てると、唐末帝は晋昌節度使張敬達を遣わして師を率いて太原を囲み、漢筠にその郡を巡撫することを委ねた。敬達が害に遇うと、節度副使田承肇が部兵を率いて府署において漢筠を攻めた。漢筠は乃ち関を啓いて承肇を延べ、謂いて曰く「僕と子は共に朝寄を承けているのに、相迫ること何ぞ甚だしい」と。承肇曰く「我は公を扶けて節度使とせんと欲す」と。漢筠曰く「老夫は耄いり、敢えて首として乱階とならず、死生は子の籌う所に係る」と。承肇は左右に目して前に進ませようとしたが、諸軍は刃を地に投じ、曰く「高金吾は累朝の宿徳なり、枉く殺すべからず」と。承肇は衆意が拒み難いことを以て、遂に謝して云く「公と戯れしのみ」と。漢筠は騎を促して還った。高祖が洛に入ると、飛詔を以てこれを征し、途上でこれに遇い、乃ち入覲し、尋いで左驍衛大将軍・内客省使に遷った。天福三年正月、疾に遘い、東京の私第に終わった。時に年六十六。

漢筠の性質は寛厚で、儀容は偉然としていた。戎職を歴任したが、未だ嘗て非法の言を口吻より出すことなく、多く士大夫の為す所を慕い、また清白を以て自ら負うところとした。襄陽において、孽吏が常課の外に白金二十鎰を献じた。漢筠曰く「多く枿泬を納めざれば、則ち阛鋏を刻削するなり。吾れに正俸あり、此れ何を用いん」と。因ってその主者に戒めて再び然ることをせず、その白金は皆状を以て上進し、詔有ってこれを嘉した。済陰に蒞むに及び、部民はこれを安んじ、四邑の飯僧は凡そ一万八千人に及んだ。亳州において三年、歳に己の俸百千を以て逋租を代納し、これもまた近代の良二千石である。

長子の貞文は、皇朝に仕え、開封少尹となり、卒した。

孫彦韜

孫彦韜は字を徳光といい、汴州浚儀の人である。若くして勇力を以て募に応じて軍に従った。梁祖が四鎮を兼領するに及び、彦韜を行間より擢ぎ、諸軍の偏校を歴任した。唐の荘宗が梁軍と河上に対壘するに及び、彦韜は梁の運が将に季なるを知り、乃ち間行して河を渡り、北に帰って荘宗に附した。荘宗はこれを嘉して納れ、親従右廂指揮使を授けた。荘宗が梁を平定すると、出て晋州長歩都校となり、検校兵部尚書を加えた。天成初、綿州刺史・検校尚書左僕射に遷った。郡に至って一年余り、考課を以て称せられ、就いて検校司空を加えられた。長興・清泰中、密・沂・濮三州刺史を歴任し、累官して検校太保に至り、竭忠建策興復功臣を賜った。高祖が即位すると、復た密州刺史を授けられ、尋いで任において卒した。享年六十四。

彦韜は軍旅より出で、植える性質は和厚で、綿州を治める日、甚だ綏懐の誉れ著しく、故に賞典を以てこれを旌した。濮陽において、清泰末に属し、群寇が郡に入り、郡人は大いに擾った。彦韜は帳下の百人を率い、一呼してこれを破り、人皆これを感した。但し廉を守り正を養って以て令誉を終うることはできなかった。長興中、密州を罷めて闕に赴くに当たり、苞苴甚だ厚かった。洛陽に甲第を起こし、一月を逾えて成り、華堂広廡、王公の家に亜ぎ、見る者はこれを嗤った。故に五郡に淹翔し、位は廉察に及ばず、抑々由有るなり。

王傅拯

王傅拯は吳江の人である。父の綰は、偽りの虔州節度使であった。傅拯は初め楊溥に仕え、黒雲右廂都指揮使となり、本軍を率いて海州を守備した。唐の長興元年、傅拯は海州刺史陳宣を殺し、州城を焼き、配下の兵五千人を率いて帰順した。明宗は喜んでこれを受け入れ、金紫光禄大夫・検校司徒・曹州刺史を授け、まもなく濮州に移した。清泰年間、貝州防禦使に昇進し、任期が満ちて交代する際、範延光が反乱を起こし、兵をもって傅拯を魏城に招き入れたが、疑って用いなかった。延光が降伏すると、高祖は傅拯に諸衛將軍を授け、寧州刺史として出向させた。その境は蕃部と接し、以前の弊政がますます甚だしく、民はこれを苦しんでいたが、傅拯は着任すると、数十件の弊政を除去し、百姓はこれを便利とした。数か月も経たぬうちに、虢州刺史に転じた。寧州を離れる日、役所の門前に数千人が集まり、橋を壊し道を遮ってこれを引き留めた。虢州に赴任してからも、政治は清廉で、民衆は寧州の時と同様にこれを愛戴した。開運年間、武州刺史を歴任し、交代して洛陽に帰る途中、病を得て死去した。傅拯の家はもともと財産が多く、特に賓客を好んだが、数郡を歴任するうち、生業に励まず、世を去ろうとする頃には甚だ貧窮し、世論はこれを惜しんだ。

秘瓊

秘瓊は鎮州平山の人である。父の弘遇は、弓射に優れ、本軍の偏校を歴任し、累進して慶州刺史に至った。瓊もまた勇猛であった。清泰年間、董溫琪が鎮州節度使となると、瓊を衙内指揮に抜擢し、腹心として頼りにした。溫琪が蕃に捕らえられると、瓊は溫琪の家族を害し、その屍を載せ、すべて一つの穴に埋めた。溫琪は在任中に貪欲で暴虐であり、巨万の銭を蓄積していたが、瓊はこれをすべて車に積んで自家に隠し、遂に自ら留後を称した。高祖が即位すると、安重榮を派遣してこれに代え、瓊に齊州防禦使を授けた。当時、重榮は蕃帥の趙思溫と同行し、配下の兵は非常に多かったため、瓊は命令を拒むことができず、まもなく珍奇な財貨を袋に詰め、鄴中を経由して任地へ赴いた。先に、鄴の帥範延光が謀叛を企て、牙将の範鄴に書を持たせて瓊を誘ったが、瓊は書を受け取っても返答しなかった。使者が帰り、事の次第を詳しく報告すると、延光はこれを深く憤った。瓊がその境を通過すると聞き、密かに精鋭の騎兵を遣わして夏津で瓊を殺害し、その口を封じた。一行の金銀財宝や侍女はすべて延光の所有となり、これによって延光の異心はますます露わとなった。

李彥珣

李彥珣は邢州の人である。若くして郡の牙吏となった。唐の天祐年間、明宗がその地を鎮守した時、彥珣は平素から品行に欠け、左右の者と親しく交わった。明宗が即位すると、通事舍人に任じた。かつて東川に使者として遣わされ、その境に至った時、その従者が董璋に捕らえられ、彥珣は逃げ帰ったが、これは敬意を欠いたためであった。朝廷が璋を攻撃する際、詔により行営歩軍都監に任じられた。彥珣は平素より父母に孝行せず、郷里ではその供給を絶ち、同僚たちはその卑劣さを嫌い、まもなく外任に出された。清泰年間、河陽行軍司馬に転じ、張從賓の乱に遭遇し、これに与して助けた。從賓が敗れると、魏州に奔った。範延光が既に反逆すると、歩軍都監に任じ、城壁の守備を委ねた。招討使楊光遠は彥珣が用いられているのを見て、延光を撹乱し彥珣を誘おうと、人を遣わして邢臺でその母を訪ねさせ、城下でこれを招かせた。彥珣はその母と認め、矢を放ってこれを殺害した。見る者はこれを哀れんだ。延光に従って出降した後、坊州刺史を授けられた。近臣が彥珣の悪逆を高祖に奏上すると、高祖は言った、「赦免の命令は既に発せられた。改めることはできない」と。そこで郡に赴くことを命じたが、その後どのようになったかは知られていない。(《歐陽史》によれば、彥珣は後に贓罪により誅殺されたという。)

【贊】

史臣が言う。昔、従簡が莊宗に従って河上で戦ったのは、勇と言えよう。しかし、末帝のために孟津を守った時、どうして忠と言えようか。忠は既に聞こえず、勇など何の貴ぶに足りよう。潘環、方太は、ともに雄大な才幹を負いながら、ともに乱世に没した。それは方略が己の身を守るに足らなかった故である。何建は秦・隴の封を挙げ、巴・邛の俗に附き、地方を守る任に就いたが、そのようなものであろうか。その他は皆、官位爵禄を授けられた者どもであり、これによって名を後世に伝えることもできよう。秘瓊は董氏の一族を滅ぼしたが、まもなく鄴の帥に屠られた。なんという報応の速さであろうか。ただ彥珣はその親を射ることを忍び、ほとんど人にあらず。晉祖がこれを赦して誅さなかったのは、刑罰を誤ったこと甚だしい。