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舊五代史
晉書十九: 列傳八 盧質 李專美 盧詹 崔梲 薛融 曹國珍 張仁愿 趙熙 李遐 尹玉羽 鄭雲叟
盧質
盧質、字は子徴、河南の人である。曾祖父の偲は、唐の太原府祁県尉を務め、累贈して右僕射となった。祖父の衍は、唐の刑部侍郎・太子賓客を務め、累贈して太保となった。父の望は、唐の尚書司勛郎中を務め、累贈して太子少傅となった。質は幼くして聡明で、文章を作ることを得意とした。十六歳の時、陝帥の王重盈が奏上して芮城令に任じられ、父母を和顔で養うことができた。また同州澄城令となり、これは私の便宜に従ったものである。任期が満ちて秘書郎に改められ、母の喪に服し、河南の故郷に帰った。天祐三年、北に遊んで太原に至り、時に李襲吉が武皇の幕府に在り、娘を妻として与えた。武皇はその才能を憐れみ、承制により検校兵部郎中を授け、河東節度掌書記を充て、緋魚袋を賜った。武皇が崩御すると、その弟の克寧が兵権を握り、嗣として襲封されることを望んだが、質は張承業らと密謀し、共に荘宗を嗣と立てることにし、輔佐擁立の功績があった。荘宗が四方を征討する時、質は皆これに従軍した。十六年、節度判官・検校礼部尚書に転じた。十九年、荘宗が帝位に即かんとするに当たり、大礼使を命じられ、累加して銀青光禄大夫・検校右僕射に至った。二十年、行臺礼部尚書を授けられた。荘宗が即位した後、彼を宰相にしようとしたが、質の性質は疎放で、高位に居ることを好まず、固辞して免れることができた。間もなく本官のまま太原尹を兼ね、北京留守事を充てたが、赴任せず、戸部尚書・知制誥に改められ、翰林学士承旨を充てた。同光元年冬、大梁平定に従い、租庸事を権判し、一月余りして駕に随って洛陽に都し、直ちに詔を受けて汴州軍府事を権知した。時に孔謙が利権を握り、聚斂を志し、累次汴州に文書を移し、民に配って絲を放つことを求めたが、質は強くこれを論じ、事は行われなかったが、当時の論はこれを賞賛した。俄かにまた金紫光禄大夫・兵部尚書・知制誥・翰林学士承旨に改められ、なお論思匡佐功臣を賜った。会に進士の覆試があり、質は「後従諫則聖」を賦題とし、「堯・舜・禹・湯傾心求過」を韻とした。旧例では賦韻は四平四側であるが、質の出した韻は五平三側であり、ここにおいて大いに識者に誚られた。天成元年、制により特進・検校司空・同州節度使を授けられた。時に宰相の馮道が詩を以て餞別し、その警句に「草を視る北来の唐学士、旄を擁して西去する漢将軍」と云う。儒者はこれを栄とした。明年、耀忠匡定保節功臣に改めて賜り、就いて検校司徒を加えられた。三年、兵部尚書として入朝し、太僕卿事を判じた。四年、開国公に進封された。長興二年、検校太保・河陽節度使を授けられたが、間もなく滄州に移鎮し、右僕射として入朝した。秦王が罪を得た時、詔を奉じて河南府事を権知した。応順初年、検校太傅に遷り、正しく河南尹を拝し、後に太子少師に改められた。清泰末、再び右僕射となった。高祖が即位すると、質は微恙を以て洛宅に分司した。少帝が嗣位すると、太子太保を拝した。天福七年秋、洛陽にて卒去した。享年七十六。累贈して太子太師、謚して文忠と曰う。
子は十一人、唯だ第六子の夏のみ、省郎に仕え、その余は州県を歴任した。
李専美
李専美、字は翊商、京兆万年県の人である。曾祖父の随は、光禄卿を務めた。祖父の正範は、尚書庫部郎中を務めた。専美は少くして篤く学問し、父の樞が唐の昭宗の時に常に進士挙に応じ、覆試によって落とされ、再入を許されなかったことを、専美は心に愧じ、ここにより文場に遊ばなかった。偽梁の貞明年中、河南尹の張全義は専美が名族の後であることを以て、陸渾尉に奏上し、任期が満ちて舞陽令に改められた。専美の性質は廉潔謹直で、大いに政声を著した。後唐の天成年中、安邑榷塩使の李粛が推官に辟召し、時に唐の末帝が河中を鎮守し、その敦厚雅量を見て、心に重んじた。末帝が一日曾て粛を衙署に召して宴し、専美もまた座に預かった。末帝が粛に謂って曰く「某、夜来夢に主上に召され去り、宋王と共に頭を剃り卻された、何ぞや」と。座客皆対する者無し。専美は人を屏いて謂って曰く「将来必ず嗣主とならん」と。ここにより愈々重んじた。末帝が長安を留守する時、従事として奏上し、鳳翔に移鎮するに及び、記室に遷った。末帝が即位すると、尚書庫部郎中を除き、金紫を賜り、枢密院直学士を充てた。初め、末帝が鳳翔より起つ時、諸軍に厚賞を大いに約束した。洛陽に至り、内庫の金帛を閲するも二三万に過ぎず、尋いでまた京城の戸民に配率したが、捶楚を行っても、また獲る所僅かであり、末帝これを憂えた。会に専美が禁中に宿直し、末帝召してこれを譲りて曰く「卿は士人の子弟、常に才術有りと言う。今我をして此くの如きに至らしむ。運を度り以て時事を済すこと能わず、才術を留めて何にか施さん」と。専美は惶恐して罪を待ち、良久くして奏して曰く「臣が才力駑鈍なるは、興運に当たり、陛下猥りに録任を垂れたるに、聖朝に裨益する無く、然れども府蔵空竭し、軍賞給せず、是れ臣の罪に非ず。臣思うに、明宗が棄代の際、是の時府庫濫賞已に竭き、継いで鄂王が朝に臨み、紀綱大いに壊れ、縦え無限の財賦有りと雖も、驕軍の谿壑の心を満たすこと能わず、ここを以て陛下孤立岐陽にして天下を得たるなり。臣以為う、国の存亡は、専ら行賞に在らず、須らく刑政上に立ち、恥格下に行われ、賞は功に当たり、罰は罪に当たれば、則ち理道に近しと。若し陛下覆車の轍を改めずして、頼む無き軍を賞せば、徒らに蒸民を困し、存亡未だ知るべからず。今宜しく見在の財賦を取って之を給し、必ずしも前言を践みて苟も悦を希うべからず」と。末帝然りとす。其の行賞するに及び、軍士に愜わざるも、然れども洛陽の戸民は鞭笞の苦を免れしは、専美の敷揚によるなり。尋いで給事中に転じ、明年、兵部侍郎・端明殿学士に遷り、未だ幾ばくもせず、検校尚書右僕射・守秘書監に改められ、宣徽北院使を充てた。高祖が洛陽に入ると、例により除名された。三年、再び衛尉少卿を授けられ、継いで鴻臚卿・大理卿に遷った。開運年中、病にて卒去した。時に享年六十二。
専美の遠祖は元来姑臧大房より出で、清河小房の崔氏、北祖第二房の盧氏、昭国の鄭氏と四望族をなし、皆、才幹品行を尊ばず、高官顕爵を貴ばず、布衣徒步たると雖も、公卿を蔑如として視る。男女の婚嫁は、他姓を交えず、その族に聘せんと欲すれば、厚く金帛を贈りて始めて許す。唐太宗は曾て詔を降してその弊風を戒めしも、終に改むる能わず。その間に未だ達せざる者あれば、必ず曰く、「姓は崔、盧、李、鄭にしてしまえば、余に復た何を求むるや」と。その遠き者は、則ち天表に邈として、千里のごとく敻なり、人その門に造るに罕にして、浮薄自大、皆この類なり。ただ専美のみは未だ嘗て氏族を口吻に形せず、寒素の士大夫を見れば、恒に恂恂たることあり、人これをもって多くす。専美は岐下に職し、曾て夢みて裳簡を具え嵩山の頂に立つ。端明殿学士となりしに及んで、学士李崧同列にして班その上に在り、因りて夢むところを崧に告げ、且つ言う、「某は徳にあらず勲にあらず、安くんぞ久しくこの位に居り、吾子の首に処らんや」と。因りて他官を懇求し、尋いで宣徽使に移り、崧深くこれを徳とす。高祖の臨朝に及び、崧は枢密使となり、桑維翰と同列す。維翰と専美も亦旧あり、乃ち力を協せてこれを奏し、遂に朝序を復し、位は九卿に至る。専美は曾て閩中に使いしに、風水に遇い両浙に漂着し、歳を逾えて恙無くして還り、ここに至りて善終す。人は以て神道の謙を福するの致すところと為す。
盧詹
盧詹、字は楚良、京兆長安の人なり。唐天祐年中、河中従事と為る。荘宗即位し、擢でられ員外郎・知制誥と為り、中書舎人に遷る。天成年中、礼部侍郎・知貢挙を拝し、御史中丞・兵部侍郎・尚書左丞・工部尚書を歴任す。詹は性剛直にして、議論権貴を避けず、執政者は常にこれを悪む。天福初め、礼部尚書を拝し、洛下に分司し、右僕射盧質・散騎常侍盧重と俱に西都に在り、数たび相過従す。三人俱に酒を嗜み、山水を遊ぶを好み、塔廟林亭花竹の地、同往せざる無く、酣飲して楽しみと為し、人然るに間然無し。洛中の朝士は目して「三盧会」と為す。常に性命に委順し、財利を営まず。開運初め、洛陽に卒す。詹の家に長物無く、喪具給せず、少帝これを聞き、布帛百段、粟麦百斛を賜い、能くその葬事を襄う。太子少保を贈る。
崔梲
崔棁、字は子文、博陵安平の人なり。累世冠冕たり。曾祖元受、進士に挙げられ、直史館と為る。祖銖、安・濮二州刺史。父涿、刑部郎中。棁は少くして学を好み、梁貞明三年、進士甲科に挙げられ、開封尹王瓚の従事と為る。棁は性至孝にして、父涿疾あり、親友に謂いて曰く、「死生は命あり、医を為す無きなり」と。棁これを侍るに衣帯を解かず、賓至れば必ず門外に拝泣して告げ、方便を請いてその進薬を勧めしむ。涿終にこれに従わず。憂に丁し、哀毀制を過ぐ。明宗朝、監察御史を授けらるも、命に応ぜず、年を逾えて詔再び下り、乃ち列に就く。累遷して都官郎中・翰林学士と為る。天福初め、戸部侍郎を以て学士承旨と為る。嘗て制を草すに、宰相桑維翰の改むるところと為り、棁は唐の故事に、学士の制を草して改むる者あるは、職を罷むべしと為すを以て、乃ち経を引きて争いを据う。維翰詰うる能わず、権知二年貢挙を命ず。時に進士孔英なる者あり、素に醜行あり、当時に悪まれる所と為る。棁命を受け維翰を見往く。維翰の語は素より簡にして、棁に謂いて曰く、「孔英来れり」と。棁その意を諭せず、維翰孔英を以て言と為すを謂い、乃ち英を考して及第せしむ。物議大いに非と為すを以て、遂に学士を罷め、尚書左丞を拝し、太常卿に遷る。後、風痺を以て太子賓客に改め、西京に分司す。卒年六十八。
棁平生の著すところの文章・碑誄・制詔甚だ多し。人本を借りて伝写せんとする者有れば、則ち曰く、「前賢有り、来者あり、奚ぞこれを用いん」と。凡そ托を受けて作る者は、必ず親しく劄を致して之に即ちその稿を焚く。人の仮手を泄らすを懼るるなり。棁は笑いて矧に至らず、怒って詈に至らず、新進後生を接するに未だ嘗て誨うること無からず。群居公会には端坐して寡言、嘗て云う、人を致して愛憎するに非ざるのみならず、且つ或いは人の祖禰の諱を干すと。仆役を指命するも亦礼節を用い、盛暑祁寒も冒犯せしめず。嘗て知友に自ら話して云う、「某少き時、二人の前に引きて路を行くを夢む。一人地裏を計りて曰く、『一舎なり、以て止むべし』と。一人曰く、『此の君は当に更に三十八里を進むべし』と。復た言う如くに行くに、二人皆これを止む。俄かに驚覚す」と。棁常にこの夢を識り、定命の限りと為すを以て、故に六十七に請いて退き、明年果たして終わる。
梲の兄 棆
兄棆は、隠徳有り、釈氏を好み、滑州に閑居す。嘗て人を訪わんと白馬津の北に欲し、岸に臨むに及び、嘆いて曰く、「波勢洶湧此の如く、安くんぞ済わんや」と。乃ち止む。後、左拾遺に征拝せらるも、疾を辞して赴かず。
薛融
薛融、汾州平遙の人なり。性純和にして、儒学を以て業と為す。初め雲州帥李存璋に従い幕職と為り、唐荘宗河南を平らげ、鄆・徐二鎮の従事を歴任す。明宗初め、華州節度判官を授かる。長興四年、入りて右補闕・直宏文館と為り、歳余り、河東観察判官に改む。会うに高祖太原を鎮めしに、遂に幕府に居る。清泰末、高祖将に義を挙げんとし、賓席を延べて歴問す。次いで融に及び、対えて曰く、「融本儒生、只だ曾て三五巻の書を読むのみ。軍旅の事、進退存亡の機に至りては、未だこれを学ばず」と。座中聳然たり。即位に及び、尚書吏部郎中兼侍御史知雑事に遷る。天福二年、左諫議大夫より中書舎人に遷る。自ら文学優ならずと為し、敢えて命を拝せず、復た諫議と為る。時に詔して西京大内を修せしむ。融は鄴下の用兵、国用足らざるを以て、上疏して復たこれを罷めしむ。優詔嘉許す。俄かに転じて御史中丞と為り、秩満して尚書右丞に改め、西都に分司す。天福六年、疾を以て卒す。年六十余。
曹国珍
曹國珍、字は彦輔、幽州固安の人である。曾祖父は藹、祖父は蟾、父は絢、代々儒者の家柄を継いだ。國珍は若い時に燕薊の乱離に遭い、それゆえに髪を落として緇衣をまとい、河西の延州に客居した。高萬興兄弟は皆文を好み、彼を従事として召し出した。國珍は常に文章をもって自らを誇り、礼闈に貢挙を求め、かつ書奏を掌り、一年にして、左拾遺として朝廷に入り、累遷して尚書郎に至った。人と交わるごとに、財を傾けても吝るところがなかった。性質は頗る剛直で偏屈であり、経学や史学は彼の長ずるところではなく、自らを誇示することを好み、しばしば上奏文を上ったが、文字の誤りが多く、しばしばあったため、縉紳の嘲笑を受けた。高祖が藩鎮にあった時、嘗て私的に謁見し、兄として彼に仕えた。即位すると、國珍は自らを厳陵に比し、上表して旧交を述べ、これにより吏部郎中から左諫議大夫・給事中に任じられた。また御史中丞を求めたが、時の宰相は再び請願せず、國珍はこれを恨んだ。李崧の母が薨じ、諸弟を遣わして喪を護り深州に帰葬させた。崧が既に起復すると、北郊の路傍に設けて奠を行い、公卿大夫は皆葬送に出たが、國珍は固く争って行かず、衆は皆その直言を推した。高祖が晏駕すると、朝廷は宰臣馮道を山陵使とした。霊柩が発せられた時、國珍は上疏して言うには、「馮道は既に山陵使であるから、再び都城に入ることはできず、外佐を除外し、桑維翰を入れて輔弼させよ。李崧は相位を罷め、喪制を持たしめよ」と。少帝は奏を覧て、その言が越権であるとして、陜州行軍司馬に出した。任地に至り鬱々として、病にかかり卒した。
張仁愿
張仁愿、字は善政、開封陳留の人である。祖父は晸、唐の右武衛大將軍。父は存敬、梁の河中節度觀察留後、累贈して中書令、『梁書』に伝がある。仁愿は梁の貞明初め、勲臣の子として起家し衛尉寺主簿となり、著作佐郎・左贊善大夫に改め、緋魚袋を賜った。唐の同光初め、大理正に遷る。天成元年、将作少監より転じて大理少卿となる。長興年中、昭武・帰徳両鎮の節度判官を歴任。四年、再び入朝して大理少卿となる。清泰年中、殿中監を除く。天福五年、大理卿に拝す。八年、光禄卿に転ず。仁愿は性質温雅、法書に明るく、累ねて刑獄を詳らかにする職に居り、疑獄を議讞して、称職と号された。兄の仁穎は、梁朝に仕えて諸衛將軍に至り、中年に風恙のため家に廃すること十余年、仁愿はこれに事え、出でては告げ、反っては面し、厳父の如くであった。士大夫は孝友と推した。仁穎は家を治めるに善く、勤勉かつ倹約で、婦女の衣は地を曳かず、什物は多年を経ても新たに市した如くであった。仁愿は開運元年に再び大理卿となり、時に隰州刺史王澈が贓を犯した。朝廷は澈が功臣の後であることを以て、これを宥そうとしたが、仁愿は累ねて執奏して動かず、遂に伏法させた。議者はこれを賞した。開運二年、疾により卒す。年五十一。秘書監を贈られた。
趙熙
趙熙、字は績巨、唐の宰相斉国公光逢の猶子である。起家して秘書省校書郎を授かり、唐の天成年中、累遷して起居郎に至る。数度上章して事を言い、旨に称して尋いで南省正郎を除く。天福年中、詔を承けて張昭遠らと『唐史』を修し、遂にその功を集めた。開運年中、兵部郎中より右諫議大夫を授かり、筆削の功を賞された。契丹が闕を犯すに及んで、偽旨を以て使いを遣わし、晋州において豪民の銭幣を率配し、行嚢を実らせようとした。始めて命を受けた日、条制は甚だ厳しく、熙は衣冠の族より出で、性質元来軽躁であり、既に契丹の峻法を畏れ、乃ち理を窮めて搜索し、人々は甚だこれを苦しんだ。晋の三軍が副使駱従朗を殺すに及んで、百姓は相率いて杖を持ち、館舎において熙を害した。識者はこれを傷んだ。
李遐
李遐、兗州の人である。少くして儒となり、節操有り。数鎮の従事を歴任し、朝に昇り、累遷して尚書庫部員外郎に至る。高祖即位の時、皇子重乂を以て洛邑を保釐し、遐の強幹にして守り有ることを知り、西京留守判官に除き、之を佐理せしめ、またその廉勤を重んじ、兼ねて西京左蔵庫を監することを委ねた。会に張従賓が乱を起こし、人をして繒帛を輦取させて群逆を賞せんとした。遐曰く、「詔書を奉ぜず、安んぞ命を承けんや」と。遂にその下の者に害された。高祖聞きて嘆惜し、賻贈を加等し、仍って右諫議大夫を贈った。その母田氏は京兆郡太君に封じられ、仍って遐の食む所の月俸を与え、母の余年に終わらしめた。その子俟は服闋して官を与えられた。後にまた兗州節度使李従温を遣わしてその旧業に就き、牲幣綿帛等の物を賜い、以てその忠を旌した。
尹玉羽
尹玉羽、京兆長安の人。唐の天福年中、計吏に随って京師に至り、甚だ文名有り。会に苴杖の喪有り、累年羸疾に陥り、冬も菅屨を脱がず、喪期が終わるまで倚廬を変えなかった。喪制が終わり、隠居して門を閉ざし、仕宦の意無し。梁の貞明年中、劉鄩が保大軍節度判官に辟き、雍・汴・滑・兗の従事を歴任した。唐の清泰年中、光禄少卿となり、退いて秦中に帰り、林泉詩酒を以て自ら楽しみ、自ら自然先生と号した。宰臣張延朗が手書して召したが、高臥して従わず、人に謂って曰く、「庶孽が宗を代わる、仕うべからず」と。高祖が洛に入るに及んで、即ち詔を受けて来たり、著す所の『自然経』五巻を貢ぎ、且つその老いを告げた。即日璽書を以て褒美し、その器幣を頒ち、少府監致仕を授け、月に俸銭及び冬春二時の服を与えた。天福年中、卒す。『武庫集』五十巻世に行わる。
鄭雲叟
鄭雲叟は、本名は遨、雲叟はその字である。唐の明宗の廟諱を避けたため、世間ではその字が伝えられた。本貫は南燕の人である。若くして学問を好み、耿介として屈しない性格であった。唐の昭宗の朝に、かつて進士の挙に応じたが及第せず、そこで妻子を連れて林壑に隠れようとしたが、その妻がこれを非とし、行くことを肯わなかった。雲叟は諸郡を軽く遊歴し、数百緡を得て家を養い、別れを告げて去った。まもなく少室山に入り、『擬峰詩』三十六章を著してその趣向を示し、人々は多くこれを伝えた。後に妻が手紙で意を伝え、家に戻るよう勧めたが、雲叟は一度も見ず、すべて火に投じた。そのように俗縁を絶つことこのようであった。やがて西嶽に五鬛松があり、千年の松脂が流れ出て三屍を去ることができると聞き、華陰に住んだ。李道殷・羅隠之と親しく交わり、当時の人は彼らを「三高士」と見なした。道殷には釣魚の術があり、餌を使わずに釣り、また金石を変化させることもでき、至らぬところがなかった。雲叟は常にその事を目撃し、信じながらも求めなかった。雲叟は梁の権臣李振と親しかった。振は禄を与えようとしたが、拒んで承諾しなかった。振が南遷した時、雲叟は千里を徒歩で訪ねて行った。識者はこれを高く評価した。後に妻子が相次いで亡くなると、凶報を聞くたびに一哭して止んだ。当時は青衿の童子二人と、一琴・一鶴だけが遊び住むところに従った。囲碁や双六の遊びを好み、同好の士に会えば昼から夜まで続け、寒風大雪の中でも軒下で対局し、手足が皸裂しても倦むことはなかった。唐の天成年間中、左拾遺に召されたが応じなかった。羅隠之と朝夕遊び住み、隠之は薬術で利益を得、雲叟は山田で自給し、ともに酒を好み詩を作り、長嘯を善くした。大きな瓢があり、寒暑を避けることができると言われ、その中に酒を置くと、時を経ても味が変わらず、日々これを携えて花木水石の間に赴き、一杯飲んでは一句詠んだ。かつて酒酣の際に聯句をし、鄭は「一壺天上有名物、兩個世間無事人」と詠み、羅は「醉卻隠之・雲叟外、不知何處是天真」と詠んだ。高祖が即位し、その名を聞き、使者を遣わして書と礼を贈り、右諫議大夫に徴したが、雲叟は病と称して応じず、上表して謝意を述べた。高祖は表を覧てこれを賞賛し、近臣に伝えさせて観させ、まもなく逍遙先生の号を賜り、諫議大夫の官で致仕させ、月々俸禄を給した。雲叟は酒を好み、かつて『詠酒詩』千二百言を作り、海内の名声を好む者は絹に書いて贈り物とした。また千里の外から、画工に命じてひそかにその容貌を写させ、屏風に並べる者もあった。そのように当時の声望から重んじられたのである。天福の末、寿を全うして終わり、時に七十四歳であった。文集二十巻が世に行われている。
史臣が曰く
史臣が曰く、古より龍鱗に攀じ鳳翼に附き、雲衢に達する者は、豈に豊沛の士のみならんや。もし才を懐き器を抱き、興王に適会すれば、亦以て一時の貴きを取るべし。盧質以下の数君子がこれである。国珍の讜直、仁愿の友悌、趙・李の二子が王事に没するに至っては、皆士林に忝かざる所である。ただ玉羽の貞退、雲叟の肥遁は、足りて奔競の風を止め、高尚の節を激するに足る。