舊五代史

晉書しんじょ十五: 列傳四 桑維翰 趙瑩 劉昫 馮玉 殷鵬

桑維翰

桑維翰、字は國僑、洛陽らくようの人である。父の珙は、河南尹張全義に仕えて客将となった。維翰は身長が低く顔幅が広く、およそ常人とは異なり、壮年になってからは、鏡に向かって自ら嘆いて言うことしばしば、「七尺の身、いずくんぞ一尺の面に如かんや!」これにより慨然として公輔(三公・宰相)となる望みを抱いた。(《三楚新錄》:馬希範が入覲する際、淮上を経由した。時に桑維翰は楚・泗の間を旅遊しており、その来訪を知ると、急ぎ謁見して言うには、「僕聞く、楚の国たるや、天子を挟みて諸侯に令す、その勢い卑しと謂うべからず。これに利を南海に尽くし、公室大いに富むを加う。足下の来たるや、府庫の半ばを傾けざれば、則ち芻粟の費を供するに足らず。今僕貧者なり、敢えて万金を請う、惟だ足下これを済まんことを。」希範は軽薄な公子であり、維翰の形短くして腰長きを見、語魯にしてかつ醜きを睹て、覚えず絶倒して笑う。既にして数百縑を与えると、維翰は大いに怒り、衣を払って去った。)性質は明敏で、詞賦をよくした。(《春渚記聞》:桑維翰が進士に試みる時、有司はその姓を嫌い、これを黜落した。或る人が試みるなかれと勧めると、維翰は鉄硯を人に示して言う、「鉄硯穿つまで、乃ち業を改めん。」と。『日出扶桑賦』を著して志を表した。)唐の同光年間、進士第に登った。(《洛陽縉紳舊聞記》:桑魏公(維翰)の父珙は河南府の客将であった。桑魏公が挙に応ぜんとする時、父は隙を窺って王(張全義)に告げて言う、「某が男、粗かに文性有り、今同人に相率いられて解を取らんとす、王の旨を俟つ。」と。齊王(張全義)は言う、「男有りて挙に応ず、善し、秀才を来たらしむべし。」と。桑相の父は階下に趨り再拝した。帰ると、子に侵早(早朝)に書啓を投じ、文字数軸を献ぜしめた。王は桑秀才との見えんことを請う。その父は階に趨るよう教えたが、王は言う、「不可、既に挙に応ずれば是れ貢士なり。客司に帰るべし。」と。魏公の父に謂う、「彼の道路同じからず、彼を管る莫れ。」と。終に客礼をもって見えた。王は一見してこれを奇とし、礼遇頗る厚かった。この年、王は当時の儒臣に力を言い、且つこれを推薦した。これにより上第に擢でられた。)

楊光遠が鄴を平げるに及び、朝廷は兵驕りて制し難きを慮り、維翰は速やかにその衆を散ぜんことを請う。尋いで光遠を移して洛陽を鎮せしむ。光遠はこれにより怏怏たり、上疏して維翰が公を去り私に徇い、除改不当なるを論じ、復た邸肆を両都の下に営み、民と利を争うとす。高祖は方に外将を姑息するを以て、事已むを得ず、因って維翰をして検校司空しくう・兼侍中を授け、出でて相州節度使と為す。時に天福四年七月なり。先に、相州管内に獲たる盗賊は、皆その財産を籍没す。云う、是れ河朔の旧例なりと。維翰の鎮と作るに及び、律に明文無きを以て、事を具してこれを奏す。詔して曰く、「桑維翰は佐命の功全く、戎に臨む寄重し、一方の往事を挙げ、四海の通規に合す。況んや賊盗の徒は、律令に具載す。比に万姓を撫で万国を安んぜんと為す、豈に一夫を罪して一家を破らんことを忍びんや。将相の善言を聞き、国家の美事を成す。既に王道を資け、実に人心に契う。今後凡そ賊人有るは格律に準じて罪を定め、家資を没納するを得ず。天下諸州皆此の処分に準ぜよ。」と。是より劫盗の家は、皆籍没を免る。維翰の力なり。歳余りして、移鎮して兗州とす。

時に吐渾の都督ととく白承福が契丹に迫られ、衆を挙げて内附せんとす。高祖は方に契丹と通好するを以て、拒みて納れず。鎮州節度使安重栄は契丹の強きを患え、攻襲を謀らんと欲す。戎師の往反路真定に出づる者は、皆潜かにこれを害し、密かに吐渾と相結び、至るここに遂にこれを納れ、而して朝に致す。既にして安重栄は表を抗して契丹を討たんことを請い、且つ吐渾の請を言う。是の時安重栄は強兵を握り、重鎮に拠り、そのぎょう勇を恃み、飛揚跋扈の志有り。晉祖(高祖)表を覧み、猶して未だ決せず。維翰は重栄已に奸謀を畜え、且つ朝廷その意に違うを懼るるを知り、乃ち密かに上疏して曰く。

窃かに未萌の禍乱を防ぎ、不抜の基扃を立つるは、上は聖謀に系り、動けば天意に符す。臣の浅陋、窺図す可き所に非ず。然れども臣世の休明に逢い、位を通顕に致し、功無くして国に報い、己を省みて心愧づ。其れ或いは事安危に系り、理家国に関らば、苟も緘黙せば、実に君親に負く。是を以て区区の心、已む能わず。

近ごろ、相次いで進奏院の状報を得たところによれば、吐渾の首領白承福以下が衆を挙げて内附し、鎮州節度使安重栄が上表して契丹討伐を請うている。臣は遠く朝廷と隔たり、その真相を測りかねる。ひそかに思うに、陛下がかつてへい州・汾州におられた頃、初めて艱難に遭われ、兵は少なく糧は乏しく、援軍は絶え計略は尽き、その勢いはりゅうの垂れ飾りのように危うく、その困窮は懸磬けんけいのように空であった。契丹は弓を控えて玉門塞に臨み、馬を躍らせて龍城に至り、まっすぐ陰山を渡り、大漠を横断し、万里を馳せて難に赴き、一戦にして凶徒を平定し、陛下の累卵の危うきを救い、陛下の覆盂のごとき大業を成し遂げた。皇朝が天命を受けてより、ここに六年、両国は互いに通好し、辺境の亭障に事変はない。たとえ卑辞を以て節を降し、万乗の尊を屈したとしても、国を庇い民を安んじたことは、実に数万の利益である。今、安重栄は契丹の罪を表し、勇を恃んで出陣を請い、白承福は契丹の強さを畏れ、その手を借りて怨みを報いんとしている。これは遠慮に欠け、聖聡を惑わすものではあるまいか。

今、契丹と争うべからざる理由は、七つある。契丹は数年来最も強盛で、隣国を侵伐し、諸蕃を併呑し、河東を救援して功を成し軍を勝たしめた。山後の名藩大郡はことごとくその封疆に入り、中華の精甲利兵は悉くその廬帳に帰した。今や土地は広く人民は多く、戎器は備わり戦馬は多い。これが争うべからざる第一の理由である。契丹は捷を告げて以来、鋒鋭く気雄である。南軍は敗北以来、心沮ぎ胆怯む。況や秋夏は豊作ではあるが、帑廩に余りなく、黎庶は安んじてはいるが、貧弊はますます甚だしく、戈甲は備わってはいるが、鍛錬は未だ精ならず、士馬は多いが、訓練は至っていない。これが争うべからざる第二の理由である。契丹と国家とは、恩義軽からず、信誓甚だ篤い。多くを求取するとはいえ、未だ侵淩には至っていない。どうして先に釁端を発し、自ら戎首となろうか。たとえこれによって大勝したとしても、後患はなお存し、もし偶々機を失すれば、追悔いかんぞ及ばん。兵は兇器、戦は危事である。もし軽挙を議するならば、どうして万全を得られようか。これが争うべからざる第三の理由である。王者は兵を用いるに、釁を観て動く。これによって漢の宣帝は匈奴に対して志を得たのは、単于の争立によるものであり、唐の太宗が突厥に対して功を立てたのは、頡利の不道によるものであった。方今、契丹の主は雄武の量を抱き、戦伐の機あり、部族は輯睦し、蕃国は畏伏し、土地に災いなく、孳畜は繁庶し、蕃漢雑用し、国に釁隙なし。これが争うべからざる第四の理由である。弓を引く民は、鳥のように遷徙し、水草を逐って行き、軍に饋運なく、居に竈幕なく、住に営柵なく、苦澀を便とし、労役を任じ、風雷を畏れず、饑渇を顧みない。これらは皆、華人の為し得ざるところである。これが争うべからざる第五の理由である。契丹は皆騎士であり、坦途に利あり。中国は徒兵を用い、隘険を喜ぶ。趙魏の北、燕薊の南、千里の間、地は砥の如く平らであり、歩騎の便は、較然として知られる。国家もし契丹と相持すれば、必ず辺上に兵を屯すことになろう。少なければ強敵の衆を懼れ、固より堅壁して自全を図らねばならず、多ければ飛免の労を患い、必ず寇を逐って速やかに返らねばならない。我れ帰れば彼れ至り、我れ出れば彼れ回る。そうなれば禁衛の驍雄は奔命に疲れ、鎮州・定州の封境には、ほとんど遺民なくなるであろう。これが争うべからざる第六の理由である。議者は、陛下が契丹に対して供億することを以て、これを耗蠹と謂い、卑遜することを以て、これを屈辱と謂う。微臣の見るところ、そうではないと言わざるを得ない。かつて漢の高祖のような英雄でも、なお冒頓に貨を輸し、神堯(唐高祖)のような武略でも、尚可汗に臣と称した。これを権変に達し、屈伸に善いと謂う。損ずる所は微にして、利する所は大である。もし必ずやこれによって交構し、遂に釁隙を成すならば、これより歳々征発し、日日転輸し、天下の生霊を困窮させ、国家の府蔵を空しくする。これこそが耗蠹であり、甚だしいとは言えまいか。兵戈既に起これば、将帥は権を擅にし、武吏武臣は過ぎて姑息を求め、辺藩遠郡は驕矜するに至り、外は剛にして内は柔、上は陵ぎ下は替わる。これこそが屈辱であり、また多からずと言えようか。これが争うべからざる第七の理由である。

願わくは陛下、社稷の大計を思い、将相の善謀を採り、樊噲の空言を聴かず、婁敬の逆耳を納れられんことを。然る後に士卒を訓撫し、黔黎を養育し、穀を積み人を聚め、農を勧め戦を習い、以て国に九年の積み有り、兵に十倍の強さ有るを俟ち、主に内憂なく、民に余力有る時、すなわち以て彼の変を観、彼の衰を待ち、己の長を用い、彼の短を攻め、挙げて克たざることなく、動けば必ず成功するに至らしめられん。これが計の上なるものであり、惟うに陛下熟思あらんことを。

臣はまた、鄴都が山河を襟帯し、形勢を表裏し、原田沃衍にして、戸賦殷繁、河朔の名藩たり、実に国家の巨屏であると思う。今、主帥は闕に赴き、軍府に人なし。臣はひそかに思うに、慢蔵は盗を誨うとの言葉があり、勇夫重閉の意に非ざるを恐れる。深慮を回らし、奸謀の起こるを免れられんことを願う。陛下に暫く和鑾を整え、略く巡幸を謀られんことを希う。櫛風沐雨、上は聖躬に労あれども、杜漸防微、実に睿略に資する所あらん。省方して義を展ぶるは、今まさにその時である。臣は主恩を受くること深く、国情を憂うること切なり。智小さく謀大にして、理浅く詞繁し。俯伏して惟うに僭逾を懼れ、裨補或いは万一を希う。謹んで死を冒して以て聞す。

疏が奏上されると、留中して出されなかった。高祖は使人を内寝に召し、密旨を維翰に伝えて言われた、「朕は比来、北面してこれを事とすることに煩懣快からず、今卿の奏する所を省みて、釈然として醒めたるが如し。朕の計は既に決した。卿は憂うることなかれ」と。

七年の夏、高祖の御駕は鄴都にあり、維翰は鎮より来朝し、改めて晉昌軍節度使を授かる。少帝が位を嗣ぐと、侍中に征拜され、国史の監修を命ぜられる。頻りに契丹と和すべきことを上言するも、上将景延廣に否められる。明年、楊光遠が契丹を構え、澶淵の役あり、凡そ敵を制し令を下すこと、皆延廣より出で、維翰と諸相はこれに関与する所なし。戎王退くに及び、維翰は少帝に寵愛を受ける親党を使わし、密かに自薦せしめて曰く、「陛下北方を制して天下を安んぜんと欲せば、維翰に非ざれば不可なり」と。少帝は乃ち延廣を出して洛を守らしめ、維翰を以て中書令とし、再び枢密使・宏文館大学士と為し、継いで魏国公に封ず。事の巨細を問わず、一に之を委ぬ。数月の間に、百度漸く治まる。然れども権位既に重く、四方の賂遺、咸く其の門に湊るにより、故に連年の間に、貨を積むこと巨万、是れによりて澆競の輩、以て謗を興すを得たり。未だ幾ばくもせず、内客省使李彦韜・端明殿学士馮玉、皆親旧を以て用いられ事を為し、維翰と協わず、間言稍々入る。維翰漸く疏忌せられ、将に黜退せんとす、宰相劉昫・李崧の奏するに「維翰は元勲にして、且つ顕過無し、軽々しく進退すべからず」と云うに頼る。少帝乃ち止む。尋いで馮玉を以て枢密使と為し、以て維翰の権を分かたしむ。後、少帝微かに不豫あるに因り、維翰曾て密かに中使を遣わして意を太后に達し、皇弟重睿の為に師傅を択びて以て之を教導せんことを請う、少帝此れを以て其の他心有るを疑う。俄にして馮玉相と為り、維翰と同く中書に在り、会うに舎人盧价の秩満するに、玉乃ち筆を下して价を工部侍郎と除す、維翰曰く「詞臣此の官を除くは稍々慢なり、恐らくは外に議する所あらん」と。因りて署名せず、維翰の休假に属し、玉竟に之を除く、此れより維翰と玉尤も相協わず。俄に少帝重睿の師傅を択ぶことを以て玉に言うに因り、玉遂に詞を以て少帝を激し、尋いで維翰を出して開封府尹と為す。維翰足疾を称し、朝謁に預かること罕にして、賓客に接せず。是の歳、秋霖月を経て歇まず。一日、維翰府門を出で西街より内に入り、国子門に至るに、馬忽ち驚き逸し、御者制すること能わず、維翰水に落ち、久しくして方に蘇る。或いは言う、私邸も亦多く怪異有りと、親党皆之を憂う。契丹中渡橋に至るに及び、維翰国家の安危朝夕に在るを以て、乃ち執政に詣りて其の議を異にし、又帝に見えんことを求むるも、復た対うるを得ず。維翰退きて親しき者に謂いて曰く「若し社稷の霊を以てし、天命未だ改まらずとせば、知る所能くせざる所なり、若し人事を以て言わば、晋氏血食せざるに至らん」と。

維翰少時の居所には、恒に魑魅有り、家人皆之を畏る。維翰往々其の衣を窃まれ、其の巾櫛を撮られるも、未だ嘗て容を改めず。両朝に秉政する当時、上将楊光遠・景延広を出して倶に洛川守と為し、又嘗て一制を以て節将十五人を除き、各軍職を領せしめ、屈せずして之に服せざる者無し。安陽を治めて民弊二十余事を除き、兗・海に在りて豪賊千人を過ぎるを擒え、亦寇恂・尹翁帰の流なり。開運中、朝廷長子坦を屯田員外郎と為し、次子塤を秘書郎と為す。維翰同列に謂いて曰く「漢代三公の子を郎と為すは、廃すること久し、近く或いは之を行えば、甚だ外議喧し」と。乃ち表を抗して固く譲り受けず。尋いで坦を改めて大理司直と為し、塤を秘書省正字と為す、議者之を美とす。初め、高祖位に在りし時、詔して翰林学士院を廃す、是れによりて内制外制を併せて皆閣下に帰し、舎人をして内廷に直らしむ、数年之間、尤も其の選を重んず。維翰再び宥密に居るに及び、信宿せずして、奏して学士院を置くことを復し、凡そ職を署する者は、皆其の親旧なり。時に議者維翰の相業素より高く、公望の属する所、雖も除授或いは党すとも、亦之を咎めず。

趙瑩

趙瑩、字は元輝、華陰の人なり。曾祖溥、江陵県丞。祖孺、秘書正字。父居晦、農を為す。瑩は風儀美秀にして、性復純謹なり。梁の龍徳中、始めて褐を解きて康延孝の従事と為る。後唐の同光中、延孝陜州を鎮む、会うに荘宗しょくを伐たんとし、延孝を騎将と為すを命ず。将に行かんとし、瑩を留めて金天神祠の監修を為さしむ。功既に集るに、忽ち神の前亭に召す夢有り、優礼を以て待ち、瑩に謂いて曰く「公は前程富み有り、宜しく自愛すべし」と。因りて一剣一笏を遺す、覚めて駭異す。明宗即位し、高祖を以て陜府両使留後と為す、瑩時に郡に在り、前官を以て之に謁す、一見して旧く相識るが如し、即ち奏して管記に署す。高祖諸鎮を歴るも皆之に従い、累ねて闕下に使し、官は御史大夫に至り、金紫を賜う。高祖再び并州を鎮むるに、位は節度判官に至る。高祖号を建つるに、瑩に翰林学士承旨・金紫光禄大夫・戸部侍郎を授け、太原府事を知らしめ、尋いで門下侍郎・同平章事・監修国史に遷す。車駕洛に入るに、聘を保持して契丹に謝せしめ、還るに及び、光禄大夫兼吏部尚書を加え、戸部を判ぜしむ。初め、瑩従事たりし時、母憂に丁る、高祖帰華するを許さず、粗縗を以て幕に随う、人或いは之を短とす。相に入るに及び、敦譲汲引を務めとす。国史を監修する日、唐代の故事残缺するを以て、能者を署して職に居らしめ、実録を纂補し及び正史二百巻を修正して時に行わる、瑩首めて力有り。少帝位を嗣ぐに、守中書令を拝す。明年、検校太尉本官、出でて晋昌軍節度使と為る。是の時、天下大蝗有り、境内蝗を捕うる者蝗一斗を獲れば、粟一斗を与え、饑うる者をして済わるを得しめ、遠近之を嘉す。未だ幾ばくもせず、鎮を移して華州とし、歳余りして入りて開封尹と為る。

開運の末、馮玉・李彥韜が権力を握り、桑維翰は才能声望が元来重かったが、和瑩は柔順で制御しやすいとして、共に彼を推挙し、維翰を罷免して、和瑩を再び宰相の位に就け、宏文館大学士を加えた。李崧・馮玉が趙延壽を応接するため出兵を議し、杜重威を都督部署とした時、和瑩はひそかに馮・李に言うには、「杜中令は国の至親であり、求めが満たされず、心に常に不満を抱いている。どうしてさらに兵権を与えられようか。もし辺境に事あれば、李守貞にこれを将とさせるのがよい」と。契丹が京城を陥落させ、契丹主が少帝を北塞に移すと、和瑩は馮玉・李彥韜と共に従った。契丹の永康王が代わって立つと、和瑩に太子太保を授けた。周の広順の初め、尚書左丞田敏を契丹に報命させたところ、幽州で和瑩に会った。和瑩は華人に会うことができ、悲しみ嘆きやまず、田敏に言うには、「老身は漂零してここに寄寓している。近ごろ家室が喪に逝き、幼子が無事であると聞き、中朝皇帝の格別なご存恤を蒙り、東京の旧邸は本来公家に属するものだが、優れた恩恵をもって特に善価を給されたと聞く。老夫は死するまで報効するすべがない」と。ここにおいて南を望んで稽首し、涕泗が横に流れた。先に、漢の高祖が入蕃した将相の邸宅を随駕の大臣に遍く賜ったため、和瑩の邸宅を周の太祖に賜った。太祖は当時枢密副使であり、和瑩の子で前刑部郎中易則を召して告げて言うには、「賜った邸宅は、元来版籍に属するもののほか、もし別に契券があり自分で置いたものがあれば、元の価格に帰すことができる」と。すぐに千余緡を易則に与えた。易則は恐れ謹んで辞譲したが、周の太祖が堅く与えたのでようやく受け取った。故に和瑩が言及したのである。まもなく、和瑩は幽州で卒去した。時に六十七歳。和瑩は初め病に罹った時、人を遣わして契丹主に祈告し、骨を南朝に帰し、羈魂をして幸いにも郷里に復せしめんことを願った。契丹主は哀れんでこれを許した。卒去すると、その子易従・家人数人を遣わして喪を護って還らせ、なお大将を遣わして京師まで送らせた。周の太祖は久しく感嘆し、詔して太傅を贈り、なおその子に絹五百匹を賜って喪事に備えさせ、華陰の故郷に帰葬せしめた。

劉昫

劉昫、字は耀遠、涿州帰義の人である。祖父は乗、幽府左司馬。父は因、幽州巡官。劉昫は神彩秀抜、文学に優れ、兄の晅・弟の皞と共に郷里の誉れがあった。唐の天祐年中、契丹がその郡を陥落させ、劉昫は捕らえられて新州に至り、逃れて免れた。後に上国の大寧山に住み、呂夢奇・張麟と庵を結んで共に処り、吟誦をもって自ら楽しんだ。定州の連帥王処直がその子の都を易州刺史とし、劉昫を軍事衙推に任命した。都が任を去り、仮を乞うて郷里に還ると、都は劉昫を中山に招いた。ちょうどその兄の晅が本郡から至り、都がその父に推薦し、まもなく節度衙推に任命し、一年を経ずして観察推官に命じた。二年を経て、都が父の位をさんさんだつした。時に都に客の和少微がおり、元来劉晅を嫉み、誣構してこれを殺した。劉昫は境を越えて去り、浮陽に寓居した。節度使李存審がこれを辟いて従事とした。荘宗が即位すると、太常博士を授けた。まもなく翰林学士に抜擢し、続いて膳部員外郎に改め、緋を賜う。比部郎中に改め、紫を賜う。母の憂に服し、喪が明けると、庫部郎中を授け、旧のごとく職を充てた。明宗が即位すると、中書舎人に拝し、戸部侍郎・端明殿学士を歴任した。明宗はその風儀を重んじ、その温厚を愛し、長興年中、中書侍郎兼刑部尚書・平章事に拝した。時に劉昫が入謝したが、大祠に遇い、明宗が中興殿に御せず、閣門が言うには、「旧礼では、宰相が謝恩するには、正殿で通喚を要す。来日を待たれよ」と。枢密使趙延寿が言うには、「命相の制が下ってから既に数日、中謝を後にするのは宜しくない」と。よって即座にこれを奏し、端明殿で謝した。劉昫は端明殿学士から宰相に拝し、本殿で謝したので、士子はこれを栄とした。清泰の初め、三司を兼ねて判じ、吏部尚書・門下侍郎を加え、国史を監修した。時に同列の李愚と協わず、動もすれば忿争に至り、時の論はこれを非とした。まもなく、共に政事を知ることを罷め、劉昫は右僕射を守り、張延朗に代わって三司を判じさせた。初め、唐の末帝が鳳翔から至り、軍用に切迫していた時、王玫が三司を判じ、詔して銭穀を問うと、王玫はその数を具奏したが、軍を賞することを命じると、甚だしく平素のものに違った。末帝は怒り、劉昫を用いて王玫に代えた。劉昫は簿書を搜索し、判官の高延賞に命じて窮詰勾計させ、及び積年の残租、或いは場務の販負など、皆虚しく賬籍に係るものを、条奏してその事を請い、征すべきものは急いでこれを督し、官に償うことなきものはこれを蠲除した。吏民は相与に歌詠したが、ただ主典は怨み沮んだ。宰相を罷める日に至り、群吏は相賀し、劉昫が帰る時、一人もこれに従う者なく、そのあまりに察することを憎んだ故である。天福の初め、張従賓が洛陽で乱を起こし、皇子重乂を害した。詔して東都留守とし、河南府事を判じ、まもなく本官で塩鉄を判じた。間もなく、契丹に奉使し、還って太子太保兼左僕射に遷り、譙国公に封じられ、俄かに太子太傅に改めた。開運の初め、司空・平章事を授け、国史を監修し、再び三司を判じた。契丹主が至っても、その職を改めなかった。劉昫は眼疾を以て休致を乞うと、契丹主は偽命を降して劉昫に太保を守らせた。契丹主が北去すると、東京に留まった。その年の夏、病により卒去した。年六十。漢の高祖が登極すると、太保を贈った。

初め、劉昫が河朔に難を避け、北山の蘭若に匿れた時、賈少瑜という者が僧であり、衾袍を辍ってこれを温燠した。劉昫が官に達すると、少瑜を致して進士及第とし、監察御史に拝した。聞く者はこれを義とした。

馮玉

馮玉。(案:以下に闕文あり。《欧陽史》に云う、字は景臣、定州の人。)少帝が位を嗣ぐと、馮后を中宮に納れた。后は即ち馮玉の妹である。馮玉は既に戚里に連なり、恩寵はますます厚く、俄かに知制誥・中書舎人から出て潁州団練使となり、端明殿学士・戸部侍郎に遷り、まもなく右僕射を加えられ、軍国の大政は一にこれを委ねられた。(案:以下に闕文あり。《通鑒》に云う、馮玉は毎に善く帝の意を承迎し、これにより益々寵有り。嘗て疾有りて在家にあり、帝は諸宰相に謂いて曰く、「刺史以上は、馮玉の出づるを俟ちて、乃ち除くを得」と。その倚任此の如し。馮玉は勢いに乗じて権を弄び、四方の賂遺、輻湊して其の門に至り、これにより朝政日くに壞れた。)張彦沢が京城を陥落させると、軍士は争ってその第に湊し、家財巨万は一夕にして罄空となった。翌日、馮玉は蓋を借りて出で、なお指を繞らして彦沢に諂い、かつ玉璽を契丹主に引送することを令せんことを請い、その復用を利せんとした。馮玉は少帝に従って北遷し、契丹は太子少保を命じた。周の太祖広順二年に至り、その子の傑が幽州から父に告げずして亡帰したため、馮玉は譴責を懼れ、まもなく憂恚により蕃中に卒去した。(《五代史補》:馮玉は嘗て枢密使たりし時、朝使の馬承翰は素より口辯有り。一旦刺を持って来謁す。馮玉は刺を覧めて輒ち戲れて曰く、「馬既に汗有り、宜しく鞍を卸すべし」と。承翰は声に応じて曰く、「明公は馮と姓す、死囚獄に逢うと謂うべし」と。馮玉は自ら失言を以て、遽かに延べて之に謝す。)

殷鵬

殷鵬は、字を大挙といい、大名人である。その俊秀さをもって郷里で称賛され、弱冠にして進士に及第した。唐の閔帝が魏州を鎮守したとき、その名を聞き、従事として召し出した。即位すると、右拾遺に任じ、左補闕・考功員外郎を歴任し、史館修撰を充てられ、刑部郎中に遷った。殷鵬の容貌は婦人のようであり、性格は巧みで媚びへつらうところがあった。天福年間、中書舎人に抜擢され、馮玉と同職となった。馮玉はもともと詔勅起草の才がなく、任された詞目(起草すべき文書の題目)の多くを殷鵬に託して作らせた。馮玉がかつて「姑息」という字の意味を人に尋ねたところ、ある者が「辜負」という字の意味だと教えたので、馮玉はそれを正しいと信じ、当時笑いの種となった。殷鵬の才能は馮玉より優れていたが、その細やかなへつらいは馮玉を上回った。後に馮玉が地方に出ると、邸宅を貸して住まわせ、俸禄を分けて養った。馮玉が枢密使となると、本院学士に抜擢し、しばしば下僚が笏を持って馮玉に謁見する際、故事によれば宰臣は履(上履き)を着けてこれに接するが、殷鵬は馮玉の居所にいることが多く、客に会うときも同様であった。丞郎の王易簡が退出後に何か言ったことがあり、殷鵬はこれを恨んだ。契丹が汴に入ったとき、ある者が馮玉と殷鵬の署名・記録のある文書を入手したが、そこには朝廷の高官で不遇で左遷させたい者たちの名が記されており、王易簡がその筆頭であった。馮玉が北へ連行された後、殷鵬もまもなく病没した。

【論】

史臣が曰く、維翰が晋室を補佐したとき、輔弼調和の志を尽くし、国家創建の功に参画した。その忠誠の効果を見れば、まさに社稷の臣というべきである。況や戎狄との和議の策は、もとより誤った計略ではなかったが、国が滅亡するに及んで、彼(契丹)は口封じを謀り、これ(桑維翰)は身を滅ぼす禍を招いた。すなわち策を画することの難しさは、どうしてこのようであることを期し得ようか。ここにおいて韓非が慨慷して『説難』を著わしたのは、まさにこのためであろう。悲しいかな。趙瑩は風雲に際会し、藩輔として優遊した。たとえ異域において病床に就くこととなっても、ついに棺は故郷に帰った。これは仁信の行いが遠近に通じたゆえである。劉昫は真の宰相の才を持ち、立派な名声を全うした。馮玉は君子の器を帯びながら、ついに窮荒の地で没した。その優劣は知ることができる。