舊五代史

晉書しんじょ十四: 列傳三 景延廣 李彥韜 張希崇 王庭胤 史匡翰 梁漢顒 楊思權 尹暉 李從璋 李從溫 張萬進

景延廣

景延廣、字は航川、陜州の人である。父の建は累贈して太尉となった。延廣は若くして射を習い、強弓を引くことで称えられた。梁の開平年中、邵王朱友誨が陜に節度使として在った時、麾下に召し置かれたが、友誨が謀反の罪に坐したため、延廣は逃れて難を免れた。後に華州の連帥尹皓に仕え、皓は彼を列校に推挙し、汴軍に隷属させ、王彥章に従って河上で莊宗を防いだ。中都で敗れた時、彥章は捕らえられたが、延廣は数ヶ所の傷を受け、汴に帰還した。

唐の天成年中、明宗が夷門に行幸した時、朱守殷が命に背いたが、間もなく平定された。延廣は軍校として連座し、市で斬られんとした。高祖こうそが当時六軍副使であり、その事を掌っていたが、彼を見て惜しみ、密かに逃がしてやり、後に客将として召し抱えた。張敬達が晉陽を包囲した時、高祖は軍事を彼に委ね、城を守る功績が大いにあった。高祖が即位すると、侍衛歩軍都指揮使・検校司徒しとを授け、遙任で果州団練使とし、検校太保に転じ、夔州節度使を領した。四年、滑臺に出鎮した。五年、検校太傅を加えられ、陜府に移鎮した。六年、召されて侍衛馬歩都虞候となり、河陽に移鎮した。七年、侍衛親軍都指揮使・検校太尉に転じた。その年の夏、高祖が崩御し、延廣は宰臣の馮道らと共に顧命を受け、少帝を後嗣とした。喪を発した後、都人は二人で語ることを許されず、百官が臨むに当たり、内門に至る前に皆下馬を命じられた。これにより驕暴の失があった。少帝が嗣位すると、延廣は独りこれを己の功とし、間もなく同平章事を加えられ、ますます功を誇る様子があった。朝廷が契丹に哀を告げる使者を遣わした時、表文はなく書状のみで、臣の称を去り孫と称した。契丹は怒り、使者を遣わして責めさせた。延廣はそこで契丹の回國使喬榮に奏して戎王に告げさせた。「先帝は北朝が立てたものであるが、今上は中国が自ら推戴した。隣国として孫となることはできても、臣たる理はない。」また言うには、「晉朝には十万の横磨剣がある。あなたが戦いたければ早く来るがよい。他日、孫(私)を禁じ得なければ、天下の笑いものとなり、後悔することになろう。」これにより契丹と敵対し、戦いが日々続いた。初め、高祖が在位中、楊光遠から騎兵数百を借りていたが、延廣は詔を下して返還するよう請うた。光遠はこれにより延廣を恨み、朝廷を怨み、使者を海路で遣わして争いを構えた。

天福八年十二月、契丹はついに南に侵攻した。九年正月、甘陵を陥とし、河北の蓄えは全てその郡にあった。少帝は大いに驚き、自ら六軍を率い、澶淵に進んで駐屯した。延廣は上将として、六軍の進退は全てその胸中から出で、少帝も制することができず、衆は皆彼を畏れて忌んだ。契丹が城下に至ると、人を遣わして宣言させた。「景延廣が我らを呼んで殺し合おうというのだ、何ゆえ急いで戦わぬのか!」ある日、高行周が蕃軍と近郊で遭遇し、衆寡敵せず、急ぎ援軍を請うたが、延広は兵を抑えて出さず、この日行周は幸いにも難を免れた。契丹が退いた後も、延廣はなお柵を閉じて自らを固守した。士大夫は言った。「昔、契丹と絶交した時の言葉は何と勇ましかったことか。今、契丹がこのように至っても、気力は何と衰えていることか。」当時、延廣は軍中にあり、母の凶報が届いたが、澶淵の津の北から津の南に移っただけで、二晩も経たぬうちに再び軍務に臨み、少しも悲しむ様子がなく、下里の士でさえ聞いてこれを憎んだ。時に太常丞の王緒という者がおり、德州からの使いの帰途、延廣と不和があったため、楊光遠と通謀したと誣って奏上し、吏を遣わしてその麾下に拘束させ、無理にその事をでっち上げた。判官の盧億が累ねて諫め解くよう勧めたが聞き入れず、間もなく詔により市で斬られ、当時、甚だ冤罪とされた。少帝が京に還ると、嘗てその邸に臨幸し、進献と賜物があり、まるで応酬のようであった。権勢と寵愛、恩沢は一朝の冠であった。やがて宰臣の桑維翰と不和となり、少帝もその制し難きを恐れ、遂に兵権を罷め、洛都留守・兼侍中として出された。これにより鬱々として志を得ず、また契丹の強盛、国家の助けなきを思い、身の危うきを感じたが、ただ長夜の飲酒にふけるばかりで、もはや補佐を心掛けることはなかった。

開運三年冬、契丹は滹水を渡った。詔により孟津に駐屯するよう遣わされ、出発せんとした時、府署の正門から出ようとしたが、乗っていた馬が立ち上がって進まず、幾らか地に墜ちんとした。そこで乗り換えて行ったが、当時、不吉の極みとされた。王師が契丹に降ると、延廣は狼狽して還った。時に契丹主が安陽に至り、別部隊長に率いさせた騎士数千を、晉兵と混ざらせて河橋を急がせ洛に入らせ、延廣を捕らえさせた。戒めて言うには、「もし延廣が呉やしょくに奔るようなら、追いかけて捕らえよ。」と。当時、延廣はその家族を顧慮し、自決することができなかった。契丹が急に至ると、従事の閻丕と共に軽騎で封丘の契丹主に謁し、丕と共に拘束された。延廣は言った。「丕は臣の従事であり、職務に従って付き従っただけである。何の罪があって同じく囚われるのか。」契丹は彼を釈放した。そこで延廣を責めて言うには、「南北の和を失わせたのは、まさにお前のせいである。」と。そこで喬榮を召して前の事を対質させ、凡そ十件あった。初め、榮が蕃に入る時、延廣を欺いて言った。「私はふと述べる言葉を忘れることを恐れます。どうか筆墨に記させてください。」と。延廣はこれを信じ、吏に命じてその事を詳しく記録させた。榮もまた諂巧で人に仕えるのが巧みな者であり、他日に詰問されることを慮り、その文を執って証拠としようと、衣の中にその文を隠していた。この時、延廣は初めは別の言葉で抗弁したが、榮はその文を出して対質させたため、延廣はたちまち屈服した。一事服するごとに牙籌一本を受け取った。これは契丹の法である。延廣は八本受け取った時、ただ顔を伏せて地に付けた。契丹はそこで彼を叱り、延廣の腕に鎖を掛け、北土に送らんとした。この日、陳橋の民家の草舎に至り、延廣は焼き殺される害を恐れ、夜半になって守衛の者が怠るのを伺い、手を引いて自らその喉を扼し、間もなく死んだ。事は既に窮地に陥っていたが、人々はその行為を壮とした。時に年五十六。漢の高祖が即位すると、詔して中書令を贈った。

延廣は若い時、嘗て洞庭湖を渡ったことがあり、中流で風に阻まれ、帆が裂け舵が折れ、衆は大いに恐れた。しばらくして、舟人が波間を指して言うには、「賢聖が護りに来られた。ここには必ず貴人がおられる。」と。間もなく渡ることができた。竟に将相の位に至ったのは、偶然ではなかった。

李彥韜

李彦韜は太原の人である。若くして邢州節度使閻宝に仕えて雑役に従事し、閻宝が没すると、高祖(石敬瑭)が麾下に収めた。高祖が挙兵した際、少帝(石重貴)を北京(太原)留守とすると、李彦韜を腹心として留めた。客将、牙門都校を歴任し、細工に巧みであったため、重用された。少帝が即位すると、蔡州刺史を授けられ、内客省使、宣徽南院使として中央に入った。間もなく、寿州節度使を遥領し、侍衛馬軍都指揮使・検校太保を兼ね、ほどなく陳州節度使に改められたが、軍権は変わらず掌握した。常に帝の側におり、将相の任免にあたっては宦官や近臣と結託し、外情を通じさせず、君を危亡の地に陥れた。かつて人に言ったことがある、「朝廷が設ける文官は何の役に立つのか」と。また、淘汰して廃止しようとしたことから、その補佐の道が知れよう。契丹が都を犯した時、少帝を開封府に移した。ある日、少帝が急使を遣わして李彦韜を召し、事を計らんとしたが、李彦韜は辞して赴かず、少帝は長く恨み嘆いた。その国に背き君にそむくこと、このようであった。少帝が北遷される時、戎王(契丹主)は李彦韜を行き従わせ、蕃中(契丹国内)に至ると、国母(述律太后)の帳下に属させた。永康王(耶律阮)が兵を挙げて国母を攻め、偉王(耶律安端)を前鋒とすると、国母は兵を発してこれを防ぎ、李彦韜を排陣使としたが、李彦韜は偉王に降り、偉王はこれを帳下に置いた。その後、幽州で卒した。

張希崇

張希崇、字は徳峰、幽州薊県の人である。父の行簡は、薊州玉田県令をりに務めた。希崇は若くして『左氏春秋』に通じ、また詩吟を好んだ。天祐年間、劉守光が燕の帥となったが、その性は残酷で儒士を喜ばず、希崇は筆をなげうって自ら武人として効力することを選び、守光はこれを受け入れ、次第に裨将に昇進した。ほどなく守光は敗れ、唐の荘宗が周徳威にその地を鎮守させると、希崇は旧来の籍によりその麾下に列し、まもなく偏師を率いて平州を守ることを命じられた。安巴堅(耶律阿保機)が南攻してその城を陥とし、希崇を掠めて去った。阿保機が希崇を尋問し、儒者であることを知ると、元帥府判官を授け、後に盧龍軍行軍司馬に遷り、続いて蕃漢都提挙使に改めた。天成の初め、偽平州節度使盧文進が南帰したので、契丹は希崇をその後任とし、腹心の者に辺境の騎兵三百を総率させてこれを監視させた。希崇は数年にわたり職務に当たり、契丹主は次第に寵信を加えた。ある日、郡楼に登りひそかに考えた、「昔、班仲升(班超)が西域に戍り、詔を承けたゆえに、みだりに還ることを敢えなかった。我はいま関に入ろうとすれば、その決断は胸中にある。どうして測りがたい地に安んじて、自ら滞り続けようか」と。そこで漢人の部曲の中で優れた者を召し寄せ、言った、「我はここに身を陷れ、酪を飲み毛皮を着て、生きて親族に会うことなく、死しては窮荒の鬼となる。南の山川を望めば、日を過ごすこと歳の如し。お前たちに郷を思わぬ者があろうか」と。部曲は皆涙を流して衣を濡らし、かつ言った、「明公が部曲を全うして南へ去ろうとされるのは、善いことではありますが、敵の多勢をどうなさいますか」。希崇は言った、「明日、首領らが牙帳に来たなら、まずこれを捕えよ。契丹に統領がいなければ、その徒党は必ず散る。また平州から王帳(契丹主の幕営)までは千余里あり、報告が届き兵を徴発するのを待てば、十日余りを経てようやくここに及ぶ。その時には我らはすでに漢の境界深く入っている。どうして兵の多少を憂えようか」。衆は大いに喜んだ。この日、希崇は郡斎の傍らに、隙地を掘って石灰を貯めておいた。翌朝、首領とその従者たちが到着すると、希崇は濃厚な酒を数杯飲ませ、酔ったところで悉く灰の陥穽に投げ込み、斃した。その配下は城北に営していたが、人を遣わして攻撃すると、皆包囲を破って逃げ去った。希崇はこれにより管内の生口(捕虜・住民)二万余を率いて南帰した。唐の明宗はこれを嘉し、汝州防禦使を授けた。希崇が任に就くと、人を遣わして母を郡に迎えさせた。母が境に及んだ時、希崇は自ら板輿を担いで三十里を行き、見る者は皆称嘆した。二年を経て、霊州両使留後に遷った。これ以前、霊州の戍兵は毎年五百里を経て糧食を運搬し、掠奪の患いがあった。希崇は辺境の兵士に告諭し、広く屯田に務めさせ、一年余りで軍糧は大いに充足した。詔書でこれを褒められ、正式に節度使の旄節を授けられた。清泰年間、希崇はその雑多な風俗を厭い、頻りに上表して入朝を請い、詔許された。都に到着して間もなく、朝廷はその辺境安定の名声を考慮し、内地に処することを議し、邠州節度使に改めた。高祖(劉知遠)が洛に入り、契丹とまさに重要な盟約を結ぼうとした時、契丹に取られることを慮り、再び霊武(霊州)に除した。希崇は嘆いて言った、「我は辺城に老いるべきで、天命からは逃れられぬ」と。そこで鬱々として志を得ず、久しくして病となり、任上で卒した。時に五十二歳。希崇は小校から累進して開府儀同三司・検校太尉に至り、三たび方面の任を歴し、清河郡公に封ぜられ、食邑二千戸、靖辺奉国忠義功臣の号を賜った。これも人生の栄盛というべきである。

希崇は元来質朴で篤実であり、特に書物を好み、公務の余暇には手から書物を離さなかった。酒や音楽を好まず、妾や僕を蓄えなかった。厳寒酷暑の時も必ずきちんと衣冠を整え、下僕の輩からも軽慢な言葉を聞いたことがない。母に仕えること至って謹み深く、食事の度に必ず侍立し、盥漱が終わるのを待って退き、世評はこれを高くした。性質は仁恕であったが、奸悪な者に遇えば、これを仇のように憎んだ。邠州在任の時、ある民が郭氏の養子となり、幼少から成人に至ったが、そむいて訓戒を受けず、追い出された。郭氏の夫婦は相次いで死去した。郭氏には実子がおり、すでに成長していた。時に郭氏の諸親族と養子が示し合わせ、『これは実子である』と言い、その財産を分けようとし、助けて訴訟を起こさせた。前後数人の長官も裁けず、疑獄となった。希崇はその訴状を読み、判決して言った、「父の存命中に既に離縁され、母の死に際しても赴かなかった。まさに仮の子と称すべきで、二十年の撫育の恩をそむく。もし実の子と言うならば、三千条の悖逆の罪を犯すことになる。甚だしく名教を傷つけるもので、どうして田園の理認(所有権主張)を敢えてするのか。その生計は全て実子に付す。訴訟を起こした者と共謀した者は、法官に委ねて律により刑を定めよ」。聞く者はその明察に服した。希崇はまた天象を観ることに長けていた。霊州在任の時、月が畢宿の口にある大星をおおうのを見、一月を経て再び同様のことがあると、嘆いて言った、「畢宿の口の大星は辺将を象る。月が再びこれを掩う。我はついに終わるのか」。果たして郡で卒した。

子の仁謙が後を嗣ぎ、引進副使を歴任した。

王庭胤

王庭胤、字は紹基、その先祖は長安ちょうあんの人である。祖父の処存は定州節度使。父の鄴は晉州節度使。庭胤は唐の莊宗の内表(母方の親族)である。性質は勇猛で剽悍、狡知に捷く、鷹や隼の如く目を光らせ、怒りを発すれば剣を抜いて顧みない。若くして晉陽の軍校となり、城を攻め野に戦うことを務めとし、暑さには嘉樹の陰で休まず、寒さには密室の下に居らず、軍兵と食うに異なる味なく、住むに異なる適所なく、故に莊宗は親族の中において、特に礼遇を加えた。莊宗、明宗の朝、累ねて貝、忻、密、澶、隰、相の六州刺史を歴任す。國初(後晉建国初)、範延光が鄴に拠り乱を称す。高祖(石敬瑭)は庭胤が累朝の宿将なるを以て、詔して魏府行営中軍使兼貝州防御史と為す。城降りて賞労し、相州節度使を授け、尋いで鎮を定州に移す。先ず是れ、契丹は王処直の子威を以て定州節度使と為さんと欲す。処直は則ち庭胤の叔祖なり。処直は養子の都に篡せられ、時に威は北走して契丹に走り、契丹これを納る。是に至り契丹は使いを遣わし高祖に諭して云く、「王威をして先人の土地を襲わしめんと欲す、我が蕃中の制の如くせん」と。高祖答えて曰く、「中国の将校は自ら刺史、團練、防禦使より序を遷し、方に旄節を授く。威をここに遣わし任用せしめ、漸く升進せしむるを請う、乃ち中土の旧規に合わん」と。戎王(契丹主)深くその拒まるるを怒り、人をして復た報ぜしめて曰く、「爾自ら諸侯より天子と為る、何の階級か有るや」と。高祖はその滋蔓を畏れ、則ち厚く賂してその命を力めて拒む。契丹の怒り稍や息み、遂に連ねて庭允を升進せしめ、俾くも中山を鎮めしめ、且つその意を塞がんと欲すなり。少帝嗣位し、滄州節度使に改め、累官して検校太尉に至る。開運元年秋、位に卒す。年五十四。中書令を贈らる。子三人有り、長は昭敏と曰い、仕えて金吾将軍に至り卒す。

史匡翰

史匡翰、字は元輔、雁門の人なり。父は建瑭、莊宗に事えて先鋒将と為り、敵これを畏れ、「史先鋒」と謂う。累ねて戦功を立て、『唐書』に伝有り。匡翰は起家して九府都督ととくを襲い、代州遼州副使、検校太子賓客を歴任す。同光初、嵐、憲、朔等州都遊奕使と為り、天雄軍牢城都指揮使に改め、再び検校戸部尚書を加えられ、潯州刺史を領す。天成年中、天雄軍歩軍都指揮使を授けられ、歳余にして、侍衛彰聖馬軍都指揮使に遷る。高祖天下を有するや、検校司空しくう、懐州刺史を授けらる。その妻魯國長公主は、即ち高祖の妹なり。尋いで控鶴都指揮使兼和州刺史、駙馬都尉に転じ、俄に検校司徒、鄭州防禦使を授けられ、未だ幾ばくもなく、義成軍節度、滑濮等州観察処置、管内河堤等使に遷る。母憂に丁し、尋いで本鎮に起復す。(案:陶穀の撰する匡翰碑文に云く、「圃田は理を待ち、漢殿は才を掄ぶ。功臣は佐國の名を旌し、出守は専城の寄を奉ず」と。蓋し鄭州は即ち義成軍管内に在り、匡翰官を遷すと雖も、本鎮を離れざるなり。)

匡翰は剛毅にして謀略有り、軍を禦するに厳整、下に接するに礼を以てし、部曲と語るに、未だ嘗て名を称せず、数郡を歴るも皆政声有り。(陶穀碑文に云く、「齋壇峻くして金鼓厳しく、麻案宣して油幢出づ。梁苑の西郊を控え、殷乎として威望有り;國僑の遺俗を撫し、綽として政声有り」と。)特に『春秋左氏伝』を好み、毎に政を視るの暇に、学者を延いて講説せしめ、躬自ら巻を執りて業を受く。時に難問を発し、隠奥を窮む。流輩或いは戯れに「史三伝」と為す。既に自ら端謹にして、人の酔うを喜ばず。幕客に関徹と曰う者有り、狂率にして酣鋋なり。一日酒に使われ、怒りて匡翰に謂いて曰く、「明公昔覃懷を刺し、徹と主客随いて至り、事として不可なる無し。今節鉞を領し、数たび相容れず。且つ書記趙礪は、険诐の人なり。肩を脅め笑いを諂い、貨を黷して厭うこと無し。然るに明公これに待つこと甚だ厚し。徹今死を請う。近く張彦澤の張式を臠にするを聞くも、未だ匡翰の関徹を斬るを聞かず。天下の談者、比類有らざるを恐る」と。匡翰怒らず、満を引きて自ら罰し、これを慰勉す。その寛厚此の如し。天福六年、白馬河決す。匡翰これを祭るに、一犬角有り、水心に浮かぶを見て、甚だこれを悪む。後数月にして疾に遘い、鎮に卒す。年四十。詔して太保を贈る。

子の彦容、宮苑使、濮単宿三州刺史を歴任す。

梁漢颙

梁漢颙、太原の人なり。少くして後唐の武皇(李克用)に事え、初め軍中の小校と為り、騎射に善く、格戦に勇む。莊宗の劉仁恭、王德明を破り、及び梁軍と德勝に対壘するに、皆その戦に預かり、累功して龍武指揮使、検校司空に至る。梁平らぎ、検校司徒、濮州刺史を授けらる。同光三年、魏王継岌軍を統べて蜀を伐つ。漢颙を以て魏王中軍馬歩都虞候と為す。天成初、許州兵馬留後、検校太保を授けられ、尋いで邠州節度使と為り、歳余にして検校太傅を加えられ、威勝軍節度、唐鄧等州観察処置等使を充て、鎮に在ること二年、鎮を許州に移す。長興四年夏、眼疾を以て太子少師を授けられ致仕す。高祖素より漢颙と旧有り、即位の初めに及び、漢颙進謁し、再び任使を希い、左威衛上将軍を除く。天福七年冬、疾を以て洛陽らくように卒す。年七十余。太子太保を贈らる。

楊思権

楊思権は、邠州新平の人である。梁の乾化初年に軍校となり、貞明二年に弓箭指揮使・検校左僕射に転じ、累進して控鶴右第一軍使となった。唐の荘宗が梁を平定すると、右廂夾馬都指揮使に補された。天成初年に右威衛将軍に遷り、検校司空を加えられた。時に秦王従栄が太原を鎮守することとなり、明宗は馮贇を副留守とし、思権を北京歩軍都指揮使としてこれを補佐させた。従栄は幼少より驕慢で、公務に親しまず、明宗はかねてより従栄と親しい綱紀の者一人を遣わし、彼と遊び交わらせ、徐々に諫め導かせた。その者はかつて密かに従栄に言った、「河南相公(従厚)は恭謹で善を好み、端直な士人を親しみ礼遇し、老成の風がある。相公は年長であるから、さらに自ら励まされ、名声が河南の下に落ちぬよう努められるべきです」。従栄は悦ばず、思権に告げて言った、「朝廷の人々は皆従厚を推挙し、こぞって私の短所を非難する。私は廃されようとしている」。思権は言った、「相公はご心配なく。万一事変があれば、思権のいる所には甲兵があります。事を成すに足ります」。そこで従栄に部曲を招き置き、弓を調え矢を研ぎ、密かに備えをさせた。思権はまた使者に言った、「朝廷は君に相公のお伴をさせ、終日弟(従厚)は賢く兄(従栄)は弱いなどと言うのはどういうことか。我々がいる以上、どうして相公のために主となれないことがあろうか」。使者は恐れ、馮贇に告げ、密かにこれを奏上した。明宗は詔して思権を京師に赴かせたが、秦王の縁故により、これも罪とはしなかった。長興末年に右羽林都指揮使となり、興元に戍守を命じられた。閔帝が位を嗣ぐと、詔に従い張虔釗に従って鳳翔を討ち、岐下に至ると、思権は率先して戈を倒し虔釗を攻撃した。まもなく部下の軍を率いて先に城に入り、唐の末帝に言った、「臣は既に赤心を以て殿下に奉じました。京城平定の後、臣に一鎮を与えられ、防禦団練使の中に置かれぬよう願います」。そして懐中から紙一幅を取り出し、末帝に言った、「願わくは殿下自ら臣の姓名を書いて記してください」。末帝が筆を執り、「可 邠寧節度使」と書いた。即位すると、推誠奉国保乂功臣・静難軍節度使・邠寧慶衍等州観察処置等使・検校太保を授けた。清泰三年に召されて右龍武軍統軍となった。高祖が即位すると、左衛上将軍に除され、開国公に進封された。天福八年に病没、六十九歳。太傅を追贈された。

尹暉

尹暉は、魏州の人である。若くして勇健をもって魏帥楊師厚に仕え軍士となり、唐の荘宗が魏に入ると、抜擢されて小校となり、河上に従征し、常に馬前で歩いて戦い功があった。荘宗が即位すると、諸軍指揮使を連ねて改めた。天成・長興年中に数郡の刺史を領し、累進して厳衛都指揮使となった。唐の応順年中、王師が岐下で末帝を討つと、暉は楊思権と共に率先して帰順し、末帝は鄴都を授けることを約した。末帝が即位し、高祖が洛に入った時、かつて通衢で暉に出会い、暉は馬上で鞭を横たえて高祖に揖した。高祖はこれを憤り、後に謁見して末帝に言った、「尹暉は常才に過ぎず、帰順を以て先んじたと称していますが、陛下が名藩に出鎮させようとされるのは、外論皆不当と申しております」。末帝は暉を応州節度使に授けた。高祖が即位すると、右衛大将軍に改めた。時に範延光が鄴に拠り謀叛を企て、暉が失意しているのを見て、密かに人を遣わし蠟弾を齎らせ、栄利をもって誘った。暉は延光の文書を得て、恐れて逃れんとし、汴水に沿って淮南に奔らんとした。高祖はこれを聞き、まもなく詔を降して招喚したが、王畿を出でずして人に殺された。

子の勛は、皇朝(宋)に仕え、累ねて軍職を歴任し、内外馬歩都軍頭に遷り、現在郢州防禦使である。

李従璋

李従璋は、字を子良といい、後唐の明宗皇帝の猶子(甥)である。若くして騎射に優れ、明宗に従い河上で戦いを歴任し、梁平定の功があった。唐の同光末年に、魏の乱軍が明宗を迎えて帝とすると、従璋は時に軍を率いて常山より邢を過ぎ、邢人は従璋を留後とした。一月余りして明宗が即位すると、詔を受けて捧聖左廂都指揮使を領し、これは天成元年五月のことであった。八月に大内皇城使に改め、検校司徒・彰国軍節度使を加えられ、竭忠建策興復功臣を賜った。まもなく達靼諸部が入寇すると、従璋は麾下を率いて出討し、一鼓してこれを破り、詔をもって褒められた。三年四月に滑臺に移鎮した。時に明宗が大梁に駐蹕し、従璋はかつて幕客を召して謀った、「車駕が地方を巡幸され、藩臣は皆進献する。我は臣として子として、どうして後れを取ることができようか。倉廩の羨余を取ってその用に助けたい。諸君はどう思うか」。内に賓介が申し上げた、「聖上は寛大ではあるが犯し難く、行宮が近くにあります。もし上達すれば、一幕ともにその罪を被りましょう」。従璋は怒った。翌日、弓を引いて言った者を射んとした。朝廷はこれを知り、右ぎょう衛上将軍に改めて授けた。長興元年十月に陜州に出鎮した。二年五月に河中節度使に遷った。三年に就いて検校太傅を加えられ、忠勤静理崇義功臣を賜った。四年五月に制して洋王に封ぜられた。この年、明宗が崩御し、閔帝が位を嗣いだ。まもなく岐上で潞王に代わることを命ぜられたが、潞王が兵を挙げて洛に入ったため、事は遂に止んだ。高祖が即位した元年十二月に威勝軍節度使を授けられ、降封して隴西郡公となった。二年九月に任上で没した。五十一歳。鄧人はそのために市を罷め、遺愛を偲んだ。詔して太師を贈られた。

従璋は性貪黷であったが、明宗の厳正を恐れ、滑帥から環衛に入居した後、除拜に差跌があったため、心少し悔い悟るところがあり、後に数鎮を歴任し、かつての幕客で不足を感じた者と遇っても、何ら恨みを抱かなかった。蒲・陜の日、政に善誉があり、「忠勤静理」の号を改めて賜ったのは、まさにこのためである。高祖の在位に及んで、ますますその法を畏れたため、南陽で没した時、人々は甚だ惜しみ、これも明宗宗室の白眉であった。子に重俊がある。

子 重俊

重俊は、唐の長興・清泰年中に諸衛将軍を歴任した。高祖が即位すると、遥かに池州刺史を領した。少帝が位を嗣ぐと、虢州刺史を授けられた。性貪鄙で、常に郡人に訟えられ、御史臺に下され、贓罪は極めて重かったが、太后が猶子の故をもってこれを救い、判官高献に罪を帰して、ただその郡を罷めるに止めた。まもなく再び環列に居り、商州を出典した。商民は元より貧しく、重俊が臨むと、剥ぎ取ることほとんど尽くした。また家を治めるに法を守らず、その奴仆は湯を踏み火に蹈むが如く、その意に忤う者は、あるいは鞭打ち、あるいは刃傷に及んだ。また従人の孫漢栄を殺し、その妻を掠めた。代わられて洛に帰ると、漢栄の母燕氏がその子の妻を得て、府尹景延広に訴えた。牙将張守英が燕に言った、「重俊は前朝の枝葉、今上の従兄弟である。河南尹はどうしてこれを裁けようか。その金帛を邀えて、私的に和解するのが上策です」。燕はその言に従い、三百緡を受け取って止んだ。後に青衣の趙満師が楚毒に耐えられず、垣を越えて景延広に訴え、重俊が妹と私通し姦し、及び前後の不法の事を雲い、延広はこれを奏上した。詔して刑部郎中王瑜にこれを鞫させ、ことごとく実情を得、また穢跡が顕著に露わになったため、家で賜死させられた。

李従温

李従温は、字を徳基といい、代州崞県の人で、後唐の明宗の猶子(甥)である。明宗が微賤の時、従温は僕御の役を執り、後に養子とされた。諸藩を歴任するに及んで、牙校に任じられ、厩庫を掌らせた。唐の同光年間、銀青光禄大夫・検校右散騎常侍さんきじょうじを奏授され、累進して検校司空に加えられ、北京副留守を充任した。明宗が即位すると、安国節度使・検校司徒を授けられた。長興元年四月、右武衛上将軍として入朝した。この年、再び許田に出鎮した。翌年、北京留守に移り、太傅を加えられた。四年正月、太平軍節度使に改めた。五月、制により兗王に封ぜられた。十一月、定州に移鎮し、兼ねて北面行営副招討使となり、まもなく常山に移鎮した。清泰年間、同平章事を加えられ、彭門に移鎮した。高祖が即位した翌年、侍中を加えられた。七年、兼中書令を加えられた。八年、再び許州節度使・開府儀同三司となり、趙国公に封ぜられ、累進して食邑一万戸、食実封一千二百戸を加えられた。開運二年、河陽三城節度使に改めた。三年二月、任中に卒した。享年六十三。太師を贈られ、隴西郡王を追封された。

従温は初め明宗の本枝(一族)として、藩翰(要地の長官)を歴任したが、文武の才略がなく、世を済うに資する用はなく、凡そ民に臨むに貨利を急務とした。常山に在った日、牙署の池潭凡そ十余頃を見て、皆木を立てて岸とし、修竹を以てこれを環らしていたが、従温は「これは何の用か」と言い、悉く竹を伐ち木を取って列肆に売り、その代価を得て実用の帑蔵に充てた。高祖が即位した時、従温は時に兗州におり、多く乗輿の器服を創ったが、宗族が切に戒めたのに、従温は聞き入れなかった。その妻関氏は、元来耿介な性格で、一日牙門で厲声をあげて「李従温は乱を為さんとし、天子の法物を擅に造っている」と言った。従温は敬って謝し、悉く焼かせたので、家に敗累がなかったのは、関氏の力である。後に多く駱駝や馬を飼い、近郊に放牧したので、民がその害稼を訴える者があったが、従温は「もしお前の意に従えば、我が産畜は何処に帰するのか」と言った。その昏愚は多くこの類である。高祖は性至って察する所があり、知りながら問わなかった。少帝が位を嗣ぐと、太后の教えに「我にはこの兄しかいない、慎んでこれを縄するなかれ」と言った。故に愈々姑息を加え、以て年耳順を逾え、牖下に終わったのは、天幸である。

張萬進

張萬進は、突厥の南鄙の人である。祖父は拽斤、父は臘。萬進は白皙で美髯あり、若くして無頼であった。唐の武皇に事え、騎射を以て著名で、城を攻め野に戦い、奮って命を顧みなかった。嘗て梁軍と対陣し、鋭い先の短刀を持ち、馬を躍らせて独り進み、兵刃が既に刓れたとて、則ち大錘に換え、左右奮撃し、出没進退して、敢えて当たる者無し。唐の荘宗・明宗は元来その雄勇を憐れみ、またその戦功を奨めたので、故に累ねて大郡を典した。天成・長興年間、威勝・保大の両鎮節度使を歴任した。高祖が天下を有すると、彰義軍節度使に命じたが、至る所治まらず、政は群下に由った。涇原に至っては、兇恣弥甚だしかった。毎日公庭に大鼎を列ね、肥えた羊を烹り、肉を方寸に割って賓佐に啖らせたが、皆涙を流して大嚼できず、他の顧みを俟って、則ち袂の中に致した。また巨觶を行酒させ、訴えると則ちこれを辱めたので、杯を持って偽りに飲み、領裱を褰げてこれを納れる者もあった。既に沈湎して節無く、唯婦言を用いるのみで、その妻と幕使の張光載が公政に干預し、銭数万を納めて、一豪民を補して捕賊将とし、兵数百人を領いて新平郡境に入った。邠帥がその事を上奏したので、詔を以てこれを詰問し、光載は流罪に坐し、登州に配された。天福四年三月、萬進は疾篤く、月余りして、州兵が乱れんとしたので、乃ち詔して副使の万庭圭にその符印を委ねさせた。記室の李升は素より淩虐を憾み、その将に亡ぶるを知り、庭圭に謂って「氣息将に奄んとし、晨暮を保たず、促して第に移るは、豈に宜しからざらんや」と言った。庭圭はこれに従った。萬進は間もなく卒したので、遂に籃轝を以て屍を秘して出し、即ち騎を馳せてこれを奏した。詔命既に至って、而る後に発喪した。その妻は素より很戾で、長子の彦球に謂って「万庭圭が危病を逼迫し、驚擾して死なせたのだ。手を下してこれを戮さずんば、何を以て生きんや」と言った。庭圭はこれを聞き、敢えて往弔しなかった。萬進は精舎の下に仮殯し、東轅に彗するに至るまで、凡そ数ヶ月の間、郡民数万にして、一も饋奠する者無し。不善を為す者は、衆必ずこれを棄つ、信ずるかな。

【論】

史臣曰く、延広は功二帝を扶け、任六師を掌り、亦た晋の勲臣と謂うべし。然れども経国の遠図を昧にし、強敵に狂言を肆にして、卒に邦家を蕩覆せしめ、宇県を丘墟たらしむ。『書経』に所謂「惟だ口は羞を起す」とは、其れ斯人の謂いか。彦韜は既に負い且つ乗り、任重く才微にして、盗斯くのこれを奪うは、固より其れ宜なり。希崇は蔚として雄幹有り、塞垣に老い、其の才を尽くさず、良く亦た惜しむべし。楊・尹の二将は、倒戈に因りて鉞を仗つ、豈に義士の為す所ならんや。其の余は蓋し勲を以てし親を以てし、咸く屏翰を分つ。唯だ萬進の醜徳は、又何ぞ譏るに暇あらんや。