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舊五代史
晉書十三: 宗室列傳二
◎宗室(案ずるに、『晉宗室列傳』は、『永樂大典』に僅かに四篇を存するのみにして、余は多く殘闕す。)
廣王敬威、字は奉信、高祖の從父弟なり。父は萬詮、太尉を贈られ、趙王を追封せらる。敬威は少より騎射に長じ、後唐の莊宗に事へ、從戰の功有りて、累ねて軍職を歷任す。明宗即位し、奉聖指揮使に擢でらる。天成・應順の中、凡そ十たび軍額を改め、累官して檢校工部尚書に至り、忠順保義功臣を賜はる。清泰の中、兵部尚書・彰聖都指揮使を加へられ、遙かに常州刺史を領す。高祖の太原に義を建つるに及び、敬威は時に洛下に在りて、禍必ず及ぶを知り、親しき者を召して謂ひて曰く、「夫れ人生にして死有り、是れ理の常なり。我が兄方に大舉を圖らんとす、余固より偷生して辱を待ち、一時の笑ひを取るべからず」と。乃ち私邸に於て自殺す、人甚だ之を壯とす。天福二年、冊して太傅を贈り、河南縣に葬る。六年、廣王を追封す。
子の訓嗣ぐ、官は左武衛將軍に至る。敬威の弟に赟有り。赟、字は德和、(案ずるに、以下闕文有り。)陜州節度使となる。少帝即位し、同平章事を加ふ。赟は性驕慢にして、使者至る毎に必ず問ひて曰く、「小姪安否や」と。暴虐を恣にし、陜人之を苦しむ。(案ずるに、以下闕く。『少帝紀』に、開運三年十二月、前曹州節度使石赟死す、帝の堂叔なり。『歐陽史』は沙壕に墮ちて溺死すと作す。)
韓王暉、字は德昭、睿祖孝平皇帝の孫、高祖の從兄なり。父は萬友、秦王を追封せらる。暉は生まれながら龐厚にして、剛毅雄直、器局有り、徑に由らずして行ひ、事に臨みて智多く、故に高祖宗族の中に於て、獨り之を厚く遇す。初め、張敬達の晉陽を圍むや、高祖暉を署して突騎都將と為し、常に部を引きて、敵の意に及ばざるに出で、深く入りて力戰す。夷傷流血し、矢鏃骨を貫くとも、辭氣益々厲しく、高祖之を壯とす。天福二年、遙かに濠州刺史を授け、皇城都部署を充つ。四年、檢校司徒を加へられ、曹州防禦使を授けられ、檢校太保を加ふ。其の任に蒞むや、廉にして下を愛恤し、財利を營まず、伎樂を好まず、部人之に安んず。歲餘、疾を以て官に終はり、太原に歸葬す。八年、冊して太師を贈り、韓王を追封す。
子の曦嗣ぐ。(『宋史・石曦傳』に、天福中、曦を以て右神武將軍と為し、漢を歷て周に至り、右武衛・左神武二將軍と為る。恭帝即位し、初め左衛將軍と為り、會ひて高麗王昭に恩を加ふるに、曦をして左驍衛將軍戴交を副へしめて使を充てしむ。淳化四年卒す。)
剡王重胤。(案ずるに、郯王以下の諸王傳は、『永樂大典』原闕す。『歐陽史』に云く、重允は高祖の弟なり、亦其の親疏たるを知らず、然れども高祖之を愛し、養ひて子と為す、故に名に「重」を加へて諸子の下に齒す。『通鑒・齊王紀』に、高帝の少弟重胤早く卒す。)
虢王重英。(案ずるに、『虢王傳』は、『永樂大典』原闕す。『五代會要』を考ふるに云く、重英は高祖の長子、天福四年四月追封せらる。是の書の『唐紀』に、清泰三年七月己丑、右衛上將軍石重英を誅す。)
楚王重信、字は守孚、高祖の第二子、後唐明宗の外孫なり。少より敏悟にして、智思有り。天成中、始めて銀青光祿大夫・檢校左散騎常侍を授けられ、俄に檢校刑部尚書を加へられ、相州長史を守る。未だ幾ばならず、金紫光祿大夫に遷り、超拜して檢校司徒と為り、左金吾衛大將軍を守る。重信は唐の明宗及び閔帝・末帝に歷事し、貴戚を恃まず、能く己を克くして禮に復り、常に恂恂たるが如く、甚だ時論に稱せらる。高祖即位し、孟津に出鎮す。任に到りて月を踰ゆるに、民の病むこと十餘事を去り、朝廷詔有りて之を褒む。是の歲、範延光鄴に於て命に叛く。詔して前靈武節度使張從賓を遣はし、河橋の屯兵數千人を發し、東して延光を討たしむ。既にして從賓延光と合謀して亂を為す。遂に重信を理所に害す、時に年二十。遠近聞く者、之が爲に嘆惜す。詔して太尉を贈る。時に執事奏して曰く、「兩漢の子弟、生死に三公の位を歷る者無し」と。高祖曰く、「此兒善を爲して禍に被る、予甚だ之を湣む。我より古を作す、寧ろ例有らんや」と。遂に冊命を行ふ。其の年の十月、河南の萬安山に葬る。天福七年、沂王を追封す。少帝位を嗣ぎ、楚王に改封す。妃は南陽の白氏、昭信軍節度使奉進の女なり。重信に子二人有り、皆幼く、公宮に長ず。少帝の北遷に及び、其の終はる所を知らず。
壽王重乂、字は宏理、高祖の第三子なり。幼より岐嶷にして、儒書を好み、亦兵法に通ず。高祖素より鐘愛す。即位に及び、北京皇城使より拜して左驍衛大將軍と為る。車駕浚郊に幸す。檢校司空を加へられ、權めて東都留守と為る。未だ幾ばならず、鄴都の範延光叛く。朝廷楊光遠を遣はして之を討たしむ。詔して前靈武節度使・洛都巡檢使張從賓に、盟津の屯兵を發して鄴下に赴かしむ。會ひて從賓密かに延光に通じ、婁繼英等と先づ河橋を劫ひ、次いで洛邑を亂し、因りて重乂を河南府に害す、時に年十九。從賓敗る。高祖便殿に於て哀を發し、視朝を三日輟む。詔して太傅を贈る。是の歲冬十月、詔して莊宅使張穎を遣はし喪事を監護せしめ、河南府萬安山に葬る。天福中、壽王を追封す。妃は李氏、汾州刺史玘の女なり。重乂に子無し。妃後には髮を落として尼と為り、開運中、京師に卒す。
夔王重進。(『五代會要』に云く、重進は高祖の第五子、天福七年四月追封せらる。)
陳王重杲。(『歐陽史』に、高祖の少子を馮六と曰ふ、名づけずして卒す。太傅を贈り、陳王を追封し、名を重杲と賜ふ。)
重睿。(案ずるに『契丹國志』に、高祖憂悒して疾を成す。一旦馮道獨り對す。高祖幼子の重睿をして出でて之を拜せしめ、又宦者をして抱きて道の懷中に置かしむ。蓋し馮道をして之を輔け立たしめんと欲するなり。高祖崩ず。道と侍衛馬步都虞候景延廣議し、國家多難を以て、宜しく長君を立つべしと。乃ち齊王重貴を奉じて嗣と為す。『五代會要』に、重睿は高祖の第七子、許州節度使、未だ王を封ぜず。『歐陽史』に云く、出帝に從ひて北遷し、其の終はる所を知らず。)
延煦。(『五代會要』に云く、延煦は少帝の長子、遙かに陜西節度使を領す。『通鑒』に云く、趙在禮の家資は諸帥の最なり。帝其の富を利とし、皇子の鎮寧節度使延煦をして其の女を娶らしむ。在禮自ら緡錢十萬を費し、縣官の費は、數倍之に過ぐ。)
延宝。(『五代会要』:延宝は少帝の次子、遙領魯州節度使。『通鑒』に云う:延煦及び弟延宝は皆高祖の諸孫、帝養いて以て子と為す。『会要』実録を引くも亦云う:皆帝の従子、養いて以て子と為す。『欧陽史』に云う:延煦等帝に従いて北遷し、後其の終わる所を知らず。)