舊五代史

晉書しんじょ十二: 后妃列傳一

◎后妃列傳

高祖こうその皇后李氏。(《五代會要》に云う:高祖の皇后李氏は、唐の明宗の第三女なり。天成三年四月、永寧公主に封ぜられ、長興四年九月、魏國公主に進封せられ、清泰二年九月、晉國長公主に改封せらる。天福六年十一月に至り、皇后と尊ぜられ、七年六月、皇太后と尊ぜらる。開運四年三月、少帝と共に契丹の黄龍府に遷される。漢の乾祐三年八月二十五日、蕃中の建丘にて崩ず。《文獻通考》に云う:天福二年、有司皇后を立てんことを請う。帝は宗廟未だ立たずとし、謙抑して未だ遑あらず。帝崩じ、出帝即位し、乃ち皇太后と尊ぶ。《契丹國志》に載する晉出帝の降表に云く:「晉室皇太后媳婦李氏妾言す:張彦澤・傅住兒等至る。伏して蒙るに皇帝阿翁の書を降し安撫せらるる者。妾伏して念うに、先皇帝頃に並・汾に在りしとき、適逢うに屯難に、危きこと累卵に同く、急なること倒懸の若く、智勇俱に窮まり、朝夕保たず。皇帝阿翁冀北より発し、親しく河東に抵り、山川を跋履し、險阻を逾越し、巨孽を立平げ、遂に中原を定む。石氏の覆亡を救い、晉朝の社稷を立つ。不幸先帝厭代し、嗣子祧を承く。能く好を継ぎ民を息ますして、而して反って恩を虧き義を辜す。兵戈屡動し、駟馬難追。戚実に自ら貽し、咎将に誰か執らん。今穹旻震怒し、中外携離す。上将は羊を牽き、六師は甲を解く。妾挙宗釁を負い、景を視て生を偸む。惶惑の中、撫問斯に至る。恩旨を明宣し、曲に含容を賜い、慰諭丁寧、神爽飛越す。豈謂はんや已に垂れんとするの命、忽ち更生の恩を蒙らんとは。罪を省み躬を責むるに、九死未だ報いず。今孫男延煦・延宝を遣わし表を奉りて罪を請い、陳謝して以て聞こえしむ。」と。又、《帝紀》に云う:会同十一年正月朔、出帝・太后遼帝を封丘門外に迎う。帝辞して見えず、封禅寺に館し、其の将崔廷勛を遣わして兵を以て之を守らしむ。是の時雨雪連旬、外に供億無く、上下凍餒す。太后人をして寺僧に謂わしめて曰く「吾嘗て此に於て僧数万に飯せり。今日豈相憫まざらんや」と。僧、遼帝の意測り難しと辞して、敢えて食を献ぜず。少帝陰に守者に祈り、乃ち稍く食を得。遼少帝を降して光禄大夫・検校太尉とし、負義侯に封じ、黄龍府に遷す。即ち慕容氏の和龍城なり。帝人をして太后に謂わしめて曰く「吾聞く、爾が子重貴、母教に従わずして此に至ると。自便を求むべく、俱に行くこと勿れ」と。太后答えて曰く「重貴妾に事えて謹慎なり。失う所は先君の志に違ひ、両国の歓を絶つに在り。然れども重貴此去り、幸いに大恵を蒙り、身を全うし家を保つ。母子に随わずして、何れの所にか帰らんと欲する」と。是に於て太后は馮氏・皇弟重睿・子延煦延宝と、挙族晉侯に従いて北す。天禄元年四月、帝遼陽に至る。晉侯白衣紗帽を以て太后・皇后と共に帳中に謁す。五月、帝陘に上り、晉侯の従う宦者十五人・東西班十五人及び皇子延煦を取って去る。八月、帝陘を下る。太后自ら馳せて州に至り帝に謁し、漢児城側に地を賜わり耕牧して以て生と為さんことを求む。之を許す。帝、太后自ら行くこと十余日なるを以て、延煦と俱に還り遼陽せしむ。二年、晉侯・太后を建州に徙す。三年秋八月、晉の李太后病み、医薬無く、天を仰ぎて号泣し、手を戟して杜重威・李守貞を罵りて曰く「吾死して汝を置かず」と。病亟く、晉侯に謂ひて曰く「吾死すれば、其の骨を焚きて范陽の佛寺に送れ。吾をして辺地の鬼と為らしむること無かれ」と。)

太妃安氏。(《文獻通考》:安太妃は代北の人、其の世家を知らず。出帝を生む。帝立ち、皇太妃と尊ぶ。《契丹國志》に云う:天禄二年春二月、晉侯・太后を建州に徙す。中途安太妃卒す。遺命して晉侯に曰く「骨を焚きて灰と為し、南に向かひて之を揚げよ。庶幾くは遺魂中国に返るを得ん」と。)

少帝の皇后張氏。(案ずるに《五代會要》:天福八年十月追冊す。薛史《少帝紀》を考うるに云く、故妃張氏を追冊して皇后と為す。《張從訓傳》亦云う、高祖太原に鎮まる時、少帝の為めに從訓の長女を娶りて妃と為す、と。)

皇后馮氏。(案ずるに『五代會要』に云う、開運三年十月冊立す。『通鑒』に云う、天福八年冬十月戊申、吳國夫人馮氏を立てて皇后と為す。初め、高祖は少弟重胤を愛し、養子と為す。鄴都留守に及び、副留守馮濛の女を娶りて其の婦と為す。重胤早く卒す。馮夫人寡居す。美色有り、帝見て之を悦ぶ。高祖崩じ、梓宮殯に在り、帝遂に之を納る。群臣皆賀す。帝馮道等に謂ひて曰く、「皇太后の命、卿等と大慶に任せず。」群臣出づ。帝夫人と酣飲し、梓宮の前を過ぎ、酹して告げて曰く、「皇太后の命、先帝と大慶に任せず。」左右失笑す。帝亦自ら笑ひ、左右に謂ひて曰く、「我今日新婿と為ること如何。」夫人と左右皆大笑す。太后恚るも、之を如何ともする無し。既に中宮に正位し、頗る政事に預る。后の兄玉、時に禮部郎中・鹽鐵判官と為る。帝驟に擢用して端明殿學士・戶部侍郎に至らしめ、政事を議わしむ。『文獻通考』に云う、契丹京師に入り、后帝に随ひ北遷し、終わる所を知らず。又、案ずるに『五代會要』晉の内職を載すに云う、高祖潁川郡夫人蔡氏、天福三年八月敕。少帝寶省李氏隴西郡夫人に封ず。張氏春宮夫人に封じ、皇后宮尚宮を充て、並びに天福八年十二月二日敕。前左禦正齊國夫人吳氏燕國夫人に進封し、書省魏國夫人崔氏梁國夫人に進封し、前右禦正天水郡夫人趙氏衛國夫人に封じ、司簿孟氏汧國夫人に封じ、前司簿李氏隴西郡夫人に封じ、弟子院使齊氏・大使郭氏・副使賈氏並びに本縣君に封ず。太后宮尚宮陳留郡夫人何氏鄭國夫人に進封し、河南郡夫人元氏齊國夫人に進封し、知客出使夫人石氏武威郡夫人に封じ、春宮姚氏・常氏・焦氏・王氏・陶氏・魏氏・趙氏七人並びに超封して郡夫人と為し、寶省婉美趙氏天水郡夫人に封じ、武氏以下十一人並びに春宮を授く。天福八年十一月敕。清河郡夫人張氏・彭城郡夫人劉氏並びに太后宮司寶を充て、南陽郡夫人路氏・出使夫人趙氏白氏並びに皇后宮司賓を充つ。開運二年八月敕。又、按ずるに『薛史』は外戚傳を載せず。『五代會要』に據るに云う、晉高祖長女長安ちょうあん公主楊承祚に降嫁す。天福二年五月封じ、六年五月に至り卒す。秦國公主を追封し、七年九月に至り、又梁國長公主を追封す。從長女高平縣主・第二女新平縣主・第三女千乘縣主・孫女永慶縣主、並びに天福七年五月封ず。)