舊五代史

晉書しんじょ二: 高祖こうそ本紀二

天福元年十一月己亥、帝は北京崇元殿に御し、制を降す。「長興七年を改めて天福元年と為し、天下に大赦す。十一月九日昧爽以前、応に在京及び諸州の諸色の罪犯、及び曾て偽命の職掌官吏を授けられし者、並びに見禁の囚徒、已に結正せし未だ結正せざる、已に発覚せし未だ発覚せざる、罪の軽重無く、常赦に原せざる者、咸く赦除す。応に明宗朝に行はれし敕命法制は、仰せて所在遵行し、改易を得ず。其の在京の塩貨は、元は官場出糴なりしが、自今以後並びに禁断せず、一任す人戸の便に取り糴易するを。仍く下す太原府に、更に開場して糴貨することを得ず。其の曲は毎斤に價錢三十文を減ずるを與ふ。」節度判官趙瑩を以て翰林學士承旨・守尚書戸部侍郎・知河東軍府事と為し、節度掌書記桑維翰を以て翰林學士・守尚書禮部侍郎・知樞密院事と為し、觀察判官薛融を以て吏部郎中兼侍御史・知雜事と為し、太原縣令羅周嶽を以て左諫議大夫と為し、節度推官竇貞固を以て翰林學士と為し、軍城都巡檢使劉知遠を以て侍衛馬軍都指揮使と為し、客将景延廣を以て歩軍都指揮使と為し、太原少尹李玘を以て尚書工部侍郎と為す。

閏十一月甲子、晉安寨副招討使楊光遠等、上将張敬達を殺し、諸軍を以て来降す。丙寅、制す。翰林學士承旨・知河東軍府・戸部侍郎・知制誥趙瑩を以て門下侍郎同中書門下平章事・監修國史と為す。翰林學士・権知樞密事・禮部侍郎・知制誥桑維翰を以て中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿大學士と為し、前の如く知樞密院事に依り、並びに推忠興運致理功臣を賜ふ。甲戌、車駕昭義に至り、趙德鈞・延壽の降を受く。是の日、戎王酒を挙げて帝に謂ひて曰く、「予遠く来たりて義に赴き、大事已に成る。皇帝須らく京都に赴くべし。今大詳袞に令し兵を勒して相送り河梁に至らしむ。河を過ぎんと要する者は、任意多少すべし。予も亦た且く此の州に在り、京・洛京平定を俟ちて、便ち当に北轅すべし。」手を執りて相泣き、久しく別るる能はず。白貂裘を脱ぎて以て帝に衣せしめ、細馬二十匹・戦馬一千二百匹を贈り、仍く誡めて曰く、「子子孫孫、各相忘るる無かれ。」己卯、河陽北に至る。節度使萇從簡来降す。舟楫已に具はる。庚辰、洛陽らくようの煙火相次ぐを見る。将校状を飛ばして進むを請ふ有り。辛巳、唐末帝其の族を聚め、親将宋審虔等と元武楼に登り、火を縱ひ自ら焚けて死す。晚に至り、車駕洛に入る。唐兵甲を解きて罪を待つ。皆慰めて之を舍つ。帝潜龍の旧第に止まる。百官稍く見ゆ。詔し御史府に朝官の入見を促す。詔す、文武両班の臣僚、偽庭に事へし者は並びに罪を釋すべし。是の日、百辟宮門の外に於て恩を謝す。甲申、車駕内に入り、文明殿に御して朝賀を受け、唐の礼楽を用ふ。制す。「天下に大赦す。応に中外諸色の職掌官吏の内、曾て偽命を受けたる者有らば、一切問はず。偽廷の賊臣張延朗・劉延皓・劉延朗等は、並びに奸邪にして物を害し、貪猥にして権を弄び、罪既に満盈す。理を以て貸し難し。此の三人已に行はるる敕命指揮を除く外、其れ宰臣馬裔孫・樞密使房暠・宣徽使李専美・河府節度使韓昭裔等の四人有り、並びに令して釋放せしむ。少帝は宜しく中書門下に令し追尊定謚し、日を擇び礼葬すべし。妃孔氏は、宜しく追冊祔葬を行ふべし。応に天下の節度使・刺史の下の賓席郡職及び将校等は、中書門下に委ね各官資を改轉せしむ。其の北京管内の塩鐺戸、合へば逐年の塩利を納むるに、昨者の偽命指揮に、毎斗須らく人戸に令し折納して白米一斗五升せしむ。極く百姓の艱苦を知る。自今以後宜しく人戸に令し、元納の食塩石斗の数目を以て、毎斗実價に依り計ひ定めたる錢数を取り、人戸の便穩に取り、斛斗を折納せしむべし。其の洛京管内の逐年に配する所の人戸食塩は、来年より每斤特に價錢十文を減ずるを與ふべし。応に諸道の商税は、仰せて逐處将省司の合收する税条例を、本院の前に榜示すべし。榜内に該設の名目する者は、即ち税を収むるを得。」

十二月乙酉朔、河陽に幸し、大詳袞・蕃部の兵士を餞送して帰国せしめ、詔して末帝を庶人に降す。丁亥、制す。司空しくう馮道を以て本官を守り兼ねて門下侍郎・平章事・宏文館大學士と為し、歩軍都指揮使符彥饒を以て滑州節度使と為し、河陽節度使萇從簡を以て許州節度使と為し、澤州刺史劉凝を以て華州節度使と為し、皇子重乂を以て河南尹と為す。庚寅、滑州節度判官石光贊を以て宗正卿と為す。辛卯、旧相姚顗を以て刑部尚書と為す。時に秋より雨無く、冬を経て雪無し。群官を命じ遍く祈祷を加へしむ。癸巳、邠州節度使張希崇を以て霊武節度使と為し、鄧州節度使皇甫遇を以て定州節度使と為す。詔す、国朝の文物制度・起居入閣は、宜しく唐明宗朝の事例に依り施行すべし。鎮州衙内都虞候秘瓊乱を作し、副使李彥琦を逐ひ、都指揮使胡章を殺す。同州小校門鐸、節度使楊漢賓を殺し、州城を焼劫す。丙申、帝明宗皇后曹氏の薨ずる為に長春殿に於て哀を挙げ、朝を輟むこと三日。詔して故東丹王李贊華を封じて燕王と為し、前単州刺史李肅を遣はし部署して本國に帰葬せしむ。右拾遺吳涓を以て左補闕と為し、樞密院學士を充てしむ。己亥、汴州節度使李周を以て西京留守を充てしめ、前河中節度使李從璋を以て鄧州節度使と為す。茲州奏す、草寇城を攻め、三日にして退く。庚子、帝皇弟故彰聖指揮使敬殷・沂州指揮使敬德・檢校太子賓客敬友の為に長春殿に於て哀を挙ぐ。旧相盧文紀を以て吏部尚書と為し、皇城使周環を以て大將軍と為し三司使を充てしめ、左贊善大夫馬重績を以て司天監と為す。青州奏す、節度使房知温卒す。詔し鄆州王建立に所部の牙兵を以て青州に往き安撫せしむ。中書門下奏す、「請ふ来年二月二十八日、帝の慶誕日を天和節と為さんことを。」之に從ふ。

天福二年春正月甲寅朔、帝は文明殿に御して朝賀を受け、仗衛は定式の如し。乙卯、日蝕あり。是夜、赤白の気相間し、耕墾竹林の状の如し。亥より丑に至り、北濁に生じ、中天を過ぎ、明滅定まらず、二十八宿に遍くし、曙に徹して方に散ず。丁巳、故皇弟敬徳・敬殷並びに太傅を贈り、皇子重乂・重進・重英並びに太保を贈る。右神武統軍康思立卒す、視朝を輟み、太子少師を贈る。是日、詔して曰く、「唐荘宗の陵名は国諱と同じ、宜しく伊陵と改むべし。応に京畿及び諸州県、旧に唐朝諸帝の陵有り、並びに真源等県は、並びに次赤と為さず、却って畿甸の緊望を以て定むべし。其の逐処の県令は、陵台を以て結銜することを得ず。考満の日は、出選門官の例に依り指揮し、隔任の後は格例に準じて施行すべし。其の宋州・亳州節度使・刺史は、太清宮使副の名額を落とすべし」と。庚申、以前吏部郎中兼侍御史・知雑事王松を左諫議大夫と為し、水部郎中王易簡は本官のまま知制誥と為す。定州奏す、契丹幽州を改めて南京と為す。中書奏す、宗廟を立てんことを請う、之に従う。翰林学士・工部侍郎和凝を礼部侍郎と為し、前の如く充職す。詔して内外文武臣僚並びに恩を加う、皇基初めて造る、普く恩を示すなり。太子少保致仕華温琪卒す、太子太保を贈る。是日、詔して曰く、「応に朝臣中に藉才を以て特除して外任する者有らば、秩満して遺闕無く、将来官を擬するの時は、在外一任は朝に在る一任と同じく升進すべし。其の便に就き自ら外職を求め、及び特達の選任に非ざる者は、此の限に在らず」と。安州上言す、節度使盧文進行軍副使を殺し、部下の親兵を率いて淮を過ぐ。以前天平軍節度使・検校太尉・兼侍中王建立を平盧軍節度使と為し、守司空門下侍郎・平章事・宏文館大学士馮道を諸道塩鉄転運等使を兼ねしむ。天雄軍節度使・兼中書令範延光を改めて秦国公に封じ、食邑実封を加う。鳳翔節度使・兼中書令・西平王李従厳に食邑実封を加う。

乙丑、端明殿学士・礼部侍郎呂琦を検校工部尚書・秘書監と為す。丙寅、中興殿を改めて天福殿と為し、門名之に従う。湖南節度使・楚王馬希範に食邑実封を加え、功臣名号を改めて賜う。前昭義節度使・検校太傅・同平章事高行周を起復して右金吾衛大将軍と為し、前の如く昭義軍節度使と為す。泰寧軍節度使李従温・荊南節度使南平王高従誨・帰徳軍節度使趙在礼、並びに食邑実封を加え、功臣名号を改む。端明殿学士・戸部侍郎李崧を兵部侍郎・判戸部と為し、左諫議大夫王松を判度支と為す。魏府範延光奏す、「当管夏津鎮の捕賊兵士、誤って新斉州防御使秘瓊を殺却す」と。初め、延光将に異志を萌さんとし、人をして潜かに瓊に結ばしむ、諾う。是に及び、瓊其の謀に背くを以て、密かに精騎をして之を殺さしむ、是より延光の反状明らかなり。工部侍郎李玘を検校右僕射と為し、汾州刺史と為し、前彰国軍節度使尹暉を左千牛衛上将軍と為す。是日、詔して曰く、「西天中印土摩竭陀舎衛国大菩提寺三蔵阿闍梨沙門室利縛羅は、宜しく号を宏梵大師と賜うべし」と。庚午、涇州節度使李徳充・徐州節度使安彦威・秦州節度使康福・延州節度使劉景巌・襄州節度使安従進・夏州節度使李彜殷、並びに食邑実封を加う。壬申、正衙に礼を備えて故皇弟・皇子等を冊贈す。丙子、故契丹人皇王帰葬す、視朝を一日輟む。汴州雍丘県を改めて杞県と為す、廟諱を避くるなり。戊寅、兵部侍郎・判戸部李崧を中書侍郎・同中書門下平章事と為し、枢密使を充てる。権知枢密使事・中書侍郎・同中書門下平章事・集賢殿学士桑維翰を枢密使と為す。是日、詔して曰く、「天に応じて国を開き、恭しく己を以て人に臨む、宜しく継絶の恩を覃べ、以て延洪の道を広むべし。宜しく唐朝宗属の中に一人を取り公に封じて世襲せしめ、兼ねて隋の酅公を以て二王の後と為し、以て後周の介公を三恪に備え、其の祭祀を主り、及び大朝会に赴かしむべし」と。前鎮国軍節度使皇甫立を神武統軍と為し、前宗正卿李郁を太子賓客と為す。庚辰、吏部侍郎龍敏を判戸部と為す。

二月丙戌、尚食使安友規を葬明宗皇后監護使に充て、河陽節度使安審暉を鄜州節度使と為す。癸巳、詔して北京西北面計度司の事を停む。呉越国王銭元瓘に食邑実封を加え、功臣名号を改めて賜う。己亥、詔して曰く、「応に諸道行軍副使等得替の後は、且つ私家に就き便安に止まり、一年を限りて後に方て闕に赴くべく、当に便ち比擬を与うべし」と。壬寅、詔して曰く、「応に諸道馬歩都虞候は、自今以後朝廷更に差補せず、藩方に委ね、本州衙前大将の中に、慎んで久しく事任を歴し、刑獄に暁会する者を選び充て、三年を以て限と為し、仍って元随職員の内より差補することを得ず」と。左散騎常侍さんきじょうじ孔昭序を太子賓客と為し、尚書左僕射劉句・右僕射盧質並びに食邑実封を加う。甲辰、滄州留後馬全節を横海軍節度使と為し、太子賓客韓惲を貝州刺史と為し、左羽林統軍羅周敬を右金吾衛上将軍と為す。丙午、皇子左ぎょう衛上将軍重信を検校太保・河陽三城節度使と為し、権知河陽軍州事周瑰を安州節度使と為す。詔して曰く、「中外臣僚、或いは差使に因り出入し、並びに属人を藩鎮に薦め、事任を希求することを得ず。もし犯す者有らば、並びに唐長興二年の敕条に準じて処分すべし」と。戊申、中書舎人陳乂を改めて左散騎常侍と為す。応に在朝文武百僚及び見任刺史、先代未だ封贈せざる者は、与に封贈を加う。母・妻未だ叙封せざる者は、並びに叙封を与う。辛亥、天和節、帝長春殿に御し、左右街僧録威儀を召して殿内に経を譚ぜしむ、旧式に循うなり。

三月甲寅、制を下して北京留守・太原尹・皇子重貴に封邑三百戸を賜い、刑部侍郎張鵬を兵部侍郎に改める。己未、御史臺が奏上するには、「唐朝の定めた令式によれば、南衙の常参文武百官は、毎日朝退の後、廊下で食を賜り、これを常食と称した。唐末の乱離以来、常食は次第に廃れ、代わりに入閣起居の日に食を賜るようになった。毎回入閣の礼が終わると、閣門が仗を放つことを宣し、群官が皆拝礼し、これを謝食と称した。偽主清泰年中に至っては、入閣の礼が終わると、更に中使を差し遣わして正衙門口に至らせ食を賜ることを宣し、百官が立班して重ねて謝する。これは唐朝が食を賜った趣旨を共に失い、礼としては実に煩瑣に過ぎる。臣は因循のうちに根本を漸く失うことを恐れる。今後より入閣に際し食を賜るには、中使を差して口宣することを望まず、唐の明宗朝の事例に準じて処分されたい。」これを従う。(《五代會要》に載せる:その年四月、御史臺が奏上するには、「文武百官は、毎月朔望に入閣の礼が終わると、廊下食を賜る。在京の時は只だ朝堂の幕次と両廊下にて行われたが、今行朝に在っては、正衙門外に仮に幕次を設け、房廊が狭隘であるため、恐らく五月一日の朝会の礼が終わり、例に準じて幕次にて食を賜るには、整え難い。伏して見るに、唐の明宗の時、両省官は文明殿前の廊下にて食を賜られた。今、未だ審らかでないが、入閣の日に仮に正衙門内の両廊下に整えて食を賜るか、或いは別に処分があるか。」勅す:宜しく唐の明宗時の旧規に依り、廊下にて食を賜うべし。)中書が奏上するには、「勅に準ずる。故庶人は三月七日をもって王礼を以て葬り、その妻男等は並びに礼を以て葬る。その日の朝参を一日輟めることを請う。」これを従う。宣徽南院使楊彦詢を左監門衛上将軍と為し、前に依り宣徽使を充てる。兗州の李従温が奏上するには、節度副使王謙が軍士を構えて乱を為し、早く已に処置したと。丙寅、詔す:「王者は方に省みて教えを設け、勤労を憚むこと靡く;士を養い民を撫でるには、必ずその宜便に従う。顧みるに惟涼徳を以て、丕図を肇め啓く。常に務めて煩苛を去り、冀くは漸く富庶に臻らんことを。京城の俶擾の後、舟船の焚爇の余に属し、饋運頓に虧け、支費殊に闕くを念う。将に別に飛挽を謀らんとし、慮るに転た生霊に困らんことを。此を以て疚心し、未だ嘗て安席せず。今、夷門の重地、梁苑の雄藩、水陸交通し、舟車畢く集まるを以て、爰に経度を資し、須らく按巡を議す。寧くも暫く労するを免れんや、期する所は克く済わんことなり。今月二十六日を取って汴州に巡幸す」と云う。(《通鑒》:範延光が卒を聚め兵を繕い、巡内の刺史を悉く召して魏州に集め、将に乱を為さんとす。会に帝が都を大梁に徙すことを謀り、桑維翰曰く、「大梁は北は燕・趙を控え、南は江・淮に通じ、水陸の都会にして、資用富饒なり。今、延光の反形已に露わる。大梁と魏との距たり十驛に過ぎず、彼若し変有らば、大軍尋いで至らん。所謂疾雷耳に及ばざるなり。」丙寅、詔を下し、洛陽の漕運に闕有るに托け、東に汴州に巡る。)前貝州刺史史圭を刑部侍郎と為し、諸道塩鉄転運副使を充てる;前沢州刺史閻至を戸部侍郎と為す。詔す:「車駕が経過する州府の管界内に在る、所有の名山大川・帝王陵廟・名臣祠墓で、路より十里の者は、宜しく本州に令して整えて祗候せしむべし。駕が経過する日、酒脯を以て祭告す。」左僕射劉句等が宗廟を立てることを議し、高祖已下の四親廟を立て、その始祖一廟は、伏して聖裁を候う。御史中丞張昭遠が議し、隋・唐の制に依り四廟を立て、四世の中より名位高き者を推して太祖と為すことを請う。詔を下して百官に定議せしむ。百官は唐の廟に依り、四廟を追尊するを定と為すことを請う。これを従う。甲戌、右龍武統軍楊思権を左衛上将軍と為す。乙亥、前鄜州節度使張万進に検校太傅を加え、前宋州節度使李従敏に検校太尉を加う。吏部郎中兼侍御史・知雑事薛融を左諫議大夫と為し、兵部郎中段希堯を右諫議大夫と為す。戊寅、戸部尚書王権を兵部尚書と為し、工部尚書崔居儉を戸部尚書と為し、兵部尚書李鏻を太子少保と為し、兵部尚書致仕裴皞を工部尚書と為し、東上閣門使李守貞を右龍武将軍と為して職を充てる。庚辰、車駕京を離る。

四月癸未朔、鄭州に至る。防禦使白景友が牲餼器皿を進む。帝曰く、「民力に出でずや。」景友曰く、「臣は陛下の法を畏れ、皆己が俸にて弁ず。」これを収むるを命ず。甲申、駕汴州に入る。丁亥、制す:「応に天福二年四月五日昧爽以前、諸道州府に現に禁ずる囚徒、大辟已下、罪の軽重無く、並びに釈放す。天福元年以前、諸道州府に応に系る残欠租税は、並びに特に関免す。諸道に系る諸色人の省司銭物に欠負する者は、宜しく偽清泰元年終以前に欠く所の者に令し、通納到の物業に拠る外、並びに与に関放す。昨者、行きて鄭州滎陽けいよう県界に至り、路旁に虫食及び旱損の桑麦有る処を見る。所司に委せて人を差し検覆せしめ、量りて租税を蠲免す。河陽管内の酒戸百姓、応に天福元年閏十一月二十五日以前に欠く、敷かざる年額曲銭は、並びに放つ。その諸処で兵火を経たる者も、亦指揮に与るべし。罪に当たれば即ち誅し、式に常典を明らかにす;既往は憫むべく、宜しく深仁を示すべし。偽清泰中、臣僚内に誅戮に従う者有らば、並びに許して収葬せしむ。天下の百姓、年八十已上の者有らば、一子の差徭を免じ、仍って逐処に簡署して上佐官とす。梁の故滑州節度使王彦章は、命を当時に効し、身を致して事にし、千年の正気を稟け、百代の令名を流す。宜しく令して超えて太師を贈り、子孫は量りて才を以て叙録すべし。応に諸道州府の管界に、偽命の時に郷兵を抽点する時より、多くは結集して劫盗を為し、此を以て刑章を畏懼し、山谷に蔵隠する者有らば、宜しく逐処に令して曉諭招携し、各々復業せしむべし。今年四月五日以前に非を為す者は、一切問わず。如し両月に帰業せざれば、復た罪初めの如し。」丁酉、宣武軍節度使・侍衛親軍使楊光遠に兼侍中を加う。己亥、陜州節度使・侍衛都虞候劉知遠に検校太保を加う。庚子、北京・鄴都・徐兗二州並びに旱を奏す。詔す:「今後妃を立て、及び三公宰相を拝免し、並びに将を命じ、親王公主を封ずるには、宜しく並びに制命を降し、余は令式に従い処分すべし。」

夏五月壬子朔(一日)、帝は崇元殿に御して朝賀を受け、仗衛は定式の如し。詔して洛京・魏府管内に徴する所の今年の夏苗税麦等は、宜しく五分之一を放免すべし、微旱の故なり。丙辰(五日)、御史中丞張昭遠奏す、「汴州は梁室朱氏の称制の年、京都の号有り、及び唐の荘宗河南を平定し、復た廃して宣武軍と為す。明宗の行幸の時に至り、事を掌る者因縁に衙城を修葺し、遂に梁室の時の宮殿門牌額を掛く、当時識者は或ひそかに之を非とす。一昨車駕方に省み、暫く梁苑に居す、臣観るに衙城内の斎閣牌額、一に明宗の行幸の時の如く、都号無くして殿名有り、恐らくは典拠に非ざるか。臣窃に尋ぬるに秦・漢已来、寰海の内、鑾輿の至る所、多く宮名を立てり。近代隋室は揚州に於いて江都宮を立て、太原に汾陽宮を立て、岐州に仁寿宮を立てたり。唐朝は太原に晋陽宮を立て、同州に長春宮を立て、岐州に九成宮を立てたり。宮中の殿閣は、皆題署牌額し、以て皇居に類す。請う、故事に準じ、汴州衙城門に権に一宮門牌額を掛けしめ、則ち其の余の斎閣並びに便を取って名と為すを得べし」。勅す、行闕は宜しく大寧宮を以て名と為すべし。湖南の青草廟、旧く安流侯に封ぜられしを、進めて広利公に封ず。洞庭廟を進めて霊済公に封ず。磊石廟、旧く昭霊侯に封ぜられしを、進めて威顕公に封ず。黄陵の二妃廟、旧く懿節廟に封ぜられしを、改めて昭烈廟に封ず。馬希範の請に従うなり。戊午(七日)、以前成徳軍節度判官張彭を太府卿と為す。壬戌(十一日)、詔して在朝の文武臣僚、人毎に各封事一件を進めしむ。仍び須らく実封して通進せしめ、務めて闕政を裨ひ、以て虚懐に副わしむ。甲子(十三日)、虞部郎中・知制誥の于嶠を中書舎人と為し、戸部郎中于遘を虞部郎中・知制誥と為し、故太子少保致仕の朱漢賓に司空を贈る。乙丑(十四日)、六宅使王継宏を義州衙前に送り収管せしめ、前洺州団練使高信を復州に送り収管せしむ。二人崇礼門内に於いて喧争し、台司に劾せられたる故なり。戊辰(十七日)、翰林学士・戸部員外郎・知制誥の竇貞固を工部郎中・知制誥に改め、翰林学士・都官郎中・知制誥の李慎儀を中書舎人に改め、仍び金紫を賜い、並びに旧に依り職を充てしむ。庚午(十九日)、制して皇第二十一女を長安ちょうあん公主に封じ、皇第十一妹烏氏を寿安長公主に封じ、皇第十二妹史氏を永寿長公主に封じ、皇第十三妹杜氏を楽平長公主に封ず。壬申(二十一日)、天雄軍節度使・守太傅・兼中書令・興唐尹の范延光を進めて臨清王に封じ、食邑三千戸を加ふ。鳳翔節度使・検校太師・兼中書令・西平王の李従厳を進めて岐王に封ず。丙子(二十五日)、平盧軍節度使・兼中書令の王建立を進めて臨淄王に封ず。昭信軍節度使・侍衛馬軍都指揮使の景延広を寧江軍節度使に改め、典軍は旧に如し。太常卿梁文矩、四廟の諡号・廟号・陵号を定むるを奏し、太常少卿裴垣、四廟の皇后追尊の諡号を定むるを奏す、之に従ふ。戊寅(二十七日)、中書舎人・権知貢挙の王延を御史中丞と為し、翰林学士・戸部侍郎・知制誥の崔棁を兵部侍郎と為し承旨を充て、翰林学士承旨・兵部侍郎の程遜を検校礼部尚書・太常卿と為し、検校吏部尚書・太常卿の梁文矩を吏部尚書と為し、御史中丞の張昭遠を戸部侍郎と為し、吏部尚書の盧文紀を太子少傅と為す。己卯(二十八日)、詔して太社内先に収掌する所の唐朝罪人の首級等は、宜しく骨肉或は先の旧僚属に収葬せしむべく、其の喪葬儀注は制を過ぐるを得ず。

六月壬午朔、制を下す。「宗正卿石光贊が奏上する。滎陽の道左に萬石君石奮の廟あり、その德行は懿美なり。宜しく封崇を示し、以て遠祖の徽猷を光らせ、益々我が朝の盛典を茂らすべし。奮に太傅を贈る。」癸未、契丹の使夷離華が来聘し、馬二百匹及び人參・貂鼠皮・走馬・木碗等の物を致す。乙酉、翰林學士・司封員外郎・知制誥王仁裕を都官郎中に改め、右贊善大夫盧損を右散騎常侍に改む。前に朝貶有りし故なり。秘書少監致仕の劉頎を以て鴻臚卿致仕とし、前光祿少卿尹玉羽を以て少府監致仕とす。丙戌、宰臣李崧が表を上りて樞密使を趙瑩に譲る。瑩は佐命の元臣なるを以てなり。詔して允さず。前義成軍節度使李彥舜を以て左武衛大將軍とし、左散騎常侍唐汭を以て檢校禮部尚書・國子祭酒とし、前左龍武統軍李承約を以て左驍衛上將軍とす。戊子、宰臣趙瑩、契丹より使いして回る。癸巳、東都より奏す。瀍・澗河溢れ、金沙灘の内舍屋を壞す。幽州趙思温奏す。「瀛・莫の両州は元来当道に属す。其の刺史常行周・白彥球を臣が本府に発遣せんことを乞う。」詔して行周等を闕に赴かしむ。甲午、六宅使張言、魏府より回り、範延光の命に叛くを奏す。滑州符彥饒飛奏す。兵士北より来り、範延光黎陽に到ると伝う。兵を発して屯禦せんことを乞う。宣して客省使李守貞を遣わし延光の所に往きて罪を問わしむ。尋いで護聖都指揮使白奉進に命じ騎士一千五百を領して白馬渡に赴き巡検せしむ。乙未、魏府範延光の男閑廄使守図を御史臺に送る。攝荊南節度行軍司馬・檢校太保・歸州刺史王保義に檢校太傅を加え、武泰軍節度觀察留後を領し、荊南行軍司馬兼沿淮巡検使を充てしむ。襄州より奏す。江水一丈二尺漲る。丁酉、内班史進能を遣わし信箭一対を押して滑州に往き符彥饒に賜う。前磁州刺史劉審交を以て魏府計度使とし、東都巡検使張從賓を以て魏府四南面都部署を充てしむ。侍衛使楊光遠を遣わし歩騎一万を領して滑州に赴かしむ。東都副留守張延播を以て洛京都巡検使を充てしむ。白奉進奏す。「賊卒張柔を捉え、範延光が澶州刺史馮暉を一行都部署に充て、元従都押衙孫鋭を一行兵馬都監に充てしむと称す。」帝奏を覧て侍臣に謂いて曰く。「朕は寡徳寡謀と雖も、自ら延光の下に居せずと謂う。而るに馮暉・孫鋭は児戯に過ぎ、朝夕に就擒せられん。安んぞ能く大軍に抗拒して我が患いと為さんや。」天平軍節度使安審琦を起復して旧任に就かしめ、翰林學士・禮部侍郎和凝を改めて端明殿學士とす。乙巳、範延光牙将王知新を差し表を賫して闕に到る。朝見せしめず、武德司に収め付す。丁未、詔して侍衛使楊光遠を魏府四面都部署に充てしむ。張從賓を以て副とし、兼ねて諸軍都虞候とす。昭義節度使高行周を魏府西面都部署に充てしむ。是の日、張從賓亦叛き、範延光と葉謀し、皇子河陽節度使重信・皇子東都留守重乂を害す。己酉、奉国都指揮使侯益・護聖都指揮使杜重威を以て歩騎五千を領して汜水関に往き屯せしめ、従賓の乱に備えしむ。

七月辛亥、両浙銭元瓘奏す。「弟呉越士客馬歩諸軍都指揮使・静海軍節度使元球、時に非ずして府に入り、謀りて乱を為さんと欲す。腰下に匕首を搜め得、已に誅戮を訖う。」詔して元球の在身官爵を削る。甲寅、奉国都指揮使馬万奏す。滑州節度使符彥饒乱を作し、侍衛馬軍都指揮使白奉進を屠害す。尋いで以て所部の兵を以て彥饒を擒え到り、功を立てし都虞候方太を差し送りて闕に赴かしむ。尋いで路に於いて死を賜う。是の日、範延光の在身官爵を削奪す。馬万を以て滑州節度使とし、昭義節度使高行周を以て河南尹・東都留守とし、西面行営諸軍都部署を充てしむ。護聖左右廂都指揮使杜重威を以て昭義軍節度使兼侍衛馬軍都指揮使とし、西面行営副部署を充てしむ。奉国都指揮使侯益を以て河陽節度使とす。右神武統軍王周を以て魏府行営歩軍都指揮使を充てしむ。滑州節度使馬万を以て魏府行営馬軍都指揮使を充てしむ。左僕射劉句を以て東都留守とし、兼ねて河南府事を判ぜしむ。杜重威等奏す。「汜水関を収め下し、賊千人を破る。張従賓及び其の残党奔投して河に投入す。兼ねて護聖指揮使曹再晟一百人騎を受け、賊に背き投来すと称し、並びに行闕に送り赴かしむ。」貝州を升めて防禦使額とす。皇子故東都留守重乂に太傅を贈り、皇子故河陽節度使重信に太尉を贈る。勅す。「張従賓を朋助しし逆人張延播・張継祚等十人、宜しく収捕を令し、親の的たる骨肉並びに処斬せよ。」

丁卯、唐の開府儀同三司・守太尉・兼中書令・西平王李晟の五代の孫戢を耀州司戸参軍とし、忠を勧むるの義を示す。壬申、帝崇元殿に御し、礼を備えて四廟を冊し、宝冊を親ら使摂太尉・守司空・門下侍郎・平章事馮道に授け、使副摂司徒しと・守工部尚書裴皞に付し、洛京に赴きて行礼せしむ。甲戌、宰臣趙瑩を以て戸部を判せしめ、吏部侍郎戸部を判ずる龍敏を以て東都副留守とす。詔して洛京留司の百官並びに闕に赴かしむ。安州軍乱し、指揮使王暉、節度使周瑰を理所に於いて害す。右衛上將軍李金全を遣わし千騎を領して安州に赴かしむ。

八月辛巳、許州節度使萇従簡を徐州節度使とし、陝州節度使・侍衛馬歩軍都虞候劉知遠を許州節度使とし、権北京留守・徐州節度使安彦威を太原尹・北京留守・河東節度使とする。宰臣監修国史趙瑩が奏上して言う、「近例に従い、唐明宗朝のごとく、内廷の公事及び言動の間、端明殿学士あるいは枢密院学士に委ねて冕旒に侍立させ、日を系して編録し、逐季当館に送らしむることを請う。その百司の公事もまた、逐季当館に送り、旋めて日暦を編修せんことを望む」と。これを従う。丁亥、前宋州節度使李従敏を陝州節度使とする。戊子、尚書左丞鄭韜光を戸部尚書として致仕せしむ。元徳殿を広政殿と改め、門名もこれに従う。庚子、華州が渭河の氾濫を奏上し、禾稼を害すと。宰臣馮道に開府儀同三司・食邑実封を加え、左僕射劉句に特進を加え、兼ねて塩鉄転運等使とす。故東京留守判官李遐は右諫議大夫を贈られ、その母田氏は京兆郡太君に封ぜられ、子孫は才を量りて叙録し、仍て賻贈を加え、遐の在世時の禄俸を長く給して母の世を終わらしむ。先に、遐が左蔵庫を洛陽に監す。時に張従賓の叛に会い、強いて銭帛を取らしむるも、遐は拒んで与えず、よって害せられたるにより、この命あるなり。乙巳、詔す、「天下の見禁囚徒、十悪五逆・放火劫舎・杖を把って人を殺す・毒薬を造るに合う・官典の贓を犯す・官銭を負うものを除く外、その余は軽重を問わず、已に発覚せし未だ発覚せざる、已に結正せし未だ結正せざるを並びに従って釈放すべし。応に張従賓の乱を起こす以来、張従賓及び張延播に脅従せられて染汙せられたる者、及び符彦饒の下の随身軍将等、兼ねて安州王暉の徒党、已に誅戮せられたるを除く外、並びに従って釈放し、一切問わず。張継祚は喪紀の中にありて、逆豎の意を承け、顕かに叛乱に従う。刑章を貸し難し。乃ち先臣を眷み、実に遺徳有り。遽かに茲に乏祀す。深く軫懐す所なり。その一房の家業は、法に準じて已に籍没せられたりと雖も、所有の先臣並びに祖父母の墳荘祠堂は、並びに骨肉に交付して主張せしむべし。応に梁朝・後唐以来、前後奉使及び北京沿辺管界より擄掠して北に向かいて往きたる人口は、官に銭物を給し、使を差して賫持して往き彼に収贖し、本家に放帰せしむべし」と云う。継祚は故斉王全義の子なり、故にこの詔有り。丙午、詔す、「天下の刑獄、囚に係りて疾を染むる者は、医工を差して治療せしめ、官中に薬価を量りて給すべし。事軽き者は仍て家人の看候を許し、杖に合う者は損ずる日を俟って決遣すべし」と。

九月庚戌朔、前太府卿兼通事舎人陳瓚を衛尉卿兼通事舎人とする。壬子、故安遠軍節度使周瑰に太傅を贈る。甲寅、皇子北京留守・知河東軍府事・太原尹重貴に検校太保を加え、右金吾衛上将軍とする。右龍武統軍安崇阮を右衛上将軍とし、前保大軍節度使・検校太尉張万進を右龍衛軍統軍とし、右領軍衛上将軍・権知安州軍州事李金全を安遠軍節度使とする。魏府招討使楊光遠、攻城の図を進む。戊午、太子賓客孔昭序を工部尚書として致仕せしむ。将作少監高鴻漸上言す、「伏して近年已来、士庶の家の死喪の苦しみを観る。殯葬の日に当たり、諸色の音声伎芸人等に楽を奏して攪擾せられ、銭物を求覓するを被る。行を止絶せんことを請う」と。これを従う。庚申、静江軍節度使・検校太尉・同平章事馬希杲に階爵及び功臣名号を加え、前兵部侍郎楊凝式を検校兵部尚書・太子賓客とし、故右金吾衛上将軍羅周敬に太傅を贈る。乙丑、鄧州節度使李従璋卒す。太師を贈る。興唐府を広晋府と改め、興唐県を広晋県と改む。癸酉、左諫議大夫・判度支王松を尚書工部侍郎とする。甲戌、貝・衛両州、河の氾濫を奏上し、禾稼を害すと。乙亥、将作監王丕を太子賓客とする。

十月壬午、宣徽南院使・左監門衛上将軍楊彦詢を鄧州威勝軍節度使とする。詔して選人の判を二道試す。左司郎中張彖を右諫議大夫とし、刑部侍郎・塩鉄転運副使史圭を吏部侍郎とし、曹州刺史宋光業を宣徽北院使とし、左金吾衛大将軍高漢筠を左驍衛大将軍とし、内客省使を充て、宣徽北院使・左驍衛大将軍劉処譲を左監門衛上将軍とし、宣徽南院使を充つ。丙戌、使いを遣わして五嶽四瀆を祀らしむ。故天平軍節度使閻宝は太原郡王に追封し、故大同軍節度使李存璋に太師を贈り、故瀛州刺史李嗣頵に太尉を贈り、故相州刺史史建瑭・故代州刺史王建及に並びに太保を贈り、故幽州節度使周徳威は燕王に追封す。

十一月庚戌、楊光遠に空名の官告を賜う。司空より常侍に至るまで凡そ四十道、将士で功を立てた者は、これを補して後に奏上せしむ。中書上言す。「唐の貞元二年九月五日の勅に準うれば、文官が翰林学士及び皇太子諸王侍読に充てられ、武官が禁軍職事に充てられる者は、並びに常朝参せず。その三館等の諸職事にある者は、朝参を終えて各々その務めに帰る。累朝以来、文武の官が内廷に職を充て、兼ねて三司を判じ、或いは職額を帯び、及び六軍判官等の者は、例として常朝に赴かず、元より正勅無し。近時の勅に準うれば、文武の職事官で未だ朝に昇らざる者は、旧制に按じて並びに朔望の朝参に赴く。その翰林学士、侍読、三館職事は、元の勅に準じて処分せんことを望む。その諸々の内廷諸司使等は、正官を受くる毎に、正衙に来赴し、謝した後は常朝に赴かず、大朝会には禁廷の位次を離れず。三司の職官は常朝を免じ、唯だ大朝会に赴く。その京師の未だ朝に昇らざる官員は、只だ朔望の朝参に赴き、諸司の職掌を帯びる者は此の例に在らず。文官は、翰林端明殿翰林学士、枢密院学士、中書省知制誥を除く外、兼官兼職ある者は、仍って各々本司の公事に発遣せしむ。」と。之に従う。丙辰、太子賓客王丕卒す。洛京の潜龍宅を改めて広徳宮と為し、北京の潜龍宅を改めて興義宮と為す。戊午、中書奏す。「雑令に準うれば、車駕巡幸の所に祇承する者は、賜会並びに京官と同じ。」と。之に従う。戊辰、鎮海鎮東節度使、呉越王銭元瓘に天下兵馬副元帥を加え、呉越国王に封ず。庚午、右拾遺李浣を以て翰林学士に充てる。甲戌、太常卿程遜、兵部員外郎韋棁を命じて呉越国王加恩使に充てしむ。丙子、戸部侍郎張昭遠を以て本官を守らしめ、翰林学士に充て、仍って知制誥と為す。丁丑、湖南の馬希範、宝装の龍鳳器用、結銀花果子等の物を貢ぐ。帝之を覧て、侍臣に謂いて曰く、「奇巧は心を蕩かす、斯れ何の用ぞや!但だ遠きを来たすの道、其の意を阻まんと欲せざるのみ。」と。聞く者之に服す。壬午、安州の李金全上言す。「詔を奉じて臣が元随左都押衙胡漢筠を抽く。其の人は重病に染まり、損ずる日を候って闕に赴かん。」と。漢筠は本より滑吏なり。金全に従いて数鎮を歴たり、而して濫声喧しく聞こゆ。帝之を知り、他の職を授けて、功臣を陥れんことを免れんと欲す。漢筠其の罪を懼れ、遂に疾を托す。是より金全を勧めて朝廷に貳せしむ。此より始まるなり。

十二月、監察御史徐臺符を以て尚書膳部員外郎、知制誥と為し、右補闕史官修撰呉承範を以て尚書屯田員外郎、知制誥と為す。左諫議大夫薛融は中書舎人に改むるも、辞して拝せず。尚書水部郎中、知制誥王易簡は中書舎人に改む。故隴西郡王李嗣昭は韓王を追封し、故横海軍節度使安審通は太師を贈る。辛丑、湖南節度使、兼中書令、楚王馬希範に食邑実封を加え、扶天佐運同徳致理功臣と改めて賜う。甲辰、車駕相国寺に幸して雪を祈る。