舊五代史

晉書しんじょ三: 高祖こうそ本紀三

天福三年正月戊申の朔、帝は崇元殿に御して朝賀を受け、仗衛は定式の如し。己酉、百官は司を守る。太史が先に日蝕を奏したが故なり。是に至りて虧けず、内外賀す。壬戌、是の夜、上元に因りて京城に燈を張り、都人の遊楽を縱す。帝は大寧宮の門楼に御して之を観る。丙寅、端明殿学士・礼部侍郎和凝が判度支を兼ぬ。工部侍郎・判度支王松は尚書刑部侍郎に改む。戸部郎中高延賞は左諫議大夫に改め、諸道塩鉄転運副使を充てる。壬申、以前右諫議大夫薛融を以て左諫議大夫とす。前興元節度使張筠、西京に卒す。朝視を一日輟む。(《五代会要》:太常礼院申す:「故事に準ふれば、前節度使に輟朝の例無し。」敕す:「宜しく特に行を一日輟みて朝参すべし。」)

二月庚辰、左散騎常侍さんきじょうじ張允、『駁赦論』を進む。帝之を覧て之を嘉し、詔を降して獎飾し、仍て史館に付す。甲申、荊南節度使高従誨に食邑実封を加ふ。戊子、翰林学士李浣に緋魚袋を賜ふ。尚書屯田員外郎・知制誥呉承範を以て庫部員外郎とし、枢密院直学士を充てる。乙未、御劄して曰く:「曾て百官に宣示し、封事を進めしむ。今到る者に據れば未だ十人に及ばず。朕徳無きと雖も、敕を行ひて後已に数月なり。手を人に假るに至りては、也た各に一事の敷奏有るべし。禄を朝に食む、豈に是くの如く有るべけんや。言ひて用ひられざるは、朕甘心する所なり。用ひて言はざるは、誰が責ぞ。」丙申、制して武清軍節度使馬希萼を威武軍節度使に改む。辛丑、中書上言す:「『礼経』に云ふ:『礼は嫌名を諱まず、二名は偏に諱まず。』註に云ふ:『嫌名は、音声相近きを謂ふ。禹と宇、邱と區の若きなり。二名偏に諱まずは、孔子の母名は徴在なり。在を言ふには徴を稱せず、徴を言ふには在を稱せざるを謂ふ。』此れ古礼なり。唐太宗は二名並びに諱み、玄宗の二名も亦同じ。人姓と国諱の音声相近きは是れ嫌名なる者も、姓氏を改む。古礼と異有り。廟諱の平声字は、即ち余の三声を諱まず。側声を諱むれば、即ち平声字を諱まず。諱む所の字の正文及び偏旁の點畫を闕くは、令式に依りて施行せんことを望む。」詔して曰く:「朝廷の制、今古相沿ふ。道は人の宏むるに在り、礼は天の降すに非ず。方に歴数を開き、祖宗を虔しく奉ず。孔子の文を踰ゆると雖も、周公の訓に爽はず。為す所の二名及び嫌名の事は、宜しく唐礼に依りて施行すべし。」(案ずるに、太原県に史匡翰の碑有り。天福八年に立つ。匡翰は建瑭の子なり。碑は「瑭」の字を空文として諱を避く。而して建瑭の父敬思は、仍て「敬」の字を書す。蓋し當時の諱を避くる體、此の如し。)乙巳、天和節、近臣を広政殿に宴す。

三月戊午、鴻臚卿劉頎卒す。太子賓客を贈る。壬戌、東上閣門使・前司農卿蘇継顏を鴻臚卿に改めて職を充てる。回鶻可汗王仁美、野馬・独峰駝・玉団・碙砂等の方物を進む。甲戌、永寿長公主薨ず。朝を一日輟む。故涇州節度観察留後盧順密に右ぎょう衛上将軍を贈る。丁丑、詔して私下に銅器を打造鑄瀉するを禁ず。

四月丁亥、尚書吏部侍郎盧詹を以て尚書左丞とす。中書舎人李詳上疏す:「朝に在る文武臣僚を沙汰し、以て冗食を減ずるを請ふ。仍て藩侯郡守に條貫し、凡そ恩を傅ふるに遇ひ、衙前の職員を多く奏し、妄りに恩澤を邀ふることを得ざらしむ。」疏奏す。之を嘉す。戊子、宣武軍節度・侍衛親軍馬歩軍都指揮使・広晋府行営都招討使楊光遠に中書令を兼ぬるを加ふ。昭義節度使・侍衛馬軍都指揮使・広晋府行営都排陣使杜重威、河陽節度使兼奉国左右廂都指揮使・広晋府行営馬歩都虞候侯益、並びに検校太傅を加ふ。鳳翔節度使・検校太師・兼中書令・岐王李従厳、秦王に進封さる。平盧軍節度使・検校太尉・兼中書令・臨淄王王建立、東平王に進封さる。甲午、泰寧軍節度使李従温・西京留守京兆尹李周・帰徳軍節度使趙在礼、並びに侍中を兼ぬるを加ふ。是の月、諸道の藩侯郡守皆等第に恩を加ふ。雍熙楼を章和楼と改む。廟諱を避くるなり。

五月丁未の朔、帝は崇元殿に御して朝を受け、仗衛は定式の如し。丁巳、詔して応に諸州県の名、廟諱に犯す者は並びに之を改むべし。庚申、楊光遠の男承祚を以て検校工部尚書・左威衛将軍・駙馬都尉とす。丁卯、魏府行営歩軍都指揮使・検校司徒しと・右神武統軍王周に検校太保を加ふ。戊辰、故振武節度使李嗣本に太尉を贈る。己巳、詔す:「中外の臣僚、平章事・侍中・中書令を帯び、及び諸道の節度使は、並びに私門に戟を立つるを許す。仍て並びに官に給し、官品に據り令式に依りて處分すべし。」

六月丁丑、右監門衛上将軍王彦璘卒す。甲申、太子詹事王居敏を以て安邑・解県の両池榷塩事を制置せしむ。左諫議大夫薛融上疏し、洛京大内の修繕を停むるを請ふ。優詔以て之を褒め、尋て営造を罷む。庚寅、翰林学士・尚書者工部郎中・知制誥竇貞固を中書舎人に改めて職を充てる。戸部尚書致仕蕭蘧卒す。右僕射を贈る。詔して貢挙は宜しく一年を權停すべし。員闕少なくして選人多きを以てし、常調に淹滯有るが故なり。丁酉、詔す:「尚書司門応に管する諸闕の令丞等は、宜しく唐天成四年四月四日の敕に準ひ、本司は差補すべからず。只だ闕鎮使に委ねて鈐轄せしむ。見に差補する者は、並びに畫時に勒停し訖て奏聞すべし。応に常に使相節度使を帯ぶる者、楊光遠已下凡そ七人、並びに郷里の名號を改む。」

七月丙午朔(一日)、左諫議大夫薛融・秘書監呂琦・駕部員外郎兼侍御史知雜事劉皞・刑部郎中司徒詡・大理正張仁彖を差し、唐明宗朝の編敕を共同で詳定せしむ。庚戌(五日)、御史中丞王延を尚書右丞に改め、尚書右丞盧導を尚書吏部侍郎に改め、左諫議大夫薛融を御史中丞とす。辛酉(十六日)、皇帝受命寶を制し、「受天明命、惟德允昌」を文とす。『六典』によれば、受命寶は、天子が封禅を修め、神祇を礼する時に用いるもので、その始めは皆皇業錢を破ってこれを制す。皇業とは、藩邸の主事の所有するものなり。

八月戊寅(三日)、左僕射劉句を契丹冊禮使とし、左散騎常侍韋勛をその副使とし、給事中盧重を契丹皇太后冊禮使とす。壬午(七日)、魏府の軍前より奏す、前澶州刺史馮暉が逆城より来帰せりと。定州より奏す、境内旱魃にて、民多く流散すと。詔して曰く、「朕寰宇に臨みてより、生民を念うこと毎に切に、撫綏を務め富庶を期す。干戈の未だ戢えざるに属し、徭役の或いは煩わしきを慮う。惟れ彼の中山、偶々夏の旱に経り、此の疾苦に因りて、遽かに流移に至る。我が聴聞に達し、深く憫惻を懐く。応に定州の差する軍前夫役逃戸の夏秋税は並びに放免せよ」と。甲申(九日)、襄州より奏す、漢江水一丈一尺漲ると。己丑(十四日)、前澶州刺史馮暉を以て檢校太保と為し、義成軍節度使を充てしむ。詔す、「河府・同州・絳州等三箇所災旱にて、逃移人戸の下に欠く所の累年の残税、並びに今年の夏税差科、及び麦苗子沿征の諸色錢物等は並びに放免す。其の逃戸の下の秋苗は、見検到の数に拠り、元額及び出剩の頃畝を計わず、並びに一半を放免す。觀察使に委ね散行曉諭し、専ら招攜を切にす。応に帰業の戸人は、仍って逐県を指揮し切に安撫を加えよ」と。丙申(二十一日)、翰林学士・中書舍人竇貞固上言す、「文武百僚を令め、逐司の内に、各一人を奏挙し、其の人有する某の能を述べ、某官某職に堪うることをせしめよ。薦むる所の否臧に拠り、挙主の黜陟を定めよ」と。疏奏し、之を嘉す。仍って文武百官に令め、搢紳の内・草澤の中に、灼然に才器有るを知る者を、名を列ねて以て奏せしむ。契丹冊禮使を広政殿にて宴す。戊戌(二十三日)、鄆州より奏す、陽谷県界の河決すと。青州王建立奏す、高麗国宿衛質子王仁翟、郷里に帰放を乞うと。之に従う。辛丑(二十六日)、鎮・邢・定の三州より奏す、詔を奉じて共に楽官六十七人を差し契丹に往かしむと。詔す、「魏府城下、軍を屯めしより以来、墳墓多く劚掘を経たり。既に人を差して収掩せしむと雖も、今更に太僕卿邢德昭を遣わし往きて祭奠を伸べしむ」と。

九月己酉(九日)、宮苑使焦繼勛が軍前より範延光の牙将馬諤を護送し、帰順を請い罪を謝する表を携えて闕下に到着す。壬子(十二日)、延光は部下の将士を率いて素服を着し本府の門前にて命を待つ。詔ありて罪を釈す。乙卯(十五日)、詔して司空しくう兼門下侍郎・平章事馮道に官一品とし、門戟十六枝を給し、中書侍郎平章事桑維翰・李崧に門戟十二枝を給す。己未(十九日)、宣旨を以て静鞭官劉守威・左金吾仗勘契官王英・司天臺雞叫学生商暉等を並びに契丹へ派遣す。庚申(二十日)、契丹使人が洛京へ往き趙氏の公主を搬取す。襄州より奏す、漢江の水三丈漲り、岸を出でて禾稼を害す。東都より奏す、洛陽らくようの水一丈五尺漲り、下浮橋を壊す。乙丑(二十五日)、于闐国王楊仁美、使いを遣わし方物を貢す。回鶻可汗、使いを遣わし駱駝・馬を貢す。丙寅(二十六日)、趙延寿、馬を進めて恩を謝し、燕国長公主を幽州に帰らしむ。範延光、節度副使李式を闕下に差し遣わし、表を奉じて首罪し、兼ねて玉帯一条を進む。宣徽南院使劉処譲を遣わし、魏府軍府事を権知せしむ。己巳(二十九日)、範延光の官爵を復す。その制書の略に曰く、「頃に朕大位に登りし始め、未だ中原静かならず、六飛纔に京師に及び、千里未だ懐抱に通ぜず。楚王旧を求め、方に遺簪に在り;曾子疑を伝え、忽ち投杼と成る。尋で悛悔を聞き、遽かに奸回を戮す。干戈俄かに経時に至り、雷雨因りて作解を思う。果たして賓介を馳せ、表章を疊ねて貢し、丹闕に向かいて心を傾け、衷誠を瀝して順を効す。而るに況や黎庶を保全し、甲兵を完整し、款を納るる斯に来り、その功細ならず。鉄契を特頒し、牙章を重建せざるを得んや。本郡の土茅を封じ、楽郊の旌鉞を移す。将吏に至るまで、咸く絲綸を降す。嗚呼!上穹の四時を運ぶ、愆らざる者は信なり;大道の三宝を崇むる、重んずる所は慈なり。万戸の傷夷を活かし、六師の労瘁を息ます。遂に予が仁憫を旌し、爾が変通を旌す。永く子孫に貽し、長く富貴を守らしむ。光寵を敬佩せよ、美ならずや。可く推誠奉義佐運致理功臣・天雄軍節度・管内観察処置等使・開府儀同三司・守太傅・兼中書令・広晋尹・上柱国・臨清王、食邑一万戸、食実封一千戸を復し、鄆州刺史・天平軍節度・鄆斉等州観察処置等使に改授し、鉄券を賜い、高平郡王に改封し、仍って日を択び礼を備え冊命せしむべし」と。天雄軍節度副使・検校刑部尚書李式を検校尚書右僕射と為し、亳州団練使を充てしむ。貝州刺史孫漢威を検校太保・隴州防禦使と為す。天雄軍三城都巡検使薛覇を検校司空・衛州刺史と為す。天雄軍馬歩軍都指揮使五建を検校司空・虢州刺史と為す。天雄軍内外馬軍都指揮使薬元福を検校司空・深州刺史と為す。天雄軍内外歩軍都指揮使安元覇を検校司空・随州刺史と為す。天雄軍都監・前河陽行軍司馬李彦珣を検校司空・坊州刺史と為す。李式は延光の旧僚なり、其の余は皆延光の将佐なり、故に是の命あり。庚午(三十日)、客省使李守貞を遣わし器幣を押送し魏府の立功将校に賜う。辛未(十月一日)、魏府招討使楊光遠を検校太師・兼中書令と為し、広晋尹を行い、天雄軍節度使を充てしむ。

十月乙亥(五日)、福建節度使王継恭、使いを遣わし方物を貢す。戊寅(八日)、契丹、使いを命じ宝冊を以て上(皇帝)の徽号を帝にす、曰く英武明義皇帝。是の日、左右金吾・六軍儀仗・太常鼓吹等並びに城を出で迎え引き崇元殿前に至り、儀式の如く陳列す。鄆州範延光、到任を奏す。庚辰(十日)、御劄して曰く、「国を為すの規、敏政に在り;都を建つるの法、務めに利民を要す。前経を歴考し、朗然として通論す。惟うに涼徳を顧み、丕基を啓くことを獲たり。数朝の戦伐の余に当たり、是れ兆庶の傷残の後に在り。車徒既に広く、帑廩咸く虚し。経年の粟を免し芻を飛ばし、日に継ぎて民を労し衆を動かし、常に漕運を煩わし、供須に給せず。今汴州は水陸の要衝、山河の形勝にして、乃ち万庾千箱の地、是れ四通八達の郊なり。爰に巡按より、益々宜便を観る。俾く都邑を升め、以て兵民を利せしむ。汴州宜しく東京と為すべく、開封府を置くべし。仍って開封・浚儀の両県を赤県と為し、其の余を畿県と為すべし。応に旧に開封府を置きし時に管属せし県は、並びに仍って旧の如く割属し収管すべく、亦畿県と為すべし。其の洛京を西京と改む;其の雍京を晋昌軍と改め、留守を節度観察使と改め、旧に依りて京兆府と為し、七府の上に列す;其の曹州を防禦州と改む。其の余の制置は、並びに中書門下に委ね商量施行せしむべし」と。丙戌(十六日)、護聖左廂都指揮使・曹州刺史張彦沢を鎮国軍節度使と為し、工部尚書裴皞を尚書右僕射致仕と為す。是の日、詔して大寧宮門を明徳門と改む。又た京城諸門の名額を改む。南門尉氏は薰風を以て名と為し、西二門鄭門・梁門は金義・乾明を以て名と為し、北二門酸棗門・封丘門は元化・宣陽を以て名と為し、東二門曹門・宋門は迎春・仁和を以て名と為す。戊子(十八日)、右金吾大将軍馬従斌を契丹国信使と為し、考功郎中劉知新之を副えしむ。前天平軍節度使・検校太尉・同平章事安審琦を晋昌軍節度使・行京兆尹と為す。襄州より奏す、江水漲りて禾稼を害す。壬辰(二十二日)、枢密使・中書侍郎平章事・集賢殿大学士桑維翰を兵部尚書を兼ねしめ、皆枢密使を罷む。戊戌(二十八日)、大赦天下す、魏府初めて平まる故なり。庚子(三十日)、楊光遠朝覲して闕下に到り、便殿に対し、錫賫甚だ厚し。于闐国王李聖天を冊封して大宝于闐国王と為す。杭州嘉興県を秀州と為す、銭元瓘の奏に従うなり。

十一月甲辰、枢密直学士・祠部員外郎呉涓を金部郎中・知制誥に進め、枢密直学士・庫部員外郎呉承範を祠部郎中・知制誥に進める。乙巳、鄆州の範延光が来朝する。丙午、閩王王昶を閩国王に封じ、食邑一万五千戸を加える。また中呉建武等軍節度使・検校太師・兼中書令・蘇州誠州刺史銭元尞を太傅とし、清海軍節度使・広州刺史銭元璹を検校太尉・兼中書令とし、さらに名を元懿と改めさせる。魏府行営の将校および六軍諸道・本城の将校等、すべてに恩典を加える。戊申、門下侍郎平章事・監修国史・判戸部趙瑩を兼吏部尚書とする。威武軍節度・福建管内観察処置等使王継恭を特進・検校太傅とし、さらに臨海郡王に封ずる。魏博節度使楊光遠を守太尉・洛京留守・兼河陽節度使・判六軍諸衛事とする。端明殿学士・尚書礼部侍郎・判度支和凝を尚書戸部侍郎に改めて職を充てる。庚戌、鄆州の範延光が上表して退隠を乞う、詔して許さず。辛亥、広晋府を鄴都に昇格させ、留守を置く。広晋・元城の両県を赤県に昇格させ、府に属する諸県を畿県に昇格させる。相州を彰徳軍に昇格させ、節度観察使を置き、澶・衛の二州を属郡とし、その澶州はさらに防禦州に昇格させ、治所を徳勝口に移す。貝州を永清軍に昇格させ、節度観察使を置き、博・冀の二州を属郡とする。西京留守高行周を広晋尹・鄴都留守とする。広晋府行営中軍使・貝州防禦使王庭允に検校太傅を加え、相州彰徳軍節度使を充てる。広晋府行営歩軍都指揮使・右神武統軍王周を貝州永清軍節度使とする。甲寅、範延光を太子太師として致仕させる。丙辰、秘書監呂琦を礼部侍郎とし、帰徳軍節度使趙在礼を天平軍節度使に改め、昭義軍節度使兼侍衛親軍馬歩軍都虞候杜重威を忠武軍節度使に改め、忠武軍節度使・侍衛親軍馬歩軍都指揮使劉知遠を帰徳軍節度使に改め、前河陽節度使兼奉国左右廂都指揮使侯益を昭義軍節度使に改める。癸亥、濮州濮陽県を割いて澶州に隷属させる。詔して天下に私鋳銭を許し、「天福元宝」を文とする。丙寅冬至、帝崇元殿に御し朝賀を受け、仗衛は定式の如し。

十二月甲戌朔、前兵部尚書梁文矩を太子太師とし、鎮州節度副使符蒙を右諫議大夫とし、吏部郎中曹国珍を左諫議大夫とする。丙子、前涇州彰義軍節度使李徳充を晋州建雄軍節度使とし、同平章事を加える。皇太子右金吾衛上將軍石重貴を検校太傅・開封尹とし、鄭王に封じ、食邑三千戸を加える。戊寅、制して大宝于闐国進奉使・検校太尉馬継栄を鎮国大将軍とし、使副黄門将軍・国子少監張再通を試衛尉卿とし、監使殿頭承旨・通事舎人呉順規を試将作少監とする。回鶻使都督ととく李万金を帰義大将軍とし、監使雷徳順を順化将軍とする。この日、詔す、「宜しく天下に公私を問わず、銅を有して銭を鋳せんとする者は、すべて任せて便宜を酌み軽重を量り鋳造せしむべし」。戊子、河陽の潜龍旧宅を開晋禅院とし、邢州の潜龍旧宅を広法禅院とする。龍武統軍李従昶卒す、一日朝を輟み、太尉を贈る。