十五年、唐軍は楊劉鎮を抜く。梁の将賀瑰は無石山に伏兵を設け、明宗は賀瑰に迫らる。帝は後殿として、梁軍五百余騎を破り、轡を按じて還る。十二月、荘宗は梁軍と胡柳陂に大戦す。衆号十万。総管周徳威は左軍を将い、燕人を交え、前鋒利あらず、徳威之に死す。荘宗は歩衆五千を率い、高陵を固守して敵の鋭鋒を避く。明宗独り右広を完うし、土山の下に伏す。顧みて帝に謂ひて曰く「梁人は初めに其の利を得、旌旗甚だ整ふ。何の計を以てか之を挫くべし」と。帝曰く「臘後寒きこと此の如く、手を出だせば指堕つ。彼は歩衆多く、進み易く退き難し。糒を啜り水を飲み、徐ろに之を困らしむるに若かず。且つ超乗と徒行とは其の勢相等しからず、一撃して破らんは、期す必勝に在り」と。明宗曰く「是れ吾が心なり」と。会う日暮れ、梁軍は平野に列し、五六万人を以て一方陣を為し、遊騎を麾して唐軍を迫る。帝曰く「敵将遁くべし」と。乃ち明宗に請ひて士に冑を整へ、緩やかに之を羅しめ、左射軍三百人に命じて矢を鳴らし馳せ転じ、漸く其の勢を束ね、数千騎を以て之を合す。夜に及び、旌旗皆靡き、而して一角先づ潰え、三面之に踵く。其の牙竿相撃つこと、火爆の声の若く、横屍積甲、算うべからず。ここより梁人の勢い削がれ、荘宗は徳勝渡に進み営す。
十八年十月、また明宗に従い徳勝渡にて梁人と戦い、其の将戴思遠を敗り、二万余人を殺す。十九年、胡盧套に戦ひ、唐軍稍く却く。帝は其の敵の鋭きを睹て、剣を抜き道を闢き、肩を以て明宗を護りて退く。敵人之を望み、敢えて襲ふ者無し。
二十年十月、明宗に従ひ梁人の楊村寨を観る。部曲皆甲を擐けず。俄にして敵は不意に出で、兵を以て明宗を掩ふ。刃将に背に及ばんとす。帝は戦戟を挟みて進み、一撃にして兇酋落馬する者数輩、明宗遂に其の難を解く。この歳、荘宗は鄴に即帝位し、元号を同光と改む。明宗を遣わし河を越え、軍を懸けて深入し以て鄆を取らしむ。鄆人は初め之を覚えず。帝は五十騎を以て明宗に従ひ済を渉り、東門を突いて入る。鄆兵来たり拒ぐ。帝は刃を受け、明宗を翼け、兵を羅列して通衢にし、嶷然として動かず。会う後騎継ぎて至り、遂に中城を抜きて之を拠る。既にして汴水を平げ、梁室を滅ぼし、荘宗の一統を成し、明宗の大勲を集む。帝と唐の末帝の功は最たるに居りしも、荘宗の朝に官顕れざりしは、帝の矜伐を好まざるが故なり。唯だ明宗心に之を知れり。
同光四年二月、趙在禮は鄴に拠り乱を為す。朝廷は元行欽を遣わし之を招くも下らず。群議紛然として、明宗に非ざれば不可と為す。荘宗乃ち明宗を以て統帥と為す。時に帝は従行し、魏に至る。諸軍変有り、馬を叩きて明宗に河北に帝たらんことを請ふ。明宗は霍彦威の勧めを受け、将に自ら天子に訴へんとす。遂に佯りて諾す。諸軍も亦た事果たさざるを恐れ、散ずる者甚だ衆し。明宗の全うする所は、唯だ常山一軍のみなり。西に次で魏県、帝密かに明宗に言ひて曰く「猶豫は兵家の大忌なり。必ずや訴へを求むるならば、宜しく其の行を決すべし。某は願くは三百騎を率ひ先づ汴水に趨り、以て虎口を探る。もし其の志を遂げば、請ふ大軍速やかに進まん。夷門は天下の要害なり。之を拠れば以て自ら雪ぐべし。安んぞ上将と三軍に変を言ひ、他日に平手有らんや。危きは頃刻に在り、恬然たるべからず」と。明宗は相州に至り、遂に驍騎三百を分かち付し、帝を遣わし由りて黎陽より河を済み、汴の西門より入り、因りて其の城を拠らしむ。明宗の汴に入るに及び、荘宗親しく師を統べ亦た城の西北五里に至り、高きに登り嘆じて曰く「吾済まざるかな」と。ここより荘宗の従兵大いに潰え、来たりて明宗に帰す。明宗尋ちに帝を遣わし令して兵を率ひ前鋒と為し、汜水関に趨らしむ。俄にして荘宗は内難に遇ひて崩ず。
帝、性簡儉、未だ嘗て声色滋味を以て輒く自ら宴楽せず。公退する毎に、必ず幕客を召して民間の利害及び刑政の得失を論じ、明らかにして犯し難く、事多く親決す。店婦有りて軍士と訟え、「粟を門に曝す、馬の食う所と為る」と云う。而して軍士懇訴す、自ら明らかにする無し。帝、鞫吏に謂いて曰く、「両訟未だ分かたず、何を以て断ぜん。馬を殺し腸を刳りてその粟を視よ。有らば則ち軍士を誅し、無ければ則ち婦人を死せしめよ」と。遂に馬を殺す。馬腸に粟無し。因りてその婦人を戮す。境内粛然たり、敢えて欺事を以て言う者莫し。三月、常山に移鎮す。歴る所の方鎮、孝治を急務と為し、民間に父母在りて昆弟分索する者を見れば、必ずこれを縄して殺す。吏事に勤め、廷に滞訟無し。常山の属邑に九門と曰う。人地を異居の兄に鬻ぎ、議価定まらず、乃ち他人に移す。他人、兄の券を立つるを須う。兄固くこれを抑う。因りて令に訴う。令、弟兄倶に不義と為し、府に送る。帝これを監て曰く、「人の不義なるは、牧長新たに至り、教化及ぶ能わざるに由る。吾甚だ愧ず。若し至理を以てこれを言わば、兄は良田に利し、弟は善価を求む。これに順うは是なり、これを沮むは非なり。その兄不義甚だし。宜しく重く笞せよ。田を市うに高価を以てする者はこれを取れ」と。上下その明に服す。
及び岐陽兵乱し、潞王を推して天子と為す。閔帝急ぎ詔して帝を闕に赴かしめ、以て社稷を托さんと欲す。閔帝、洛陽より衛に奔出し、途に相遇う。遂に閔帝とともに衛州に回入す。時に閔帝の左右将に帝に不利ならんとす。帝これを覚り、因りてその従騎百余人を擒う。閔帝事済まざるを知り、帝と長慟して別る。帝、刺史王宏贄を遣わし閔帝を公舎に安置して去る。尋いで潞王の害する所と為る。帝後長くこれによりて心に愧ず。
掌書記桑維翰、都押衙劉知遠が密計に賛成し、遂に末帝の命を拒んだ。朝廷は帝が詔を奉ぜざるを以て、旨を降して官爵を削奪し、即ち詔して晉州刺史・北面副招討使張敬達に兵を領して帝を晉陽に囲ませた。帝はまもなく桑維翰をして諸道に詣りて救援を求めしめ、契丹は人を遣わして復書し之を諾し、中秋を以て義に赴くことを約した。
六月、北面招收指揮使安重榮が部曲数千人を率いて城に入る。七月、代州屯将安元信が一軍を率い、西北面先鋒指揮使安審信と五百騎を引いて倶に至る。八月、懷州彰聖軍使張万迪等が各々千余騎を率いて来降す。是の月、外衆我を攻むること甚だ急なり、帝親しく矢石に当たり、人心固しと雖も、廩食漸く困す。
九月辛丑、契丹主は衆を率いて雁門より南し、旌騎絶えず五十里余り。先ず人をして帝に報ぜしめて云く、「吾は今日に賊を破らんと欲す、可ならんや」と。帝は人を馳せて告げしめて曰く、「皇帝難に赴き、比に成功を要す、賊勢至って厚し、明旦に穩かに審議して戦うべし、未だ晚からず」と。使未だ達せざるに、契丹は已に南軍の騎将高行周・符彦卿等と合戦す。時に張敬達・楊光遠は陣を西山の下に列ね、士未だ伍を成さず、而行周・彦卿は伏兵に断たれ、軍を捨てて退き、敬達等の歩兵大いに敗れ、死者万人。是の夜、帝は北門を出でて戎王と相見え、契丹主は帝の手を執りて曰く、「会面の晚きを恨む」と。因りて父子の義を論ず。
明日、帝は契丹と共に敬達の営寨を囲み、南軍は復た出でず。帝と契丹は本より結好無かりしが、末帝に見迫られての後、心腹何福を遣わし、刀錯を以て信と為し、一言親しく其の難に赴かんとし、迅かなること流電の若く、天意を信ずるか。己酉、唐の末帝は親軍歩騎三万を率いて出でて河橋に次す。辛亥、末帝は詔して枢密使趙延寿に衆二万を分かちて北面招討使と為し、又詔して魏博節度使範延光に本軍二万人を統べて遼州に屯せしむ。十月、幽州節度使趙德鈞は領する所の万余人を率いて上黨の呉児谷より出でて延寿の兵と合し団柏谷に屯し、敬達の寨と百里を相去り、弥月にして竟に相通ずること能わず。
十一月、戎王は営に於いて帝と会し、帝に謂いて曰く、「我三千里を赴きて義を為す、事須らく必ず成るべし。爾が体貌の恢廓なるを観、識量の深遠なるは、真に國主なり。天命属する有り、時失うべからず。蕃漢の群議に徇い、爾を冊して天子と為さんと欲す」と。帝は飾りて譲ること久し。既にして諸軍の勧請相継ぎ、乃ち命じて壇を晉陽城南に築き、冊立して大晉皇帝と為す。戎王自ら衣冠を解きて授く。
まして今、中原には主なく、四海は未だ寧かならず、茫々たる生民は、塗炭に墜つるが若し。況や万機は暫しも廃すべからず、大宝は久しく虚しゅうすべからず、溺を拯い焚を救うは、当に此の日に在り。爾に民を庇うの徳有り、上下に格てり;爾に難を戡うの勲有り、区宇に光り;爾に無私の行有り、神明に通ず;爾に不言の信有り、兆庶に彰る。予、乃ち徳を懋め、乃ち丕績を嘉す。天の歴数は爾の躬に在り、是を用て爾に命ず、皇極を践むべし。仍て爾の茲に並土より、首めて義旗を建つるを以て、宜しく国号を晋と曰うべし。朕永く父子の邦と為り、山河の誓いを保たん。嗚呼!百王の闕けたる礼を補い、茲の盛典を行い;千載の大義を成し、我が初心を遂げん。爾其れ永く兆民を保ち、勉めて一徳を持し、乃ち位有るを慎み、允に厥の中を執れ。亦惟だ無疆の休、其れ之を誡めよ。
礼畢りて、帝は鼓吹道従して帰る。
初め梁の開国の歳、即ち前唐天祐四年に、潞州行営使李思安奏す:「壺関県庶穰郷の郷人樹を伐るに、樹倒れて自ら両片に分かれ、内に六字有り、左書の如く、云う『天十四載石進』と。」梁祖之を武庫に蔵めしむるも、然れども其の義を詳らかにせず。帝の即位に至り、識者曰く:「『天』の字は『四』の字の中の両画を取りて之を傍に加うれば、則ち『丙』の字なり;『四』の字は中の両画を去り、『十』の字を加うれば、則ち『申』の字なり。」帝の即位の年は乃ち丙申なり。又、『易』に云う:「晋は進なりと。」国号大晋、皆符契す。又、帝の即位の前年、歳は乙未に在り、鄴の西に柵有り李固と曰い、清・淇合流其の側に在り。柵に橋有り、橋下の大鼠と蛇と闘い、闘いて日の申に及び、蛇勝たずして死す。行人観る者数百、識者之を誌す。後唐末帝果たして申に滅ぶ。又、末帝は真定常山の人なり、先人の旧廬有り、其の側に古仏刹有り、刹に石像有り、忽ち揺動して已まず、人皆之を異とす。重ねて晋陽を囲むに及び、帝は心腹何福を遣わし軽騎して北蕃に援を求めしむ。蕃主自ら諸部を将いて之に赴く。繒帛を以てせず、珠金を以てせず、声に応ずるが若し。福に謂いて曰く:「吾已に夢に兆す、皆上帝我に命ず、我が意に非ず。」時に援兵未だ至らず、偽将張敬達軍を引きて城に逼り柵を設く。柵将に成らんとするに、必ず大風暴雨有り、柵立つる所無し。後に長城を築くに、城就るも、又た水潦の為に壊され、城終に合する能わず。晋陽に北宮有り、宮城の上に祠有り毗沙門天王と曰う。帝曾て焚修して黙して之に禱る。数日を経て、城西北正に敵を受く処に、軍候報じて称す、夜来一人有り長さ丈余、金を介し殳を執り、城上に行く、久しくして方に見えず。帝心之を異とす。又、牙城に僧坊有り崇福と曰い、坊の廡下西北隅に泥神有り、神の首忽ち一日煙生じ、其の騰郁すること曲突の状の如し。坊僧奔赴し、人火の延ぶる所と為すも、及び俯して之を視るに、所有る所無し。事尋いで帝に達す。帝僧の臘高き者を召して問う。僧曰く:「貧道、庄宗の将に天下を得んとするを見しに、曾て此の煙有り。此の噴湧するを観るに、当時に甚だしく、兆知るべし。」此より、日旁に多く五色の雲気有り、蓮芰の状の如し。帝占者を召して之を視しめ、謂いて曰く:「此の験誰に応ずるか。」占者曰く:「見る処瑞と為す、更に何人に応ぜん。」又、帝毎に詰旦に使して守陴者を慰撫せしむ、率いて常と為す。忽ち一夕既に暝るも、城上に号令の声有り、声絶えざる者三。帝人をして之を問わしむ。将吏云く:「上より伝わり来る者なり。」皆神助を知る。時に城中復た数家の井泉有り、暴溢して止まず。及び蕃軍大いに至り、合勢して之を破る。末帝の衆は、朽を拉ぐが若し。斯れ天運の然らしむる所、人力に非ず。
是の日、帝契丹主に言いて、願わくは雁門已北及び幽州の地を以て戎王の寿と為し、仍て歳に帛三十万を輸するを約す。戎王之を許す。