舊五代史

唐書四十八: 列傳二十四 張承業 張居翰 馬紹宏 孟漢瓊

張承業列傳

張承業、字は繼元、本姓は康、同州の人である。咸通年間に、内常侍張泰が養子とした。光啓年間、郃陽の軍事を主管し、紫衣を賜り、内供奉となった。武皇が王行瑜を討つにあたり、承業はたびたび渭北に使者として赴き、そのまま留まって武皇の軍事を監した。賊が平定されると、酒坊使に改めた。三年、昭宗が太原に行幸しようとしたとき、承業が武皇と親しいことを用い、河東監軍に任じて密かに車駕を迎えさせた。やがて昭宗が華州に行幸すると、左監門衛將軍を加えられた。車駕が鳳翔にあったとき、承業はしばしば晉・絳に出師するよう請い、岐人に対する掎角の勢いとしようとした。崔魏公が宦官を誅戮したとき、武皇は罪人の首級を偽って戮し詔に奉じ、承業を斛律寺に匿った。昭宗がしいされると、ふたたび監軍を請うた。

夾城の役に、承業を鳳翔に遣わして援軍を求めた。時に河中は阻絶し、離石から河を渡ろうとしたが、春の氷が解け始め、流氷が激しく奔り、舟を着けても渡れなかった。そこで河神に祈った。その夜、夢に神人が告げて言うには、「汝はただ渡れ、流氷に患いはない」と。目覚めると、津の吏が報じて言うには、「河の氷が合わさりました」と。明け方、氷を踏んで渡り、踵を返す間に氷は解けた。使いから戻ると、武皇は病篤く、啓手の夕べ、承業を召してこれを託して言うには、「我が児は孤弱なり、群臣は縦横す、後事は公よくこれを籌謀せよ」と。承業は遺顧を奉じ、爰に嗣王を立て、内難を平らげ、策略多くを占めた。易月の制が終わると、すぐに出師して潞を救い、賊を夾城に破ることを請うた。莊宗は深くその意を感じ、兄としてこれに事え、親しく承業の私第に幸し、堂に昇って母を拝し、賜遺は優厚であった。時に莊宗は初めて墨製を行い、凡そ除拜の命は、皆盧汝弼の手に成った。汝弼は自ら戸部侍郎となった後、承業とともに官を改め開国邑を与えることを請うたが、承業は拒んで受けなかった。その後は、ただ本朝の旧官を称するのみであった。

天祐年間、幽州の劉守光が敗れ、その府掾馮道が太原に帰った。承業はこれを本院巡官に辟した。承業はその文章と履行を重んじ、甚だ待遇した。時に周元豹という者がおり、人倫の鑑識に優れていたが、道と合わず、承業に言うには、「馮生に前程なし、公は過用すべからず」と。管書記の盧質がこれを聞いて言うには、「私はかつて杜黄裳司空しくうの寫真図を見たが、道の状貌は酷似している。将来必ず大用に副うであろう。元豹の言は信ずるに足らぬ」と。承業はこれを薦めて府の従事とした。

柏鄉の役、王師が既に汴営に逼ると、周德威はその奔衝を慮り、堅く退舍を請うた。莊宗はその懦を怒り、聴かず、帳を垂れて寝た。諸将は事を言うことを敢えず、皆監軍に詣って請い白せんとした。承業は急ぎ牙門に至り、帳を褰って入り、莊宗を撫でて言うには、「これは王安寝の時ならず、周德威は老将、兵勢を洞識し、姑く万全を務むるなり、言忽にすべからず」と。莊宗は蹶然として興きて言うには、「予方にこれを思う」と。その夜、軍を収めて鄗邑に保った。德威が劉守光を討つとき、承業をして賊勢を視させ、因って莊宗の自ら行くことを請うた。果たして大捷を成した。承業は武皇の厚遇に感じ、莊宗が魏州に在ること垂十年、太原の軍国政事を一に承業に委ねた。而して積聚庾帑し、兵を収め馬を市い、流散を招懐し、農桑を勧課して、この霸基を成したのは、承業の忠力によるものである。

時に貞簡太后、韓德妃、伊淑妃、諸宅の王の貴き者、及び王の介弟が晉陽宮に在り、あるいはその道ならずして承業に干するも、悉く聴かず、法禁を逾える者は必ず懲らしめた。これにより貴戚は手を斂め、民俗は大いに変じた。あるいは莊宗に承業を中傷する者があり、専ら威柄を弄び、広く賂遺を納れると言った。莊宗は歳時に晉陽宮に還り太后を省うが、銭を須いて蒱博し、伶官に給するため、嘗て泉府に酒を置いた。莊宗は酣に飲み、興聖宮使李繼岌に命じて承業のために舞わしめた。終わると、承業は宝帯と幣馬を出してこれを奉った。莊宗は銭の積みを指して承業に言うには、「和哥(繼岌)に銭を使うことなし、七哥(承業)はこれ一積みを与えよ、宝馬は殊恵にあらず」と。承業は謝して言うには、「郎君哥(繼岌)は労多く、承業は自ら己が俸銭を出します。この銭は大王の庫物、準擬して三軍を支贍するもので、公物を以て私礼と為すことを敢えません」と。莊宗は悦ばず、酒に使って承業を侵した。承業は言うには、「臣は老いたる敕使。子孫の謀のためではなく、銭を惜しむは大王の基業のためなり。王若し自ら散施せんと要すれば、老夫何ぞ妨げん、財尽き兵散じて一事も成らざるに過ぎぬ」と。莊宗は怒り、顧みて元行欽に言うには、「剣を取れ」と。承業は莊宗の衣を引き、泣いて言うには、「仆は先王の遺顧を荷い、誓って本朝のために汴賊を誅せんとす。王のため庫物を惜しみ、承業の首を斬らば、死すとも先王に愧じることなし。今日請うて死せん」と。閻宝が承業の手を解き、退かせようとした。承業は宝を詬って言うには、「朱溫の逆賊に党し、未だ嘗て一言も忠を効うることなく、而して敢えて阿諂に依り附す」と。拳を揮ってこれを踣した。太后は莊宗の酒失を聞き、急ぎ召し入れた。莊宗は性至孝、太后の召しを聞き、叩頭して阿業(承業)に謝して言うには、「吾れ杯酒の間に、七哥に忤う、太后必ず吾を怪しまん。七哥は痛く両卮を飲み謗を分かたん、可か」と。莊宗は連ねて四鍾を飲み、承業を勧めたが、竟に飲まなかった。莊宗が宮に帰ると、太后は人をして承業に謂わしめて言うには、「小児特進に忤う、既に笞ちたり、第に帰るべし」と。翌日、太后と莊宗と俱にその第に幸し、慰労した。ここより私謁は幾くも絶えた。

十四年、承制して開府儀同三司・左衛上將軍・燕國公を授けたが、固辞して受けなかった。是の時、盧質が莊宗の幕下にあり、酒を嗜み軽傲で、嘗て莊宗の諸弟を豚犬と呼んだ。莊宗は深くこれを銜んだ。承業は質が禍を受けることを慮り、因って隙に乗じて莊宗に謂うには、「盧質多く無礼を行えり、臣請う大王のためにこれを殺さん、可か」と。莊宗は言うには、「予方に賢士を招礼し、以て霸業を開かんとす、七哥何ぞ言の過ぎたるや」と。承業は因って聳立して言うには、「大王若能く此くの如くせば、何ぞ天下を得ざるを憂えん」と。その後盧質は縱誕を成すも、莊宗は終にこれを容れることができた。蓋し承業がこれを藻藉したのである。

十八年、荘宗は諸道より即位を勧められ、帝位を継ごうとした。承業は、晋王(李存勗)の三代が国に功績があり、先人は朱氏のさん逆を怒り、旧邦を回復せんとし、仇は未だ平らかでないのに、軽々しく推戴を受けるべきではないと考えた。ちょうど病が発作し、輿に乗って鄴宮に至り、荘宗に謁して言うには、「王父子は血戦三十余年、国仇を報い、唐の宗社を復するためでございます。今、元凶は未だ滅びず、民の賦税はすでに尽きているのに、急いで大号を先んじ、財力を消耗することは、臣が不可とする第一でございます。臣は咸通以来、宮掖に仕え、国家の冊命大礼のたびに、儀仗法物、百司の庶務は、一年かけて準備しても、事に臨んではなお不可があるのを見てまいりました。王が家を化して国と為し、新たに廟朝を立てるには、制度に背くことはできません。礼を制し楽を作る人物は見当たりません。臣が不可とする第二でございます。事を挙げるには力に量って行い、遊説の言葉を信じてはなりません。」(《通鑒考異》が秦再思の《洛中記異》を引いて云う、承業が帝を諫めて曰く、「大王は何故に梁の孽を誅し克ち、更に呉・しょくを平らげ、天下一家たらしめ、且つ先ず唐氏の子孫を求めてこれを立て、後に更に天下を有功者に譲ることを待たれないのか。誰か敢えてこれに当たる者があろうか!一ヶ月譲れば一ヶ月の安泰、一年譲れば一年の安泰。仮に高祖こうそが再生し、太宗が復出されても、また何をなされようか!今大王が一旦自立されれば、たちまち以前の義に仗って征伐する旨を失い、人情は怠ります。老夫は閹官、大王の官職富貴を愛するにあらず、ただ先王の付属の重きを受け、大王のために万年の基を立てんとするのみです。」)荘宗は言った、「諸将をどうしようか。」承業は荘宗が従わぬと知り、声をあげて泣きながらこれを説いた。十九年十一月二日、病により晋陽の邸で卒す。時に七十七歳。貞簡太后は喪を聞き、急ぎその邸に至り哀しみを尽くし、そのために喪服を着け、児姪の礼の如くした。同光初め、左武衛上將軍を追贈され、諡して貞憲といった。(《五代史闕文》:荘宗が魏州で即位せんとした時、承業は太原より至り、荘宗に言う、「吾王は代々唐家に仕え、最も忠孝でございます。貞観以来、王室に難あれば、従わなかったことはありません。それゆえ老奴が三十余年、吾王のために財賦を捃拾し、軍馬を召補したのは、逆賊朱温を誓って滅ぼし、本朝の宗社を回復するためでございます。今、河朔はようやく定まり、朱氏は尚存する。吾王が急いで大位に即かれるのは、よろしいでしょうか。」云々。荘宗は言った、「諸将の意をどうしようか。」承業は諫めて止められぬと知り、慟哭して言う、「諸侯が血戦するのは、本来李家のため。今吾王が自らこれを取られるとは、老奴を誤らせた。」即ち太原に帰り、食を絶って死す。臣謹んで按ずる、《荘宗実録》は承業の即位を諫める事を叙すること甚だ詳しいが、ただ「吾王自取」の言は書かず、史官がこれを諱ったのである。)

張居翰

張居翰、字は德卿。咸通初め、掖庭令張従玫が養子とし、蔭により仕官に入る。中和三年、容管監軍判官より入りて学士院判官となり、枢密承旨・内府令に遷り、緋を賜う。昭宗が華下に在るとき、超授して内常侍とし、出でて幽州軍事を監察し、任期満ちて詔により帰還すべきところ、節度使劉仁恭が上表して留め置く。天復中、詔して宦官を誅せんとし、仁恭は偽って殺したと奏上し、大安山の北溪に匿う。天祐三年、汴人が滄州を攻め、仁恭が武皇に援を求めると、居翰を書記馬鬱等とともに率いて兵を助け、武皇とともに潞州を攻めさせた。武皇は因ってこれを留めて遣わさず。李嗣昭が昭義を節制するに及び、居翰にその軍を監させ、燕軍三千を部下とす。やがて汴将李思安が夾城を築いて潞州を囲むと、居翰は嗣昭とともに城に登り守り、囲みが解けるに至る。これより嗣昭は出征のたびに、居翰に留後事を知らしむ。同光元年夏四月、召されて枢密使と為り、特進を加えられ、郭崇韜と対にして機務を掌る。十月、荘宗が河を渡らんとし、居翰と李紹宏を留めてともに魏州を守らしむ。荘宗が汴に入り、驃騎大将軍を加えられ、内侍省事を知り、前の如く枢密使を充てる。同光の時、宦官が政を干し、邦家の務めは皆郭崇韜より出づ。居翰は自ら羈旅の身で時に乗じ、重地に擢げられたことを以て、毎に宣授に際し、敢えて是非を為さず、顔色を承けて過ちを免れるのみであり、これをもって末年(の宦官誅殺)の禍を脱す。四年三月、偽蜀の王衍は既に降り、詔してその一族を洛陽らくように遷す。秦川に行き至る時、関東はすでに乱れ、荘宗は衍が変を為すを慮り、中官向延嗣に馳せて詔を齎しこれを殺させた。詔に云う、「王衍一行、並びに殺戮すべし。」その詔はすでに印画されていたが、時に居翰は枢密の地に在り、その詔を覆視し、即ち殿柱の上で「行」の字を拭い、「家」の字に改めて書く。衍が秦川駅で誅戮されるに及び、ただその近属を族誅するのみで、その偽官及び従行者なお千余人は、皆その枉濫を免れしめたのは、居翰の力である。明宗が洛に入り、居翰は至徳宮で謁見し、罪を待ち涕をすすり、田里に帰ることを乞う。詔してこれを許し、乃ち辞して長安ちょうあんに帰る。なおその子延貴を西京職事とし、もって侍養を供せしむ。天成三年四月、疾により長安にて卒す。時に七十一歳。居翰の性質は和やかで静か、旧事に諳んじる。潞州に累年あり、毎年春に人を課して蔬を育し樹を種えさせ、本を敦し農を恵む、仁者の心あり。

馬紹宏

馬紹宏は、閹官である。初め孟知祥とともに中門使となり、周徳威が薨ずると、荘宗が幽州を兼領し、紹宏に州事を権知せしむ。即位の初め、郭崇韜の勲望高く、旧くは紹宏の下に在りたるが、時に潞州監軍張居翰を征して崇韜とともに枢密使と為すに及び、紹宏は失望し、乃ち宣徽使と為す。紹宏は己が枢密の任に当たるべきと考え、常に鬱々として崇韜を側目した。崇韜はその不満を知り、乃ち内勾の目を置き、天下の銭穀簿書を悉く裁遣せしむ。やがて州郡の供報は、煩費を滋し、議者は十羊九牧と為し、深く不可とし、内勾の目は、人これを妖言と為す。(案:以下に闕文あり。《通鑒》に拠れば、李嗣源が謠言に属せられ、危殆なること数四、宣徽使李紹宏の左右に営護されるに頼り、以て全うす。天成元年二月己丑朔、宣徽南院使李紹宏を以て枢密使と為す。)

孟漢瓊

孟漢瓊は、もと鎮州の王鎔の小豎(小姓)であった。明宗が常山を鎮守したとき、側近として仕えるを得た。明宗が即位すると、諸司使から累進して宣徽南院使に至った。漢瓊は性質、通達で狡猾であり、人を交えて事を構えることを善くした。初め秦王(李従栄)の権勢が重いのを見て、また王淑妃の勢力を頼みとして、心を傾けて彼に仕えた。朱弘昭・馮贇が権力を握ると、また彼らと結託した。秦王が兵を率いて天津橋に至ったとき、漢瓊は朱・馮及び康義誠と内庭で会議しており、謀議は未だ決せず、漢瓊はただ一人、死力を尽くして先に殿門に入り、明宗に奏上した。その言葉は『秦王伝』にある。漢瓊は即ち自ら甲冑を着て馬に乗り、禁軍を召集した。秦王が誅殺された翌日、漢瓊をして騎馬を馳せて鄴にいる閔帝を召し還らせた。(『通鑑』には、漢瓊を遣わして従厚を征し、且つ天雄軍府事を権知せしむ、とある。)閔帝が位を嗣ぐと、特に恩寵を恃み、一ヶ月の内に、累次加えて開府儀同三司・驃騎大将軍となった。西軍(鳳翔軍)が既に叛くと、閔帝は急ぎ漢瓊を召し、先に鄴に入らせようとしたが、漢瓊は身を隠して行かなかった。潞王(李従珂)が陝州に至ると、乃ち諸妓妾を悉く召して訣別し、手ずからこれを斬ろうとした。衆人はその心中を知り、皆逃げ隠れた。初め、潞王が河中で敗れ、清化里の邸宅に帰されたとき、王淑妃は常に漢瓊をして教旨を潞王に伝えさせた。潞王は彼を厚遇したので、漢瓊は自ら潞王が己に恩があると思っていた。この時、乃ち単騎で澠池に至り潞王に謁見し、自ら慟哭して、陳べんとするところがあった。潞王は言った、「諸事は言わずとも知れる」。漢瓊は即ち自ら従臣の列に加わり、間もなく路傍で誅殺された。

【論】

史臣が曰く、張承業は武皇(李克用)の大いなる恩恵に感じ、荘宗(李存勗)の中興を輔佐し、既に義にして且つ忠なり。何をもってこれを階(比べる)せん。夫れ是の如くならば、則ち晋の勃貂(寺人披)、秦の景監(景監)は、これを去ること遠し。馬居翰は詔書の一字を改めて、千人の濫死を救う。これを仁人と謂わざるべけんや。張紹宏の権を争い、孟漢瓊の禍を構うるが如きは、乃ち宦者の常態なり。又何を以てかこれを道(言)うに足らんや。