張承業列傳
夾城の役に、承業を鳳翔に遣わして援軍を求めた。時に河中は阻絶し、離石から河を渡ろうとしたが、春の氷が解け始め、流氷が激しく奔り、舟を着けても渡れなかった。そこで河神に祈った。その夜、夢に神人が告げて言うには、「汝はただ渡れ、流氷に患いはない」と。目覚めると、津の吏が報じて言うには、「河の氷が合わさりました」と。明け方、氷を踏んで渡り、踵を返す間に氷は解けた。使いから戻ると、武皇は病篤く、啓手の夕べ、承業を召してこれを託して言うには、「我が児は孤弱なり、群臣は縦横す、後事は公よくこれを籌謀せよ」と。承業は遺顧を奉じ、爰に嗣王を立て、内難を平らげ、策略多くを占めた。易月の制が終わると、すぐに出師して潞を救い、賊を夾城に破ることを請うた。莊宗は深くその意を感じ、兄としてこれに事え、親しく承業の私第に幸し、堂に昇って母を拝し、賜遺は優厚であった。時に莊宗は初めて墨製を行い、凡そ除拜の命は、皆盧汝弼の手に成った。汝弼は自ら戸部侍郎となった後、承業とともに官を改め開国邑を与えることを請うたが、承業は拒んで受けなかった。その後は、ただ本朝の旧官を称するのみであった。
天祐年間、幽州の劉守光が敗れ、その府掾馮道が太原に帰った。承業はこれを本院巡官に辟した。承業はその文章と履行を重んじ、甚だ待遇した。時に周元豹という者がおり、人倫の鑑識に優れていたが、道と合わず、承業に言うには、「馮生に前程なし、公は過用すべからず」と。管書記の盧質がこれを聞いて言うには、「私はかつて杜黄裳司空の寫真図を見たが、道の状貌は酷似している。将来必ず大用に副うであろう。元豹の言は信ずるに足らぬ」と。承業はこれを薦めて霸府の従事とした。
柏鄉の役、王師が既に汴営に逼ると、周德威はその奔衝を慮り、堅く退舍を請うた。莊宗はその懦を怒り、聴かず、帳を垂れて寝た。諸将は事を言うことを敢えず、皆監軍に詣って請い白せんとした。承業は急ぎ牙門に至り、帳を褰って入り、莊宗を撫でて言うには、「これは王安寝の時ならず、周德威は老将、兵勢を洞識し、姑く万全を務むるなり、言忽にすべからず」と。莊宗は蹶然として興きて言うには、「予方にこれを思う」と。その夜、軍を収めて鄗邑に保った。德威が劉守光を討つとき、承業をして賊勢を視させ、因って莊宗の自ら行くことを請うた。果たして大捷を成した。承業は武皇の厚遇に感じ、莊宗が魏州に在ること垂十年、太原の軍国政事を一に承業に委ねた。而して積聚庾帑し、兵を収め馬を市い、流散を招懐し、農桑を勧課して、この霸基を成したのは、承業の忠力によるものである。
時に貞簡太后、韓德妃、伊淑妃、諸宅の王の貴き者、及び王の介弟が晉陽宮に在り、あるいはその道ならずして承業に干するも、悉く聴かず、法禁を逾える者は必ず懲らしめた。これにより貴戚は手を斂め、民俗は大いに変じた。あるいは莊宗に承業を中傷する者があり、専ら威柄を弄び、広く賂遺を納れると言った。莊宗は歳時に晉陽宮に還り太后を省うが、銭を須いて蒱博し、伶官に給するため、嘗て泉府に酒を置いた。莊宗は酣に飲み、興聖宮使李繼岌に命じて承業のために舞わしめた。終わると、承業は宝帯と幣馬を出してこれを奉った。莊宗は銭の積みを指して承業に言うには、「和哥(繼岌)に銭を使うことなし、七哥(承業)はこれ一積みを与えよ、宝馬は殊恵にあらず」と。承業は謝して言うには、「郎君哥(繼岌)は労多く、承業は自ら己が俸銭を出します。この銭は大王の庫物、準擬して三軍を支贍するもので、公物を以て私礼と為すことを敢えません」と。莊宗は悦ばず、酒に使って承業を侵した。承業は言うには、「臣は老いたる敕使。子孫の謀のためではなく、銭を惜しむは大王の基業のためなり。王若し自ら散施せんと要すれば、老夫何ぞ妨げん、財尽き兵散じて一事も成らざるに過ぎぬ」と。莊宗は怒り、顧みて元行欽に言うには、「剣を取れ」と。承業は莊宗の衣を引き、泣いて言うには、「仆は先王の遺顧を荷い、誓って本朝のために汴賊を誅せんとす。王のため庫物を惜しみ、承業の首を斬らば、死すとも先王に愧じることなし。今日請うて死せん」と。閻宝が承業の手を解き、退かせようとした。承業は宝を詬って言うには、「朱溫の逆賊に党し、未だ嘗て一言も忠を効うることなく、而して敢えて阿諂に依り附す」と。拳を揮ってこれを踣した。太后は莊宗の酒失を聞き、急ぎ召し入れた。莊宗は性至孝、太后の召しを聞き、叩頭して阿業(承業)に謝して言うには、「吾れ杯酒の間に、七哥に忤う、太后必ず吾を怪しまん。七哥は痛く両卮を飲み謗を分かたん、可か」と。莊宗は連ねて四鍾を飲み、承業を勧めたが、竟に飲まなかった。莊宗が宮に帰ると、太后は人をして承業に謂わしめて言うには、「小児特進に忤う、既に笞ちたり、第に帰るべし」と。翌日、太后と莊宗と俱にその第に幸し、慰労した。ここより私謁は幾くも絶えた。
十四年、承制して開府儀同三司・左衛上將軍・燕國公を授けたが、固辞して受けなかった。是の時、盧質が莊宗の幕下にあり、酒を嗜み軽傲で、嘗て莊宗の諸弟を豚犬と呼んだ。莊宗は深くこれを銜んだ。承業は質が禍を受けることを慮り、因って隙に乗じて莊宗に謂うには、「盧質多く無礼を行えり、臣請う大王のためにこれを殺さん、可か」と。莊宗は言うには、「予方に賢士を招礼し、以て霸業を開かんとす、七哥何ぞ言の過ぎたるや」と。承業は因って聳立して言うには、「大王若能く此くの如くせば、何ぞ天下を得ざるを憂えん」と。その後盧質は縱誕を成すも、莊宗は終にこれを容れることができた。蓋し承業がこれを藻藉したのである。
張居翰
馬紹宏
孟漢瓊
孟漢瓊は、もと鎮州の王鎔の小豎(小姓)であった。明宗が常山を鎮守したとき、側近として仕えるを得た。明宗が即位すると、諸司使から累進して宣徽南院使に至った。漢瓊は性質、通達で狡猾であり、人を交えて事を構えることを善くした。初め秦王(李従栄)の権勢が重いのを見て、また王淑妃の勢力を頼みとして、心を傾けて彼に仕えた。朱弘昭・馮贇が権力を握ると、また彼らと結託した。秦王が兵を率いて天津橋に至ったとき、漢瓊は朱・馮及び康義誠と内庭で会議しており、謀議は未だ決せず、漢瓊はただ一人、死力を尽くして先に殿門に入り、明宗に奏上した。その言葉は『秦王伝』にある。漢瓊は即ち自ら甲冑を着て馬に乗り、禁軍を召集した。秦王が誅殺された翌日、漢瓊をして騎馬を馳せて鄴にいる閔帝を召し還らせた。(『通鑑』には、漢瓊を遣わして従厚を征し、且つ天雄軍府事を権知せしむ、とある。)閔帝が位を嗣ぐと、特に恩寵を恃み、一ヶ月の内に、累次加えて開府儀同三司・驃騎大将軍となった。西軍(鳳翔軍)が既に叛くと、閔帝は急ぎ漢瓊を召し、先に鄴に入らせようとしたが、漢瓊は身を隠して行かなかった。潞王(李従珂)が陝州に至ると、乃ち諸妓妾を悉く召して訣別し、手ずからこれを斬ろうとした。衆人はその心中を知り、皆逃げ隠れた。初め、潞王が河中で敗れ、清化里の邸宅に帰されたとき、王淑妃は常に漢瓊をして教旨を潞王に伝えさせた。潞王は彼を厚遇したので、漢瓊は自ら潞王が己に恩があると思っていた。この時、乃ち単騎で澠池に至り潞王に謁見し、自ら慟哭して、陳べんとするところがあった。潞王は言った、「諸事は言わずとも知れる」。漢瓊は即ち自ら従臣の列に加わり、間もなく路傍で誅殺された。
【論】
史臣が曰く、張承業は武皇(李克用)の大いなる恩恵に感じ、荘宗(李存勗)の中興を輔佐し、既に義にして且つ忠なり。何をもってこれを階(比べる)せん。夫れ是の如くならば、則ち晋の勃貂(寺人披)、秦の景監(景監)は、これを去ること遠し。馬居翰は詔書の一字を改めて、千人の濫死を救う。これを仁人と謂わざるべけんや。張紹宏の権を争い、孟漢瓊の禍を構うるが如きは、乃ち宦者の常態なり。又何を以てかこれを道(言)うに足らんや。