元行欽は、元来幽州の劉守光の愛将であった。守光が父の地位を奪った時、行欽に大恩山を攻撃させ、また諸兄弟を殺害するよう命じた。天祐九年、周徳威が山州を攻囲し、守光が窮地に陥ると、行欽に山北で兵を募らせ、契丹に呼応させようとした。時に明宗が将として山北で行欽を攻め、これと交戦し、矢は明宗の馬鞍に及んだが、やがて形勢に迫られて降伏して来た。明宗はその勇気を憐れみ、仮子として配下に加えるよう奏上し、後に征討に従軍するに及んで、恩礼は特に厚かった。常に敵前で生け捕りを行い、必ず何かを獲るところがあり、その名は軍中に聞こえた。荘宗が東の趙・魏を平定する際、驍健な者を選んで麾下に置き、行欽を求めたので、荘宗はやむなくこれを遣わした。時に散指揮都頭というものがあり、散員と称されていたが、行欽を都部署とし、姓を賜って紹栄と名乗らせた。荘宗は戦闘を好み、大敵に対しても勇猛で、時に臨陣して危急の兵があると、行欽は必ず身を横たえて戦闘を解き、これを翼衛した。荘宗が徳勝に営を置いた時、汴軍と潘張で戦い、王師は利あらず、諸軍は奔乱した。荘宗は三四騎を得て引き返したが、野中で汴軍の数百騎が槊を集めて攻撃し、事態は測り知れぬところであった。行欽はその旗幟を識別し、急いで一騎を駆けさせ、奮って剣で二本の矛を断ち切り、首級一つを斬ると、汴軍は囲みを解き、荘宗を翼衛して宮中に還った。荘宗は涙を流して言うには、「富貴は卿と共にせん」と。これより寵愛は諸将に冠し、官は検校太傅・忻州刺史に至った。荘宗が梁を平定すると、武寧軍節度使を授けられた。嘗て内宴で群臣を招き、使相を参会させた時、行欽の官は保傅であったが、当地の褥の下座に座っていた。酒が酣に楽が奏され、荘宗が平生の戦陣の事を語り、左右を顧みて言うには、「紹栄は何処にいるか」と。所司が奏上して云うには、「勅があり、使相は参会するが、紹栄は散官であるため、殿上には席がない」と。荘宗は宴会を撤収し、快く思わなかった。翌日、行欽を同平章事とし、これにより内殿で百官を宴することはなく、ただ武臣のみを宴するようになった。
夏魯奇、字は邦傑、青州の人である。初め宣武軍に仕えて軍校となったが、主将と協わず、遂に荘宗に帰順し、護衛指揮使とされた。周徳威に従って幽州を攻め、燕の将に単廷珪・元行欽がおり、時に驍勇と称されたが、魯奇はこれと戦い、両者解けず、将士は皆兵器を解いて眺め見た。幽州が平定されると、魯奇の功績が多かった。梁の将劉鄩が洹水におり、荘宗が深く入って師を致すと、鄩は魏県西南の葭蘆の中に伏兵を設けた。荘宗は千騎に満たず、汴人の伏兵は万余り、大いに騒ぎ立てて起ち上がり、荘宗を数重に囲んだ。魯奇は王門関・烏徳児らと奮命して決戦し、午より申に至り、やがて李存審の兵が至ってようやく解けた。魯奇は槍を携え剣を帯び、独り荘宗を衛り、手ずから百余りを殺した。烏徳児らは生け捕られ、魯奇は傷痍遍体に及び、これより荘宗は特にこれを憐れみ、磁州刺史を歴任した。中都の戦いで、汴人は大敗し、魯奇は王彦章を見てこれを識別し、単騎で追い及び、槍をその頸に擬す。彦章は顧みて言うには、「爾は我が故人にあらずや」と。即ちこれを捕らえて献上した。荘宗はこれを壮とし、絹千匹を賞賜した。梁が平定されると、鄭州防禦使を授けられた。四年、河陽節度使を授けられた。天成の初め、許州に移鎮し、同平章事を加えられた。
魯奇の性質は忠義に富み、特に吏道に通じ、民を撫でる術があった。許田に移鎮する際、孟州の民は万衆で道を遮り、轍に臥して登ることを断ち、五日間発たなかった。父老は闕に詣でて留まるよう請い、明宗は中使を以てこれを諭し、ようやく州を離れることができた。明宗が荘南を討つ時、魯奇は副招討使となり、間もなく遂州に移鎮した。董璋が叛くと、孟知祥と共に遂州を攻め、援軍の路は断絶し、兵は尽き食は窮し、魯奇は自刎して卒した。時に四十九歳であった。帝はその死を聞き、慟哭し、その家に厚く給し、太師・斉国公を贈った。
姚洪は、もと梁の小校であった。梁に仕えた時、董璋に仕え、長興の初め、兵千人を率いて閬州を守った。璋が叛くと、衆を率いて閬州を攻め、璋は密かに人を遣わして洪を誘ったが、洪は大義をもってこれを拒んだ。璋が城を攻めるに及んで、洪は全力を尽くして三日間防ぎ守ったが、守備の力が尽きて城は陥ち、捕らえられた。璋は洪に言う、「お前はかつて健児であったが、私が奨励抜擢してここまで至った。私が書を送って諭し、そばに投げ与えたのに、どうして背くのか」と。洪は大声で罵って言う、「老賊め、お前は天子の鎮帥であるのに、どうして苦しんで反逆するのか。お前はすでに恩を裏切り主君に背いた。私とお前との間に何の恩があって、背いたなどと言うのか。お前は李七郎の奴隷で、馬糞を掃き、一切れの残った焼肉を得て、恩を感じて尽きることがなかった。今、明天子が茅土を与え、諸侯として貴ばれているのに、徒党を駆り集めて結び、反逆して噛みつこうと図っている。お前はもとより奴隷であり、恥知らずである。私は忠義の士であり、そんなことは忍びない。私は天子のために死ぬことはできても、人の奴隷とともに苟くも生きることはできない」と。璋は怒り、軍士十人に命じて刀を持たせてその膚を切り刻み、前に鍋を燃やし、自ら取って食べさせた。洪は死に至るまで大声で罵りやまなかった。明宗はこれを聞いて涙を流し、洪の二人の子を近衛に置き、給与と賜物を甚だ厚くした。
李厳は幽州の人で、本名は譲坤といった。初め燕に仕え、刺史となり、書伝に広く通じ、弓馬に巧みで、弁舌に優れ、多くの芸に通じ、功名を自ら任じた。同光年間、客省使となった。蜀に使者として赴き、王衍と相見えるに及んで、使者の礼を述べ、笏記の中で詳しく荘宗の興復の功績を述べた。その警句に、「汶水を過ぎるや、王彦章を馬前に縛し、旋って夷門に及べば、朱友貞を楼上に斬る」とあった。厳はまた声韻が清く響き渡り、蜀人はこれを聞いて愕然とした。時に蜀の偽枢密使宋光嗣が厳を招いて私宴を開き、近事について厳に訊ねた。厳は答えて言う、「我が皇帝は前年四月に鄴宮で即位し、その月に鄆州を下した。十月四日、自ら万騎を統率して賊の中都を破り、勝ちに乗じて進軍し、遂に汴の孽を誅した。偽梁にはなお兵三十万があり、謀臣猛将は、甲を解き戈を倒した。西は甘・涼に尽き、東は海外に及び、南は閩・浙を越え、北は幽陵に極まる。牧伯侯王は、藩を称する暇もなく、家財を貢ぎ入れ、府の実物を上供する。呉国は本朝の旧臣、岐下は先皇の元老であり、子を遣わして入侍させ、職を述べて藩を称する。淮・海の君は、卑しい言葉で厚く貢ぎ、湖湘・荊楚、杭越・甌閩は、異貨奇珍を、府に虚月なく献上する。我が皇帝は徳をもって懐け来たり、威をもって款附させる。順う者には恩沢をもって包み込み、逆らう者には干戈をもって問う。四海の車書、大同は遅からず」と。光嗣は言う、「その他は知らないが、ただ岐下の宋公は、我が姻戚であり、その心を見通しているが、反覆多く、専ら跋扈を謀り、大いに信じるに足りない。契丹部族が近ごろやや強くなったと聞くが、大国は慮ることはないか」と。厳は言う、「あなたが言う契丹の強盛は、偽梁と比べてどうか」と。曰く、「梁よりは劣る」と。厳は言う、「我が国は契丹を蚤虱のごとく見なしている。害がないので、掻くに足りない。我が良将勁兵は天下に布き、彼らは一郡の兵、一校の衆を労することなく、則ち首を槀街に懸け、ことごとく奴隷の虜となる。ただ天生の四夷は、度外に置くべきであり、九州の本に在らず、未だ兵を窮くし武を黷すことを欲しない」と。光嗣はこの弁対を聞き、畏れて奇異に思った。時に王衍は政を失い、厳はこれを取るべきことを知り、使いから還って詳しく奏上したので、蜀を平らげる謀は、厳に始まった。
郭崇韜が軍を起こした日、厳を三川招撫使とし、厳は先鋒使康延孝とともに兵五千を将いて、先駆けて閣道を行き、あるいは言葉で説き、あるいは兵鋒で威し、大軍の未だ及ばぬうちに、所在降伏した。延孝が漢州にいた時、王衍は書を送って言う、「李司空をまず来させてほしい。そうすれば私は城を挙げて降伏する」と。衆はみな、蜀を討つ謀は厳に始まり、衍が甘言をもって、誘い出して殺そうとしていると考え、行かせまいとした。厳はこれを聞いて喜び、即ち騎を馳せて益州に入った。衍は母の前で厳に会い、母と妻を託した。即日、蜀の使者歐陽彬を引いて魏王継岌を迎え謁見させた。蜀が平定され軍が帰還すると、明宗の即位に会い、泗州防禦使兼客省使に遷った。長興の初め、安重誨が両川を制御しようと謀り、厳は西川兵馬都監を求めて、方略を尽くそうとした。孟知祥はこれを察し、到着するや、捕らえて害した。太保を贈られた。
厳の母は、賢明な婦人であった。初め、厳が蜀に赴こうとした時、母は言う、「お前は以前に蜀を破る謀を啓上し、今また蜀に入る。蜀人に死をもって報いることになろう。お前と永遠に別れる」と。既にして果たしてその言のごとくなった。
思立はもと陰山諸部の出身で、性質は純朴篤厚、将士をよく慰撫し、明宗は平素よりこれを重んじた。故に即位の初め、応州という生誕の地を授けたのである。その後三郡三鎮を歴任し、いずれも百姓の称賛を得た。末帝はその高齢を慮り、環衛(近衛)の職に召し寄せた。やがて末帝が懐州に赴幸し、北面の軍が不利となると、思立に命じて麾下の騎軍を率い団柏谷に赴き軍勢を補わせたが、間もなく楊光遠が大軍を率いて太原に降ったため、思立は憤激し、病を発して卒した。晋高祖(石敬瑭)が即位すると、その旧誼を追憶し、一日朝儀を停止し、太子少師を追贈した。
末帝はその死を聞き、長く悲しみ慟哭した。契丹主はその部曲及び降伏した漢人に告げて言った、「臣たる者はこの人のようであるべきだ。」と。部民に命じて収葬させた。晋高祖が即位した後、所有の田宅をことごとくその妻子に賜った。当時の議論では、敬達は数帝に仕え、たびたび軍功を立て、藩郡を領したが、濫りなきを聞かず、引き続き塞垣を屯守し、またよく部下を慰撫し、難に臨んで固執し、苟も免れようと求めなかったのは、近代の忠臣であるとした。晋が天下を得て、その官封を追って栄えさせ、その事跡を賞さなかったのは、忠を激励する道ではない、というのである。