舊五代史

唐書四十五: 列傳二十一 張憲 王正言 胡裝 崔貽孫 孟鵠 孫岳 張延朗 劉延皓 劉延朗

張憲、字は允中、晉陽の人、代々軍功をもって牙校となる。憲は幼少より儒学を好み、志を励まして経書を学び、昼夜を分かたず。太原地は辺境の要衝にあり、人多く武を尚び、学業を恥ずるも、ただ憲と里人の薬縦之のみ精力を傾けて遊学し、弱冠にして諸経に通じ、特に『左伝』に精通す。嘗て袖に所業を携え、判官李襲吉に謁す。一見して欣び歎じ、辞するに及び、憲に謂いて曰く、「子勉めよ、将来必ず佳器とならん」と。石州刺史楊守業は書を聚むるを喜び、家蔵の書を示す。聞見日ごとに博し。

莊宗が行軍司馬たりし時、髦俊を広く延べ、素より憲の名を知り、朱守殷に命じて書幣を齎らせてこれを招く。歳余にして、褐を脱ぎ交城令となり、任期満ちて、莊宗が世を嗣ぎ、太原府司録参軍を補す。時に府初めて開け、幕客馬鬱・王緘は燕中の名士、皆これと交遊す。十二年、莊宗河朔を平らげ、藩邸の旧を思い、行台に赴くを征す。十三年、監察に授け、緋を賜い、魏博推官を署し、ここより恒に筆を簪きて扈従す。十五年、王師胡柳に戦い、周徳威の軍利あらず。憲と同列は馬を奔らせて北に渡る。梁軍急追し、殆ど済まんとせず。夕に至りて河を渡るに、人皆水に陥ちて没す。憲は従子の朗と氷を履みて行く。将に岸に及ばんとするに、氷陥つ。朗泣きて馬箠を以てこれを引く。憲曰く、「吾児去れ、倶に陥つるなからしむるな」と。朗曰く、「季父の此くの如きを忍び、倶に死すとも恨みなし」と。朗は偃伏して箠を引き、憲は身を躍らせて出づ。是の夜、莊宗軍中に憲を求めしむ。或いは曰く、「王緘と倶に歿せり」と。莊宗涕を垂れて屍を求め、数日にして、その免れたるを聞き、使を遣わして慰労す。尋いで掌書記・水部郎中に改め、金紫を賜い、魏博観察判官を歴任す。張文礼を討つに従い、鎮州平らぎ、魏・博・鎮・冀十郡観察判官に授けられ、考功郎中に改め、御史中丞を兼ね、権めて鎮州留事を掌る。莊宗即位し、詔して魏都に還るを命じ、尚書工部侍郎に授け、租庸使を充てる。八月、刑部侍郎に改め、吏部銓を判じ、太清宮副使を兼ぬ。莊宗洛陽らくように遷り、憲を以て検校吏部尚書・興唐尹・東京副留守とし、留守事を知らしむ。憲は学識優深にして、特に吏道に精しく、剖析聴断するに、人敢えて欺かず。

三年春、車駕鄴に幸す。時に易定の王都来朝し、行宮に宴し、将に鞠を撃たんとす。初め、莊宗即位の礼を行い、鞠場の吉を卜し、因りてその間に壇を築く。ここに至り詔してこれを毀たしむ。憲奏して曰く、「即位壇は陛下が天神を祭りて命を受くる所なり。風燥雨濡の外は、輒ち毀つべからず、また修むべからず。魏の繁陽の壇、漢の汜水の墠、今に至るまで猶兆象あり。存して毀たず、古の道なり」と。即ち命じて宮の西にこれを治めしむ。数日にして成らず。会うに憲公事を以て謫せられ、閣門に待罪す。上怒り、有司に戒めて行宮の庭を速やかに治めしめ、事を礙くる者を悉く去らしめ、竟に即位壇を毀つ。憲私かに郭崇韜に謂いて曰く、「不祥の甚だしき、その本を忽にするなり」と。

秋、崇韜兵を将いてしょくを征し、手書を以て憲に告げて曰く、「允中事を避くること久し。余命を受けて西征し、已に公の黄閣に還るを奏せり」と。憲報じて曰く、「庖人の屍祝に代わる、所謂吾が事に非ざるなり」と。時に枢密承旨段徊権を当にし事に任ず。憲が従龍の旧望を以て、憲の朝廷に在るを欲せず。会うに孟知祥蜀川を鎮め、北京留守を選ぶに及び、徊揚言して曰く、「北門は国家の根本、重徳なくして軽く授くべからず。今の才を取るには、憲に非ざれば不可なり」と。時に趨る者因りて徊の勢に附し、巧みにこれを中傷す。また曰く、「憲に相業あり。然れども国祚中興し、宰相は天子の面前にあり、得失改作すべし。一方の事は一人に制す。ただ北面の事重し」と。十一月、憲を銀青光禄大夫・検校吏部尚書・太原尹・北京留守に授け、知府事を掌らしむ。

四年二月、趙在禮魏州に入る。時に憲の家屬魏に在り、関東俶擾す。在禮その家を善待し、人を遣わして書を齎し太原に至り憲を誘う。憲その使を斬り、書は函を発たずして奏す。既にして明宗兵衆に劫せられ、諸軍離散す。地遠くして事実を知らず。或いは憲に謂いて曰く、「蜀軍未だ至らず、洛陽窘急す。総管また兵権を失い、諸軍の手に制せらる。また河朔の推戴を聞く。事もし実然ならば、或いは済むことあらんか」と。憲曰く、「治乱の機は、間髪を容れず。愚が断ずる所を以てすれば、事未だ知るべからず。愚薬縦の言を聞くに、総管は徳量仁厚にして、素より士心を得たり。余多く言うなかれ、此れを誌すのみ」と。四月五日、李存渥洛陽より至り、口伝に莊宗の命を伝え、書詔無し。ただ云う、天子隻箭を授け、これを伝えて信と為す、と。衆心これを惑い、時事測る莫し。左右画を献じて曰く、「存渥の乗ずる馬、已にその飾りを戢む。また人を召して事を謀るは、必ず陰禍を行わんとす。因りて城を拠らんと欲するなり。寧ろ我れ人に負くとも、宜しく早くその所を為すべし。ただ呂・鄭の二宦を戮し、且く存渥を係え、徐ろにその変を観、事万全ならん」と。憲良久くして曰く、「吾れ本より書生、軍功無くして身を此に致す。一旦布衣より金紫を紆く。向より仕宦は他門より出でず。この画は吾が心に非ず。事苟も済まざれば、身を以て義に徇わん」と。翌日、符彦超呂・鄭を誅す。軍城大乱し、燔剽暁に達す。憲初め変有るを聞き、出奔して沂州に至る。既にして有司その城を委ねたる罪を糾す。四月二十四日、晋陽の千仏院に賜死す。幼子の凝父に随いて走るも、また収むる者に害を加えらる。明宗郊礼し大赦す。有司昭雪を請う。従う。憲は沈静寡欲にして、図書を聚むるを喜び、家蔵の書五千巻、事を視るの余り、手自ら刊校す。琴を弾ずるに善く、酒を飲まず、賓僚宴語するも、ただ文を論じ嘯詠するのみ。士友これを重んず。

憲の長子守素、晋に仕え、位は尚書に至る。

王正言は鄆州の人である。父の王誌は済陰県令であった。正言は早くに孤児となり貧しく、沙門に従って学び、詩をよくし、密州刺史の賀徳倫が俗に帰るよう命じ、郡の職に任じた。徳倫が青州を鎮守すると、推官に上表し、魏州に移鎮すると、観察判官に改めた。荘宗が魏博を平定すると、正言は旧職のまま任じられ、小心で端厳慎重、人と争わなかった。かつて同職の司空しくう頲に凌辱されたが、正言は心を低くしてこれに従った。頲が誅殺されると、代わって節度判官となった。同光初年、戸部尚書・興唐尹を守った。時に孔謙が租庸副使であり、常に張憲の剛直を畏れ、彼が使を領するのを望まず、郭崇韜に張憲を魏州に留めるよう申し出、宰相の豆盧革に租庸を判らせた。間もなく、また盧質を以てこれに代えた。孔謙が言うには、「銭穀の重務は、宰相は事多く、簿籍が滞る」と。また言うには、「盧質が二日判っただけで、既に官銭を借りており、皆任せられない」と。その意は、崇韜が必ず己に代わってその任に就かせると考えたが、時に物議が允さず止み、謙は長く沮喪した。李紹宏が言うには、「邦計は国の根本であり、時に怨府と号され、張憲でなければ職に称さない」と。即日に彼を召し出した。孔謙・段徊が崇韜に申し出て言うには、「邦計は重いとはいえ、侍中の眼前にあり、ただ一人をして使とすれば足りる。魏博六州の戸口は天下の半分、王正言は操守に余りあるが、智力が足りず、朝廷が任使するならば、人と共に事を為すに庶幾からん。専ら方隅を制するには、その可なるを見ず。張憲は才器兼ね備え、宜しくこれを委ねるべし」と。崇韜は即座に張憲を奏上して魏州を留守させ、王正言を租庸使に召し出した。正言は在職中、主として諾するのみで、権柄は孔謙より出た。正言は繁浩に耐えず、簿領が縦横に及び、事に触れて遺忘し、物論は不可と為し、即座に孔謙を以てこれに代え、正言は礼部尚書を守った。

三年の冬、張憲に代わって興唐尹となり、鄴都を留守した。時に武徳使の史彦瓊が鄴都を監守し、倉庫の出納、兵馬の製置は皆彦瓊より出で、将佐官吏は頤指気使し、正言は道を以てこれを御する能わず、ただ趑趄して命を聴くのみであった。ここに至り、貝州の戍兵が乱を起こし、魏州に入り、彦瓊は風望みて敗走し、乱兵は坊市を剽劫した。正言は書吏を促して奏章を書かせたが、家人が言うには、「賊は既に人を殺し火を放ち、都城は陥落した、何の奏があろうか」と。この日、正言は諸僚佐を率いて趙在礼に謁し、塵を望んで再拝して罪を請うた。在礼は言うには、「尚書は重徳、卑屈せず、余は国恩を受け、尚書と共に事を為すが、ただ帰りを思う衆、倉卒に迫られたのみ」と。因って正言を拝し、厚く慰撫を加えた。明宗が即位すると、正言は平盧軍行軍司馬を求め、因ってこれを授け、竟に任において卒した。

胡裝は礼部尚書胡曾の孫である。汴将の楊師厚が魏州を鎮守した時、裝は副使の李嗣業と旧知であり、因ってこれに依り往き、薦められて貴郷県令を授かった。張彦の乱の時、嗣業は害に遇い、裝は官を罷め、魏州に客居した。荘宗が初めて至ると、裝は謁見し、仮の官を求め、司空頲はその居官貪濁を以て、長く調を得させなかった。十三年、荘宗が太原に還ると、裝は離亭にて待ち、謁者が内に入れず、乃ち闥を排して入り言うには、「臣は本朝の公卿の子孫、兵に従ってここに至る。殿下は唐の祚を襲うに比し、英俊を勤めて求め、以て覇図を壮んず。臣は才無きも、九九を進め、豎刁・頭須を納るるに比すれば、亦庶幾からん。而るに羈旅累年、執事者顧錄を垂れず、臣は海に赴き樹に触れ、胡に走り越に適す能わず、今日殿下に帰死す」と。荘宗は愕然として言うには、「孤未だ之を知らず、何ぞ是の如く至らんや」と。酒食を賜り慰めて遣わし、郭崇韜に謂うには、「便ち擬議を与えよ」と。この歳、館驛巡官に署す。未だ幾ばくもせず、監察御史裏行を授かり、節度巡官に遷り、緋魚袋を賜う。尋いで推官・検校員外郎を歴任す。裝は書を学ぶに師法無く、詩を工にするも作者に非ず、題壁に僻し、至る所の宮亭寺観に必ず爵裏を書き、人或いはこれを譏るも、愧じと為さず。時に四鎮の幕賓は皆金紫なりしが、裝独り銀艾を恥じた。十七年、荘宗が魏州より徳勝に至り、賓僚と城楼にて餞別し、既にして群僚席を離るるも、裝独り留まり、詩三篇を献じ、意は章服に在り。荘宗は大鍾を挙げて裝に属し言うには、「員外能く此を釂せんか」と。裝は飲酒素より少なく、略く難色無く、為に一挙して釂し、荘宗は即ち紫袍を解いてこれを賜う。同光初年、裝を以て給事中と為し、洛陽に幸従す。時に連年大水、百官多く窘し、裝は襄州副使を求む。四年、洛陽変擾し、節度使劉訓は私忿を以て裝を族し、誣って奏す、裝謀乱を欲すと。人士これを冤しむ。

崔貽孫、祖の元亮は左散騎常侍さんきじょうじ。父の芻言は潞州判官。貽孫は門族を以て進士第に登り、監察より朝に昇り、清資美職を歴任す。省郎となり、江南に使いして回り、橐装を以て漢上の穀城に別墅を営み、退居自奉す。清江の上、緑竹野に遍く、狭径濃密、舟を曲岸に維ぎ、人造る莫く、時人甚だこれを高し。李振が均州に貶せられると、貽孫は曲げてこれを奉ず。振が朝に入ると、貽孫累遷して丞郎となる。同光初年、吏部侍郎を除き、銓選疏謬、官を貶して塞地に至り、馳驛して潞州に至り、府帥の孔に書を致し云う、「十五年穀城の山裏、自ら逸人と謂う。二千里沙塞の途中、今は逐客と為る」と。その年八十なるを以て、奏して府下に留まる。明年、量移して澤州司馬となり、赦に遇い京に還る。宰相鄭玨は姻戚の分を以て、復た吏部侍郎に擬し、天官任重く、昏耄知る莫く、後に礼部尚書に遷り、致仕して卒す。子三人有り、貽孫左降の後、各々旧業に於いて其の利を争い分かち、甘旨醫藥、奉ずる者莫し。貽孫は書を以てこれを責め云う、「生には明君宰相有り、死には天曹地府有り、吾れ雖も考終す、豈に汝を放たんや」と。

孟鵠は魏州の人である。荘宗が初めて魏博を平定したとき、幹吏を選んで兵賦を計らせ、鵠を度支孔目官とした。明宗の時、邢洺節度使となり、常に意を曲げて承迎し、明宗は甚だ彼を徳とした。孔謙が専ら軍賦を典掌し、徴督が苛急であったとき、明宗は嘗て歯を噛んで憤った。即位すると、鵠は租庸勾官から擢てられて客省副使・樞密承旨となり、三司副使に遷り、出て相州刺史となった。時に範延光が再び樞密に遷ると、乃ち鵠を徴して三司使とした。初め、鵠は計畫の能あり、邦賦を専掌するに及んで、操割依違し、名譽頓に減じた。期年にして疾を発し、外任を求め、仍て許州節度使を授けられた。謝恩して退くや、帝は目を送り、侍臣を顧みて曰く、「孟鵠が三司を掌ること幾年、方鎮に至るを得たのか」と。範延光奏して曰く、「鵠は同光の世に已に三司勾官となり、天成の初めに三司副使となり、出て相州を刺し、入りて三司を判すること又二年なり」と。帝曰く、「鵠は幹事を以て、遽に方鎮に至る、争か勉めざらんや」と。鵠と延光は俱に魏人にして、厚く相結托し、延光が樞務を掌るに及び、援引して三司を判せしめ、又節鉞を致す。明宗之を知り、故に此の言を以て之を譏る。任に到ること未だ周歳せずして卒す。太傅を贈られた。

孫嶽は冀州の人である。強幹にして才用あり、府衛の右職を歴任した。天成の中、潁耀二州刺史・閬州團練使となり、至る所で治まると称され、鳳州節度使に遷った。代を受けて京に帰ると、秦王従栄は嶽を元帥府都押衙にしようとしたが、事未だ行はれず、馮贇が挙げて三司使とし、時に密謀に預かった。朱・馮は従栄の恣横を患え、嶽は嘗て其の禍の端を極言し、康義誠之を聞いて悦ばず。従栄が敗れるに及び、義誠は嶽を召して共に河南府に至り府蔵を検閲せしめた。時紛擾未だ定まらず、義誠密かに騎士を遣わして之を射させ、嶽は通利坊に走り至り、騎士の害する所となり、識ると識らざるとを問わず皆之を痛んだ。

子の璉は、諸衛將軍・藩閫節度副使を歴任した。

張延朗は汴州開封の人である。梁に事え、租庸吏を以て鄆州糧料使となった。明宗が鄆州を克つと、延朗を得て、復た之を糧料使とし、後に宣武・成德に鎮を徙すに及び、元従孔目官とした。長興元年、初めて三司使を置き、延朗を拝して特進・工部尚書とし、諸道鹽鐵轉運等使を充て、兼ねて戸部度支事を判せしめ、詔して延朗を以て三司使を充てしむ。末帝即位し、礼部尚書を授け、中書侍郎・平章事・判三司を兼ねた。延朗再び表を上りて辞して曰く、

臣は濫りに雨露を承け、鈞衡の処に擢てられ、選部の銜を兼ね叨り、仍て計司の重きを掌る。況んや中省は文章の地、洪爐は陶鑄の門、臣自ら揣量す、何を以てか当処せん。是を以て継て章表を陳べ、情誠を疊て貢ぎ、睿恩を請ひ乞ひ、朝論を貽すを免れんことを乞ふ。豈図らんや禦批累ねて降り、聖旨移らず、此の官を決し、臣を非器に委ぬるを。是を以て強ひて涕泗を収め、怔忪を勉めて遏ぎ、重ねて事上の門を思ひ、細かに盡忠の路を料る。竊に位高ければ則ち危至り、寵極まれば則ち謗生ず、君臣初終を保つ莫く、分義毀譽に防ぎ難しと為す。臣若し此の重任を保ち、彼の至公を忘れ、情に徇ひて以て是非を免れ、安きを偷みて以て富貴を固めば、則ち内に心腑を欺き、外に聖朝に負く、何を以てか君父の大恩に報ひ、子孫の延慶を望まん。臣若し但だ王道を行ひ、惟だ國章を守り、人を任すには必ず当才を取り、事を決するには須らく正理に依らば、形勢に確違し、幸門を堅く塞げば、則ち以て宏綱を振舉し、大化を彌縫し、陛下の含容の澤を助け、國家の至理の風を彰はすことを得べし。然れども讒邪者は必ず憾詞を起し、憎嫉者は寧ろ謗議無からんや。或は至尊未だ悉くせず、群謗明らかにし難きを慮り、更に本を拔き源を尋ねず、便ち瑕を受けて玷るるを俟たば、臣の心は忍ぶ可く、臣の恥は消す可し。隻だ山林草澤の人、聖製を稱量し、冠履軒裳の士、朝廷を輕慢するを恐る。

臣又以て國計一司は、其の經費を掌り、利權二務は、職捃收に在りと為す。将に四海の貧民を養はんと欲すれば、薄賦に過ぎず、六軍の勁士を贍はんとすれば、又豐儲に藉る。利害相隨ひ、取與斟酌し難し。若し山を罄して木を采り、澤を竭して魚を求めば、則ち地官の教化行はれず、國本の傷殘益甚だしく、黔首に怨を取るは、是れ皇風を黷すなり。況んや諸道の征する賦租は、數額多くと雖も、時に水旱に逢ひ、或は蟲霜に遇へば、其の間には則ち減有りて添無く、所在又逃係欠を申す。乃ち軍儲官俸に至るまで、常に汲汲として供須に在り、夏稅秋租は、每に懸懸として繼續を懸く。況んや今内外の倉庫は、多くは罄空に在り、遠近の生民は、或は饑歉を聞く。伏して惟ふに朝廷尚ほ軍額を添へ、更に師徒を益す。非時の博糴は為し難く、異日の區分は轉た大なり。竊に年支闕有り、國計憂ふ可きを慮る。伏して陛下に望むは、例外の破除を節し、諸項を放ちて以て儉省し、冗食を添へず、且つ新兵を止め、急に繁を去り務めて、以て經費を寬げ、奢を減じて儉に從ひ、漸く豐盈を俟たんことを。則ち屈する者は恩を知り、叛く者は化に從ひ、兵を弭するに日有り、俗を富ます可く期す可し。

臣又聞く、民を治むるには尚ほ清く、政を為すには務めて易し。易しければ則ち煩苛並び去り、清ければ則ち偏黨施す無しと。若し其の良牧を擇び、正人に委ねば、則ち境内の蒸黎は必ず蘇息を獲、官中の倉庫も亦た侵欺を絶つ。伏して望む、見在の處官を誡めて、俗を撫でるに乖かる無からしめ、将来の事に蒞るを擇び、更に賢を求むるを審かにせんことを。儻し一一人を得ば、則ち農苦しむ所無く、人人理を致せば、則ち國復た何をか憂へん。但だ公を奉じ善政する者は、重酬を惜しまず、理を昧みて功無き者は、厚俸を頒つ勿れ。有道を益彰し、兼ねて情に徇ふを絶たん。伏して陛下に望む、臣が布露の前言を念ひ、臣が後患に驚憂するを閔み、臣の愚直を察し、彼の讒邪を杜たんことを。臣即ち但だ天心に副ひ、人口を防がず、萬一に庶幾くば、聖明に仰ぎ答へん。

末帝は優詔を以て之に答え、便殿に召して之に謂ひて曰く、「卿の論奏する所は、深く時病に中り、形は切言に在りて、頗る朕が失を救ふ。國計の事重し、日を逐ひて商量す可し、過慮する勞れ無かれ」と。延朗已むを得ずして命を承けた。

延朗は心計有り、繁劇を理むるに善し。晉高祖こうそ太原に在りし時、朝廷猜忌し、積聚有らしむるを欲せず、係官の財貨は留使の外、延朗悉く之を遣り取らしめ、晉高祖深く其の事を銜む。晉陽兵を起すに及び、末帝親征を議す、然れども亦た浮論を采り、果決する能はず。延朗獨り眾議を排し、末帝の北行を請ひ、識者は之を韙とす。晉高祖洛に入り、台獄に送りて以て之を誅す。其の後選びて計使を求むるも、其の人を得難く、甚だ之を追悔せり。

劉延皓は応州渾元の人である。祖父の建立、父の茂成は、いずれも軍功により推されて辺将となった。延皓は即ち劉后の弟である。末帝が鳳翔に鎮した時、延皓を元随都校に任じ、検校戸部尚書を加えるよう奏上した。清泰元年、宮苑使に任じ、検校司空を加えた。まもなく宣徽南院使・検校司徒しとに改めた。二年、枢密使・太保に遷り、出て鄴都留守・検校太傅となった。延皓は軍を統御するに政を失い、屯将の張令昭に逐われ、相州に奔り出で、まもなく詔してその任を停めた。及び晋高祖が洛に入ると、延皓は龍門広化寺に逃げ匿れ、数日にして自ら縊死した。延皓は初め后戚として藩邸より出入りし左右にあり、甚だ温厚と称せられたので、末帝が嗣位した後、近密に委ねられた。大名に出鎮するに及んで、その執るところ一変し、人の財賄を掠め、人の園宅を納れ、歌僮を聚めて長夜の飲をなし、三軍の給する所を時にせず、内外これに怨み、令昭に逐われる因となった。時に執政は延皓の失守を以て、旧章を挙行するを請うたが、末帝は劉后の内政の故を以て、ただ罷免に従うのみとし、これにより清泰の政弊れた。

劉延朗は宋州虞城の人である。末帝が河中に鎮した時、鄆城馬歩都虞候となり、後に腹心として納れられた。鳳翔に鎮するに及んで、孔目吏に任じた。末帝が起義を図らんとし、捍禦の備えをなすに当たり、延朗は公私の粟帛を計り、その急を贍った。西師が降を納れ、末帝が洛に赴くに及び、いずれも欠ける所なく、末帝は甚だこれを賞した。清泰初め、宣徽北院使に任じ、まもなく劉延皓が鄴を守るに及び、副枢密使に改め、累官して検校太傅に至った。時に房皓が枢密使であったが、ただ高枕閑眠し、啓奏除授は一に延朗に帰し、これにより得志した。凡そ藩侯郡牧、外より入る者は、必ず先ず延朗に賂り、後に進貢を議し、賂厚き者は先に内地に居り、賂薄き者は晩く辺藩に出で、故に諸将屡々怨訕あり、末帝はこれを察することができなかった。晋高祖が洛に入るに及び、延朗は将に南山に竄らんとし、従者数輩と共に、その私第を過ぎ、指して歎じて曰く、「我に銭三十万貫此に聚めり、何人の得る所となるかを知らず」と。その愚暗この如し。まもなく捕えてこれを殺した。