舊五代史

唐書四十四: 列傳二十 薛廷珪 崔沂 劉岳 封舜卿 竇夢徵 李保殷 歸藹 孔邈 張文寶 陳乂 劉贊

薛廷珪

薛廷珪は、その先祖は河東の人である。父の逢は、咸通年間に秘書監となり、才名をもって当時に著名であった。廷珪は、中和年間に西川において進士第に及第し、累進して台省の官を歴任した。乾寧年間に、中書舎人となった。天子が華州に在った時、散騎常侍さんきじょうじに改められ、まもなく致仕を請い、しょく川に客遊した。昭宗が洛陽らくように遷都した時、礼部侍郎として召された。時に柳璨が朝士を屠害し、衣冠の士はことごとくその毒に罹ったが、廷珪は平素より退譲を旨としたため、全うすることができた。梁に入って礼部尚書となった。荘宗が河南を平定した時、廷珪は年老いていたため、太子少師を以て致仕させられた。同光三年九月に卒した。右僕射を追贈された。著した『鳳閣詞書』十巻、『克家志』五巻は、ともに世に行われた。初め、廷珪の父の逢は、『鑿混沌』、『真珠簾』等の賦を著し、大いに当時の人に称賛された。廷珪が壮年となってからも、また賦数十篇を著し、同じく一つの集としたため、『克家志』と名付けたのである。

崔沂

崔沂は、大中年間の宰相魏公鉉の末子である。兄の沆は、広明初年にも宰輔となった。沂は進士第に挙げられ、監察御史、補闕を歴任した。昭宗の時、累進して員外郎、知制誥に至った。性質は高潔で道を守り、文藻は優れていなかった。かつて同舎の顔蕘、錢珝とともに筆を執ったが、蕘と珝が豊富で迅速に数十の制誥を草し、談笑を妨げないのを見て、沂は自ら恥じた。翌日、国相に謁して訴えて言うには、「沂は浅学であり、詞翰の職を供するに足りません」と。宰相はこれを認め、諫議大夫に移した。梁に入り、御史司憲となり、誤りを糾し違反を正し、豪族右族をも避けなかった。開平年間、金吾街使の寇彦卿が入朝し、天津橋を過ぎた時、市民の梁現が時を失して回避せず、前導の伍伯がこれを捕らえ、石欄に投げつけて死に至らしめた。彦卿は自ら前に出て梁祖に申し上げ、梁祖は通事舎人の趙可封に宣諭させ、私財を出して死者の家に与え、その罪を贖わせた。沂は上奏して弾劾し、「彦卿は人臣の位にあり、専殺の理はありません。まして天津橋は御路の要地で、正しく端門に対し、車駕の出入する途上であり、街使が怒りを震わす所ではございません。況や梁現が時を失して回避しなかった過ちは、鞭笞に止まるべきものです。首を捕らえ身を投げつけるとは、朝廷の法に深く背いております。法によって論ずることを請います」と言った。梁祖は彦卿を惜しみ、沂に過失として論ずるよう命じたが、沂は鬥競律を引き、勢力を恃むことを罪の首とし、下手を加えた者を一等減ずるとした。また、鬥毆条に、闘わずして故意に人を毆り傷つけた者は、傷罪より一等を加えるとある。沂の表が入ると、彦卿を責めて遊撃将軍、左衛中郎将に授けた。沂は剛直で法を守り、人士はこれを重んじた。左司侍郎に遷り、太常卿に改め、礼部尚書に転じた。貞明年間、本官を帯びて西京副留守を充任した。時に張全義は留守、天下兵馬副元帥、河南尹、六軍諸衛事を判じ、太尉、中書令、魏王を守り、名位の重さは中外に冠絶していた。沂が府に至ると、客将が副留守は廷礼を行うべきだと告げたが、沂は言った、「張公の官位は極めて重いが、なお府尹の名を帯びている。副留守が尹を見る儀礼がどのようなものか知らない」と。全義はこれを聞き、急いで沂を引見し、労って言った、「互いに礼がある。ともに老いたのだ、互いに煩わせるな」と。荘宗が唐室を興復すると、再び用いられて左丞となり、吏部尚書銓選司を判じたが、連座して石州司馬に貶謫された。明宗が即位すると、召還され、再び左丞となった。衰疾を以て老いを告げ、太子少保を以て致仕した。龍門の別墅において卒した。時に七十余歳であった。太子少傅を追贈された。

劉岳

劉岳は、字を昭輔という。その先祖は遼東襄平の人で、元魏が遼東を平定した時、代に家を移し、孝文帝に従って洛陽に遷り、遂に洛陽の人となった。八代前の祖の民部尚書渝国公政会は、武徳年間の功臣である。祖父の符は、蔡州刺史であった。父の珪は、洪洞県令であった。符には八人の子があり、皆進士第に登った。珪の同母弟に瑰、玕がおり、異母弟に崇夷、崇龜、崇望、崇魯、崇謨がいた。崇龜は、乾寧年間に広南節度使となった。崇望は、乾寧年間に宰相となった。崇魯、崇謨、崇夷は、ともに朝廷・省台を歴任した。岳は幼くして孤となり、また進士に擢第し、戸部巡官、鄭県主簿、直史館を歴任し、左拾遺、侍御史に転じた。梁の貞明初年、召されて翰林に入り学士となった。岳は文を為すに敏速で、特に談諧を善くし、在職中に累進して戸部侍郎となり、翰林に十二年いた。荘宗が汴に入ると、例に従って均州司馬に貶され、まもなく母の喪に服し、貶所より喪に奔ることを許され、服喪が終わると、太子詹事に任じられた。明宗が即位すると、兵部侍郎、吏部侍郎、秘書監、太常卿を歴任した。卒年五十六歳。吏部尚書を追贈された。岳は文学の外に、典礼に通じていた。天成年間、詔を奉じて『新書儀』一部を撰し、文は簡約で理に適い、今世に行われている。

岳の子 溫叟

子の溫叟は、御史中丞に至った。

封舜卿

封舜卿は、梁に仕えて礼部侍郎となり、貢挙を掌った。開平三年、幽州に使いとして赴き、門生の鄭致雍を従者とした。復命の日、また致雍とともに命を受けて翰林に入り学士となった。致雍は俊才があり、舜卿は文辞はあったが、才思は拙く澁滞しており、五題の試験に臨んで困弊に耐えられず、致雍に筆を執らせた。当時、これを譏る者は、座主が門生を辱しめたと見なした。荘宗の同光年間以来、累進して清要な顕官を歴任した。封氏は太和以来、代々両制の官に居り、文筆をもって当時に称された。舜卿の従子の渭は、昭宗が洛陽に遷都した時、翰林学士となり、舜卿は中書舎人となり、叔父と甥が内外の制誥を対掌した。

舜卿の従子 ぎょう

甥の竇翹は、梁の貞明年中にも翰林學士となった。天成年中、給事中となり、転對の際に上奏して、星辰が度合いに合い、風雨が時節に応じていることを以て、御前の香一合を請い、帝自ら一炷を焚き、残りは塔廟の中で焚かせ、精誠の至りを表すことを貴んだ。議する者は、翹が当時名族として推され、朝苑を出で、瑣闈に登り、甚だ岩廊の望みがあったのに、突然このような請いをしたのは、諸々の妖佞に近いものであるとし、人望はこれによって減じた。(案:以下欠落。)

竇夢徵

竇夢徵は、同州の人である。若くして苦心して文章を学び、進士に及第し、校書郎を歴任し、拾遺から召されて翰林に入り、學士を充てられた。梁の貞明年中、両浙の銭鏐に対する元帥の任命が加えられた。夢徵は、鏐が中原に対して功績がなく、兵権を虚しく授けるべきではないとし、その言葉は切直であった。梁の末帝は時忌に触れるとして、左遷して外任とした。(『玉堂閑話』:竇は銭公が本朝に功がなく、一方に僻在して坐して恩沢を邀い、この命に称さないとして、麻を抱いて朝で哭した。翌日、竇は東州の掾に謫された。)しばらくして、再び召されて學士となった。荘宗が汴に入ると、夢徵は例によって沂州に貶せられ、常に梁の末帝の旧恩を感じていたため、『故君を祭る文』を作って云うには、「嗚呼、四海九州、天は眷命を回らす、一女二夫、人の不幸なり。故を革して新たに鼎するに当たり、金の銷けて火の盛んなるが若し、必然の理、何ぞ競わんや」と云った。筆を執る者は皆これを称えた。尋ねて量移して宿州となった。天成初年、中書舎人に遷り、再び入って翰林學士・工部侍郎となった。卒し、礼部尚書を贈られた。(『玉堂閑話』:竇は失意して謫せられ、常に鬱々として楽しまず、かつて夢に人が謂うのを見た、「君自ら苦しむことなかれ、久しからずして故職に復すべし。然れども将来慎んで丞相となることなかれ、苟くもこの命あらば、万計を以てこれを避くべし。」その後、竇は再び禁職に居た。しばらくして、工部侍郎に遷った。竇は忽然として夢の中で言われたことを思い出し、深くその事を憎んだ。然れども既に命を受け、遜って避けることができず、間もなく果たして卒した。)夢徵が随計した秋、文は甚だ高く称され、特に箋啓に長じ、十巻に編み、目して『東堂集』とし、世に行われた。

李保殷

李保殷は、河南洛陽の人である。昭宗の朝、処士から太子正字に除され、銭塘県尉に改めた。浙東の帥董昌が推官に辟し、調補して河府兵曹参そうしん軍となり、長水令・『毛詩』博士を歴任し、累官して太常少卿・端王傅に至った。入って大理卿となり、『刑律総要』十二巻を撰した。兵部侍郎郗殷象と刑法の事を論じた。左降して房州司馬となった。同光初年、殿中監を授かり、その素より明法律の誉れ有るを以て、大理卿に拝された。満秩せず、人の制するところとなるに属した。保殷は云う、「人の多辟なる、立辟する無し」と。乃ち病を謝して帰り、洛陽で卒した。

帰藹

帰藹、字は文彦、呉郡の人である。曾祖父の帰登、祖父の帰融、父の帰仁沢は、位はいずれも列曹尚書・観察使に至った。藹は進士に及第し、朝に昇ると、三署を遍歴した。(案:以下に欠文疑わし。『旧唐書・昭宗紀』によれば、天祐元年七月、文思殿で宴した。朱全忠が入ると、百官ある者は廊下に坐し、全忠怒り、通引官何凝を笞った。丙寅、制して金紫光禄大夫・行御史中丞・上柱国韓儀を責授して棣州司馬とし、侍御史帰藹を責授して登州司戸とせしむ、百官が全忠に傲った罪による。)同光初年、尚書右丞となり、刑部・戸部二侍郎に遷り、太子賓客をもって致仕し、七十六歳で卒した。

孔邈

孔邈は、文宣王の四十一代孫である。身長七尺余、神気温厚であった。進士に及第し、校書郎・万年尉を歴任し、集賢校理を充てられ、諫議大夫となり、年老いて致仕した。(案:『孔邈伝』、原本欠落。『冊府元亀』を考うるに、乾寧五年、進士に及第し、校書郎を除された。崔遠が中書に在り、奏して万年尉とし、集賢校理を充てたが、親舅の独孤損が方に廊廟に在るため、嫌を避けて職に赴かなかった。)

張文宝

張文宝は、昭宗朝の諫議大夫張顗の子である。文宝は初め、河中の朱友謙に依って従事となった。荘宗が魏州で即位すると、文宝をもって知制誥とし、中書舎人・刑部侍郎・左散騎常侍・知貢挙を歴任し、吏部侍郎に遷った。文宝は性質雅淡で古を稽えた。長興初年、浙中に使いを奉じ、海を渡り船が壊れ、水工が小舟で救い、文宝は副使の吏部郎中張絢と共に信風に乗って淮南界に至り、偽呉の楊溥は礼待甚だ厚く、兼ねて厚く銭幣・食物を遺った。文宝はその食物を受け、その銭幣を返した。呉人はこれを善しとし、文宝らを送って再び杭州に至らせて国命を宣べさせ、青州に還り、卒した。

子の張吉は、嗣いで邑宰の位についた。

陳乂

陳乂は、薊門の人である。若くして学を好み、文章を属するに善かった。乱を避けて、浮陽に客し、転徙して大梁に至った。梁の将張漢傑が私邸に延いて、表して太子舎人を授けた。荘宗が梁を平らげると、郭崇韜が常山を遥領し、召して賓榻に居らせた。崇韜が魏王継岌に従って蜀を伐つに当たり、招討判官に署した。崇韜が死に、明宗が即位すると、任圜に随って帰闕し、圜がこれを朝に薦め、膳部員外郎・知制誥を除し、累遷して中書舎人となった。乂は性質陰僻で、人と合うこと寡く、当路の者と与せられなかった。尋ねて左散騎常侍に移り、これによって忿りて疾を成し、一月余りで卒した。

乂は微かに才術有り、嘗て自らその能を恃んだ。判官の日、人に造る者有れば、帷を垂れた深き処に在り、その面を見ることは稀であった。西掖に居るに及んで、姿態ますます倨り、位は遂に公卿に至らず、蓋し器度の促狭なる者である。然れども乂は性質孤執にして、特に財に廉であった。長興年中、嘗て舎人として命を銜み、太原において晋国公主石氏を冊した。晋の高祖こうそはこれを善く待遇したが、ただその高岸なるを訝った。人あるいは乂に献可して、宜しく一つの謳頌を陳べて晋の高祖の美を称し、その厚賄を邀うべしとす。乂は云う、「人生の貧富は、皆定分有り、未だ天子の命を持ちて礼に違いて利を求め、既に国綱を損ない、且つ士行を虧くこと有らず、乂は今生に為さざる所なり」と。聞く者これを嘉した。晋の高祖が即位すると、礼部尚書を贈られた。

劉贊

劉贊は魏州の人である。幼少より文才の素質があった。父の劉比は令錄となり、詩書を以て教え、夏には青い襦(短衣)の単衫を着せた。劉比は肉食するたびに、別に蔬食を置いて劉贊に食べさせ、これに謂いて曰く、「肉食は君の禄である。汝が肉を食わんと欲せば、心を苦しめて文芸に励むべし、自ずからこれを致すことができる。我が禄は分かつべからず」と。ここにより劉贊は冠する年齢に至って文辞に優れ、三十余歳にして進士第に登った。魏州節度使羅紹威は巡官に任じ、罷めて京師に帰り、開封尹劉鄩に寄寓した。久しくして、租庸使趙岩が表して巡官とし、累遷して戸部員外郎に至り、職はもとのままである。荘宗が汴に入ると、租庸副使孔謙は劉贊が同郷の者であることを以て、表して塩鉄判官とした。天成中、知制誥・中書舎人を歴任した。学士竇夢徵とは同年の進士で、隣り合わせて住み親しくし、夢徵が卒すると、劉贊は同年の楊凝式と共に緦麻(喪服)を着け位を設けて哭し、その家に嫡長なく、喪事を看取り、その寡婦と幼子を恤れみ、人士これを称えた。御史中丞・刑部侍郎に改めた。

劉贊の性質は雍和で、物と忤わず、官に居ては畏慎し、人もし私事を以てこれに干すも、たとえ権豪といえどもその操を移すことができなかった。未だ幾ばくもなく、秘書監に改め、兼ねて秦王傅となった。(《冊府元龜》に曰く、秦王が元帥となるとき、秦王府判官・太子詹事王居敏は劉贊と郷曲の旧交あり、秦王が盛年にして自ら恣にすることより、朝中より端士を選び誨えを納れ、その稟畏することを冀い、乃ち奏して劉贊を薦めた。)劉贊は節概貞素にして、忽ちその命を聞き、涙を掩いて固辞したが、竟に止めることができなかった。(案ずるに《通鑒》に、瓚(贊)自ら左遷を以てし、泣訴したが、免れるを得ず。胡三省の注に云う、唐の制、六部侍郎は吏部を除く外、皆従四品下;王傅は従三品。然れども六部侍郎は向用と為し、王傅は左遷と為すは、職事に閑劇の同じからざるによる。当の時、従栄(秦王)の地は儲副に居る。則ち秦王傅を以て閑官とすべからず。蓋し従栄が軽佻峻急なるを以て、その禍に預かるを恐れ、故に脱せんことを求めたるを言う。)時に秦王の参佐は、皆新進の小生にして、動くこと多く軽脱、毎に秦王の功德を称頌し、意に阿り旨に順い、ただ談笑を奉ずるのみ。ただ劉贊のみが従容として諷議し、必ず嘉言を献じた。秦王は常に賓僚及び遊客を接見し、酒筵の中において、悉く筆を秉り詩を賦せしめた。(《冊府元龜》に曰く、時に従栄は篇章に溺れ、凡そ門客及び通謁の遊士は、必ず客次に坐し、自ら題目を出し、一章を賦せしめ、然る後に接見した。)劉贊は師傅たりと雖も、亦諸客と混じ、然れども容状悦ばず。秦王その意を知り、ここより典客に戒め、劉贊の至るを通さず、每月一度衙に至らしめた。(《言行龜鑒》に載す、劉贊秦王に諫めて曰く、「殿下は宜しく孝敬を職とすべく、浮華は尚ぶ所に非ず」と。秦王悦ばず、閽者に戒めて後引進せしめず。)劉贊は既に官王府に係り、朝参せず、慶弔を通ぜず、ただ関を閉ざし喑嗚するのみであった。及び秦王罪を得ると、或いは劉贊はただ朝降に止まると言うも、劉贊は既に麻衣を服し驢乗を備えて門に在った。その言うを聞くに曰く、「豈に国君の嗣にして、一朝に挙室塗地し、而して賓佐朝降し、死を免るるを得んや、幸いなり」と。俄かに台史勅を示し、長流して嵐州とし、即時に貶所に赴いた。嵐州に在ること一年余り、清泰二年春、詔して田里に帰す。妻の紇幹氏は塗中に卒し、劉贊は比来羸瘠にして、慟哭殆ど絶え、これにより亦病み、行くこと石会関に及びて卒した。時に年六十余り。

史臣曰く

史臣曰く、唐の祚横流してより、衣冠地を掃し、苟も端士無くば、孰れか素風を恢めん。廷珪の文学、崔沂の剛正、劉岳の典礼、舜卿の掌誥、及び夢徵以下、皆蔚として貞規有り、懿範を虧かさず、固より以て搢紳の圭表と為し、朝廷の羽儀を聳すべく、これを以て名を垂るる、夫れ何ぞ韙ならざらん。