豆盧革は、祖父の籍は同州刺史、父の瓚は舒州刺史であった。(『宣和書譜』に云う:その世系を失う。)革は若くして乱離に遭い、鄜州・延州に避難し、転じて中山に入った。王処直がこれを礼遇し、幕下に辟召し、奏記の誉れがあった。牡丹の会で詩を賦し、桑柘を意とするよう処直を諷諫し、言葉は甚だ古雅で、次第に器重され、節度判官に転じた。しかし家を治める法がなく、ただひたすら処直に請謁し、処直は政務に欠けがあるか、何か規諫があるかと慮り、笏を整えて出迎えたが、それは寵愛する者のために軍職を請うことであった。
天祐の末、荘宗が即位せんとし、輔相を求めると、盧質が名家の子としてこれを推挙し、行台左丞相に征召・拝任された。同光の初め、平章事に拝された。廟堂に登ってからは、事柄は多く錯乱し、官階の擬議に至っては前後が倒置し、しばしば省郎の蕭希甫に駁正され、革はこれを改めたが、難色を示さなかった。荘宗が汴・洛を平定した初め、革は韋説を引薦し、事体に通暁し、己と功を同じくすることを期待した。説が登用されると、また流品にこだわり、挙止が軽佻で、怨みは革に帰した。また革・説の子はともに拾遺に任じられ、父子が同官となり、人に刺され、遂に員外郎に改めて任じられた。革は説の子の濤を宏文館学士に請い、説は革の子の升を集賢学士に請い、恩を交易し、市井のごとくあり、識者はこれを醜とした。革は宰相となって以後、賢を進め能を勧めることを務めとせず、ただ修練に事とし、長生の術を求め、かつて丹砂を服用し、数日嘔血し、死に瀕して癒えた。
子の升は、官は検校正郎に至り、金紫を服し、尋ねてまた削奪された。(『宝晋斎法書賛』に豆盧革の『田園帖』を載せる。云う:大徳が一つの居処を欲し、畿甸の間に旧より田園なく、鄜州には雖も三両処の庄子あり、百姓が租佃すること多年に及び、累ねて令公大王の書を請い、却って人戸に給還す。蓋し疲民を侵奪せんと欲せず、兼ねて無知の輩の妄りに影庇包役する有るを慮るなり、云々。嶽珂曰く:この帖は乃ち僧と往還する書なり。その強藩を畏れ罪罟を避くるは、蓋し淵氷に栗栗たり。然るにその後、卒に故縦田客を以て夜郎に貶せらるるは、正に畏るる所に坐す。信なるかな、乱邦の居るべからざるを。是の時、鄜を拠るは乃ち高万興、官は検校太師・中書令、北平王に封ぜらる。即ち革の所謂「令公大王」なる者なり。官は故に梁より授かり、唐命は維新なり。然るに顓麵正朝する者、褫鞶の誅を致す能わず、却って貢秉旄の佞を窃む。唐の競わざる、自ら来る有り。)
韋説は、福建観察使岫の子なり。(案:以下に闕文あり。)荘宗が汴・洛を平定すると、説は趙光允と同制で平章事に拝された。説は性謹重で、職を奉じて常に事端を造らなかった。時に郭崇韜が政を執り、説らは承順するのみで、政事の得失について措言するところ無かった。初め、或る者が崇韜に言うに、銓選が濫りを過ぎ、選人或いは他人の出身の銜を取り、或いは父兄の資緒を取り、令史と囊橐して罔冒すると。崇韜は乃ち条奏して其事を挙げた。その後、郊天の行事官数千人、多くは告敕が偽濫し、因って去留を定め、告身を塗り毀す者甚だ衆く、選人は都門の外で号哭した。議者もまた積弊累年、一旦に澄汰すること細かすぎ、惟新含垢の意を失うを懼れた。時に説は郭崇韜と国列に並び、執りてこれを止むる能わず、頗る物議に遭った。説の親党がこれに告げると、説は曰く、「これは郭漢子の意なり」と。崇韜が罪を得るに及んで、説は流言の鐘するを懼れ、乃ち門人の左拾遺王鬆・吏部員外郎李慎儀らに上疏せしめ、云く、「崇韜は往日専権し、故実に閑かず、仕進の門を塞ぎ、善を奨むるの道に非ず」と。疏は中書に下り、説らが覆奏し、深く崇韜を詆り、識者はこれを非とした。また王傪という者あり、多岐をもって事を取り、説に賄賂を納め、説はその名が祖諱に犯すを以て、遂にこれを「操」と改め、近甸に官を擬した。明宗が即位するに及んで、説は常に身の危うきを慮り、毎に任圜に庇を求め、常にこれを保護した。説の居に井あり、昔は隣家とこれを共にし、因って鄙雑を嫌い、外に垣を築いた。隣人がこれを訟え、希甫に疏論せられ、井に貨財有りと為し、本人を案ずるに、惟だ破釜一所有りと称するのみで、却って虚妄を招いた。初め叙州刺史に貶し、尋ねて夷州司戸参軍を責授された。
初め、説は江陵に在り、高季興と相知り、中書に入ってからも、常に信幣を通じた。西蜀を討つに及び、季興は峡内を攻めることを請い、荘宗はこれを許し、「もし三州を得ば、属郡と為さん」と。西川が既定すると、季興は尺寸の功も無かった。明宗が纘承するに及び、季興は頻りに三郡を請い、朝廷は已むを得ずしてこれを与えた。革・説が方に中書に在り、亦その議に預かった。季興が占拠するに及んで、独りその罪に帰し、合州に流された。明年の夏、詔して曰く、「陵州・合州の長流百姓豆盧革・韋説は、頃に先朝に在り、擢でて重任に居らしむ。公を欺き物を害し、貨を黷し官を売る。静かに惟うに肇乱の端は、更に容れ難き事有り。且つ夔・忠・万の三州は、地は巴蜀に連なり、路は荊蛮を扼す。皇都の弭難の初めに藉り、逆帥の僭求の勢いに徇い、予の視聴を罔し、率意に割移す。将に千の土疆を以て、狡穴を開通し、両川の兵賦を動かし、経年禦捍す。朕をして戈を偃ぐす遂げしめず、猶ほ運策を煩わす。近くは西方鄴、要害を復すと雖も、高季興は尚ほ窠巢を固くし、吾が旰食の憂いを増し、職として爾らの朋奸の計による。而して又自ら貶所に居り、継いで流言を出す。苟くも刑戮の稽時せば、忠良を何の地に処せん。宜しく逐処の刺史に監せしめて自尽を賜うべし」と。(『欧陽史』:説の子の濤は、晋の天福初め、尚書膳部員外郎となり、卒す。)
盧程は、唐朝の名族である。祖父は懿、父は蘊で、代々高官を歴任した。程は、天復の末年に進士に及第し、崔魏公が塩鉄使を兼ねた際に巡官に任じられた。昭宗が洛陽に遷都すると、柳璨が名族を陥れたため、程は河朔に避難し、燕・趙の地を客遊し、時に道士の服を着て、藩鎮の長官に謁見したが、人々は彼を知らなかった。豆盧革が中山に客遊し、王処直に寄寓し、盧汝弼が太原に来た。程は革・弼と共に皆、朝廷の名族で旧知であったため、往来して革に寄寓したが、処直の待遇が厚くなかったので、太原に投じた。汝弼がそのために名声を広めたので、荘宗は推官に任じ、まもなく支使に改めた。程は偏狭で他に才能がなく、ただ門地を誇り、口に是非が多く、篤厚な君子は特に彼を軽んじた。
初め、判官王緘が従軍して文書を掌ったが、胡柳の役で、緘は軍中で没した。荘宗が太原に帰還し、公宴を開き、酒を挙げて張承業に言った。「私は今この席で書記官を一人選び、まずこの杯の酒で任命する。」即座に酒を巡官馮道に勧めたが、道は自分が選ばれたのは順序外れであるとして、酒を押し返して辞退した。荘宗は言った。「謙遜するな、卿に勝る者はいない。」当時、職位の序列に従って昇進すれば、程が書記となるべきであったが、汝弼もまたこれを支持した。程は職を失い、内心憤慨し、人に言った。「主上は人物を重んじず、田舎者を私の上に置かれた。」先に、荘宗が帳中で程を召して奏上文を起草させたことがあったが、程は言った。「成名を忝うするも、筆硯には慣れておりません。」このため、文書の選には程は及ばなかった。当時、張承業が河東留守の事を専断しており、人々は皆敬い畏れた。旧例では、支使が諸倉庫の出納を監督することになっていたが、程は承業に訴えて言った。「この事は私の得意とするところではありません。適任者をお選びください。」承業は彼を叱って言った。「公は文士を称しておきながら、すぐに文章を揮って筆を染め、覇国を助けるべきである。先に辞令の起草を命じた時は、自ら拙いと述べ、また留め置かれた職務についても、これを辞退するという。公のできることは何か。」程は涙を流して謝罪した。後に観察判官を歴任した。
荘宗が即位しようとした時、四鎮の判官の中で宰輔となれる者を求めた。当時、盧汝弼・蘇循が相次いで没し、判官盧質を用いるべきであった。質は性質が疎放で、重職を望まず、太原に留まることを求めた。そこで定州判官豆盧革を推挙し、次に程を推挙した。即座に詔を下して征召し、共に平章事に任じた。程は元より重器ではなく、急に顕位に登り、挙動が常ならなかった。当時、朝廷は創設されたばかりで、諸物が整わず、朝列は寂として、官署も多く欠けていた。程と革が任命を受けた日、早速かごに乗り、先払いの声が喧騒を極めた。荘宗が呵導の声を聞き、左右に尋ねると、「宰相の担子が門に入ります」と答えた。荘宗は驚き、楼に登ってこれを見て、笑って言った。「いわゆる似て非なるものというやつだ。」間もなく、程を使者として晋陽宮に派遣し、皇太后を冊立した。山路は険阻で、往復の道は遠かったが、程は安座してかごに乗り、通過する州県では、丁夫を駆り立て、長吏は迎え謁して輿の前で拝伏した。少しでも意に逆らうことがあれば、鞭打ちの辱めを加えた。
汴将王彦章が徳勝南城を陥落させ、楊劉を攻め争った時、荘宗は軍を統御して苦戦し、臣下はこれを憂い、皆宰相に申し出て、連名で諫め、自ら兵卒の先頭に立たないよう請おうとした。豆盧革が漢の高祖が広武に臨んだ故事(矢が胸に当たり、足に当たったと偽った)に言及すると、程は言った。「これは劉季(高祖)の失策である。」一同は首を縮めた。かつて近世の士族について論じた時、ある者が言った。「員外郎の孔明龜は、善和宰相(孔緯)の良き家系、宣聖(孔子)の子孫である。盛んなことではないか。」程は言った。「孔子の後裔であるに過ぎない。盛んかどうかは私には分からない。」親族で程に驢馬の御者を借りようとする者がいた。程は府に帖を出してこれを支給させようとしたが、府吏が「前例がありません」と訴えたので、程は怒って吏の背中を鞭打った。当時、任圜は興唐少尹で、荘宗の従姉婿であったが、その寵戚を頼みに、程を訪ねた。程はちょうど鶴氅を着て華陽巾を付け、机にもたれて政事を裁決しており、圜を見て怒って罵った。「こやつは何という蟲けらか、女の力を頼みにしているのか。宰相が府県から供給を受けるのは、旧来の慣例を知らぬというのか。」圜は何も言わずに退出し、その夜、博平に馳せ至り、荘宗に面会して訴えた。荘宗は怒り、郭崇韜に言った。「朕は誤ってこの痴物を宰相にしたが、朕の九卿を辱めるとは。」自尽を促すよう命じた。崇韜もまた怒り、事態は危うくなったが、盧質が身を横たえてこれを取り成したので、程は右庶子に降格された。荘宗が河南を平定した後、程は百官に従って洛陽に赴いたが、途中で落馬し、中風を病んで卒した。礼部尚書を追贈された。
趙鳳は、幽州の人である。若くして儒学を修めた。唐の天祐年間、燕の帥劉守光が管内の丁夫を全て徴発して軍兵とし、その顔に黥を施したため、儒者はこれを憂い、多くは僧となって避けた。鳳もまた髪を落として太原に至った。間もなく、劉守奇に従って梁に奔った。梁は守奇を博州刺史に任用し、鳳を判官に上表した。(案:以下に欠文あり。)鄆州節度判官となった。唐の荘宗は鳳の名を聞き、彼を得て甚だ喜び、護鑾学士とした。後に荘宗が即位すると、鳳を中書舎人に拝した。汴に入ると、礼部員外郎に改めて任じられた。荘宗と劉皇后が張全義の邸に行幸した時、后が奏上して言った。「妾は五、六歳で父母を失い、老人を見る度に尊親を思い泣いておりました。全義は年徳が高いので、妾は父として仕え、孤女の心を慰めたいと思います。」荘宗はこれを許し、鳳に命じて全義に上奏する箋を作り、往来の儀礼を定めさせた。鳳は上書して極諫したが、聞き入れられなかった。天成の初め、端明殿学士を設置すると、鳳は馮道と共にその職に任じられた。当時、任圜が宰相であったが、安重誨に傾けられ、罷相して磁州に帰った。朱守殷が汴州で反乱を起こすと、駅伝を馳せて圜に自尽を賜った。その後、鳳は泣きながら安重誨に言った。「任圜は義士である。君父に仇をなす逆謀を企てるだろうか。このような濫刑では、どうして国を安んじられよう。」重誨は笑って責めなかった。この冬、権知貢挙となった。
鳳の性質は豁達で、財を軽んじ義を重んじた。凡そ士友で窮厄を訴える者がいれば、必ずその資産を傾けて与えたので、人士はこのことを多く称えた。
李愚、字は子晦。自ら趙郡平棘の西祖の後裔を称し、家世は儒を業とす。父の瞻業は進士に応じ及第せず、乱に遇い、渤海の無棣に家を移し、詩書をもって子孫を訓う。愚は童齔の時、謹厳にして常児に異なり、年長じて方に学を志し、経史を遍く閲す。晏嬰の為人を慕い、初めは晏平と名乗る。文を為すに気格を尚び、韓・柳の体有り。志を励み端荘、風神峻整、礼に非ざれば言わず、行い苟且ならず。愚は初め艱貧を以って、仮官を求めて為さしめられ、滄州の盧彦威は安陵簿に署す。憂に丁し、服闋し、計に随い長安に之く。関輔の乱離に属し、頻年に挙を罷め、蒲・華の間に客す。光化中、軍容の劉季述・王奉先は昭宗を廃し、裕王を立てること五月余り、諸侯に奔問する者無し。愚は時に華陰に在り、華帥の韓建に書を致し、その略に曰く、「仆は関東の一布衣に過ぎず、幸いに書を読み文を為し、君臣父子の際に、教を傷げ義を害する事ある毎に、常に心を痛め歯を切り、腸を抽き血を蹀するを得ずして、市朝に肆することを恨む。明公は近関の重鎮に居り、君父幽辱すること月余り、凶逆を坐視し、而して勤王の挙を忘るるは、仆の未だ諭せざる所なり。仆窃かに計るに、中朝の輔弼は、志有りと雖も権無く、外鎮の諸侯は、権有りと雖も志無し。惟だ明公の忠義、社稷の依る所なり。往年、車輅播遷し、号泣して奉迎し、累歳供饋し、再び朝廟を復し、義は人心を感し、今に至るまで歌詠す。此時の事勢、尤も前に異なり、明公は地は要衝に処り、位は将相を兼ね、宮闈の変故より已に旬時を渉る。若し号令を率先して、以って反正を図らずんば、遅疑未決、一朝山東の侯伯義を唱え連衡し、鼓行して西せば、明公自ら安からんことを求むるも、如何に策を決せん!此れ必然の勢なり。四方に檄を馳せ、逆順を諭すに若かず。軍声一たび振わば、則ち元凶胆を破り、浹旬の間に、二豎の首天下に伝わる。計、此より便なるは無し」と。建は深く礼遇すと雖も、堅く辞して山に還る。天復初、駕は鳳翔に在り、汴軍蒲・華を攻む。愚は難を避け東に帰り洛陽す。時に衛公李徳裕の孫延古は平泉の旧墅に在り、愚は往きて依る。子弟親しく梠を採り薪を負い、以って朝夕を給し、未だ人に干ること無し。故少師薛廷珪の貢籍を掌る歳、進士第に登り、又宏詞科に登り、河南府参軍を授かり、遂に下居して洛表の白沙の別墅に住む。
梁に禅代の謀有り、柳璨は旨に希い朝士を殺害す。愚は衣冠の自ら相残害するを以って、乃ち河朔に地を避け、宗人の李延光と山東に客す。梁末帝位を嗣ぎ、雅に儒士を好み、延光は素より款奉し、禁中に侍講を得、屡に愚の行高く学贍なること、史魚・蘧瑗の風有るを言う。召見し、嗟賞すること久しく、左拾遺に擢る。俄かに崇政院直学士を充て、或いは諮謀に預かるも、儼然として正色、強禦を畏れず。衡王朝に入り、重臣の李振の輩皆致拜す。惟だ愚は長揖す。末帝之を譲りて曰く、「衡王は朕が兄なり。朕猶お致拜す。崇政使李振等皆拝す。爾何ぞ傲なるや」と。対えて曰く、「陛下は家人の礼を以って兄とす。振等は私臣なり。臣は朝列に居り、王と素無し。安んぞ諂って事えん」と。其の剛毅此の如し。晋州節度使華温琪は任に在りて法に違い、民家の財を籍す。其の家朝に訟う。制使之を劾し、罪に伏す。梁末帝は先朝草昧の臣を以って、法を加うるに忍びず。愚は堅く其の罪を按ず。梁末帝詔して曰く、「朕若し鞫窮を与えざれば、予の赤子を念わざるを謂わん。若し或いは遂に典憲を行わば、予の功臣を念わざるを謂わん。爾が君たる者、亦た難からずや。其れ華温琪の受くる所の贓は、宜しく官に給して代わり還し所訟の家にすべし」と。貞明中、通事舎人の李霄の傭夫、僦舎人を毆ちて死に致す。法司律を案ずるに、罪は李霄に在り。愚白して曰く、「李霄は手を以って闘毆せず。庸夫の死に致す、安んぞ其の主を坐せんや」と。是を以って旨に忤う。愚は拾遺より再び遷りて膳部員外郎となり、緋を賜い、司勲員外郎に改め、紫を賜う。是に至りて職を罷め、許・鄧の観察判官を歴る。
長興の季年、秦王恣横し、権要の臣、禍を避くるに暇無く、邦の存亡、敢えて言う者無し。愚は性剛介、往々にして言に形す。然れども人に唱和する者無し。後、門下侍郎に転じ、国史を監修し、吏部尚書を兼ね、諸儒と『創業功臣伝』三十巻を修成す。愚は初め第を治めず、既に相と為るを命ぜられ、官に延賓館を借りて之に居る。嘗て疾有り。詔して近臣に宣諭せしめ、之を中堂に延べ、席を設くるに惟だ筦秸のみ。人をして之を言わしむ。明宗特に帷帳茵褥を賜う。(『職官分紀』に云う、長興四年、愚病む。明宗中使を遣わして宣問す。愚の居る所の寝室、蕭然として四壁、病榻弊氈のみ。中使其の事を具言す。帝曰く、「宰相の月俸幾何ぞ。而して委頓此の如し」と。詔して絹百匹・銭百千・帷帳什物一十三事を賜う。)
閔帝が位を継ぐと、志して徳政を修め、易月の制が除かれるや、早速に学士を招いて『貞観政要』『太宗実録』を読ませ、治世を致さんとする意があった。
愚はひそかに同列に謂いて曰く、「我が君が招いて訪ねることは、我ら輩に及ぶことが少ない。位高く責重く、事また憂うべきものがある。宗社を如何にせんか」と。皆息をひそめて敢えて言わず。恩例により位を進めて左僕射となる。
清泰初年、徽陵の礼が終わり、馮道が同州に出鎮すると、愚は特進・太微宮使・宏文館大学士を加えられる。
宰相劉昫は馮道と婚姻の家であった。道が出鎮した後、両人は中書に在り、旧事で不便なものは改革を要するが、対論して定まらなかった。
愚の性は峻烈すぎて、因って曰く、「この事は賢家の翁の為したところ、これを改むるもまた便ならずや」と。昫はその言の切なるを憾み、ここにおいて毎言必ず相折難し、あるいは喧呼に至る。
幾ばくもなく、両人ともに罷相して本官を守る。