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舊五代史
唐書三十八: 列傳十四 孟方立 張文禮 董璋
孟方立
孟方立は(『歐陽史』には邢州の人とあり、『通鑒』には汧州の人とある)、中和二年に澤州天井關の戍将となった。時に黄巢が關輔を犯し、州郡の帥は交代し、博奕の如き有様であった。先に沈詢・高湜が相次いで昭義節度使となったが、軍政を怠った。やがて帰秦・劉廣の乱が起こると、方立は潞帥交代の際に乗じて無備を衝き、戍兵を率いて直ちに潞州に入り、自ら留後を称した。邢を府とし、審誨に潞州を治めさせた(案:この二句の上下に脱文がある。今は再び考うるに由なし)。六月、李存孝が洺・磁の両郡を下すと、方立は馬溉・袁奉韜を遣わし、その衆を尽く率いて琉璃陂にて逆戦した。存孝はこれを撃ちて尽く殱し、馬溉・奉韜を生け捕りにした。初め、方立は性苛急にして恩は下に及ばず、攻囲累旬の後、夜自ら城を巡って慰諭したが、守陴の者皆倨んで従わなかった。方立はこれを用い得ざるを知り、乃ち鴆を飲んで卒した。
その従弟の洺州刺史の遷は、平素より士心を得ていたので、衆は推して留後とし、汴に援を求めた。時に梁祖は時溥を攻めており、援兵は出さなかった(『通鑒』に云う:全忠は大将王虔裕に精甲数百を将いて、間道より邢州に入り共に守らせた)。大順元年、遷は王虔裕等を捕えて降伏を乞い、武皇は安金俊を代わらせた(案『孟方立伝』は原本闕佚なり。『新唐書』列伝を考うるに云く:孟方立は邢州の人なり。初め澤州天井の戍将となり、稍く遊奕使に遷る。中和元年、昭義節度使高鄩が黄巢を撃ち、石橋に戦いて勝たず、華州に保つ。裨将成鄰に殺され、還って潞州を据う。衆怒り、方立は兵を率いて鄰を攻め、これを斬る。自ら留後を称し、擅に邢・洺・磁を裂いて鎮とし、邢を治めて府とし、昭義軍と号す。潞人は監軍使呉全勖に兵馬留後を治めさせんことを請う。時に王鐸は諸道行営都統を領し、潞未だ定まらざるを以て、墨製をもって方立に仮に檢校左散騎常侍・兼御史大夫・知邢州事を授く。方立受けず、全勖を囚え、書を以て鐸に請い、儒臣を得て潞を守らしめんことを願う。鐸は参謀・中書舍人鄭昌図をして昭義留事を治めさせ、遂に帥とせんと欲す。僖宗自ら旧宰相王徽を用いて節度を領せしむ。時に天子は西に在り、河・関雲擾し、方立は地を擅にし、李克用は潞州を窺う。徽は朝廷の制し能わざるを度り、乃ち固く昌図を譲る。昌図治むること三月に満たずして輒ち去る。方立更に李殷鋭を表して刺史とし、潞は険にして人悍し、数えずして大帥を賊し乱を為すと謂い、之を銷懦せんと欲し、乃ち治を龍岡州に徙す。州の豪傑は遷を重んじ、懟言有り。会に克用が河東節度使となり、昭義監軍祁審誨は師を乞いて昭義軍を復せんことを求む。克用は賀公雅・李筠・安金俊の三部将を遣わして潞州を撃たしむるも、方立に破られる。又李克修をして攻め敗らしめ、殷鋭を殺し、遂に潞州を併せ、克修を表して節度留後とす。初め、昭義は潞・邢・洺・磁の四州有り。是に至り、方立自ら山東の三州を以て昭義とし、朝廷も亦克修に命じ、潞州の旧軍をこれに畀う。昭義に両節有るは此より始まる。克修は字を崇遠と曰い、克用の従父弟なり。馳射に精しく、常に征伐に従い、左営軍使より擢て留後と為り、進みて檢校司空と為る。方立は朱全忠を倚りて助けと為す。故に克用は邢・洺・磁を撃つこと歳虚しからず、地は鬥場と為り、人稼すること能わず。光啓二年、克修は邢州を撃ち、故鎮を取り、武安を進攻す。方立の将呂臻・馬爽は焦岡に戦い、克修に破られ、斬首万級、臻等を執り、武安・臨洺・邯鄲・沙河を抜く。克用は安金俊を以て邢州刺史と為し、之を招撫す。方立は王鎔に兵を丐う。鎔は兵三万を以て之に赴き、克修還る。後二年、方立は部将奚忠信に兵三万を督して遼州を攻め、金を以て赫連鐸を啖い連和す。会に契丹が鐸を攻め師期を失い、忠信は其の兵を三分し、鼓して行く。克用は険に伏兵し、忠信の前軍没し、既に戦いて大敗し、忠信を執る。余衆走りて脱し、帰する者纔かに十二なり。龍紀元年、克用は李罕之・李存孝をして邢を撃たしめ、磁・洺を攻む。方立は琉璃陂に戦い大敗し、其の二将を禽え、斧[钅質]を被り、邢の壘に徇りて呼びて曰く「孟公速やかに降れ。其の首を斬る者有らば、三州節度使を仮せん」と。方立は力屈し、又州残墮に属し、人心恐る。性剛急にして下を待つに恩少なく、夜自ら陴を行く。兵皆倨して労を告ぐ。自ら顧みて復振すべからざるを知り、乃ち還りて鴆を引きて自殺す。従弟の遷は素より士心を得、衆推して節度留後と為し、全忠に援を請う。全忠は方に時溥を攻め、即ち至らず。王虔裕に精甲数百を将いて之に赴かしめ、羅宏信に仮道を請うも許さず。乃ち間を趨って邢州に入る。大順元年、存孝復た邢を攻む。遷は邢・洺・磁の三州を挈きて降り、王虔裕三百人を執って之を献ず。遂に遷を太原に遷し、安金俊を表して邢・洺・磁団練使と為し、遷を以て汾州刺史と為す。『歐陽史』に云く:天復元年、梁は氏叔琮を遣わして晉を攻め、天井関を出づ。遷は門を開いて降り、梁兵の郷導と為りて以て太原を攻むるも克たず。叔琮の軍還りて潞を過ぎ、遷を以て梁に帰す。梁太祖其の反覆を悪み、之を殺す)。
張文礼
張文礼は燕の人なり。初め劉仁恭の裨将となり、性凶険にして奸謀多く、辞気庸下、人と交言するに癖として不遜にあり。少より長に至るまで、専ら異謀を蓄う。劉守文に従いて滄州に至り、偏師を将とすることを委ねられる。守文が父を省みんとして燕薊に赴く際、城を据えて乱を為す。敗れて後、王鎔に奔る。鎔が政事を親しまざるを察し、曲く当権者に事えて以て衒達を求む。毎に鎔に対し自ら将才有りと言い、孫・呉・韓・白も己が若くは莫しとす。鎔は其の言を賞し、給遺甚だ厚く、因りて録して義男と為し、姓を賜い名を徳明と曰う。是より毎に兵を将せしむ。柏鄉の戦勝の後より、常に莊宗の行営に従う。素より書を知らず、亦方略無く、唯だ懦兵の中に上将を萋菲し、甲は進退を知らず、乙は軍機を識さずと言い、此を以て軍人推して良将と為す。
初めに、梁の将楊師厚が魏州に在った時、張文礼は趙兵三万を率いて夜間に経城・宗城を掠め、貝郡を侵した。師厚は先に歩騎数千人を率い、唐店に伏兵を設けた。文礼は大いに掠奪して引き返し、兵士は皆甲を巻き兵を束ね、夜に凱歌を歌い、唐店に至ったところ、師厚の伏兵が四面より包囲し、殺戮すること殆んど尽くし、文礼は単騎で辛うじて免れた。爾来なお諸将に対し大言を吐くが、或る者が譲って曰く、「唐店の功績は、多く伐ち誇るに足らず」と。文礼は大いに慚じた。鎮州に在ること既に久しく、その政荒れ人僻むを見て、常に異図を蓄え、酒酣の後、左右に対し毎に悪言を泄らし、聞く者寒心せざるはなかった。ただ王鎔は少しも猜疑の間隙なく、漸く腹心となり、乃ち符習を以てその行営に代え、文礼を防城使と為し、此より専ら間隙を伺う。及んで鎔が李宏規を殺し、政をその子昭祚に委ねるに至る。昭祚の性は逼戾にして、未だ人間の情偽を識らず、平素名を養い持重を以てし、坐して貴人と為り、事権を手にすること既にして、朝夕その父に代わらんと欲し、向より勢に附くの徒、族滅せざるはなかった。
初めに、李宏規・李藹が権を執り事を用い、親旧を樹立し、要職を分董した故に、奸宄の心は揺るがす能わず、文礼は頗る深く畏憚した。及んで宏規が殺されると、その部下五百人は罪を懼れ、将に奔竄せんとし、聚り泣き偶語し、未だ之く所なし。文礼はその離心に因り、密かに奸辞を以て之を激して曰く、「令公は我に命じて爾曹を尽く坑せよとす。我は爾らが十余年戈を荷いて我に随い、家の為国為にせるを念う。我若し即ち爾らを殺さざれば、則ち令公に罪を得ん。我若し言わざれば、又爾ら輩に負く」と。衆軍皆泣く。是の夜乱を起こし、王鎔父子を殺し、挙族灰滅し、ただ王昭祚の妻朱氏を留めて梁人に通じ、尋いで間道より梁に告げて曰く、「王氏は乱軍に喪えり。普寧公主恙無し」と。文礼は賊帥張友順の請いに徇い、因って留後と為り、潭城に於いて事を視る。事を以て上聞し、兼ねて節旄を要し、尋いでまた箋を奉りて進を勧む。荘宗は姑く含容を示し、乃ちその請いを可とした。
文礼は比するに廝役の小人、驟く人上に居り、行歩動息、皆自ら安からず。出づれば則ち千余人露刃相随い、日々に不辜を殺し、道路目を以てし、常に我が師の罪を問うを慮り、奸心百端。南は朱氏に通じ、北は契丹を結び、往往その使を擒獲するも、荘宗は人を遣わして送還し、文礼は是より愈々恐る。是の歳八月、荘宗は閻宝・史建瑭及び趙将符習等を遣わし、王鎔の本軍を率いて進討せしむ。師興るや、文礼は疽を病み腹に発し、及んで史建瑭が趙州を攻め下すを聞き、驚悸して卒す。その子処瑾・処球は秘して喪を発せず、軍府内外、皆之を知らず、毎日寝宮に問安す。処瑾はその腹心韓正時と参決して大事を謀り、同謀して奸悪を為す。初め、文礼の疽未だ発せざりし時、挙家咸に鬼物を見、昏瞑の後或いは歌い或いは哭き、又野河の色変じて血の如く、遊魚多く死し、水上に浮かぶ。識者は其の必ず敗るるを知れり。
十九年三月、閻宝は処瑾に敗られ、荘宗は李嗣昭を以て之に代う。四月、嗣昭は流矢に中られ、尋いで師に卒す。李存進を命じて継がしむ。存進も亦戦歿す。乃ち符存審を北面招討使と為し、鎮州を攻む。是の時、処瑾の危蹙日増しに甚だし。昭義軍節度判官任圜馳せて城下に至り、禍福を以て諭す。処瑾は陴に登り誠を以て告げ、乃ち牙将張彭を遣わし款を行台に送る。俄にして符存審の師城下に至る。是の夜、趙将李再豊の子衝、縋を投げて以て王師を接ぐ。故に諸軍城に登り、遅明して畢く入り、処瑾・処球・処琪を獲、並びにその母及び同悪人等を、皆足を折りて行台に送る。鎮人は請いて醢にして之を食らう。又文礼の屍を発し、之を市に磔く。
董璋
董璋は、本より梁の驍将なり。幼くして高季興・孔循と俱に豪士李七郎に事えて童僕と為る。李は初め名を譲と曰い、常に厚賄を以て梁祖に奉り、梁祖寵愛し、因って仮子と為して畜い、姓を朱と賜い、名を友譲と曰う。璋既に壮くして、梁祖の帳下に隷するを得、後に軍功を以て列校に遷る。梁の龍徳末、潞州の李継韜、款を梁に送る。時に潞将裴約方に兵を領いて沢州を戍り、継韜の命に徇わず、城を拠りて以て自ら固む。梁末帝は璋を遣わし沢州を攻め陥れ、遂に沢州刺史を授く。是の歳、荘宗汴に入り、璋来朝す。荘宗素よりその名を聞き、優に以て之を待つ。尋いで令して却って旧任に赴かしめ、歳余にして代わり帰る。時に郭崇韜国に当たり、璋を待つこと尤も厚し。同光三年夏、命じて邠州留後と為し、三年秋、正しく旄鉞を授く。九月、大いに挙りて蜀を伐ち、璋を行営右廂馬歩都虞候と為す。時に郭崇韜は招討使と為り、凡そ軍機有れば、皆璋を召して参決せしむ。是の冬、蜀平ぐ。璋を以て剣南東川節度副大使と為し、節度事を知らしむ。天成初、検校太傅を加う。二年、同平章事を加う。
是の時安重誨国に当たり、人の邪謀を采り、孟知祥は必ず国家の使に為らざるを言い、惟だ董璋の性忠義なるを以て、特ち寵任し、令して知祥を図らしむべしと。又璋の子光業は宮苑使と為り、朝に在って勢援を結托し、争って璋の善、知祥の悪を言う。恩寵既に優なる故に、璋益々その暴戾を恣にす。初め、東川に奉使する者、皆璋の朝廷に恭ならざるを言う。四年夏、時に明宗将に郊天を議せんとし、客省使李仁矩を遣わし詔を齎して両川に示諭し、又安重誨を遣わし書を璋に馳せ、以て貢奉を征し、五十万を以て数と約す。既にして璋は地狭く民貧しきを訴え、十万を貢するを許すのみ。翌日、璋は衙署に於いて宴を設け以て仁矩を召す。日既に中るも至らず、璋は人をして之を偵わしむ。仁矩方に倡婦を擁し賓友と驛亭に於いて酣飲す。璋大いに怒り、遽かに数百人を領し、戈戟を執持し、驟に驛中に入り、令して其の門を洞開せしむ。仁矩惶駭し、閣中に走り入り、良久にして引出さる。璋坐し、仁矩を階下に立たしめ、戟手して罵りて曰く、「我が魏博都監と作る時、爾は通引小将たり。其の時の去就、既に等威有り。今日我は藩侯と為り、爾は君命を銜み、宿りて筵席を張り、比するに使臣と為る。保んぞ午に至らざるに敢えてし、自ら風塵に共にして耽酗するや。豈に王事に対し此くの如く不恭なるべけんや。隻だ西川の客省使李嚴を斬り解くが如く、我が公を斬る能わざるを謂うや」と。因って肘腋に目し、執拽せしめんと欲す。仁矩涕涙して拝告し、僅かにして免るるを得。璋乃ち騎を馳せて衙に入り、竟に饌を徹して召さず。洎んで仁矩復命するに及び、益々璋の不法を言う。未だ幾ばくもなく、重誨奏して仁矩を以て閬州団練使と為し、尋いで節鎮に升す。
その年秋、詔を下し璋の現職官爵を削奪し、天雄軍節度使石敬瑭を東川行営招討使とし、師を率いてこれを討たしむ。璋の子宮苑使光業並びにその一族は、ともに洛陽にて斬らる。石敬瑭が師を率いて進討するに及び、糧運続かず、師を班す。明宗は方に懐柔に務むるにより、西川進奏官蘇願・東川軍将劉澄を放ち各々本道に帰らしめ、別に詔旨なく、ただ「両務安を求む」と云うのみ。時に孟知祥、その骨肉京師に在る者俱に恙無かりしにより、使者を遣わし璋に報じ、連表して謝せんと欲す。璋怒りて曰く、「西川は弟侄を存し得て、遂に再び朝廷に通ぜんと欲す。璋が児孫は已に黄泉に入れり、何の謝かあらん」と。ここより璋は知祥の己に背くを疑い、隙を構え始む。三年四月、璋は率いる所の兵万余りを以て知祥を襲う。知祥は諸将と師を率いてこれを拒ぎ、漢州の弥牟鎮に戦う。璋の軍大いに敗れ、数十騎を得て、復た東川に奔る。先に、前陵州刺史王暉は璋に邀えられ、東川に寓居す。至るに璋の敗に因り、衆を率いてこれを害し、その首を西川に伝う。