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舊五代史
唐書三十七: 列傳十三 安金全 安元信 安重霸 劉訓 張敬詢 劉彥琮 袁建豐 西方鄴 張遵誨 孫璋
安金全は代北の人である。代々辺境の将軍を務め、若い頃から勇猛果敢で、騎射に巧みであった。武皇(李克用)の時に騎将となり、しばしば征討に従った。荘宗(李存勗)が潞州を救援し河朔を平定した際には、いずれも戦功があり、刺史を歴任し、老病のため太原に退居した。天祐年間、汴(後梁)の将軍王檀が軍勢三万を率い、荘宗が鄴にいる隙に乗じて并州を襲撃した。当時、城内には守備兵がなく、敵軍が突然到来したため、監軍の張承業は大いに恐れ、どうすべきか思案に暮れた。諸司の丁匠を点検し、城壁に登らせて防禦に当たらせた。外からの攻撃が甚だ急であったので、金全は急いで出て承業に言うには、「老いぼれは退居して病を抱え、軍事を担当するには堪えません。しかし我が王家の一族はここにおり、王業の本拠地であります。もし一朝にして敵の所有するところとなれば、大事は去ります。どうか武庫の鎧甲をお授けください。貴公のために賊を防ぎます」と。承業は直ちにそれを授けた。金全は鎧を着て馬に跨り、子弟や退閑した諸将を召集し、数百人を得た。夜に北門を出て、羊馬城内で賊を撃ち、梁軍は驚いて潰走し、これによって退却した。やがて石君立が潞州から到着し、汴軍は退走した。金全が奮戦しなかったならば、城は危うかったであろう。荘宗は性質として功績を誇り、大将が功を立てても、時を置かずに賞を与えなかったので、金全は荘宗の世が終わるまで、名声と地位は進まなかった。明宗(李嗣源)は彼と旧知であり、即位すると、金全に同平章事を授け、振武軍節度使に充てた。在任二年、民を治め政を行うことは得意ではなかったため、詔によって朝廷に赴かせ、まもなく病没した。二日間、朝儀を停止した。初め、南北が対峙していた時、汴の遊騎がしばしば出撃するたびに、必ず金全に捕らえられたので、梁の偵察兵は皆恐れ、彼を「安五道」と呼んだ。これは鬼将に五道という名があるのに比したものである。
子の審琦らは、皆方鎮の地位に至り、別に伝がある。
審通は、金全の甥である。幼少より荘宗に仕え、数々の戦功を重ね、先鋒指揮使に転じた。同光初年、北京右廂馬軍都指揮使となり、奉化軍に駐屯した。四年の春、明宗の急詔に応じ、軍を夷臒に向け、前鋒となった。天成年間の初め、単州刺史を授かり、斉州防禦使に改め、諸道先鋒馬軍都指揮使を兼ねた。詔を奉じて北征し、房知溫に従って盧台に営を置いた。時に龍晊の部下の兵が乱を起こし、審通は酒宴の席から身を抜き、舟を奪って渡河し、騎士に急いで馬に鎧を着せ、乱兵が南へ行くところを追い、ことごとくこれを殺戮した。功により検校太傅・滄州節度使を授かった。中山で王都を包囲した際、自ら矢石を冒し、飛来する石に当たって卒した。太尉を追贈された。
安元信は、字を子言といい、代北の人である。父の順琳は、降野軍使であった。元信は将軍の一族の子として、騎射に巧みで、幼少より武皇に仕え、黄巣・蔡州の平定に従った。光啓年間、吐渾の赫連鐸が雲中を侵すと、武皇は元信にこれを防がせたが、元信は居庸関で敗北した。武皇は性質が厳しく急であったので、元信は帰還できず、遂に定州に奔った。王処存は彼を厚く待遇し、突騎都校に用いた。乾寧年間、処存の子の郜が位を嗣いだ。時に梁軍が河朔三鎮を攻撃し、救援に奔走する暇がなく、梁の将軍張存敬の軍が突然城下に至った。既に前もっての備えがなく、郜は恐れて一族を率いて太原に奔り、元信はこれに従った。武皇は以前と同様に待遇し、鉄林軍使に用いた。梁の将軍氏叔琮が河東を攻撃した時、別将の葛従周が馬嶺から侵入したが、元信は楡次に伏兵を置き、その前鋒を挫いた。梁の将軍李思安が上党を攻撃した時、王師(晋軍)は高河に陣を構えようとしたが、梁軍に逼迫された。別将の秦武者は、特に敵い難い者であったが、元信はこれと戦い、これを斃した。これによって梁軍は解囲して去り、城塁を築くことができた。武皇は自らの乗馬と細かな鎧・兵器を賜い、突陣都将に遷した。荘宗が晋王の位を嗣ぐと、元信は上党救援に従い、夾寨を破り、沢州・潞州を回復し、功により検校司空・遼州刺史を授かり、玉鞭と名馬を賜った。柏郷の戦役では、日が暮れて戦いが酣であった時、元信は重傷を負い、荘宗自ら臨んで薬を塗った。その年、検校司徒・武州刺史に改め、内衙副都指揮使・山北諸州都団練副使を充てた。荘宗に従って魏博を平定し、博州刺史に移った。梁と徳勝渡で対峙した時、元信は右廂排陣使となった。まもなく、大同軍節度使となった。荘宗が河南を平定すると、横海軍節度使に移任された。時に契丹が辺境を侵犯したので、元信は霍彦威と共に明宗に従って常山に駐屯した。元信は功績を恃み、しばしば明宗の前で成敗や勇怯について彦威を戯れ侮ったが、彦威は敢えて答えなかった。明宗は言った、「成功は天地によるのであって、人によるのではない。かつて氏叔琮が太原を包囲した時、貴公に何の勇があったか。今、国家の運が興り、我らを富貴に至らしめたのである」。小さな勝ちや小さな手柄を口に掛けて、年長者を笑いものにするな、と。元信はそこで起立して謝罪し、二度と彦威を戯れることはなかった。明宗が即位すると、元信がかつて内衙都校であったことから、特に厚く待遇し、同中書門下平章事を加えた。翌年、徐州に移鎮した。王師が高季興を討伐した時、襄州帥の劉訓が軍期を遅延させたので、元信を山南東道節度使に移任して劉訓に代えさせた。一年余りして、帰徳軍節度使に改め、就任のまま兼侍中を加えた。明宗が病に伏せると、入朝を求めた。末帝(李従珂)が即位すると、潞州節度使を授け、検校太尉を加えた。清泰三年二月、病気のため任地で卒した。時に七十四歳。太師を追贈された。晋の高祖(石敬瑭)が即位すると、元信が宿望ある者であったので、礼官に命じて諡を定めさせ、忠懿とした。
子は六人あり、長男は友権といい、諸衛大将軍を歴任した。次男は友親といい、滁州刺史となり、任地で卒した。
安重覇は、雲州の人である。性質狡猾で、智謀計算が多い。初め、代北から明宗と共に武皇に仕えたが、罪を負って梁に奔った。梁においてもまた罪を負って蜀に奔り、蜀では蕃人が騎射に優れているため、親将とされた。蜀の後主王衍は、幼年にして位を襲い、その政務は多く偏っていた。宦官の王承休が宮中で権勢を振るい、成都尹の韓昭と内外で結託し、専ら声色を選び採ることで、寵幸を固めた。武臣の宿将らは、常日頃から歯ぎしりして憤った。重覇は承休に諂い事えて、特に信任を受けた。梁の末年に、岐下(李茂貞)が弱体化すると、蜀人は秦州・成州・階州などを奪取し、重覇は承休に秦州の鎮守を求めるよう説いた。さらに軍中から山東の勇猛な者を選抜し、数千人を得て、龍武都と号し、承休を軍帥とし、重覇をその副将とし、共に天水にいた。一年余りして、承休は節度使の地位を求めようと、隴西の花木を献上し、また秦州の山水の美しさ、人物の盛んなことを称え、後主の行幸を請うた。そして韓昭がこれを賛成した。
同光二年十月、蜀主は数万の兵を率いて剣閣より出で、興州・鳳州を経て秦州に遊幸せんとす。興州に至り、魏王継岌の軍の来るに遇い、狼狽して引き返す。承休は急に東軍の討伐に入るを聞き、大いに恐れ、計略の出づる所なく、重霸に問う。対えて曰く、「開府何ぞ患えん。蜀中の精兵は十万人に下らず、咫尺の険あり、安んぞ済わざらんや。仮に東軍がことごとく狼虎の如くとも、豈に剣門に入らんや。然れども国家に患いあり、開府は特に主君の知遇を受けし者、奔赴に失するを得ず。この州の製置は事定まり、得失の憂いなし。重霸は開府に従って闕に赴かんことを願う」と。承休は平素よりこれを信じ、忠赤と為す。重霸は秦州の金帛を出して群羌を賄い、州の山路を買って蜀に帰る。承休は龍武軍及び招置の兵僅か一万人を擁して従い行き、重霸に権らしく部署を握らしむ。州人は祖送し、秦州の軍もまた部隊を列ねる。承休が乗に登るや、重霸は馬前に辞して曰く、「国家は事力を費やし尽くして隴西を収獲す。もし開府に従って南行せば、隴州は即時に疏失せん。請う、開府は自ら行かれよ。重霸は暫く国のために藩を守らん」と。承休既に去り、重霸は秦州に在り、明宗が河北に起つを聞き、即時に使者を遣わして秦・成等の州を以て来降す。天成初め、用いて閬州団練使と為す。未だ幾ばくもなく、召し還されて左衛大將軍と為る。常に奸佞を以て人の主意を揣み、明宗は特にこれを愛す。長興末、明宗は侍臣に謂いて曰く、「安重霸は朕が故人、秦州を以て国に帰す、その功小さからず。団練防禦を以て酬いるは、恐らくは懐来の道に非ざらん」と。範延光曰く、「将校の内に河東・河北より陛下の龍飛に従いし故人あり、尚お未だ団防に及ばざる者有り。今若し急に重霸に方鎮を授けば、恐らくは人の窃に議する所と為らん」と。明宗悦ばず。未だ幾ばくもなく、竟に同州の節鉞を以てこれを授く。清泰初め、移して西京留守・京兆尹を授く。先ず是れ、秦・雍の間、令長が酒食を設け、部民に私かに丐うことを、俗にこれを「搗蒜」と謂う。重霸の長安に鎮するに及び、またこれを為す。故に秦人は重霸を目して「搗蒜老」と為す。その年の冬、雲州節度に改む。居ること暫くして、病を以て代を求め、時に家は上党に寄せり。帰りて而して卒す。重霸は人を悦ばすことを善くし、賂遺を好む。時人はこれを目して俊と為す。
弟の重進は、特に凶悪なり。荘宗に事え、試剣を以て人を殺し、淮南に奔る。重霸は蜀に在り、これを蜀主に聞かしめ、呉よりこれを取り、裨将として用う。重霸に随って龍武小将と為り、長道に戍し、また人を殺し、洛陽に奔り帰る。
重霸の子を懷浦と曰う。晉の天福中、禁軍指揮使と為る。契丹が澶州を寇すに臨み、陣に臨んで忸怩たるを以て、景延廣に誅せらる。
劉訓、字は遵範、隰州永和の人なり。行伍より身を起こし、初め武皇に事えて馬軍隊長と為り、漸く散将に至る。河中の王氏昆仲に戈を尋ぬるの役有るに属し、訓は史儼に従って陝州を攻む。武皇が王行瑜を討つに、訓を以て前鋒と為し、後に河中に隷し、隰州防禦都将と為る。居ること暫くして、陝州刺史を殺し、郡を以て荘宗に帰す。瀛州刺史を歴任す。同光初め、左監衛大將軍に拝す。三年、襄州節度使を授かる。四年四月、洛陽に変有り、訓は私忿を以て節度副使胡裝を害し、その家を族滅す。聞く者これを冤とす。天成中、荊南の高季興叛く。詔して訓を南面行營招討使と為し、荊南行府事を知らしむ。是の時、湖南の馬殷、舟師を以て会せんことを請う。王師の荊渚に至るに及び、殷の軍は方に岳州に到る。仍って意を訓に伝え、軍儲弓甲の類を助けんことを許す。久しきに及び、略々至る者無し。荊渚の地気は卑湿にして、漸く霖潦に及び、糧運継がず、人多く疾疫に罹る。訓は元より将略無く、人皆これを苦しむ。孔循の至るに及び、襄の小校の竹龍の術を献ずるを得、及び竹龍二道を造り、城下に傅くも、竟に済う所無し。遂に兵を罷め、将士をして居民を散略して回らしむ。詔して訓を闕に赴かしめ、尋いで責めて檀州刺史を授け、続いて勅して濮州に安置す。未だ幾ばくもなく、起して龍武大將軍と為し、尋いで建雄軍節度使を授け、移って延平に鎮す。卒して太尉を贈らる。
張敬詢、勝州金河県の人、代々振武軍の牙校と為る。祖父の仲阮は勝州刺史を歴任し、父の漢環は武皇に事えて牙将と為る。敬詢は武皇の時に当たり、専ら甲坊を掌ること十五年、称職を以て聞こゆ。また女を武皇の子存霸の妻と為し、益々親信を見る。荘宗即位し、沁州刺史と為す。秩満し、また用いて甲坊使と為す。荘宗が山東を経略するに、敬詢は軍に従い、博・澤・慈・隰の四州刺史を歴任す。同光末、耀州団練使を授かる。郭崇韜の蜀を征するに、敬詢の租賦を督むるに善きを以て、乃ち表して利州留後と為す。明宗即位し、正しく昭武軍節度使を授く。天成二年、詔して京師に還し、また大同節度使を授く。鎮に至り、室韋万余帳を招撫す。四年、征して左驍衛上將軍と為す。明年、滑州節度使を授く。河水の連年堤を溢すを以て、乃ち酸棗県界より濮州に至るまで、堤防を広く一丈五尺、東西二百里にし、民甚だこれを頼む。三年、秩満して京に帰り、卒す。視朝を一日輟む。
劉彥琮、字は比德、雲中の人也。武皇に事え、累ねて征役に従う。先ず是れ、絳州刺史王瓘叛く。武皇は彥琮に言い、意これを致さんと欲す。幾ばくもなく、汾・晉の郊に略するに従い、彥琮は絳に奔る。瓘はこれが己に附くものと為し、これを待つこと甚だ厚く、因って騎将と命ず。会うこと瓘出でて狩するに、馳驅の際に於いて、彥琮は刃を以て瓘の首を来たりて献ず。武皇は甚だこれを奇とす。荘宗に従って上党の囲みを解く。同光初め、稍々遷って鐵林指揮使・磁州刺史に至る。後、明宗が京師に難に赴くに、華州留後を授け、尋いで正しく節旄を授く。天成三年、左武衛上將軍に改む。未だ幾ばくもなく、陝州節度使に改め、尋いで邠州に移鎮し、鎮に於いて卒す。時に年六十四。太傅を贈らる。
袁建豐は、武皇(李克用)が黄巣を破った時に華陰で得た者で、年齢はわずか九歳であった。その精神の爽やかで聡明な様子を愛で、養育させた。成長するにつれて左右に列し、さらに騎射を習得し、鉄林都虞候に補された。邠州の王行瑜を破るに従い、功績により左親騎軍使に遷り、突騎指揮使に転じた。荘宗に従って上党の包囲を解き、柏郷の陣を破り、累功により右僕射・左廂馬軍指揮使に遷った。明宗が内衙指揮使となると、建豊はその副となった。北の劉守光を討つに当たり、常に士卒の先頭に立ち、都教練使に転じ、蕃漢副総管を権知した。荘宗が鄴に入ると、その心腹の幹才として選ばれ、魏府都巡検使となった。劉鄩征討に従い、衛州・磁州・洺州を陥落させる功績があり、検校司空を加えられ、洺州刺史を授かった。臨洺の西で梁の将軍王遷の数千人を破り、生け捕りにした将領は七十余人に及び、まもなく相州刺史に拝された。河上の地に赴き征討し、胡柳陂の戦いに参じた。建豊は相州の軍士を率い、行営が外にあったため、州の事務を小人に委ね、撫育統御を誤り、指揮使孟守謙が城を拠って叛いた。建豊は兵を率いて討伐し平定した。隰州刺史に改められ、任地で風痹を患った。明宗が帝位を嗣ぐと、かつて副将であった旧誼を思い、詔を下して洛下に赴かせ、自らその邸宅に幸し、厚く慰撫し、検校太傅を加え、遥かに鎮南節度使を授け、俸給を請わせて自ら給することとした。後に洛陽で卒去した。享年五十六。一日朝を廃し、太尉を追贈された。
子の可鈞は、皇朝(後唐か)に仕え、諸衛大將軍の位に至った。
西方鄴は、定州満城の人である。父の再遇は、州の軍校であった。鄴は軍中にあり、勇力をもって知られた。二十歳の時、南に黄河を渡り梁に遊んだが、用いられず、再び帰った。荘宗は孝義軍指揮使とし、累次征伐に従い、いずれも功績があった。同光年間、曹州刺史となり、州兵を率いて汴州に駐屯した。明宗が魏州より南に黄河を渡った時、荘宗は東幸して汴州にいた。汴州節度使孔循は二心を抱き、北門で明宗を迎え、西門で荘宗を迎え、供給する帳幕や物資の蓄えをすべて同じくし、「先に至った者に入らせる」と言った。鄴はそこで循を責めて言った、「主上は梁室を破り、公に不殺の恩がある。どうして総管(明宗)を受け入れようとして国に背くのか」。循は答えなかった。鄴は循が争うべからざることを推し量り、石敬瑭の妻(明宗の娘)が当時汴にいたので、彼女を殺して人心を堅固にしようとした。循はその謀りごとを知り、彼女を取って自宅に隠したので、鄴はどうすることもできなかった。そして明宗がすでに汴に及んだので、麾下の兵五百騎を率いて西に向かい荘宗を迎え、汜水で謁見し、嗚咽して涙を流した。荘宗もまたこれにため息をつき、兵を先鋒とさせた。荘宗は汴西に至ったが、入ることができず、洛陽に還り、弑逆に遇った。明宗が洛に入ると、鄴は馬前で死を請うた。明宗は久しく賞賛し嘆息した。翌年、荊南の高季興が叛くと、明宗は襄州節度使劉訓らを遣わして招討させ、また東川の董璋を西南面招討使とし、そこで鄴を夔州刺史に拝し、璋の副とし、兵を率いて三峡より出撃させた。やがて劉訓らは功なくして罷免され、諸将は皆罷められたが、董璋は出兵せず、ただ鄴のみが単独で夔州・忠州・万州の三州を奪取した。そこで夔州を寧江軍とし、鄴を節度使に拝した。やがてさらに帰州を奪取し、数度季興の兵を破った。鄴は武人であり、なすところ多く法度に中らず、判官の譚善達が数度鄴を諫めた。鄴は怒り、人を遣わして善達が金を受け取ったと告げ、獄に下した。善達は元来剛直であり、言葉がますます不遜であったので、遂に獄中で死んだ。鄴は病にかかり、善達が祟りをなすのを見て、鎮所で卒去した。
張遵誨は、魏州の人である。父は宗城県令であり、羅紹威が牙軍を殺した年に、梁軍に害された。遵誨は太原に奔り、武皇は牙門将とした。荘宗が山東を平定すると、遵誨は典客として従い、幽州・鎮州二府の馬歩都虞候を歴任した。同光年間、金吾大將軍となった。明宗が即位すると、任圜の保薦により、西都副留守・知留守事・京兆尹を授かった。天成四年、入朝して客省使・守衛尉卿となった。南郊の祭祀を行おうとするに当たり、修儀仗法物使となった。初め、遵誨は自ら歴任して尹や長官の位にあり、安重誨とも平素から親しく交わり、衷心節度使の地位を望んでいた。郊祀が終わると、ただ絳州刺史に止まり、鬱々として楽しまなかった。京を離れる日、白衣で馬に乗り、隼旟の下にあり、郡に着いてからも病なく、翌日に卒去した。
孫璋は、齊州歴城の人である。行伍の間より身を起こし、梁の将軍楊師厚の麾下に属し、次第に奉化軍使に補された。荘宗が鄴に入ると、累遷して澶州都指揮使となった。明宗が常山を鎮守する時、裨校に抜擢された。鄴の兵変の時、明宗に従って京師に難に赴いた。天成初年、趙州・登州二州刺史、齊州防禦使を歴任した。王都が中山を拠る時、璋は定州行営都虞候となり、賊が平定されると、検校太保を加えられた。長興初年、鄜州節度使を授かり、鎮所を罷め、洛陽で卒去した。享年六十一。太尉を追贈された。
史臣曰く、夫れ天地ここに晦まれば、則ち帝王ここによりて龍飛び、雲雷屯を構うれば、則ち王侯これによりて蟬蛻す。まことに乱世に遭い適い、雄図を奮うことを得たるによる。故に金全より以下、皆軍旅の功をもって、坐して藩閫の位に登り、名を簡冊に垂るるも、また貴ぶべし。ただ重霸は奸険をもって旄鉞を仗るは、蓋し数子の儔に非ざるなり。