舊五代史

唐書三十六: 列傳十二 李襲吉 王緘 李敬義 盧汝弼 李德休 蘇循

李襲吉は、自ら左相林甫の後裔と称し、父の図は洛陽らくよう令となり、これにより当地に家を定めた。襲吉は乾符の末に進士挙に応じたが、乱に遭い、河中に避難し、節度使李都に依り、塩鉄判官に抜擢された。王重榮が代わると、文士を好まず、時に喪乱の後、衣冠の士多くは汾・晉の間に逃難した。襲吉が旧友を訪ねて太原に至ると、武皇は府掾に任じ、榆社の宰として出させた。光啓の初め、武皇は上源で難に遭い、記室が斃れた。鎮に帰った後、奏を掌る者を召したが、多くは意に適わなかった。ある者が襲吉の文才を薦め、召して試みると意に適い、即座に掌書記に任じた。襲吉は博学で諸事に通じ、特に国朝の近事に詳しく、文を作るに精意を練り実を据え、動ねて典故に拠り、放縦することなく、羽檄や軍書は、文辞道理が宏壮で健やかであった。武皇が上源の難以来、梁祖と協わず、乾寧の末、劉仁恭が恩を負うなど、その間、是非を論じ、交わって聘問し答えたもの数百篇、警策の句は人口に播き、文士に称えられた。三年、節度副使に遷り、王行瑜討伐に従い、右諫議大夫を拝した。師が渭北に還ると、武皇は入覲を得られず、武皇のために違離表を作り、中に警句があって「穴禽翼あり、舜楽を聴きて猶来たるも、天路に梯無く、堯雲を望みて到らざる」と。昭宗はこれを覧めて嘉賞した。襲吉が入奏すると、詔を面して諭し、優れた賜物を特に与えた。その年十二月、師は太原に還り、王珂が夏陽渡に浮橋を架けた。襲吉は軍に従い、時に笮が断ち航が破れ、武皇は僅かに免れ、襲吉は河に墜ちたが、大いなる氷が足を承け、流れに沿って七八里、岸に還って止まり、救われて免れた。

天復の中、武皇は梁と修好を議じ、襲吉に命じて書を作り梁祖に贈らせた。書に曰く、

清徳と別れて、十余年、杯盤に失意し、剣戟に鋒を争う。山長く水闊く、二国の歓を追い難く、雁逝き魚沈み、久しく八行の賜を絶つ。比者、仆と公は実に宗姓を聯ね、元より恩行に忝くし、分を投じて深情、将に棲托を期し、馬上に交を論じ、朝端に美を薦め、仁賢に傾向し、未だ疏闕を省みず。豈図らんや、運は奇特に由り、謗は奸邪より起るを。毒手尊拳、幕夜に交相し、金戈鉄馬、明時に蹂躙す。狂薬其の失歓を致し、陳事は堪笑に止まる。今則ち皆貴位に登り、尽く中年に及び、蘧公も亦た非を知るを要し、君子何ぞ壮を用いるを労せん。今、公は貴きこと先ず列辟に、名は古人を過ぐ。合縦連衡、本務は家邦の計、地を拓き境を守るは、要は子孫の基を存す。文王は奔走の交を貴び、仲尼は損益の友を譚く、仆顧みて虚薄を慚じ、旧く眷私に忝くし、一言心に許せば、万死悔いず、壮懐忠力、猶他人に勝り、三光に盟し、願くは湯火に赴かん。公又た何ぞ終年敵を立て、懇意相い窺い、一時の襟霊に徇い、四郊の倦弊を取り、今日其の小衆を得、明日其の危牆を下し、弊師に遺鏃の憂無く、鄰壤に剣床の痛みを抱かん。又た悠悠の党の、妄りに聴聞を瀆すを慮る、仆の勇を韜み威を枕し、兵を戢え境を守るを見て、本末を量らず、誤って窺覦を致すを。

且つ仆、壮歳以前より、業て敵に陷り、殺戮を以て東作と為し、兼並を号して永謀とす。其の首めて師壇に陟り、躬て公兗を被るに及び、天子我を命じて群後と為し、明公我を許して下交とす。是を以て跡を斂めて人を愛し、兵を蓄えて徳を務め、燕薊を収むれば則ち其の故将を還し、蒲阪に入りて前言に負わず。況や五載兵を休め、三辺士を校し、鉄騎犀甲、雲の屯み穀の量るが如し。馬邑の児童、皆鋭将と為り、鷲峰の宮闕、咸く京坻と作す。年を問えば猶仁明に少なく、地を語れば幸いに険阻に依る、何の覘睹か有りて、便ち英聡を誤らん。

況や仆、戎に臨み兵を握り、粗く操断有り、屈伸進退、久しく心期に貯う。勝てば則ち三晉の民を撫し、敗れば則ち五部の衆を征し、長駆席卷し、首を反して戈を提げん。但だ中原に隳突するを慮り、公の後患と為り、四海群謗、尽く仁明に帰し、終に仆が一夫を見、仆が一馬を得ること能わざるを。鋭師儻しも失すれば、則ち整い難く、後艱を防ぎ請い、前好を存ぜんことを願う。矧んぞ復た陰山の部落は、是れ仆が懿親、回紇の師徒は、累ね外舎に従う。文靖は始畢の衆を求め、元海は五部の師を征す、寛言虚詞、猶或いは志を得たり。今、仆は積財を散じて勇輩を募り、宝貨を輦して義戎を誘い、其の密親を征し、美利を以て啗い、弦を控え馬に跨がる、寧くも数有らんや。但だ天朝に位を荷うに縁り、心を疲瘵に惻み、峨峨たる亭障、未だ戎を起こすに忍びず。亦た公の深く鄙懐を識り、英鑒を洞かに回らし、交を論じて憾を釈し、禍を慮りて心を革め、浮譚を聴かずして、以て覇業を傷けざらんことを望む。夫れ『易』は惟だ満を忌み、道は盈を貴ぶ、儻し勇を恃みて師を喪えば、盤を擎げて水を失うが如く、蛇を為し鶴を刻む、幸いに徊翔を賜え。

仆、少より褊心を負い、天より直気を与えられ、間謀詭論、誓って之を為さず。唯だ薬石の譚を将い、願くは金蘭の分に托さん。儻し愚衷未だ豁せず、彼の抱く猶迷わば、仮令三朝の威を罄き、九流の弁を窮くし、肝膈を回らし遣わすも、河清を俟つが如し。今者、簡を執り誠を吐き、願くは保鑒を垂れよ。

仆、眷私の睽隔より、翰墨往来し、或いは鄙詞有りて、稍く英聴を侵すも、亦た嘉論を承け、毎に罵言を賜う。歓を叙すは既に戈を尋ぬるに罷み、謗を焚くは幸いに其の筆を載するを蠲ち、窮うるは口に因り、楽しむは心を和するを貴ぶ、沈閼の嫌を祛ぎ、以て塤篪の好を復せんことを願う。今者、嚬分に卜し、人に因るを欲せず、専ら使乎を遣わし、直ちに鈴閣に詣らしむ。古えは兵交両地、使は其の間に在り、命を致命し辞を受く、幸いに前誌を存す。昔の賢は分を投ずるを貴び、義士は讎を屈するに難し、若し恩私を仰恋せずんば、安んぞ軽く肝膈を露わす可けん、淒淒たる丹愫、炳炳たる血情、紙に臨み風に向かい、千万述べ難し。

梁祖之を覧み、「毒手尊拳」の句に至り、怡然として敬翔に謂いて曰く、「李公は一隅に鬥絶す、安くか此の文士を得ん。吾が智算の如き、襲吉の筆才を得ば、虎に翼を傅うるが如し」と。又た「馬邑児童」「陰山部落」の句を読むに及び、梁祖は怒りて敬翔に謂いて曰く、「李太原は残喘余息、猶宇宙を気吞す、詬罵す可し」と。翔が報書を作るに及び、詞理勝れず、是により襲吉の名愈々重し。

広明の大乱の後、諸侯は各方面を割拠し、競って名士を招き、書檄を掌らせた。この時、梁には敬翔、燕には馬鬱、華州には李巨川、荊南には鄭準、(《唐新纂》に云う:鄭準は士族、未だ第せざる時、荊門上穀の蓮幕を佐け、飛書走檄は古人に譲らず、直きを秉り邪を去るは往哲に慚じず、考うるに準は成汭の書記となり、汭は上穀郡王に封ぜられる。)鳳翔には王超、(《北夢瑣言》:唐末、鳳翔判官王超は、李茂貞を推奉し、曹・馬の勢いを挟み、箋奏文檄を恣意に翱翔す。後に興元留後となり、害に遇い、『鳳鳴集』三十巻世に行わる。)銭塘には羅隠、魏博には李山甫あり、皆文名があり、襲吉と時に斉名す。

襲吉は武皇の幕府に垂十五年、事を視る暇に、唯だ書を読み文を業とし、手は巻を釈かず。性は栄利に恬淡、後進を奨誘し、己の能を以て物を格せず。府事に参決し、務めて公平に在り、賂遺を交えず、綽綽として士大夫の風概有り。天祐三年六月、風病にて太原に卒す。同光二年、礼部尚書を追贈さる。

王緘は、幽州の劉仁恭の故吏なり。少にして刀筆を以て記室に直り、仁恭は幕職を仮し、鳳翔に使わしむ。還りて太原を経るに、仁恭の命を阻むに属し、武皇これを留む。緘は堅く辞して復命せんとし、書詞稍々抗す、武皇怒り、獄に下して詰む、謝罪して命を聴く、乃ち推官に署し、歴て書記を掌る。(《契丹国誌・韓延徽伝》:延徽、契丹より晋に奔る、晋王これを幕府に置きて掌書記とせんとす、王緘これを嫉む、延徽自ら安からず、東帰して母を省むるを求め、遂に再び契丹に入り、晋王に書を寓し、北去する所以の意を叙す。且つ曰く「英主を恋わず、故郷を思わざるに非ず、留まらざる所以は、正に王緘の讒を懼るるが故なり」と。)山東を経略するに従い、制を承けて検校司空しくう・魏博節度使を授く。緘は博学にして文を属するに善く、燕薊には文士多く、緘は後生、未だ名を知られず、太原に在りてより、名位驟かに達す。燕人の馬鬱、郷里に盛名有り、而して緘は素より吏職を以て鬱に事う。鬱の太原に在るに及び、緘に謂いて曰く「公此に在りて文士と作るは、所謂る避風の鳥、魯人に賜を受くるなり」と。毎に公宴に於いて、但だ王緘と呼ぶのみ。十年、幽州征討に従い、既に仁恭父子を獲るや、荘宗は緘に命じて露布を作らしめ、其の旨趣を観る。緘は草を起し辞避する所無く、義士此を以て之を少くす。胡柳の役、緘は輜重に随いて前行し、乱兵に歿す。際晚、盧質還りて営す、荘宗副使の所在を問う、曰く「某酔いて之を知らず」と。既にして緘の凶問至る、荘宗流涕すること久しく、其の喪を得て、帰りて太原に葬る。

李敬義、本名は延古、太尉衛公徳裕の孫なり。初め父の煒に随い連州に貶せられ、赦に遇い還るを得たり。嘗て浙東に従事し、自ら言う、涿道士に遇い、之に謂いて曰く「子方に厄運有り、仕進に宜しからず」と。敬義悚然として対えて曰く「吾終に賤しく老ゆるか」と。涿曰く「此より四十三年、必ず聖王に遇い大任せらる、子其れ之を志せ」と。敬義以て然りと為し、乃ち仕宦に心無く、退きて洛南平泉の旧業に帰る。河南尹張全義に和せられ、歳時給遺特に厚く、其の門を出入し、幕職に署せんと欲すれども、堅く辞して就かず。

初め、徳裕の将相と為るや、王室に大いに勲有り、藩に出で輔に入り、累朝に綿歴す;洛陽を留守するに及び、終焉の志有り、平泉に別墅を置き、天下の奇花異竹・珍木怪石を採り、園池の玩と為す。自ら家戒序録を作り、其の草木の得たる処を誌し、石に刊し、云く「吾が片石を移し、樹の一枝を折るは、子孫に非ず」と。洎んで巢・蔡の乱、洛都灰燼かいじんと化し、全義は榛を披いて都邑を創す、李氏の花木は、多く都下に移掘せられ、樵人に鬻売せられ、園亭掃地す。醒酒石有り、徳裕酔うて即ち之に踞る、最も保惜する者なり。光化初、中使に全義軍を監する者此の石を得、家園に置く。敬義之を知り、泣いて全義に渭いて曰く「平泉の別業、吾が祖の戒約甚だ厳しく、子孫不肖、動もすれば先旨に違う」と。因りて全義に托し監軍に石を請わしむ。他日宴会、全義監軍に謂いて曰く「李員外泣告し、内侍が衛公の醒酒石を得たるは、其の祖の戒哀むべし、内侍能く回遺せざるや」と。監軍忿然として厲声に曰く「黄巢敗れたる後、誰が家の園池か完復せし、豈に独り平泉に石有るのみならんや」と。全義は始め黄巢の偽命を受けしを以て、己を詬ると思い、大怒して曰く「吾今唐臣と為り、巢賊に非ず」と。即ち奏を署して笞し斃さしむ。

昭宗洛陽に遷都し、敬義を以て司勲員外郎と為す。柳璨の裴・趙諸族を陥るるや、梁祖の旨に希い奏して云く「近年浮薄相扇ぎ、趨競風を成し、乃ち臥して軒冕を邀え、王爵を土梗の如く視る者有り。司空図・李敬義三度官を除き、望を養いて至らず、咸しく宜しく屏黜し、以て君に事うる者を勧むべし」と。翌日、詔して曰く「司勲史外郎李延古、世に国恩に荷い、両葉相位、幸いに筮仕より従い、累ね寵栄に忝うし、多く歳時を歴て、班列に趨かず。而して遷都卜洛より以来、紀律載張し、明庭を去ること遥かならず、別墅に処りて懼れ無く、報效を岡思せず、姑く便安を務む。臣たるの節斯くの如く、厥を貽すの謀何れにか在る!須らく懲責を加え、以て朝倫を粛すべく、九寺勾稽は、尚だ寛典と謂うべし、責授すべし衛尉寺主簿」と。司空図も亦前詔を追停し、閑適に従わしむ。図は、唐史に伝有り。(《旧唐書・哀帝紀》:六月戊申、前司勲員外郎・賜緋魚袋李延古を責授衛尉寺主簿とす。九月壬寅、前大中大夫・尚書兵部侍郎・賜紫金魚袋司空図を放還して中条山に還らしむ。蓋し延古と司空図は同時に劾せられ、其の降敕は則ち先後有り。)時に全義既に庇護能わず、乃ち密かに楊師厚に托し、敬義を潜かに往かしめて之に依らしめ、因りて族を挈き衛州に客居すること累年、師厚は給遺周厚なり。

十二年、荘宗が河朔を平定し、史建瑭が新郷を収めたとき、敬義は謁見した。この年、上は使者を遣わして敬義を魏州に迎え、北京留守判官を置き承制により工部尚書に拝し、王鎔に使者として赴かせた。敬義は遠祖が趙郡であったため、王鎔に会って郷里への敬意を示すと、王鎔は判官李翥を遣わして『讃皇集』三巻を贈り、前代の碑塚を拝謁させた。使いから戻り、太原の職務に帰った。監軍張承業は特に本朝の宰輔の子孫を快く思わず、敬義を甚だ薄遇し、時に公宴で面と向かって折檻し、時に徳裕の過悪を指摘したので、敬義は志を得ず、鬱憤して卒した。同光二年、右僕射を贈られた。

盧汝弼は、唐の昭宗景福年間に進士第に擢でられ、台省を歴任した。昭宗が秦から洛に遷都したとき、祠部郎中・知制誥であった。時に梁祖が唐室を凌ぎ弱め、衣冠(士大夫)を殄滅させたので、禍を懼れて河を渡り、上党より晋陽に帰った。初め、武皇が王行瑜を平定したとき、天子は承制により将吏に官秩を授けることを許した。この時、藩侯で倔強な者は多く偽って墨制を行ったが、武皇はこれを恥じて行わず、長吏は皆表授した。荘宗が晋王の位を嗣ぐと、承制により官吏を置き、また汝弼を得たが、符契の如く符合したので、これより除補の命は皆汝弼の手から出た。やがて畿内の官吏の考課議擬は奔走して門に満ち、賄賂の噂が多く聞かれ、士論はこれを軽んじた。帝が趙・魏を平定すると、汝弼は毎度請謁迎労し、必ず天命を陳説し、中興を顒俟したので、帝もまた宰輔として期待した。建国前に晋で卒した。

李徳休、字は表逸、趙郡賛皇の人である。祖父の絳は山南西道節度使で、唐史に伝がある。父の璋は宣州観察使である。徳休は進士第に登り、塩鉄官・渭南尉・右補闕・侍御史を歴任した。天祐初め、両京が喪乱すると、乃ち河朔に寓跡し、定州節度使王処直に辟かれて従事となった。荘宗が魏州で即位すると、御史中丞に征され、兵部・吏部侍郎に転じ、左丞を権知し、礼部尚書をもって致仕した。卒したとき年七十四。太子少保を贈られた。

蘇循、父は特、陳州刺史である。循は咸通年間に進士第に登り、累ねて台閣を歴任した。昭宗の朝、再び礼部尚書に至った。循は性、阿諛で、善く承順苟容し、以て進取を希った。昭宗が洛に遷都して以降、梁祖の凶勢は日増しに強まり、唐室の旧臣は陰に主辱の憤りを懐き、名族の胄は往々にして禍を避けて仕えぬ者があったが、唯だ循のみが旨に希い附会した。梁祖が淮南で失律し、西に寿春に屯したとき、少帝に九錫を授けんことを求めた。朝臣に是非を議する者もあったが、循は揚言して云う、「梁王の功業は顕大にして、歴数帰す所あり、朝廷は速やかに揖譲すべし」と。当時、朝士は梁祖を虎の如く畏れ、敢えて其の言に違う者無かった。明年、梁祖が禅位を逼ると、循は冊礼副使となった。梁祖が既に天命を受けると、元徳殿で宴し、酒を挙げて曰く、「朕が夾輔する日浅く、代徳未だ隆からず、朕を此に置くは、群公の推崇の意なり」と。楊涉・張文蔚は慚懼して対えず、謝するのみであった。循と張禕・薛貽矩は因って盛んに梁祖の徳業、天に応じ人に順うの美を陳べた。循は自ら冊を奉じた労を以て、旦夕に宰輔に居らんことを望んだが、敬翔は其の為人を悪み、梁祖に謂って曰く、「聖祚維新す、宜しく端士を選び、以て風俗を鎮むべし。循の等輩の如きは、倶に士行無く、実に唐家の鴟梟、当今の狐魅なり。彼は専ら国を売りて利を取る者、維新の朝に立つべからず」と。

初めに、蘇循の子の蘇楷は、乾寧二年に進士第に登第した。中使で奏上する者が云うには、「今年の進士二十余人のうち、僥倖による者が半数を占め、世論はこれを不可としている」と。昭宗は学士の陸扆と馮渥に命じて雲韶殿で重ねて試験を行わせ、及第した者は十四人であった。詔に云うには、「蘇楷、盧賡ら四人は、詩句が最も卑しく、蕪雑な累が甚だ多く、かつて学業がなく、敢えて科名を窃み、我が至公を汚し、濫進に従い難く、宜しく所司に付して落下せしめ、再び挙場に赴くことを得ざるべし」と。蘇楷はこれにより慚愧と怨恨を抱き、常に国家の災いを幸いとした。昭宗がしいしいぎゃくに遇い、輝王が位を嗣ぐと、国の命は朱氏より出で、蘇楷は初めて起居郎となることができた。

柳璨が朝臣を陥れ陷害すると、士大夫は恐れ息をひそめ、敢えて言う者はいなかった。初め、梁祖(朱全忠)が張廷範を太常卿に任じようとした時、裴樞はこれを不可とした。柳璨は梁祖の毒手を恐れ、過失を裴樞に帰したため、裴樞と趙崇らは白馬の禍に罹った。蘇楷はこれに附いて柳璨に依り、また張廷範に依った。時に有司が初めて昭宗の諡号を定めようとした際、蘇楷は張廷範に言った、「諡とは行実を表すものである。先に有司が先帝の諡を昭宗としたのは、いわゆる名実相副わざるものである。司空(張廷範)は楽卿(太常卿)であり、私は史職を辱うする者として、典章に失があれば、どうして言わないでいられようか」と。そこで上疏して言った、「帝王が宇内を治めるには、理乱を察して汚隆を審らかにし、祀享して天に配するには、諡号を資として升降を定める。故に臣下も君上も、皆私することはできないのである。先帝は睿哲をもって尊位に居り、恭倹をもって化を垂れた。その善美たるや、誰が敢えて蔽い損なうことができようか。しかしながら否運は興らず、至理はなお鬱屈し、遂に四方多事を致し、万乗は播遷した。始めは宦官の凶狂により、東内において幽辱を受け、終わりには嬪嬙の悖乱により、中闈において夭閼に罹った。その易名(諡号を定めること)については、宜しく行いを考証して従うべきである。有司が先に定めた尊諡は聖穆景文孝皇帝、廟号は昭宗であるが、敢えて言えば溢美であり、直書とは異なるようである。今、郊禋の日も近く、祫祭の時も至っている。列聖の心に允かに叶い、新廟の称を詳議することに在り、庶幾くば先朝の罪己の徳に叶い、聖上の私無き明を表すことができるであろう」と。(《旧唐書》に云う、蘇楷は目にして書を知らず、僅かに筆を執るのみで、その文は羅袞の作である。)太常卿の張廷範が奏議して言った、「昭宗は初めは聖徳を彰かにしたが、後には次第に休明を減じ、季述の前の幽辱を致し、茂貞の後の劫幸を招いた。幾度か厄運に拘われたとはいえ、また道を失い始終したのである。陵寝を西京に違え、兆民を東洛に徙し、輦輅を発して寒暑を逾えず、大事が俄かに宮闈より起こった。謹んで聞く、執事を堅固にするを恭と謂い、乱れて損なわざるを霊と謂い、武にして遂げざるを荘と謂い、国に在りて難に逢うを閔と謂い、事に因りて功有るを襄と謂う。今、諡を改めて恭霊荘閔皇帝とし、廟号を襄宗とすることを請う」と。輝王は詔を答えて言った、「勉いて奏に依るべし、哀咽甚だ深し」と。蘇楷が災いを幸いとし附会する様はこのようであった。

梁祖が汴に即位すると、蘇楷は自ら千載一遇の機会に遭遇したと思い、敬翔はその行いを深く鄙しんだ。間もなく詔があり云うには、「蘇楷、高貽休、蕭聞禮らは、人材寝陋にして、班行を塵穢すべからず、並びに勒して田里に帰らしむべし」と。蘇循と蘇楷は既に望みを失い、以前の過失により罪を得ることを恐れ、退いて河中に帰り朱友謙に依った。荘宗が魏州に即位しようとした時、百官多く缺けており、本朝の衣冠を求訪したところ、朱友謙は行台に赴かせた。時に張承業は未だ荘宗が尊位に即くことを欲せず、諸将や賓僚も敢えて賛成する者はいなかったが、蘇循が到着すると、衙城に入り府廨を見るや即座に拝礼し、これを「拝殿」と称した。時に将吏は未だ蹈舞の礼を行っていなかったが、蘇循が朝謁すると、即座に万歳を呼び舞抃し、泣いて臣と称したので、荘宗は大いに喜んだ。翌日、また大筆三十管を献上し、「画日筆」と称したので、荘宗はますます喜んだ。張承業はこれを聞いて怒り、ちょうど盧汝弼が卒したので、即座に蘇循に本官を守らせ、代わって副使とした。明年の春、蘇循は蜜雪を食して傷寒にかかり卒した。同光二年、左僕射を追贈され、蘇楷は員外郎とされた。天成年中、累ねて使幕を歴任したが、時に執政がその諡号を駁した罪を糾明しようとしたため、遂に憂い慚じて卒した。

史臣曰く、昔、武皇(李克用)が覇基を樹て、荘宗が帝業を開いた時は、皆広く士を求めて、大業を輔佐するに用いた。故に数君子は、或いは書檄の敏才により、或いは縉紳の旧族として、皆貴仕に登ったのは、まことに宜しいことであろう。ただ蘇循が梁祖の強禅を賛し、蘇楷が昭宗の旧諡を駁したことは、士風と臣節として、どうしてこのようでありえようか。これはまさに文苑の豺狼、儒林の荊棘である。