舊五代史

唐書三十五: 列傳十一 丁會 閻寶 符習 烏震 王瓚 袁象先 張溫 李紹文

丁會は、字を道隱といい、壽州壽春の人である。父は季。會は幼少より放蕩縱橫にして、農産を治めず、常に哀挽者に従い紼謳を學び、殊にその聲を嗜んだ。既に長ずるに及び、亂に遇い、雄兒を合わせて盜賊となり、功名を志した。黃巢が淮を渡ると、會は梁祖に從って部曲となり、梁祖が藩鎮を鎮めるに及び、會は都押衙を歴任した。梁祖が秦宗權を誅し、時溥を併せ、朱瑄を屠り、朱瑾を走らせるに當たり、會は常に兵を率いて從い、多くの奇功を立てた。文德年間、表を奉って懷州刺史を授けられ、滑州留後、河陽節度使、檢校司徒しとを歴任した。河陽より疾を以て洛陽らくように致政した。梁祖の末年は猜忌深く、故に功の大なる舊將は多く族滅に遭い、會は密かに禍を避けんとする志を抱き、疾を稱すること累年であった。天復元年、梁祖が河中、晉、絳を奄有すると、乃ち會を起用して昭義節度使とした。昭宗が洛陽に幸すると、同平章事を加えられた。その年、昭宗がしいしいぎゃくに遇い、哀問が至ると、會は三軍をして縞素とし、久しく流涕した。時に梁祖は自ら滄州の劉守文を討ち、長蘆に駐軍した。三年十二月、王師(晉軍)が會を攻め、旬日を経て、會は潞州を以て武皇(李克用)に歸した。(《北夢瑣言》に曰く、梁祖は雄猜にして功臣を疑忌し、忽ち敬翔に謂ひて曰く、「吾、丁會が前に在りて祗候するを夢み、吾將に馬に乗りて出でんとす。圉人馬を以て台に就けしに、忽ち丁會の之に跨りて出づる爲す。時に夢中怒り、數聲を叱喝し、因りて驚覺し、甚だ之を惡む。」是の月、丁會潞州の軍民を舉げて河東に歸す。)引見され、會は泣いて曰く、「臣、潞を守らざるに非ず。但だ汴王(朱全忠)が弱き唐の祚を篡し、舊將を猜嫌するを以てなり。臣、保薦の恩を蒙るといえども、相從するに忍びず。今、所謂る盜父の食を吐きて以て王に見ゆるなり。」武皇之を納れ、太原に甲第を賜ひ、諸將の上に位した。五年、汴將李思安潞州を圍み、會を以て都招討使、檢校太尉とした。

莊宗が王位を嗣ぐと、會と謀を決し、汴軍を夾城に破った。七年十一月、太原にて卒す。莊宗即位後、太師を追贈された。子七人有り、知沆は梁祖に誅され、餘は皆內職を歴任した。

閻寶は、字を瓊美といい、鄆州の人である。父は佐、海州刺史。寶は少くして朱瑾に事へ牙將となり、瑾が兗州を失守するに及び、寶は瑾の將胡規、康懷英と共に汴梁に歸し、皆擢用された。梁祖が河朔に師を陳べ、關西にを爭ふより、寶は葛從周、丁會、賀德倫、李思安と各々大將となり、兵を統へて四方に出で、至る處に功を立て、洺、隨、宿、鄭の四州刺史を歴任した。天祐六年、梁祖寶を以て邢洺節度使、檢校太傅とした。莊宗魏博を定め、十三年、相、衛、洺、磁を攻めて之を下す。寶獨り邢州を保つも、城孤にして援絕ゆ。八月、寶邢州を以て降る。莊宗之を嘉し、位を進めて檢校太尉、同平章事とし、遙かに天平軍節度使、東南面招討等使を領し、賓禮を以て待ち、諸將の上に位し、謀畫有る每に、之と參決した。契丹幽州を寇すや、周德威危急なり。寶李存審と從ひ明宗に從ひて契丹を幽州西北に擊ち、圍みを解きて還る。胡柳の役、諸軍逗撓す。汴軍無石山に登り、其の勢甚だ盛んなり。莊宗之を望み、其の敵はざるを畏れ、且つ營を保たんと欲す。寶進みて曰く、「王深く敵境に入り、偏師利あらず。王彥章の騎軍已に濮州に入る。山下唯だ步兵を列ね、向晚には皆歸志有らん。我銳を盡くして之を擊てば、敗走必至なり。今若し引退せば、必ず其の乘ぜらるる所とならん。我軍未だ集まらず、更に賊の勝つを聞かば、即ち戰はずして自ら潰れん。凡そ勝を決するは情を料るに在り。情勢已に得たりとせば、斷ずるに疑ひを容れず。今王の成敗、此の一戰に在り。若し勝を決せずんば、設ひ餘眾河を渡らしむるとも、河朔は王の有に非ざるなり。王其れ之を勉めよ。」莊宗之を聞きて聳聽し、曰く、「公微ならば幾くんぞ計を失はん。」即ち騎兵を引きて大いに噪き、奮って槊を以て山に登り、汴人を大いに敗る。十八年、張文禮王鎔を殺し叛く。寶師を帥ひ進みて討つ。八月、趙州を收め、進みて滹水を渡り、賊黨張友順を擒えて以て獻ず。九月、進みて真定に逼り、營を西南隅に結ぶ。塹柵を掘りて以て之を環らし、大悲寺の漕渠を決して以て其の郛を浸す。十九年正月、契丹三十萬來たりて鎮州を援く。前鋒新樂に至る。眾心之を憂ふ。寶莊宗に見え、方略を指陳す。軍情乃ち安んず。敵退き、檢校侍中を加ふ。三月、城中饑ふ。王處瑾の眾城を出でて食を求む。寶其の出づるを縱ち、伏兵を以て之を截擊す。饑賊大いに至る。諸軍未だ集まらず、賊の乘ずる所と爲る。寶乃ち軍を收めて退き趙州を保つ。因りて慚憤して疾を成し、疽背に發して卒す。時に年六十。同光初め、太師を追贈す。晉の天福年中、太原郡王を追封す。

子八人有り、宏倫、宏儒皆郡守の位に至る。

符習は、趙州昭慶縣の人である。少くして軍に從ひ、節度使王鎔に事へ、功を積んで列校に至る。莊宗河朔を經略し、鎔と連衡するより、常に習に命じて師を率ひ莊宗に從ひ征討せしむ。鎔張文禮に害せらる。時に習は德勝寨に在り、文禮上書して習等の歸鎮を請ふ。習雨泣して莊宗に訴へて曰く、「臣本趙人、家世王氏に事ふ。故使嘗て臣に一劍を授け、凶寇を平蕩せしめんとす。變故を聞くより、徒らに冤憤を懷き、以て自剄せんと欲するも、營魂に益無し。且つ張文禮は幽、滄の叛將なり。趙王人を知るに盡きず、過意任使して、反ぜいに致らしむ。臣武無きといえども、願はくは霸府に血戰して死せんとす。凶首に身を委ぬる能はず。」莊宗曰く、「爾既に舊君の愛を懷く、復讐すべからずや。吾爾を助けん。」習等身を舉げて地に投じ、號慟感激し、謝して曰く、「王必ず故使の輔翼の勞を以て、其の冤恥を雪がんとせば、臣師旅の助けを期せず。但だ本軍を悉くして以て其の逆豎を誅すべし。」莊宗即ち閻寶、史建瑭に命じ習を助けて文禮を討たしめ、乃ち習を以て成德軍兵馬留後とした。文禮誅せらるるに及び、將に節鉞を正授せんとす。習其の任に當るを敢へず、辭して曰く、「臣緣故使未だ葬らず、又嗣息無し。臣合せて斬縗を服し、臣が禮制畢るを俟ちて命を聽かん。」莊宗鎮州を兼領するに及び、乃ち相、衛二州を割きて義寧軍を置き、習を以て節度使とした。習奏して曰く、「魏博六州は、見るに霸府に係る。遽かに割隸有るべからず。但だ臣に河南一鎮を授けよ。臣自ら攻め取りん。」乃ち天平軍節度、東南面招討使を授く。

符習は器量があり、性格は忠実で勇壮であり、荘宗の十年に沿河の戦守に従い、符習は常に本軍を率いて従い、心に顧望がなく、諸将はその人となりに服した。同光初年、符習を邢州節度使とした。翌年、青州に移鎮した。四年二月、趙在禮が魏州を盗み占拠すると、符習は詔を受けて淄・青の軍を率いて進討した。到着すると軍の乱に遭遇し、符習は軍を退かせて河を渡った。明宗が鄴から洛へ赴く際、使者を遣わして召したが、符習は時を移さずに至らなかった。到着すると、胙県で明宗に謁見した。霍彦威が符習に言うには、「主上の知る者は十人、公はその四人に在る。何故躊躇するのか」と。符習は明宗に従って汴に入った。明宗が即位すると、兼侍中を加えられ、本鎮に帰るよう命じられた。時に青州守将の王公儼が命令を拒んだため、再び天平軍節度使を授けられた。

子の蒙が嗣ぎ、位は礼部侍郎に至った。

烏震は、冀州信都の人である。幼くして孤となり、自ら郷校に勤しんだ。弱冠で軍に従い、初めは鎮州の隊長となり、功により次第に部将に昇り、符習に従って河上で征戦し、兵士の心を大いに得た。張文礼が王鎔を弑したと聞き、主君の仇を復すことを志し、涙を流して出陣を請うた。兵が恒陽に及ぶと、文礼はその母・妻および児女十人を捕らえて誘ったが、烏震は戻らず、攻城は日に日に急を告げた。文礼はこれを憤り、皆鼻を削ぎ手首を断ち、皮膚を絶たず、軍門に放ち、見る者は皆まともに見ることができなかった。烏震は一慟して止み、憤激して命を奮い、身を矢石に先んじた。鎮州が平定されると、功により烏震に深・趙二州刺史を授けた。その性格は純朴で質素、清廉正直をもって下を治め、河北において特に政声があり、易州刺史に移り、兼ねて北面水陸転運・招撫等使となった。契丹が塞を犯し、漁陽の路が塞がると、烏震は師を率いて糧を運び、三度薊門に入り、河北道副招討に抜擢され、遥かに宣州節度使を領し、盧台の房知温の軍に代わった。軍に至ると、時に戍兵の龍が所部の鄴都奉節等軍数千人が乱を起こし、印を交わす前に害に遇った。明宗はこれを聞き、一日朝を廃し、詔して太傅を贈った。烏震は少し書史に渉猟し、特に『左氏伝』を嗜み、詩を好み、筆札に優れ、凡そ郵亭・仏寺には、多く留題の跡があった。その禍に遇うと、燕・趙の士は皆嘆惜した。

王瓚は、故河中節度使王重盈の諸子である。天復初年、梁祖が河中を平定した後、王氏の旧恩を追念し、王瓚を賓佐として召し出した。梁祖が即位すると、諸衛大将軍・兗華両鎮節度使・開封尹を歴任した。貞明五年、賀瑰に代わって軍を統率し河上に駐屯した。時に李存審が徳勝渡に堡塁を築いた。秋八月、王瓚は汴軍五万を率い、黎陽から河を渡り、魏州を掩撃せんとしたが、明宗が出師してこれを拒いだ。王瓚は頓丘に至って引き返し、楊村で河を挟んで堡塁を築き、浮橋を架け、滑州から糧秣の輸送が相継いだ。王瓚は軍法に厳しく、令は行き禁止は止むが、機略と応変は長じるところではなかった。十一月、王瓚はその衆を率いて戚城で兵を閲し、明宗が前鋒を以てこれを撃ち、その将李立を捕らえた。十二月、斥候騎兵が汴の糧秣輸送が千単位で、河に沿って下っていると報じ、掩撃して奪取できると。荘宗は徒兵五千を遣わし、伏兵を設けて待ち、騎兵に河の南岸を西上させ、糧秣輸送の役夫数千を捕虜にした。王瓚は河曲に陣を結び、王師を待ち、やがて兵が合し、一戦してこれを破った。王瓚の衆は南城に走って保ち、王瓚は小船で北に渡り辛うじて免れた。この日、馬千余匹を獲、捕斬一万級に及び、王師は勝に乗じて曹・濮の地を巡った。梁主は王瓚が軍律を失ったとして、戴思遠に代わらせて召還した。

王師が汴を襲撃した時、王瓚は開封府尹であった。梁主は王師が将に至らんとするのを聞き、自ら建国門楼に登り、日夜涙を流し、時に国璽を手にし王瓚に言うには、「吾が終にこれを保つは、卿によるのみ」と。王瓚に市人を閲し散徒させ、城に登って備えさせた。明宗が封丘門に至ると、王瓚は門を開いて降伏を迎えた。翌日、荘宗が元徳殿に御し、王瓚は百官と共に罪を待ち幣馬を進めると、詔してこれを釈し、なお梁主の屍を収め、棺を備えて仏寺に仮に安置し、漆を塗った首を函に入れて郊社に送るよう命じた。数日後、段凝が上疏して奏上するには、「梁朝で事権を掌る者趙岩らは、並びに虐政を助成し、人に怨みを結んだ。聖政惟新の折、宜しく首悪を誅し、以て天下に謝すべし」と。ここにおいて張漢傑・張漢融・張漢倫・張希逸・趙縠・朱珪らは並びに族誅され、家財は没収された。王瓚は諸族が法に当たると聞き、憂懼して順序を失い、出る毎に妻子と訣別した。郭崇韜が人を遣わして慰撫し、詔して宣武軍節度副使を授け、府事を治めさせ、検校太傅は従前の如しとした。

王瓚は治政には厳粛であったが、惨酷さに家世の風があった。歴任して蕃鎮を守るにつれ、頗る盗賊を除くことができたが、明らかに下を照らすことはできなかった。京邑の尹となると、政を愛婿の牙将辛廷蔚に委ね、法を曲げ賄賂を受け、因縁を作って奸を行った。初め、汴人が河上に駐軍した時、軍費が不足し、王瓚は汴の富戸を率い、軍費を助け出すよう請い、賦課が均しからず、人は訴えるところなく、縊死する者さえあり、また富室が賄賂を贈って幸いに賦課を免れた者もあった。明宗が即位すると、平素より廷蔚の奸を知っていたため、田里に帰るよう命じた。しかし王瓚は縉紳を優礼し、豪猾を抑挫することができたため、当時の士流は皆称賛仰ぎ慕った。

袁象先は、宋州下邑の人である。自ら称するには、唐中宗朝の中書令・南陽郡王袁恕己の後裔であると。曾祖父の進朝は、成都少尹であり、梁は象先の貴顕により累贈して左僕射とした。祖父の忠義は、忠武軍節度判官であり、累贈して司空しくうとした。父の敬初は、太府卿であり、累贈して司徒・駙馬都尉とした。敬初は梁祖の妹を娶り、初めはい郡太君に封ぜられた。開平年中、追封して長公主とした。貞明年中、追封して万安大長公主とした。

象先は即ち梁祖の甥である。性質寛厚にして、物に忤わず、幼くして乱に遇い、慨然として憂時の意あり。象先嘗て一の水鳥を射るも、中たらず、箭水中に落ち、下りて双鯉を貫く、見る者之を異とす。梁祖夷門を鎮むるに及び、象先起家して銀青光禄大夫・検校太子賓客・兼御史中丞を授かる。景福元年、検校左省常侍より、遷りて検校工部尚書となり、元従馬軍指揮使兼左静辺都指揮使を充てる。乾寧五年、再び遷りて検校右僕射・左領軍衛将軍同正となり、宣武軍内外馬歩軍都指揮使を充てる。光化二年、宿州軍州事を権知す。天復元年、表して刺史を授け、本州団練・埇橋鎮遏都知兵馬使を充てる。会に淮寇大至し、州城を囲迫す、象先力を竭して禦備す、時に援兵未だ至らず、頗る憂沮を懐く。一日、北城に登り、其の楼堞の上に憩う、怳然として寝に若く、人夢に告げて曰く「我は陳璠なり、嘗て是の城を板築し、旧第猶在り、今軍舎と為る、我が為に廟を立てば、即ち公を助けて陰兵せん」と。象先之を納る。翌日、淮寇急に其の壘を攻め、梯衝角進す、是の日州城幾くんか陥つ。頃之、大風雨有り、居民城上に兵甲算無きを見る、寇進む能わず、即時に退去す。象先方に鬼神の助を信じ、乃ち之が為に祠を立て、今に至るまで里人の祷祝絶えず。三年、洺州軍州事を権知す。天祐三年、陳州刺史・検校司空を授かる。是の歳、陳州大水し、民饑え、物野に生ず、形蒲萄に類し、其の実食す可く、貧民之に頼る。梁開平二年、左英武軍使を授かり、再び遷りて左神武・右羽林統軍となる。三年、転じて右衛上将軍となり、汝南県男に封ぜらる。四年、宋州留後を権知し、任に到ること五月、天平軍両使留後に改む。時に鄆境再び饑え、戸民流散す、象先即ち倉を開き賑恤し、蒙頼する者衆し。五年、梁祖北征し、象先を以て鎮定東南行営都招討応接副使と為し、開国伯に進封す。兵を領して蓚県を攻むるも、克たずして還る。俄に詔を奉じて鄆より闕に赴く、鄆人遮留し、石橋を毀ちて進むを得ず、乃ち他門より逸す。尋いで左龍武統軍兼侍衛親軍都指揮使を授かる。乾化三年、魏博節度使楊師厚と謀を合せ、朱友珪を洛陽に誅す。梁末帝即位し、功を以て検校太保・同平章事を授け、遙かに洪州節度使を領し、行開封尹・在京馬歩諸軍を判し、開国公に進封す。四年、青州節度使を授かり、検校太傅を加う。未幾、鎮を宋州に移し、検校太尉を加う。象先宋に在ること凡そ十年。

初め、梁祖四鎮を領し、兵十万を統べ、威天下に震い、関東の藩守は、皆其の将吏にして、方面の補授は、其の保薦に由り、四方金を輿し璧を輦し、駿奔結轍して、賂を其の庭に納る。是の如き者十余年、寝て風俗と成り、藩侯牧守より下逮群吏に至るまで、廉白なる者罕にして、率皆掊斂下を剝ぎて、以て権門に事う。象先甥舅の勢を恃み、至る所の藩府に、侵刻誅求尤も甚だしく、此を以て家財巨万。荘宗初めて河南を定むるに及び、象先率先して入覲し、珍幣数十万を輦し、遍く権貴及び劉皇后・伶官巷伯に賂り、旬日を居るに、内外翕然として之を称す。

初め、梁の将未だ官資を復せざる者は、凡そ上章するに姓名を奏するのみ。郭崇韜奏して曰く「河南の征鎮将吏は、昭洗の後、新官未だ有らず、表章を上する毎に、但だ名姓を書す、綸製を頒たざれば、必ず憂疑を負わん」と。即日、復た象先を以て宋・亳・耀・輝・潁節度使と為し、前に依り検校太尉・平章事とし、仍て姓を賜い、名を紹安とし、尋いで鎮に帰らしむ。明年、郊礼を以て、象先復た来朝す。是の時、制して宋州宣武軍を改めて帰徳軍と為す、宴に侍するに因り、荘宗象先に謂ひて曰く「帰徳の名は、無乃著題せざるか」と。象先拝謝して退き、即ち命じて鎮に帰らしむ。其の年夏、疾を以て理所に卒す、年六十一。冊して太師を贈り、周広順中、中書令を贈り、楚国公を追封す。

象先二子有り、長は正辞と曰ひ、衢・雄二州刺史を歴任す。次は{山義}と曰ひ、周の顕徳中に至り、滄州節度使に終る。

張温、字は徳潤、魏州魏県の人なり。始め梁祖に仕えて歩直小将と為り、崇明都校に改む。貞明初、蔣殷徐州に叛くに従ひ、劉鄩に従ひて之を討平し、左右捉生都指揮使に改む。荘宗邢台を伐ち、之を獲、用て永清都校と為し、武州刺史・山後八軍都将を歴任す。荘宗に従ひて契丹を幽州に襲ひ、新州を収め、銀槍効義都指揮使を歴任し、再び武州刺史を任ず。同光初、契丹媯・儒・檀・順・平・薊六州を陥すも、武州独り全く、蔚州刺史に改授さる。天成初、振武・昭武留後を歴任し、尋いで利州節度使を授かり、入りて右衛上将軍と為る。幾も無く、洋州節度使・右龍武統軍を授かり、雲州節制に改む。清泰初、兵を雁門に屯し、契丹を逐ひ出塞せしめ、鎮を晋州に移すも、疾を嬰いて卒す。詔して太尉を贈る。

李紹文、鄆州の人、本姓は張、名は従楚。少く朱瑄に事えて帳下と為り、瑄敗れ、梁祖に帰し、四鎮牙校と為り、累ね諸軍を典す。天祐八年、王景仁に従ひて戦ひ、柏郷に敗る、紹文別将曹儒と残衆を収め、相州を退保す。王師の魏州を攻むるや、紹文衆を率ひて黎陽より将に河を渡らんとす。時に汴人大いに恐れ、河に舟楫無し、紹文王師に逼らるるを懼れ、乃ち黎陽・臨河・内黄を剽して魏州に至り、荘宗に帰す。荘宗嘉納し、姓名を賜ひ、其の両将三千人を分けて左右匡霸軍旅と為し、仍て紹文・曹儒をして分将せしむ。周徳威に従ひて劉守光を討ち、検校司空に進み、将を移して匡衛軍とす。十二年、博州刺史を授かり、故元城に於て劉鄩を破るに預かり、貝・隰・代三郡刺史を歴任し、天雄軍馬歩副都将を領し、徳勝に屯す。閻宝に従ひて張文礼を討ち、馬歩軍都虞候と為る。明宗鄆州を収むるに及び、紹文を以て右都押衙・馬歩軍都将と為し、中都に於て王彦章を破るに従ふ。同光中、徐・滑二鎮副使を歴任し、府事を知府す。三年、郭崇韜に従ひて西川を討ち、洋州節度留後と為り、鎮江軍節度を領す。天成初、武信軍節度使と為り、尋いで鎮に卒す。

史臣曰く、昔丁会の梁祖に事うるや、功既に隆く、禍将に及ばんとす、身を挺して北首す、故亦宜なり。然れども人の禄を食む、豈に是の如くに合すべきや。閻宝再び人に降る、夫れ何ぞ貴ぶに足らん。符習故主の沈冤を雪ぎ、通侯の貴位を享く、乃ち趙の奇士なり。烏震其の親を憫しまず、仁斯に鮮し、楽羊の跡を慕ふと雖も、豈に文侯に事うるの宜きならん。瓚及び象先より以下は、皆降将なり、又何ぞ以て譏るに足らんや。