莊宗が王位を嗣ぐと、會と謀を決し、汴軍を夾城に破った。七年十一月、太原にて卒す。莊宗即位後、太師を追贈された。子七人有り、知沆は梁祖に誅され、餘は皆內職を歴任した。
子八人有り、宏倫、宏儒皆郡守の位に至る。
符習は、趙州昭慶縣の人である。少くして軍に從ひ、節度使王鎔に事へ、功を積んで列校に至る。莊宗河朔を經略し、鎔と連衡するより、常に習に命じて師を率ひ莊宗に從ひ征討せしむ。鎔張文禮に害せらる。時に習は德勝寨に在り、文禮上書して習等の歸鎮を請ふ。習雨泣して莊宗に訴へて曰く、「臣本趙人、家世王氏に事ふ。故使嘗て臣に一劍を授け、凶寇を平蕩せしめんとす。變故を聞くより、徒らに冤憤を懷き、以て自剄せんと欲するも、營魂に益無し。且つ張文禮は幽、滄の叛將なり。趙王人を知るに盡きず、過意任使して、反噬に致らしむ。臣武無きといえども、願はくは霸府に血戰して死せんとす。凶首に身を委ぬる能はず。」莊宗曰く、「爾既に舊君の愛を懷く、復讐すべからずや。吾爾を助けん。」習等身を舉げて地に投じ、號慟感激し、謝して曰く、「王必ず故使の輔翼の勞を以て、其の冤恥を雪がんとせば、臣師旅の助けを期せず。但だ本軍を悉くして以て其の逆豎を誅すべし。」莊宗即ち閻寶、史建瑭に命じ習を助けて文禮を討たしめ、乃ち習を以て成德軍兵馬留後とした。文禮誅せらるるに及び、將に節鉞を正授せんとす。習其の任に當るを敢へず、辭して曰く、「臣緣故使未だ葬らず、又嗣息無し。臣合せて斬縗を服し、臣が禮制畢るを俟ちて命を聽かん。」莊宗鎮州を兼領するに及び、乃ち相、衛二州を割きて義寧軍を置き、習を以て節度使とした。習奏して曰く、「魏博六州は、見るに霸府に係る。遽かに割隸有るべからず。但だ臣に河南一鎮を授けよ。臣自ら攻め取りん。」乃ち天平軍節度、東南面招討使を授く。
符習は器量があり、性格は忠実で勇壮であり、荘宗の十年に沿河の戦守に従い、符習は常に本軍を率いて従い、心に顧望がなく、諸将はその人となりに服した。同光初年、符習を邢州節度使とした。翌年、青州に移鎮した。四年二月、趙在禮が魏州を盗み占拠すると、符習は詔を受けて淄・青の軍を率いて進討した。到着すると軍の乱に遭遇し、符習は軍を退かせて河を渡った。明宗が鄴から洛へ赴く際、使者を遣わして召したが、符習は時を移さずに至らなかった。到着すると、胙県で明宗に謁見した。霍彦威が符習に言うには、「主上の知る者は十人、公はその四人に在る。何故躊躇するのか」と。符習は明宗に従って汴に入った。明宗が即位すると、兼侍中を加えられ、本鎮に帰るよう命じられた。時に青州守将の王公儼が命令を拒んだため、再び天平軍節度使を授けられた。
子の蒙が嗣ぎ、位は礼部侍郎に至った。
烏震は、冀州信都の人である。幼くして孤となり、自ら郷校に勤しんだ。弱冠で軍に従い、初めは鎮州の隊長となり、功により次第に部将に昇り、符習に従って河上で征戦し、兵士の心を大いに得た。張文礼が王鎔を弑したと聞き、主君の仇を復すことを志し、涙を流して出陣を請うた。兵が恒陽に及ぶと、文礼はその母・妻および児女十人を捕らえて誘ったが、烏震は戻らず、攻城は日に日に急を告げた。文礼はこれを憤り、皆鼻を削ぎ手首を断ち、皮膚を絶たず、軍門に放ち、見る者は皆まともに見ることができなかった。烏震は一慟して止み、憤激して命を奮い、身を矢石に先んじた。鎮州が平定されると、功により烏震に深・趙二州刺史を授けた。その性格は純朴で質素、清廉正直をもって下を治め、河北において特に政声があり、易州刺史に移り、兼ねて北面水陸転運・招撫等使となった。契丹が塞を犯し、漁陽の路が塞がると、烏震は師を率いて糧を運び、三度薊門に入り、河北道副招討に抜擢され、遥かに宣州節度使を領し、盧台の房知温の軍に代わった。軍に至ると、時に戍兵の龍が所部の鄴都奉節等軍数千人が乱を起こし、印を交わす前に害に遇った。明宗はこれを聞き、一日朝を廃し、詔して太傅を贈った。烏震は少し書史に渉猟し、特に『左氏伝』を嗜み、詩を好み、筆札に優れ、凡そ郵亭・仏寺には、多く留題の跡があった。その禍に遇うと、燕・趙の士は皆嘆惜した。
王瓚は、故河中節度使王重盈の諸子である。天復初年、梁祖が河中を平定した後、王氏の旧恩を追念し、王瓚を賓佐として召し出した。梁祖が即位すると、諸衛大将軍・兗華両鎮節度使・開封尹を歴任した。貞明五年、賀瑰に代わって軍を統率し河上に駐屯した。時に李存審が徳勝渡に堡塁を築いた。秋八月、王瓚は汴軍五万を率い、黎陽から河を渡り、魏州を掩撃せんとしたが、明宗が出師してこれを拒いだ。王瓚は頓丘に至って引き返し、楊村で河を挟んで堡塁を築き、浮橋を架け、滑州から糧秣の輸送が相継いだ。王瓚は軍法に厳しく、令は行き禁止は止むが、機略と応変は長じるところではなかった。十一月、王瓚はその衆を率いて戚城で兵を閲し、明宗が前鋒を以てこれを撃ち、その将李立を捕らえた。十二月、斥候騎兵が汴の糧秣輸送が千単位で、河に沿って下っていると報じ、掩撃して奪取できると。荘宗は徒兵五千を遣わし、伏兵を設けて待ち、騎兵に河の南岸を西上させ、糧秣輸送の役夫数千を捕虜にした。王瓚は河曲に陣を結び、王師を待ち、やがて兵が合し、一戦してこれを破った。王瓚の衆は南城に走って保ち、王瓚は小船で北に渡り辛うじて免れた。この日、馬千余匹を獲、捕斬一万級に及び、王師は勝に乗じて曹・濮の地を巡った。梁主は王瓚が軍律を失ったとして、戴思遠に代わらせて召還した。
王師が汴を襲撃した時、王瓚は開封府尹であった。梁主は王師が将に至らんとするのを聞き、自ら建国門楼に登り、日夜涙を流し、時に国璽を手にし王瓚に言うには、「吾が終にこれを保つは、卿によるのみ」と。王瓚に市人を閲し散徒させ、城に登って備えさせた。明宗が封丘門に至ると、王瓚は門を開いて降伏を迎えた。翌日、荘宗が元徳殿に御し、王瓚は百官と共に罪を待ち幣馬を進めると、詔してこれを釈し、なお梁主の屍を収め、棺を備えて仏寺に仮に安置し、漆を塗った首を函に入れて郊社に送るよう命じた。数日後、段凝が上疏して奏上するには、「梁朝で事権を掌る者趙岩らは、並びに虐政を助成し、人に怨みを結んだ。聖政惟新の折、宜しく首悪を誅し、以て天下に謝すべし」と。ここにおいて張漢傑・張漢融・張漢倫・張希逸・趙縠・朱珪らは並びに族誅され、家財は没収された。王瓚は諸族が法に当たると聞き、憂懼して順序を失い、出る毎に妻子と訣別した。郭崇韜が人を遣わして慰撫し、詔して宣武軍節度副使を授け、府事を治めさせ、検校太傅は従前の如しとした。
王瓚は治政には厳粛であったが、惨酷さに家世の風があった。歴任して蕃鎮を守るにつれ、頗る盗賊を除くことができたが、明らかに下を照らすことはできなかった。京邑の尹となると、政を愛婿の牙将辛廷蔚に委ね、法を曲げ賄賂を受け、因縁を作って奸を行った。初め、汴人が河上に駐軍した時、軍費が不足し、王瓚は汴の富戸を率い、軍費を助け出すよう請い、賦課が均しからず、人は訴えるところなく、縊死する者さえあり、また富室が賄賂を贈って幸いに賦課を免れた者もあった。明宗が即位すると、平素より廷蔚の奸を知っていたため、田里に帰るよう命じた。しかし王瓚は縉紳を優礼し、豪猾を抑挫することができたため、当時の士流は皆称賛仰ぎ慕った。
袁象先は、宋州下邑の人である。自ら称するには、唐中宗朝の中書令・南陽郡王袁恕己の後裔であると。曾祖父の進朝は、成都少尹であり、梁は象先の貴顕により累贈して左僕射とした。祖父の忠義は、忠武軍節度判官であり、累贈して司空とした。父の敬初は、太府卿であり、累贈して司徒・駙馬都尉とした。敬初は梁祖の妹を娶り、初め沛郡太君に封ぜられた。開平年中、追封して長公主とした。貞明年中、追封して万安大長公主とした。
初め、梁祖四鎮を領し、兵十万を統べ、威天下に震い、関東の藩守は、皆其の将吏にして、方面の補授は、其の保薦に由り、四方金を輿し璧を輦し、駿奔結轍して、賂を其の庭に納る。是の如き者十余年、寝て風俗と成り、藩侯牧守より下逮群吏に至るまで、廉白なる者罕にして、率皆掊斂下を剝ぎて、以て権門に事う。象先甥舅の勢を恃み、至る所の藩府に、侵刻誅求尤も甚だしく、此を以て家財巨万。荘宗初めて河南を定むるに及び、象先率先して入覲し、珍幣数十万を輦し、遍く権貴及び劉皇后・伶官巷伯に賂り、旬日を居るに、内外翕然として之を称す。
初め、梁の将未だ官資を復せざる者は、凡そ上章するに姓名を奏するのみ。郭崇韜奏して曰く「河南の征鎮将吏は、昭洗の後、新官未だ有らず、表章を上する毎に、但だ名姓を書す、綸製を頒たざれば、必ず憂疑を負わん」と。即日、復た象先を以て宋・亳・耀・輝・潁節度使と為し、前に依り検校太尉・平章事とし、仍て姓を賜い、名を紹安とし、尋いで鎮に帰らしむ。明年、郊礼を以て、象先復た来朝す。是の時、制して宋州宣武軍を改めて帰徳軍と為す、宴に侍するに因り、荘宗象先に謂ひて曰く「帰徳の名は、無乃著題せざるか」と。象先拝謝して退き、即ち命じて鎮に帰らしむ。其の年夏、疾を以て理所に卒す、年六十一。冊して太師を贈り、周広順中、中書令を贈り、楚国公を追封す。
象先二子有り、長は正辞と曰ひ、衢・雄二州刺史を歴任す。次は{山義}と曰ひ、周の顕徳中に至り、滄州節度使に終る。
張温、字は徳潤、魏州魏県の人なり。始め梁祖に仕えて歩直小将と為り、崇明都校に改む。貞明初、蔣殷徐州に叛くに従ひ、劉鄩に従ひて之を討平し、左右捉生都指揮使に改む。荘宗邢台を伐ち、之を獲、用て永清都校と為し、武州刺史・山後八軍都将を歴任す。荘宗に従ひて契丹を幽州に襲ひ、新州を収め、銀槍効義都指揮使を歴任し、再び武州刺史を任ず。同光初、契丹媯・儒・檀・順・平・薊六州を陥すも、武州独り全く、蔚州刺史に改授さる。天成初、振武・昭武留後を歴任し、尋いで利州節度使を授かり、入りて右衛上将軍と為る。幾も無く、洋州節度使・右龍武統軍を授かり、雲州節制に改む。清泰初、兵を雁門に屯し、契丹を逐ひ出塞せしめ、鎮を晋州に移すも、疾を嬰いて卒す。詔して太尉を贈る。
史臣曰く、昔丁会の梁祖に事うるや、功既に隆く、禍将に及ばんとす、身を挺して北首す、故亦宜なり。然れども人の禄を食む、豈に是の如くに合すべきや。閻宝再び人に降る、夫れ何ぞ貴ぶに足らん。符習故主の沈冤を雪ぎ、通侯の貴位を享く、乃ち趙の奇士なり。烏震其の親を憫しまず、仁斯に鮮し、楽羊の跡を慕ふと雖も、豈に文侯に事うるの宜きならん。瓚及び象先より以下は、皆降将なり、又何ぞ以て譏るに足らんや。