舊五代史

唐書三十三: 列傳九 郭崇韜

郭崇韜列傳

郭崇韜、字は安時、代州雁門の人である。父は宏正。崇韜は初め李克修の帳下の親信となった。克修が昭義を鎮守する時、崇韜は累ねて事務を掌り、廉潔で有能と称された。克修が卒すると、武皇(李克用)はこれを用いて典謁とし、鳳翔に奉使して旨に叶い、教練使に署せられた。崇韜は事に臨んで機警であり、応対は見るべきものがあった。荘宗が位を嗣ぐと、特にこれを器重した。天祐十四年、中門副使に用いられ、孟知祥・李紹宏とともに機要に参じた。まもなく紹宏は出て幽州留事を掌り、知祥は要職を懇ろに辞した。先に、中門使の吳珙・張虔厚は忠にして罪を得た。知祥は懼れ、外任を求め、妻の矞華公主が貞簡太后に泣いて請うた。荘宗は知祥に謂いて「公が路を避けんと欲するならば、その代わりを挙ぐべし」と。知祥は因って崇韜を挙げた。乃ち知祥を太原軍在城都虞候に署した。ここより崇韜は専ら機務を掌り、艱難戦伐、従わざる所なし。

十八年、鎮州の張文礼を征討することに従う。契丹が衆を引きいて新楽に至ると、王師は大いに恐れ、諸将は皆魏州に退還することを請うたが、荘宗は猶して未だ決せず。崇韜は曰く「阿保機はただ王都に誘われたのみで、元より利は貨財にあり、鄰好を敦くするにあらず。苟くも前鋒小しく衄れば、遁走すること必せり。況んや我れ新たに汴寇を破り、威は北地に振るう。此れに乗じて駆攘すれば、何れの往くところか捷たざらんや。且つ事の済ふか否かは、亦た天命あり」と。荘宗これに従い、王師は果たして捷った。明年、李存審が鎮州を収め、崇韜を遣わしてその府庫を閲せしむ。或いは珍貨を以て賂遺せんとするも、一も取るところなく、ただ書籍を市うのみであった。

荘宗が魏州に即位すると、崇韜は検校太保・守兵部尚書を加えられ、枢密使を充てた。この時、衛州は梁に陥ち、澶・相の間には寇鈔日ごとに至り、民は流れ地は削られ、軍儲は給せず、群情恟恟として、以て業は終に就く能わずと為す。崇韜は寝て席を安んぜず。まもなく王彦章が徳勝南城を陥とし、敵勢は滋蔓し、汴人は急ぎ楊劉城を攻む。明宗は鄆に在り、音驛断絶す。荘宗は城に登り四望して、計る所なし。崇韜啓して曰く「段凝が津路を阻絶す。苟くも王師南せずんば、鄆州安んぞ能く保守せん。臣は博州東岸に柵を立て、以て通津を固めんことを請う。但だ慮うらくは、汴人の偵知するを以て、径ちに来たりて我を薄んずるを。陛下に敢死の士を募り、日を以て挑戦せしめ、三四日の間にせん。賊軍未だ至らざれば、則ち柵壘成るべし」と。崇韜は毛璋等万人を率い夜に博州に趨く。矛戟の端に光あるを見て、崇韜曰く「吾れ聞く、火兵刃を出すは、賊を破るの兆なりと」。博州に至り、河を渡り版築し、昼夜息まず。崇韜は葭葦の間に胡床に据わり仮寝す。覚えて褲中冷たきを、左右之を視れば、乃ち蛇なり。其の疲れを忘れ力を励ますこと此の如し。三日を居て、梁軍果たして至る。城壘低く庳く、沙土散悪にして、戦具完からず。汴将王彦章・杜晏球、衆を率いて攻撃し、軍は休息を得ず。崇韜は身を先にして衆を督い、四面拒戦し、急あれば即ち応じ、城将に陥らんとするに、俄かに報ず、荘宗親軍を領して西岸に次すと。梁軍之を聞きて退走し、因って楊劉の囲みを解く。

未だ幾ばくもせず、汴将康延孝来奔す。崇韜これを臥内に延き、其の軍機を訊く。延孝曰く「汴人将に四道斉しく挙げて、以て我が軍を困せんとす」と。荘宗之を憂い、諸将を召して進取の策を謀る。宣徽使李紹宏は鄆州を棄て、汴人と盟し、河を以て界とし、相侵寇せざるを請う。荘宗悦ばず、独り帳中に臥し、崇韜を召して謂いて「計将に安く出ださん」と。対えて曰く「臣は書を知らず、前古を征比する能わず。請うらくは時事を以て之を言わん。陛下十五年起義して図り霸たんとしてより、家讎国恥を雪がんが為に、甲冑には蟣虱生じ、黎人は輸挽に困す。今大号を纂崇し、河朔の士庶、日ごとに蕩平を望む。纔かに汶陽の尺寸の地を得たるも、敢えて保守せず、況んや尽く中原有するをや。将来歳賦充たず、物議谘怨せば、設い河を劃して界とせんには、誰か陛下の為に之を守らん。臣は延孝の事を言うより以来、昼夜籌度し、我が兵力を料り、賊の事機を算う。今年を出でず、雌雄必ず決せん。汴人の河を決ち、滑より鄆に至るは、舟楫なくしては済まざるを聞く。又精兵尽く段凝の麾下に在り、王彦章は日ごとに鄆境を寇すと聞く。彼は既に大軍を以て我が南鄙に臨み、又決河に憑恃し、我の南渡する能わずと謂い、志は汶陽を収復するに在り。此れ汴人の謀なり。臣は謂う、段凝は河壖を保拠し、苟くも我を持せんと欲す。臣は但だ兵を留めて鄴を守らしめ、楊劉を保固せんことを請う。陛下親しく六軍を禦え、長駆倍道し、直ちに大梁を指せば、汴城兵無く、風望んで自ら潰れん。若し偽主の首を授けば、賊将自然に戈を倒し、半月の間、天下必ず定まらん。若し此の計を決せず、傍ら浮譚を采らば、臣恐らくは済ます能わざらんと。今歳秋稼登らず、軍糧纔かに数月を支うるのみ。決すれば成敗未だ知らず、決せざれば坐して不済を見ん。臣聞く、道辺に舍を作れば三年成らず。帝王は運に応じ、必ず天命有り。成敗は天なり。陛下の独断に在り」と。荘宗蹶然として興りて曰く「正に吾が意に合う。丈夫は得れば則ち王と為り、失えば則ち擄と為る。行計決せり」と。即日軍中に令し、家口並びに魏州に還す。荘宗は劉皇后と興聖宮使継岌を送り、朝城西の野亭に至りて泣別し、曰く「事勢危蹙す。今須らく一決すべし。事苟くも済まざれば、復た相見ること無からん」と。乃ち李紹宏及び租庸使張憲を留めて魏州を守らしめ、大軍は楊劉より河を済く。是歳、王彦章を擒え、梁氏を誅し、段凝を降す。皆崇韜の其の謀を賛成する所なり。

荘宗の汴州に至る。宰相豆盧革は魏州に在り、崇韜に中書事を行わしむ。俄かに侍中兼枢密使に拝され、及び郊礼畢りて、崇韜に鎮・冀州節度使を兼領せしめ、趙郡公に進封し、邑二千戸を賜い、鉄券を賜い、十死を恕す。崇韜既に人臣の位極まり、権は内外に傾き、謀猷献納、必ず忠規を尽くし、士族朝倫、頗る亦た人物を収奨し、内外翕然として之を称す。初め汴・洛を収むるに、稍々賂遺を通ず。親友或いは之を規む。崇韜曰く「余は将相の位を備え、禄賜巨万なり。但だ偽梁の日、賂遺風を成す。今方面の藩侯は、多く梁の旧将にして、皆吾が君の射鉤斬祛の人なり。一旦革面して、吾人と化す。其の請を堅く拒めば、懼れ無からんや。私室に蔵め餘すは、公帑に異ならず」と。及び郊禋に、崇韜は悉く家財を献じ、以て賞給を助く。時に近臣、荘宗を勧めて貢奉の物を内庫と為す。珍貨山積すれども、公府は軍を賞するに足らず。崇韜奏請して内庫の財を出だして以て助けんとす。荘宗は沉吟して靳惜の意有り。是時天下已に定まり、寇仇外に息み、荘宗は漸く華侈を務め、以て己の欲を逞うす。洛陽らくようの大内宏敞にして、宮宇深邃なり。宦官は意に阿り旨に順い、以て恩寵を希う。声言して宮中夜に鬼物を見ると、謀らずして同辞す。荘宗其の事を駭異し、且つ其の故を問う。宦者曰く「本朝の長安ちょうあん大内を見るに、六宮の嬪御、殆ど万人に及び、椒房蘭室、充刃せざる無し。今宮室の大半空閑なり。鬼神は尚幽なり。亦た怪むる所無し」と。ここより景進・王允平等、諸道に於いて宮人を采択し、良賤を択ばず、之を宮掖に内す。

三年の夏、雨が降り、黄河が大いに増水し、天津橋を破壊した。この時、酷暑が殊に甚だしかった。荘宗は常に高楼を選んで避暑したが、皆その意に適わなかった。宦官が言うには、「今の大内の楼観は、旧時の長安の卿相の家に及ばず、旧日の大明・興慶の両宮には、楼観が百数を数え、皆彫りを施した柱や彩色した栱があり、雲を衝き日を蔽うものでした。今、官家(天子)には納涼に用いるべきものがございません」と。荘宗は言った、「余は天下を富み有する身である。どうして一つの楼を造ることができぬことがあろうか」と。即座に宮苑使に命じてこれを営造させたが、なお崇韜が何か諫めて止めることを慮り、使者を遣わして崇韜に告げさせた、「今年は酷暑である。朕が先頃河上に在った時、五、六月中、賊と対峙し、行宮は低湿であったが、甲冑を着て馬に乗り賊と戦う時は、常に清涼の如くであった。今、安らかに深宮に在るのに、暑毒に耐えられぬのは、何故か」と。崇韜が奏上して言うには、「陛下が先頃河上に在られた時は、汴の寇(後梁)が未だ平定されておらず、寝食を廃し、心は戦陣に在りました。厳寒も酷暑も、聖懐に介在しませんでした。今、寇は既に平定され、中原に事無く、耳目の娯楽にふけり、戦陣を憂えません。たとえ層台百尺、広殿九筵(広大な宮殿)であっても、今日の暑さを忘れることはできません。願わくは陛下に艱難創業の際を思われますならば、今日の暑さも、坐して清涼に変わるでしょう」と。荘宗は黙然とした。王允平等は結局営造を加え、崇韜はまた奏上して言った、「内中の営造は、日に費用を費やします。災害と飢饉に当たる折、暫く停止を乞います」と。聞き入れられなかった。

初め、崇韜と李紹宏は共に内職(枢密使等の内廷の職)に在ったが、荘宗が即位すると、崇韜は紹宏が元来自分より上位に在り、旧人であるので制し難いと考え、即座に奏上して沢潞監軍の張居翰を枢密を共に掌らせ、紹宏を宣徽使とした。紹宏は大いに失望し、涙を流し憤り鬱屈した。崇韜はそこで内勾使を設置し、三司の財賦は皆これを勾覆(検査)させることにし、紹宏にこれを領させ、その心を塞ごうとした。紹宏は快からず落胆して止まなかった。崇韜は自ら大功有りとし、河・洛が平定された後、権勢地位が赫灼として、人のために傾け奪われることを恐れ、諸子に言った、「我は主上を輔佐し、大事は終わった。今、群邪に排撃誹毀されている。これを避け、常山に帰鎮し、隠居の計らいをしたい」と。その子の廷説等が言うには、「父上の功名ここに至りました。一度その勢いを失えば、それは神龍が水を去り、蟻や蝼蛄に制せられるようなものです。特に深く察するべきです」と。門人故吏もまた崇韜に言った、「侍中(崇韜)の勲業は第一です。群官が側目していても、必ずや離間することはできません。この時に当たり、機務(枢密の職)を堅く辞すべきです。上は必ず聴き入れませんが、これによって辞して避ける名を得、その讒慝の口を塞ぐことができます。魏国夫人劉氏は寵愛を受けており、中宮(皇后)が未だ正されていません。冊立の礼を賛成し促成すべきです。上の心は必ず喜ばれるでしょう。内に劉氏の助けを得れば、群閹どもが我らをどうすることもできましょう」と。崇韜はこれを然りとし、ここに三度上章して堅く枢密の位を辞し、優詔をもって許さなかった。崇韜は密かに奏上して魏国夫人を皇后に立てることを請い、また時務の利害二十五条を奏上した。皆時に便であり、人心を悦ばせた。また枢密院の事を罷め、各々本司に帰らせてその権を軽くすることを請うたが、宦官の誹謗は止まなかった。

三年、堅く兼領する節鉞(節度使の職)を罷めることを乞い、許された。(《冊府元龜》に云う:同光年中、崇韜は再び表を奉って鎮を辞し、批答に曰く、「朕は卿が久しく枢要を司り、常に重難に処するを以てす。或いは遅疑未決の機は、先見にこれに詢い、或いは憂撓不定の事は、必成の者に訪う。朕の丕基を賛し、茲の大宝に登るに至っては、衆は異論を興し、卿独り堅く言う、天命は違うべからず、唐の祚は須らく復すべしと。家族を納れることを請い、誓文を明らかに設く。其の汶陽を密かに取り、師を興して不測の地に入り、河口に潜かに通じ、謀をたてまつりて必済の津を占むるに及んでは、人の知らざる所、卿惟だ意に合う。中都に嘯聚有り、群党窺陵するにおよび、朕は妖を平らげんと決議し、兼ねて浚水を収めんとす。先定と云う雖も、更に前籌を審らかにす。果たして尽く賛成に諧い、悉く沈算に諧う。斯れ即ち何ぞ刃を冒すを須いんや、始めて殊庸を顕わすに。況んや常山陸梁し、正に未だ復せられざるを虞うに、卿能く衆を撫し、共に群心を定む。惟だ朕卿を知る、他人寧ぞ表わさんや。卿を賞するの龐(厚き賞)は、実に等倫に異なり、朕の心をうるおすは、虚しき渥澤に非ず。今卿再三謙遜し、重ねて退辞す。始めに常陽を納れ、上将に帰るを請い、又梁苑は兼権すべからずと称す。此の如く身をめぐらし、貴ぶは名節を全うするに在り。古人の操守も、比方すべからず。既に堅辞を、来表をはばみ難し。其の汴州を再び譲るは、宜しく依允すべし」と。)

客省使李厳が西川より使いして戻り、王衍が攻め取るべき情勢にあると述べた折、荘宗は崇韜と討伐の謀を議し、大将を選ぼうとした。時に明宗が諸道兵馬総管として行くべき所であったが、崇韜は宦官が自分を傾けようとしていることを自覚し、大功を立ててこれを制しようと考え、乃ち奏上して言った、「契丹が辺境を犯し、北面は須らく大臣に藉り、全く総管の鎮禦に倚るべきです。臣が思いますに、興聖宮使の継岌は、徳望日々に隆盛ですが、大功未だ著しからず。故事に依り、親王を元帥とし、討伐の権を付与し、その威望を成さしめるのが宜しいかと」。荘宗は継岌を愛していたので、即座に言った、「小児幼稚である。どうして独り行くことができようか。卿がその副を選ぶがよい」。崇韜が未だ奏上しないうちに、荘宗は言った、「卿にまさる者はない」。乃ち継岌を都統とし、崇韜を招討使とした。この年九月十八日、親軍六万を率いてしょく川を進討した。崇韜が出発しようとして、奏上して言った、「臣は非才を以て、あやまって戎事に当たります。将士の忠力に仗り、陛下の威霊に憑り、庶幾くは克捷いたしましょう。若し西川が平定されれば、陛下が帥を選ばれるに、信厚にして善く謀り、君に事えて節有る者とすれば、則ち孟知祥にこれ有ります。蜀帥を彼に授けられますことを望みます。宰輔に人を欠く場合は、張憲には披榛(開拓)の労が有り、人となり謹重にして識多し。次に李琪・崔居儉は、中朝の士族にして、文学に富み、選んで任ずることができます」。荘宗は嘉慶殿に御し、酒宴を設けて征西の諸将を宴し、酒を挙げて崇韜にささげて言った、「継岌は未だ軍政に習わず。卿は久しく吾に従い戦伐してきた。西面の事は、卿にこれを属する」。

軍勢が発し、十月十九日に大散関に入ると、崇韜は馬鞭で険しい山を指さし、魏王に言うには、「朝廷が十万の兵を起こし、すでにこの中に入った。もし成功しなければ、どうして帰路があろうか。今、岐下の飛輓(緊急輸送)はわずか十日分を支えるのみである。必ず先に鳳州を取って、その蓄積を収め、わが事を成さねばならぬ」と。そこで李厳・康延孝に先だって書檄を馳せさせ、偽鳳州節度使王承捷を諭した。大軍が到着すると、承捷は果たして城を降し、兵八千、軍需物資四十万を得た。次に故鎮に至ると、偽命の屯駐指揮使唐景思もまた城を降し、兵四千を得た。また三泉を下し、軍需物資三十余万を得た。ここに至って、軍中に欠乏なく、軍威は大いに振るった。その招撫・措置、官吏の補任、行軍の計画、軍書・布告は、すべて崇韜の出ずるところであり、継岌は命を受けるのみであった。荘宗は内官の李廷安・李従襲・呂知柔を都統府の綱紀とし、崇韜の幕府が繁雑で、将吏が輻輳し、降人が先を争って賄賂を贈るのを見て、都統府ではただ大将が謁見するのみで、牙門は索然としていたため、これによって大いに恥辱を感じた。六軍使王宗弼が帰順し、賄賂を行ったときは、まず招討府(崇韜)に贈った。王衍が成都を降すと、崇韜は王宗弼の邸宅に居した。宗弼は王衍の妓妾・珍玩を選んで崇韜に奉り、蜀の帥となることを求め、崇韜はこれを許した。また崇韜の子・廷誨と謀り、蜀人に列状を作らせて魏王に謁見させ、崇韜を蜀帥に奏請させた。継岌は状を覧て崇韜に言うには、「主上は侍中(崇韜)を衡山・華山のように頼みとしている。どうして元老を蛮夷の地に棄てようか。況や、余は敢えてこれを議することはできない」と。

荘宗は中官の向延嗣に詔を携えて蜀に赴かせ、班師を促した。詔使が到着しても、崇韜は郊外に出迎えず、延嗣は憤慨した。従襲がこれに言うには、「魏王は貴い太子であり、主上は万福であるのに、郭公は専ら威権を弄び、傍若無人である。先日、蜀人に己を帥と請わせ、郭廷誨は徒党を擁して出入りし、その貴さは王者に擬し、親しく交わる者は、軍中の勇猛な者、蜀中の凶暴な豪族ばかりで、昼夜妓楽を楽しみ宴を開き、天を指し地を画き、父子このようである。その心を見ることができる。今、諸軍の将校は、郭氏の党でない者はなく、魏王は孤軍で弱く、一朝班師すれば、必ず紛乱を恐れ、我らは骨を曝す所を知らないであろう」と。そこで互いに顔を向けて涙を流した。延嗣は使いから戻り、詳しく奏上した。皇后は泣いて荘宗に訴え、継岌の保全を乞うた。荘宗は再び蜀の簿籍を閲覧して言うには、「蜀中の珠玉金銀は数を知らないと人は言うが、どうしてこれほど少ないのか」と。延嗣が奏上して言うには、「臣が蜀人に問うと、蜀中の宝貨はすべて崇韜の門に入ったことを知り、崇韜が金一万両、銀四十万、名馬千匹、王衍の愛妓六十人、楽工百人、犀玉帯百を得たと言います。廷誨は自ら金銀十万両、犀玉帯五十、芸色絶妙の妓七十人、楽工七十人を得、その他の財貨もこれに相当します。魏王府には、蜀人の賄賂はせいぜい馬一匹を贈る程度に過ぎません」と。荘宗は初め崇韜が蜀に留まろうとしていると聞き、心すでに平らかでなかったが、さらに蜀の妓楽珍玩をすべて有していると聞き、怒りが顔色に現れた。すぐに中官の馬彦珪を蜀に馳せ入らせ、崇韜の去就を視察させ、もし班師するならばそれまでとし、もし実際に遅留するならば、継岌と図ってこれを除くように命じた。彦珪は皇后に謁して言うには、「禍の機が発するや、間髪を容れず、どうして数千里の外で再び聖旨を稟することができましょうか」と。皇后が再びこれを言うと、荘宗は言うには、「事の真偽を知らないのに、どうしてすぐに決断させることができようか」と。皇后は自ら教書を作り継岌に与え、崇韜を殺すように命じた。当時、蜀土は初めて平定され、山林に盗賊多く、孟知祥は未だ到着せず、崇韜は任圜・張筠に分道して招撫させ、軍が還った後、部曲が安寧でないことを慮り、故に帰期をやや緩めた。

四年正月六日、馬彦珪が軍中に至り、十二日に成都を発って京に赴くことを決め、任圜に暫く留務を執らせ、知祥を待たせた。諸軍の部署が定まった後、彦珪は皇后の教書を出して継岌に示した。継岌は言うには、「大軍が発とうとしているのに、他に隙がなく、どうしてこのような負心事をなすことができようか。公らは再び言うな」と。従襲らは泣いて言うには、「聖上にはすでに口勅があり、王がもし行わなければ、仮に途中で事が漏れれば、禍患は一層深くなります」と。継岌は言うには、「上に詔書がなく、ただ皇后の教令のみで、どうして招討使を殺すことができようか」と。従襲らは巧みに事端を作ってこれを離間し、継岌は英断に欠け、やむなくこれに従った。翌朝、従襲は継岌の命を以て崇韜を召し、事を計らった。継岌は楼に登ってこれを避け、崇韜が入ると、左右がこれを殴打して殺した。崇韜には子が五人あり、廷信・廷誨は父に従って蜀で死に、廷説は洛陽で誅され、廷譲は魏州で誅され、廷議は太原で誅され、家産は没収された。明宗が即位し、詔を下して帰葬させ、なお太原の旧宅を賜った。延誨・廷譲にはそれぞれ幼子一人がおり、姻族がこれを保護して免れた。崇韜の妻周氏は、これを携えて太原で養った。

崇韜は勤労を尽くし節義を全うし、王家を輔佐し、草創の艱難にあたり、その功は比類なく、西では巴蜀はしょくを平定し、皇威を宣暢した。身の死する日、夷夏ともにこれを冤んだ。しかし議者は、崇韜の功績は多いが、事権が重すぎ、身を処し力を量らず、小人の誤った計略を聞き、泰山の安きを得ようとし、急ぎ行って跡を避けるが如く、その禍はますます速かったと考える。性質また剛直で偏狭、事に遇えばすぐに発し、前代の成敗を知らず、また当時の物情を体せず、天下を己の任とし、あまりに孟浪であった。権勢が四海に傾き、車騎が門に満ちると、士人の諂媚奉承を受け、次第に流品を区別した。同列の豆盧革が崇韜に言うには、「汾陽王(郭子儀)は代北の人で、華陰に家を移しました。侍中(崇韜)の家は代々雁門におり、祖徳によるものではありますまいか」と。崇韜は応えて言うには、「乱世を経て譜牒を失い、先人はかつて汾陽王より四世と申しておりました」と。革は言うには、「故に祖徳です」と。これによって流品を区別し、薄徳の徒を援引して心腹に委ね、佐命の勲旧は一切鄙棄した。旧僚で進取を求める者がいると、崇韜はこれに言うには、「公は代邸(荘宗の潜邸)の旧臣ではあるが、家に門閥がなく、公の才技を深く知りながら、敢えて急に進めないのは、名流が余を嗤うことを慮るからである」と。蜀征伐の行に際しては、興平で尚父・子儀の墓を拝した。かつて従容として継岌に申し上げて言うには、「蜀が平定された後、王は太子となり、千秋万歳(帝の崩御)を待ち、神器を手にすれば、宦官を尽く去り、士族を優礼すべきである。ただ閹寺を疏斥するのみならず、騸馬(宦官の比喩)を再び乗るべからず」と。内では伶官・巷伯(宦官)が怒目切歯し、外では旧僚・宿将が戟手痛心した。その族滅の禍を掇むことには、由来があったのである。また諸子が驕縱で法を守らず、蜀川を平定した後、珍貨を輦運して洛陽の邸宅に満たし、没収の日、泥封がまだ湿っていた。荘宗の末年、群小に惑わされて功臣がその終わりを保たなかったとはいえ、また崇韜自らその災禍を招いたのである。

史臣曰く、身を出して主に事え、位を得て時に遭うは、功を図らざるべからず、名を立てざるべからず。功成りて名遂ぐるに及びては、則ち望重くして身危うし、貝錦ここに文を成し、良玉これによりて先ず折る。故に崇韜の誅は、蓋し此れが為なり。是を知る、強呉滅びて范蠡去り、全斉下りて楽生奔る。苟も其の賢に非ざれば、孰か禍を免れん。明哲の士は、当に斯れを鑑とすべし。