周德威
周德威、字は鎮遠、小字は陽五、朔州馬邑の人である。初め武皇(李克用)に仕えて帳中騎督となり、驍勇にして騎射に巧み、胆気と智略は皆人に優れていた。長く雲中に在り、辺境の事情に通暁し、煙塵の警を見れば、兵勢を推し量って知った。乾寧年間、鉄林軍使となり、武皇が王行瑜を討つに当たり、功により検校左僕射を加えられ、内衙軍副に移った。
五年正月、武皇の病篤く、徳威は乱柳に退いて営した。武皇崩御。四月、徳威に班師を命ず。時に荘宗(李存勗)初めて立ち、徳威は外に兵権を握り、浮議頗るあり、内外これを憂えた。徳威既に至り、単騎で入謁し、霊柩に伏して哭し、哀しみに耐えず、ここにおいて群情氷解した。この月二十四日、荘宗に従い再び潞州を救援す。二十九日、徳威の前軍は横碾に営し、潞州より四十五里。五月朔日、朝霧晦冥、王師は三垂崗下に伏す。翌日、直ちに夾城に趨き、関を斬り壘を破り、梁人大敗し、潞州の囲みを解く。初め、徳威は李嗣昭と私憾あり、武皇臨終に顧みて荘宗に謂いて曰く「進通(李嗣昭)は忠孝にして我に背かず、重囲累年、徳威と隙あるが如し、我が命を以て諭せよ。若し重囲を解かざれば、歿して遺恨あらん」と。荘宗遺旨を伝え、徳威感泣し、ここにおいて力を励まして堅く戦い、遂に強敵を破り、嗣昭と歓愛初めの如し。功により検校太保・同平章事・振武節度使を加えられる。
七年、岐人が霊夏を攻め、使いを遣わして来援を求む。徳威は河を渡りてこれに応ず。師還り、蕃漢馬歩総管を授かる。七年十一月、汴人が深州・冀州を占拠し、汴将王景仁軍八万は柏郷に駐屯す。鎮州節度使王鎔来りて難を告ぐ。帝(荘宗)は徳威に前軍を率い井陘より出で、趙州に屯せしむ。十二月、帝親征す。二十五日、進んで汴営に迫り、柏郷より五里、野河上に営す。汴将韓(※名欠)精兵三万を率い、鎧甲皆繒綺を被り、金銀炫曜し、望むに森然たり。我が軍は懼色を形す。徳威李存璋に謂いて曰く「賊陣を結びて来る。その形勢を観るに、志は戦に在らず、兵甲を以て威を耀かさんと欲するのみ。我が軍人は乍見その来るを見て、その鋒当たるべからずと謂う。此時その鋭気を挫かざれば、吾が軍振わず」と。乃ち存璋を遣わし諸軍に諭して曰く「汝らこの賊軍を見るか。これ汴州の天武健児、皆屠沽傭販の徒、虚に表あるのみ。縦え精甲を被るも、十も一に当たらず、擒獲して以て資とすべし」と。徳威自ら精騎を率いその両翼を撃ち、左に馳せ右に決し、出没すること数四。この日、賊百余を獲、賊は河を渡りて退く。徳威荘宗に謂いて曰く「賊驕気充盛なり。兵を按じてその衰を待つべし」。荘宗曰く「我は孤軍を提げ、難を救い紛を解く。三鎮烏合の衆、利は速戦に在り。卿は持重を欲す。吾はその使うべからざるを懼る」。徳威曰く「鎮・定の士は、城を守るに長け、野戦に陣を列ぬるは、素より便習せず。我が師の賊を破るは、惟だ騎軍を恃む。平田広野、功を施し易し。今賊営を圧し、彼に我が虚実を見せしむれば、則ち勝負必ずしも可ならず」。荘宗悦ばず、退いて帳中に臥す。徳威これを患い、監軍張承業に謂いて曰く「王は速戦を欲し、烏合の徒を将いて、劇賊に当らんとす。所謂力を量らざるなり。賊に咫尺を去り、この一渠の水を限る。彼若し早夜に略彴を以てこれを渡らば、吾が族俘と為らん。若し軍を退き鄗邑に引き、賊を離れて営せしめ、彼出でれば帰り、復た軽騎を以てその芻餉を掠めば、一月を逾えずして、賊を敗ること必ず」。承業入りて言う。荘宗乃ち釈然とす。徳威降人を得てこれを問うに、「景仁浮橋を造るを下令すること数日」と曰う。果たして徳威の料る所の如し。二十七日、乃ち軍を退き鄗邑を保つ。
八年正月二日、徳威は騎軍を率い柏郷にて師を致し、村塢の間に伏兵を設け、三百騎をして汴営を圧せしむ。王景仁その衆を悉くして陣を結び来る。徳威転戦して退く。汴軍これに乗じ、鄗邑の南に至る。時に歩軍は未だ列を成さず、徳威は騎兵を河上に陣してこれに抗す。亭午、両軍皆陣す。荘宗戦う時を問う。徳威曰く「汴軍気盛んなり。労逸を以てこれを制すべし。造次に力を較ぶれば、殆ど敵と難し。古より師行は一舍を逾えず。蓋し糧餉給せざるを慮り、士に飢色あるが故なり。今賊遠来して決戦す。縦え糗糒を挟むも、亦食う遑あらず。晡晚の後、飢渴内に侵し、戦陣外に迫る。士心既に倦み、将は必ず退くを求む。その労弊に乗じ、生兵を以てこれを制せば、縦え大敗せずとも、偏師必ず喪わん。臣の籌うる所を以てすれば、利は晡晚に在り」。諸将皆これ然りとす。時に汴軍は魏・博の人を以て右広と為し、宋・汴の人を以て左広と為す。未より申に至るまで、陣勢稍く退く。徳威軍を麾し呼ばしめて曰く「汴軍走る!」。塵埃天に漲る。魏人は軍を収めて漸く退く。荘宗は史建瑭・安金全等と因ってその陣を衝き、夾攻して、汴軍を大敗せしめ、殺戮殆ど尽くす。王景仁・李思安は僅かに身を以て免る。将校二百八十人を獲る。
八月、劉守光僭って大燕皇帝と称す。十二月、徳威に歩騎三万を率い飛狐より出で、鎮州将王徳明・定州将程厳等の軍と共に進討せしむ。九年正月、涿州を収め、刺史劉知温を降す。五月七日、劉守光は驍将単廷珪に精甲万人を督せしめて出戦せしむ。徳威は龍頭崗にてこれに遇う。初め、廷珪左右に謂いて曰く「今日周陽五を擒らん」と。既に陣に臨み、徳威を見るや、廷珪は単騎で槍を執り躬く徳威を追う。垂んとして及ばんとす。徳威側身してこれを避く。廷珪稍く退く。徳威奮って楇を揮い南にその馬を墜とし、廷珪を生け捕りす。賊党大敗し、首級三千を斬り、大将李山海等五十二人を獲る。十二日、徳威は涿州より進軍して良郷・大城に至る。守光は廷珪を失い、ここより気を奪わる。徳威の師は屡々諸郡を収め、降る者相継ぐ。十年十一月、守光父子を擒らえ、幽州平ぐ。十二月、徳威に検校侍中・幽州盧龍等軍節度使を授く。
周徳威は忠孝の性を有し、武皇(李克用)の賞遇に感じ、常に難に臨みて身を忘れんことを思う。十二月、汴将劉鄩が洹水より虚に乗じて太原を寇せんとし、徳威は幽州に在りてこれを聞き、径ちに五百騎を以て土門に馳せ入る。劉鄩の軍が楽平に至りて進まずと聞き、徳威は径ちに南宮に至りて汴軍を候う。初め、劉鄩は臨清を拠りて鎮・定の転餉の路を扼せんと欲し、行くこと陳宋口に次ぐ。徳威は将を遣わして数十人を擒え、皆刃を背に倳し、縶してこれを遣わす。既に至りて、劉鄩に謂いて曰く「周侍中は既に宗城を拠れり」と。徳威はその夜急騎を以て臨清を扼し、劉鄩は乃ち貝州に入る。是の時、徳威若し至らざれば、則ち勝負知るべからざるなり。
徳威は身長く面黒く、笑いて容を改めず。凡そ敵に対し陣を列するに、凛凛然として肅殺の風有り。中興の朝、名将と号す。其の歿するに及び、人皆これを惜しむ。同光初、太師を追贈す。天成年中、詔して李嗣昭・符存審と共に荘宗廟廷に配饗せしむ。晋高祖即位し、燕王を追封す。
子光輔、汾・汝州刺史を歴任す。
符存審
符存審、字は德詳、陳州宛邱の人なり。(『歐陽史・義兒傳』、惟だ符存審のみ其の列に在らず、別に自ら傳を為す。蓋し存審の子彦卿、女有りて宋太宗の后と為るを以て、故に其の本姓を存すなり。)旧名は存。父楚、本州の牙将。存審は少より豪俠にして、智算多く、兵家の事を言う。乾符末、河南に盗起こり、存審は豪右を鳩率し、州裏を庇捍す。会に郡人李罕之、群盗より起りて光州刺史を授かり、因り往きてこれに依る。中和末、罕之は蔡寇に逼られて郡を棄て諸葛爽に投ず。存審これに従いて河陽に至り、小校と為り、屡々蔡賊と戦い功有り。諸葛爽卒し、罕之は其の部将に逼られて出でて懷州を保つ。部下分散す。存審は乃ち武皇(李克用)に帰す。武皇は右職に署し、義兒軍を典せしめ、姓名を賜う。
十四年八月、兵を将いて幽州に在る周德威を援け、契丹の衆を敗る。冬、汴将安彦之を楊劉に破る。諸軍進みて麻口に営す。時に梁将謝彦章、行台村に営す。荘宗は接戦に勇み、毎に軽騎を以てこれに当たり、窘しめらるる者数四。存審は毎に其の出づるを俟ち、必ず馬を叩きて諫めて曰く「王将に唐の宗社を復せんとす、宜しく天下の為に自ら愛すべし。旗を搴ぎて挑戦するは、一劍の任、聖德に益無し。臣に効を責め請う。古人は賊を以て君父に遺さず。臣武無きも、敢えて君の憂いを代えざらんや」と。荘宗時に車駕を回す。十二月、胡柳に戦う。晡晚の後、存審は其の率いる所の銀槍效節軍を引き、土山下にて梁軍を敗る。是の日辰巳の間、周德威戦歿す。一軍逗撓す。梁軍四面より集まる。存審は其の子彦圖と共に刃を冒し血戦し、賊陣に出没し、荘宗の軍と合す。午後、師復た集まり、汴人を撃ち敗る。
十六年春、周德威に代わり内外蕃漢馬歩總管と為り、德勝口に南北の城を築きて以てこれに拠る。七月、汴将王瓚、黎陽より河を渡り澶州を寇す。存審拒戦す。王瓚退き、楊村渡に営し、我が上遊を控う。是より日々交鋒し、対壘経年、大小凡そ百余戦す。
天祐十七年、汴将劉鄩が同州を攻め、朱友謙が我が方に援軍を求めたので、存審と李嗣昭に兵を率いて赴かせた。九月、河中に駐屯し、進んで朝邑に陣を布いた。当時、河中は長らく梁に臣従しており、人々は両端を持していたが、諸軍が大挙して集結すると、糧秣の価格が暴騰した。嗣昭は彼らが翻覆することを恐れ、急戦を挑んで勝負を決しようとした。十日ほど経った頃、梁軍が我が陣営に迫った。ちょうど望気者(気象を観る者)が、西南に黒気が闘鶏の如き形状をなしているのは、戦陣の兆しであると言った。存審は言う、「我らはまさに決戦を望んでいたところに、気象に形が現れた。天の助けではないか!」と。その夜、兵士を閲し、翌朝進軍した。梁軍が迎え撃って来たが、これを大いに破り、追撃して二千余級を斬った。これより梁軍は堡塁を守って出て来なくなった。存審は嗣昭に言った、「私は当初、劉鄩が渭河を占拠することを恐れていた。偏師が既に敗れた今、彼らが退却して帰ろうとするならば、我らが追撃することを恐れるだろう。窮した獣は人に食いつくもので、油断はならない。退路を開けてやった上で、追撃すべきである」。そこで王建及に沙苑で馬を放牧させた。劉鄩と尹皓はこれを知り、兵を守って退去した。こうして同州の包囲は解けた。(《歐陽史》によれば、劉鄩は晋軍がやがて弛むと考え、夜に遁走した。存審は渭河で追撃し、また大いにこれを破った。)存審は奉先まで略地し、諸帝の陵を拝謁して、軍を返した。
天祐十八年、王師が鎮州の張文礼を討ち、李嗣昭・李存進が相次いで戦死した。十九年、存審に命じて師を率い城下で叛帥を攻撃させた。文礼の将李再豊が密かに存審に内応を申し出、我が軍は夜半に城に登り、文礼の子処球らを捕らえ、露布(勝利の報せ)を献上した。鎮州が平定され、功により検校太傅・兼侍中を加えられた。
天祐二十年正月、軍は魏州に帰還した。荘宗は城外に出て慰労し、その邸宅で宴楽を行った。間もなく、契丹が燕薊を侵犯した。郭崇韜が上奏して言う、「汴寇(梁)は未だ平らず、李継韜は背いた。北辺の防禦は、存審でなければならない」。帝は中使を遣わしてこれを諭させた。存審は臥病して痩せ衰え、付けて奏上した、「臣は忠を効し命を承り、敢えて辞するものではありません。ただ病が纏綿し、役事に堪えられません」。やがて詔があり、存審は本官のまま幽州盧龍節度使に充てられ、鎮州から任地に赴いた。同光初年、開府儀同三司・検校太師・中書令・食邑千戸を加えられ、忠烈扶天啓運功臣の号を賜った。
十月、梁を平定し、都を洛陽に遷した。存審は自らが大将でありながら、中原回復の功に与ることができず、旧疾がますます激しくなり、強く入朝して医を求めたいと請い、その心情を郭崇韜に告げた。当時、崇韜は一時の自負心から、佐命の功は己より右に出る者なく、功名と声望は元来存審の下にあったが、権勢が隆盛となるや、人々が輻湊したため、存審が己の上に立つことを望まず、存審が入朝を求める章奏がある度に、密かに阻んだ。存審の妻郭氏が崇韜に泣いて訴えた、「我が夫は国のために奔走し、公とは郷里の親旧です。公はどうして彼を北の荒れ地に死なせ棄てようとなさるのか、なんと無情なことでしょう」。崇韜はますます慚愧した。翌年春、存審の病は重くなり、切実な上章をして、生きて天子の顔を拝したいと乞うたが、許されなかった。存審は枕に伏して嘆いた、「老夫は二主に仕え、四十年に及んだ。幸い今日天下一家に遇い、遠夷極塞の者さえも皆、彤墀(宮殿の階段)に面して拝謁し、射鉤斬祛(過去の仇敵)の者でさえ、誰もが丹陛(宮殿の階段)で杯を奉っていない者はいない。ただ私だけが阻まれている。これも運命ではないか!」。病状が次第に危篤となったため、崇韜が存審の入朝を許すよう奏請した。四月、制により存審を宣武軍節度使・諸道蕃漢馬歩総管に任じた。詔が届く前に、五月十五日、幽州の官舎で卒去した。時に六十三歳。遺命により太原に葬られた。存審の遺奏には、面謁できなかったことを陳述し、言葉の趣きは哀れであった。荘宗は久しく震悼し、三日間朝を廃し、尚書令を追贈した。
存審は若くして軍中にあり、機微を識り変事を知り、行軍出師には法令厳明で、決策制勝に遺悔はなく、功名は周徳威と匹敵し、共に近代の良将であった。常に諸子を戒めて言った、「私はもと寒家の出身で、幼少の頃一剣を携えて郷里を離れ、四十年の間に、位は将相の極みに至った。その間、艱難に屯し、鋒刃を踏み冒し、万死の中に一生もなく、身がようやくここに至った。前後で矢を受けたのは百余箇所に及ぶ」。そして鏃(矢じり)を取り出して諸子に見せ、奢侈を戒めとした。
存審が微賤の時、捕虜となったことがあり、郊外で処刑されようとした。臨刑の際、危うい垣を指して主刑者に言った、「この下で斬ってください。垣が崩れて屍を覆ってくれれば、旅の魂の幸いです」。主刑者はこれを哀れみ、場所を移してやった。その猶予の間に、主将が妓を抱えて酒を飲み、歌う者を得て楽しみを助けようと思った。妓が言う、「捕虜の中に符存審という者がおります。妾の旧知で、よく節を打たせて歌の調子を合わせさせました」。主将は喜び、騎馬を馳せて彼を赦した。これも運命ではなかったか!
存審の次子彦饒は、《晉史》に伝がある。次いで彦卿は、鳳翔節度使・守太師・中書令を歴任し、魏王に封ぜられ、今は洛陽に住む。次いで彦能は、楚州防禦使の任で終わった。次いで彦琳は、皇朝(宋朝)に仕えて金吾上将軍となり、任中に卒去した。