舊五代史

唐書三十二: 列傳八 周德威 符存審

唐書三十二: 列傳八 周德威 符存審

周德威

原文周德威

周德威、字あざなは鎮遠、小字は陽五、朔州馬邑の人である。初め武皇(李克用)に仕えて帳中騎督となり、驍勇にして騎射に巧み、胆気と智略は皆人に優れていた。長く雲中に在り、辺境の事情に通暁し、煙塵の警を見れば、兵勢を推し量って知った。乾寧年間、鉄林軍使となり、武皇が王行瑜を討つに当たり、功により検校けんぎょう左僕射を加えられ、内衙軍副に移った。

原文周德威,字鎮遠,小字陽五,朔州馬邑人也。初事武皇為帳中騎督,驍勇,便騎射,膽氣智數皆過人。久在雲中,諳熟邊事,望煙塵之警,懸知兵勢。乾寧中,為鐵林軍使,武皇討王行瑜,以功加檢校左僕射,移內衙軍副。

天復年間、我が軍は蒲県にて不利となり、汴将の朱友寧・氏叔琮が晋陽に迫った。時に諸軍は未だ集まらず、城中は大いに恐れた。徳威は李嗣昭と共に鋭兵を選抜募集して諸門より出撃し、その堡塁を攻め、生け捕り斬り取りし、汴人は防ぎ支える暇もなく、遂に退いた。天祐三年、李嗣昭と共に燕軍を合わせて潞州を攻め、丁会を降し、功により検校太保・代州刺史を加えられ、嗣昭に代わって蕃漢都将となった。李思安が潞州を寇した時、徳威は余吾に軍を置いた。時に汴軍十万は夾城を築き、潞州を包囲し、内外は断絶した。徳威は精騎をもってこれに迫り、屡々汴人を破り、進んで高河に営し、遊騎をしてその芻牧を遮断せしめた。汴軍は壁を閉じて出ず、乃ち東南山口より甬道を築き柵を立てて夾城に通じた。徳威の騎軍は、牆を倒し塹を埋め、日に数十戦し、前後俘斬すること数えきれず。梁の驍将たる黄角鷹・方骨侖は、皆生け捕りにした。

原文天復中,我師不利於潘縣,汴將朱友寧、氏叔琮來逼晉陽。時諸軍未集,城中大恐,德威與李嗣昭選募銳兵出諸門,攻其壘,擒生斬馘,汴人枝梧不暇,乃退。天祐三年,與李嗣昭合燕軍攻潞州,降丁會,以功加檢校太保、代州刺史;代嗣昭為蕃漢都將。李思安之寇潞州也,德威軍於餘吾。時汴軍十萬築夾城,圍潞州,內外斷絕,德威以精騎薄之,屢敗汴人,進營高河,令遊騎邀其芻牧。汴軍閉壁不出,乃自東南山口築甬道樹柵以通夾城,德威之騎軍,倒牆堙塹,日數十戰,前後俘馘,不可勝紀。梁有驍將黃角鷹、方骨侖,皆生致之。

五年正月、武皇の病篤く、徳威は乱柳に退いて営した。武皇崩御。四月、徳威に班師を命ず。時に荘宗(李存勗)初めて立ち、徳威は外に兵権を握り、浮議頗るあり、内外これを憂えた。徳威既に至り、単騎で入謁し、霊柩に伏して哭し、哀しみに耐えず、ここにおいて群情氷解した。この月二十四日、荘宗に従い再び潞州を救援す。二十九日、徳威の前軍は横碾に営し、潞州より四十五里。五月朔日、朝霧晦冥、王師は三垂崗下に伏す。翌日、直ちに夾城に趨き、関を斬り壘を破り、梁人大敗し、潞州の囲みを解く。初め、徳威は李嗣昭と私憾あり、武皇臨終に顧みて荘宗に謂いて曰く「進通(李嗣昭)は忠孝にして我に背かず、重囲累年、徳威と隙あるが如し、我が命を以て諭せよ。若し重囲を解かざれば、歿して遺恨あらん」と。荘宗遺旨を伝え、徳威感泣し、ここにおいて力を励まして堅く戦い、遂に強敵を破り、嗣昭と歓愛初めの如し。功により検校太保・同平章事・振武節度使せつどしを加えられる。

原文五年正月,武皇疾篤,德威退營亂柳,武皇厭代。四月,命德威班師。時莊宗初立,德威外握兵柄,頗有浮議,內外憂之。德威既至,單騎入謁,伏靈柩哭,哀不自勝,由是群情釋然。是月二十四日,從莊宗再援潞州。二十九日,德威前軍營橫碾,距潞四十五里。五月朔,晨霧晦暝,王師伏於三垂崗下。翌日,直趨夾城,斬關破壘,梁人大敗,解潞州之圍。初,德威與李嗣昭有私憾,武皇臨終顧謂莊宗曰:「進通忠孝不負我,重圍累年,似與德威有隙,以吾命諭之,若不解重圍,歿有遺恨。」莊宗達遺旨,德威感泣,由是勵力堅戰,竟破強敵,與嗣昭歡愛如初。以功加檢校太保、同平章事、振武節度使。

七年、岐人が霊夏を攻め、使いを遣わして来援を求む。徳威は河を渡りてこれに応ず。師還り、蕃漢馬歩総管を授かる。七年十一月、汴人が深州・冀州を占拠し、汴将王景仁軍八万は柏郷に駐屯す。鎮州節度使王鎔来りて難を告ぐ。帝(荘宗)は徳威に前軍を率い井陘より出で、趙州に屯せしむ。十二月、帝親征す。二十五日、進んで汴営に迫り、柏郷より五里、野河上に営す。汴将韓(※名欠)精兵三万を率い、鎧甲皆繒綺を被り、金銀炫曜し、望むに森然たり。我が軍は懼色を形す。徳威李存璋に謂いて曰く「賊陣を結びて来る。その形勢を観るに、志は戦に在らず、兵甲を以て威を耀かさんと欲するのみ。我が軍人は乍見その来るを見て、その鋒当たるべからずと謂う。此時その鋭気を挫かざれば、吾が軍振わず」と。乃ち存璋を遣わし諸軍に諭して曰く「汝らこの賊軍を見るか。これ汴州べんしゅうの天武健児、皆屠沽傭販の徒、虚に表あるのみ。縦え精甲を被るも、十も一に当たらず、擒獲して以て資とすべし」と。徳威自ら精騎を率いその両翼を撃ち、左に馳せ右に決し、出没すること数四。この日、賊百余を獲、賊は河を渡りて退く。徳威荘宗に謂いて曰く「賊驕気充盛なり。兵を按じてその衰を待つべし」。荘宗曰く「我は孤軍を提げ、難を救い紛を解く。三鎮烏合の衆、利は速戦に在り。卿は持重を欲す。吾はその使うべからざるを懼る」。徳威曰く「鎮・定の士は、城を守るに長け、野戦に陣を列ぬるは、素より便習せず。我が師の賊を破るは、惟だ騎軍を恃む。平田広野、功を施し易し。今賊営を圧し、彼に我が虚実を見せしむれば、則ち勝負必ずしも可ならず」。荘宗悦ばず、退いて帳中に臥す。徳威これを患い、監軍張承業に謂いて曰く「王は速戦を欲し、烏合の徒を将いて、劇賊に当らんとす。所謂力を量らざるなり。賊に咫尺を去り、この一渠の水を限る。彼若し早夜に略彴を以てこれを渡らば、吾が族俘と為らん。若し軍を退き鄗邑に引き、賊を離れて営せしめ、彼出でれば帰り、復た軽騎を以てその芻餉を掠めば、一月を逾えずして、賊を敗ること必ず」。承業入りて言う。荘宗乃ち釈然とす。徳威降人を得てこれを問うに、「景仁浮橋を造るを下令すること数日」と曰う。果たして徳威の料る所の如し。二十七日、乃ち軍を退き鄗邑を保つ。

原文七年,岐人攻靈夏,遣使來求助,德威渡河以應之;師還,授蕃漢馬步總管。七年十一月,汴人據深、冀,汴將王景仁軍八萬次柏鄉,鎮州節度使王鎔來告難,帝遣德威率前軍出井陘,屯於趙州。十二月,帝親征。二十五日,進薄汴營,距柏鄉五里,營於野河上。汴將韓率精兵三萬,鎧甲皆被繒綺,金銀炫曜,望之森然,我軍懼形於色。德威謂李存璋曰:「賊結陣而來,觀其形勢,誌不在戰,欲以兵甲耀威耳。我軍人乍見其來,謂其鋒不可當,此時不挫其銳,吾軍不振矣!」乃遣存璋諭諸軍曰:「爾見此賊軍否?是汴州天武健兒,皆屠沽傭販,虛有表耳,縱被精甲,十不當一,擒獲足以為資。」德威自率精騎擊其兩偏,左馳右決,出沒數四。是日,獲賊百餘人,賊渡河而退。德威謂莊宗曰:「賊驕氣充盛,宜按兵以待其衰。」莊宗曰:「我提孤軍,救難解紛,三鎮烏合之眾,利在速戰,卿欲持重,吾懼其不可使也。」德威曰:「 鎮、定之士,長於守城,列陣野戰,素非便習。我師破賊,惟恃騎軍,平田廣野,易為施功。今壓賊營,令彼見我虛實,則勝負未可必也。」莊宗不悅,退臥帳中。德威患之,謂監軍張承業曰:「王欲速戰,將烏合之徒,欲當劇賊,所謂不量力也。去賊咫尺,限此一渠水,彼若早夜以略彴渡之,吾族其為俘矣。若退軍鄗邑,引賊離營,彼出則歸,復以輕騎掠其芻餉,不逾月,敗賊必矣。」承業入言,莊宗乃釋然。德威得降人問之,曰「景仁下令造浮橋數日」,果如德威所料。二十七日,乃退軍保鄗邑。

八年正月二日、徳威は騎軍を率い柏郷にて師を致し、村塢の間に伏兵を設け、三百騎をして汴営を圧せしむ。王景仁その衆を悉くして陣を結び来る。徳威転戦して退く。汴軍これに乗じ、鄗邑の南に至る。時に歩軍は未だ列を成さず、徳威は騎兵を河上に陣してこれに抗す。亭午、両軍皆陣す。荘宗戦う時を問う。徳威曰く「汴軍気盛んなり。労逸を以てこれを制すべし。造次に力を較ぶれば、殆ど敵と難し。古より師行は一舍を逾えず。蓋し糧餉給せざるを慮り、士に飢色あるが故なり。今賊遠来して決戦す。縦え糗糒を挟むも、亦食う遑あらず。晡晚の後、飢渴内に侵し、戦陣外に迫る。士心既に倦み、将は必ず退くを求む。その労弊に乗じ、生兵を以てこれを制せば、縦え大敗せずとも、偏師必ず喪わん。臣の籌うる所を以てすれば、利は晡晚に在り」。諸将皆これ然りとす。時に汴軍は魏・博の人を以て右広と為し、宋・汴の人を以て左広と為す。未より申に至るまで、陣勢稍く退く。徳威軍を麾し呼ばしめて曰く「汴軍走る!」。塵埃天に漲る。魏人は軍を収めて漸く退く。荘宗は史建瑭・安金全等と因ってその陣を衝き、夾攻して、汴軍を大敗せしめ、殺戮殆ど尽くす。王景仁・李思安は僅かに身を以て免る。将校二百八十人を獲る。

原文八年正月二日,德威率騎軍致師於柏鄉,設伏於村塢間,令三百騎以壓汴營。王景仁悉其眾結陣而來,德威轉戰而退,汴軍因而乘之,至於鄗邑南。時步軍未成列,德威陣騎河上以抗之。亭午,兩軍皆陣,莊宗問戰時,德威曰:「汴軍氣盛,可以勞逸製之,造次較力,殆難與敵。古者師行不逾一舍,蓋慮糧餉不給,士有饑色。今賊遠來決戰,縱挾糗糒,亦不遑食。晡晚之後,饑渴內侵,戰陣外迫,士心既倦,將必求退。乘其勞弊,以生兵製之,縱不大敗,偏師必喪。以臣所籌,利在晡晚。」諸將皆然之。時汴軍以魏、博之人為右廣,宋、汴之人為左廣,自未至申,陣勢稍卻,德威麾軍呼曰:「汴軍走矣!」塵埃漲天,魏人收軍漸退。莊宗與史建瑭、安金全等因衝其陣,夾攻之,大敗汴軍,殺戮殆盡;王景仁、李思安僅以身免,獲將校二百八十人。

八月、劉守光僭って大燕皇帝と称す。十二月、徳威に歩騎三万を率い飛狐より出で、鎮州将王徳明・定州将程厳等の軍と共に進討せしむ。九年正月、涿州を収め、刺史劉知温を降す。五月七日、劉守光は驍将単廷珪に精甲万人を督せしめて出戦せしむ。徳威は龍頭崗にてこれに遇う。初め、廷珪左右に謂いて曰く「今日周陽五を擒らん」と。既に陣に臨み、徳威を見るや、廷珪は単騎で槍を執り躬く徳威を追う。垂んとして及ばんとす。徳威側身してこれを避く。廷珪稍く退く。徳威奮って楇を揮い南にその馬を墜とし、廷珪を生け捕りす。賊党大敗し、首級三千を斬り、大将李山海等五十二人を獲る。十二日、徳威は涿州より進軍して良郷・大城に至る。守光は廷珪を失い、ここより気を奪わる。徳威の師は屡々諸郡を収め、降る者相継ぐ。十年十一月、守光父子を擒らえ、幽州平ぐ。十二月、徳威に検校侍中じちゅう・幽州盧龍等軍節度使を授く。

原文八月,劉守光僭稱大燕皇帝。十二月,遣德威率步騎三萬出飛狐,與鎮州將王德明、定州將程嚴等軍進討。九年正月,收涿州,降刺史劉知溫。五月七日,劉守光令驍將單廷珪督精甲萬人出戰,德威遇於龍頭崗。初,廷珪謂左右曰:「今日擒周陽五。」既臨陣,見德威,廷珪單騎持槍躬追德威,垂及,德威側身避之,廷珪少退,德威奮楇南墜其馬,生獲廷珪,賊黨大敗,斬首三千級,獲大將李山海等五十二人。十二日,德威自涿州進軍良鄉、大城。守光既失廷珪,自是奪氣。德威之師,屢收諸郡,降者相繼。十年十一月,擒守光父子,幽州平。十二月,授德威檢校侍中、幽州盧龍等軍節度使。

周徳威は忠孝の性を有し、武皇(李克用)の賞遇に感じ、常に難に臨みて身を忘れんことを思う。十二月、汴将劉鄩が洹水より虚に乗じて太原を寇せんとし、徳威は幽州に在りてこれを聞き、径ちに五百騎を以て土門に馳せ入る。劉鄩の軍が楽平に至りて進まずと聞き、徳威は径ちに南宮に至りて汴軍を候う。初め、劉鄩は臨清を拠りて鎮・定の転餉の路を扼せんと欲し、行くこと陳宋口に次ぐ。徳威は将を遣わして数十人を擒え、皆刃を背に倳し、縶してこれを遣わす。既に至りて、劉鄩に謂いて曰く「周侍中は既に宗城を拠れり」と。徳威はその夜急騎を以て臨清を扼し、劉鄩は乃ち貝州に入る。是の時、徳威若し至らざれば、則ち勝負知るべからざるなり。

原文德威性忠孝,感武皇獎遇,嘗思臨難忘身。十二月,汴將劉鄩自洹水乘虛將寇太原,德威在幽州聞之,徑以五百騎馳入土門,聞鄩軍至樂平不進,德威徑至南宮以候汴軍。初,劉鄩欲據臨清以扼鎮、定轉餉之路,行次陳宋口,德威遣將擒數十人,皆倳刃於背,縶而遣之。既至,謂劉鄩曰:「周侍中已據宗城矣!」德威其夜急騎扼臨清,劉鄩乃入貝州。是時德威若不至,則勝負不可知也。

十四年三月、契丹きったんが新州を寇す。徳威利あらず、范陽に退きて保つ。(『遼史・太祖たいそ紀』:神冊二年三月辛亥、幽州を攻む。節度使周徳威、幽・并・鎮・定・魏五州の兵を以て居庸関の西に拒戦し、新州の東に戦い、大いにこれを破り、首三萬級を斬る。又、『通鑒』:契丹主衆三十萬を帥い、徳威衆寡敵せず、大いに契丹に敗る。)敵衆攻むること僅かに二百日、外援未だ至らず。徳威は士衆を撫循し、昼夜城に乗じ、竟に保守を獲たり。十五年、我が師麻口渡に営し、将に大挙して汴州を定めんとす。徳威は幽州より本軍を率いて至る。十二月二十三日、軍胡柳陂に次ぐ。詰旦、騎報いて曰く「汴軍至れり」と。荘宗(李存勗)は戦備を問わしむ。徳威奏して曰く「賊倍道にして来たり、未だ営壘を成さず。我が営柵は已に固く、守備余り有り。既に賊疆に深入すれば、須らく万全の策を決すべし。此を去ること大梁信宿、賊の家屬、尽く其の間に在り。人の常情、孰れか家国を念とせざらん。我が深入の衆を以て、彼の激憤の軍に抗し、方略を以てこれを制せざれば、恐らく必勝し難からん。王但だ軍を按じ柵を保たれよ。臣騎軍を以てこれを疲らし、彼をして営を下すことを得ざらしめ、際晚、糧餉給せず、進退据る所無く、因りてこれを乗ずるは、賊を破るの道なり」と。荘宗曰く「河上終日挑戦し、賊に遇わざるを恨む。今款門して戦わざるは、壮夫に非ず」と。乃ち親軍を率いて列を成して出づ。徳威已むを得ず、これに従う。其の子に謂いて曰く「吾其の死する所を知らず」と。荘宗は汴将王彦章と接戦し、大いにこれを敗る。徳威の軍は東偏に在り、汴の遊軍我が輜重に入る。衆駭き、徳威の軍に奔り入る。因りて紛擾して行列無し。徳威兵少なく、解くこと能わず、父子俱に戦歿す。是に先立ち、鎮星上将を犯す。星占者云う、大将に利あらずと。是の夜軍を収むるに、徳威至らず。荘宗慟哭して諸将に謂いて曰く「我が良将を喪う、吾が咎なり」と。

原文十四年三月,契丹寇新州,德威不利,退保范陽。(《遼史·太祖紀》:神冊二年三月辛亥,攻幽州,節度使周德威以幽、并、鎮、定、魏五州兵拒戰於居庸關之西,戰於新州東,大破之,斬首三萬級。又,《通鑒》:契丹主帥眾三十萬,德威眾寡不敵,大為契丹所敗。)敵眾攻僅二百日,外援未至,德威撫循士眾,晝夜乘城,竟獲保守。十五年,我師營麻口渡,將大舉以定汴州。德威自幽州率本軍至。十二月二十三日,軍次胡柳陂。詰旦,騎報曰:「汴軍至矣!」 莊宗使問戰備,德威奏曰:「賊倍道而來,未成營壘,我營柵已固,守備有餘,既深入賊疆,須決萬全之策。此去大梁信宿,賊之家屬,盡在其間,人之常情,孰不以家國為念?以我深入之眾,抗彼激憤之軍,不以方略製之,恐難必勝。王但按軍保柵,臣以騎軍疲之,使彼不得下營,際晚,糧餉不給,進退無據,因以乘之,破賊之道也。」莊宗曰:「河上終日挑戰,恨不遇賊,今款門不戰,非壯夫也!」乃率親軍成列而出,德威不獲已,從之。謂其子曰:「吾不知其死所矣!」莊宗與汴將王彥章接戰,大敗之。德威之軍在東偏,汴之遊軍入我輜重,眾駭,奔入德威軍,因紛擾無行列。德威兵少,不能解,父子俱戰歿。先是,鎮星犯上將,星占者雲,不利大將。是夜收軍,德威不至,莊宗慟哭謂諸將曰:「喪我良將,吾之咎也!」

徳威は身長く面黒く、笑いて容を改めず。凡そ敵に対し陣を列するに、凛凛然として肅殺の風有り。中興の朝、名将と号す。其の歿するに及び、人皆これを惜しむ。同光初、太師を追贈す。天成年中、詔して李嗣昭・符存審と共に荘宗廟廷に配饗せしむ。晋高祖こうそ即位し、燕王を追封す。

原文德威身長麵黑,笑不改容,凡對敵列陣,凜廩然有肅殺之風。中興之朝,號為名將。及其歿也,人皆惜之。同光初,追贈太師。天成中,詔與李嗣昭、符存審配饗莊宗廟廷。晉高祖即位,追封燕王。

子光輔、汾・汝州刺史を歴任す。

原文子光輔,曆汾、汝州刺史。

符存審

原文符存審

符存審、字は德詳、陳州宛邱の人なり。(『歐陽史・義兒傳』、惟だ符存審のみ其の列に在らず、別に自ら傳を為す。蓋し存審の子彦卿、女有りて宋太宗の后と為るを以て、故に其の本姓を存すなり。)旧名は存。父楚、本州の牙将。存審は少より豪俠にして、智算多く、兵家の事を言う。乾符末、河南に盗起こり、存審は豪右を鳩率し、州裏を庇捍す。会に郡人李罕之、群盗より起りて光州刺史を授かり、因り往きてこれに依る。中和末、罕之は蔡寇に逼られて郡を棄て諸葛爽に投ず。存審これに従いて河陽に至り、小校と為り、屡々蔡賊と戦い功有り。諸葛爽卒し、罕之は其の部将に逼られて出でて懷州を保つ。部下分散す。存審は乃ち武皇(李克用)に帰す。武皇は右職に署し、義兒軍を典せしめ、姓名を賜う。

原文符存審,字德詳,陳州宛邱人,(《歐陽史·義兒傳》,惟符存審不在其列,別自為傳。蓋存審子彥卿有女為宋太宗後,故存其本姓也。)舊名存。父楚,本州牙將。存審少豪俠,多智算,言兵家事。乾符末,河南盜起,存審鳩率豪右,庇捍州裏。會郡人李罕之起自群盜,授光州刺史,因往依之。中和末,罕之為蔡寇所逼,棄郡投諸葛爽;存審從至河陽,為小校,屢戰蔡賊有功。諸葛爽卒,罕之為其部將所逼,出保懷州,部下分散,存審乃歸於武皇。武皇署右職,令典義兒軍,賜姓名。

存審は性謹厚にして、寵遇日隆し。是より武皇西征するに、存審常に従い、至る所功を立てる。赫連鐸を討つに従い、刃を冒して死戦し、血流れて袖に盈つ。武皇手ずから瘡を封じ、日夕臨問す。乾寧初、李匡儔を討つ。存審前軍として居庸関を抜く。明年、邠州を討つに従う。時に邠の勁兵、龍泉寨に屯す。四面懸崖、石壁険固なり。存審奮力してこれを抜く。師旋り、檢校左僕射を授かる。李嗣昭に副い汾州にて李瑭を討ち、これを擒え、功を以て左右廂歩軍都指揮使に改む。天祐三年、蕃漢馬歩副指揮使を授かり、李嗣昭と共に上黨にて丁會を降す。周德威に従い夾城にて賊を破り、檢校司徒しとを加えられ、忻州刺史を授かり、蕃漢馬歩都指揮使を領す。七年、檢校太保を加えられ、蕃漢副總管を充す。荘宗、柏郷にて汴人を撃つ。存審を留めて太原を守らしむ。三月、李存璋に代わり趙州を戍る。九年、梁祖、蓚縣を攻む。存審は史建瑭・李嗣肱と共に赴援し、下博橋に屯す。汴人驚乱し、営を焼きて遁ぐ。功を以て遥かに邢・洺・磁團練使を領す。

原文存審性謹厚,寵遇日隆,自是武皇西征,存審常從,所至立功。從討赫連鐸,冒刃死戰,血流盈袖,武皇手自封瘡,日夕臨問。乾寧初,討李匡儔,存審前軍拔居庸關。明年,從討邠州,時邠之勁兵屯龍泉寨,四面懸崖,石壁險固,存審奮力拔之。師旋,授檢校左僕射。副李嗣昭討李瑭於汾州,擒之,以功改左右廂步軍都指揮使。天祐三年,授蕃漢馬步副指揮使,與李嗣昭降丁會於上黨,從周德威破賊於夾城,加檢校司徒,授忻州刺史,領蕃漢馬步都指揮使。七年,加檢校太保,充蕃漢副總管。莊宗擊汴人於柏鄉,留存審守太原。三月,代李存璋戍趙州。九年,梁祖攻蓚縣,存審與史建瑭、李嗣肱赴援,屯下博橋,汴人驚亂,燒營而遁,以功遙領邢、洺、磁團練使。

十二年、魏博、荘宗に帰款す。存審を遣わし前鋒を率い臨清を拠り、以て進取を俟たしむ。荘宗、魏に入る。存審は魏縣に屯して劉鄩に抗す。六月、劉鄩は莘縣に営す。存審は鎮・定の師と共に莘西三十里に営し、一日数戦す。八月、師を率いて貝州にて張源德を攻む。十三年二月、劉鄩は莘より衆を悉くして来たり我が魏州を襲う。存審は大軍を以て其の後を踵き、故元城に戦い、大いに汴人を敗る。澶・衛・磁・洺等州を収むるに従う。秋、邢州の閻宝降る。存審に安国軍節度・邢洺磁等州觀察使を授く。十月、戴思遠は滄州を棄て、毛璋は城を以て降る。存審に檢校太傅たいふ・横海軍節度使を授け、兼ねて魏博馬歩軍都指揮使を領せしむ。明年、就いて平章事を加う。

原文十二年,魏博歸款於莊宗,遣存審率前鋒據臨清,以俟進取。莊宗入魏,存審屯魏縣以抗劉鄩。六月,鄩營莘縣,存審與鎮、定之師營莘西三十里,一日數戰。八月,率師攻張源德於貝州。十三年二月,劉鄩自莘悉眾來襲我魏州,存審以大軍踵其後,戰於故元城,大敗汴人,從收澶、衛、磁、洺等州。秋,邢州閻寶降,授存審安國軍節度、邢洺磁等州觀察使。十月,戴思遠棄滄州,毛璋以城降,授存審檢校太傅、橫海軍節度使,兼領魏博馬步軍都指揮使。明年,就加平章事。

十四年八月、兵を将いて幽州に在る周德威を援け、契丹の衆を敗る。冬、汴将安彦之を楊劉に破る。諸軍進みて麻口に営す。時に梁将謝彦章、行台村に営す。荘宗は接戦に勇み、毎に軽騎を以てこれに当たり、窘しめらるる者数四。存審は毎に其の出づるを俟ち、必ず馬を叩きて諫めて曰く「王将に唐の宗社を復せんとす、宜しく天下の為に自ら愛すべし。旗を搴ぎて挑戦するは、一劍の任、聖德に益無し。臣に効を責め請う。古人は賊を以て君父に遺さず。臣武無きも、敢えて君の憂いを代えざらんや」と。荘宗時に車駕を回す。十二月、胡柳に戦う。晡晚の後、存審は其の率いる所の銀槍效節軍を引き、土山下にて梁軍を敗る。是の日辰巳の間、周德威戦歿す。一軍逗撓す。梁軍四面より集まる。存審は其の子彦圖と共に刃を冒し血戦し、賊陣に出没し、荘宗の軍と合す。午後、師復た集まり、汴人を撃ち敗る。

原文十四年八月,將兵援周德威於幽州,敗契丹之眾。冬,破汴將安彥之於楊劉,諸軍進營麻口。時梁將謝彥章營行台村,莊宗勇於接戰,每以輕騎當之,遇窘者數四。存審每俟其出,必叩馬諫曰:「王將復唐宗社,宜為天下自愛,搴旗挑戰,一劍之任,無益聖德,請責效於臣。古人不以賊遺君父,臣雖不武,敢不代君之憂。」莊宗及時回駕。十二月,戰於胡柳。晡晚之後,存審引所部銀槍效節軍,敗梁軍於土山下。是日辰巳間,周德威戰歿,一軍逗撓,梁軍四集,存審與其子彥圖冒刃血戰,出沒賊陣,與莊宗軍合。午後,師復集,擊敗汴人。

十六年春、周德威に代わり内外蕃漢馬歩總管と為り、德勝口に南北の城を築きて以てこれに拠る。七月、汴将王瓚、黎陽より河を渡り澶州を寇す。存審拒戦す。王瓚退き、楊村渡に営し、我が上遊を控う。是より日々交鋒し、対壘経年、大小凡そ百余戦す。

原文十六年春,代周德威為內外蕃漢馬步總管,於德勝口築南北城以據之。七月,汴將王瓚自黎陽渡河寇澶州,存審拒戰,瓚退,營於楊村渡,控我上遊。自是日與交鋒,對壘經年,大小凡百餘戰。

天祐十七年、汴将劉鄩が同州を攻め、朱友謙が我が方に援軍を求めたので、存審と李嗣昭に兵を率いて赴かせた。九月、河中に駐屯し、進んで朝邑に陣を布いた。当時、河中は長らく梁に臣従しており、人々は両端を持していたが、諸軍が大挙して集結すると、糧秣の価格が暴騰した。嗣昭は彼らが翻覆することを恐れ、急戦を挑んで勝負を決しようとした。十日ほど経った頃、梁軍が我が陣営に迫った。ちょうど望気者(気象を観る者)が、西南に黒気が闘鶏の如き形状をなしているのは、戦陣の兆しであると言った。存審は言う、「我らはまさに決戦を望んでいたところに、気象に形が現れた。天の助けではないか!」と。その夜、兵士を閲し、翌朝進軍した。梁軍が迎え撃って来たが、これを大いに破り、追撃して二千余級を斬った。これより梁軍は堡塁を守って出て来なくなった。存審は嗣昭に言った、「私は当初、劉鄩が渭河を占拠することを恐れていた。偏師が既に敗れた今、彼らが退却して帰ろうとするならば、我らが追撃することを恐れるだろう。窮した獣は人に食いつくもので、油断はならない。退路を開けてやった上で、追撃すべきである」。そこで王建及に沙苑で馬を放牧させた。劉鄩と尹皓はこれを知り、兵を守って退去した。こうして同州の包囲は解けた。(《歐陽史》によれば、劉鄩は晋軍がやがて弛むと考え、夜に遁走した。存審は渭河で追撃し、また大いにこれを破った。)存審は奉先まで略地し、諸帝の陵を拝謁して、軍を返した。

原文十七年,汴將劉鄩攻同州,朱友謙求援於我,遣存審與李嗣昭將兵赴之。九月,次河中,進營朝邑。時河中久臣於梁,眾持兩端,及諸軍大集,芻粟暴貴,嗣昭懼其翻覆,將急戰以定勝負。居旬日,梁軍逼我營。會望氣者言,西南黑氣如鬥雞之狀,當有戰陣,存審曰:「我方欲決戰,而形於氣象,得非天讚歟!」是夜,閱其眾,詰旦進軍。梁軍來逆戰,大敗之,追斬二千餘級。自是梁軍保壘不出。存審謂嗣昭曰:「吾初懼劉鄩據渭河。偏師既敗,彼若退歸,懼我踵之;窮獸搏人,勿謂無事。可開其歸路,然後追奔。」乃令王建及牧馬於沙苑,劉鄩、尹皓知之,保眾退去,遂解同州之圍。(《歐陽史》:鄩以為晉軍且懈,乃夜遁去。存審追擊於渭河,又大敗之。)存審略地至奉先,謁諸帝陵,乃班師。

天祐十八年、王師が鎮州の張文礼を討ち、李嗣昭・李存進が相次いで戦死した。十九年、存審に命じて師を率い城下で叛帥を攻撃させた。文礼の将李再豊が密かに存審に内応を申し出、我が軍は夜半に城に登り、文礼の子処球らを捕らえ、露布(勝利の報せ)を献上した。鎮州が平定され、功により検校太傅・兼侍中を加えられた。

原文十八年,王師討張文禮於鎮州,李嗣昭、李存進相次戰歿。十九年,遣存審率師進攻叛帥於城下,文禮之將李再豐陰送款於存審,我師中夜登城,擒文禮之子處球等,露布以獻。鎮州平,以功加檢校太傅、兼侍中。

天祐二十年正月、軍は魏州に帰還した。荘宗は城外に出て慰労し、その邸宅で宴楽を行った。間もなく、契丹が燕薊を侵犯した。郭崇韜が上奏して言う、「汴寇(梁)は未だ平らず、李継韜は背いた。北辺の防禦は、存審でなければならない」。帝は中使を遣わしてこれを諭させた。存審は臥病して痩せ衰え、付けて奏上した、「臣は忠を効し命を承り、敢えて辞するものではありません。ただ病が纏綿し、役事に堪えられません」。やがて詔があり、存審は本官のまま幽州盧龍節度使に充てられ、鎮州から任地に赴いた。同光初年、開府儀同三司・検校太師・中書令ちゅうしょれい・食邑千戸を加えられ、忠烈扶天啓運功臣の号を賜った。

原文二十年正月,師還於魏州,莊宗出城迎勞,就第宴樂。無何,契丹犯燕薊,郭崇韜奏曰:「汴寇未平,繼韜背叛,北邊捍禦,非存審不可。」上遣中使諭之,存審臥病羸瘠,附奏曰:「臣效忠稟命,靡敢為辭,但痾恙纏綿,未堪祗役。」既而詔存審以本官充幽州盧龍節度使,自鎮州之任。同光初,加開府儀同三司、檢校太師、中書令、食邑千戶,賜號忠烈扶天啟運功臣。

十月、梁を平定し、都を洛陽らくように遷した。存審は自らが大将でありながら、中原回復の功に与ることができず、旧疾がますます激しくなり、強く入朝して医を求めたいと請い、その心情を郭崇韜に告げた。当時、崇韜は一時の自負心から、佐命の功は己より右に出る者なく、功名と声望は元来存審の下にあったが、権勢が隆盛となるや、人々が輻湊したため、存審が己の上に立つことを望まず、存審が入朝を求める章奏がある度に、密かに阻んだ。存審の妻郭氏が崇韜に泣いて訴えた、「我が夫は国のために奔走し、公とは郷里の親旧です。公はどうして彼を北の荒れ地に死なせ棄てようとなさるのか、なんと無情なことでしょう」。崇韜はますます慚愧した。翌年春、存審の病は重くなり、切実な上章をして、生きて天子の顔を拝したいと乞うたが、許されなかった。存審は枕に伏して嘆いた、「老夫は二主に仕え、四十年に及んだ。幸い今日天下一家に遇い、遠夷極塞の者さえも皆、彤墀(宮殿の階段)に面して拝謁し、射鉤斬祛(過去の仇敵)の者でさえ、誰もが丹陛(宮殿の階段)で杯を奉っていない者はいない。ただ私だけが阻まれている。これも運命ではないか!」。病状が次第に危篤となったため、崇韜が存審の入朝を許すよう奏請した。四月、制により存審を宣武せんぶ軍節度使・諸道蕃漢馬歩総管に任じた。詔が届く前に、五月十五日、幽州の官舎で卒去した。時に六十三歳。遺命により太原に葬られた。存審の遺奏には、面謁できなかったことを陳述し、言葉の趣きは哀れであった。荘宗は久しく震悼し、三日間朝を廃し、尚書令を追贈した。

原文十月,平梁,遷都洛陽。存審以身為大將,不得預收復中原之功,舊疾愈作,堅求入覲尋醫,以情告郭崇韜。時崇韜自負一時,佐命之功,無出己右,功名事望,素在存審之下,權勢既隆,人士輻湊,不欲存審加於己上,每有章奏求覲,即陰沮之。存審妻郭氏泣訴於崇韜曰:「吾夫於國,粗效驅馳,與公鄉里親舊,公忍令死棄北荒,何無情之如是!」崇韜益慚戁。明年春,疾甚,上章懇切,乞生覲天顏,不許。存審伏枕而歎曰:「老夫曆事二主,垂四十年,幸而遇今日天下一家,遠夷極塞,皆得麵覲彤墀,射鉤斬祛之人,孰不奉觴丹陛,獨予壅隔,豈非命哉!」漸增危篤,崇韜奏請許存審入覲。四月,製授存審宣武軍節度使、諸道蕃漢馬步總管。詔未至,五月十五日卒於幽州官舍,時年六十三,遺命葬太原。存審遺奏陳敘不得麵覲,詞旨淒惋。莊宗震悼久之,廢朝三日,贈尚書令。

存審は若くして軍中にあり、機微を識り変事を知り、行軍出師には法令厳明で、決策制勝に遺悔はなく、功名は周徳威と匹敵し、共に近代の良将であった。常に諸子を戒めて言った、「私はもと寒家の出身で、幼少の頃一剣を携えて郷里を離れ、四十年の間に、位は将相の極みに至った。その間、艱難に屯し、鋒刃を踏み冒し、万死の中に一生もなく、身がようやくここに至った。前後で矢を受けたのは百余箇所に及ぶ」。そして鏃(矢じり)を取り出して諸子に見せ、奢侈を戒めとした。

原文存審少在軍中,識機知變,行軍出師,法令嚴明,決策制勝,從無遺悔,功名與周德威相匹,皆近代之良將也。常戒諸子曰:「予本寒家,少小攜一劍而違鄉里,四十年間,位極將相。其間屯危患難,履鋒冒刃,入萬死而無一生,身方及此,前後中矢僅百餘。」乃出鏃以示諸子,因以奢侈為戒。

存審が微賤の時、捕虜となったことがあり、郊外で処刑されようとした。臨刑の際、危うい垣を指して主刑者に言った、「この下で斬ってください。垣が崩れて屍を覆ってくれれば、旅の魂の幸いです」。主刑者はこれを哀れみ、場所を移してやった。その猶予の間に、主将が妓を抱えて酒を飲み、歌う者を得て楽しみを助けようと思った。妓が言う、「捕虜の中に符存審という者がおります。妾の旧知で、よく節を打たせて歌の調子を合わせさせました」。主将は喜び、騎馬を馳せて彼を赦した。これも運命ではなかったか!

原文存審微時,嘗為俘囚,將就戮於郊外,臨刑指危垣謂主者曰:「請就戮於此下,冀得壞垣覆屍,旅魂之幸也。」主者哀之,為移次焉。遷延之際,主將擁妓而飲,思得歌者以助歡。妓曰:「俘囚有符存審者,妾之舊識,每令擊節,以讚歌令。」主將欣然,馳騎而舍之;豈非命也!

彦超は、存審の長子である。若くして武皇(李克用)に仕え、累ねて牙職を歴任した。存審が卒去すると、荘宗は彦超を汾州刺史とした。同光末年、魏州で軍が乱れ、詔により彦超は北京(太原)に赴き巡検した。先に、朝廷は内官の呂・鄭の二人を太原に派遣し、一人は兵を監察し、一人は倉庫を監察していた。明宗が洛に入ると、皇弟存霸は単騎で河東に奔り、呂・鄭と謀って彦超と留守張憲を殺そうとした。彦超はこれを察知し、密かに張憲と謀ったが、未だ決せぬうちに、部下が大いに騒ぎ、州兵がことごとく集まった。張憲は出奔した。その夜、軍士が衙城で呂・鄭・存霸を殺した。翌朝、洛城の禍変を聞き、彦超は三軍に告諭した。(《宋史・張昭伝》によれば、張昭は張憲の推官であった。荘宗が難に遭い、鄴中の兵士が明宗を推戴したと聞くと、憲の部将符彦超が戍将と合流してこれに応じた。憲が死ぬと、張昭を害そうとする者がおり、彼を捕らえて彦超に送った。彦超は言った、「推官は正人である。害してはならない」。また張昭に榜文を書かせ、軍民を安撫させた。)明宗はまたその弟の龍武都虞候彦卿に騎馬を馳せさせて安撫させた。六月、彦超は入朝し、明宗は召見して慰撫し、間もなく晋州留後を授けた。未だ赴任せぬうちに、弟の前曹州刺史彦饒が宣武の乱軍を平定した。明宗は喜び、彦超を召して言った、「我は爾ら兄弟の力を得た。他に何を憂えよう。爾は我のために河東に行き、耆旧を撫育せよ」。即座に北京留守・太原尹を授けた。翌年冬、昭義節度使に移った。四年、驍衛上将軍を授けられ、金吾きんご上将軍に改めた。長興元年、泰寧軍節度使を授けられ、間もなく安州に移鎮した。

原文彥超,存審之長子也。少事武皇,累曆牙職。存審卒,莊宗以彥超為汾州刺史。同光末,魏州軍亂,詔彥超赴北京巡檢。先是,朝廷令內官呂、鄭二人在太原,一監兵,一監倉庫。及明宗入洛,皇弟存霸單騎奔河東,與呂、鄭謀殺彥超與留守張憲。彥超覺之,密與憲謀,未決,部下大噪,州兵畢集,張憲出奔。是夕,軍士殺呂、鄭、存霸於衙城。詰旦,聞洛城禍變,彥超告諭三軍。(《宋史·張昭傳》云:昭為張憲推官,莊宗及難,聞鄴中兵士推戴明宗,憲部將符彥超合戍將應之。憲死,有害昭者,執之以送彥超。彥超曰:「推官正人,無得害之。」又逼昭為榜,安撫軍民。)明宗又令其弟龍武都虞候彥卿馳騎安撫。六月,彥超入覲,明宗召見撫諭,尋授晉州留後。未行,會其弟前曹州刺史彥饒平宣武亂軍,明宗喜,召彥超謂之曰:「吾得爾兄弟力,餘更何憂,爾為我往河東撫育耆舊。」即授北京留守、太原尹。明年冬,移授昭義節度使。四年,授驍衛上將軍,改金吾上將軍。長興元年,授泰寧軍節度使,尋移鎮安州。

彦超の下僕の中に王希全という者がいた。小字を仏留といい、粗略に書計を知り、貨財の管理を委ねられていたが、年を経て消耗損失が甚だ多かった。彦超は叱責するだけであった。応順元年正月、仏留は朝廷に多事あると聞き、任貨児らと謀って乱を起こした。ある夜、門を叩いて朝廷からの急遞が到ったと言い、彦超が廳事に出ると、仏留は刃を挟んで彼を害した。翌朝、本州の節度副使李端が州兵を召集して仏留らを攻め、これを殺した。残党は淮南に奔り、彦超の部将趙温ら二十六人を捕らえて誅した。彦超は太尉を追贈された。

原文彥超廝養中有王希全者,小字佛留,粗知書計,委主貨財,歲久耗失甚多,彥超止於訶譴而已。應順元年正月,佛留聞朝廷多事,因與任貨兒等謀亂。一夕,扣門言朝廷有急遞至,彥超出至廳事,佛留挾刃害之。詰旦,本州節度副使李端召州兵攻佛留等,殺之,餘眾奔淮南,擒彥超部將趙溫等二十六人誅之。彥超贈太尉。

存審の次子彦饒は、《晉史》に伝がある。次いで彦卿は、鳳翔節度使・守太師・中書令を歴任し、魏王に封ぜられ、今は洛陽に住む。次いで彦能は、楚州防禦使の任で終わった。次いで彦琳は、皇朝(宋朝)に仕えて金吾上将軍となり、任中に卒去した。

原文存審次子彥饒,《晉史》有傳。次彥卿,曆官鳳翔節度使、守太師、中書令,封魏王,今居於洛陽。次彥能,終於楚州防禦使。次彥琳,仕皇朝為金吾上將軍,卒於任。