舊五代史

唐書三十一: 列傳七 康君立 薛志勤 史建瑭 李承嗣 史儼 蓋寓 伊廣 李承勳 史敬鎔

唐書三十一: 列傳七 康君立 薛志勤 史建瑭 李承嗣 史儼 蓋寓 伊廣 李承勳 史敬鎔

康君立は蔚州興唐の人、代々辺境の豪族である。乾符年間、雲州の牙校となり、防禦使段文楚に仕えた。時に群盗が河南に起こり、天下乱れんとし、代北は連年凶作に苦しみ、諸部の豪傑は皆、徒党を組んで功を求めんとする志があった。折しも文楚が軍人の蓄え給与を少し削ったため、戍兵は怨みを抱いた。君立は薛鐵山、程懷信、王行審、李存璋らと謀りて曰く、「段公は懦弱な人物であり、共に事を為すは難し。今四方雲のごとく擾い、武威振わず、丈夫たる者この時に功を立て事を成さざれば、人豪にあらず。我らは仮に部衆を統べるとはいえ、雄勁をもって時に聞こえる者は、沙陀さだ部に如くはなく、また李振武父子は諸軍の勇に冠たり。我らが勢を合わせてこれを推戴すれば、代北の地は旬月のうちに定まり、功名富貴、事成らざるはない。」君立らは夜に武皇を謁して言うには、「今天下大乱し、天子は将臣に辺境の事を委ねたるに、たまたま凶作ありて、直ちに蓄え給与を削る。我ら辺境の民、どうして死を守らんや!公の父子は、平素より威恵をもって五部に及びたまう。虐帥を共に除き、辺境の人に謝すべきなり。敢えて異議を唱うる者あらんや。」武皇曰く、「明らかなる天子上に在す。挙事は朝典に従うべきなり。公ら軽々に議するなかれ。我が父君は遠く振武に在り、万一迫らば、我が命を稟するを待て。」君立ら曰く、「事機すでに洩る。遅れば変生ず。千里を隔てて稟命を待つことなかれ。」衆はここに集まって騒ぎ、武皇を擁した。雲州に至るまでに、衆はほぼ一万人に及び、軍は鬥雞台に営し、城中は文楚を械にかけて武皇の軍に応じた。城を収めた後、武皇を大同軍防禦留後に推戴した。衆はその状を上聞し、朝廷は悦ばず、詔して兵を徴し討たんとした。やがて献祖は振武を失い、武皇は雲州を失う。朝廷は招討使李鈞、幽州の李可挙に命じて武皇に兵を加えさせ、蔚州において武皇を攻撃せしめた。君立はこれに従い可挙の軍を撃ちてしばしば勝利し、献祖が達靼に入ると、君立は感義軍を守った。武皇が雁門節度使せつどしに任ぜられると、君立を左都押牙とし、これに従って関中に入り、黄巣の賊を逐い、長安ちょうあんを収めた。武皇が太原に還鎮すると、君立は検校けんぎょう工部尚書、先鋒軍使を授けられた。

原文康君立,蔚州興唐人,世為邊豪。乾符中,為雲州牙校,事防禦使段文楚。時群盜起河南,天下將亂,代北仍歲阻饑,諸部豪傑,咸有嘯聚邀功之志。會文楚稍削軍人儲給,戍兵谘怨。君立與薛鐵山、程懷信、王行審、李存璋等謀曰:「段公懦人,難與共事。方今四方雲擾,武威不振,丈夫不能於此時立功立事,非人豪也。吾等雖權係部眾,然以雄勁聞於時者,莫若沙陀部,復又李振武父子勇冠諸軍,吾等合勢推之,則代北之地,旬月可定,功名富貴,事無不濟也。」君立等乃夜謁武皇言曰:「方今天下大亂,天子付將臣以邊事,歲偶饑荒,便削儲給,我等邊人,焉能守死!公家父子,素以威惠及五部,當共除虐帥,以謝邊人,孰敢異議者!」武皇曰:「明天子在上,舉事當有朝典,公等勿輕議。予家尊遠在振武,萬一相迫,俟予稟命。」君立等曰:「事機已泄,遲則變生,曷俟千里谘稟!」眾因聚噪,擁武皇。比及雲州,眾且萬人,師營鬥雞台,城中械文楚以應武皇之軍。既收城,推武皇為大同軍防禦留後。眾狀以聞,朝廷不悅,詔征兵來討。俄而獻祖失振武,武皇失雲州。朝廷命招討使李鈞、幽州李可舉加兵於武皇,攻武皇於蔚州。君立從擊可舉之師屢捷,及獻祖入達靼,君立保感義軍,武皇授雁門節度,以君立為左都押牙,從入關,逐黃孽,收長安。武皇還鎮太原,授檢校工部尚書、先鋒軍使,

文徳初年、李罕之が河陽を失い、武皇のもとに帰順し、かつ援軍を求めてきたので、君立を南面招討使に充て、李存孝をその副将とし、二万の軍を率いて罕之を助け河陽を攻め取らしめた。三月、汴将丁会、牛存節と沇河で戦う。臨陣の際、騎将安休休が叛いて汴軍に入ったため、君立は軍を引いて退いた。八月、汾州刺史を授けられる。大順元年、潞州の小校安居受が反逆し、武皇は君立を遣わしてこれを討ち平らげ、検校左僕射、昭義節度使を授けた。武皇の軍が連年邢州、洺州に略地し、孟方立を攻めて以来、君立は常に沢州、潞州の軍を率いて掎角の勢いをなした。

原文文德初,李罕之既失河陽,來歸於武皇,且求援焉,乃以君立充南面招討使,李存孝副之,帥師二萬,助罕之攻取河陽。三月,與汴將丁會、牛存節戰於沇河。臨陣之次,騎將安休休叛入汴軍,君立引退。八月,授汾州刺史。大順元年,潞州小校安居受反,武皇遣君立討平之,授檢校左僕射、昭義節度使。自武皇之師連歲略地於邢、洺,攻孟方立,君立常率澤潞之師以為掎角。

景福初年、検校司徒しと、食邑千戸を賜る。二年、李存孝が邢州に拠って叛くと、武皇は君立に命じてこれを討たせ、功により検校太保を加えられた。乾寧初年、存孝が平定され、軍を返す。存孝が死ぬと、武皇は深くこれを惜しみ、諸将に怒りを解く者なきを憤った。初め、李存信と存孝は仲が悪く、しばしば互いに傾軋し、君立は平素より存信と親しかった。九月、君立が太原に至ると、武皇は諸将を集めて酒宴と博戯を行い、やがて存孝の事に言及して、涙を流して止まなかった。時に君立が一言、意に逆らう言葉を発したため、武皇は鴆毒を賜って死なせた。時に年四十八。明宗が即位し、旧誼を思う故に、詔して太傅たいふを追贈した。

原文景福初,檢校司徒,食邑千戶。二年,李存孝據邢州叛,武皇命君立討之,以功加檢校太保。乾寧初,存孝平,班師。存孝既死,武皇深惜之,怒諸將無解慍者。初,李存信與存孝不葉,屢相傾奪,而君立素與存信善。九月,君立至太原,武皇會諸將酒博,因語及存孝事,流涕不已。時君立以一言忤旨,武皇賜鴆而殂,時年四十八。明宗即位,以念舊之故,詔贈太傅。

薛誌勤は蔚州奉誠の人、小字あざなを鐵山という。初め献祖の帳中の親信となり、乾符年間、康君立と共に武皇を推戴して雲州を定め、功により右牙都校を授けられた。武皇に従って達靼に入り、武皇が雁門で節度使を授かると、誌勤は代北軍使を領した。関中に入り、京城を収め、功により検校工部尚書、河東右都押牙、先鋒右軍使を授かった。武皇に従って陳州、許州を救い、黄巣を平定した。武皇が上源驛で難に遭うと、汴将楊彦洪は車を連ね柵を立て、巷陌を遮断した。時に騎従は皆酔っており、宴席も終わった頃、汴軍は四面より伝舎を攻めた。誌勤は勇猛無比で、さらに酒の勢いで胆力が激しく壮となり、独り驛楼に登って大呼して曰く、「朱僕射は恩を負いて行い無く、我が司空しくうを謀らんとす。我ら三百人にして以て事を成すに足る!」ここに弓を引き矢を放ち、矢は虚発せず、汴人の斃れる者数十人。誌勤は密かに武皇に謂いて曰く、「事急なり。五鼓に至らば、我らは一人も残らぬ。速やかに行くべし。」ここに武皇を扶けて去った。雷雨激しく猛り、汴人は橋を扼す。誌勤はその配下を率いて血戦しこれを撃破し、武皇を侍して還営するを得た。これにより恩顧ますます厚し。大順初年、張浚が天子の軍を率いて太原を侵す。十月、大軍が陰地に入ると、誌勤は李承嗣と共に騎兵三千を率いてこれに抗し、蒙坑において韓建の軍を破り、進んで晋州、絳州を収め、功により忻州刺史を授けられた。二年、鎮州討伐に従い、天長、臨城を収め、誌勤は常に先登して陣を陷れ、勇敢にして前に敵する者なし。王暉が雲州に拠って叛くと、これを討ち平らげ、誌勤を大同軍防禦使、検校司空とした。乾寧初年、康君立に代わって昭義節度使となる。光化元年十二月、病により潞州で卒す。時に年六十二。

原文薛誌勤,蔚州奉誠人,小字鐵山。初為獻祖帳中親信,乾符中,與康君立共推武皇定雲州,以功授右牙都校;從入達靼,武皇授節雁門,誌勤領代北軍使;從入關,收京城,以功授檢校工部尚書、河東右都押牙、先鋒右軍使。從武皇救陳、許,平黃巢。武皇遇難於上源驛,汴將楊彥洪連車樹柵,遮絕巷陌,時騎從皆醉,宴席既闌,汴軍四面攻傳舍。誌勤虓勇冠絕,復酒膽激壯,因獨登驛樓大呼曰:「朱僕射負恩無行,邀我司空圖之,吾三百人足以濟事!」因彎弧發射,矢無虛發,汴人斃者數十。誌勤私謂武皇曰:「事急矣,如至五鼓,吾屬無遺類矣,可速行!」因扶武皇而去。雷雨暴猛,汴人扼橋,誌勤以其屬血戰擊敗之,得侍武皇還營,由是恩顧益厚。大順初,張浚以天子之師來侵太原。十月,大軍入陰地,誌勤與李承嗣帥騎三千抗之,敗韓建之軍於蒙坑,進收晉、絳,以功授忻州刺史。二年,從討鎮州,收天長、臨城,誌勤皆先登陷陣,勇敢無前。王暉據雲州叛,討平之,以誌勤為大同軍防禦使、檢校司空。乾寧初,代康君立為昭義節度使。光化元年十二月,以疾卒於潞,時年六十二。

史建瑭、字は國寶。父は敬思、雁門の人、郡に仕えて牙校に至る。武皇が雁門を節制する時、敬思は九府都督となり、これに従って関中に入り、京師を定めた。太原に鎮すると、裨将ひしょうとなった。中和四年、陳州、許州救援に従い、前鋒となり、汴上において黄巣を破り、賊を徐、兗まで追撃し、常に騎兵を率いて挺身して酣戦し、勇は諸軍に冠たり。この時、天下の軍雲集すれども、軍中これを推伏せざる者なし。六月、武皇に衛従して汴州べんしゅうに入り、上源驛に宿泊す。この夜、汴人の攻撃を受け、敬思は大いに酔っていたが、蹶然として起き上がり、弓を執って汴人と闘い、矢は虚発せず、汴人の死する者数百。夜半、雨を冒して汴橋に至り、左右が武皇を扶けて包囲を決して去った。敬思は後衛を務め、血戦して歿した。武皇は営に還り、敬思を失いしを知り、久しく涙を流した。

原文史建瑭,字國寶。父敬思,雁門人,仕郡至牙校。武皇節制雁門,敬思為九府都督,從入關,定京師。及鎮太原,為裨將。中和四年,從援陳、許,為前鋒,敗黃巢於汴上,追賊至徐、兗,常將騎挺身酣戰,勇冠諸軍。是時,天下之師雲集,軍中無不推伏。六月,衛從武皇入汴州,舍於上源驛,是夕,為汴人所攻,敬思方大醉,因蹶然而興,操弓與汴人鬥,矢不虛發,汴人死者數百。夜分冒雨方達汴橋,左右扶武皇決圍而去。敬思後拒,血戰而歿。武皇還營,知失敬思,流涕久之。

建瑭は父の蔭により若くして軍門に仕えた。光化年間、昭徳軍を掌る。李嗣昭と共に汾州を攻め、率先して城に登り、叛将李瑭を擒えて献じ、検校工部尚書を授けられた。李思安が上党を包囲した時、建瑭は前鋒となり、総管周徳威と共に救援に赴いた。時に汴人は夾城を深く堅固にし、援軍の路は断絶していた。建瑭は日ごとに精騎を引き、伏兵を設けて生け捕りを行い、夜には汴営を襲い、駆逐斬殺すること千計に及び、敵人は芻牧することすら敢えてしなかった。汴将王景仁が柏郷に営す。建瑭は周徳威と先に出て井陘を越える。高邑の戦い、日はすでに晩く、汴軍に帰還の志あり。建瑭は部落の精騎を督して先にその陣を陷れ、魏、滑の間を夾攻し、遂に長駆して追撃した。夜に柏郷に入り、俘虜斬殺すること数千計、功を論じて検校左僕射を加えられる。軍が還り、趙州に留まって戍る。汴将氏延賞がしばしば趙州の南鄙を犯す。建瑭は柏郷に伏兵を設け、延賞を捕らえ、これを献じた。

原文建瑭以父蔭少仕軍門。光化中,典昭德軍。與李嗣昭攻汾州,率先登城,擒叛將李瑭以獻,授檢校工部尚書。李思安之圍上黨也,建瑭為前鋒,與總管周德威赴援。時汴人夾城深固,援路斷絕,建瑭日引精騎,設伏擒生,夜犯汴營,驅斬千計,敵人不敢芻牧。汴將王景仁營於柏鄉,建瑭與周德威先出井陘。高邑之戰,日已晡晚,汴軍有歸誌,建瑭督部落精騎先陷其陣,夾攻魏、滑之間,遂長驅追擊。夜入柏鄉,俘斬數千計,論功加檢校左僕射。師還,留戍趙州。汴將氏延賞數犯趙之南鄙,建瑭設伏柏鄉,獲延賞,獻之。

九年、梁祖(朱全忠)自ら蓚県を攻撃した。当時、晋王の軍は幽州を併せて攻撃し、汴軍五十万が鎮州・定州を侵すと喧伝していた。都將の符存審が李建瑭に言うには、「梁軍がもし五十万で来たら、我々はどう対処すればよいか」と。裨将の趙行實は、「土門に逃げ込むのが上策です」と言った。存審は言った、「事の成否は未だ知れない。ただ老賊(朱全忠)が東におり、別将が西から来るなら、なお徐々に図ることができる」と。十日と経たぬうちに、楊師厚が棗強を包囲し、賀德倫が蓚県を包囲し、梁祖自らが到着して、城攻めを激しく行った。存審は言った、「我が王は今、北面(幽州)の事に専念しておられ、南辺のことは我々数人に任されている。今、西道には兵がおらず、賊の勢いを座して増長させている。どうして策を立てようか。老賊がもし蓚県・阜城を落とさなければ、必ず西進して深州・冀州を攻めよう。諸君と共に騎兵を点検・選抜し、賊の情勢を偵察しよう」と。そこで精騎八百を選んで信都に向かわせ、存審は下博橋を扼し、建瑭と李嗣肱は別々の道を行って生け捕りを行った。建瑭は麾下の三百騎を五軍に分け、自ら一軍を率いて深く侵入し、それぞれに命じて梁軍の草刈り・放牧の者を捕虜・略奪して帰還させ、下博橋で合流させた。翌日、諸軍が皆到着し、草刈り・放牧の者数百人を捕獲し、集めて殺したが、数十人をゆるめて逃がし、それぞれに「沙陀軍が大挙して来た!」と言わせた。梁軍は震え恐れた。翌日、建瑭と嗣肱は梁軍の服色をまとい、草刈り・放牧の者に混じり、夕方に賀德倫の寨門に至り、門番を殺し、火を放って大声で騒ぎ、捕虜をとり斬殺して去った。この夜、梁祖は営を焼いて逃げ去り、貝州に至るまでに道に迷い、棄てた兵器は数えきれなかった。

原文九年,梁祖親攻蓚縣。時王師並攻幽州,聲言汴軍五十萬,將寇鎮、定。都將符存審謂建瑭曰:「梁軍倘以五十萬來,我等何以待之?」裨將趙行實曰:「走入土門為上策。 」存審曰:「事未可知,但老賊在東,別將西來,尚可徐圖。」不旬日,楊師厚圍棗強,賀德倫圍蓚縣,梁祖自至,攻城甚急。存審曰:「吾王方事北面,南鄙之事,付我等數人。今西道無兵,坐滋賊勢。何以為謀。老賊若不下蓚、阜,必西攻深、冀,與公等料閱騎軍,偵視賊勢。」乃選精騎八百趨信都,存審扼下博橋,建瑭與李嗣肱分道擒生。建瑭乃分麾下三百騎為五軍,自將一軍深入,各命俘掠梁軍之芻牧者還,會下博橋。翌日,諸軍皆至,獲芻牧者數百人,聚而殺之,緩數十人,令其逸去,各曰:「沙陀軍大至矣!」梁軍震恐。明日,建瑭、嗣肱為梁軍服色,與芻牧者相雜,晡晚,及賀德倫寨門,殺守門者,縱火大噪,俘斬而去。是夜,梁祖燒營而遁,比至貝州,迷失道咯,委棄兵仗,不可勝計。

十二年、魏博が帰順したので、建瑭は符存審と共に前軍として魏県に駐屯した。十三年、元城で劉鄩を破り、澶州を収め、建瑭を刺史・検校司空・外衙騎軍都將とした。まもなく貝州・相州の二州刺史を歴任し、徳勝に駐屯した。十八年、閻宝と共に張文礼を討ち、馬軍都將となった。八月、趙州を収め、刺史の王鋋を捕獲した。鎮州に進軍して迫った時、流れ矢に当たり、軍中で卒去した。時に四十六歳。

原文十二年,魏博歸款,建瑭與符存審前軍屯魏縣。十三年,敗劉鄩於元城,收澶州,以建瑭為刺史、檢校司空、外衙騎軍都將。尋曆貝、相二州刺史,屯於德勝。十八年,與閻寶討張文禮,為馬軍都將。八月,收趙州,獲刺史王鋋。進逼鎮州,為流矢所中,卒於軍,時年四十六。

李承嗣は、代州雁門の人である。父は佐方。承嗣は若くして郡に仕え、右職に補せられた。中和二年、武皇(李克用)に従って関輔の賊を討ち、前鋒となった。王師が華陰を攻めた時、黄巢は偽客省使の王汀を黄揆のもとに遣わして軍機を会わせようとしたが、承嗣がこれを捕らえて献上した。賊が平定され、功により汾州司馬に任ぜられ、榆次鎮将に改められた。光啓初年、陳・許の蔡賊を討つことに従軍した。上源の難(上源驛の事件)に際し、承嗣を行在所に遣わして上表し、その事情を陳訴させた。観軍容使の田令孜は館舎に迎えて慰諭し、武皇に事情を伝えて、とりあえず和合に務めるよう命じ、左散騎常侍を授けた。朱玫の乱に際し、承嗣に軍一万を率いさせて鄜州を救援し、渭橋で車駕を迎え護衛させた。王行瑜が朱玫を殺した後、承嗣は鄜州・夏州の軍と合流して京城を平定し、偽宰相の裴徹・鄭昌図を捕らえ、朱玫と襄王の首を函に入れて行在所に献上した。車駕が宮中に還ると、迎鑾功臣の号と、検校工部尚書・守嵐州刺史を賜り、犒軍の銭二万貫を賜った。

原文李承嗣,代州雁門人。父佐方。承嗣少仕郡,補右職。中和二年,從武皇討賊關輔,為前鋒。王師之攻華陰,黃巢令偽客省使王汀會軍機於黃揆,承嗣擒之以獻。賊平,以功授汾州司馬,改榆次鎮將。光啟初,從討蔡賊於陳、許。上源之難,遣承嗣奉表行在,陳訴其事。觀軍容田令孜館而慰諭,令達情於武皇,姑務葉和,仍授以左散騎常侍。朱玫之亂,遣承嗣率軍萬人援鄜州,至渭橋迎扈車駕。王行瑜既殺朱玫,承嗣會鄜、夏之師入定京城,獲偽相裴徹、鄭昌圖,函送朱玫、襄王首獻於行在。駕還宮,賜號迎鑾功臣、檢校工部尚書、守嵐州刺史,賜犒軍錢二萬貫。

当時、車駕が帰還したばかりで、三輔(京兆・馮翊・扶風)には賊が多く、承嗣は兵を整えて警戒・防備し、天子の車駕の周囲を安寧にした。鄜州に還って駐屯した後、別将の馬嘉福に五百騎を留めて宿衛させた。孟方立が遼州を襲撃した時、武皇は承嗣を遣わして榆社に伏兵を設けさせて待ち受けた。邢州の軍が到着すると、承嗣は伏兵を起こし、その帰還する兵を撃ち、大いに破って、その将の奚忠信を捕らえ、功により洺州刺史に任ぜられた。張浚が太原に兵を加えた時、鳳翔軍が霍邑に営していたが、承嗣は一軍を率いてこれを攻め、岐人は夜遁し、趙城まで追撃し、大軍と合流して平陽を攻め、十三日で陥落させた。軍が帰還すると、教練使・検校司徒に改められた。

原文時車駕初還,三輔多盜,承嗣按兵警禦,輦轂乂安。及還屯於鄜,留別將馬嘉福五百騎宿衛。孟方立之襲遼州也,武皇遣承嗣設伏於榆社以待之。邢人既至,承嗣發伏,擊其歸兵,大敗之,獲其將奚忠信,以功授洺州刺史。及張浚之加兵於太原也,時鳳翔軍營霍邑,承嗣率一軍攻之,岐人夜遁,追擊至趙城,合大軍攻平陽,旬有三日而拔。師還,改教練使、檢校司徒。

乾寧二年、兗州・鄆州が汴軍に攻められ、次第に危急に陥ったので、使者を遣わして武皇に援軍を請うた。武皇は承嗣に三千騎を率いさせ、魏を仮道して黄河を渡り、これを救援させた。時に李存信が莘県に駐屯していたが、やがて羅弘信が盟約に背き、王師を急襲したため、これによって連絡が絶たれた。朱瑄・朱瑾が領地を失うと、承嗣は朱瑾・史儼と共に淮南に入った。承嗣と史儼はいずれも驍将であり、淮人がこれを得て、軍の声威は大いに振るった。武皇はこれを深く惜しみ、左右の手を失ったかのように思い、趙嶽を遣わして間道より淮南に使いさせ、承嗣らの帰還を請うた。楊行密はこれを許し、使者の陳令存を遣わして武皇に和好を請わせた。その年九月、汴将の龐師古・葛従周が出師し、淮南を収めようとした。朱瑾は淮南軍三万を率い、承嗣と共に清口に伏兵を設け、汴軍を大いに破り、龐師古を生け捕りにした。行密はその雄才を賞賛し、留めて帰さず、なお検校太尉・領鎮海軍節度使に任ずるよう奏上した。天祐九年、淮人は荘宗(李存勗)に柏郷での勝利があったと聞き、承嗣を楚州節度使として、犄角の勢いを張らせた。十七年七月、楚州で卒去した。時に五十五歳。

原文乾寧二年,兗、鄆為汴人所攻,勢漸危蹙,遣使乞師於武皇;武皇遣承嗣率三千騎假道於魏,渡河援之。時李存信屯於莘縣,既而羅宏信背盟,掩擊王師,因茲隔絕。及瑄、瑾失守,承嗣與朱瑾、史儼同入淮南。承嗣、史儼皆驍將也,淮人得之,軍聲大振。(十國春秋·吳列傳》:太祖署為淮南行軍副使。)武皇深惜之,如失左右手,乃遣趙嶽間道使於淮南,請歸承嗣等;楊行密許之,遣使陳令存請修好於武皇。其年九月,汴將龐師古、葛從周出師,將收淮南,朱瑾率淮南軍三萬,與承嗣設伏於清口,大敗汴人,生獲龐師古。行密嘉其雄才,留而不遣,仍奏授檢校太尉,領鎮海軍節度使。天祐九年,淮人聞莊宗有柏鄉之捷,乃以承嗣為楚州節度使,以張犄角。十七年七月,卒於楚州,時年五十五。

史儼は、代州雁門の人である。騎射に巧みであったため、武皇に給事した。帳中の親将となり、驍勇果敢で衆に抜きん出、生け捕りや伏兵を設けることに長け、塵埃を望んで敵情を推し量り、向かうところ皆勝利した。武皇が三輔を平定し、黄巢を誅するために入って以来、出師するごとに従った。乾寧年中、王行瑜を討つことに従い、軍は渭水の北に駐屯し、儼に五百騎を率いさせて石門で車駕を護衛させた。当時、京城は大いに擾乱し、士人庶民の多くは南山に散らばっていた。儼は騎兵を分けて警衛し、車駕が京城に還るまで、盗賊が起こらなかった。功により検校右散騎常侍に任ぜられ、三橋に数ヶ月駐屯し、昭宗の寵遇と賞賜は格別であった。翌年、李承嗣と共に騎兵を率いて黄河を渡り、兗州・鄆州を救援した。当時、汴軍は雄盛で、青州・徐州・兗州・鄆州にわたって柵や堡塁が相望んでいた。儼は騎将の安福順らと、しばしば数千騎をもって直ちに敵の営塁を犯し、左で捕虜をとり右で斬殺し、汴軍はこれに披靡した。朱瑾が領地を失うと、李承嗣らと共に淮南に奔った。淮人は元来、水軍に長けていたが、騎射には慣れていなかった。儼らを得てからは、軍の声威は大いに振るい、まもなく清口で汴軍を挫いた。その後、鍾伝を併せ、杜洪を擒にし、銭鏐を削ぎ、行密の覇業を成し遂げたのは、皆儼と承嗣の力によるものであった。淮人は館遇を厚くし、妻子や邸宅は必ず最上のものを与えたので、儼らはその死力を尽くした。天祐十三年、広陵で卒去した。

原文史儼,代州雁門人。以便騎射給事於武皇。為帳中親將,驍果絕眾,善擒生設伏,望塵揣敵,所向皆捷。自武皇入定三輔,誅黃巢,每出師皆從。乾寧中,從討王行瑜,師次渭北,遣儼率五百騎護駕石門。時京城大擾,士庶多散布南山。儼分騎警衛,比駕還京,盜賊不作,以功授檢校右散騎常侍,屯於三橋者累月,昭宗寵錫優異。明年,與李承嗣率騎渡河援兗、鄆。時汴軍雄盛,自青、徐、兗、鄆,柵壘相望。儼與騎將安福順等,每以數千騎直犯營壘,左俘右斬,汴軍為之披靡。及朱瑾失守,與李承嗣等奔淮南。淮人比善水軍,不閑騎射,既得儼等,軍聲大振,尋挫汴軍於清口。其後並鍾傳,擒杜洪,削錢鏐,成行密之霸跡者,皆儼與承嗣之力也。淮人館遇甚厚,妻孥第舍必推其甲,故儼等盡其死力。(《十國春秋》云:儼累官滁州刺史。)天祐十三年,卒於廣陵。

蓋寓は蔚州の人である。祖父の祚、父の慶は、代々州の牙将であった。武皇が雲中で挙兵すると、寓は康君立らと共に推挙してこれを補佐し、腹心となった。武皇が雁門を節制する時、職を署して都押牙とし、嵐州刺史を領した。太原に移鎮すると、左都押牙・検校左僕射に改めた。武皇が彼と事を決する時、言うことを聞かないことはなく、出征する時は必ず従った。

原文蓋寓,蔚州人。祖祚,父慶,世為州之牙將。武皇起雲中,寓與康君立等推轂佐佑之,因為腹心。武皇節制雁門,署職為都押牙,領嵐州刺史。洎移鎮太原,改左都押牙、檢校左僕射。武皇與之決事,言無不從,凡出征伐,靡不衛從。(《通鑒》:光啟二年,駕幸興元,大將蓋寓說克用曰:「 鑾輿播遷,天下皆歸咎於我,今不誅朱玫,黜李煴,無以自湔洗。」克用從之。又,《通鑒考異》引《紀年錄》云:偽使至太原,太祖詰其事狀,曰:「皆朱玫所為。」將斬之以徇,大將蓋寓等言云云。太祖燔偽詔,械其使,馳檄喻諸鎮曰:「今月二十日,得襄王偽詔及朱玫文字,云:『田令孜脅遷鑾駕,播越梁、洋,行至半塗,六軍變擾,遂至蒼黃而晏駕,不知弑逆者何人。永念丕基不可無主,昨四鎮藩後推朕纂承,已於正殿受冊畢,改元大赦者。』李煴出自贅疣,名汙藩邸,智昏菽麥,識昧機權。李符擄之以塞辭,朱玫賣之以為利。呂不韋之奇貨,可見奸邪;蕭世誠之土囊,期於匪夕。近者,當道徑差健步,奉表起居,行朝現住巴、梁,宿衛比無騷動。而朱玫脅其孤騃,自號台衡,敢首亂階,明言晏駕,熒惑藩鎮,淩弱廟朝」云云。)乾寧二年,從入關討王行瑜,特授檢校太保、開國侯,令邑一千戶,領容管觀察經略使。光化初,車駕還京,授檢校太傅,封成陽郡公。

寓は性質が聡明で、智謀に長け、主君の心情を推し量るのが巧みであった。武皇の性質は厳しく急であり、側近で難事を委ねられる者はなく、少しでも逆らえば直ちに法に処したが、ただ寓のみが顔色をうかがい意向に従い、その趨向を規制し、婉曲な言葉で意に順い、補佐の務めを尽くした。武皇が将吏に対して激怒し、事が測り知れない状況になろうとする時、寓が救おうとすれば、必ずその怒りに加担するふりをして彼らを責め、武皇は和らいで彼らを許した。諫言する時は、必ず近い事例を引き合いに出して譬えた。武皇が太原を鎮撫して以来、最も親信を推され、内外の将吏は皆これに従い、朝廷や隣藩の使者が結託するには、まず武皇に及び、次に寓の門を叩いた。軍中の大権を総べるに及び、その名声は主君を凌ぐほどとなり、梁祖も奸人を遣わして離間し、天下に暴露して「蓋寓は既に李に代わった」と言わしめ、聞く者は寒心したが、武皇は少しも疑わなかった。初め、武皇が王行瑜を平定し、渭北に軍を返した時、六十日間の暴雨があり、諸将の中には入覲を請う者があり、また「天子の顔は咫尺の間にあり、どうして覲礼を行わないことがあろうか」と言った。武皇は決心がつかず、寓が申し上げて言うには、「車駕は石門から還京され、寝床も安らかでなく、先頃は行瑜兄弟が乗輿を驚かせました。今、京師は未だ寧かならず、奸宄の流言飛語があります。大王が兵を移して渭を渡れば、必ずや再び宸情を動かすでしょう。君臣の始終は、必ずしも朝覲による必要はなく、ただ藩鎮を守り帰り、ひたすら勤王に務めるのが、忠臣の道です」。武皇は笑って言った、「蓋寓でさえ我が入覲を阻む、まして天下の人々ならなおさらだ」。即日に班師した。天祐二年三月、寓が病篤くなると、武皇は日々その邸に赴き、自ら薬を賜った。初め、寓の家では何事にも珍しい膳を供し、海の幸山の幸を極め、府中の料理より精緻であり、武皇は寓の家の献上でなければ食べず、寓の邸に赴くたびに帰るが如くであり、恩寵の厚さは当時比類がなかった。その卒去に際しては、哭すること極めて慟した。荘宗が即位すると、太師を追贈された。

原文寓性通黠,多智數,善揣人主情。武皇性嚴急,左右難事,無委遇者,小有違忤,即置於法,惟寓承顏希旨,規其趨向,婉辭順意,以盡參裨。武皇或暴怒將吏,事將不測,寓欲救止,必佯佐其怒以責之,武皇怡然釋之。有所諫諍,必征近事以為喻,自武皇鎮撫太原,最推親信,中外將吏,無不景附,朝廷藩鄰,信使結托,先及武皇,次入寓門;既總軍中大柄,其名振主,梁祖亦使奸人離間,暴揚於天下,言蓋寓已代李,聞者寒心,武皇略無疑間。初,武皇既平王行瑜,旋師渭北,暴雨六十日,諸將或請入覲,且云:「天顏咫尺,安得不行覲禮。」武皇意未決,寓白曰:「車駕自石門還京,寢未安席,比為行瑜兄弟驚駭乘輿,今京師未寧,奸宄流議,大王移兵渡渭,必恐復動宸情。君臣始終,不必朝覲,但歸藩守,姑務勤王,是忠臣之道也。」武皇笑曰:「蓋寓尚阻吾入覲,況天下人哉!」即日班師。天祐二年三月,寓病篤,武皇日幸其第,手賜藥餌。初,寓家每事珍膳,窮極海陸,精於府饌,武皇非寓家年獻不食,每幸寓第,其往如歸,恩寵之洽,時我與比;及其卒也,哭之彌慟。莊宗即位,追贈太師。

伊廣は字を言(某)といい、元和中の右僕射伊慎の後裔である。廣は中和の末に忻州刺史を除授された。天下大乱に遇い、武皇に委質した。廣は襟懐が洒落としており、応対に長け、累ねて右職を歴任し、汾州刺史を授かった。当時、武皇が盟主となり、諸侯はこれに従い、軍機の締結や聘問の使者が頻繁に行き交う中、廣は使命を称旨に奉じ、累遷して検校司徒に至った。乾寧四年、劉仁恭征伐に従軍し、武皇の軍が成安寨で不利となり、廣は賊の中で歿した。

原文伊廣,字言,(原本闕一字。)元和中右僕射慎之後。廣,中和末除授忻州刺史。遇天下大亂,乃委質於武皇。廣襟情灑落,善占對,累曆右職,授汾州刺史。時武皇主盟,諸侯景附,軍機締結,聘遺旁午,廣奉使稱旨,累遷至檢校司徒。乾寧四年,從征劉仁恭,武皇之師不利於成安寨,廣歿於賊。

娘が荘宗の淑妃となった。子の承俊は、貝州・遼州の二州刺史を歴任した。

原文有女為莊宗淑妃。子承俊,曆貝、遼二州刺史。

李承勳は、廣と共に牙将となり、使命を奉ずることに長け、軍中に名を知られた。承勳は累遷して太原少尹に至った。劉守光が僭号した時、荘宗は承勳を遣わして使者とし、その隙を問うた。承勳が幽州に至り、守光に会うと、藩鎮同士の聘問の礼を行った。謁者が言うには、「燕王は既に帝となりました。朝礼を行うべきです」。承勳は言った、「我は大国の使人、太原の亜尹であり、これは唐帝の除授である。燕主は自らの部民を臣とすることはできても、どうして我を臣とすることができようか」。守光はこれを聞いて喜ばず、獄に拘留し、数日後に出して詰問して言った、「我に臣従するか」。承勳は言った、「燕君が我が王を臣とすることができれば、我は臣従しよう。死があるのみで、どうして命を辱めようか」。王師が守光を討伐することとなり、承勳はついに燕で歿した。

原文李承勳者,與廣同為牙將,善於奉使,名聞軍中。承勳累遷至太原少尹。劉守光之僭號也,莊宗遣承勳往使,問其釁端。承勳至幽州,見守光,如藩方聘問之禮。謁者曰:「燕王為帝矣,可行朝禮。」承勳曰:「吾大國使人,太原亞尹,是唐帝除授,燕主自可臣其部人,安可臣我哉!」守光聞之不悅,拘留於獄,數日而出,詰之曰:「臣我乎?」承勳曰:「燕君能臣我王,則我臣之;吾有死而已,安敢辱命!」會王師討守光,承勳竟歿於燕。

史敬鎔は太原の人である。武皇に仕えて帳中の綱紀となり、甚だ親任された。荘宗が初めて晋王の位を嗣いだ時、李克寧が密かに異図を構え、荘宗を害そうとしたが、事が発覚する日があった。克寧は密かに敬鎔を引き入れ、邪謀を諭した。やがて敬鎔がこれを白上すると、貞簡太后は惶駭し、張承業・李存璋らを召して図った。克寧らは誅せられ、功により累ねて郡守を歴任した。同光初年、華州節度使となり、安州に移鎮した。天成年間、入朝して金吾きんご上将軍となった。一年後、再び鄧州を授かり、鎮に着いて数か月で卒去した。太尉を追贈された。

原文史敬鎔,太原人。事武皇為帳中綱紀,甚親任之。莊宗初嗣晉王位,李克寧陰構異圖,將害莊宗,事發有日矣,克寧密引敬鎔,以邪謀諭之。既而敬鎔白,貞簡太后惶駭,召張承業、李存璋等圖之。克寧等伏誅,以功累曆郡。同光初,為華州節度使,移鎮安州。天成中,入為金吾上將軍。期年,復授鄧州,至鎮數月卒。贈太尉。