舊五代史

唐書三十一: 列傳七 康君立 薛志勤 史建瑭 李承嗣 史儼 蓋寓 伊廣 李承勳 史敬鎔

康君立は蔚州興唐の人、代々辺境の豪族である。乾符年間、雲州の牙校となり、防禦使段文楚に仕えた。時に群盗が河南に起こり、天下乱れんとし、代北は連年凶作に苦しみ、諸部の豪傑は皆、徒党を組んで功を求めんとする志があった。折しも文楚が軍人の蓄え給与を少し削ったため、戍兵は怨みを抱いた。君立は薛鐵山、程懷信、王行審、李存璋らと謀りて曰く、「段公は懦弱な人物であり、共に事を為すは難し。今四方雲のごとく擾い、武威振わず、丈夫たる者この時に功を立て事を成さざれば、人豪にあらず。我らは仮に部衆を統べるとはいえ、雄勁をもって時に聞こえる者は、沙陀部に如くはなく、また李振武父子は諸軍の勇に冠たり。我らが勢を合わせてこれを推戴すれば、代北の地は旬月のうちに定まり、功名富貴、事成らざるはない。」君立らは夜に武皇を謁して言うには、「今天下大乱し、天子は将臣に辺境の事を委ねたるに、たまたま凶作ありて、直ちに蓄え給与を削る。我ら辺境の民、どうして死を守らんや!公の父子は、平素より威恵をもって五部に及びたまう。虐帥を共に除き、辺境の人に謝すべきなり。敢えて異議を唱うる者あらんや。」武皇曰く、「明らかなる天子上に在す。挙事は朝典に従うべきなり。公ら軽々に議するなかれ。我が父君は遠く振武に在り、万一迫らば、我が命を稟するを待て。」君立ら曰く、「事機すでに洩る。遅れば変生ず。千里を隔てて稟命を待つことなかれ。」衆はここに集まって騒ぎ、武皇を擁した。雲州に至るまでに、衆はほぼ一万人に及び、軍は鬥雞台に営し、城中は文楚を械にかけて武皇の軍に応じた。城を収めた後、武皇を大同軍防禦留後に推戴した。衆はその状を上聞し、朝廷は悦ばず、詔して兵を徴し討たんとした。やがて献祖は振武を失い、武皇は雲州を失う。朝廷は招討使李鈞、幽州の李可挙に命じて武皇に兵を加えさせ、蔚州において武皇を攻撃せしめた。君立はこれに従い可挙の軍を撃ちてしばしば勝利し、献祖が達靼に入ると、君立は感義軍を守った。武皇が雁門節度使に任ぜられると、君立を左都押牙とし、これに従って関中に入り、黄巣の賊を逐い、長安ちょうあんを収めた。武皇が太原に還鎮すると、君立は検校工部尚書、先鋒軍使を授けられた。

文徳初年、李罕之が河陽を失い、武皇のもとに帰順し、かつ援軍を求めてきたので、君立を南面招討使に充て、李存孝をその副将とし、二万の軍を率いて罕之を助け河陽を攻め取らしめた。三月、汴将丁会、牛存節と沇河で戦う。臨陣の際、騎将安休休が叛いて汴軍に入ったため、君立は軍を引いて退いた。八月、汾州刺史を授けられる。大順元年、潞州の小校安居受が反逆し、武皇は君立を遣わしてこれを討ち平らげ、検校左僕射、昭義節度使を授けた。武皇の軍が連年邢州、洺州に略地し、孟方立を攻めて以来、君立は常に沢州、潞州の軍を率いて掎角の勢いをなした。

景福初年、検校司徒しと、食邑千戸を賜る。二年、李存孝が邢州に拠って叛くと、武皇は君立に命じてこれを討たせ、功により検校太保を加えられた。乾寧初年、存孝が平定され、軍を返す。存孝が死ぬと、武皇は深くこれを惜しみ、諸将に怒りを解く者なきを憤った。初め、李存信と存孝は仲が悪く、しばしば互いに傾軋し、君立は平素より存信と親しかった。九月、君立が太原に至ると、武皇は諸将を集めて酒宴と博戯を行い、やがて存孝の事に言及して、涙を流して止まなかった。時に君立が一言、意に逆らう言葉を発したため、武皇は鴆毒を賜って死なせた。時に年四十八。明宗が即位し、旧誼を思う故に、詔して太傅を追贈した。

薛誌勤は蔚州奉誠の人、小字を鐵山という。初め献祖の帳中の親信となり、乾符年間、康君立と共に武皇を推戴して雲州を定め、功により右牙都校を授けられた。武皇に従って達靼に入り、武皇が雁門で節度使を授かると、誌勤は代北軍使を領した。関中に入り、京城を収め、功により検校工部尚書、河東右都押牙、先鋒右軍使を授かった。武皇に従って陳州、許州を救い、黄巣を平定した。武皇が上源驛で難に遭うと、汴将楊彦洪は車を連ね柵を立て、巷陌を遮断した。時に騎従は皆酔っており、宴席も終わった頃、汴軍は四面より伝舎を攻めた。誌勤は勇猛無比で、さらに酒の勢いで胆力が激しく壮となり、独り驛楼に登って大呼して曰く、「朱僕射は恩を負いて行い無く、我が司空しくうを謀らんとす。我ら三百人にして以て事を成すに足る!」ここに弓を引き矢を放ち、矢は虚発せず、汴人の斃れる者数十人。誌勤は密かに武皇に謂いて曰く、「事急なり。五鼓に至らば、我らは一人も残らぬ。速やかに行くべし。」ここに武皇を扶けて去った。雷雨激しく猛り、汴人は橋を扼す。誌勤はその配下を率いて血戦しこれを撃破し、武皇を侍して還営するを得た。これにより恩顧ますます厚し。大順初年、張浚が天子の軍を率いて太原を侵す。十月、大軍が陰地に入ると、誌勤は李承嗣と共に騎兵三千を率いてこれに抗し、蒙坑において韓建の軍を破り、進んで晋州、絳州を収め、功により忻州刺史を授けられた。二年、鎮州討伐に従い、天長、臨城を収め、誌勤は常に先登して陣を陷れ、勇敢にして前に敵する者なし。王暉が雲州に拠って叛くと、これを討ち平らげ、誌勤を大同軍防禦使、検校司空とした。乾寧初年、康君立に代わって昭義節度使となる。光化元年十二月、病により潞州で卒す。時に年六十二。

史建瑭、字は國寶。父は敬思、雁門の人、郡に仕えて牙校に至る。武皇が雁門を節制する時、敬思は九府都督ととくとなり、これに従って関中に入り、京師を定めた。太原に鎮すると、裨将となった。中和四年、陳州、許州救援に従い、前鋒となり、汴上において黄巣を破り、賊を徐、兗まで追撃し、常に騎兵を率いて挺身して酣戦し、勇は諸軍に冠たり。この時、天下の軍雲集すれども、軍中これを推伏せざる者なし。六月、武皇に衛従して汴州に入り、上源驛に宿泊す。この夜、汴人の攻撃を受け、敬思は大いに酔っていたが、蹶然として起き上がり、弓を執って汴人と闘い、矢は虚発せず、汴人の死する者数百。夜半、雨を冒して汴橋に至り、左右が武皇を扶けて包囲を決して去った。敬思は後衛を務め、血戦して歿した。武皇は営に還り、敬思を失いしを知り、久しく涙を流した。

建瑭は父の蔭により若くして軍門に仕えた。光化年間、昭徳軍を掌る。李嗣昭と共に汾州を攻め、率先して城に登り、叛将李瑭を擒えて献じ、検校工部尚書を授けられた。李思安が上党を包囲した時、建瑭は前鋒となり、総管周徳威と共に救援に赴いた。時に汴人は夾城を深く堅固にし、援軍の路は断絶していた。建瑭は日ごとに精騎を引き、伏兵を設けて生け捕りを行い、夜には汴営を襲い、駆逐斬殺すること千計に及び、敵人は芻牧することすら敢えてしなかった。汴将王景仁が柏郷に営す。建瑭は周徳威と先に出て井陘を越える。高邑の戦い、日はすでに晩く、汴軍に帰還の志あり。建瑭は部落の精騎を督して先にその陣を陷れ、魏、滑の間を夾攻し、遂に長駆して追撃した。夜に柏郷に入り、俘虜斬殺すること数千計、功を論じて検校左僕射を加えられる。軍が還り、趙州に留まって戍る。汴将氏延賞がしばしば趙州の南鄙を犯す。建瑭は柏郷に伏兵を設け、延賞を捕らえ、これを献じた。

九年、梁祖(朱全忠)自ら蓚県を攻撃した。当時、晋王の軍は幽州を併せて攻撃し、汴軍五十万が鎮州・定州を侵すと喧伝していた。都將の符存審が李建瑭に言うには、「梁軍がもし五十万で来たら、我々はどう対処すればよいか」と。裨将の趙行實は、「土門に逃げ込むのが上策です」と言った。存審は言った、「事の成否は未だ知れない。ただ老賊(朱全忠)が東におり、別将が西から来るなら、なお徐々に図ることができる」と。十日と経たぬうちに、楊師厚が棗強を包囲し、賀德倫が蓚県を包囲し、梁祖自らが到着して、城攻めを激しく行った。存審は言った、「我が王は今、北面(幽州)の事に専念しておられ、南辺のことは我々数人に任されている。今、西道には兵がおらず、賊の勢いを座して増長させている。どうして策を立てようか。老賊がもし蓚県・阜城を落とさなければ、必ず西進して深州・冀州を攻めよう。諸君と共に騎兵を点検・選抜し、賊の情勢を偵察しよう」と。そこで精騎八百を選んで信都に向かわせ、存審は下博橋を扼し、建瑭と李嗣肱は別々の道を行って生け捕りを行った。建瑭は麾下の三百騎を五軍に分け、自ら一軍を率いて深く侵入し、それぞれに命じて梁軍の草刈り・放牧の者を捕虜・略奪して帰還させ、下博橋で合流させた。翌日、諸軍が皆到着し、草刈り・放牧の者数百人を捕獲し、集めて殺したが、数十人をゆるめて逃がし、それぞれに「沙陀軍が大挙して来た!」と言わせた。梁軍は震え恐れた。翌日、建瑭と嗣肱は梁軍の服色をまとい、草刈り・放牧の者に混じり、夕方に賀德倫の寨門に至り、門番を殺し、火を放って大声で騒ぎ、捕虜をとり斬殺して去った。この夜、梁祖は営を焼いて逃げ去り、貝州に至るまでに道に迷い、棄てた兵器は数えきれなかった。

十二年、魏博が帰順したので、建瑭は符存審と共に前軍として魏県に駐屯した。十三年、元城で劉鄩を破り、澶州を収め、建瑭を刺史・検校司空・外衙騎軍都將とした。まもなく貝州・相州の二州刺史を歴任し、徳勝に駐屯した。十八年、閻宝と共に張文礼を討ち、馬軍都將となった。八月、趙州を収め、刺史の王鋋を捕獲した。鎮州に進軍して迫った時、流れ矢に当たり、軍中で卒去した。時に四十六歳。

李承嗣は、代州雁門の人である。父は佐方。承嗣は若くして郡に仕え、右職に補せられた。中和二年、武皇(李克用)に従って関輔の賊を討ち、前鋒となった。王師が華陰を攻めた時、黄巢は偽客省使の王汀を黄揆のもとに遣わして軍機を会わせようとしたが、承嗣がこれを捕らえて献上した。賊が平定され、功により汾州司馬に任ぜられ、榆次鎮将に改められた。光啓初年、陳・許の蔡賊を討つことに従軍した。上源の難(上源驛の事件)に際し、承嗣を行在所に遣わして上表し、その事情を陳訴させた。観軍容使の田令孜は館舎に迎えて慰諭し、武皇に事情を伝えて、とりあえず和合に務めるよう命じ、左散騎常侍さんきじょうじを授けた。朱玫の乱に際し、承嗣に軍一万を率いさせて鄜州を救援し、渭橋で車駕を迎え護衛させた。王行瑜が朱玫を殺した後、承嗣は鄜州・夏州の軍と合流して京城を平定し、偽宰相の裴徹・鄭昌図を捕らえ、朱玫と襄王の首を函に入れて行在所に献上した。車駕が宮中に還ると、迎鑾功臣の号と、検校工部尚書・守嵐州刺史を賜り、犒軍の銭二万貫を賜った。

当時、車駕が帰還したばかりで、三輔(京兆・馮翊・扶風)には賊が多く、承嗣は兵を整えて警戒・防備し、天子の車駕の周囲を安寧にした。鄜州に還って駐屯した後、別将の馬嘉福に五百騎を留めて宿衛させた。孟方立が遼州を襲撃した時、武皇は承嗣を遣わして榆社に伏兵を設けさせて待ち受けた。邢州の軍が到着すると、承嗣は伏兵を起こし、その帰還する兵を撃ち、大いに破って、その将の奚忠信を捕らえ、功により洺州刺史に任ぜられた。張浚が太原に兵を加えた時、鳳翔軍が霍邑に営していたが、承嗣は一軍を率いてこれを攻め、岐人は夜遁し、趙城まで追撃し、大軍と合流して平陽を攻め、十三日で陥落させた。軍が帰還すると、教練使・検校司徒に改められた。

乾寧二年、兗州・鄆州が汴軍に攻められ、次第に危急に陥ったので、使者を遣わして武皇に援軍を請うた。武皇は承嗣に三千騎を率いさせ、魏を仮道して黄河を渡り、これを救援させた。時に李存信が莘県に駐屯していたが、やがて羅弘信が盟約に背き、王師を急襲したため、これによって連絡が絶たれた。朱瑄・朱瑾が領地を失うと、承嗣は朱瑾・史儼と共に淮南に入った。承嗣と史儼はいずれもぎょう将であり、淮人がこれを得て、軍の声威は大いに振るった。武皇はこれを深く惜しみ、左右の手を失ったかのように思い、趙嶽を遣わして間道より淮南に使いさせ、承嗣らの帰還を請うた。楊行密はこれを許し、使者の陳令存を遣わして武皇に和好を請わせた。その年九月、汴将の龐師古・葛従周が出師し、淮南を収めようとした。朱瑾は淮南軍三万を率い、承嗣と共に清口に伏兵を設け、汴軍を大いに破り、龐師古を生け捕りにした。行密はその雄才を賞賛し、留めて帰さず、なお検校太尉・領鎮海軍節度使に任ずるよう奏上した。天祐九年、淮人は荘宗(李存勗)に柏郷での勝利があったと聞き、承嗣を楚州節度使として、犄角の勢いを張らせた。十七年七月、楚州で卒去した。時に五十五歳。

史儼は、代州雁門の人である。騎射に巧みであったため、武皇に給事した。帳中の親将となり、驍勇果敢で衆に抜きん出、生け捕りや伏兵を設けることに長け、塵埃を望んで敵情を推し量り、向かうところ皆勝利した。武皇が三輔を平定し、黄巢を誅するために入って以来、出師するごとに従った。乾寧年中、王行瑜を討つことに従い、軍は渭水の北に駐屯し、儼に五百騎を率いさせて石門で車駕を護衛させた。当時、京城は大いに擾乱し、士人庶民の多くは南山に散らばっていた。儼は騎兵を分けて警衛し、車駕が京城に還るまで、盗賊が起こらなかった。功により検校右散騎常侍に任ぜられ、三橋に数ヶ月駐屯し、昭宗の寵遇と賞賜は格別であった。翌年、李承嗣と共に騎兵を率いて黄河を渡り、兗州・鄆州を救援した。当時、汴軍は雄盛で、青州・徐州・兗州・鄆州にわたって柵や堡塁が相望んでいた。儼は騎将の安福順らと、しばしば数千騎をもって直ちに敵の営塁を犯し、左で捕虜をとり右で斬殺し、汴軍はこれに披靡した。朱瑾が領地を失うと、李承嗣らと共に淮南に奔った。淮人は元来、水軍に長けていたが、騎射には慣れていなかった。儼らを得てからは、軍の声威は大いに振るい、まもなく清口で汴軍を挫いた。その後、鍾伝を併せ、杜洪を擒にし、銭鏐を削ぎ、行密の覇業を成し遂げたのは、皆儼と承嗣の力によるものであった。淮人は館遇を厚くし、妻子や邸宅は必ず最上のものを与えたので、儼らはその死力を尽くした。天祐十三年、広陵で卒去した。

蓋寓は蔚州の人である。祖父の祚、父の慶は、代々州の牙将であった。武皇が雲中で挙兵すると、寓は康君立らと共に推挙してこれを補佐し、腹心となった。武皇が雁門を節制する時、職を署して都押牙とし、嵐州刺史を領した。太原に移鎮すると、左都押牙・検校左僕射に改めた。武皇が彼と事を決する時、言うことを聞かないことはなく、出征する時は必ず従った。

寓は性質が聡明で、智謀に長け、主君の心情を推し量るのが巧みであった。武皇の性質は厳しく急であり、側近で難事を委ねられる者はなく、少しでも逆らえば直ちに法に処したが、ただ寓のみが顔色をうかがい意向に従い、その趨向を規制し、婉曲な言葉で意に順い、補佐の務めを尽くした。武皇が将吏に対して激怒し、事が測り知れない状況になろうとする時、寓が救おうとすれば、必ずその怒りに加担するふりをして彼らを責め、武皇は和らいで彼らを許した。諫言する時は、必ず近い事例を引き合いに出して譬えた。武皇が太原を鎮撫して以来、最も親信を推され、内外の将吏は皆これに従い、朝廷や隣藩の使者が結託するには、まず武皇に及び、次に寓の門を叩いた。軍中の大権を総べるに及び、その名声は主君を凌ぐほどとなり、梁祖も奸人を遣わして離間し、天下に暴露して「蓋寓は既に李に代わった」と言わしめ、聞く者は寒心したが、武皇は少しも疑わなかった。初め、武皇が王行瑜を平定し、渭北に軍を返した時、六十日間の暴雨があり、諸将の中には入覲を請う者があり、また「天子の顔は咫尺の間にあり、どうして覲礼を行わないことがあろうか」と言った。武皇は決心がつかず、寓が申し上げて言うには、「車駕は石門から還京され、寝床も安らかでなく、先頃は行瑜兄弟が乗輿を驚かせました。今、京師は未だ寧かならず、奸宄の流言飛語があります。大王が兵を移して渭を渡れば、必ずや再び宸情を動かすでしょう。君臣の始終は、必ずしも朝覲による必要はなく、ただ藩鎮を守り帰り、ひたすら勤王に務めるのが、忠臣の道です」。武皇は笑って言った、「蓋寓でさえ我が入覲を阻む、まして天下の人々ならなおさらだ」。即日に班師した。天祐二年三月、寓が病篤くなると、武皇は日々その邸に赴き、自ら薬を賜った。初め、寓の家では何事にも珍しい膳を供し、海の幸山の幸を極め、府中の料理より精緻であり、武皇は寓の家の献上でなければ食べず、寓の邸に赴くたびに帰るが如くであり、恩寵の厚さは当時比類がなかった。その卒去に際しては、哭すること極めて慟した。荘宗が即位すると、太師を追贈された。

伊廣は字を言(某)といい、元和中の右僕射伊慎の後裔である。廣は中和の末に忻州刺史を除授された。天下大乱に遇い、武皇に委質した。廣は襟懐が洒落としており、応対に長け、累ねて右職を歴任し、汾州刺史を授かった。当時、武皇が盟主となり、諸侯はこれに従い、軍機の締結や聘問の使者が頻繁に行き交う中、廣は使命を称旨に奉じ、累遷して検校司徒に至った。乾寧四年、劉仁恭征伐に従軍し、武皇の軍が成安寨で不利となり、廣は賊の中で歿した。

娘が荘宗の淑妃となった。子の承俊は、貝州・遼州の二州刺史を歴任した。

李承勳は、廣と共に牙将となり、使命を奉ずることに長け、軍中に名を知られた。承勳は累遷して太原少尹に至った。劉守光が僭号した時、荘宗は承勳を遣わして使者とし、その隙を問うた。承勳が幽州に至り、守光に会うと、藩鎮同士の聘問の礼を行った。謁者が言うには、「燕王は既に帝となりました。朝礼を行うべきです」。承勳は言った、「我は大国の使人、太原の亜尹であり、これは唐帝の除授である。燕主は自らの部民を臣とすることはできても、どうして我を臣とすることができようか」。守光はこれを聞いて喜ばず、獄に拘留し、数日後に出して詰問して言った、「我に臣従するか」。承勳は言った、「燕君が我が王を臣とすることができれば、我は臣従しよう。死があるのみで、どうして命を辱めようか」。王師が守光を討伐することとなり、承勳はついに燕で歿した。

史敬鎔は太原の人である。武皇に仕えて帳中の綱紀となり、甚だ親任された。荘宗が初めて晋王の位を嗣いだ時、李克寧が密かに異図を構え、荘宗を害そうとしたが、事が発覚する日があった。克寧は密かに敬鎔を引き入れ、邪謀を諭した。やがて敬鎔がこれを白上すると、貞簡太后は惶駭し、張承業・李存璋らを召して図った。克寧らは誅せられ、功により累ねて郡守を歴任した。同光初年、華州節度使となり、安州に移鎮した。天成年間、入朝して金吾上将軍となった。一年後、再び鄧州を授かり、鎮に着いて数か月で卒去した。太尉を追贈された。