舊五代史

唐書三十: 列傳六 王鎔 王昭誨 王處直

王鎔

王鎔は、その先祖は回鶻部の人である。遠祖の沒諾幹は、唐の至徳年間に、鎮州節度使王武俊に仕えて騎将となった。武俊はその勇幹を嘉し、仮子として養い、王五哥と号した。その後、子孫は王を氏とした。四代祖の廷湊は、鎮帥の王承宗に仕えて牙将となった。長慶初年、承宗が卒すると、穆宗は田宏正を成徳軍節度使に任じた。やがて鎮人が宏正を殺し、廷湊を留後として推戴した。朝廷はこれを制することができず、やむなく旌節を授けた。廷湊が卒すると、子の元逵が文宗の女である壽安公主を娶った。元逵が卒すると、子の紹鼎が立った。紹鼎が卒すると、子の景崇が立った。皆、世襲で鎮州節度使となり、いずれも前史に伝がある。景崇は位は太尉・中書令に至り、常山王に封ぜられ、中和二年に卒した。

鎔は即ち景崇の子である。十歳の時、三軍が推戴して父の位を襲った。大順年間、武皇(李克用)の将李存孝が邢・洺を平定した後、武皇に献策し、鎮・定を兼併せんと欲し、連年出師して鎮の属邑を擾乱した。鎔はこれに苦しみ、使者を遣わして幽州に救援を求めた。(《舊唐書》に云う:時に天子蒙塵し、九州鼎沸す。河東節度使李克用は山東を虎視し、まさに吞併を謀らんとす。鎔は重賂をもって結納し、和好を修めんことを請う。晉軍が邢州の孟方立を討つに、鎔は常に芻糧を奉る。方立が平らぎ、晉将李存孝が南部において鎔を侵すに及び、鎔は幽州に援を求む。)ここより、燕帥李匡威は頻りに歳を出軍し、以て鎔の援となった。時に匡威の兵勢はまさに盛んであり、鎔が幼弱であるのを以て、窺図の志有らんとす。

鎔は既に燕軍の援を失い、時に武皇が出師して真定を逼るに会い、鎔は使者を遣わして謝罪し、絹二十万匹を出し、及び牛酒を具えて軍を犒い、ここより鎔と共に好を修めて初めの如くならしむ。梁祖(朱全忠)が山東を兼ね有し、天下を虎視するに及び、鎔は卑辞厚礼をもって、和好を通ぜしむ。(《新唐書》:羅紹威、鎔を諷して太原(李克用)を絶ち、共に全忠を尊ばしむ。鎔は依違し、全忠悦ばず。)光化三年秋、梁祖が河朔を吞まんと欲し、乃ち親征して鎮・定を伐ち、その軍を放って鎮の関城を燔かしむ。鎔は賓佐に謂いて曰く、「事急なり。その向かう所を謀らん。」と。判官周式なる者、口辯有り、出でて梁祖に謁す。梁祖は盛んに怒り、逆に式に謂いて曰く、「王令公は並汾に朋附し、盟に違ひ信を爽かにす。敝賦は業すでにここに及び、期すところは捨てざるに在り!」と。式曰く、「公は唐室の桓・文たり、礼義を以て業を成すべし。反って兵を窮くし武を黷らさんと欲す。天下、公を何と謂わんや!」(《新唐書》:李嗣昭が洺州を攻む。全忠自ら将いてこれを撃ち走らしむ。鎔と嗣昭との書を得る。全忠怒り、軍を引いて鎔を攻む。周式、見えんことを請う。全忠即ち書を出して式に示し曰く、「嗣昭在らば、速やかに遣はすべし。」と。式曰く、「王公の和する所は、人の鋒鏑の間を息ますに在るのみ。況んや天子の詔を継ぎ奉りて和解するに、能く一番の紙を北路に墜さざらんや。太原と趙は本より恩無し。嗣昭庸んぞ肯んで入らんや!」と。)梁祖喜び、式の袂を引きてこれを慰めて曰く、「前言はこれを戯れしのみ!」と。即ち牛酒貨幣を送りて以て軍を犒う。式は鎔の子昭祚及び大将梁公儒・李宏規の子各一人を請いて、汴に質とせしむ。梁祖は女を以て昭祚に妻せしむ。梁祖が帝を称するに及び、鎔は已むを得ず、その正朔を行ふ。

その後、梁祖は常に河朔が悠久にして制し難きを慮り、時に羅紹威卒するに会い、因って鎮・定を除移せんと欲す。先づ親軍三千を遣わし、分かち鎔の深・冀二郡を占拠し、鎮守を名とす。又、大将王景仁・李思安に師七万を率いしめ、柏郷に営せしむ。鎔は使者を遣わし荘宗(李存勗)に急を告ぐ。荘宗は周徳威に兵を率い応ぜしむ。鎔は復た唐朝の正朔を奉じ、天祐七年と称す。高邑において梁軍を破るに及び、我が軍大いに振い、ここより大将王徳明に三十七都を率いさせ荘宗に従ひ征伐せしめ、燕を収め魏を降すに、皆その功に預かる。然れども鎔は未だ嘗て親軍を率いて遠出せず。八年七月、鎔は承天軍に至り、荘宗と合宴同盟し、觴を奉じ壽を献じ、以て感慨を申べしむ。荘宗は鎔を父の友とし、曲く敬異を加え、之が為に声歌を為す。鎔も亦た之に報い、荘宗を四十六舅と謂う。飲中、荘宗は佩刀を抽き衿を断ちて盟と為し、女を以て鎔の子昭誨に妻せんことを許す。これにより堅く荘宗に附す。

鎔は幼より聰悟なりしも、然れども仁にして武ならず、征伐は下より出で、特に数世藩として作るを以てす。四州を専制し、高く塵務を屏へ、軍政に親しまず、多くは閹人に権を秉らしめ、出納決断、悉くその為す所を聴く。皆、第舎を雕靡し、園池を崇飾し、奇花異木を植え、遞りに誇尚す。人士は皆、裒衣博帯、高車大蓋を以て事とし嬉遊す。藩府の中、当時にして盛んなり。鎔は宴安既に久しく、左道に惑はされ、専ら長生の要を求め、常に緇黄を聚め、合煉して仙丹を為し、或いは佛經を講説し、親しく符籙を受く。西山には佛寺多く、又王母観有り。鎔は館宇を増置し、土木を雕飾す。道士王若訥なる者、鎔を誘ひて山に登り水に臨み、仙跡を訪求せしむ。毎に一出ずれば、数月にして方に帰る。百姓労弊す。王母観の石路は既に峻しく、輿馬に通ぜず。毎に登る行には、仆妾数下人を命じ錦繡を維ぎ牽持して上る。閹人石希蒙なる者、奸寵して事を用ひ、鎔に嬖せられ、恒に之と臥起す。

鎔の長子昭祚は、乱の翌日、張文礼これを索め、軍門に斬る。次子は昭誨。鎔が禍に遭ひし夕べ、昭誨は軍人に携へ出だされ府第を出で、地穴に置くこと十余日、乃ちその発を髡し、僧衣を被らしむ。湖南綱官李震の南還するに属し、軍士は昭誨を震に托す。震これを茶褚の中に置く。既に湖湘に至り、乃ち令して南嶽寺の僧に依り業を習はしめ、歳ごとにその費を給す。昭誨年長し帰らんと思ひ、震即ち齎送して還る。時に鎔の故将符習は汴州節度使たり、昭誨の来投するに会ひ、即ちその事を表して曰く、「故趙王王鎔の小男昭誨、年十余歳にして禍に遇ひ、人の匿する所となりて免る。今尚ほ僧と為り、名は崇隱。謹みて闕に赴かしむ。」と。明宗は衣一襲を賜ひ、僧服を脱がしむ。頃くして、昭誨は前成徳軍中軍使・檢校太傅と称し、中書に詣で状を陳ぶ。特ちに朝議大夫・檢校考功郎中・司農少卿を授け、金紫を賜ふ。符習因って女を以て之に妻せしむ。その後、累ねて少列を歴し、周の顯徳中、少府監に遷る。

王處直

王処直。

王都は、本来の姓は劉、幼名を雲郎といい、中山の陘邑の人である。初め、妖術使いの李応之が村落で彼を得て、自分の子として養育した。処直が病に倒れた時、応之が左道の術で治療すると、まもなく病状が好転したので、処直は彼を神異な者と崇め、道士として遇した。始めは仮の幕職を与え、出入りを自由にさせたが、次第に行軍司馬に任じ、軍府の事柄はすべて彼の決裁に委ねた。処直には当時まだ子がなかったので、応之は都を処直に与えて言った、「この子は生まれながらにして異相がある」と。これによって都は処直の子となることができた。その後、応之は管内の白丁を選抜し、別に新軍を編成し、博陵坊に邸宅を建て、門を一つだけ開け、その行動はすべて鬼神の道に通じていた。処直の信任は日増しに厚くなり、将校たちは朝夕に変事が起こることを憂慮し、先手を打って禍を除こうと謀った。ちょうど燕軍が通過を求めてきた時、外城に伏兵を配置し、不測の事態に備えた。夜明け前に城郭に入ると、諸校は軍を率いて応之の邸宅を包囲し、応之は乱兵の中で死んだ。皆がその死体を見なかったと言い、兵士たちは甲冑を脱がなかった。そこで牙帳に迫って都の殺害を請うたが、処直は強くこれを拒み、ようやく都は難を免れた。翌日、賞を与えて労い、その兵士たちを臥内で登録し、隊長以上を別の帳簿に記し、次第に別の事を理由に妻子もろとも誅殺した。およそ二十年の間に、別帳に記された者はほとんど一人も残らなかった。都が成長すると、兵権を総べ、奸詐で巧みにへつらい、生まれつきその才を持っていた。処直は慈しみ養い、次第に後事を託そうとする意向を持った。当時、処直の他の子たちはまだ幼かったので、都を節度副大使とした。

王鬱は、これまた処直の庶子である。

初め、同光年間、祁・易二州刺史は、都が部下の将校を奏請してこれに任じ、戸口を朝廷に進上せず、租賦を自軍の給養に充てていたが、天成の初めもそのまま続いた。やがて安重誨が政権を握ると、少しずつ朝政によってこれを正そうとした。当時、契丹が辺境を侵犯し、諸軍の多くは幽・易の間に駐屯し、大将が往来したが、都はひそかに備えを固め、たびたび迎送を怠り、次第に猜疑の間隙を生じた。和昭訓が都のために策を巡らして言った、「主上は新たに天下を有したばかりで、その勢いは離反しやすい。自ら安泰を図る計略を練るべきである」と。ちょうど朱守殷が汴州に拠って反乱を起こし、鎮州節度使王建立が安重誨と不和で、心中に怨みを抱いていた。都はひそかにこのことを知り、人を遣わして建立を説き謀叛を勧めた。建立は偽ってこれを承諾し、密かにその状況を上奏した。都はまた、青・徐・岐・潞・梓の五帥に蠟書を送り、離間を図った。

三年四月、詔勅を下して都の官爵を剥奪し、宋州節度使王晏球に命じて軍を率いて討伐させた。都は急ぎ王鬱と謀り、契丹を引き入れて援軍とした。王師が城を攻撃すると、契丹の将トノ(托諾)が騎兵一万人を率いて来援した。都は契丹と合流し、嘉山で大戦したが、王師に敗れ、ただトノ(餒諾)が二千騎を率いて定州に逃げ込んだだけだった。都は彼を頼りに城を守り、ノ王と呼んで身を屈して誠意を尽くし、彼が全力を尽くすことを期待した。孤立した城塞は一年を経てもなお備えは十分で、諸校の中には帰順を考える者もいたが、その監察が厳重で、殺人が相次ぎ、人々は前もって謀ることもできず、したがって幾度も企てても成就しなかった。

都は図書を収集することを好み、常山が初めて陥落し、梁国が平定された時から、人に命じて多量の金帛を持たせて買い求めさせ、入手を第一とし、貴賤を問わず、書物は三万巻に及び、名画・楽器もそれぞれ数百点に達し、いずれも四方の精妙なものがその府に集められた。四年三月、晏球が定州を陥落させた。時に都の配下の将校馬讓能が曲陽門で降伏し、都は巷戦して敗れ、馬を駆って府第に帰り、火を放って焼き払った。府庫も妻子も一夜のうちにすべて灰燼かいじんに帰し、ただトノ(托餒)とその男子四人、弟一人を捕らえて行在に献上したのみであった。

李継陶は、荘宗が初めて河朔の地を攻略した時、捕虜として得て、宮中で養育したので、得得という名を付けた。天成の初め、安重誨がその経緯を知り、段佪に預けて養子とさせた。佪は彼がその任にふさわしくないと知り、彼が自由にすることを許した。王都は平素から異志を抱いており、ひそかに彼を連れ帰り、荘宗の太子と呼んだ。都が反乱を起こすと、遂にその服装を僭称させ、時に城壁の上に乗せて、軍士を惑わそうとしたが、人々は皆その偽りを知り、競って罵り辱めた。城が陥落すると、晏球が彼を捕らえ、拘束して宮闕に送った。邢州に至った時、使者を遣わして誅殺した。

【論】

史臣曰く、王鎔は鎮・冀に拠って王を称え、統治すること数世に及んだ。処直は易・定を分けて帥となり、また重侯となった。一方は佞臣に惑わされてその宗族を覆し、一方は庶子を寵愛してその国を失った。その故は何か。およそ富貴が久しくなると、仁義を修めず、目は妖艶なものに眩み、耳は音楽に惑わされ、故に未だ兆しのないうちに奸を防ぎ、未だ萌さぬうちに禍を察することができず、相次いで敗亡した。また誰を咎めようか。