文字サイズ
舊五代史
唐書二十九: 列傳五 李存信 李存孝 李存進 李存璋 李存賢
李存信は、本来の姓は張、父は君政、回鶻部の人である。大中初年、懐化郡王李思忠に従って内附し、雲中の合羅川に家を定めた。存信は聡明で策略に富み、四夷の言語に通じ、六蕃の文字を識別し、戦に長け、兵勢を理解した。初め献祖の親信となり、武皇に従って関中に入り賊を平定し、初めて軍職に補され、姓名を賜った。大順年間、累進して馬歩都校に至り、李存孝とともに平陽で張浚の軍を撃った。当時、存孝の驍勇は群を抜き、軍中は皆彼に服したが、ただ存信のみが功を争い、これにより互いに憎み合い、水火の如き関係となった。潞州平定の後、存孝は功績と声望により節度使を領することを望んだが、やがて康君立が節度使に任ぜられると、存孝は怒り、大いに潞州の民を略奪し、邑屋を焼き、言葉を発しては涙を流し、存信が自分を排斥したためと疑ったのである。翌年、存孝は邢州・洺州を得て、武皇より節度使の位を授けられた。存孝は存信の離間を憂慮し、大功を立てて彼に勝とうと、しばしば武皇に兵を請い、鎮州・冀州を併せて攻めることを求めたが、存信がこれを阻み、時を置かずに許さなかった。大順二年、武皇が大挙して山東の地を攻略するにあたり、存信を蕃漢馬歩都校とした。存孝はこれを聞いて怒り、武皇は存質に代えさせたため、存孝は謀叛を企てた。存孝が誅殺された後、存信を蕃漢都校とした。李匡儔討伐に従い、赫連鐸・白義誠を降伏させ、功により検校右僕射に任ぜられ、関中に入って王行瑜を討つに従い、検校司空を加えられ、郴州刺史を領した。
乾寧三年、兗州・鄆州が武皇に援軍を乞うた。武皇は存信を派遣して莘県に駐屯させ、硃瑄と連合して梁軍に対抗させた。梁祖はこれを憂い、使者を遣わして羅宏信を諜略し、「河東は河朔を併呑する志があり、軍を返す日には、貴道が憂いとなるであろう」と言った。一方、存信は兵を統制する法なく、次第に魏博の芻牧を侵したため、宏信は怒り、翻然として梁祖と結び、兵三万を出して存信を攻撃した。存信は兵を集めて退却したが、魏軍に追撃され、輜重を捨てて洺州に退き守った。軍士の喪失は十二三に及んだ。武皇は怒り、大軍を出して魏博を攻撃し、諸邑を屠り陥落させた。五月、存信は洹水に駐軍した。汴将の葛従周・氏叔琮が魏軍を救援に来た。存信は鉄林都将の落落とともに洹水の南で汴軍と遭遇した。汴軍は彼らを待つために陷馬坎を設けていた。存信は戦いに敗れ、落落は生け捕りにされた。九月、存信は宗城で葛従周を破り、勝ちに乗じて魏州の北門に至った。翌年、兗州・鄆州が共に陥落したと聞き、軍を返した。八月、劉仁恭討伐に従い、軍は安塞に至ったが、燕軍に敗れた。武皇は怒って存信に言った。「昨日、私は酔っており、賊の来襲に気づかなかったが、公は弁えなかったのか。古人に三敗あり、公はすでに二敗である。」存信は恐れ、泥に頭をつけて謝罪し、危うく不測の事態に陥るところであった。光化年間以後、存信は多く病と称し、武皇は兵権を李嗣昭に授け、存信を右校としたのみであった。天復二年十月、病により晋陽で卒去した。時に四十一歳。
李存孝は、本来の姓は安、名は敬思という。『新唐書』によれば、存孝は飛狐の人である。幼少時に俘囚の中から紀綱に隷属し、帳中に給事した。壮年になると、騎射に長け、驍勇は群を抜き、常に騎兵を率いて先鋒となり、一度も敗北したことがなかった。武皇に従って陳州・許州を救援し、黄巣の賊を追撃し、また上源の難に遭うなど、戦うごとにことごとく勝利を収めた。
張浚が太原に兵を加えた時、潞州の小校馮霸がその帥李克恭を殺して城を挙げて叛いた。当時、汴将の硃崇節が潞州に入り、梁祖は張全義に命じて沢州を攻撃させた。李罕之が武皇に急を告げたので、武皇は存孝に騎兵五千を率いて救援させた。初め、汴軍が沢州を攻める際、李罕之に向かって呼びかけた。「相公は常に太原を恃み、大国を軽んじて絶交したが、今や張相公は太原を包囲し、葛司空はすでに潞府に入った。旬日の内に、沙陀は穴もなく身を置く所がなくなる。相公はどの道で生き延びようとするのか。」存孝はその言葉が不遜であると聞き、精騎五百を選び、汴軍の陣営を巡って呼ばわった。「我こそは沙陀の穴を求める者である。お前たちの肉を軍の糧食とするのを待っている。肥った者を出して戦わせよ。」汴将に鄧季筠という者もまた驍勇で知られていたが、軍を率いて出戦した。存孝は部衆を激励し、槊を舞わせて先に登り、一戦でこれを破り、馬千匹を獲、季筠を軍中生け捕りにした。この夜、汴将の李讜は軍を収めて逃走した。存孝は馬牢山まで追撃し、捕虜と斬首は万を数え、引き返して潞州を攻撃した。
当時、朝廷は京兆尹孫揆を昭義節度使に任命し、供奉官韓帰范に旌節を持たせて平陽に送らせた。揆は節を仗して潞州に向かった。梁祖は揆に牙兵三千を紀綱として与え、当時、揆は張浚の副招討であり、配下は一万人であった。八月、晋州・絳州から刀黄嶺を越えて上党に向かった。存孝は三百騎を率いて長子の西崖間に潜伏した。揆は褒衣を着て大蓋をかざし、衆を擁して行進した。その軍の前後が連続していないのを見計らい、存孝は騎兵を出して横撃し、揆と帰范および捕虜五百人を生け捕りにし、太原に献上した。存孝は急いで潞州を攻撃した。九月、葛従周は城を棄てて夜遁した。存孝は城を収め、武皇は康君立を潞州の帥とすることを上表した。存孝は怒り、数日間食事を取らなかった。十月、存孝は潞州を収めた軍を率い、平陽で張浚を包囲し、趙城に陣を張った。華州の韓建は壮士三百を遣わして夜襲をかけたが、存孝は諜報でこれを知り、伏兵を設けて撃ち、全滅させた。進軍して晋州の西門を圧迫し、賊三千を捕らえ、これ以降、敵は城壁を閉じて出てこなかった。存孝は軍を率いて絳州を攻撃した。十一月、刺史張行恭は城を棄てて去り、張浚・韓建もまた含口から逃走した。存孝は晋州・絳州を収め、功により汾州刺史に任ぜられた。
大順二年三月、邢州節度使安知建が叛いて汴軍に入った。武皇は存孝に邢・洺を平定させ、これにより節鉞を授けた。時に幽州の李匡威と鎮州の王鎔はしばしば中山を侵し、その疆土を中分せんとしていた。定州の王処存が武皇に救援を求めた。武皇は存孝に鎮・趙の南鄙を侵させ、また李存信・李存審に命じて師を率い井陘より出てこれと合流させ、ともに軍を合わせて臨城・柏郷を攻めた。李匡威の救援が至り、かつ旋師を議した。李存信は存孝と協せず、よって武皇に構えて言うには、存孝は風を見て退衄し、賊を撃つ心なく、恐らく私盟があるであろうと。存孝これを知り、自ら戦功を恃み、鬱々として平らかならず、よって書を致して王鎔に通じ、また汴に帰款した。明年、武皇自ら井陘より出で、将に真定に逼らんとし、存孝は面して王鎔に謁し軍機を陳べた。武皇は暴怒し、先に獲た汴将安康八を誅して旋師した。七月、また師を出して存孝を討ち、縛馬関より東下し、平山を攻め、滹水を渡り、鎮州の四関城を撃った。王鎔懼れ、使者を遣わして平を乞い、兵三万をもって存孝を撃つのを助けんことを請うた。許された。《新唐書》によれば、王鎔は幽州の助けを失い、よって盟を乞い、幣五十万を進め、糧二十万を帰し、出兵して存孝を討つのを助けんことを請うた。武皇は欒城に蒐した。李存信は琉璃陂に屯した。九月、存孝は夜に存信の営を犯し、奉誠軍使孫考老が獲られ、存信の軍は乱れた。武皇は進んで邢州を攻め、深溝高壘をもってこれを環らした。まもなく存孝の衝突のため、溝塹成らず。軍校の袁奉韜という者あり、密かに人をして存孝に謂わしめて曰く、「大王は塹の成るを俟って即ち太原に帰らんとす。もし塹壘未だ成らずば、恐らく帰るの志無からん。尚書の畏るるは惟だ大王のみ。諸将の孰れか尚書の右に出づるを料るに、王もし西帰せば、黄河を限りとすとも、また浮きて渡るべし。況んや咫尺の洫、安んぞ能く尚書の鋒鋭を阻まんや」と。存孝これを然りとし、兵を縦して塹を成さしめた。旬日を居るに、深溝高壘、飛走も及ぶ能わず、これにより存孝は敗に至り、城中食尽きた。乾寧元年三月、存孝は城に登り首罪し、泣いて武皇に訴えて曰く、「児は王の深恩を蒙り、位将帥に至る。苟も讒慝の離間に非ずんば、何ぞ父子の深恩を捨て、仇讐の党に附せんや。児は褊狭にして設計すと雖も、実に存信の構陷ここに至る。もし生きて王の面を見、一言して死すことを得ば、誠に甘心すべき所なり」と。武皇これに愍れみ、劉太妃を遣わして城に入り慰労せしめた。太妃引き来て謁見せしむるに、存孝は泥首して罪を請いて曰く、「児は微労を立て、本より顕過無し。但だ人に中傷され、申明する路無く、迷昧ここに至る」と。武皇これを叱して曰く、「爾が王鎔に与うる書状、我を罪すること万端、また存信の教えか」と。縶して太原に帰し、市にて車裂に処した。然れども武皇は深くその才を惜しんだ。存孝は毎に大敵に臨み、重鎧を被り橐弓坐槊し、僕人二騎を以て従い、陣中に馬を易え、軽捷飛ぶが如く、独り鉄□を舞い、身を挺して陣に陷り、万人辟易す。蓋し古の張遼・甘寧の比なり。存孝死して、武皇は旬日視事せず、諸将を私憾すること久し。
李存進は振武の人、本姓は孫、名は重進。《歐陽史》によれば、太祖が朔州を破りて之を得、姓名を賜い、子として養う。父は牷、世々単于府に吏す。重進は初め嵐州刺史湯群に仕えて部校となり、献祖が群を誅するや、乃ち武皇に事う。関に入るに従い、還って太原に鎮し、牙職に署す。景福中、義児軍使となり、姓名を賜う。王行瑜を討つに従い、功を以て検校常侍を授かり、李嗣昭とともに河中において王珙を破る。光化三年、契丹塞を犯し、雲中を寇す。永安軍使・雁門以北都知兵馬使に改む。天復初、洞渦において氏叔琮の前軍を破る。三年、石州刺史を授かる。荘宗初めて位を嗣ぐや、入って歩軍右都検校司空となり、師井陘より出で、行営馬軍都虞候を授かり、相郷において汴軍を破り、功を論じて邠州刺史を授かり、転じて検校司徒となる。俄かに西南面行営招討使を兼ね、師を出して慈州を収め、慈・沁二州刺史を授かる。十二年、魏博を定め、天雄軍都巡按使を授かる。時に魏人は初めて附き、銀槍効節都あり、強傑にして制し難く、専ら騒動を謀る。存進は沈厚果断にして、令を犯す者は梟首して屍を市にす。諸軍惕息せざる無く、靡然として風に向う。十四年、蕃漢馬歩副総管に擢でられ、楊劉を攻めるに従い、胡柳に戦う。
十六年、本職を以て兼ねて振武節度使を領す。時に王師は徳勝渡に据わり、汴軍は上流の楊村渡に据わる。汴人は洛陽の竹木を運び、浮橋を造りて軍を済す。王師は船を以て渡り、緩急済み難し。存進は率意して浮橋を造らんと欲す。軍吏曰く、「河橋には須らく竹笮大□を要し、両岸に石倉鉄牛を以て固めとす。今竹石無し、窃かに成り難からんことを慮る」と。存進曰く、「吾が成算心に在り、必ず立つ所あらん」と。乃ち軍に課して葦笮を造らしめ、大艦数十艘を維ぎ、土山を作り、岸に巨木を植えて以て之を纜す。初め、軍中これを戯れと為すも、月余りにして橋成る。制度条直、人皆その勤智に服す。荘宗酒を挙げて曰く、「存進は吾が杜預なり」と。宝馬御衣を賜い、検校太保に進め、兼ねて魏博馬歩都将とす。李存審とともに徳勝を固守す。
十九年、汴将王瓚が衆を率いて北城に逼り、地穴火車を為し、百道進攻す。存進は機に随い拒み応え、或いは終日食を得ず。汴軍退き、検校太傅を加う。王師鎮州において張文礼を討つ。閻宝・李嗣昭相次いで利あらずして歿す。七月、存進は嗣昭に代わりて招討となり、進んで東垣渡に営し、滹□を夾んで壘と為す。沙土散悪にして、垣壁成り難し。存進は林樹を斬伐し、版築旬日にして就く。賊寇す能わず。九月、王処球がその衆を尽く率い、その無備に乗じ、奄として壘門に至る。存進これを聞き、部下数人を得て出でて闘い、賊を橋下に駆る。俄かに賊大いに至り、後軍継がず、血戦して歿す。時に年六十六。同光時、太尉を贈られる。存進の行軍出師は、奇跡無きと雖も、然れども法を以てその驕放を縄すること能い、営壘守戦の備えは、特り精力を推し、議者これを称す。
子四人有り、長は漢韶と曰う。
孫漢韶、字は享天、幼少より器量と才覚を備え、風采は厳然として整っていた。初め荘宗に仕え、定安軍使となり、河東牢城指揮使に遷った。時に孟知祥が太原軍府事を権知し、契丹が北辺を侵すに及んで、表を上って漢韶に師を率いて進討せしめ、やがて契丹を大破し、功により検校右僕射を加えられた。同光年中、蔡州刺史となる。天成初め、復た孫氏に姓を改め、間もなく彰国軍留後を授けられ、累進して検校太保に加えられた。長興年中、洋州節度使となる。《九国志》に曰く、閔帝が位を嗣ぐと、特進を加えられ、漢韶はその父の名を以て上表してこれを譲り、検校左僕射に改めた。制に曰く、「会稽の字を改むるは、前に聞くところあり、瑰宝の文を換ふるは、故事無きに非ず。」末帝が鳳翔に起つや、漢韶は興元の張虔釗と各々部兵を帥いて岐山の下に王師に会し、西師が俱に叛くに及んで、漢韶は逃れて本鎮に帰った。末帝の即位を聞き、心自ら安からず、乃ち張虔釗と各々その城を挙げて蜀に款を通じた。成都に至るに及んで、孟知祥は漢韶を故人とし、殊にこれを善遇した。《九国志》に曰く、漢韶と知祥が汾上の旧事を語り、及び洛中の変事に及んで、相対して感泣す。知祥曰く、「豊沛の故人、此に相遇ふ、何の楽しみか是れに如かんや!」ここにおいて第宅金帛を賜い、供帳什物は悉く官より給す。偽命により永平軍節度使と為り、孟昶が偽位を嗣ぐに及び、興元・遂州の両鎮連帥を歴任し、累進して偽官は中書令に至り、楽安郡王に封ぜられた。年七十余、蜀にて卒す。
李存璋、字は徳璜、雲中の人なり。武皇初め雲中に起つや、存璋は康君立・薛志勤らと奔走の交わりを為し、関に入り従い、功により国子祭酒を授けられ、累進して万勝・雄威等の軍を管す。李匡儔を討つに従い、義児軍使に改む。光化二年、沢州刺史を授けられ、入って牢城使となる。李嗣昭に従い雲州の叛将王暉を討ち、これを平らげ、教練使・検校司空に改む。五年、武皇疾篤く、張承業と存璋を召して遺顧を授く。存璋は爰に荘宗を立て、内難を夷し、頗る力有り。河東馬歩都虞候に改め、兼ねて塩鉄を領す。初め、武皇稍々軍士を寵し、藩部の人多く廛市を干擾し、その豪奪を肆にし、法司禁むる能わず。荘宗初め位を嗣ぎ、理を求むるに鋭し。存璋その志を行うを得、強を抑え弱を撫で、その豪首を誅し、期月の間に、紀綱大いに振い、群盗を弭ぎ、耕稼に務め、奸宄を去り、幸門を息め、当時にその材幹を称せらる。汴軍を夾城に破るに従い、転じて検校司徒となる。柏郷の役、三鎮排陣使と為る。十一年、硃友謙と猗氏に盟するに従い、汾州刺史を授けらる。汴将尹皓慈州を攻むるに、逆戦してこれを敗る。十三年、王檀太原に逼るや、存璋汾州の軍を率いて城に入り固守し、大同防禦使・応蔚朔等州都知兵馬使を授けらる。秋、契丹蔚州を攻め、安巴堅使いを馳せて木書を以て賂を求めしむるに、存璋その使を斬る。契丹雲州に逼るや、存璋拒守し、城中に古鉄車有り、乃ち熔かして兵仗と為し、以て軍士に給す。敵退き、功により検校太傅・大同軍節度使・応蔚等州観察使を加えらる。十九年四月、疾を以て雲州府第に卒す。同光初め、太保・平章事を追贈す。晋天福初め、太師を追贈す。
子三人有り、彦球は裨校と為り、鎮州にて戦歿す。
李存賢、字は子良、本姓は王、名は賢、許州の人なり。祖父は啓忠、父は惲。賢は少にして乱に遇い、黄巢の軍に入る。武皇賊を陳・許に破り、存賢来たり帰す。景福年中、義児軍を典し、副兵馬使と為り、因りて姓名を賜う。天祐三年、周徳威に従い上党に赴援し、交口に営す。五年、蔚州刺史を権知し、以て吐渾を御す。六年、沁州刺史を権ず。先ず是れ、州は賊境に当たり、保守能わず、乃ち州南五十里に険に拠り柵を立てて治所と為し、已に十余年を歴たり。存賢郡に至り、乃ち旧郡に復し移り、荆棘を劃辟し、特り廨舎を立て、州民完集す。荘宗これを嘉し、転じて検校司空と為し、真に刺史を拝す。九年、汴人その無備に乗じ、来たりてその城を攻むるに、存賢これを撃退す。十一年、武州刺史・山北団練使を授けらる。十二年、移りて慈州を刺す。七月、汴将尹皓州城を攻むるに、存賢軍を督して拒戦し、汴軍攻擊百端、月余り遁去す。十八年、河中の硃友謙来たりて援を求めしむるに、命じて存賢に師を率いてこれに赴かしむ。十九年、汴将段凝軍五万を以て臨晋に営し、蒲人大いに恐れ、咸く汴に帰らんと欲す。或人存賢に問うて曰く、「河中の将士公を拘えて汴に降らんと欲す。」厚賢曰く、「吾命を奉じて河中に至る、王事に死するは固よりその所なり。」汴軍退き、功により検校司徒を加えらる。同光初め、右武衛上将軍を授けらる。十一月、洛陽に入り覲す。二年三月、幽州の李存審疾篤く、入覲を求め、帥を択びてこれに代うるを議す。方に内宴す、荘宗曰く、「吾が榛を披く故人、零落殆く尽き、残る所は存審のみ。今復た衰疾す、北門の事、何れの人に付くかを知らんや!」因りて存賢を目して曰く、「卿に易ふるは無し。」即日に特進・検校太保を授け、充てて幽州盧龍節度使と為す。五月、鎮に到る。時に契丹強盛、城門の外、烽塵交警し、一日数戦す。存賢性忠謹周慎、昼夜戒厳し、寢食に遑あらず、以て憂労疾を成し、幽州に卒す。時に年六十五。詔して太傅を贈る。
存賢は少にして材力有り、角牴を善くす。初め、荘宗籓邸に在りし時、毎に宴し、私に王郁と角牴して勝を闘わしむるに、郁頻りに勝たず。荘宗自らその能を矜り、存賢に謂いて曰く、「爾と一たび博せん、もし勝たば、爾に一郡を賞せん。」即時に角牴し、存賢勝ち、蔚州刺史を得たり。
史臣曰く、昔武皇の並・汾に起つや、会に鹿は中原に走り、期に龍は大沢に戦わんとし、驍果の士を蓄え、以て鷹犬の用に備う。故に存信より下、皆姓を錫いてその心を結び、任を授けてその効を責む。夫れ董卓の呂布を畜うるに比し、亦何ぞ殊ならんや!惟だ存孝の勇は、以て三軍に冠たりて万夫を長ずるに足り、苟くも叛臣と為らざれば、則ち良将と謂うべし。