舊五代史

唐書二十九: 列傳五 李存信 李存孝 李存進 李存璋 李存賢

唐書二十九: 列傳五 李存信 李存孝 李存進 李存璋 李存賢

李存信は、本来の姓は張、父は君政、回鶻かいこつ部の人である。大中初年、懐化郡王李思忠に従って内附し、雲中の合羅川に家を定めた。存信は聡明で策略に富み、四夷の言語に通じ、六蕃の文字あざなを識別し、戦に長け、兵勢を理解した。初め献祖の親信となり、武皇に従って関中に入り賊を平定し、初めて軍職に補され、姓名を賜った。大順年間、累進して馬歩都校に至り、李存孝とともに平陽で張浚の軍を撃った。当時、存孝の驍勇は群を抜き、軍中は皆彼に服したが、ただ存信のみが功を争い、これにより互いに憎み合い、水火の如き関係となった。潞州平定の後、存孝は功績と声望により節度使せつどしを領することを望んだが、やがて康君立が節度使に任ぜられると、存孝は怒り、大いに潞州の民を略奪し、邑屋を焼き、言葉を発しては涙を流し、存信が自分を排斥したためと疑ったのである。翌年、存孝は邢州・洺州を得て、武皇より節度使の位を授けられた。存孝は存信の離間を憂慮し、大功を立てて彼に勝とうと、しばしば武皇に兵を請い、鎮州・冀州を併せて攻めることを求めたが、存信がこれを阻み、時を置かずに許さなかった。大順二年、武皇が大挙して山東の地を攻略するにあたり、存信を蕃漢馬歩都校とした。存孝はこれを聞いて怒り、武皇は存質に代えさせたため、存孝は謀叛を企てた。存孝が誅殺された後、存信を蕃漢都校とした。李匡儔討伐に従い、赫連鐸・白義誠を降伏させ、功により検校けんぎょう右僕射に任ぜられ、関中に入って王行瑜を討つに従い、検校司空しくうを加えられ、郴州刺史を領した。

原文李存信,本姓張,父君政,回鶻部人也。大中初,隨懷化郡王李思忠內附,因家雲中之合羅川。存信通黠多數,會四夷語,別六蕃書,善戰,識兵勢。初為獻祖親信,從武皇入關平賊,始補軍職,賜姓名。大順中,累遷至馬步都校,與李存孝擊張浚軍於平陽。時存孝驍勇冠絕,軍中皆下之,惟存信與爭功,由是相惡,有同水火。及平定潞州,存孝以功望領節度,既而康君立授旄鉞,存孝怒,大剽潞民,燒邑屋,言發流涕,疑存信擯己故也。明年,存孝得邢、洺,武皇與之節鉞。存孝慮存信離間,欲立大功以勝之,屢請兵於武皇,請兼併鎮、冀,存信間之,不時許。大順二年,武皇大舉略地山東,以存信為蕃漢馬步都校,存孝聞之怒,武皇令存質代之,存孝乃謀叛。既誅,以存信為蕃漢都校。從討李匡儔,降赫連鐸、白義誠,以功檢校右僕射,從入關討王行瑜,加檢校司空,領郴州刺史。

乾寧三年、兗州・鄆州が武皇に援軍を乞うた。武皇は存信を派遣して莘県に駐屯させ、硃瑄と連合して梁軍に対抗させた。梁祖はこれを憂い、使者を遣わして羅宏信を諜略し、「河東は河朔を併呑する志があり、軍を返す日には、貴道が憂いとなるであろう」と言った。一方、存信は兵を統制する法なく、次第に魏博の芻牧を侵したため、宏信は怒り、翻然として梁祖と結び、兵三万を出して存信を攻撃した。存信は兵を集めて退却したが、魏軍に追撃され、輜重を捨てて洺州に退き守った。軍士の喪失は十二三に及んだ。武皇は怒り、大軍を出して魏博を攻撃し、諸邑を屠り陥落させた。五月、存信は洹水に駐軍した。汴将の葛従周・氏叔琮が魏軍を救援に来た。存信は鉄林都将の落落とともに洹水の南で汴軍と遭遇した。汴軍は彼らを待つために陷馬坎を設けていた。存信は戦いに敗れ、落落は生け捕りにされた。九月、存信は宗城で葛従周を破り、勝ちに乗じて魏州の北門に至った。翌年、兗州・鄆州が共に陥落したと聞き、軍を返した。八月、劉仁恭討伐に従い、軍は安塞に至ったが、燕軍に敗れた。武皇は怒って存信に言った。「昨日、私は酔っており、賊の来襲に気づかなかったが、公は弁えなかったのか。古人に三敗あり、公はすでに二敗である。」存信は恐れ、泥に頭をつけて謝罪し、危うく不測の事態に陥るところであった。光化年間以後、存信は多く病と称し、武皇は兵権を李嗣昭に授け、存信を右校としたのみであった。天復二年十月、病により晋陽で卒去した。時に四十一歳。

原文乾寧三年,兗、鄆乞師於武皇,武皇遣存信營於莘縣,與硃瑄合勢以抗梁人。梁祖患之,遣使諜羅宏信曰:「河東志在吞食河朔,回軍之日,貴道堪憂。」而存信戢兵無法,稍侵魏之芻牧,宏信怒,翻然結於梁祖,乃出兵三萬以攻存信。存信斂眾而退,為魏人所薄,委棄輜重,退保洺州,軍士喪失者十二三。武皇怒,大出師攻魏博,屠陷諸邑。五月,存信軍於洹水,汴將葛從周、氏叔琮來援魏人,存信與鐵林都將落落遇汴人於洹水南,汴人為陷馬坎以待之,存信戰敗,落落被擒。九月,存信敗葛從周於宗城,乘勝至魏州之北門。明年,聞兗、鄆皆陷,乃班師。八月,從討劉仁恭,師次安塞,為燕軍所敗。武皇怒謂存信曰:「昨日吾醉,不悟賊至,公不辨耶!古人三敗,公姑二矣。」存信懼,泥首謝罪,幾至不測。自光化已後,存信多稱病,武皇以兵柄授李嗣昭,以存信為右校而已。天復二年十月,以疾卒於晉陽,時四十一。

李存孝は、本来の姓は安、名は敬思という。『新唐書』によれば、存孝は飛狐の人である。幼少時に俘囚の中から紀綱に隷属し、帳中に給事した。壮年になると、騎射に長け、驍勇は群を抜き、常に騎兵を率いて先鋒となり、一度も敗北したことがなかった。武皇に従って陳州・許州を救援し、黄巣の賊を追撃し、また上源の難に遭うなど、戦うごとにことごとく勝利を収めた。

原文李存孝,本姓安,名敬思。《新唐書》:存孝,飛狐人。少於俘囚中得隸紀綱,給事帳中。及壯,便騎射,驍勇冠絕,常將騎為先鋒,未嘗挫敗;從武皇救陳、許,逐黃寇,及遇難上源,每戰無不克捷。

張浚が太原に兵を加えた時、潞州の小校馮霸がその帥李克恭を殺して城を挙げて叛いた。当時、汴将の硃崇節が潞州に入り、梁祖は張全義に命じて沢州を攻撃させた。李罕之が武皇に急を告げたので、武皇は存孝に騎兵五千を率いて救援させた。初め、汴軍が沢州を攻める際、李罕之に向かって呼びかけた。「相公は常に太原を恃み、大国を軽んじて絶交したが、今や張相公は太原を包囲し、葛司空はすでに潞府に入った。旬日の内に、沙陀さだは穴もなく身を置く所がなくなる。相公はどの道で生き延びようとするのか。」存孝はその言葉が不遜であると聞き、精騎五百を選び、汴軍の陣営を巡って呼ばわった。「我こそは沙陀の穴を求める者である。お前たちの肉を軍の糧食とするのを待っている。肥った者を出して戦わせよ。」汴将に鄧季筠という者もまた驍勇で知られていたが、軍を率いて出戦した。存孝は部衆を激励し、槊を舞わせて先に登り、一戦でこれを破り、馬千匹を獲、季筠を軍中生け捕りにした。この夜、汴将の李讜は軍を収めて逃走した。存孝は馬牢山まで追撃し、捕虜と斬首は万を数え、引き返して潞州を攻撃した。

原文張浚之加兵於太原也,潞州小校馮霸殺其帥李克恭以城叛。時汴將硃崇節入潞州,梁祖令張全義攻澤州。李罕之告急於武皇,武皇遣存孝率騎五千援之。初,汴人攻澤州,呼罕之曰:「相公常恃太原,輕絕大國,今張相公圍太原,葛司空已入潞府,旬日之內,沙陀無穴自處,相公何路求生耶!」存孝聞其言不遜,選精騎五百,繞汴營呼曰:「我,沙陀求穴者,俟爾肉饌軍,可令肥者出鬥!」汴將有鄧季筠者,亦以驍勇聞,乃引軍出戰。存孝激勵部眾,舞槊先登,一戰敗之,獲馬千匹,生擒季筠於軍中。是夜,汴將李讜收軍而遁,存孝追擊至馬牢山,俘斬萬計,遂退攻潞州。

当時、朝廷は京兆尹孫揆を昭義節度使に任命し、供奉官韓帰范に旌節を持たせて平陽に送らせた。揆は節を仗して潞州に向かった。梁祖は揆に牙兵三千を紀綱として与え、当時、揆は張浚の副招討であり、配下は一万人であった。八月、晋州・絳州から刀黄嶺を越えて上党に向かった。存孝は三百騎を率いて長子の西崖間に潜伏した。揆は褒衣を着て大蓋をかざし、衆を擁して行進した。その軍の前後が連続していないのを見計らい、存孝は騎兵を出して横撃し、揆と帰范および捕虜五百人を生け捕りにし、太原に献上した。存孝は急いで潞州を攻撃した。九月、葛従周は城を棄てて夜遁した。存孝は城を収め、武皇は康君立を潞州の帥とすることを上表した。存孝は怒り、数日間食事を取らなかった。十月、存孝は潞州を収めた軍を率い、平陽で張浚を包囲し、趙城に陣を張った。華州の韓建は壮士三百を遣わして夜襲をかけたが、存孝は諜報でこれを知り、伏兵を設けて撃ち、全滅させた。進軍して晋州の西門を圧迫し、賊三千を捕らえ、これ以降、敵は城壁を閉じて出てこなかった。存孝は軍を率いて絳州を攻撃した。十一月、刺史張行恭は城を棄てて去り、張浚・韓建もまた含口から逃走した。存孝は晋州・絳州を収め、功により汾州刺史に任ぜられた。

原文時朝廷命京兆尹孫揆為昭義節度使,令供奉官韓歸范送旌節至平陽,揆乃仗節之潞;梁祖與揆牙兵三千為紀綱,時揆為張浚副招討,所部萬人。八月,自晉、絳逾刀黃嶺趨上黨。存孝引三百騎伏於長子西崖間。揆褒衣大蓋,擁眾而行,俟其軍前後不屬,存孝出騎橫擊之,擒揆與歸范及俘囚五百,獻於太原;存孝乃急攻潞州。九月,葛從周棄城夜遁,存孝收城,武皇乃表康君立為潞帥。存孝怒,不食者累日。十月,存孝引收潞州之師,圍張浚於平陽,營於趙城。華州韓建遣壯士三百夜犯其營,存孝諜知,設伏以擊之,盡殪;進壓晉州西門,獲賊三千,自是閉壁不出。存孝引軍攻絳州。十一月,刺史張行恭棄城而去,張浚、韓建亦由含口而遁。存孝收晉、絳,以功授汾州刺史。

大順二年三月、邢州節度使安知建が叛いて汴軍に入った。武皇は存孝に邢・洺を平定させ、これにより節鉞を授けた。時に幽州の李匡威と鎮州の王鎔はしばしば中山を侵し、その疆土を中分せんとしていた。定州の王処存が武皇に救援を求めた。武皇は存孝に鎮・趙の南鄙を侵させ、また李存信・李存審に命じて師を率い井陘より出てこれと合流させ、ともに軍を合わせて臨城・柏郷を攻めた。李匡威の救援が至り、かつ旋師を議した。李存信は存孝と協せず、よって武皇に構えて言うには、存孝は風を見て退衄し、賊を撃つ心なく、恐らく私盟があるであろうと。存孝これを知り、自ら戦功を恃み、鬱々として平らかならず、よって書を致して王鎔に通じ、また汴に帰款した。明年、武皇自ら井陘より出で、将に真定に逼らんとし、存孝は面して王鎔に謁し軍機を陳べた。武皇は暴怒し、先に獲た汴将安康八を誅して旋師した。七月、また師を出して存孝を討ち、縛馬関より東下し、平山を攻め、滹水を渡り、鎮州の四関城を撃った。王鎔懼れ、使者を遣わして平を乞い、兵三万をもって存孝を撃つのを助けんことを請うた。許された。《新唐書》によれば、王鎔は幽州の助けを失い、よって盟を乞い、幣五十万を進め、糧二十万を帰し、出兵して存孝を討つのを助けんことを請うた。武皇は欒城に蒐した。李存信は琉璃陂に屯した。九月、存孝は夜に存信の営を犯し、奉誠軍使孫考老が獲られ、存信の軍は乱れた。武皇は進んで邢州を攻め、深溝高壘をもってこれを環らした。まもなく存孝の衝突のため、溝塹成らず。軍校の袁奉韜という者あり、密かに人をして存孝に謂わしめて曰く、「大王は塹の成るを俟って即ち太原に帰らんとす。もし塹壘未だ成らずば、恐らく帰るの志無からん。尚書の畏るるは惟だ大王のみ。諸将の孰れか尚書の右に出づるを料るに、王もし西帰せば、黄河を限りとすとも、また浮きて渡るべし。況んや咫尺の洫、安んぞ能く尚書の鋒鋭を阻まんや」と。存孝これを然りとし、兵を縦して塹を成さしめた。旬日を居るに、深溝高壘、飛走も及ぶ能わず、これにより存孝は敗に至り、城中食尽きた。乾寧元年三月、存孝は城に登り首罪し、泣いて武皇に訴えて曰く、「児は王の深恩を蒙り、位将帥に至る。苟も讒慝の離間に非ずんば、何ぞ父子の深恩を捨て、仇讐の党に附せんや。児は褊狭にして設計すと雖も、実に存信の構陷ここに至る。もし生きて王の面を見、一言して死すことを得ば、誠に甘心すべき所なり」と。武皇これに愍れみ、劉太妃を遣わして城に入り慰労せしめた。太妃引き来て謁見せしむるに、存孝は泥首して罪を請いて曰く、「児は微労を立て、本より顕過無し。但だ人に中傷され、申明する路無く、迷昧ここに至る」と。武皇これを叱して曰く、「爾が王鎔に与うる書状、我を罪すること万端、また存信の教えか」と。縶して太原に帰し、市にて車裂に処した。然れども武皇は深くその才を惜しんだ。存孝は毎に大敵に臨み、重鎧を被り橐弓坐槊し、僕人二騎を以て従い、陣中に馬を易え、軽捷飛ぶが如く、独り鉄□を舞い、身を挺して陣に陷り、万人辟易す。蓋し古の張遼・甘寧の比なり。存孝死して、武皇は旬日視事せず、諸将を私憾すること久し。

原文大順二年三月,邢州節度使安知建叛入汴軍,武皇令存孝定邢、洺,因授之節鉞。時幽州李匡威與鎮州王鎔屢弱中山,將中分其疆土。定州王處存求援於武皇;武皇命存孝侵鎮、趙之南鄙,又令李存信、李存審率師出井陘以會之,並軍攻臨城、柏鄉。李匡威救至,且議旋師。李存信與存孝不協,因構於武皇,言存孝望風退衄,無心擊賊,恐有私盟也。存孝知之,自恃戰功,鬱鬱不平,因致書通王鎔,又歸款於汴。明年,武皇自出井陘,將逼真定,存孝面見王鎔陳軍機。武皇暴怒,誅先獲汴將安康八方旋師。七月,復出師討存孝,自縛馬關東下,攻平山,渡滹水,擊鎮州四關城。王鎔懼,遣使乞平,請以兵三萬助擊存孝,許之。《新唐書》:王鎔失幽州助,因乞盟,進幣五十萬,歸糧二十萬,請出兵助討存孝。武皇蒐於欒城。李存信屯琉璃陂。九月,存孝夜犯存信營,奉誠軍使孫考老被獲,存信軍亂。武皇進攻邢州,深溝高壘以環之,旋為存孝衝突,溝塹不成。有軍校袁奉韜者,密令人謂存孝曰:「大王俟塹成即歸太原,如塹壘未成,恐無歸志。尚書所畏惟大王耳,料諸將孰出尚書右。王若西歸,雖限以黃河,亦可浮渡,況咫尺之洫,安能阻尚書鋒銳哉!」存孝然之,縱兵成塹。居旬日,深溝高壘,飛走不能及,由是存孝至敗,城中食盡。乾寧元年三月,存孝登城首罪,泣訴於武皇曰:「兒蒙王深恩,位至將帥,苟非讒慝離間,曷欲捨父子之深恩,附仇讎之黨!兒雖褊狹設計,實存信構陷至此,若得生見王面,一言而死,誠所甘心。」武皇愍之,遣劉太妃入城慰勞。太妃引來謁見,存孝泥首請罪曰:「兒立微勞,本無顯過,但被人中傷,申明無路,迷昧至此!」武皇叱之曰:「爾與王鎔書狀,罪我萬端,亦存信教耶!」縶歸太原,車裂於市。然武皇深惜其才。存孝每臨大敵,被重鎧橐弓坐槊,僕人以二騎從,陣中易騎,輕捷如飛,獨舞鐵□,挺身陷陣,萬人辟易,蓋古張遼、甘寧之比也。存孝死,武皇不視事旬日,私憾諸將久之。

李存進は振武の人、本姓は孫、名は重進。《歐陽史》によれば、太祖たいそが朔州を破りて之を得、姓名を賜い、子として養う。父は牷、世々単于府に吏す。重進は初め嵐州刺史湯群に仕えて部校となり、献祖が群を誅するや、乃ち武皇に事う。関に入るに従い、還って太原に鎮し、牙職に署す。景福中、義児軍使となり、姓名を賜う。王行瑜を討つに従い、功を以て検校常侍を授かり、李嗣昭とともに河中において王珙を破る。光化三年、契丹きったん塞を犯し、雲中を寇す。永安軍使・雁門以北都知兵馬使に改む。天復初、洞渦において氏叔琮の前軍を破る。三年、石州刺史を授かる。荘宗初めて位を嗣ぐや、入って歩軍右都検校司空となり、師井陘より出で、行営馬軍都虞候を授かり、相郷において汴軍を破り、功を論じて邠州刺史を授かり、転じて検校司徒しととなる。俄かに西南面行営招討使を兼ね、師を出して慈州を収め、慈・沁二州刺史を授かる。十二年、魏博を定め、天雄軍都巡按使を授かる。時に魏人は初めて附き、銀槍効節都あり、強傑にして制し難く、専ら騒動を謀る。存進は沈厚果断にして、令を犯す者は梟首して屍を市にす。諸軍惕息せざる無く、靡然として風に向う。十四年、蕃漢馬歩副総管に擢でられ、楊劉を攻めるに従い、胡柳に戦う。

原文李存進,振武人,本姓孫,名重進。《歐陽史》:太祖破朔州得之,賜以姓名,養為子。父牷,世吏單于府。重進初仕嵐州刺史湯群為部校,獻祖誅群,乃事武皇。從入關,還鎮太原,署牙職。景福中,為義兒軍使,賜姓名。從討王行瑜,以功授檢校常侍,與李嗣昭同破王珙於河中。光化三年,契丹犯塞,寇雲中,改永安軍使、雁門以北都知兵馬使。天復初,破氏叔琮前軍於洞渦。三年,授石州刺史。莊宗初嗣位,入為步軍右都檢校司空,師出井陘,授行營馬軍都虞候,破汴軍於相鄉,論功授邠州刺史,轉檢校司徒。俄兼西南面行營招討使,出師收慈州,授慈、沁二州刺史。十二年,定魏博,授天雄軍都巡按使。時魏人初附,有銀槍效節都,強傑難制,專謀騷動。存進沈厚果斷,犯令者梟首屍於市,諸軍無不惕息,靡然向風。十四年,擢蕃漢馬步副總管,從攻楊劉,戰胡柳。

十六年、本職を以て兼ねて振武節度使を領す。時に王師は徳勝渡に据わり、汴軍は上流の楊村渡に据わる。汴人は洛陽らくようの竹木を運び、浮橋を造りて軍を済す。王師は船を以て渡り、緩急済み難し。存進は率意して浮橋を造らんと欲す。軍吏曰く、「河橋には須らく竹笮大□を要し、両岸に石倉鉄牛を以て固めとす。今竹石無し、窃かに成り難からんことを慮る」と。存進曰く、「吾が成算心に在り、必ず立つ所あらん」と。乃ち軍に課して葦笮を造らしめ、大艦数十艘を維ぎ、土山を作り、岸に巨木を植えて以て之を纜す。初め、軍中これを戯れと為すも、月余りにして橋成る。制度条直、人皆その勤智に服す。荘宗酒を挙げて曰く、「存進は吾が杜預なり」と。宝馬御衣を賜い、検校太保に進め、兼ねて魏博馬歩都将とす。李存審とともに徳勝を固守す。

原文十六年,以本職兼領振武節度使。時王師據德勝渡,汴軍據楊村渡在上流。汴人運洛陽竹木,造浮橋以濟軍。王師以船渡,緩急難濟,存進率意欲造浮橋。軍吏曰:「河橋須竹笮大□,兩岸石倉鐵牛以為固,今無竹石,竊慮難成。」存進曰:「吾成算在心,必有所立。」乃課軍造葦笮,維大艦數十艘,作土山,植巨木於岸以纜之。初,軍中以為戲,月餘橋成,制度條直,人皆服其勤智。莊宗舉酒曰:「存進,吾之杜預也。」賜寶馬御衣,進檢校太保,兼魏博馬步都將。與李存審固守德勝。

十九年、汴将王瓚が衆を率いて北城に逼り、地穴火車を為し、百道進攻す。存進は機に随い拒み応え、或いは終日食を得ず。汴軍退き、検校太傅たいふを加う。王師鎮州において張文礼を討つ。閻宝・李嗣昭相次いで利あらずして歿す。七月、存進は嗣昭に代わりて招討となり、進んで東垣渡に営し、滹□を夾んで壘と為す。沙土散悪にして、垣壁成り難し。存進は林樹を斬伐し、版築旬日にして就く。賊寇す能わず。九月、王処球がその衆を尽く率い、その無備に乗じ、奄として壘門に至る。存進これを聞き、部下数人を得て出でて闘い、賊を橋下に駆る。俄かに賊大いに至り、後軍継がず、血戦して歿す。時に年六十六。同光時、太尉を贈られる。存進の行軍出師は、奇跡無きと雖も、然れども法を以てその驕放を縄すること能い、営壘守戦の備えは、特り精力を推し、議者これを称す。

原文十九年,汴將王瓚率眾逼北城,為地穴火車,百道進攻。存進隨機拒應,或經日不得食。汴軍退,加檢校太傅。王師討張文禮於鎮州,閻寶、李嗣昭相次不利而歿。七月,存進代嗣昭為招討,進營東垣渡,夾滹□為壘,沙土散惡,垣壁難成。存進斬伐林樹,版築旬日而就,賊不能寇。九月,王處球盡率其眾,乘其無備,奄至壘門。存進聞之,得部下數人出鬥,驅賊於橋下。俄而賊大至,後軍不繼,血戰而歿,時年六十六。同光時,贈太尉。存進行軍出師,雖無奇跡,然能以法繩其驕放,營壘守戰之備,特推精力,議者稱之。

子四人有り、長は漢韶と曰う。

原文有子四人,長曰漢韶。

孫漢韶、字は享天、幼少より器量と才覚を備え、風采は厳然として整っていた。初め荘宗に仕え、定安軍使となり、河東牢城指揮使に遷った。時に孟知祥が太原軍府事を権知し、契丹が北辺を侵すに及んで、表を上って漢韶に師を率いて進討せしめ、やがて契丹を大破し、功により検校右僕射を加えられた。同光年中、蔡州刺史となる。天成初め、復た孫氏に姓を改め、間もなく彰国軍留後を授けられ、累進して検校太保に加えられた。長興年中、洋州節度使となる。《九国志》に曰く、閔帝が位を嗣ぐと、特進を加えられ、漢韶はその父の名を以て上表してこれを譲り、検校左僕射に改めた。制に曰く、「会稽の字を改むるは、前に聞くところあり、瑰宝の文を換ふるは、故事無きに非ず。」末帝が鳳翔に起つや、漢韶は興元の張虔釗と各々部兵を帥いて岐山の下に王師に会し、西師が俱に叛くに及んで、漢韶は逃れて本鎮に帰った。末帝の即位を聞き、心自ら安からず、乃ち張虔釗と各々その城を挙げて蜀に款を通じた。成都に至るに及んで、孟知祥は漢韶を故人とし、殊にこれを善遇した。《九国志》に曰く、漢韶と知祥が汾上の旧事を語り、及び洛中の変事に及んで、相対して感泣す。知祥曰く、「豊沛の故人、此に相遇ふ、何の楽しみか是れに如かんや!」ここにおいて第宅金帛を賜い、供帳什物は悉く官より給す。偽命により永平軍節度使と為り、孟昶が偽位を嗣ぐに及び、興元・遂州の両鎮連帥を歴任し、累進して偽官は中書令ちゅうしょれいに至り、楽安郡王に封ぜられた。年七十余、蜀にて卒す。

原文漢韶,字享天,幼有器局,風儀峻整。初事莊宗,為定安軍使,遷河東牢城指揮使。時孟知祥權知太原軍府事,會契丹侵北鄙。表令漢韶率師進討,既而大破契丹,以功加檢校右僕射。同光中,為蔡州刺史。天成初,復姓孫氏,尋授彰國軍留後,累加檢校太保。長興中,為洋州節度使。《九國志》:閔帝嗣位,加特進,漢韶以其父名上表讓之,改檢校左僕射。制曰:「改會稽之字,抑有前聞;換瑰寶之文,非無故事。」末帝之起於鳳翔也,漢韶與興元張虔釗各帥部兵會王師於岐山下,及西師俱叛,漢韶逃歸本鎮。聞末帝即位,心不自安,乃與張虔釗各舉其城送款於蜀。洎至成都,孟知祥以漢韶故人,尤善待之。《九國志》:漢韶與知祥敘汾上舊事,及洛中更變,相對感泣。知祥曰:「豐沛故人,相遇於此,何樂如之!」於是賜第宅金帛,供帳什物,悉官給之。偽命永平軍節度使,孟昶嗣偽位,歷興元、遂州兩鎮連帥,累偽官至中書令,封樂安郡王。年七十餘,卒於蜀。

李存璋、字は徳璜、雲中の人なり。武皇初め雲中に起つや、存璋は康君立・薛志勤らと奔走の交わりを為し、関に入り従い、功により国子祭酒を授けられ、累進して万勝・雄威等の軍を管す。李匡儔を討つに従い、義児軍使に改む。光化二年、沢州刺史を授けられ、入って牢城使となる。李嗣昭に従い雲州の叛将王暉を討ち、これを平らげ、教練使・検校司空に改む。五年、武皇疾篤く、張承業と存璋を召して遺顧を授く。存璋は爰に荘宗を立て、内難を夷し、頗る力有り。河東馬歩都虞候に改め、兼ねて塩鉄を領す。初め、武皇稍々軍士を寵し、藩部の人多く廛市を干擾し、その豪奪を肆にし、法司禁むる能わず。荘宗初め位を嗣ぎ、理を求むるに鋭し。存璋その志を行うを得、強を抑え弱を撫で、その豪首を誅し、期月の間に、紀綱大いに振い、群盗を弭ぎ、耕稼に務め、奸宄を去り、幸門を息め、当時にその材幹を称せらる。汴軍を夾城に破るに従い、転じて検校司徒となる。柏郷の役、三鎮排陣使と為る。十一年、硃友謙と猗氏に盟するに従い、汾州刺史を授けらる。汴将尹皓慈州を攻むるに、逆戦してこれを敗る。十三年、王檀太原に逼るや、存璋汾州の軍を率いて城に入り固守し、大同防禦使・応蔚朔等州都知兵馬使を授けらる。秋、契丹蔚州を攻め、安巴堅使いを馳せて木書を以て賂を求めしむるに、存璋その使を斬る。契丹雲州に逼るや、存璋拒守し、城中に古鉄車有り、乃ち熔かして兵仗と為し、以て軍士に給す。敵退き、功により検校太傅・大同軍節度使・応蔚等州観察使かんさつしを加えらる。十九年四月、疾を以て雲州府第に卒す。同光初め、太保・平章事を追贈す。晋天福初め、太師を追贈す。

原文李存璋,字德璜,雲中人。武皇初起雲中,存璋與康君立、薛志勤等為奔走交,從入關,以功授國子祭酒,累管萬勝、雄威等軍。從討李匡儔,改義兒軍使。光化二年,授澤州刺史,入為牢城使。從李嗣昭討雲州叛將王暉,平之,改教練使、檢校司空。五年,武皇疾篤,召張承業與存璋授遺顧。存璋爰立莊宗,夷內難,頗有力焉。改河東馬步都虞候,兼領鹽鐵。初,武皇稍寵軍士,籓部人多干擾廛市,肆其豪奪,法司不能禁。莊宗初嗣位,銳於求理。存璋得行其志,抑強撫弱,誅其豪首,期月之間,紀綱大振,弭群盜,務耕稼,去奸宄,息幸門,當時稱其材干。從破汴軍於夾城,轉檢校司徒。柏鄉之役,為三鎮排陣使。十一年,從盟硃友謙於猗氏,授汾州刺史。汴將尹皓攻慈州,逆戰敗之。十三年,王檀逼太原,存璋率汾州之軍入城固守,授大同防禦使、應蔚朔等州都知兵馬使。秋,契丹攻蔚州,安巴堅遣使馳木書求賂,存璋斬其使。契丹逼雲州,存璋拒守,城中有古鐵車,乃熔為兵仗,以給軍士。敵退,以功加檢校太傅、大同軍節度使、應蔚等州觀察使。十九年四月,以疾卒於雲州府第。同光初,追贈太保、平章事。晉天福初,追贈太師。

子三人有り、彦球は裨校と為り、鎮州にて戦歿す。

原文有子三人,彥球為裨校,戰歿於鎮州。

李存賢、字は子良、本姓は王、名は賢、許州の人なり。祖父は啓忠、父は惲。賢は少にして乱に遇い、黄巢の軍に入る。武皇賊を陳・許に破り、存賢来たり帰す。景福年中、義児軍を典し、副兵馬使と為り、因りて姓名を賜う。天祐三年、周徳威に従い上党に赴援し、交口に営す。五年、蔚州刺史を権知し、以て吐渾を御す。六年、沁州刺史を権ず。先ず是れ、州は賊境に当たり、保守能わず、乃ち州南五十里に険に拠り柵を立てて治所と為し、已に十余年を歴たり。存賢郡に至り、乃ち旧郡に復し移り、荆棘を劃辟し、特り廨舎を立て、州民完集す。荘宗これを嘉し、転じて検校司空と為し、真に刺史を拝す。九年、汴人その無備に乗じ、来たりてその城を攻むるに、存賢これを撃退す。十一年、武州刺史・山北団練使を授けらる。十二年、移りて慈州を刺す。七月、汴将尹皓州城を攻むるに、存賢軍を督して拒戦し、汴軍攻擊百端、月余り遁去す。十八年、河中の硃友謙来たりて援を求めしむるに、命じて存賢に師を率いてこれに赴かしむ。十九年、汴将段凝軍五万を以て臨晋に営し、蒲人大いに恐れ、咸く汴に帰らんと欲す。或人存賢に問うて曰く、「河中の将士公を拘えて汴に降らんと欲す。」厚賢曰く、「吾命を奉じて河中に至る、王事に死するは固よりその所なり。」汴軍退き、功により検校司徒を加えらる。同光初め、右武衛上将軍を授けらる。十一月、洛陽に入り覲す。二年三月、幽州の李存審疾篤く、入覲を求め、帥を択びてこれに代うるを議す。方に内宴す、荘宗曰く、「吾が榛を披く故人、零落殆く尽き、残る所は存審のみ。今復た衰疾す、北門の事、何れの人に付くかを知らんや!」因りて存賢を目して曰く、「卿に易ふるは無し。」即日に特進・検校太保を授け、充てて幽州盧龍節度使と為す。五月、鎮に到る。時に契丹強盛、城門の外、烽塵交警し、一日数戦す。存賢性忠謹周慎、昼夜戒厳し、寢食に遑あらず、以て憂労疾を成し、幽州に卒す。時に年六十五。詔して太傅を贈る。

原文李存賢,字子良,本姓王,名賢,許州人。祖啟忠,父惲。賢少遇亂,入黃巢軍;武皇破賊陳、許,存賢來歸。景福中,典義兒軍,為副兵馬使,因賜姓名。天祐三年,從周德威赴援上黨,營於交口。五年,權知蔚州刺史,以御吐渾。六年,權沁州刺史。先是,州當賊境,不能保守,乃於州南五十里據險立柵為治所,已歷十餘年矣。存賢至郡,乃移復舊郡,劃辟荊棘,特立廨捨,州民完集。莊宗嘉之,轉檢校司空,真拜刺史。九年,汴人乘其無備,來攻其城,存賢擊退之。十一年,授武州刺史、山北團練使。十二年,移刺慈州。七月,汴將尹皓攻州城,存賢督軍拒戰,汴軍攻擊百端,月餘遁去。十八年,河中硃友謙來求援,命存賢率師赴之。十九年,汴將段凝軍五萬營臨晉,蒲人大恐,鹹欲歸汴。或問於存賢曰:「河中將士欲拘公降於汴。」厚賢曰:「吾奉命河中,死王事固其所也。」汴軍退,以功加檢校司徒。同光初,授右武衛上將軍。十一月,入覲洛陽。二年三月,幽州李存審疾篤,求入覲,議擇帥代之。方內宴,莊宗曰:「吾披榛故人,零落殆盡,所殘者存審耳。今復衰疾,北門之事,知付何人!」因目存賢曰:「無易於卿。」即日授特進、檢校太保,充幽州盧龍節度使。五月,到鎮。時契丹強盛,城門之外,烽塵交警,一日數戰。存賢性忠謹周慎,晝夜戒嚴,不遑寢食,以至憂勞成疾,卒於幽州,時年六十五。詔贈太傅。

存賢は少にして材力有り、角牴を善くす。初め、荘宗籓邸に在りし時、毎に宴し、私に王郁と角牴して勝を闘わしむるに、郁頻りに勝たず。荘宗自らその能を矜り、存賢に謂いて曰く、「爾と一たび博せん、もし勝たば、爾に一郡を賞せん。」即時に角牴し、存賢勝ち、蔚州刺史を得たり。

原文存賢少有材力,善角牴。初,莊宗在籓邸,每宴,私與王郁角牴鬥勝,郁頻不勝。莊宗自矜其能,謂存賢曰:「與爾一博,如勝,賞爾一郡。」即時角牴,存賢勝,得蔚州刺史。

史臣曰く、昔武皇の並・汾に起つや、会に鹿は中原に走り、期に龍は大沢に戦わんとし、驍果の士を蓄え、以て鷹犬の用に備う。故に存信より下、皆姓を錫いてその心を結び、任を授けてその効を責む。夫れ董卓の呂布を畜うるに比し、亦何ぞ殊ならんや!惟だ存孝の勇は、以て三軍に冠たりて万夫を長ずるに足り、苟くも叛臣と為らざれば、則ち良将と謂うべし。

原文史臣曰:昔武皇之起並、汾也,會鹿走於中原,期龍戰於大澤,蓄驍果之士,以備鷹犬之用。故自存信而下,皆錫姓以結其心,授任以責其效。與夫董卓之畜呂布,亦何殊哉!惟存孝之勇,足以冠三軍而長萬夫,苟不為叛臣,則可謂良將矣。