李嗣昭傳
李罕之が我が潞州を襲撃した時、嗣昭は師を率いて潞州を攻め、汴将の丁會と含口で戦い、三千を捕虜とし、その将の蔡延恭を捕らえた。李君慶に代わって蕃漢馬歩行營都將となり、潞州を進攻し、李存質、李嗣本に兵を率いさせて天井關を扼させた。汴将で澤州刺史の劉屺は城を棄てて逃げ去ったので、李存璋を刺史とした。梁祖(朱全忠)は嗣昭の軍が大挙して来ると聞き、葛從周を召して言うには、「並州の軍がもし高平におれば、包囲してこれを取るべきである。まずは野戦を行い、潞州を敵と見做すな。」と。嗣昭の軍が韓店にいるのを聞くと、梁祖は言った。「進通(嗣昭)が八議路を扼している。この賊は必ず我と戦おうとする。公らは事に臨み機を制し、奸計に陥るな。」賀德倫は壁を閉じて出撃せず、嗣昭は毎日鉄騎で城を包囲したので、汴人は草刈りや放牧もできず、援軍の路は断絶した。八月、德倫と張歸厚は城を棄てて逃げ去り、我らは再び潞州を奪回した。
翌年正月、嗣昭は蒲縣に進軍した。十八日、汴将の朱友寧、氏叔琮が兵十万を率いて来て防いだ。二十八日、梁祖自ら大軍を率いて平陽に至り、嗣昭の軍は大いに恐れた。三月十一日、白虹が周德威の陣営を貫くという異変があり、斥候が不利であると言い、退却すべきだと進言した。翌日、氏叔琮が德威の陣営を攻撃し、汴軍十余万が四方に陣を列ねた。德威と嗣昭は血戦してこれを解き、軍を保って退却したが、汴軍はこれに乗じた。時に諸将は潰散し、部隊の編制も無くなった。德威は騎兵を率いて西山に沿って逃れ、朱友寧は勝ちに乗じて慈州、隰州、汾州などを陥落させた。武皇はその敗報を聞き、李存信に親衛隊を率いて清源まで迎えに出させたが、また汴軍に撃たれた。汴軍は晉祠に陣営を構え、嗣昭と德威は残兵を収集し、城に登って防戦した。汴人は西北隅に攻城具を準備し、四方に陣営の柵が相望んだ。時に鎮州、河中は既に梁のものとなり、孤城は援軍無く、軍は敗亡した。武皇は昼夜城に登り、憂いて食事も満足に取れず、諸将を召して雲州に退いて守ろうとした。嗣昭は言った。「王よ、このような計画をなさらぬように。我等が生きている限り、必ず城を守ります。」李存信は言った。「事態は危急です。いっそ北蕃(契丹)に入り、別に進取を図るのがよいでしょう。朱溫の兵は百万、天下に敵無しです。関東、河北は彼の指揮下にあります。今ただ危城を守り、兵は失われ地は狭まりました。もし彼らが城の周囲に家を建て田を耕し、塹壕を深く堅固にすれば、滅亡は遠くありません。」武皇がこれに従おうとすると、嗣昭は急いで争い、不可とした。躊躇して決めかねていたが、劉太妃が内で強く諫言したおかげで、武皇はしばらく思いとどまった。数日のうちに、逃げ散った兵士たちが再び集まった。嗣昭は昼夜分かれて四方に出撃し、敵将を斬り軍旗を奪い、汴軍は守るのに忙しく手が回らなかった。二十一日、朱友寧は陣営を焼いて退却した。嗣昭は追撃し、再び汾州、慈州、隰州などを奪回した。五月、雲州の都將王敬暉が城を占拠して叛き、振武の石善友も部将の契讓に追い払われたが、嗣昭はいずれも討伐して平定した。
胡柳の戦いで、周德威が戦死し、軍は隊列をなさず、夕方になってようやく集結した。汴人四、五万が無石山に登り、我が軍は顔色に懼れの色を見せた。ある者が軍を収めて陣営を守り、明朝再戦するよう請うた。嗣昭は言った。「賊には陣営が無く、臨濮から遠く離れている。日は既に暮れ、皆帰りたいと思っている。精鋭の騎兵で挑発し、退却させぬようにし、夕暮れ後に追撃すれば、必ず破れるであろう。もし我らが軍を収めて陣を引き払えば、賊は臨濮に入り、整列し直して再び来るだろう。そうなれば勝負は決する。」莊宗は言った。「兄の言葉がなければ、我が事を敗るところであった。」軍校の王建及がまた方略を述べると、嗣昭は建及と共に兵を分け、土山の南北で掎角の勢いをなした。汴軍は懼れて山を下り、そこで軍を放ってこれを撃ち、捕斬三万級に上り、これによって莊宗の軍は再び勢いを盛り返した。
十六年、嗣昭は周德威に代わって幽州軍府の事を代行した。九月、李紹宏が代わると、嗣昭は薊門を出た。百姓は号泣して留まるよう請い、鞍を切って別れを惜しんだが、嗣昭は夜に遁れて帰還した。十七年六月、嗣昭は德勝から自らの藩鎮に帰ろうとした。莊宗は戚城で帳を設けて餞別した。莊宗は酒が進み、涙を流して言った。「河朔の民は十年にわたり物資を輸送し、首を長くして待ち望み、汴軍撃破を待っている。今、兵と税は不足し、敵の残党はなお在る。軍の税を坐して食らうのは、民衆に愧じる。」嗣昭は言った。「臣は艱難の地にあり、このことを思う度に、寝ても安らかではありません。大王はどうか自重して謹んで守り、士民を慈しみ養ってください。臣が本藩に帰り、兵と税を整え、年末か春の初めには、必ず衆を挙げて再び参ります。」莊宗は席を離れて拜礼して送り、家人の礼の如くであった。この月、汴将の劉鄩が同州を攻め、朱友謙が危急を告げたので、嗣昭は李存審と共にこれを救援した。九月、馮翊で汴軍を破り、そこで軍を返した。
十九年、莊宗は鎮州の張文禮を親征した。冬、契丹三十万が突然到来した。嗣昭は莊宗に従ってこれを撃ち、敵騎に数十重に包囲され、長らく解けなかった。嗣昭は号泣してこれに赴き、三百騎を率いて重囲を横撃し、馳せ突き出没すること数十合、契丹は退き、莊宗を翼護して帰還した。この時、閻寶が鎮州の軍に敗れ、趙州に退いて守っていた。莊宗は嗣昭に命じて閻寶に代わり真定を攻めさせた。七月二十四日、王處球の兵が九門から出撃した。嗣昭は古い陣営に伏兵を設け、賊が来ると伏兵を起こし、これをほぼ全滅させた。残り三人が土塀の跡に隠れていた。嗣昭は馬を巡らせてこれを射たが、賊の矢が脳に当たった。嗣昭の矢筒の矢は尽き、賊の矢を脳から抜き取って賊を射ると、一発でこれを斃した。嗣昭は日暮れに陣営に帰ったが、受けた傷から血が止まらず、その夜に卒去した。
嗣昭は澤州、潞州を統治し、官は司徒、太保から侍中、中書令に至った。莊宗が即位すると、太師、隴西郡王を追贈された。長興年間、詔により莊宗の廟庭に配饗された。
嗣昭には七人の子があり、長子は継儔といい、澤州刺史であった。次は継韜、継忠、継能、継襲、継遠で、皆夫人楊氏の生んだ子である。楊氏は家を治めて蓄積を得意とし、販売の法を設けて家財百万を致した。
継韜は小字を留得といい、幼少より驕慢で狡猾、無頼であった。嗣昭が卒すると、荘宗は諸子に喪を扶けて太原に帰り葬儀を行うよう詔したが、諸子は詔に背き、父の牙兵数千を以て喪を擁して潞州に帰った。荘宗は李存渥を馳せて追い諭させたが、兄弟共に憤り、存渥を害せんとし、存渥は遁れて難を免れた。継韜の兄継儔は、嗣昭の長嫡である。父の爵を襲うべきであったが、柔弱で武に堪えず。ちょうど喪中の仮小屋にいる時、継韜は三軍を詐って己を劫き留後とさせ、継儔を別室に囚え、事を奏上して聞かせた。荘宗は已むなく、安義軍兵馬留後に命じた。時に軍前の糧餉充足せず、租庸計度は潞州に相州へ米五万を転送して貯えるよう請うたが、継韜は経費不足を理由に三万の転送を請うた。幕客の魏琢、牙将の申蒙という者がおり、公事を奏上する折に、毎に陰事を摘まんで継韜に報じて云う、「朝廷に人無く、終には河南に吞噬されましょう、遅速の差のみです」と。これにより陰に叛く計を謀った。内官の張居翰は時に昭義監軍であり、荘宗が即位せんとするに当たり、詔して鄴都に赴かせた。潞州節度判官の任圜は時に鎮州におり、また詔を奉じて鄴に赴いた。魏琢、申蒙は継韜に謂って云う、「国家が急に此の二人を召すは、情、知るべしです」と。弟の継遠は十五、六歳で、継韜に謂って云う、「兄には家財百万、倉儲十年あり、宜しく自ら謀るべく、人の制を受くる莫れ」と。継韜は云う、「定哥は何如と為すか」と。曰く、「申蒙の言是なり。河北は河南に勝たず、大梁と通盟するに如かず、国家は方に事殷し、焉んぞ我を討たんや。此の算に如くは無し」と。乃ち継遠に百余騎を将いて詐りに晋、絳にて生擒せんと云わせ、遂に汴に至らしめた。梁主は之を見て喜び、因って董璋に兵を将いて応接せしめ、潞州の南に営させ、継韜に同平章事を加え、昭義軍を匡義軍と改めた。継韜は其の愛する子二人をして汴に入質せしめた。
荘宗が河南を平らげると、継韜は惶恐し、計る所無く、身を契丹に脱さんとした。時に詔して之を赦す有り、乃ち銀数十万両を齎し、其の母楊氏に随って闕に詣り、賂を以て免れんことを冀った。将に行かんとするに、其の弟継遠が云う、「兄の往くも往かざるも、利害一なり。反を以て名と為し、何の面目を以て更に天下を見んや。深溝峻壁を為し、坐して積粟を食らうに如かず、尚ほ歳月を苟延し得べし、往かば則ち亡ぶ日無からん」と。或いは云う、「君の先世は国に大功有り、主上の季父なり、宏農夫人恙無く、万全を保獲すべし」と。継韜が至ると、厚く宦官、伶人に賂し、事を言う者は翕然として称えて云う、「留後は本悪意無く、奸人の惑わす故なり。嗣昭は親賢にして、嗣無かる可からず」と。楊夫人もまた宮中に於いて劉皇后に哀祈し、后は毎に荘宗の前で泣きて先人の功を言い、以て聖情を動かし、これにより之を原いた。京に在ること月余、屡に畋遊に従い、寵待は旧の如し。李存渥は深く之を訶詆し、継韜は心自ら安からず、復た伶閹に賂し、本鎮に帰るを求めしが、荘宗は聴かなかった。継韜は潜かに紀綱に書をして継遠に諭し、軍城に更変を欲し、天子の己を遣わして安撫せんことを望んだ。事泄れ、天津橋の南に斬られた。二子は齠年にして汴に質と為り、荘宗が城を収めて之を得、其の背を撫でて云う、「爾幼くして是の如し、猶ほ能く父を佐けて造反す、長じて復た何を為さん」と。是に至りて亦誅された。乃ち使いを遣わして潞州に往き継遠を斬り、首を函して闕に赴かせ、継儔に権知軍州事を命じ、継達に軍城巡検を充てさせた。
未だ幾ばくもせず、詔して継儔を闕に赴かせた。時に継儔は継韜の畜えた婢仆玩好の類を悉く己が有と為し、毎日料選算校して、時に上らざりし路に上らなかった。継達は怒って人に謂って云う、「吾が仲兄は罪に被り、父子誅死す、大兄不仁にして、略も動懷無く、而して便ち妻妾を烝淫し、貨財を詰責し、人に見るに慚恥し、生くるは死するに如かず」と。継達は縗麻を服し、数百騎を引いて戟門に坐し、呼んで云う、「我が為に反せよ」と。即ち人をして継儔の首を斬らせ、戟門の内に投げ入れた。副使の李継珂は其の乱を聞き、市人千余を募って城門に攻めた。継達は城楼に登り、事の済まざるを知り、子城の東門を啓き、其の第に至り、其の孥を尽く殺し、百余騎を得て、潞城門を出で、将に契丹に奔らんとした。行くこと十里に至らず、麾下奔潰し、自ら路傍に於いて剄した。
天成の初め、継能は相州刺史となり、母楊氏は太原に卒し、継能、継襲は喪に奔りて服行した。継能は母の主蔵婢を笞掠し、金銀の数を責め、因って笞して死に至らしめた。家人が変を告げ、甲を聚めて乱を為すと言う。継能、継襲は皆伏誅された。嗣昭の諸子は自ら相屠害し、幾くも溘尽に近く、惟だ継忠一人のみ僅かに其の首領を保った。
裴約
李嗣本
李嗣恩
子二人あり、長は武八と曰い、騎射は軍中に推せらる。嘗て時輩が饑鷹を臂にし、その搏撃を矜るあり、武八は鳴鏑一隻を持ち、その狩獲を賭け、暮れて乃ちこれを多くす。親州において契丹と戦い、そこに歿す。幼は従郎と曰い、累ねて行軍司馬となる。
【論】
史臣曰く、嗣昭は精悍勤労をもって経綸の業を佐け、終に王事に没し、以て忠と為すを得たり。然れどもその後嗣皆刑戮を免れざるは、何ぞや。蓋し貨殖窮まり無く、多財は愚を累する故なり。抑も苟くも清白を以て子孫に遺わば、安くんぞ斯の禍あらんや。裴約は偏裨にして忠烈を効し、尤も貴ぶべし。嗣本・嗣恩は皆中涓の効を以て、再造の功に参じ、故に茲に附すべし。