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舊五代史
唐書二十七: 宗室列傳三
◎宗室列傳
永王存霸は、武皇の子にして、莊宗の第二弟なり。同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、軍卒に殺さる。(《歐陽史》に云ふ、存霸は昭義・天平・河中の三軍節度使を歴任し、京師に居て食俸祿のみなり。趙在禮の反に及び、乃ち存霸を河中に遣はす。莊宗再び汜水に幸すに及び、存霸を徙めて北京留守とす。《通鑒》に云ふ、李紹榮は河中に奔りて永王存霸に就かんと欲す。從兵稍く散じ、存霸も亦た眾千人を率ひて鎮を棄て晉陽に奔る。又云ふ、存霸晉陽に至る。從兵逃散して俱に盡き、存霸は髮を削ぎ僧服して李彥超に謁す、「山僧たらんことを願ふ。幸ひに垂れて庇護せよ」と。軍士爭ひて之を殺さんと欲す。彥超曰く、「六相公來る。當に奏して進止を取らん」と。軍士聽かず、之を府門の碑下に殺す。)
邕王存美は、武皇の子にして、莊宗の第三弟なり。同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、其の終りを知らず。(《通鑒》に云ふ、存美は病風偏枯を以て免れ、晉陽に居る。)薛王存禮は、武皇の子なり。同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、其の終りを知らず。
申王存渥は、莊宗の第四弟なり。(《歐陽史》に據れば、存渥は存霸・存紀と皆な莊宗の同母弟なり。)同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、劉皇后と俱に太原に奔り、部下に殺さる。(《通鑒》に云ふ、存渥晉陽に至る。李彥超納れず、風穀に走る。其の下の者に爲りて殺さる。)
睦王存乂は、莊宗の第五弟なり。同光三年に封ぜらる。(案ずるに、以下原闕。)鄜州節度使を歴任す。後に郭崇韜の婿なるを以て莊宗に殺さる。(《北夢瑣言》に云ふ、莊宗の異母弟存乂、郭崇韜の女婿として誅せらる。先是、郭崇韜既に誅されたる後、朝野駭惋し、議論紛然たり。莊宗、閹人をして外事を察訪せしむ。言ふ、存乂諸將の坐上に於て郭氏の無罪を訴ふ、其の言怨望なりと。又た妖術人楊千郎の家に於て飲酒聚會し、臂を攘げて泣く。楊千郎は、魏州の賤民、自ら言ふ、墨子術を婦翁に得て、能く陰物を役使し、帽下に食物果實の類を召すと。又た蒱爪博に必勝し、人の拳握の物あるも、法を以て必ず取る。又た煉丹乾汞、人形を易へ、扃鑰を破るを説く。貴要間之を神奇とし、官は尚書郎に至り、紫を賜はる。其の妻は宮禁に出入し、恩を承け事を用ふ。皇弟存乂常に其の家に朋淫す。是に至りて存乂と俱に其の禍に罹る。)
通王存確は、莊宗の第六弟、雅王存紀は、莊宗の第七弟なり。同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、並びに霍彥威に殺さる。(《梁紀》を考ふるに、太祖に子廷鸞・落落あり。《盧文進傳》に據れば、莊宗又た弟存矩あり。《薛史宗室傳》は皆な載せず。)
魏王繼岌は、莊宗の子なり。莊宗魏州に即帝位し、繼岌を以て北都留守に充つ。及ひ鎮州を以て北都と爲すに及び、又た命じて留守と爲す。(《五代會要》:三年九月二十三日、魏王に封ぜらる。)三年、蜀を伐つ。繼岌を都統と爲し、郭崇韜を招討使と爲す。十月戊寅、鳳州に至る。武興軍節度使王承捷、鳳・興・文・扶の四州を以て降る。甲申、故鎮に至る。康延孝、興州を收む。時に偽蜀主王衍、親軍五萬を率ひ利州に在り。步騎親軍三萬をして三泉に逆戰せしむ。康延孝・李嚴、勁騎三千を以て之を犯す。蜀軍大敗し、首級五千を斬り、餘は皆な奔潰す。王衍其の敗を聞き、利州を棄て西川に奔歸し、吉柏津を斷ち、浮梁して去る。己丑、繼岌興州に至る。偽蜀東川節度使宋光葆、梓・潼・劍・龍・普等州を以て來降す。武定軍節度使王承肇、洋・蓬・壁三州の符印を以て降る。興元節度使王宗威、梁・開・通・渠・麟等五州の符印を送りて降る。階州王承嶽、符印を納る。秦州節度使王承休、城を棄てて遁る。辛丑、繼岌利州を過ぐ。戊申、劍州に至る。己酉、綿州に至る。王衍、使を遣はし箋を上りて降を乞ふ。丁巳、成都に入る。師を興し洛を出て蜀を定むるより、七十五日を計る。走丸の勢、前代に無し。師回り、渭南に至り、莊宗の敗を聞く。師徒潰散し、自縊して死す。(《太平廣記》の引く《王氏見聞錄》に云ふ、後唐莊宗の巴子魏王繼岌、蜀を伐ち、軍を回し道に在りて、鄴都の變有り。莊宗劉后と命じて内臣張漢賓に急詔を齎らしめ、所在に魏王の歸闕を催す。張漢賓驛を乘じ道を倍して急行し、興元西縣に至りて魏王に逢ひ、詔旨を宣傳す。王、本軍方に漢州を討たんとし、康延孝相次ぎ繼來るを以て、之の山を出づるを候ひ、凱歌を陳べんと欲す。漢賓之を督む。軍謀陳岷有り、比來梁に事へ、漢賓と熟し、密かに張に問ひて曰く、「天子改換し、且つ是れ何人ぞ」と。張色を莊めて曰く、「我嘗て面して魏王に宣詔せり。況んや大軍行に在り。談何ぞ容易ならん」と。陳岷曰く、「久しく知聞に忝くす。故に敢へて諮問す。兩日來一信風有り。新人已に即位せり。復た何の形跡か有らん」と。張乃ち説く、「來る時に李嗣源の河を過ぐるを聞く。未だ近事を知らず」と。岷曰く、「魏王且つ盤桓を請ひ、其の勢を觀よ。未だ前邁す可からず」と。張、莊宗の命嚴なるを以て、敢へて遷延せず、進發を督令す。魏王渭南に至りて害せらる。)
繼潼・繼嵩・繼蟾・繼嶢は並びに莊宗の子なり。同光三年に光祿大夫・檢校司徒を拜し、未だ封ぜられず。莊宗敗亡の後、並びに其の終りを知らず。(《清異錄》:唐の福慶公主孟知祥に下降す。長興四年、明宗晏駕し、唐室亂る。莊宗の諸兒、髮を削ぎて芻と爲り、間道を走りて蜀に至る。時に知祥新に帝を稱し、主を分ちて猶子を厚く待ち、賜予千計。)
從璟は、明宗の長子なり。性忠勇沈厚にして、堅を摧き陣を陷るに、人偕ひ難し。河上に莊宗に從ひ、累ねて戰功有り。莊宗之を器賞し、用ひて金槍指揮使と爲す。明宗魏府に在りて軍士に逼せらる。莊宗從璟に詔して曰く、「爾が父は國に大功有り。忠孝の心、朕自ら明信す。今亂兵に劫せらる。爾宜く自ら去りて朕が旨を宣べ、疑はしむること無からしむべし」と。從璟中途に行き至りて、元行欽に制せられ、復た歸りて洛下に至る。莊宗其の名を改めて繼璟と爲し、以て己が子と爲し、命じて再び往かしむ。從璟固執して行かず、願くは御前に死して、以て丹赤を明らかにせんとす。汴州に赴くに莊宗に從ふ。明宗の親舊多くは馬を策して去る。左右或ひは從璟を勸めて自脫せしむ。終に行はんとする意無し。尋て元行欽に殺さる。天成初、太保を贈らる。
秦王従栄は、明宗の第二子である。明宗が即位すると、天成の初めに鄴都留守・天雄軍節度使を授けられた。三年、北京留守に移り、河東節度使を充てた。四年、入朝して河南尹となった。ある日、明宗は安重誨に言った、「近頃聞くところでは、従栄の側近に朕の旨を詐称し、儒生と接するなと命ずる者がいるという。儒生は多く懦弱であり、志を鈍らせて染まることを恐れるというのである。朕はこれを知り、その事に甚だ驚いている。朕はこれまで従栄がまだ幼く、大藩に出臨しているので、まず儒雅の士を選び、その補佐に頼ろうとした。今この奸佞の言葉を聞くとは、朕の望むところであろうか。」その言葉を発した者を訊問して誅殺しようとしたが、重誨は言った、「もし急に刑を行えば、また賓客従者の処遇が難しくなります。厳しく誡めることを望みます。」そこで止めた。
従栄は詩を作り、従事の高輦らと互いに唱和し、自らその詩句が当時に独歩すると称し、詩千余首あり、『紫府集』と号した。
長興年中、本官をもって天下兵馬大元帥を充てた。従栄はそこで厳衛・捧聖の歩騎両指揮を秦府の衙兵とすることを請い、毎朝入るときは数百騎を従えて行き、出るときは弓を張り矢を挟み、巷に満ちて馳せ騒いだ。元帥の命を受けるや、その府の属僚佐吏及び四方の遊士に命じ、各々『檄淮南書』一篇を作らせ、己が天下を廓清せんとする意を述べさせた。初め、言事者が親王に師傅を置くことを請うたとき、明宗は近臣に諮問した。執政は従栄の名声勢力が既に盛んなので、旨に逆らうことを敢えてせず、即ち奏上して言った、「王の官は委任すべきです。」従栄はそこで刑部侍郎劉讚を王傅とすることを奏し、また翰林学士崔棁を元帥府判官とすることを奏した。明宗は言った、「学士は朕に代わって詔令を出す者である。比べ論ずることはできない。」従栄は悦ばず、退いて左右に言った、「元帥の任を付けたのに、我が僚佐の請いを阻み、また詔旨の意も分からぬのか。」再び刑部侍郎任讚を奏し、許された。後に兵を挙げて宮室を犯し、敗れて死に、庶人に廃された。
従璨は、明宗の諸子である。性質剛直にして、客を好み財を疏んじ、意豁如たり。天成年中、右衛大将軍となり、時に安重誨が権勢を執っていたが、従璨も彼に屈せず、重誨はかつてこれを忌んだ。明宗が汴に幸したとき、従璨を留めて大内皇城使とした。ある日、賓友を会節園に召し、酒酣の後、戯れて御榻に登った。安重誨が誅殺を奏請した。詔して曰く、「皇城使従璨は、朕が汴州に巡幸するに当たり、大内を警備させた。しかるに委任に全く背き、ただ恣に遊び楽しみ、予が行従の園において、頻りに歌歓の会を恣にし、なお峻法を施し、平人を顕かに辱しめ、彼の喧嘩を致し、聞聴に達せしめた。今まさに法を立てんとするに、固より親を党せず。房州司戸参軍に貶授すべく、なお命を尽くさせよ。」長興年中、重誨が罪を得たとき、命じて旧官に復し、なお太保を贈られた。
許王従益は、明宗の末子である。宮嬪の生んだ子であった。明宗は王淑妃に命じてこれを養育させ、左右の者に嘗て言うには、「ただこの児のみは皇宮に生まれたる故に、特に鍾愛す」と。長興の末、許王に封ぜられる。晋の高祖即位の後、皇后がその姉であったため、従益を宮中に養育せしむ。晋の天福年中、従益を以て二王の後と為し、郇国公に改封し、食邑三千戸を賜う。その後、母と共に洛陽に帰る。守陵開運の末、契丹主が汴に至り、従益を以て遥かに曹州節度使を領せしめ、再び許王に封じ、王妃と共に尋いで西京に帰る。会に契丹主死し、その汴州節度使蕭翰が北地に帰らんと謀り、中原に主無きを慮り、軍民大乱せば、則ち己も亦轡を按じて徐に帰ることを得ざるを恐れ、乃ち詐って契丹主の命と称し、人を遣わして従益を洛陽に迎え、南朝の軍国事を知らしむ。従益と王妃は徽陵に逃れてこれを避けんとす。使者至り、已むを得ずして赴く。従益は崇元殿にて群官に謁見す。蕭翰は蕃首を率いて殿上に列拝し、群官は殿下に趨る。乃ち偽りに王鬆を左丞相とし、趙上交を右丞相とし、李式・翟光鄴を枢密使とし、王景崇を宣徽使とし、余の官各々署置有り。又、北より来たれる燕将劉祚を以て権侍衛使と為し、在京巡検を充てしむ。翰の北帰に際し、従益は北郊にて餞別す。漢の高祖が将に太原を離れんとするに及び、従益は高行周・武行徳を召して漢の高祖を拒がんと欲す。行周等従わず、且つその事を奏す。漢の高祖怒り、車駕将に闕に至らんとするに、従益と王妃は倶に私第にて賜死せられ、時に年十七。時に人これを哀しむ。
重吉は、末帝の長子、控鶴都指揮使となる。閔帝嗣位の後、出でて亳州団練使と為る。末帝兵を起こすに及び、閔帝の為に害せらる。清泰元年、詔して太尉を贈り、仍て宋州に隙地を選び廟を置かしむ。
雍王重美は、末帝の第二子、清泰三年に封ぜらる。晋兵入るに及び、末帝と倶に自ら焚死す。
史臣曰く、継岌は童騃の歳を以て、統帥の任に当たり、剣外に功成るも、尋いで渭濱に死を求む。蓋し運尽き天亡するに非ず、孺子の咎に非ざるなり。従審は厚遇の恩に感じ、苟免の意無く、君側に死す、忠と謂わざるべけんや。従栄は狂躁の謀を以て、覆亡の禍を賈い、大逆と謂うは、則ち厚誣に近し。従璨は権臣に忌まれ、従益は強敵に脅かされ、倶にその死を得ず、亦良に傷むべし。重美は洛民の奔亡を聴き、母後の燔爇を止め、身は戯焰に燼くも、言は則ち青編に耀く。童年若斯、賢と謂うべし。