舊五代史

唐書二十七: 宗室列傳三

唐書二十七: 宗室列傳三

◎宗室列傳

原文◎宗室

永王存霸は、武皇の子にして、莊宗の第二弟なり。同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、軍卒に殺さる。(《歐陽史》に云ふ、存霸は昭義・天平てんぺい・河中の三軍節度使せつどしを歴任し、京師に居て食俸祿のみなり。趙在禮の反に及び、乃ち存霸を河中に遣はす。莊宗再び汜水に幸すに及び、存霸を徙めて北京留守とす。《通鑒》に云ふ、李紹榮は河中に奔りて永王存霸に就かんと欲す。從兵稍く散じ、存霸も亦た眾千人を率ひて鎮を棄て晉陽に奔る。又云ふ、存霸晉陽に至る。從兵逃散して俱に盡き、存霸は髮を削ぎ僧服して李彥超に謁す、「山僧たらんことを願ふ。幸ひに垂れて庇護せよ」と。軍士爭ひて之を殺さんと欲す。彥超曰く、「六相公來る。當に奏して進止を取らん」と。軍士聽かず、之を府門の碑下に殺す。)

原文永王存霸,武皇子,莊宗第二弟,同光三年封。莊宗敗,為軍卒所殺。(《歐陽史》云:存霸曆昭義、天平、河中三軍節度使,居京師食俸祿而已。趙在禮反,乃遣存霸於河中,莊宗再幸汜水,徙存霸北京留守。《通鑒》云:李紹榮欲奔河中就永王存霸,從兵稍散,存霸亦率眾千人棄鎮奔晉陽。又云:存霸至晉陽,從兵逃散俱盡,存霸削髮僧服謁李彥超:「願為山僧,幸垂庇護。」軍士爭欲殺之,彥超曰:「六相公來,當奏取進止。」軍士不聽,殺之於府門之碑下。)

邕王存美は、武皇の子にして、莊宗の第三弟なり。同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、其の終りを知らず。(《通鑒》に云ふ、存美は病風偏枯を以て免れ、晉陽に居る。)薛王存禮は、武皇の子なり。同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、其の終りを知らず。

原文邕王存美,武皇子,莊宗第三弟,同光三年封。莊宗敗,不知所終。(《通鑒》云:存美以病風偏枯得免,居於晉陽。)薛王存禮,武皇子,同光三年封。莊宗敗,不知所終。

申王存渥は、莊宗の第四弟なり。(《歐陽史》に據れば、存渥は存霸・存紀と皆な莊宗の同母弟なり。)同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、劉皇后と俱に太原に奔り、部下に殺さる。(《通鑒》に云ふ、存渥晉陽に至る。李彥超納れず、風穀に走る。其の下の者に爲りて殺さる。)

原文申王存渥,莊宗第四弟,(《歐陽史》,存渥與存霸、存紀皆莊宗同母弟。)同光三年封。莊宗敗,與劉皇后同奔太原,為部下所殺。(《通鑒》云:存渥至晉陽,李彥超不納,走至風穀,為其下所殺。)

睦王存乂は、莊宗の第五弟なり。同光三年に封ぜらる。(案ずるに、以下原闕。)鄜州節度使を歴任す。後に郭崇韜の婿なるを以て莊宗に殺さる。(《北夢瑣言》に云ふ、莊宗の異母弟存乂、郭崇韜の女婿として誅せらる。先是、郭崇韜既に誅されたる後、朝野駭惋し、議論紛然たり。莊宗、閹人をして外事を察訪せしむ。言ふ、存乂諸將の坐上に於て郭氏の無罪を訴ふ、其の言怨望なりと。又た妖術人楊千郎の家に於て飲酒聚會し、臂を攘げて泣く。楊千郎は、魏州の賤民、自ら言ふ、墨子術を婦翁に得て、能く陰物を役使し、帽下に食物果實の類を召すと。又た蒱爪博に必勝し、人の拳握の物あるも、法を以て必ず取る。又た煉丹乾汞、人形を易へ、扃鑰を破るを説く。貴要間之を神奇とし、官は尚書郎に至り、紫を賜はる。其の妻は宮禁に出入し、恩を承け事を用ふ。皇弟存乂常に其の家に朋淫す。是に至りて存乂と俱に其の禍に罹る。)

原文睦王存乂,莊宗第五弟,同光三所封。(案,以下原闕。)曆鄜州節度使,後以郭崇韜婿為莊宗所殺。(《北夢瑣言》云:莊宗異母弟存乂,以郭崇韜女婿伏誅。先是,郭崇韜既誅之後,朝野駭惋,議論紛然。莊宗令閹人察訪外事,言存乂於諸將坐上訴郭氏之無罪,其言怨望。又於妖術人楊千郎家飲酒聚會,攘臂而泣。楊千郎者,魏州賤民,自言得墨子術於婦翁,能役使陰物,帽下召食物果實之類。又蒱爪博必勝,人有拳握之物,以法必取。又說煉丹乾汞,易人形,破扃鑰。貴要間神奇之,官至尚書郎,賜紫,其妻出入宮禁,承恩用事。皇弟存乂常朋淫於其家,至是與存乂並罹其禍。)

通王存確は、莊宗の第六弟、雅王存紀は、莊宗の第七弟なり。同光三年に封ぜらる。莊宗敗亡の後、並びに霍彥威に殺さる。(《梁紀》を考ふるに、太祖たいそに子廷鸞・落落あり。《盧文進傳》に據れば、莊宗又た弟存矩あり。《薛史宗室傳》は皆な載せず。)

原文通王存確,莊宗第六弟,雅王存紀,莊宗第七弟,同光三年封。莊宗敗,並為霍彥威所殺。(考《梁紀》,太祖有子廷鸞、落落;《盧文進傳》,莊宗又有弟存矩。《薛史宗室傳》皆不載。)

魏王繼岌は、莊宗の子なり。莊宗魏州に即帝位し、繼岌を以て北都留守に充つ。及ひ鎮州を以て北都と爲すに及び、又た命じて留守と爲す。(《五代會要》:三年九月二十三日、魏王に封ぜらる。)三年、蜀を伐つ。繼岌を都統と爲し、郭崇韜を招討使と爲す。十月戊寅、鳳州に至る。武興軍節度使王承捷、鳳・興・文・扶の四州を以て降る。甲申、故鎮に至る。康延孝、興州を收む。時に偽蜀主王衍、親軍五萬を率ひ利州に在り。步騎親軍三萬をして三泉に逆戰せしむ。康延孝・李嚴、勁騎三千を以て之を犯す。蜀軍大敗し、首級五千を斬り、餘は皆な奔潰す。王衍其の敗を聞き、利州を棄て西川に奔歸し、吉柏津を斷ち、浮梁して去る。己丑、繼岌興州に至る。偽蜀東川節度使宋光葆、梓・潼・劍・龍・普等州を以て來降す。武定軍節度使王承肇、洋・蓬・壁三州の符印を以て降る。興元節度使王宗威、梁・開・通・渠・麟等五州の符印を送りて降る。階州王承嶽、符印を納る。秦州節度使王承休、城を棄てて遁る。辛丑、繼岌利州を過ぐ。戊申、劍州に至る。己酉、綿州に至る。王衍、使を遣はし箋を上りて降を乞ふ。丁巳、成都に入る。師を興し洛を出て蜀を定むるより、七十五日を計る。走丸の勢、前代に無し。師回り、渭南に至り、莊宗の敗を聞く。師徒潰散し、自縊して死す。(《太平廣記》の引く《王氏見聞錄》に云ふ、後唐莊宗の巴子魏王繼岌、蜀を伐ち、軍を回し道に在りて、鄴都の變有り。莊宗劉后と命じて内臣張漢賓に急詔を齎らしめ、所在に魏王の歸闕を催す。張漢賓驛を乘じ道を倍して急行し、興元西縣に至りて魏王に逢ひ、詔旨を宣傳す。王、本軍方に漢州を討たんとし、康延孝相次ぎ繼來るを以て、之の山を出づるを候ひ、凱歌を陳べんと欲す。漢賓之を督む。軍謀陳岷有り、比來梁に事へ、漢賓と熟し、密かに張に問ひて曰く、「天子改換し、且つ是れ何人ぞ」と。張色を莊めて曰く、「我嘗て面して魏王に宣詔せり。況んや大軍行に在り。談何ぞ容易ならん」と。陳岷曰く、「久しく知聞に忝くす。故に敢へて諮問す。兩日來一信風有り。新人已に即位せり。復た何の形跡か有らん」と。張乃ち説く、「來る時に李嗣源の河を過ぐるを聞く。未だ近事を知らず」と。岷曰く、「魏王且つ盤桓を請ひ、其の勢を觀よ。未だ前邁す可からず」と。張、莊宗の命嚴なるを以て、敢へて遷延せず、進發を督令す。魏王渭南に至りて害せらる。)

原文魏王繼岌,莊宗子也。莊宗即位於魏州,以繼岌充北都留守;及以鎮州為北都,又命為留守。(《五代會要》:三年九月二十三日,封為魏王。)三年,伐蜀,以繼岌為都統,郭崇韜為招討使。十月戊寅,至鳳州,武興軍節度使王承捷以鳳、興、文、扶四州降。甲申,至故鎮,康延孝收興州。時偽蜀主王衍率親軍五萬在利州,令步騎親軍三萬逆戰於三泉,康延孝、李嚴以勁騎三千犯之,蜀軍大敗,斬首五千級,餘皆奔潰。王衍聞其敗也,棄利州奔歸西川,斷吉柏津,浮梁而去。己丑,繼岌至興州,偽蜀東川節度使宋光葆以梓、潼、劍、龍、普等州來降;武定軍節度使王承肇以洋、蓬、壁三州符印降;興元節度使王宗威以梁、開、通、渠、麟等五州符印送降;階州王承嶽納符印;秦州節度使王承休棄城而遁。辛丑,繼岌過利州。戊申,至劍州。己酉,至綿州,王衍遣使上箋乞降。丁巳,入成都。自興師出洛至定蜀,計七十五日,走丸之勢,前代所無。師回,至渭南,聞莊宗敗。師徒潰散,自縊死。(《太平廣記》引《王氏見聞錄》云:後唐莊宗巴子魏王繼岌伐蜀,回軍在道,而有鄴都之變。莊宗與劉後命內臣張漢賓齎急詔,所在催魏王歸闕。張漢賓乘驛倍道急行,至興元西縣逢魏王,宣傳詔旨。王以本軍方討漢州,康延孝相次繼來,欲候之出山,以陳凱歌,漢賓督之。有軍謀陳岷,比事梁,與漢賓熟,密問張曰:「天子改換,且是何人?」張色莊曰:「我嘗麵奉宣詔魏王,況大軍在行,談何容易。」陳岷曰:「久忝知聞,故敢諮問,兩日來有一信風,新人已即位矣,復何形跡。」張乃說:「來時聞李嗣源過河,未知近事。」岷曰:「魏王且請盤桓,以觀其勢,未可前邁。」張以莊宗命嚴,不敢遷延,督令進發,魏王至渭南遇害。)

繼潼・繼嵩・繼蟾・繼嶢は並びに莊宗の子なり。同光三年に光祿大夫・檢校司徒しとを拜し、未だ封ぜられず。莊宗敗亡の後、並びに其の終りを知らず。(《清異錄》:唐の福慶公主孟知祥に下降す。長興四年、明宗晏駕し、唐室亂る。莊宗の諸兒、髮を削ぎて芻と爲り、間道を走りて蜀に至る。時に知祥新に帝を稱し、主を分ちて猶子を厚く待ち、賜予千計。)

原文繼潼、繼嵩、繼蟾、繼嶢並莊宗子,同光三年拜光祿大夫、檢校司徒,未封。莊宗敗,並不知所終。(《清異錄》:唐福慶公主下降孟知祥。長興四年,明宗晏駕,唐室亂。莊宗諸兒削髮為芻,間道走蜀。時知祥新稱帝,為分主厚待猶子,賜予千計。)

從璟は、明宗の長子なり。性忠勇沈厚にして、堅を摧き陣を陷るに、人偕ひ難し。河上に莊宗に從ひ、累ねて戰功有り。莊宗之を器賞し、用ひて金槍指揮使と爲す。明宗魏府に在りて軍士に逼せらる。莊宗從璟に詔して曰く、「爾が父は國に大功有り。忠孝の心、朕自ら明信す。今亂兵に劫せらる。爾宜く自ら去りて朕が旨を宣べ、疑はしむること無からしむべし」と。從璟中途に行き至りて、元行欽に制せられ、復た歸りて洛下に至る。莊宗其の名を改めて繼璟と爲し、以て己が子と爲し、命じて再び往かしむ。從璟固執して行かず、願くは御前に死して、以て丹赤を明らかにせんとす。汴州べんしゅうに赴くに莊宗に從ふ。明宗の親舊多くは馬を策して去る。左右或ひは從璟を勸めて自脫せしむ。終に行はんとする意無し。尋て元行欽に殺さる。天成初、太保を贈らる。

原文從璟,明宗長子,性忠勇沈厚,摧堅陷陣,人罕偕焉。從莊宗於河上,累有戰功,莊宗器賞之,用為金槍指揮使。明宗在魏府為軍士所逼,莊宗詔從璟曰:「爾父於國有大功,忠孝之心,朕自明信,今為亂兵所劫,爾宜自去宣朕旨,無令有疑。」從璟行至中途,為元行欽所製,復與歸洛下。莊宗改其名為繼璟,以為己子,命再往,從璟固執不行,願死於御前,以明丹赤。從莊宗赴汴州,明宗之親舊多策馬而去,左右或勸從璟令自脫,終無行意,尋為元行欽所殺。天成初,贈太保。

秦王従栄は、明宗の第二子である。明宗が即位すると、天成の初めに鄴都留守・天雄軍節度使を授けられた。三年、北京留守に移り、河東節度使を充てた。四年、入朝して河南尹となった。ある日、明宗は安重誨に言った、「近頃聞くところでは、従栄の側近に朕の旨を詐称し、儒生と接するなと命ずる者がいるという。儒生は多く懦弱であり、志を鈍らせて染まることを恐れるというのである。朕はこれを知り、その事に甚だ驚いている。朕はこれまで従栄がまだ幼く、大藩に出臨しているので、まず儒雅の士を選び、その補佐に頼ろうとした。今この奸佞の言葉を聞くとは、朕の望むところであろうか。」その言葉を発した者を訊問して誅殺しようとしたが、重誨は言った、「もし急に刑を行えば、また賓客従者の処遇が難しくなります。厳しく誡めることを望みます。」そこで止めた。

原文秦王從榮,明宗第二子也。明宗踐阼,天成初,授鄴都留守、天雄軍節度使。三年,移北京留守,充河東節度使。四年,入為河南尹。一日,明宗謂安重誨曰:「 近聞從榮左右有詐宣朕旨,令勿接儒生,儒生多懦,恐鈍誌相染。朕方知之,頗駭其事。餘比以從榮方幼,出臨大藩,故先儒雅,賴其裨佐。今聞此奸憸之言,豈朕之所望屯。」鞫其言者將戮之,重誨曰:「若遽行刑,又慮賓從難處,且望嚴誡。」遂止。

従栄は詩を作り、従事の高輦らと互いに唱和し、自らその詩句が当時に独歩すると称し、詩千余首あり、『紫府集』と号した。

原文從榮為詩,與從事高輦等更相唱和,自謂章句獨步於一時,有詩千餘首,號曰《紫府集》。

長興年中、本官をもって天下兵馬大元帥を充てた。従栄はそこで厳衛・捧聖の歩騎両指揮を秦府の衙兵とすることを請い、毎朝入るときは数百騎を従えて行き、出るときは弓を張り矢を挟み、巷に満ちて馳せ騒いだ。元帥の命を受けるや、その府の属僚佐吏及び四方の遊士に命じ、各々『檄淮南書』一篇を作らせ、己が天下を廓清せんとする意を述べさせた。初め、言事者が親王に師傅を置くことを請うたとき、明宗は近臣に諮問した。執政は従栄の名声勢力が既に盛んなので、旨に逆らうことを敢えてせず、即ち奏上して言った、「王の官は委任すべきです。」従栄はそこで刑部侍郎劉讚を王傅とすることを奏し、また翰林学士崔棁を元帥府判官とすることを奏した。明宗は言った、「学士は朕に代わって詔令を出す者である。比べ論ずることはできない。」従栄は悦ばず、退いて左右に言った、「元帥の任を付けたのに、我が僚佐の請いを阻み、また詔旨の意も分からぬのか。」再び刑部侍郎任讚を奏し、許された。後に兵を挙げて宮室を犯し、敗れて死に、庶人に廃された。

原文長興中,以本官充天下兵馬大元帥。從榮乃請以嚴衛、捧聖步騎兩指揮為秦府衙兵,每入朝,以數百騎從行,出則張弓挾矢,馳騁盈巷。既受元帥之命,即令其府屬僚佐及四方遊士,各試《檄淮南書》一道,陳己將廓清宇內之意。初,言事者請為親王置師傅,明宗顧問近臣,執政以從榮名勢既隆,不敢忤旨,即奏云:「王官宜委。」從榮乃奏刑部侍郎劉讚為王傅,又奏翰林學士崔棁為元帥府判官。明宗曰:「學士代予詔令,不可擬議。」衣榮不悅,退謂左右曰:「既付以元帥之任,而阻予請僚佐,又未諭製旨也。」復奏刑部侍郎任讚,從之。(《宋史·趙上交傳》:秦王從榮開府兼判軍衛,以上交為虞部員外郎,充六軍諸衛推官。李澣、張沆、魚崇遠皆白衣在秦府,悉與上交友善。累遷司封郎中,充判官。從榮素豪邁,不遵禮法,好昵群小,上交從容言曰:「王位尊嚴,當修令德以慰民望。王忍為此,獨不見恭世子、戾太子之事乎?」從榮怒,出之。曆涇、秦二鎮節度判官。從榮及禍,僚屬皆坐斥。上交由是知名。)後舉兵犯宮室,敗死,廢為庶人。(《通鑒·明宗紀》云:己丑,大漸,秦王從榮入問疾,帝俯首不能舉。王淑妃曰:「從榮在此。」帝不應。從榮出,聞宮中皆哭。從榮意帝已殂,明旦,稱疾不入。是夕,帝實小愈,而從榮不知。從榮自知不為時論所與,恐不得為嗣,與其黨謀,欲以兵入侍,先製權臣。壬辰,從榮自河南府常服將步騎千人陳於天津橋。孟漢瓊被甲乘馬,召馬軍都指揮使朱洪實,使將五百騎討從榮,從榮方據胡床,坐橋上,遣左右召康義誠。端門已閉,叩左掖門,從門隙窺之,見朱洪實引騎兵北來,走白從榮,從榮大驚,命取鐵掩心擐之,坐調弓矢。俄而騎兵大至,從榮走歸府,僚佐皆竄匿,牙兵掠嘉善坊潰去。從榮與妃劉氏匿床下,皇城使安從益就斬之,以其首獻。丙申,追廢從榮為庶人。《五代會要》云:清泰元年,葬以公禮。從之。《五代史補》:秦王從榮,明宗之愛子。好為詩,判河南府,辟高輦為推官。輦尤能為詩,賓主相遇甚歡。自是出入門下者,當時名士有若張杭、高文蔚、何仲舉之徒,莫不分廷抗禮。更唱迭和。時干戈之後,武夫用事,睹從榮所為,皆不悅。於是康知訓等竊議曰:「秦王好文,交遊者多詞客,此子若一旦南面,則我等轉死溝壑,不如早圖之。」高輦知其謀,因勸秦王托疾:「此輩須來問候,請大王伏壯士,出其不意皆斬之,庶幾免禍矣。」從榮曰:「至尊在上,一旦如此,得無危乎?」輦曰:「子弄父兵,罪當笞爾;不然,則悔無及矣。」從榮猶豫不決,未幾及禍,高輦棄市。初,從榮之敗也,高輦竄於民家,且落發為僧。既擒獲,知訓以其毀形難認,復使巾幘著緋,驗其真偽,然後用刑。輦神色自若,屬聲曰:「朱衣才脫,白刃難逃。 」觀者笑之。)

従璨は、明宗の諸子である。性質剛直にして、客を好み財を疏んじ、意豁如たり。天成年中、右衛大将軍となり、時に安重誨が権勢を執っていたが、従璨も彼に屈せず、重誨はかつてこれを忌んだ。明宗が汴に幸したとき、従璨を留めて大内皇城使とした。ある日、賓友を会節園に召し、酒酣の後、戯れて御榻に登った。安重誨が誅殺を奏請した。詔して曰く、「皇城使従璨は、朕が汴州に巡幸するに当たり、大内を警備させた。しかるに委任に全く背き、ただ恣に遊び楽しみ、予が行従の園において、頻りに歌歓の会を恣にし、なお峻法を施し、平人を顕かに辱しめ、彼の喧嘩を致し、聞聴に達せしめた。今まさに法を立てんとするに、固より親を党せず。房州司戸参軍に貶授すべく、なお命を尽くさせよ。」長興年中、重誨が罪を得たとき、命じて旧官に復し、なお太保を贈られた。

原文從璨,明宗諸子。性剛直,好客疏財,意豁如也。天成中,為右衛大將軍,時安重誨方秉事權,從璨亦不之屈,重誨嘗以此忌之。明宗幸汴,留從璨為大內皇城使。一日,召賓友於會節園,酒酣之後,戲登於禦榻。安重誨奏請誅之。詔曰:「皇城使從璨,朕巡幸汴州,使警大內。乃全乖委任,但恣遨遊,於予行從之園,頻恣歌歡之會,仍施峻法,顯辱平人,致彼喧嘩,達於聞聽。方當立法,固不黨親,宜貶授房州司戶參軍,仍令盡命。」長興中,重誨之得罪也。命復舊官,仍贈太保。

許王従益は、明宗の末子である。宮嬪の生んだ子であった。明宗は王淑妃に命じてこれを養育させ、左右の者に嘗て言うには、「ただこの児のみは皇宮に生まれたる故に、特に鍾愛す」と。長興の末、許王に封ぜられる。晋の高祖こうそ即位の後、皇后がその姉であったため、従益を宮中に養育せしむ。晋の天福年中、従益を以て二王の後と為し、郇国公に改封し、食邑三千戸を賜う。その後、母と共に洛陽らくように帰る。守陵開運の末、契丹きったん主が汴に至り、従益を以て遥かに曹州節度使を領せしめ、再び許王に封じ、王妃と共に尋いで西京に帰る。会に契丹主死し、その汴州節度使蕭翰が北地に帰らんと謀り、中原に主無きを慮り、軍民大乱せば、則ち己も亦轡を按じて徐に帰ることを得ざるを恐れ、乃ち詐って契丹主の命と称し、人を遣わして従益を洛陽に迎え、南朝の軍国事を知らしむ。従益と王妃は徽陵に逃れてこれを避けんとす。使者至り、已むを得ずして赴く。従益は崇元殿にて群官に謁見す。蕭翰は蕃首を率いて殿上に列拝し、群官は殿下に趨る。乃ち偽りに王鬆を左丞相とし、趙上交を右丞相とし、李式・翟光鄴を枢密使すうみつしとし、王景崇を宣徽使とし、余の官各々署置有り。又、北より来たれる燕将劉祚を以て権侍衛使と為し、在京巡検を充てしむ。翰の北帰に際し、従益は北郊にて餞別す。漢の高祖が将に太原を離れんとするに及び、従益は高行周・武行徳を召して漢の高祖を拒がんと欲す。行周等従わず、且つその事を奏す。漢の高祖怒り、車駕将に闕に至らんとするに、従益と王妃は倶に私第にて賜死せられ、時に年十七。時に人これを哀しむ。

原文許王從益,明宗之幼子也。宮嬪所生。明宗命王淑妃母之,嘗謂左右曰:「惟此兒生於皇宮,故尤所鍾愛。」長興末,封許王。晉高祖即位,以皇后即其姊也,乃養從益於宮中。晉天福中,以從益為二王後,改封郇國公,食邑三千戶。其後與母歸洛陽。守陵開運末,契丹主至汴,以從益遙領曹州節度使,復封許王,與王妃尋歸西京。會契丹主死,其汴州節度使蕭翰謀歸北地,慮中原無主,軍民大亂,則己亦不得按轡徐歸矣;乃詐稱契丹主命,遣人迎從益於洛陽,令知南朝軍國事。從益與王妃逃於徽陵以避之,使者至,不得已而赴焉。從益於崇元殿見群官。蕭翰率蕃首列拜於殿上,群官趨於殿下,乃偽署王鬆為左丞相,趙上交為右丞相。李式、翟光鄴為樞密使,王景崇為宣徽使,餘官各有署置。又以北來燕將劉祚為權侍衛使,充在京巡檢。翰北歸,從益餞於北郊。及漢高祖將離太原,從益召高行周、武行德欲拒漢高祖,行周等不從,且奏其事。漢高祖怒,車駕將至闕,從益與王妃俱賜死於私第,時年十七;時人哀之。(《五代史闕文》:漢高祖自太原起軍建號,至洛陽,會郭從義先入京師,受密旨殺王淑妃與許王從益。淑妃臨刑號泣曰:「吾家子母何罪,吾既為契丹所立,非敢與人爭國,何不且留吾兒,每年寒食,使持一盂飯灑明宗陵寢。」聞者無不泣下。)

重吉は、末帝の長子、控鶴都指揮使となる。閔帝嗣位の後、出でて亳州団練使と為る。末帝兵を起こすに及び、閔帝の為に害せらる。清泰元年、詔して太尉を贈り、仍て宋州に隙地を選び廟を置かしむ。

原文重吉,末帝長子,為控鶴都指揮使。閔帝嗣位,出為亳州團練使。末帝兵起,為閔帝所害。(《通鑒》云:詔遣殿直楚匡祚執亳州李重吉,幽於宋州。又云:遣楚匡祚殺李重吉於宋州。匡祚榜捶重吉,責其家財。)清泰元年,詔贈太尉,仍令宋州選隙地置廟。(《明宗紀》:閔帝有子重哲,授銀青光祿大夫、檢校工部尚書。《歐陽史·家人傳》闕而不載,今附識於此。)

雍王重美は、末帝の第二子、清泰三年に封ぜらる。晋兵入るに及び、末帝と倶に自ら焚死す。

原文雍王理美,末帝第二子,清泰三年封。晉兵入,與末帝俱自焚死。(《通鑒》云:洛陽自聞兵敗,眾心大震,居人四出,逃竄山谷。門者請禁之,雍王重美曰:「國家多難,未能為百姓主,又禁其求生,徒增惡名耳。不若聽其自便,事寧自還。」乃出令任從所適,眾心差安。又云:皇后積薪欲燒宮室,重美諫曰:「新天子至,必不露居,他日重勞民力,死而遺怨,將安用之。」乃止。)

史臣曰く、継岌は童騃の歳を以て、統帥の任に当たり、剣外に功成るも、尋いで渭濱に死を求む。蓋し運尽き天亡するに非ず、孺子の咎に非ざるなり。従審は厚遇の恩に感じ、苟免の意無く、君側に死す、忠と謂わざるべけんや。従栄は狂躁の謀を以て、覆亡の禍を賈い、大逆と謂うは、則ち厚誣に近し。従璨は権臣に忌まれ、従益は強敵に脅かされ、倶にその死を得ず、亦良に傷むべし。重美は洛民の奔亡を聴き、母後の燔爇を止め、身は戯焰に燼くも、言は則ち青編に耀く。童年若斯、賢と謂うべし。

原文史臣曰:繼岌以童騃之歲,當統帥之任,雖功成於劍外,尋求死於渭濱,蓋運盡天亡,非孺子之咎也。從審感厚遇之恩,無苟免之意,死於君側,得不謂之忠乎!從榮以狂躁之謀,賈覆亡之禍,謂為大逆,則近厚誣。從璨為權臣所忌,從益為強敵所脅,俱不得其死,亦良可傷哉!重美聽洛民之奔亡,止母後之燔爇,身雖燼於戲焰,言則耀乎青編。童年若斯,可謂賢矣!