◎宗室
李克譲は、武皇帝(李克用)の次弟である。若い頃より騎射に長じ、勇猛果敢で知られた。咸通年間、龐勳討伐に従軍し、功績により振武都校となった。乾符年間、王仙芝が荊州・襄州を陥落させると、朝廷は兵を徴発し、克譲は詔を奉じて軍を率いた。賊が平定されると、功により金吾将軍を授かり、宿衛として留まった。初め、懿祖(李国昌)が朝廷に帰順した時、憲宗は親仁坊に邸宅を賜った。長慶以来、代々一人が衛兵を統率していた。武皇帝が雲中で挙兵し、段文楚を殺害すると、朝廷はこれを罪とし、我が方に兵を加えることを命じた。克譲は恐れて逃げ帰ろうとしたが、天子は巡使王処存に詔を下し、夜に親仁坊を包囲させて克譲を捕らえさせた。夜明けに兵が合流すると、克譲は紀綱の何相温・安文寛・石的曆ら十数騎と共に弓を引き馬を躍らせ、包囲を突破して出奔した。官軍数千人がこれを追い、渭橋に至るまでに数百人が死んだ。克譲は夏陽で船を奪って渡河し、雁門に帰還した。翌年、武皇帝の罪が雪がれると、克譲は再び宿衛に入った。黄巢が長安を犯すと、僖宗は蜀に幸し、克譲は時に潼関を守っていたが、賊に敗れ、部下六七騎を率いて南山の仏寺に潜伏したが、夜に山の僧に害された。
克修の子は二人、長男は嗣弼、次男は嗣肱である。嗣弼は初め沢州刺史を授かり、昭義・横海節度副使を歴任し、海州刺史に改めた。天祐十九年、契丹が燕・趙を侵犯し、涿郡を陥落させると、嗣弼は一家挙げて捕虜となり、幕庭(契丹の本営)に移された。
李克恭は、武皇帝の諸弟である。龍紀年間、決勝軍使となった。大順初年、潞州の帥(節度使)李克修が卒去すると、克恭が代わって昭義節度使となった。性質は驕慢で横暴で法を守らず、軍政に通じていなかった。潞州の人々は元来、克修の簡素で正しい統治に慣れ親しんでおり、克恭の放縦を憎み、また克修が無実の罪で急死したため、人心が離反した。時に武皇帝は邢州・洺州の三州を平定したばかりで、河朔に事を起こそうとしており、軍需物資を大々的に徴発していた。潞州には後院軍があり、その兵は雄勁であったが、克恭はそのうち五百人を選んで武皇帝に献上した。軍使の安居受はその兵を惜しみ、不満であった。克恭は裨校の李元審・安建・紀綱・馮霸に部送して太原へ向かわせた。銅鞮県に到着した時、馮霸が衆を脅して謀叛し、都将の劉杲・県令の戴労謙を殺し、山に沿って南下し、沁水に至るまでに三千の衆を得た。武皇帝は李元審に兵を率いてこれを撃たせたが、馮霸と沁水で戦って利あらず、元審は戦傷を負い、軍を潞州に収めた。五月十五日、克恭は孔目吏劉崇の邸で元審を見舞った。この日、州将の安居受が兵仗を引いて克恭を攻撃し、風に乗じて火を放ったため、克恭・元審はともに害に遇い、州民は居受を推して留後とした。初め、孟方立の乱の時、居受は沢州・潞州を以て武皇帝に帰順したが、この時孟遷が邢州・洺州を以て降伏を申し出て、再び牙将に任じられたため、居受は彼が己を謀ることを恐れ、叛いて克恭を殺し汴人(朱全忠)と結んだ。居受は沁水の馮霸を召し出そうと人を遣わしたが、馮霸は命令を受けなかった。居受は恐れ、朝廷に奔って帰ろうとしたが、長子に至り、野人に殺され、その首は馮霸の軍に送られた。馮霸は軍を率いて潞州を占拠し、自ら留後を称し、汴に救援を求めた。武皇帝は康君立にこれを討たせた。汴将の葛従周が馮霸を救援しに来た。九月、李存孝が急攻して潞州を攻めると、汴軍は夜遁し、馮霸らを捕らえて誅した。武皇帝は康君立を昭義節度使とした。
克寧は、武皇(李克用)の末弟である。初め雲中より従い起ち、奉誠軍使となり、赫連鐸が黄花城を攻めたとき、克寧は武皇及び諸弟を奉じて城に登り、三日間血戦し、力尽き備え竭き、賊を数万計り殺した。燕軍が蔚州を攻めたとき、克寧兄弟は城に拠って敵を拒ぎ、昼夜に寝食を廃すること十余日に及んだ。後に達靼より関に入り、黄寇(黄巣)を逐う。凡そ征行には必ず衛従し、兄弟の間において最も仁孝を推し、小心恭謹であり、武皇は特にこれを友愛した。太原を鎮守するに及び、遼州刺史を授けられ、累ねて雲州防禦使に至る。乾寧初年、忻州刺史に改め、関に入り王行瑜を討つに従い、馬歩軍都將を充て、功により檢校司徒を授けられる。天祐初年、内外都製置・管內蕃漢都知兵馬使・檢校太保を授けられ、振武節度使を充て、凡そ軍政は皆克寧に決せしめた。
五年正月、武皇の疾篤く、克寧ら侍疾し、涙を垂れて訣別す。克寧曰く、「王万が一不諱あらば、後事何れに属せん」と。因りて莊宗を召して側に侍らしめ、克寧・張承業に謂ひて曰く、「亞子(莊宗の小字)、公らに累す」と。言終はりて代を棄つ。将に哀を発せんとす、克寧軍府を紀綱し、中外嘩然とすること無し。初め、武皇軍戎を奨励し、多く庶孽を畜へ、衣服禮秩嫡子の如き者六七輩あり、嗣王に比べ、年齒又長く、各々部曲を有し、朝夕聚謀し、皆乱を為さんと欲す。莊宗英察にして、禍に及ぶを懼れ、将に嗣位せんとし、克寧に譲りて曰く、「児年孤稚にして、未だ庶政に通ぜず、遺命を承くると雖も、恐らくは大なる事を弾圧する能はじ。季父勳徳倶に高く、衆情推伏す、且つ軍府の製置を請ひ、児立つこと有りてより、季父の処分を聴かん」と。克寧曰く、「亡兄の遺命、我が児に属す、孰か敢へて異議を為さんや!児但だ世を嗣ぎ、中外の事、何をか憂へて弁ぜざらん」と。視事の日、率先して拝賀す。莊宗嗣位し、軍民政事一切之に委ね、権柄既に重く、趣向者多く之に附す。李存顥なる者、陰計を以て克寧に干し曰く、「兄亡びて弟及ぶは、古今の旧事、父を委ねて侄を拝するは、理の未だ安からざる所、富貴功名、当に宜しく自立すべし、天与ふるを取りざれば、後悔及ぶ莫し」と。克寧曰く、「公不祥の言を得ること毋かれ!、我が家世三代に功を立て、父慈子孝、天下に名を知られ、苟くも吾が兄の山河托する所あらば、我亦何をか求めん!公復た言ふこと無かれ、必ず爾が首を斬りて以て徇せん」と。克寧は慈愛心に因るといへども、日に凶徒に惑乱せらる。群凶の妻復た此の言を以て克寧の妻孟夫人に干し、百端に説き激し、夫人は事泄れて禍に及ぶを懼れ、屡ひ克寧を譲る、是により愈よ惑はる。会ふに克寧事に因りて都虞候李存質を殺し、又た兼ねて大同節度を領せんことを請ひ、蔚・朔を属郡と為し、又た数へて監軍張承業・李存璋を怒る;是により其の貳心有るを知る。近臣史敬鎔素より存顥と善くし、尽く其の事を知る。敬鎔貞簡太后に告げて曰く、「存顥と管內太保(克寧)陰に叛乱を図り、嗣王其の第を過ぐるを俟ちて即ち之を擒へ、並びに太后子母を、汴州に送らんと欲す。窃に発すること日有り」と。莊宗張承業・李存璋を召して謂ひて曰く、「季父の為す所此の如し、猶子の情無く、骨肉自ら相魚肉すべからず、吾即ち路を避かば、則ち禍乱作さざらん」と。承業曰く、「老夫親しく遺托を承け、言猶ほ耳に在り。存顥輩太原を以て賊に降らんと欲す、王乃ち何の路をか求め生きん?即ち討ち除かざれば、亡ぶこと日無からん」と。因りて呉珙・存璋に之が備へを為さしむ。二月二十日、諸将を府第に会し、存顥・克寧を座に於いて擒ふ。莊宗涙を垂れて之を数へて曰く、「児初め軍府を季父に譲らんとす、季父先人の遺命を棄つるに忍びず。今已に事定まれり、復た児が子母を以て豺虎に投げ与へんと欲す、季父何ぞ此の心に忍びん!」と。克寧泣きて対へて曰く、「蓋し讒夫交構す、吾復た何をか言はん!」と。是の日、存顥と倶に法に伏す。克寧は仁にして断無く、故に禍に及ぶ。
史臣曰く、昔武皇陰山に発跡し、莊宗河朔に肇基す、天下を奄有すと雖も、国を享くる日浅く、眷言枝属、空しく棣華を秀て、固より未だ帝堯敦敘の恩を推し、成王封建の義を広むるに及ばず。克讓より以下、魯・衛の封に就き、間・平の徳を懋ますことを獲ず。況んや夭横相継ぎ、亦良に悲しむ可きかな!