舊五代史

唐書二十六: 宗室列傳二

唐書二十六: 宗室列傳二

◎宗室

原文◎宗室

李克譲は、武皇帝(李克用)の次弟である。若い頃より騎射に長じ、勇猛果敢で知られた。咸通年間、龐勳討伐に従軍し、功績により振武都校となった。乾符年間、王仙芝が荊州・襄州を陥落させると、朝廷は兵を徴発し、克譲は詔を奉じて軍を率いた。賊が平定されると、功により金吾きんご将軍を授かり、宿衛として留まった。初め、懿祖(李国昌)が朝廷に帰順した時、憲宗は親仁坊に邸宅を賜った。長慶以来、代々一人が衛兵を統率していた。武皇帝が雲中で挙兵し、段文楚を殺害すると、朝廷はこれを罪とし、我が方に兵を加えることを命じた。克譲は恐れて逃げ帰ろうとしたが、天子は巡使王処存に詔を下し、夜に親仁坊を包囲させて克譲を捕らえさせた。夜明けに兵が合流すると、克譲は紀綱の何相温・安文寛・石的曆ら十数騎と共に弓を引き馬を躍らせ、包囲を突破して出奔した。官軍数千人がこれを追い、渭橋に至るまでに数百人が死んだ。克譲は夏陽で船を奪って渡河し、雁門に帰還した。翌年、武皇帝の罪が雪がれると、克譲は再び宿衛に入った。黄巢が長安ちょうあんを犯すと、僖宗は蜀に幸し、克譲は時に潼関を守っていたが、賊に敗れ、部下六七騎を率いて南山の仏寺に潜伏したが、夜に山の僧に害された。

原文克讓,武皇之仲弟也。少善騎射,以勇悍聞。咸通中,從討龐勳,以功為振武都校。乾符中,王仙芝陷荊、襄,朝廷征兵,克讓率師奉詔,賊平,以功授金吾將軍,留宿衛。初,懿祖歸朝,憲宗賜宅於親仁坊,自長慶以來,相次一人典衛兵。武皇之起雲中,殺段文楚,朝議罪之,命加兵於我,懼,將逃歸,天子詔巡使王處存夜圍親仁坊捕克讓。詰旦兵合,克讓與紀綱何相溫、安文寬、石的曆十餘騎彎弧躍馬,突圍而出。官軍數千人追之,比至渭橋,死者數百。克讓自夏陽掠船而濟,歸於雁門。明年,武皇昭雪,克讓復入宿衛。黃巢犯闕,僖宗幸蜀,克讓時守潼關,為賊所敗,以部下六七騎伏於南山佛寺,夜為山僧所害。

克譲が死ぬと、紀綱の渾進通は刃を冒して難を逃れ、黄巢のもとに帰った。中和二年冬、武皇帝は関中に入って賊を討ち、沙苑に駐屯した。黄巢は使者米重威を遣わし、賄賂を携えて和親を求め、渾進通を送り届けるとともに、克譲を害した僧十人を捕らえて送ってきた。武皇帝は偽りの詔書を焼き、使者を返し、諸僧をことごとく誅し、克譲のために喪に服し哀悼した。悲しみ慟哭すること久しかった。

原文克讓既死,紀綱渾進通冒刃獲免,歸於黃巢。中和二年冬,武皇入關討賊,屯沙苑。黃巢遣使米重威齎賂修好,因送渾進通至,兼擒送害克讓僧十人。武皇燔偽詔,還其使,盡誅諸僧,為克讓發哀行服,悲慟久之。

李克修は、字あざなを崇遠といい、武皇帝の従父弟である。父の徳成は、初め天寧軍使となり、献祖(李国昌)に従って龐勳を討ち、功により朔州刺史を授かった。克修は若い頃より弓馬に熟達し、父に従って征討し、赴くところ功を立てた。武皇帝が雁門を節制すると、克修を奉誠軍使とし、関中入りに従って前鋒となり、華陰で黄揆を破り、梁田坡で尚譲を敗り、光順門で黄巢を追い詰めた。戦うごとに勝利し、その勇猛は諸軍を威圧した。賊が平定されると、功により検校けんぎょう刑部尚書となり、左営軍使となった。その年十月、潞州の牙将安居受が来て援軍を請い、昭義軍の回復を求めた。武皇帝は大将の賀公雅・李筠・安金俊らに兵を従わせて派遣した。孟方立と銅鞮で戦ったが、利あらず、武皇帝は克修に兵を率いて続いて進軍するよう命じた。その月、潞州を平定し、その刺史李殷鋭を斬り、克修を昭義節度使せつどしに上表した。光啓二年九月、克修は山東に出師し、邢州・洺州を回復した。十一月、故鎮を陥落させた。孟方立は将の呂臻を遣わして来援させたが、焦崗で戦い、大いにこれを破り、呂臻を生け捕りにし、捕虜・斬首は万を数え、武安・臨洺などの属県を陥落させ、勝ちに乗じて邢州を包囲した。方立は鎮州に救援を求め、王鎔が三万の兵を出してこれを救援したため、克修の軍は退いた。李罕之が帰順してくると、武皇帝は彼に沢州刺史を授け、克修と合流して河陽を攻撃させ、連年出師して懐州・孟州を苦しめた。文徳元年十月、孟方立は将の奚忠信に兵三万を率いさせて我が遼州を襲撃した。克修は遼州の東山に伏兵を設け、大いに賊軍を破り、忠信を生け捕りにして献上した。龍紀元年、武皇帝は大挙して邢州・洺州を伐ち、軍を返す際、上党に封を撫でた。克修の性質は倹約で、華美を事とせず、供帳や饗膳の品数は簡素であった。武皇帝はその粗末さに怒り、鞭打って罵った。克修は恥じ憤って発病し、翌年三月、潞州の府第で卒去した。時に三十一歳。荘宗が即位すると、太師を追贈された。

原文克修,字崇遠,武皇從父弟也。父德成,初為天寧軍使,從獻祖討龐勳,以功授朔州刺史。克修少便弓馬,從父征討,所至立功,武皇節制雁門,以克修為奉誠軍使,從入關為前鋒,破黃揆於華陰,敗尚讓於梁田坡,蹙黃巢於光順門,每戰皆捷,勇懾諸軍。賊平,以功檢校刑部尚書,為左營軍使。其年十月,潞州牙將安居受來乞師,請復昭義軍,武皇遣大將賀公雅、李筠、安金俊等以兵從。與孟方立戰於銅鞮,不利,武皇乃令克修將兵繼進。是月,平潞州,斬其刺史李殷銳,乃表克修為昭義節度使。光啟二年九月,克修出師山東,收復邢、洺。十一月,拔故鎮。孟方立遣將呂臻來援,戰於焦崗,大敗之,擒呂臻,俘斬萬計,進拔武安、臨洺諸屬縣,乘勝進圍邢州。方立求援於鎮州,王鎔出師三萬援之,克修軍退。及李罕之來歸,武皇授以澤州刺史,與克修合勢進攻河陽,連歲出師,以苦懷、孟。文德元年十月,孟方立遣將奚忠信將兵三萬襲我遼州,克修設伏於遼之東山,大敗賊軍,擒忠信以獻。龍紀元年,武皇大舉以伐邢、洺,及班師,因撫封於上黨。克修性儉嗇,不事華靡,供帳饔膳,品數簡陋。武皇怒其菲薄,笞而詬之,克修慚憤發疾;明年三月,卒於潞之府第,時年三十一。莊宗即位,追贈太師。

克修の子は二人、長男は嗣弼、次男は嗣肱である。嗣弼は初め沢州刺史を授かり、昭義・横海節度副使を歴任し、海州刺史に改めた。天祐十九年、契丹きったんが燕・趙を侵犯し、涿郡を陥落させると、嗣弼は一家挙げて捕虜となり、幕庭(契丹の本営)に移された。

原文克修子二人,長曰嗣弼,次曰嗣肱。嗣弼初授澤州刺史,曆昭義、橫海節度副使,改海州刺史。天祐十九年,契丹犯燕、趙,陷涿郡,(《遼史·太祖紀》:十二月癸亥,圍涿州,有白兔緣壘而上,是日破其郛。)嗣弼舉家被俘,遷於幕庭。

嗣肱は、若い頃より胆略があり、しばしば戦功を立てた。夾城の役では、周徳威に従って前鋒となった。時に兄の嗣弼は昭義副使として、李嗣昭と共に城を守り、兄弟は内外で奮戦し、忠誠と武勇は威厳に満ち、三軍を感動させた。潞州の包囲が解けると、功により検校左僕射を授かり、入って三城巡検となり、衙内の事を掌った。天祐七年、周徳威が霊州・夏州を救援した時、党項とうこうが道を阻み、音信・駅伝が不通となった。嗣肱は命を受けて麟州から黄河を渡り、徳威を応接し、党項と数十里にわたって転戦し、徳威の軍と合流した。柏郷の戦いでは、嗣肱は馬歩都虞候となった。翌年、荘宗に従って猗氏で朱友謙と会し、教練使に改め、李存審と共に河中を救援し、胡壁堡で汴軍を破り、将の龐譲を捕らえた。十年、存審と共に趙州に駐屯し、観津で汴人を撃った。時に梁祖(朱全忠)が新たに棗強を屠り、その将の賀徳倫が蓚県を急攻し、五万の兵を率いて蓚県の西に合流して営を張った。嗣肱は下博から騎兵三百を率い、夕暮れに梁軍の薪刈り・草刈りの者たちと入り混じり、日が暮れると梁軍の営門に入り、諸騎が合流して大いに騒ぎ、弓矢が星の如く飛び交い、咆哮して馳せ突いた。汴人は何事か分からず、営中は混乱した。暗くなると、騎兵をまとめて退却した。その夜、梁祖は営を焼いて逃げ、蓚県の包囲は解けた。功により特に蔚州刺史・雁門以北都知兵馬使を授かった。劉守光平定に従軍した。十二年、応州刺史に改め、累進して沢州・代州の二州刺史、石嶺以北都知兵馬使となった。十九年、新州刺史の王鬱が契丹に叛いて入った。嗣肱は兵を進めて媯州・儒州・武州の三州を平定し、山北都団練使を授かった。二十年春、新州で卒去した。時に四十五歳。

原文嗣肱,少有膽略,屢立戰功,夾城之役,從周德威為前鋒。時兄嗣弼為昭義副使,與嗣昭守城,兄弟內外奮戰,忠力威壯,感動三軍。潞圍既解,以功授檢校左僕射,入為三城巡檢,知衙內事。天祐七年,周德威援靈、夏,党項阻道,音驛不通。嗣肱奉命自麟州渡河,應接德威,與党項轉戰數十里,合德威軍。柏鄉之戰,嗣肱為馬步都虞候。明年,從莊宗會朱友謙於猗氏,改教練使,與存審援河中,敗汴軍於胡壁堡,獲將龐讓。十年,與存審屯趙州,擊汴人於觀津。時梁祖新屠棗強,其將賀德倫急攻蓚縣,率師五萬合勢營於蓚之西。嗣肱自下博率騎三百,薄晚與梁之樵芻者相雜,日既晡,入梁軍營門,諸騎相合,大噪,弧矢星發,虓闞馳突。汴人不知所為,營中擾,既暝,斂騎而退。是夜,梁祖燒營而遁,解蓚縣之圍。以功特授蔚州刺史、雁門以北都知兵馬使。從平劉守光。十二年,改應州刺史,累遷澤、代二州刺史、石嶺以北都知兵馬使。十九年,新州刺史王鬱叛入契丹。嗣肱進兵定媯、儒、武等三州,授山北都團練使。二十年春,卒於新州,時年四十五。

李克恭は、武皇帝の諸弟である。龍紀年間、決勝軍使となった。大順初年、潞州の帥(節度使)李克修が卒去すると、克恭が代わって昭義節度使となった。性質は驕慢で横暴で法を守らず、軍政に通じていなかった。潞州の人々は元来、克修の簡素で正しい統治に慣れ親しんでおり、克恭の放縦を憎み、また克修が無実の罪で急死したため、人心が離反した。時に武皇帝は邢州・洺州の三州を平定したばかりで、河朔に事を起こそうとしており、軍需物資を大々的に徴発していた。潞州には後院軍があり、その兵は雄勁であったが、克恭はそのうち五百人を選んで武皇帝に献上した。軍使の安居受はその兵を惜しみ、不満であった。克恭は裨校の李元審・安建・紀綱・馮霸に部送して太原へ向かわせた。銅鞮県に到着した時、馮霸が衆を脅して謀叛し、都将の劉杲・県令の戴労謙を殺し、山に沿って南下し、沁水に至るまでに三千の衆を得た。武皇帝は李元審に兵を率いてこれを撃たせたが、馮霸と沁水で戦って利あらず、元審は戦傷を負い、軍を潞州に収めた。五月十五日、克恭は孔目吏劉崇の邸で元審を見舞った。この日、州将の安居受が兵仗を引いて克恭を攻撃し、風に乗じて火を放ったため、克恭・元審はともに害に遇い、州民は居受を推して留後とした。初め、孟方立の乱の時、居受は沢州・潞州を以て武皇帝に帰順したが、この時孟遷が邢州・洺州を以て降伏を申し出て、再び牙将に任じられたため、居受は彼が己を謀ることを恐れ、叛いて克恭を殺し汴人(朱全忠)と結んだ。居受は沁水の馮霸を召し出そうと人を遣わしたが、馮霸は命令を受けなかった。居受は恐れ、朝廷に奔って帰ろうとしたが、長子に至り、野人に殺され、その首は馮霸の軍に送られた。馮霸は軍を率いて潞州を占拠し、自ら留後を称し、汴に救援を求めた。武皇帝は康君立にこれを討たせた。汴将の葛従周が馮霸を救援しに来た。九月、李存孝が急攻して潞州を攻めると、汴軍は夜遁し、馮霸らを捕らえて誅した。武皇帝は康君立を昭義節度使とした。

原文克恭,武皇之諸弟也。龍紀中,為決勝軍使。大順初,潞帥李克修卒,克恭代為昭義節度使。性驕橫不法,未閑軍政。潞人素便克修之簡正,惡克恭之恣縱,又以克修非罪暴卒,人士離心。時武皇初定邢、洺三州,將有事於河朔,大搜軍實。潞州有後院軍,兵之雄勁者,克恭選其五百人獻於武皇,軍使安居受惜其兵。不悅。克恭令裨校李元審、安建、紀綱、馮霸部送太原,行次銅鞮縣,馮霸劫眾謀叛,殺都將劉杲、縣令戴勞謙,循山而南,比及沁水,有眾三千。武皇令李元審將兵擊之,與霸戰於沁水,不利,元審戰傷,收軍於潞。五月十五日,克恭視元審於孔目吏劉崇之第。是日,州將安居受引兵仗攻克恭,因風縱火,克恭、元審並遇害,州民推居受為留後。初,孟方立之亂,居受以澤、潞歸於武皇,至是孟遷以邢、洺納降,復任為牙將,居受懼其圖己,乃叛,殺克恭以結汴人。居受遣人召馮霸於沁水,霸不受命。居受懼,將奔歸朝廷,至長子,為野人所殺,傳首馮霸軍。霸乃引軍據潞州,自稱留後,求援於汴。武皇令康君立討之,汴將葛從周來援霸。九月,李存孝急攻潞州,汴軍夜遁,獲霸等誅之,武皇乃以康君立為昭義節度使。

克寧は、武皇(李克用)の末弟である。初め雲中より従い起ち、奉誠軍使となり、赫連鐸が黄花城を攻めたとき、克寧は武皇及び諸弟を奉じて城に登り、三日間血戦し、力尽き備え竭き、賊を数万計り殺した。燕軍が蔚州を攻めたとき、克寧兄弟は城に拠って敵を拒ぎ、昼夜に寝食を廃すること十余日に及んだ。後に達靼より関に入り、黄寇(黄巣)を逐う。凡そ征行には必ず衛従し、兄弟の間において最も仁孝を推し、小心恭謹であり、武皇は特にこれを友愛した。太原を鎮守するに及び、遼州刺史を授けられ、累ねて雲州防禦使に至る。乾寧初年、忻州刺史に改め、関に入り王行瑜を討つに従い、馬歩軍都將を充て、功により檢校司徒しとを授けられる。天祐初年、内外都製置・管內蕃漢都知兵馬使・檢校太保を授けられ、振武節度使を充て、凡そ軍政は皆克寧に決せしめた。

原文克寧,武皇之季弟也。初從起雲中,為奉誠軍使,赫連鐸之攻黃花城也,克寧奉武皇及諸弟登城,血戰三日,力盡備竭,殺賊萬計。燕軍之攻蔚州,克寧昆仲嬰城拒敵,晝夜輟寢食者旬餘。後從達靼入關,逐黃寇。凡征行無不衛從,於昆弟之間,最推仁孝,小心恭謹,武皇尤友愛之。及鎮太原,授遼州刺史,累至雲州防禦使。乾寧初,改忻州刺史,從入關討王行瑜,充馬步軍都將,以功授檢校司徒。天祐初,授內外都製置、管內蕃漢都知兵馬使、檢校太保,充振武節度使,凡軍政皆決於克寧。

五年正月、武皇の疾篤く、克寧ら侍疾し、涙を垂れて訣別す。克寧曰く、「王万が一不諱いみなあらば、後事何れに属せん」と。因りて莊宗を召して側に侍らしめ、克寧・張承業に謂ひて曰く、「亞子(莊宗の小字)、公らに累す」と。言終はりて代を棄つ。将に哀を発せんとす、克寧軍府を紀綱し、中外嘩然とすること無し。初め、武皇軍戎を奨励し、多く庶孽を畜へ、衣服禮秩嫡子の如き者六七輩あり、嗣王に比べ、年齒又長く、各々部曲ぶきょくを有し、朝夕聚謀し、皆乱を為さんと欲す。莊宗英察にして、禍に及ぶを懼れ、将に嗣位せんとし、克寧に譲りて曰く、「児年孤稚にして、未だ庶政に通ぜず、遺命を承くると雖も、恐らくは大なる事を弾圧する能はじ。季父勳徳倶に高く、衆情推伏す、且つ軍府の製置を請ひ、児立つこと有りてより、季父の処分を聴かん」と。克寧曰く、「亡兄の遺命、我が児に属す、孰か敢へて異議を為さんや!児但だ世を嗣ぎ、中外の事、何をか憂へて弁ぜざらん」と。視事の日、率先して拝賀す。莊宗嗣位し、軍民政事一切之に委ね、権柄既に重く、趣向者多く之に附す。李存顥なる者、陰計を以て克寧に干し曰く、「兄亡びて弟及ぶは、古今の旧事、父を委ねて侄を拝するは、理の未だ安からざる所、富貴功名、当に宜しく自立すべし、天与ふるを取りざれば、後悔及ぶ莫し」と。克寧曰く、「公不祥の言を得ること毋かれ!、我が家世三代に功を立て、父慈子孝、天下に名を知られ、苟くも吾が兄の山河托する所あらば、我亦何をか求めん!公復た言ふこと無かれ、必ず爾が首を斬りて以て徇せん」と。克寧は慈愛心に因るといへども、日に凶徒に惑乱せらる。群凶の妻復た此の言を以て克寧の妻孟夫人に干し、百端に説き激し、夫人は事泄れて禍に及ぶを懼れ、屡ひ克寧を譲る、是により愈よ惑はる。会ふに克寧事に因りて都虞候李存質を殺し、又た兼ねて大同節度を領せんことを請ひ、蔚・朔を属郡と為し、又た数へて監軍張承業・李存璋を怒る;是により其の貳心有るを知る。近臣史敬鎔素より存顥と善くし、尽く其の事を知る。敬鎔貞簡太后に告げて曰く、「存顥と管內太保(克寧)陰に叛乱を図り、嗣王其の第を過ぐるを俟ちて即ち之を擒へ、並びに太后子母を、汴州べんしゅうに送らんと欲す。窃に発すること日有り」と。莊宗張承業・李存璋を召して謂ひて曰く、「季父の為す所此の如し、猶子の情無く、骨肉自ら相魚肉すべからず、吾即ち路を避かば、則ち禍乱作さざらん」と。承業曰く、「老夫親しく遺托を承け、言猶ほ耳に在り。存顥輩太原を以て賊に降らんと欲す、王乃ち何の路をか求め生きん?即ち討ち除かざれば、亡ぶこと日無からん」と。因りて呉珙・存璋に之が備へを為さしむ。二月二十日、諸将を府第に会し、存顥・克寧を座に於いて擒ふ。莊宗涙を垂れて之を数へて曰く、「児初め軍府を季父に譲らんとす、季父先人の遺命を棄つるに忍びず。今已に事定まれり、復た児が子母を以て豺虎に投げ与へんと欲す、季父何ぞ此の心に忍びん!」と。克寧泣きて対へて曰く、「蓋し讒夫交構す、吾復た何をか言はん!」と。是の日、存顥と倶に法に伏す。克寧は仁にして断無く、故に禍に及ぶ。

原文五年正月,武皇疾篤,克寧等侍疾,垂泣辭訣。克寧曰:「王萬一不諱,後事何屬?」因召莊宗侍側,謂克寧、張承業曰:「亞子累公等。」言終棄代。將發哀,克寧紀綱軍府,中外無嘩。初,武皇獎勵軍戎,多畜庶孽,衣服禮秩如嫡者六七輩,比之嗣王,年齒又長,各有部曲,朝夕聚謀,皆欲為亂。莊宗英察,懼及於禍,將嗣位,讓克寧曰:「兒年孤稚,未通庶政,雖承遺命,恐未能彈壓大事。季父勳德俱高,眾情推伏,且請製置軍府,候兒有立,聽季父處分。」克寧曰:「亡兄遺命,屬在我兒,孰敢異議者!兒但嗣世,中外之事,何憂不辦。」視事之日,率先拜賀。莊宗嗣位,軍民政事,一切委之,權柄既重,趣向者多附之。李存顥者,以陰計幹克寧曰:「兄亡弟及,古今舊事,委父拜侄,理所未安,富貴功名,當宜自立,天與不取,後悔無及。」克寧曰:「公毋得不祥之言!,我家世立功三代,父慈子孝,天下知名,苟吾兄山河有托,我亦何求!公無復言,必斬爾首以徇。」克寧雖慈愛因心,而日為凶徒惑亂。群凶之妻復以此言幹克寧妻孟夫人,說激百端,夫人懼事泄及禍,屢讓克寧,由是愈惑。會克寧因事殺都虞候李存質,又請兼領大同節度,以蔚、朔為屬郡,又數怒監軍張承業、李存璋;由是知其有貳。近臣史敬鎔素與存顥善,盡知其事。敬鎔告貞簡太后曰:「存顥與管內太保陰圖叛亂,俟嗣王過其第即擒之,並太后子母,欲送於汴州。竊發有日矣。」莊宗召張承業、李存璋謂曰:「季父所為如此,無猶子之情,骨肉不可自相魚肉,吾即避路,則禍亂不作矣。」承業曰:「老夫親承遺托,言猶在耳。存顥輩欲以太原降賊,王乃何路求生?不即討除,亡無日矣。」因令吳珙、存璋為之備。二月二十日,會諸將於府第,擒存顥、克寧於坐。莊宗垂泣數之曰:「兒初以軍府讓季父,季父不忍棄先人遺命。今已事定,復欲以兒子母投畀豺虎,季父何忍此心!」克寧泣對曰:「蓋讒夫交構,吾復何言!」是日,與存顥俱伏法。克寧仁而無斷,故及於禍。(案《新唐書·宰相世係表》:嗣昭,國昌有子四人:克恭、克儉、克用、克柔。薛史《李嗣昭傳》云:武皇母弟代州刺史克柔之假子也。是克柔為武皇母弟。《新唐書·沙陀傳》:武皇有弟克勤,《通鑒》引《紀年錄》有兄克儉,而薛史俱無傳,疑有闕文。)

史臣曰く、昔武皇陰山に発跡し、莊宗河朔に肇基す、天下を奄有すと雖も、国を享くる日浅く、眷言枝属、空しく棣華を秀て、固より未だ帝堯敦敘の恩を推し、成王封建の義を広むるに及ばず。克讓より以下、魯・衛の封に就き、間・平の徳を懋ますことを獲ず。況んや夭横相継ぎ、亦良に悲しむ可きかな!

原文史臣曰:昔武皇發跡於陰山,莊宗肇基於河朔,雖奄有天下,而享國日淺,眷言枝屬,空秀棣華,固未及推帝堯敦敘之恩,廣成王封建之義。自克讓而下,不獲就魯、衛之封,懋間、平之德也。況夭橫相繼,亦良可悲哉!