舊五代史

唐書二十五: 后妃列傳一

武皇帝

貞簡皇后

武皇帝貞簡皇后曹氏は、荘宗の母であり、太原の人である。良家の子女として武皇に嫁いだ。姿形は優雅で美しく、性質は謙虚で控え目ながら明らかに物事を弁え、特に秦國夫人に重んじられた。秦國夫人は常々武皇に言った。「妾が観るに、曹姫は尋常の婦人ではありません。王は厚く遇うべきです。」武皇は多くの寵愛する女性を抱えていた。乾寧の初め、燕薊を平定し、李匡儔の妻張氏を得たが、その容色は絶世で、寵愛は比類なかった。当時、側室は部屋に満ちており、めったに御前に進むことはできなかったが、ただ太后(曹氏)への恩顧は衰えなかった。武皇の性質は厳しくせっかちで、側近に過失があれば必ず厳しく譴責し、敢えて諫言する者はいなかったが、ただ太后が穏やかに救い諫めると、すぐに顔を和らげた。荘宗が誕生すると、体貌は奇抜で傑出しており、武皇は異例のことと思い憐れみ、太后はますます寵愛され貴ばれ、諸夫人は皆その下にあり、后もまた内助に恭しく勤め、側近たちはこれを称えた。

武皇が崩御し、荘宗が晉王の位を嗣いだ時、李克寧、李存顥が変事を謀り、人心は危惧に満ちた。太后は監軍張承業を召し、荘宗を指して言った。「先人はこの児を公に託した。もし外に謀略があると聞き、託されたことを孤にするならば、公らはただ我が母子に生きる地を置き、汴で乞食させないだけで幸いです。」承業はそこで存顥、克寧を誅殺し、内難を清めた。荘宗は音律をよくし、伶人の戯れを喜んだので、太后は常に耳を提げて諭した。天祐七年、鎮州、定州が援軍を求め、荘宗は急いで兵を整えるよう命じた。太后は言った。「私は齢が次第に衰える。児はただ先人の業を墜とさないことが幸いである。何のため風に髪を梳り雨に沐して、我がもとを朝晩離れるのか。」荘宗は言った。「先王の遺旨を拝し、仇讐を滅ぼさねばなりません。山東の事は、機会を失うべきではありません。」出発の際、太后は汾橋で餞別し、悲しみに堪えなかった。荘宗が趙、魏を平定し、鄴城ぎょうじょうに駐屯すると、一年のうちに、駆けつけて帰省すること数回、民も士人もその仁孝に感服した。

太后は初め晉國夫人に封ぜられ、荘宗が即位すると、宰臣盧損に命じて冊書を奉じ皇太后の尊号を上った。その年、河南を平定し、西幸して洛陽らくように入り、皇弟存渥、皇子継岌を太原に遣わして迎え奉らせた。荘宗は自ら懐州まで出迎え、長壽宮に迎え帰った。太后は平素より劉太妃と親しく、別れた後、鬱々として楽しくなかった。やがて太妃が病臥したと聞くと、宮中の医者や使者を遣わし、見舞いの車馬が途絶えなかった。しばらくして荘宗に言った。「私は太妃と恩は兄弟のようだ。彼は長年病を抱え、ただ私の顔を見れば、少しは心が慰むだろう。私は暫く晉陽に行き、十日か一月のうちに彼と共に来よう。」荘宗は言った。「今は丁度暑さが厳しく、山路は険しい。煩わしく往復せず、存渥らに太妃を迎え侍らせればよい。」そこで止めた。凶報が届くと、太后は数十日間慟哭し、これにより体調を崩し、まもなく長壽宮で崩御した。同光三年冬十月、諡を貞簡皇太后と上り、壽安陵に葬られた。

太妃 劉氏

太妃劉氏は、武皇の正室である。

魏國夫人 陳氏

魏國夫人陳氏は、襄州の人で、もと昭宗の宮嬪であった。乾寧二年、武皇が詔を奉じて王行瑜を討ち、渭北に駐軍した時、昭宗は朱書の御札を降し、陳氏及び内妓四人を出して武皇に賜った。陳氏は平素より書を読み、才貌があり、武皇は深く寵愛し重んじた。光化の後、時事多難となり、武皇は常に独り居て深く思い悩み、嬪媵もめったに侍謁できなかったが、ただ陳氏だけが召し出された。陳氏の性質は静かで控え目であり、寵愛されることを自ら誇らず、武皇は常に阿者と呼んだ。武皇が危篤に際しては、陳氏は医薬に侍り、涙を流して言った。「妾は王のために掃除の役を執ること十四年になります。王が万一不幸であれば、妾は何に託しましょう。身をもって殉ずることもできず、願わくは髪を落として尼となり、王のために一蔵の佛經を読み、平素の恩に報いたい。」武皇はこれに涙を流した。武皇が崩ずると、陳氏は果たして髪を落とし経を執り持ち、法名を智願とし、後に洛陽の佛寺に住した。荘宗は建法大師の号を賜った。天成年中、明帝がその院に行幸し、改めて圓惠大師の号を賜った。晉の天福年中、太原で卒去した。光國大師と追諡され、塔は惠寂と名付けられた。

荘宗

神閔敬皇后

荘宗神閔敬皇后劉氏。(案ずるに:『劉後伝』は、原本欠け失われている。『北夢瑣言』を考証すると云う:荘宗劉皇后は、魏州成安の人、家柄は寒微である。太祖が魏州を攻め、成安を取った時、后を得た。時に年は五六歳。晋陽宮に帰り、太后の侍者となり、笙を吹くことを教えられた。及笄すると、姿色は衆に絶え、声伎もまたその長ずるところであった。太后が荘宗に賜い、韓國夫人の侍者とした。後に皇子継岌を生み、寵待は日に隆盛となった。ある日、成安の人劉叟が鄴宮に詣でて上に見え、夫人の父と称した。内臣劉建豐がこれを認め、即ち昔の黄鬚の丈人、后の父であった。劉氏はまさに嫡夫人と寵を争い、皆門族を誇り尚んでいたので、劉氏は寒家であることを恥じ、荘宗に白して言うには、「妾が郷里を去る時、妾の父は乱兵に死に、その時屍を巡って哭いた。妾には固より父はおりません。これは如何なる田舎の翁か、詐偽してここに及ぶのか!」と。乃ち宮門でこれを笞打った。実は后は即ち叟の長女であった。荘宗は俳優を好み、宮中の暇な日、自ら蓍嚢と薬篋を負い、継岌に相従わせ、后の父劉叟が医卜を業としていたからである。后がまさに昼寝している時、その臥内に至り、自ら劉衙推と称して女を訪う。后は大いに恚り、継岌を笞打った。然れども太后に礼せられず、また韓夫人が正位に居たため、発明するすべがなかった。大臣が旨を窺って劉氏を冊立して皇后とすべく請うた。議者は后が寒賤より出で、利を興し財を聚めることを好み、初め鄴都に在った時、人に法を設けて稗販させ、売る樵蘇果茹もまた皇后を名としたとす。正位した後、凡そ貢奉は先ず後宮に入り、ただ仏経を写して尼師に施すのみで、他に賜うところなく、闕下の諸軍は困乏し、ついに妻子は饑え死にし、宰相は内庫を出して俵給することを請うた。后は将に妝具の銀盆二口、皇子満喜ら三人を出し、売って軍を贍わしめんとした。一旦乱を起こし、国を亡ぼし族を滅ぼすこと、夫の褒姒・妲己と異なることなし。先に、荘宗自ら俳優となり、名づけて李天下とし、塗粉優雑の間に雑じり、時に諸優に撲扶摑搭せられ、竟には嚚婦悪伶の傾玷する所となり、国を持つ者はこれを以て前鑑とせざるを得ざるなり!劉氏は嚢に金合犀帯四つを盛り、太原に寺を造り尼とならんと欲し、沿路また皇弟存渥に通じ、同じ簀に寝た。明宗その穢を聞き、即ち自殺を命じた。『歐陽史』を考証すると、裨将袁建豐が后を得て、これを晋宮に納れたと作し、『北夢瑣言』は内臣劉建豐と作す。これも伝聞の異辞である。)

淑妃 韓氏

淑妃韓氏は、荘宗の正室である。(案ずるに:『韓淑妃伝』は、原本欠け失われている。『五代會要』を考証すると云う:同光二年十二月に冊立し、宰臣豆盧革・韋説を冊使とし、応天門を出で、路車に登り、鹵簿鼓吹が前導し、永福門に至って車を降り、右銀台門に入り、淑妃宮に至り、内で冊を受け、文武百官が班を立てて賀を称した。)

德妃 伊氏

德妃伊氏は、荘宗の次室である。(案ずるに:『伊德妃伝』は、原本欠け失われている。『北夢瑣言』を考証すると云う:荘宗皇帝の嫡夫人韓氏は、後に淑妃となり、伊氏は德妃となった。また夫人夏氏は、後に李讚華に嫁ぎ、所謂東丹王、即ち阿保機の長子であるが、性酷毒にして、侍婢の微過も、即ち刀を以て刲り火を以て灼く。夏氏は少くして宮掖に長じ、その凶を忍びず、離婚を求め、河陽節度使夏魯奇の家に帰り、後に尼となったと云う。『歐陽史・家人伝』:明宗が立ち、悉く荘宗時の宮人を放った。虢國夫人夏氏は、夏魯奇の家に帰り、後に李讚華に賜わった。『北夢瑣言』と微かに異なる。『遼史』はまた夏氏を荘宗の皇后とするが、誤りを疑う。また案ずるに『五代會要』:荘宗朝の内職に、また昭儀侯氏は汧國夫人に封ぜられ、昭媛白氏は沂國夫人に封ぜられ、出使美宣鄧氏は珝國夫人に封ぜられ、禦正楚真張氏は涼國夫人に封ぜられ、司簿德美周氏は宋國夫人に封ぜられ、侍真吳氏は延陵郡夫人に封ぜられ、懿才王氏は太原郡夫人に封ぜられ、鹹一韓氏は昌黎郡夫人に封ぜられ、瑤芳張氏は清河郡夫人に封ぜられ、懿德王氏は琅琊郡夫人に封ぜられ、宣一馬氏は扶風郡夫人に封ぜられ、皆同光二年十一月の敕による。)

明宗

昭懿皇后

明宗昭懿皇后夏氏は、秦王従栄及び閔帝を生んだ。同光の初め、后は病により崩じ、明宗即位後、追封して晉國夫人とした。長興年中、明宗は秦・宋二王の位望既に隆んなるを以て、因って従貴の義を思い、乃ち制を下して曰く、「故晉國夫人夏氏は、素より仁徳を推され、久しく宗親と睦み、嘗て内助の方策を施し、中興の盛を見ず。予まさに御極し、子並びに王となる。鵲巢の高き有りて、翬衣の貴き無し。貞魂永く逝き、懿範常に存す。本朝の文を考へ、追冊の制に沿ひ、将に九族に懐を慰め、冀くは四星に慶を叶へんとす。宜しく追冊して皇后と為し、兼ねて懿号を定むべし」と。既にして有司諡を上りて昭懿と曰う。

和武顯皇后

和武顯皇后曹氏。(案ずるに:『曹後伝』は、原本欠け失われている。『五代會要』を考証すると云う:天成三年正月、淑妃に冊立され、長興元年五月十四日、皇后に冊立され、応順元年閏正月、皇太后に冊立された。清泰三年閏十一月に至り、末帝に随って後楼にて崩じた。晉高祖こうそ人をして護葬せしめ、天福五年正月二十八日に至り、追冊して和武顯皇后と曰う。)

宣憲皇后

宣憲皇后魏氏。(案ずるに:『魏後傳』原本は闕佚す。『通鑒考異』に引く『唐廃帝實録』に拠れば、宣憲皇后魏氏は、鎮州平山の人なり。中和の末、明宗山東に地を徇うて、平山に戍を留め、魏後を得たり。また云う:明宗裨将たりしとき、性闊達にして、生を治むる能わず、曹後もまた画略に疎く、生計の資とする所は、ただ宣憲のみなり。『五代會要』に云う:初め魯國太夫人に封ぜられ、清泰二年二月、中書門下奏す:「臣聞く、漢の昭帝は祚を承け曆を禦し、雲陽に尊諡を奉り;魏の明帝は體を繼ぎ文を守り、甄館に外家を思う。而して皆微號を追崇し、廟庭に祔饗し、敬本の文を克く隆し、愛親の道に葉う。臣等また國史を覧るに、竊かに見るに、宗皇帝の母は昭成皇后竇氏と曰い、代宗皇帝の母は章敬太后吳氏と曰う。始め朱邸に嬪し、俄かに宮に幽せられ、鴻圖既に明君に屬すと雖も、尊號咸く聖母に追わる。伏して魯國夫人は沙麓に祥を發し、河洲に慶を貽す。三后最も賢く、周の母天統に成るを允し;四妃子有り、唐の宮先ず帝基を啓く。仰ぎ惟うに當寧の情、彌軫寒泉の思。久しく殷薦を虚しくし、皇猷を損ずるを慮う。臣等謹んで尊諡を上りて宣憲皇太后と曰う。昭成皇太后の故事に依り、日を擇び禮を備えて冊命せんことを請う。また、臣等伏して聞く、先太后の舊陵未だ先祠に祔せず、則ち都下別廟を崇むること難く、既に尊諡を追うれば、宮を創むるに合す。漢朝の故事を按ずるに、園寢王畿に在らず、或いは陵所に就きて便りに寢祠を立つ。今商量す、諡を上りし後、權に同廟を立て、以て告獻を申べ、配祠の禮は他年を俟て請う。」從う。『歐陽史』に拠れば云う:陵寢を建つるを議し、而して太原の石敬瑭反す。乃ち京師河南府の東に寢宮を立つ。また案ずるに:『五代會要』の載する所の明宗時の内職は、德妃王氏、天成三年正月冊立せられ、長興二年四月淑妃に進號し、應順元年閏正月十三日太妃に冊せられ、周の廣順元年四月に至り賢妃と追諡す。昭儀王氏は齊國夫人に封ぜられ、昭容葛氏は周國夫人に封ぜられ、昭媛劉氏は趙國夫人に封ぜられ、孫氏は楚國夫人に封ぜられ、禦正張氏は曹國夫人に封ぜられ、司寶郭氏は魏國夫人に封ぜられ、司讚於氏は鄭國夫人に封ぜられ、尚服王氏は衛國夫人に封ぜられ、司記崔氏は蔡國夫人に封ぜられ、司膳翟氏は滕國夫人に封ぜられ、司醞吳氏は莒國夫人に封ぜられ、婕妤高氏は渤海郡夫人に封ぜられ、美人沈氏は太原郡夫人に封ぜられ、順禦朱氏は吳郡夫人に封ぜられ、司飾聊氏は潁川郡夫人に封ぜられ、司衣劉氏は彭城郡夫人に封ぜられ、司藥孟氏は咸陽郡夫人に封ぜられ、梳篦張氏は清河郡夫人に封ぜられ、司服王氏は太原郡夫人に封ぜられ、櫛篦傅氏は潁川郡夫人に封ぜられ、知客張氏は尚書の號を賜わり、故江氏は濟陽郡夫人に追封ぜらる。以上皆長興三年九月の敕なり。其の名號は皆中書門下『六典』の内職に按じて之を行う。内人李氏は隴西縣君に封ぜられ、崔氏は清河縣君に封ぜられ、李氏は成紀縣君に封ぜられ、田氏は咸陽縣君に封ぜられ、白氏は南陽縣君に封ぜられ、並びに長興四年二月の敕なり。前代の内職は、皆封君の禮無く、此れ一時の制なり。)

閔帝

哀皇后

閔帝哀皇后孔氏。(案ずるに:『孔後傳』、原本は闕佚す。『通鑒』に拠れば云う:孔循陰に人を遣わして王德妃に結び、其の女を納るるを求む。德妃、循の女を娶りて從厚の妃と為さんことを請う。帝之を許す。庚寅、皇子從厚、孔循の女を納れて妃と為す。『五代會要』に云う:初め魯國夫人に封ぜられ、應順元年四月、末帝の為に害せらる。晉の天福五年正月二十八日、哀皇后と追諡す。)

末帝

皇后 劉氏

末帝劉皇后は、應州の人なり。天成年中、はい國夫人に封ぜらる。清泰初め、百官三たび表を上り、中宮を立てんことを請う。遂に皇后に立てらる。后性強戾にして、末帝甚だ之を憚る。故に其の弟延皓、鳳翔牙校より環歲の間に歴て樞密使となり、出でて鄴都留守と為る。皆后の内政の力によるなり。延皓が張令昭の為に逐われしに及び、執政朝典を行わんことを請う。后力をもって之を製し、ただ罷免に従うのみに止む。晉高祖洛に入る。后は末帝と俱に就きて燔かる。

【論】

史臣曰く:昔三代の興亡は、帝王に由る雖も、亦妃後に係る。故に夏の興るや塗山に以てし、其の亡ぶに及びては妹嬉に以てす。商の興るや簡狄に以てし、其の亡ぶに及びては妲己に以てす。周の興るや文母に以てし、其の亡ぶに及びては褒姒に以てす。夫れ貞簡の人と為るを観るに、前代に偕ならざる雖も、亦懿範に虧くこと無し。而して劉后は牝雞の晨に以て、皇業斯に墜つ。則ち夫れ三代の興亡と同じきなり。餘は賢を進め輔佐するの德無く、又何を以てか道うるに足らんや!(案ずるに:『五代史』に『外戚傳』無し。『五代會要』に拠れば、武皇の長女瓊華長公主は、孟知祥に降嫁し、同光三年十二月封ぜらる。第二女瑤英長公主は、張延釗に降嫁し、同光三年十二月封ぜらる。明宗の長女永寧公主は、晉高祖に降嫁す。第十三女興平公主は、趙延壽に降嫁し、天成三年四月封ぜられ、長興四年九月に至り齊國公主に改封せられ、清泰三年二月に至り燕國長公主に進封せらる。第十四女壽安公主は、長興四年六月封ぜらる。第十五女永樂公主は、長興四年六月封ぜらる。今『會要』の載する所を考うるに、亦多く舛互す。瓊華公主の如きは、『十國春秋』諸書に太祖の弟克讓の女と作り、『會要』は武皇の長女と為す。此れ傳聞の異辭なり。莊宗の女義寧公主は、宋廷浩に降嫁す。廷浩は房州刺史に仕え、晉の初め汜水關使と為り、張從賓の叛に、戰死す。『東都事略』及び『宋史』に見ゆ。また、王禹偁の『小畜集』に『宋渥神道碑』有りて云う:母は義寧公主、天福中、晉祖嘗て莊宗に事えしこと有り、舊君の禮有り。貴主の入見する毎に、其の拝せざるを聽す。時に兵戎方に熾んとし、經費充たず。惟だ公主の家は、賜予甚だ厚く、盡くして復た取り、亦倦色無し。一日、晉祖從容として貴主に謂いて曰く:「朕主の家に於いて愛惜する所無し。但だ朝廷多事、府庫甚だ虚しきは、主の知る所なり。今輦轂の下、桂玉を憂う。渥をして西京に分司せしめ、以て就養を豐かにすべし。」因りて厚く之を遣わし、且つ留使を敕して晨昏伏臘の用を具えしむ。醯醢に至るまで、率ね備わり有り。『會要』は莊宗の女を載せず。是れ其の闕略なり。惟だ明宗の諸女を記すこと稍く詳し。然れども薛史『趙延壽傳』を考うるに、其の明宗の小女を娶りて繼室と為す。『歐陽史』も亦云う:耶律德光有りて延壽の為に從益の妹を娶る。是れ永安公主なり。而して『五代會要』は載せず。則ち其の闕漏する者亦多し。)